12/09/01 03:02:32.36 8FANZLw80
>>274
「それからお話を組み立てていくうえで、気をつけていることは、子どもにウソを教えたくないということです。
もちろん物語ですから、やっていることはウソばかりなんですけど、登場人物のとらえかたとしてのウソはつきたくないんです。
たとえばその人物の性格から絶対やらないようなことをやらせるとかね。
よく漫画家や小説家が、登場人物が勝手に動いて物語をつくっていくんだということを言いますけど、たしかにそうでなけりゃいけない。」
『無敵超人ザンボット3』富野喜幸著〈朝日ソノラマ:1982年〉
前のスレッドから人物が変わることについての話題が出てるので、一度、作劇論を書かないといけないと思ってました。
言いたい内容の主旨は上記の引用に書かれてありますが、もう少し詳しく書きましょう。
フォーゼ45話でリブラ校長が「私の生徒に手を出させぬ」と言ってましたが、今までの校長の描写で絶対言わないようなセリフです。
校長のキャラとして整合性が取れないため理不尽です。翌週の46話で、実は校長の芝居ということがわかり、今までの校長の描写どうりの人物像であり、整合性が取れます。
人物が変わるには何かしらのキッカケや事件があります。45話の中ではそれが見出せないため、45話の時点で理不尽と思います。
>一年たって心境が変わることもあるのがそんなに理不尽ですか?
何のキッカケも伏線もなしに変わるのは理不尽です。こういった場合は作り手の都合や描写の怠慢でしょう。
前のスレッドから人物が変わることに理不尽というネタがありましたが、そのネタの多くはキッカケや伏線の見落としが多く、変わることが何故いけないんだ、と感じるあなたの気持ちはわかります。
私もその手の質問については駄質問が多いと感じていました。
ただ上記に引用した作劇論の人物像のとらえ方をおさえないと「変わることがすべて理不尽」となってしまいます。
逆にリブラ校長の「私の生徒に手を出させぬ」を理不尽と感じないのは著しくおかしなことでしょう。
一年間、風城美羽という人物を見て「宇宙キター」のポーズをすることに違和感を感いませんか。
荒川脚本なら偽美羽だ!ということになりますよ。