13/11/24 23:06:27.83 zkez7OPi0
>>219
佐賀県の井本知事が、(自らは佐世保切りを切り出せない)長崎県の高田知事の再三の要請に応えて短絡ルート案を提唱したのは1991年の9月。
当初武雄の次は新大村で佐賀県内に駅は作られない、つまり長崎に土地を提供するだけだったのが、
当時の嬉野町長・嬉野町議会議長による「嬉野町を通過するだけなら町の発展を阻害するだけ」という、駅が作られない場合は新幹線計画に反対するとも取れる陳情書などによって
1998年に長崎ルート計画に嬉野温泉駅の設置が公式に認められた。
ルートが嬉野温泉の駅建設予定地に立ち寄るように緩やかなS字になってるのはルート変更によるもの。
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元々佐賀には実質的は関係のない話だったのが、のちに嬉野駅が作られることで図らずも当事者になったということ。
なお、それまで新幹線建設の賛否に言及していなかった佐賀市の秀島敏行市長が、
「『全線フル規格化はない』という県の言葉を信用している」と前置きした上で、県の方針の支持を表明したのは2006年のこと。
一枚岩ではなかった佐賀県が、佐賀市の言質を引き出したことで鹿島市や江北町を孤立させることが出来*、
並行在来線の経営分離問題に対して強く出られるようになり、これが翌年の急転直下の三者合意に繋がった。
*当時は鹿島市などが主催する新幹線建設に反対する集会が佐賀市内で佐賀市民向けに行われていた