12/12/05 18:33:51.33 RqiIOLKq0
>>209に続く平行世界もの
◎国鉄131系直流近郊形電車
1982年 碓氷峠自走
○最大66.7‰の連続急勾配が在る信越本線の横川・軽井沢区間の碓氷峠越えには、補機としてEF63の二両が
全列車に連結されたが、普通列車運用の115系三両編成をEF63二両が推進・牽引するのは不経済であった。
そこで、信越線の高崎・小諸区間でのローカル列車の合理化を目的に碓氷峠を自走出来る近郊形電車が新造された。
それが131系である。
本系鉄には、最大66.7‰の急勾配区間の碓氷峠での登坂性能のみならず、他の区間にて最高120km/h走行する特急の運行の
邪魔にならない、つまり特急のスジを痛めず、変えずに済む高速性能も要求され、
なおかつ製造費と保守費低減の為に201系で実用化の電機子チョッパや界磁チョッパを採用せず、抵抗制御を採用。
これら従来の方法では相反する要求を満たす為に、つまり登坂性能には103系等の通勤形を超え、南海ズームカーや
神戸電鉄の車両に匹敵する高い歯車比を採用する一方で、115系等の国鉄標準の近郊形電車の高速性能を満たす為に
後述する規格外の大型の大出力主電動機を採用する事になった。
そのモーターは大き過ぎて、カルダン駆動方式では台車に収納出来ないので、吊り掛け駆動方式となった。
車種と標準編成は、軽井沢←クハ130(Tc')クモハ131(Mc)クモハ131(Mc)→横川。
碓氷峠走行中での故障に備え、EF63を二両一組で運用するのを踏襲し、本系列も1M方式電動車Mc二両一組で運用。
Mcに走行用の機器を集約し、パンタグラフは二基搭載し、一基は予備。全車、台車はコイルバネ。
ブレーキ系は、主力の発電ブレーキに加え、抵抗制御ではあるが磁気増幅器搭載で回生ブレーキも併設し、
特に停電時に急勾配で停車状態を維持する為の各種ブレーキへの非常電源となる大容量の蓄電池を搭載。
車体の意匠は115系に準じ、両開き三扉のセミクロスシート、Tc'に便所、冷房搭載。
1982年11月のダイヤ改正で就役開始し、碓氷峠を通過する普通列車の大半が131系に置き換えられた。
205系の登場を機に85年に界磁添加励磁制御に改造され、回生ブレーキの失効速度が下げられた。
87年JR東日本に承継。97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
2003年に新型車に置き換えられ全車廃車。
243:anorak?
12/12/05 19:00:33.21 RqiIOLKq0
>>241の訂正と追記
訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○
追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。
244:anorak?
12/12/05 19:04:15.97 RqiIOLKq0
>>242-243の訂正と追記
訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○
> >>241 × → >>242 ○
追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。
245:名無し野電車区
12/12/05 22:08:48.12 QP4oT5lo0
国鉄 ナシ21 ナシ21-100
昭和39年に登場した、2両連節構造の食堂車
通常の食堂車の調理室側を背中合わせに連結したような外見を持っている。
昭和33年に登場した20系寝台特急は「動くホテル」と呼ばれ、好評を持って迎えられていたが、
乗客から食堂車の混雑について苦情が発生していた。おりしも東京オリンピックを控え外国人観光客対策も
視野に入れて、国鉄本社営業部としても日本食堂と協議に入っていた。
当初は単純に食堂車の増結を国鉄側は提案したが、日本食堂側から従業員確保が難しいこと(1列車に14名の従業員)
混雑の大半は飲酒を伴う「居座り組」であり、回転率が悪く収益上もよろしくないことから平行線をたどっていた。
戦前のように定食時間を設定する等検討がなされたが、それはそれでトラブルの種になることから折衷案として1両は現状の
食堂営業をしつつ、もう1両を予約制のレストランとすることで決着した。
その際、厨房従業員の合理化のために厨房をできるだけ1か所にしたい、との要望と、厨房の広さの兼ね合いから連節構造として
通路の2/3を厨房直結とすることで、料理などを運ぶ専用通路として確保する構造となった。
部内では「食堂車より1両でも寝台や座席車を連結して輸送力確保すべき」との意見も上がったが、東京オリンピックに来る
外国人観光客対策も必要、とのことから導入が決定された。
レストラン車は、発車後から21時までをディナータイムとし、23時までをパブタイム営業として自由開放する形になり、外国人は
もよとより、財界人や芸能人、政治家などいわゆる上流階級の走る社交場として機能し、若いサラリーマンなどは「いつかは俺も」
という憧れの食堂車となっていた。また、一生に一度の新婚旅行客なども奮発して乗ることも多く、終始華やいだ雰囲気であった。
しかしながら、航空機の発達とともにそういった客層のブルトレ離れが進み、更に昭和47年には新系列の14系や24系などが登場
したこともあり、昭和50年10月のダイヤ改正で最後まで残っていた「あさかぜ」用の3組6両が廃車されて形式消滅した。
246:名無し野電車区
12/12/06 17:42:17.71 5kpKs8Sd0
フェラーリ新幹線
フランスのTGVをベースに、車体を真っ赤に塗り、車体各所にフェラーリ(Ferrari)のロゴが入っている。
247:名無し野電車区
12/12/06 23:09:08.61 t7clqyvk0
国鉄 747型特急用航空機
昭和50年、オイルショックの影響などにより全国新幹線網の建設が中断・延期などの憂き目にあっていた。
更に航空機の発達が追い打ちをかけて在来線長距離特急の乗客減少が続いていた。
そこで、国鉄は「建設予定の整備新幹線の代行輸送」を名目に、航空事業本部を設立し、航空輸送に乗りだすことになり
ボーイング747を導入することとなった。
羽田空港に羽田航空営業所(電略:ハタクウ)を開設し、機体には所属略称である「東ハネ」と標記された。
機体の塗装は国鉄バス風の白地に青いラインで、尾翼には大きな動輪マークと、2階席下部分に巨大なJNRマークが入った。
客室乗務員は全員男性で、チーフは「車掌長」の赤腕章を、その他の乗務員は「乗客専務」の腕章をつけ、パイロットは
「操縦士」の白腕章をつけて乗務した。なお航空機関士はそのまま「機関士」の腕章を着用していた。
国鉄分割民営化により、JRエアとして現在でも各路線に就航しているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。
248:名無し野電車区
12/12/06 23:42:57.97 zx2yA8VE0
>>247
近鉄航空 L-1011形特急用航空機
近鉄が国鉄航空事業本部に対抗して設立した「近鉄航空」の羽田-伊丹線で使用された機体。
(近鉄が航空事業に参入した理由としては、かつて構想されていた関東地区への進出計画の名残であったとも言われている)
機体は同社の特急車両と同じく、オレンジと紺色で塗装されている。
1985年頃からエコノミークラス+1000円で利用できる「デラックスシート」を装備したことでも知られているが、これが後の「アーバンライナー」のデラックスシートにつながったとも言われている。
また、日本航空の「クラスJ」はこの座席を参考にしたという説も存在する。
近鉄航空は現在は「近畿エアライン」に社名を変更し、関空/伊丹と新千歳・羽田・福岡・那覇を結ぶ路線を運航していることは周知のとおりである。
249:名無し野雷車区
12/12/07 22:15:09.21 8DKQG6jV0
まるでルフトハンザの逆バージョンだな
250:名無し野電車区
12/12/07 22:50:23.46 Rj9KUeMZ0
阪神国内航空 YS-11
近鉄航空とほぼ同時期に阪急グループが設立した「阪神国内航空」で使用されていたYS-11。
同社の設立の経緯としては、当時の阪急電鉄社長の「阪急は伊丹空港の近くも走っている、ならば空の旅にも進出してみてはどうだろうか」という考えがあったためと言われている。
機体は開業当初は阪急電鉄の車両と同じくマルーン一色で塗装されていたが、
利用者から「暗色系の機体は軍用機を思わせる」という声が出たことや、
また日光による機体温度の上昇で空調の効率が悪化するなどの理由により白地にマルーン帯に改められた。
この塗装は現在まで続いていることは周知の通りであろう。
垂直尾翼にはこれも阪急電鉄の車両と同じく、Hankyuのイニシャルである「H」を図案化したマークが描かれていた(後に阪急グループ共通のCIに変更)。
阪神国内航空の特徴として、
・「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」の考え
・開業以来一貫してターボプロップ機を使用
という点がある。
このうち「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」を実現するために、同社のYS-11はオリジナルよりも定員数の減少(64人→48人)が行われ、代わりにシートピッチの拡大やハイグレードな座席の設置などが行われている。
サービス内容に至っても、全席エコノミークラスでありながら同時期の日航・全日空のファーストクラスのそれとほぼ同等の水準であると評された。
1998年に後述する新型ターボプロップ機に置き換えられ、全機退役している。
251:名無し野電車区
12/12/07 23:16:22.17 Rj9KUeMZ0
ナニワ航空機 N-100
阪神国内航空がYS-11の後継機として導入したターボプロップ式旅客機。
先述の通り同社は開業以来一貫してターボプロップ機を使用しているが、ターボプロップ機に固執する理由としては巡航速度に於いてはジェット機に対して燃費と静粛性で有利である、短距離での離着陸が可能なために小規模な空港にも進出しやすいという実用的な理由の他に、
阪神国内航空の初代社長の「プロペラがある飛行機の方が旅のロマンを演出しやすい」という考えがあったためと言われている。
(実際、同社の宣伝では『プロペラ式の飛行機で優雅な空の旅』『速さよりもゆったりと飛んでみませんか』などの、速さよりもゆったりとした旅行をアピールするようなキャッチフレーズを幾度と無く採用している)
一方で開業以来使用されてきたYS-11形機が機体そのものの老朽化や安全装置取り付けの難しさで退役の時期を迎えたことや、48人という定員の少なさから後継機の導入が求められてきたものの、
大型旅客機市場はほとんどジェット機が占めており、今更になって"時代遅れの低速なターボプロップ式旅客機"を一社のためだけに製造するようなメーカーが現れることは無いことは明白であった。
このため、阪神国内航空の親会社である阪急電鉄は自社開発の旅客機を製造することを決断。
航空機メーカー「ナニワ航空機」を設立し、"自社仕様の旅客機"を製造することを決定した。
人員に関しては、YS-11の製造元である旧日本航空機製造のOBの採用の他に、三菱重工業や川崎重工業からの引き抜きもあったと言われている。
252:名無し野電車区
12/12/07 23:18:12.01 Rj9KUeMZ0
こうして「阪神国内航空専用機」としてロールアウトした機体がN-100である。
ネーミングは阪急電鉄のかつての名車・100系「P-6」から採用されたという説がある。
機体はボーイング767シリーズとほぼ同クラスの、ワイドボディ中型機とされた。
座席はエコノミーのみのモノクラスではあるものの、多くのファーストクラスと遜色ないシートピッチと座席に設定されている。
このため乗客定員は180名程度と、中型機としては比較的少ない数となっている。
主翼は安定性を重視し、高翼式とした。
エンジンはターボプロップ方式。C-130形輸送機と同型の、アリソンT56-A-15を4発搭載する。プロペラは4枚翼。
ターボプロップ機でありながらフライバイワイヤやグラスコックピットを採用し、新型ジェット機とほぼ同等の機能や操作性を備えている。
巡航速度は500km/h、最大速度は580km/h。
元々は事実上の阪神国内航空の専用機として開発された機体であるが、整備性の良さや堅牢性、さらに燃費や使い勝手の良いターボプロップ機であることからアジア地域の一部の航空会社でも採用されている。
海外向けの機体は座席を通常のエコノミークラスと同程度まで増やしたものも存在する。
(堅牢性に関しては、ナニワ航空機のスタッフに日本航空機製造のOBが多数在籍していたためだとも言われている。
またこの点から、一部の航空ファンからは『YS-11の実質的な後継機』と見られることもあるらしい)
253:名無し野電車区
12/12/08 08:10:10.45 voI3EhJTO
京成航空CRJ700
過去に谷津遊園の遊覧ヘリコプターなどを手掛けていた日本ヘリコプターが
親会社の京成電鉄と吸収されて京成航空として遊覧ヘリコプター及び報道や
送電線パトロールなどのヘリコプター業に進出した。
そして2012年にローコストエアラインとして航空輸送の導入を決める。
採用されたのはカナダボンバルディア製小型ジェット旅客機CRJ700である。
成田空港をハブとして7機を導入。名実共にエアスカイライナーとして運航された。
行き先は成田~伊丹 福島 庄内 中部国際であるが、直後にIBEXを吸収合併により、
IBEXが運用していた仙台と小松にも就航した。
>>215も後継機材としてCRJ700を採用し、ジェット化が図られた。
現在三菱が開発中の旅客機のカスタマーとして加わっている。
なお富士急が出資しているフジドリームエアラインを来年度に吸収合併する。
これにより、成田~静岡も就航する予定。
また大型機材の計画でエアバスA319または日本の航空会社が採用していない
B737NGシリーズのB737-900の導入を検討している。
254:名無し野電車区
12/12/08 08:12:07.16 voI3EhJTO
>>253訂正
>>215は誤りで正しくは>>252
255:名無し野電車区
12/12/08 10:25:58.59 948v6x690
国鉄80系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1950年(昭和25年)に開発した、旧形長距離列車用電車形式群の総称で、
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、客車列車の置き換えを目的に当初から、
長大編成組成を前提として設計され、電車が長距離大量輸送に耐えることを実証した車両である。
電車化の本命だった東京駅-小田原駅・熱海駅間の東海道本線東京地区は、戦前から蒸気機関車、
電気機関車牽引による客車列車運行と横須賀線から転属した17m級12系電車、20m級32系電車による、
混合運用を行っており、終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、加減速性能、
高速性能に優れた電車を用いて、列車運行頻度を増やし、激増する輸送需要に対応しなければ、
ならない状況に陥り、鉄道省時代からの懸案であった東海道本線用の長距離電車の開発用に、
1948年 (昭和23年) 4月26日、関西急電で使用されていた52系電車2次車4両編成2本を使用して、
4M3Tの強力編成を作り、中間に17m級サハ17形を改造した性能試験車サヤ16形(16001)を連結、
この時は119km/hの最高速度を記録、同年5月10日には横須賀線で使用してた52系電車3次車、
6両編成2本を組替えして6M3T編成、同年5月23日には京浜線の40系電車11両、8M3T編成1本を使用して、
茅ヶ崎-辻堂間で高速度試験が行われた。この結果を元に同年10月から企画と開発が始まり、
開発に際しては実績のある既存技術に加え、当時各製造メーカーで試験が繰り返れていた、
動力分散方式を採用する案となり、動力分散方式として2両の電動車を(1ユニット)で取り扱いをして、
片方の電動車(M車)に主制御器、主抵抗器、パンタグラフといった主電動機のコントロールに、
直接関係した機器を2両分、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せる1C8M制御の、
MM'ユニット方式を日本初、鉄道車輌として初採用する案が決定された。
256:名無し野電車区
12/12/08 10:28:17.05 948v6x690
主電動機は吊り掛け式150kWのMT42Bが開発され、MT42Bは国鉄が採用した電車用吊り掛けとしては、
最大の出力、国鉄最後の吊り掛け式となり、高速域での速度性能向上に加え、弱め界磁と、
起動減流抵抗による減流起動を組み合わせることで衝動が小さくスムーズな起動を可能とした、
電動カム軸接触器式も界磁機能付きのCS10Aも搭載、歯車比は高速運転に適した1:2.56、
装備する台車は専用に開発されたDT16の改良版である高速運転用台車DT17Bを装備し、
制御車と付随車の台車はTR28が装備されたが、1952年(昭和27年)からTR48に変更、
ブレーキシステムには複雑精緻な電磁空気弁による長大編成用自動空気ブレーキを装備し、
編成の先頭から最後尾まで、ほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては、
未曾有の長大編成である12両編成、16両編成運転が実現、乗り心地やコスト面での改善を図った。
車体は車端に寄せたデッキを備えた片開き片側2扉で、客車と同様のデッキと客室を壁で仕切る配置とされ、
ドア幅については乗降を円滑にするため、他の電車と同じく1100mm幅を採用、長距離運用を意識して、
客車に極力近づけたことは画期的であり、内装は木製、照明は白熱灯が片側10個2列に並び、
客用扉の窓も横桟が3本入り、古臭く見えたが、不規則運用も兼ねて、最初から耐寒設計を導入、
座席下には電気暖房を備え、座席のシートピッチも客車同様とされたが、ビニールクロスの座席は、
夏期の乗客から不評を買ったことで、後年はモケットに変更された。また窓の高さが、
客車や従来の電車よりも若干高い設計とされていて、屋根上の通風器は箱型の押込み式が千鳥上に、
モハ80形は9個、クハ86形とサハ87形は10個並び、クハ86形の乗務員室後ろのデッキ部分は、
夏期になると蒸し風呂だと乗客から不評を買ったことで、1954年(昭和29年)度製造分からは、
通風器が横並びに2個配置とされ、それ以前の製造車にも順次、取付られていった。
257:名無し野電車区
12/12/08 10:30:39.31 948v6x690
前面形状は1949年(昭和24年)末に製造されたクハ86001-86010の運転台正面は小田急1700形3次車に似た、
前面に限り雨樋位置を上に上げた、張り上げ屋根構成でシルヘッダーを捲いた非貫通の2枚窓であったが、
クハ86011からは2枚窓が傾斜した湘南2枚窓とされ、最初にこのデザインを試みたクハ86011-86016の6両は、
クハ86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、曲面の付いた形状で、
続くクハ86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現、ここに80系電車の象徴、
後の60系電車や70系電車、私鉄各社にも広がる湘南2枚窓デザインが完成、このデザインはスピード感と、
近代性があり、当時としては極めて斬新な形状で「湘南型」と呼ばれた。
また1956年(昭和31年)度製造の全金属車両からは正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓になり、
車体側面に従来あった窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も上下寸法が大型化、
側面窓枠がアルミサッシ化され、内装もアルミデコラ化粧板を使用する完全な全金属化され、
床はリノリウム貼り、当初から蛍光灯照明となっている。これは60系電車も同じになっている。
258:名無し野電車区
12/12/08 10:33:27.53 948v6x690
基本形式
モハ80形0番代(80001-80168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上、全車が下り向き、
1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車端部に広幅貫通路と幌を装備した。
モハ80形200番代(80201-80248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上全車が下り向き、
1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板の採用、蛍光灯採用、側面窓枠が鉄枠からアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載され、
国鉄急行型電車では初の冷房搭載車輌となった。
モハ81形0番代(81001-81168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの、
2段上昇窓が付き、ユニットの関係上、全車が東海道線基準で上り向きになっていた。
モハ81形200番代(81201-81248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
259:名無し野電車区
12/12/08 10:37:25.34 948v6x690
モハ82形0番代(82001-82004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
パンタグラフ部分の屋根を低くして、パンタグラフの折畳み高さを低く抑えられた専用形式で、
歯車比は加速力より登坂力を重視した40系電車と同じ1:2.87とされたモハ83形0番代と、
ユニットを組む運転台を持たない三等中間電動車(M)で、新造当初は、
モハ80形800番代が付番されたが、1954年(昭和29年)にモハ82形に改番された。
モハ82形100番代(82101-82104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
モハ83形0番代(83001-83004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
歯車比が40系電車と同じ1:2.87にされたモハ83形0番代とユニットを組む運転台を持たない、
三等中間電動車(M')で、新造当初は、モハ81形800番代が付番されたが、
1954年(昭和29年)にモハ83形0番代に改番された。
モハ83形100番代(83101-83104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
260:名無し野電車区
12/12/08 10:54:55.50 948v6x690
クモユニ84形(84001-84004)
車体長20m級の両運転台を持つ郵便荷物合造制御電動車で、1951年(昭和26年)度に半鋼製車体で新造、
前面形状はクハ86017以降の湘南型非貫通2枚窓で、神戸寄りに郵便室を配置、幅1000mmの両開きを配置、
東京寄りに荷物室が設置され、幅1200mmの両開きを配置、窓配置はd1D(郵便)1111D(荷物)1dで、
パンタグラフは両運転室側に載せられていた。
サロ85形0番代(85001-85016)
日本初、狭軌路線初の車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、
1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)に準急列車用として16両を新造、窓配置D2(5/5)2D、
台車間をバスタブ状の床構造として1階の床高さを線路面ギリギリまで引き下げた構造で、
デッキから客室に入ると神戸寄りから海側に洗面所、山側に便所、海側に2人掛け座席を両2列配置、
山側にラセン階段、1階座席は2人掛けを両配置10列、2階座席も2人掛けを両配置10列とし、
海側に2人掛け座席を両2列配置、山側にラセン階段、海側に車掌室、山側に乗務員室となっている。
座席はリクライニング機能が付いた回転クロスシートで、目的地に到着後は乗車する車掌が、
進行方向に向って座席の向きを変えていた。建築限界や車両限界の関係上、東海道線以外の路線、
中央線などには入線が出来ず、後年は東北本線の上野駅-黒磯駅間で使用され、1960年(昭和35年)から、
冷房改造を実施、その際に偶数車の車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。
サロ85形100番代(85101-85116)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、1958年(昭和33年)から、
1959年(昭和34年)に全金属車体で16両を新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下のウィンドウ、
シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、二階建て車輌は集中冷房装置の搭載が困難なことから、
両車端部の屋根上に、三菱電機がサロ85形専用に開発した分散式冷房装置ATU10型が搭載、
偶数車は車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。
261:名無し野電車区
12/12/08 10:58:23.13 948v6x690
クハ86形0番代(86001-86058)
車体長20m級2扉クロスシートの三等制御付随車で、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に、
半鋼製車体で製造、窓配置dD1(9)1D、前面形状は86001-86010の運転台正面が半流線型の、
ウインドシル・ヘッダーを巻いた非貫通2枚窓で、86011以降の製造分からは傾斜を付けた正面2枚窓に変更、
86011-86016は86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、
曲面の付いた形状であったが、86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現した。
クハ86形100番代(86101-86128)
車体長20m級2扉クロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となり、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓配置dD1(9)1D、側面窓枠がアルミサッシ、
窓も大型化、、床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
サハ87形0番代(87001-87088)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1950年(昭和25年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で、
車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓が付いた。
サハ87形100番代(87101-87168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下の、
ウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分からは三菱電機製造の、
集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
262:名無し野電車区
12/12/08 11:00:22.99 948v6x690
クハニ88形(88001-88004)
車体長20m級クロスシートの片運転台式三等荷物合造制御車で、前位より運転台、荷物室、三等客室に、
区分され、荷物室には幅1,200mmの両開きの荷扱い扉、窓配置はd1D(荷物)1(8)1Dという、
変則的なものとなっていて、基本編成下り方専用、1952年(昭和27年)度に製造された。
サシ89形(89001-89008)
車体長20m級の簡易食堂車で、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)に半鋼製車体で8両を新造、
側面に客用扉は東京寄りの車体端に在るだけで、神戸寄り山側の端には物資積卸用として、
750mm幅の片開き業務用扉を設置、側窓は下段上昇式の2枚窓、窓配置11(10)1D、
車両妻面は切妻型、車端部の広幅貫通路には片側2枚引き戸の4枚両引き戸を装備した。
調理室はは神戸寄りの山側に設置され、電気コンロ、大型電気冷蔵庫、大型冷水器、ジュースクーラー、
アイスクリームストッカー、サイフォン式コーヒー沸かし器、トースター等の電気機器を備え、
カウンターと通路を挟んで海側の側面に沿ってテーブルが設置され、着席用に丸型の回転椅子を装備、
景色を見ながら食事が出来るようになったいた。また車体中央から東京寄りは山側に2人掛けテーブル、
海側に4人掛けテーブルを設置、床下には自車電源用の50kVAのMG・CPを搭載、食堂用の水タンクは、
東京寄りに楕円型の1500Lを1基、神戸寄りに丸型の600Lを2基、床下に搭載した。
サシ89形は東京駅-浜松駅間の急行「遠州」用として日本初、狭軌路線初の二階建て二等付随車とともに、
1951年(昭和26年)度に4両を製造、提供された食事はモーニング洋食を始め、サンドウィッチ、
トースト&コーヒーやジュースなどの軽食が中心で、後のビッフェ車の原型となった。
サシ89形100番代(89101-89108)
車体長20m級の簡易食堂車で、1956年(昭和31年)度に4両、1958年度に4両が全金属車体で新造、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分は、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
263:名無し野電車区
12/12/08 11:03:17.34 948v6x690
改造形式
クハ89形(89001-89022)
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形100番代からの改造。
車体塗色
湘南色
80系電車の独特な窓周りをオレンジ(黄かん色)、幕板と腰板をブルー(青20号)に塗り分けた塗装は、
「湘南カラー」や「湘南色」と呼ばれ、茶色1色塗装が当然だった当時の鉄道界に新鮮な驚きを与えた。
この塗色は、日本国外の鉄道雑誌に掲載されていたアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車、
「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装にヒントを得て、「湘南地方の海と太陽」を重ね合わせて、
国鉄で考案されたと開発に携わった国鉄技術者が証言している。当初発注車は窓周りが比較的濃い、
朱色であったが、評判が悪かったため、次からみかん色に変更、ほかにも彩度や明度は、塗料の退色など、
耐久性の問題もあり、時代により、あるいは担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
これ以降、「湘南地方の海と太陽にちなんだもの」と国鉄もそのようにPRした。
この塗色は1968年(昭和43年)のダイヤ改正でオレンジ色とグリーン色の「東海色」に変更されるまで、
国鉄の直流急行形電車の標準塗色の一つとなり、「東海色」に変更後もオレンジ色は引き継がれて、
オレンジ色をコーポレートカラーとして採用している東海旅客鉄道(JR東海)を筆頭に、
現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線を走るステンレス車両の211系電車、さらにJR化後に、
登場したE231系電車、E233系電車にも、帯色として多少色が薄くなってはいるが受け継がれている。
また湘南顔の80系電車および60系電車、70系電車で採用された塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、
国鉄の初期の試作型気動車のほか多くの私鉄でも採用された。初期2枚窓の80系1次車は当初、
オレンジ色の部分が比較的少なかったが、のちに2枚窓のものと同様に大きくした。
264:名無し野電車区
12/12/08 11:14:51.03 948v6x690
横須賀色
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)7月に横須賀線向けとして80系電車が投入された。
これらは東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」運用に充当、この「横須賀線用」は、
その初期には戦前の32系電車、52系流線型・半流型電車と同じ、窓周りをクリーム2号、
幕板と腰板を青2号に塗り分けられ、派手な「湘南色」車と異なり、落ち着きがあった。
1956年(昭和31年)からクリーム1号と青15号に塗装が変更された。
関西急電色
横須賀線に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして80系電車が投入され、
戦前の52系流線型電車と同じ、窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号の、
関西急電の伝統であった「急電色」に塗装された。この色の80系電車は、派手な「湘南色」車と異なり、
独特の渋味のあるたたずまいで異彩を放っていた。また塗り分け線も湘南色とは異なっていた。
塗り分け調整
80系電車は、最初に登場した0番代から全金属車体の100/200番台に至るまで、湘南色の塗り分けには、
微妙な違いがあり、特に全金属車体となった200番台車と、それ以前のウインドシル・ヘッダー付き、
半鋼製車体の80系電車各車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なっており、
混結運転時には美観の点で難が出るので、何処の電車区でも極力混結は行われなかった。
265:名無し野電車区
12/12/08 11:20:41.31 948v6x690
営業運転開始後
東海道線東京口
1950年(昭和25年)4月1日に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けたモハ80形6両、
モハ81形6両、クハ86形4両、サハ87形8両の12両編成2本が田町電車区に配置、試験運転後の、
5月1日から設定された東京駅-小田原駅間の準急電車に運行、当初準急電車の名前と愛称は無く、
乗客から「湘南電車」の愛称で呼ばれていたことで、国鉄でも準急電車に名称を付けることになり、
5月26日から準急電車「湘南」として、黄かん色と青20号の塗り分けも「湘南色」と呼んだ。
同年6月18日に田町電車区へ12両編成2本が配置されると、伊豆方面の乗客に的を絞った、
準急電車「伊豆」を7月1日から東京駅-伊東駅間で運行、同日から先頭車に「湘南」「伊豆」の、
ヘッドマークを取り付けて運行されるようになり、ヘッドマークは当初、丸型だったが、
1951年(昭和26年)4月からは丸型の両側に羽を付けた容に変更された。
横須賀線
1950年(昭和25年)7月17日に窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号に塗り分けたモハ80形4両、
モハ81形4両、クハ86形4両、サハ87形4両の8両編成2本が田町電車区に配置、翌月の8月1日から、
東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」として運行を開始、1952年(昭和27年)9月から、
東京-大船間の東海道線共用路線を分離、品川駅-横浜駅間は品鶴貨物線を通るルートに変更、
横浜駅ホームの2面4線の増設、東京駅-横須賀駅間のホームが全駅で延伸されたことにより、
8両編成から12両編成で運行された。
266:名無し野電車区
12/12/08 11:24:38.01 948v6x690
東海道本線京阪神地区
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして、
宮原電車区に80系電車8両編成2本を投入、これらは戦前以来の急行電車運用に充当すべく、
戦前形50系電車の阪和線転用、52系電車の横須賀線転用と引き替えに新製配置されたもので、
この「関西急電用」80系電車は、50系・52系流線型電車以来の関西急電の伝統であった「急電色」、
窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号に塗り分けられた。
東海道線長距離
東海道線東京口や横須賀線、京阪神地区での80系電車による運行が始まると、接客設備が電車としては、
良好であったことから、1950年(昭和25年)11月には東京駅-静岡駅間に準急電車「駿河」を、
12両編成で運行、1951年(昭和26年)2月には東京駅-浜松駅間への運用領域を拡大が図られ、
1950年(昭和25年)4月に開発が間に合わなかった狭軌路線初の二階建て二等付随車サロ85形と、
簡易食堂車サシ89形が1951年(昭和26年)3月に田町電車区へ配置されると、東京駅-浜松駅間に、
基本12両編成+付属4両編成の16両編成で急行電車「遠州」が運行されるようになり、
これは電車としては当時、世界最長編成の電車列車であった。
その後、1953年(昭和28年)7月21日に名古屋駅間までが電化されると、東京駅-名古屋駅間を、
急行電車「東海」が運行され、「遠州」と同じくサロ85形2両、サシ89形1両を組込んだ16両編成で運行、
1956年(昭和31年)11月19日に東海道全線が電化されると、東京駅から一気に大阪駅間を運行する、
急行電車「せっつ」を運行、1958年(昭和33年)には東京駅-姫路駅間に急行電車「はりま」を運行した。
267:名無し野電車区
12/12/08 11:29:36.25 948v6x690
中央東線
中央東線の東京駅から富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖まで乗り入れは、
1950年(昭和25年)9月から80系電車8両編成1本で行われたいたが、桜木町事故後、
トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、80系電車での乗入れを一時中止、
1951年(昭和26年)からパンタグラフ部分の屋根を低くし、歯車比を40系電車に同じとした、
モハ80形800番代2両、モハ81形800番代2両を新造、同年8月から準急電車「富士山麓」として、
新宿駅-河口湖駅までの乗入れ運行した。
高崎線
1952年(昭和27年)4月1日に大宮駅-高崎駅間が電化、当初は30系電車で電車運行が始まったが、
同年7月1日から東京駅-高崎駅間で80系電車を使い、準急列車「あかぎ」が8両編成で運行され、
1954年(昭和29年)に60系電車が配置されたことで、8両編成から12両編成に変更、
1958年(昭和33年)には60系電車ともに16両編成化された。
東北本線・日光線
1958年(昭和33年)4月14日に東北本線大宮駅-宇都宮駅間が電化され、上野駅-宇都宮駅間を電車化、
80系電車による上野駅-宇都宮駅間の準急列車「ふたあら」を運行開始、1959年(昭和34年)5月22日には、
宇都宮駅-黒磯駅間が電化させたことで、上野駅-黒磯駅間を80系電車による準急列車「なすの」を運行、
同年(昭和34年)9月22日に日光線が電化されたことで、同年10月1日から国際的観光地である日光市に、
東京から直接向かう急行列車「日光」が東京駅-日光駅間を80系電車で運行された。
急行「日光」の編成は8両編成2本で、サロ85形100番代2両を挟んでいた。
268:名無し野電車区
12/12/08 11:33:06.18 948v6x690
山陽本線
1964年(昭和39年)7月25日に全線電化が完成すると、神戸駅-下関駅間に電車運行が設定され、
8月1日から急行電車「防長」が湘南色の基本12両編成+付属4両編成の16編成2本で運行された。
臨時・団体
1950年(昭和25年)の登場後から行楽用、企業旅行や修学旅行などの臨時団体に、
使用されることが多くなり、同年12月29日には帰省準急電車として東京駅-静岡駅間を運行、
1951年(昭和26年)4月には行楽用の臨時準急電車「日本平」が東京駅-静岡駅間で運行、
その後も毎年、団体臨時に運行されることが多くなり、東海道線名古屋駅までの電化が完成した、
1953年(昭和28年)7月以降は修学旅行用の臨時団体電車などの運行が多くなった。
更新修繕と冷房化
1958年(昭和33年)度から冷房装置を搭載して新造された翌年、初期車から更新修繕と同時に、
冷房装置の搭載が決定、木製室内をアルミデコラ化粧板を交換、木製床を剥し、鉄板を敷き、
その上に灰色のリノリウムを貼り、鉄製だった前面窓と側面窓枠はアルミサッシ枠に変更され、
座席の布地を青モケット張りに変更する更新修繕が行われ、冷房装置搭載にあたり側面補強とともに、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載する工事が1964年(昭和39年)まで全車に行われた。
269:名無し野電車区
12/12/08 11:34:03.73 duALeXBO0
711系800番台
80系電車(主に300番台)を交流化改造。
出入り口にはステップが取り付けられ、車体塗色は交直流急行色に変更された。
吊り掛け駆動方式のため、他の711系とは併結できない。
270:名無し野電車区
12/12/08 11:42:59.58 948v6x690
地方への進出
1960年代後半に入ると国鉄電化の伸張に伴って首都圏や京阪神地区を始め、運用線区を拡大していき、
その後も本州内の国鉄直流電化区間の大半で、おもに急行電車から臨時電車まで広範に運用された。
もともと大出力であり、電動車(M)比率を上げることで急勾配での運用も十分に可能であったため、
山岳路線でも広く用いられた。但し当初より他系列電車との混結を考慮しない設計であり、改造車を含め、
制御電動車が存在しなかったので編成は最短でも2M2Tの4両以上となった。運用線区の広域化の過程では、
さまざまな対策が施されて、信越本線長野電化時には横川駅-軽井沢駅間の碓氷峠越え区間に備えた、
いわゆる「双連」が施され、トンネル断面制約のある中央西線(中津川以北)への投入に際して、
モハ80形のパンタグラフを低断面トンネル対応形 (PS23) への交換が行われた。
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形のクハ89形化改造などが行われた。
先頭車化改造
地方転出の短編成化で、不足する制御車を補うため、1966年(昭和41年)からサハ87形の前位側へ、
切妻構造の運転台を取付け、先頭車化改造を行い、新形式のクハ89形とした。
これらの先頭車化改造車は、施工された工場によって運転窓の大きさ、前照灯の取付位置が違っており、
大井工場で施工した4両は103系電車に似た低運転窓と白熱1灯、大船工場で施工した4両は低運転窓と、
窓下の左右にそれぞれ白熱灯1灯を配し、浜松工場で施工した2両は高運転窓に窓下の左右に、
それぞれ白熱灯1灯とバリエーションが違っていた。
その他の改造
1972年(昭和47年)神領電車区に配置されていたクハ86形の前照灯をシールドビーム2灯に改造、
いわゆる「ブタ鼻」改造が行われたが、改造車は(クハ86051、86052、86061、86062)の4両のみ。
271:名無し野電車区
12/12/08 11:46:00.94 duALeXBO0
JR西日本 サロ222・223形
JR東日本E217系のグリーン車サロE216・E217形をJR西日本が223系に編入改造。
サロ222形の種車はサロE216形、サロ223形の種車はサロE217形である。
272:名無し野電車区
12/12/08 11:47:35.70 948v6x690
飯田線
1967年(昭和42年)3月にクモユニ96形に置換えられたクモユニ84形の全車が飯田線に転入、
1983年(昭和58年)6月の同車廃車まで同線で他系列と併結され、運用された。
中央西線
1968年(昭和43年)7月に新設の神領電車区へ12両編成2本が転入、翌年にも2本が転入、
転入車は湘南色から横須賀色に塗替えられ、中津川駅-名古屋駅間の準急電車に運用され、
翌年にも12両編成2本が神領電車区へ転入した。
京阪神地区
1950年(昭和25年)10月から京阪神地区で関西急電として80系電車が運用されてきたが、
1972年(昭和47年)3月に宮原電車区へ新性能121系電車が置換えで配置され、捻出された80系電車は、
「急電色」のまま、神領電車区に転出、その後横須賀色に塗替えられた。
長野地区
1972年(昭和47年)に60系電車とともに12両編成4本が転入、長野運転所、松本運転所に配置され、
信越本線長野地区での準急電車運行、湘南色は順次、横須賀色に変更されたが、湘南色のまま、
廃車まで残ったのあった。また 大糸線の準急電車運行に投入された初期2枚窓車のクハ86形2両を含む、
8両編成1本は大糸線転属に際して青22号一色に塗り替えられ、「海坊主」という愛称で親しまれた。
273:名無し野電車区
12/12/08 11:49:25.02 948v6x690
終焉
80系電車の本格的な置換えは1981年(昭和56年)から始まり、3月に中央東線の河口湖乗入れが、
新性能125系電車に置換えられたのを始め、同年10月に東海道本線東京駅乗り入れが消滅、
東北本線・高崎線で運用されていた車輌も1983年(昭和58年)から60系電車と同じく廃車になり、
信越本線長野地区や中央西線、山陽本線でも1984年(昭和59年)から廃車が始まった。
それ以降も急行電車や準急電車、団体電車での運用も残っていたが、老朽化や機器整備の合理化の見地から、
1986年(昭和61年)1月18日に80系電車の運用は終了、2月1日と2日に東海道線東京口の東京駅-熱海駅間、
高崎線を含む東京駅-高崎駅間で「さよなら運転」が行われ、湘南色と横須賀色の16両編成4本が運行、
80系電車が初製造されて36年にわたる営業運転の歴史は終了した。
保存
高崎線で運用され、廃車となった前面が角枠のままだったクハ86形86027と86028、
モハ80形80027とモハ81027の4両が大宮工場で保管され、民営化後は東京総合車両センターで保管、
2007年(平成19年)10月にさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、
山陽本線で廃車となったクハ86形86127と86128、モハ80形80241とモハ81形80241が、
大阪の交通科学博物館敷地内に保存され、狭軌路線初の二階建て二等付随車サロ85形85001と、
サシ89001がさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、サロ85形85101が、
2011年(平成23年)3月14日に愛知県名古屋に開館したリニア鉄道舘で保存展示、
クモユニ84形84001が浜松工場で保管、84002が民営化後の東京総合車両センターで入替用事業車として、
運用と保存された他、山陽本線で廃車になったクハ86形86007が民間に売却され、個人宅で保存、
神領電車区で廃車になったクハ86051も個人に売却され、個人宅で保存されている。
274:名無し野電車区
12/12/08 12:32:52.80 vLkg7LK50
817系9000番台
JR九州が七つ星を導入するも料金が非常に高く利用率は低迷していた
そんな状況を打破するため2018年に投入されたのがこの817系9000番台である
特徴は817系の構体をほぼそのまま使用した寝台電車ということである
817系3000番台ベースの3両編成で門司港側から順に1号車、2号車、3号車、となっています
乗客は1号車の運転台よりの両側の扉でのみ乗降できます
車内設備は1号車には乗降扉の目の前にホテルでいうフロントがありそこにはスタッフルームも併設されています
1号車の後ろ半分はロビーカーになっており展望席部分は床から1段高くされています
2号車には客室が3室あり各部屋にトイレと風呂も併設されています
3号車はレストランカーになっており
通路は外側に迂回するように配置されレストラン内の人の流動を極力抑えることに成功しています。レストラン内はこちらも床が1段高くされており外からの注目を集めることなく、なおかつ御食事時の素晴らしい眺めに貢献しています
275:名無し野電車区
12/12/08 13:05:20.13 vLkg7LK50
817系9000番台 続き
厨房は車両の二分の一のスペースに設けられており業務用扉は3号車の運転台よりの両側の扉を使用、レストランの席の数は3組と全乗客が同時に使用できるだけの席を確保しております
全体での特徴は全車両車イスに対応していること、813系や817系など他の車両とも併結できること、非電化区間では電源車を介して
ディーゼル機関車を連結して運行することが可能だということ、その電源車は双頭連結器と屋根上にパンタグラフを設置し車内にディーゼルエンジンと変電機を備えており直流区間への乗り入れも
機関車に牽引してもらう必要があるが可能であること、そして、この車両に対応する改造を受けた機関車は推進運転時にこちら側の運転台で遠隔操作が可能なこと、などが挙げられる。
遠隔操作が可能な機関車はJR九州の全てのディーゼル機関車(七つ星用のものも含む)、JR貨物門司機関区のDD51の一部、同じく門司機関区のEH500の内の二両などがある。
但し、遠隔操作が可能ではない機関車でも牽引したり低速になるが推進運転も可能である
276:名無し野電車区
12/12/08 20:18:37.74 Qy80pNc00
キハシ26
キハ56の半室ビュッフェ車。
キハシ27
キハ57の半室ビュッフェ車。
キハシ28
キハ58の半室ビュッフェ車。
後年冷房と4VKが搭載されて番号が+2000になった。
277:名無し野電車区
12/12/09 02:31:48.55 Q0Tx2KQnO
東武鉄道2030系
20000系登場で余剰となった日比谷線直通用2000系を支線転用改造して昭和63年に登場した。
当時日光鬼怒川地区では3070系が活躍していたが、勾配線区ゆえに電制装備車の配置が運転サイド(の労働組合)から求められており、それに応えた転用である。
先頭車のみを対象に地下鉄乗り入れ機器の撤去、抑速ブレーキ、耐雪ブレーキの追加、霜取りパンタの増設、ドアカット回路の設置、正面貫通路の整備と幌の設置、老朽箇所の修繕が行われた。
なお、冷房化は車体強度の問題もあり見送られた。
塗装はセイジクリームをベースに窓下にロイヤルマルーンの帯を巻いた独特のものである。
力のあるオールM編成は電制も良く効き、運転サイドからは喜ばれた。
しかし依然として非冷房であることが営業面では好ましくなく、平成10年にツリカケ冷房車5050系に置き換えられて姿を消した。
278:名無し野電車区
12/12/09 09:21:30.52 r9zbVjrzO
東武鉄道Q634系「TOBU-Eye」
東武鉄道が開発した総合検測車である。関東一円に広大な路線を持つ東武鉄道は
軌道用の検測車と軌陸式の架線検測車しか持っておらず、営業運転レベルの
検測が出来なかった。そこで東武鉄道は営業運転速度で運転しながら検測する
総合検測車を導入することになった。
同型の検測車両を持つ小田急や東急の検測車両を検討した結果、既存車両を
改装した総合検測車を作ることになった。
当初8000系のモハ8500-クハ8600から改装する計画だったが、日光線など
勾配路線があることや2連の大師線や亀戸線などもあるため、6050系4編成から 改装された。
改造されたのは6158F 6161F 6164F 6173Fである。なお6173F改造車が東上線向け
以外は全て本線(スカイツリーライン)系統である。
モヤQ634は検査用含め2パンタ式とし、電気架線信号系を、クヤQ634は
軌道検測及び動揺測定 レール探傷を行う。
本線向け3本は南栗橋に2本と七光台1本配置とし、前者は東武動物公園以北の
伊勢崎線 日光線と宇都宮線を検測し、上毛電気鉄道の検測も委託。
七光台配置車は野田 亀戸 大師線と浅草~東武動物公園間の本線を検測する。
東上線配置車は森林公園配置で、東上線と越生線以外に秩父鉄道の検測委託も行う。
またCS-ATCも搭載しているため、曳舟~押上間の検測も可能。
279:名無し野電車区
12/12/09 12:46:17.89 gF7fwgEr0
JR九州 717系3000番台
JR西日本117系電車をJR九州が交流化改造。
出入り口にはステップが取り付けられ、車体塗色が変更された。
280:名無し野電車区
12/12/09 12:52:07.64 gF7fwgEr0
JR四国N6000系電車
JR東海313系電車をベースにしたJR四国の新型電車。
281:名無し野電車区
12/12/09 12:58:26.71 gF7fwgEr0
JR四国3000系気動車
ベースはJR北海道キハ283系気動車。
メーカーは日本車輌製造。
282:名無し野電車区
12/12/09 17:27:13.76 SoEivcK6O
JR東海671系
1990年代初頭、名古屋~北陸を結ぶ「しらさぎ」用に投入。371系の交直両用版。3編成のみ投入。
「(ワイドビュー)しらさぎ」として運転。前面展望が楽しめたり二階建てグリーン車が連結されていて子供や鉄ヲタに人気。
283:名無し野電車区
12/12/09 21:49:25.54 CZWDAOha0
JR東日本 E26系100番台
カシオペア用として使用されているE26系をベースに、上越線経由で「日本海の夕日を楽しむ」
夜行列車用にグレードアップされた車輛
主な相違点として、電源車をカハ26として中間車化し、食堂車の隣にサロンカーとして連結するようにしたこと。
また、札幌側最後尾車が展望スイートを含むスイート車となり、行きも帰りも最後尾の景色を楽しめる個室となった。
塗装はトワイライトエクスプレスのように落ち着いた深い色となり、カシオペアの未来感ある塗装とは違ったものとなっている。
この列車の登場に合わせて、専用塗装のEF510が2両登場し、好評を持って迎えられている。
284:anorak?
12/12/09 22:54:04.94 CqOu4B5B0
>>242-244に続く平行世界もの
◎国鉄HD40形ラックレール対応ディーゼル・電気両用機関車
○1960年代に首都圏と北陸の短絡ルートとして塩尻と高山を結ぶ信飛線が着工し、80年に開業。
経路は、塩尻~新島々~白骨温泉~安房峠~平湯温泉~高山。全線電化単線。
信飛線は長い連続急勾配の存在で動力車に高粘着性能を要求されるので且つ秘境での給電諸経費削減に交流20kV60Hz。
飛騨山脈(北アルプス)横断は安房峠を長大トンネルで貫くにも火山帯なので難工事が予想されたので
建設費と工期抑制の為に安房峠を地形に沿って越えるルートを採用した。
故に最大80‰の急勾配区間の出現となり、豪雪地帯なのでスリップの危険など粘着運転のみでは危惧されたので
ラックレールを採用。それは、昔の碓氷峠のアプト式では無く、構造が単純なフォン・ロール(Lamella)式。
当路線用にED42以来のラックレール対応機関車となるHD40が新造された。
交流電化の利点を最大限活かす為に交直流両用電機とせず、粘着性能に優れたサイリスタ連続位相制御の交流電機に
ディーゼルエンジンと発電機も搭載した、電気式ディーゼル機関車とのハイブリッドとした。
形式称号の動力種表記はHとなる。
直流電化と非電化区間での走行はELではなくDLモードで、また信飛線での除雪や急勾配上の停電時にも。
固有仕様は以下:車体が車長20m弱のデッキ付き。
軸配置はラックレールに噛み合う歯車(ピニオン)をzとしてB-1zz1-Bと、三つの台車の内、中間台車が歯車専用。
主電動機は動輪用に475KWのが四つ、歯車用のが二つ。
常用ブレーキはELモードでは交流回生ブレーキ、DLモードは発電。非常用には電磁吸着ブレーキなど。
ラッセルヘッドかロータリーヘッドを接合し除雪も行う。
電車牽引に備え双頭連結器。客車や直流用電車への冷暖房用電源装置搭載。
ラックレール区間を含む45‰以上の急勾配を通過する際、列車の前後共に当機を連結しプッシュプル運転。
当区間を通過する車両は連結器強化などの横軽対策と同様のを要する。
78年に試作車登場、量産され80年に就役し、新宿発着の直流用特急電車も塩尻・高山区間で牽引。
87年にJR東海に信飛線と共に承継。JR貨物塩尻機関区に常駐し、委託。
数年後にはラックレールから鉄輪式リニアモーターカーへの切り替えで引退予定。
285:名無し野電車区
12/12/10 21:46:24.47 VkLtyCiQ0
>>252-253補足
N-100はYS-11に続く事実上の国産旅客機第二弾であるが、機体サイズがB767とほぼ同程度なことから「政治的圧力で頓挫するのではないか」と心配する動きもあったものの、
「阪急グループの事実上の専用機」という当初の目的や、4発の中型機とは言え"遅れてきたターボプロップ機"ということもあって意外なほどスムーズに事が進んだという逸話がある。
また、N-100の開発と、ナニワ航空機の設立に関して当時の阪神国内航空の担当者はこう語っている。
「まずボーイング社に言ってみたのですが、『発展途上国向けならともかくなぜ先進国の航空会社、
それもたった一社だけのために時代遅れのターボプロップ機を作らなければならないのか』と断られました。
次にマグダネル・ダグラス社を当たってみたのですが、ここにも『今更MD-94Xを生産ラインに載せろというのか』と言われました。
エアバスからも『採算がとれるかどうかは絶望的。A320を買う方が安上がりだ』と言われました。
フォッカーに至っては、『我々には大型ターボプロップ機の経験は無い。
経営面で苦しい我社としてはありがたいが、あなた達の会社が命知らずであるならばこの案件を受けてもいいだろう』とまで言ってきました。
このことを本社の幹部に直談判したら、『仕方ない。どこも作らないというのなら自分たちで作ればいいだけだ』ということになり、自前の航空機メーカーを設立する運びとなったのです」
これらを含めたナニワ航空機設立と、N-100の開発の逸話に関してはNHK「プロジェクトX」の『大阪発の翼、大空へ』の回で取り上げられたことはご存知の通りであろう。
N-100の操縦性に関しては、実質的な"前作"であるYS-11(ナニワ航空機には日本航空機製造のOBが多数在籍している)の反省を活かし極力素直なものに仕上がっていたと評されており、
実際に本機に搭乗したFAAの関係者も「このような航空機が日本だけしか飛ばないのは惜しい」と評していたことがある。
あとエンジンに関して訂正
×アリソンT56-A-15
○プラット&ホイットニーT34-P-9W
286:名無し野電車区
12/12/11 16:02:51.31 X8oudSay0
国鉄101系電車
1955年(昭和30年)に登場した日本国有鉄道の直流通勤形電車。
国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式を採用、近代的メカニズムを搭載し、
いわゆる「新性能電車」のはしりとなった系列で、80系電車や60系電車に続き、2両の電動車を、
1ユニットとして必要機器を分散して搭載するMM'ユニット方式を引続き採用、
直巻整流子電動機を抵抗制御、発電ブレーキ併用の電磁直通ブレーキと、コイルばね台車、
車体は切妻形で運転台は傾斜した平面3枚窓のシンプルなデザイン、両開き4扉を持つ軽量構造の、
全金属車体、車内は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシートを備え、続く103系電車にも、
ほぼそのまま引き継がれた、国鉄通勤形電車の一時代を画した仕様である。
この基本システムは1980年代前半に至るまで、国鉄電車に広く応用された。
1951年(昭和26年)頃から各車輌製造メーカーでは駆動方式を従来の吊り掛け駆動方式から脱却して、
新世代のカルダン駆動方式にする研究と試作が続いていたが、共振や製造コストの高さなどで、
開発が延滞していたが、アメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリック社などから最新技術を導入して、
1953年(昭和28年)に大手私鉄の東武鉄道と京阪電気鉄道、営団地下鉄などがカルダン駆動を採用した、
高性能なカルダン駆動車の通勤電車が開発、増備され、通勤輸送の質的改善に成果を上げていたことで、
1953年(昭和28年)9月に国鉄でも新性能通勤電車の開発を始め、開発当初は加減速性能の向上を狙って、
全電動車方式(オールM編成)を採用したのが大きな特徴である。個々の電動機の能力を極限まで、
高めるのではなく、全車両を電動車として編成全体の出力を高める方針が取られ、
主電動機は新開発した高回転型で小型軽量なMT46形が用いられた。
287:名無し野電車区
12/12/11 16:10:14.95 X8oudSay0
車体
1954年(昭和29年)に試作された40系電車全金属車体の基本構造を採用、全金属製セミ・モノコック構造、
車体長は19.5m、ウィンドウ・シル/ヘッダーのない車体の断面は幅2.8m、両側がまっすぐ立ち上がる形で、
前面は切妻非貫通型、運転台の前面は上部が室内に約10度傾いた3枚窓で、3枚の運転窓は各独立した、
Hゴム支持となり、運転台上方に方向幕と運行幕枠の取付、前照灯は幕板上部に埋込まれ、
客用扉は1300m幅の両開き扉に変更、ドア間の側面客室窓はアルミサッシを用いた全開可能な2段上昇式を、
2組1セットにまとめたデザインとなり、戸袋窓は縦方向に長いHゴム支持の固定窓とされ、
通風器は通風能力を重視した大型グローブ式を電動車は屋根上に6個1列、付随車は屋根上に7個1列に並び、
室内の通風器通風口には換気面と居住性改善のために扇風機を設置、この扇風機は40系電車を始め、
60系電車、80系電車の小型と違い、かなり大きい大形の扇風機が設置された。室内は40Wの蛍光灯照明が、
国鉄車輌では初採用され、座席は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシート、制御車は戦前からの、
半流型52系電車と同じ、運転台と扉の間には座席の設定は行われ無かった。客室から運転台への扉は、
客室から見て右側に配置、この配置は後の103系電車を始め、多くの国鉄車輌に長く用いられている。
走行機器
主電動機は新開発のMT46形で、端子電圧375V、1時間定格100kwの直流直巻整流子電動機(補極付)で、
分路界磁制御自己通風型であり、主制御器も新開発したCS12形で、発電ブレーキの制御が追加、
ブレーキは電磁直通方式のSELD方式、台車は新開発のDT21形を電動車に採用、付随車はTR64形。
288:名無し野電車区
12/12/11 16:11:27.92 X8oudSay0
基本形式
クモハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの片運転台を持つ制御電動車(M')で、モハ101形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1955年(昭和30年)から1957年(昭和32年)までに、
全金属車体で10両を新造、ユニットの関係上、全車が偶数向きとされていた。
クモハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの片運転台を持つ制御電動車(M)で、モハ100形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは車体後方、連結側の屋根上に搭載、ユニットの関係上、
全車が奇数向きとされ、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造された。
モハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない中間電動車(M')で、クモハ101形・モハ101形と、
ユニットを組み、MG、CPなどの補機類が搭載され、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに、
全金属車体で新造、ユニットの関係上、全車が偶数向きとされていた。
モハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない中間電動車(M)で、モハ100形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、ユニットの関係上、パンタグラフは全車下り向きの屋根上に搭載、
1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造された。
289:名無し野電車区
12/12/11 16:18:25.23 X8oudSay0
サハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない付随車(T)で、1955年(昭和30年)から、
1963年(昭和38年)までに全金属車体で新造された。
クハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの制御付随車(Tc)で、1955年(昭和30年)から、
1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造、全車が偶数向き専用とされたいた。
クハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの制御付随車(Tc)で、1955年(昭和30年)から、
1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造、全車が奇数向き専用とされていた。
計画の頓挫
試作車10両1本が1955年(昭和30年)3月に登場し同年6月から中央線で営業運転を開始したが、
すぐに使用電力の多さが問題になり、限流値の抑制により加速力を抑えて運転することになった。
10M100%乗車時の起動加速度は約2.2km/h/s、旧形電車の6M4T100%乗車時の起動加速度は約2.0km/h/sで、
このため全電動車編成でありながら付随車を従えて走る旧形電車と性能面では大きく変わらなかった。
同年7月に量産車の全電動車10両編成2本を同線に投入したが、試作車の投入時と状況は変わり無く、
性能を十分に発揮することが出来ないことから量産車の中央線投入を一旦、中止した。
290:名無し野電車区
12/12/11 16:19:33.56 X8oudSay0
電力設備が整っていないことで性能を殺さざるを得なかった101系電車だが、中央線の新性能化後は、
総武線や常磐線など他の通勤路線に順次投入することが計画されており、これらの路線の多くが、
10両編成であること、電気設備が中央線同様101系電車の全性能運転には耐えられないこと、
MT比1:1にすると加速度が旧形国電以下に落ちることから加速度を維持するために起動電流を多く、
流す必要があるが、主電動機の温度上昇問題もあり、どの程度まで過負荷にできるかは未知数であった。
そこで1955年(昭和30年)11月に営業列車を用いてMT比1:1とした場合、主電動機の温度上昇についての、
試験を行ったところ、MT比1:1で限流値350Aの場合は、閑散時もラッシュ時も限界温度以上の熱を持ち、
いずれ運用に支障が出ることが判明したことで、国鉄本社は101系電車を非効率と位置付け、
次世代の汎用的通勤電車として101系電車が使えないこと結論付けたことから、どのような線区でも、
設備投資を増強せずとも使用でき、さらに車両制作費の面でも経済的なMT比1:1編成が可能な、
標準型通勤電車の開発を新たに始めていくことになり、それまではMT比2:1とした101系電車を、
新造して間に合わすことにして、この時点でクモハ100形の新造は中止となった。
291:名無し野電車区
12/12/11 17:18:01.54 X8oudSay0
次期通勤電車までのつなぎ
101系電車が通勤輸送を改善する最善手にならないことは明らかではあったが、次期通勤電車の設計には、
回生ブレーキなどの試験結果なども待つ必要があり、当面は101系電車の増備を続ける必要があり、
中央線には6M4Tの朱色1号のMc-M'-Tc-Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの10両編成で投入されたのを皮切りに、
1956年(昭和31年)から車体塗装を黄色5号に塗られた山手線へ6M4Tの10両編成が投入され、
翌年の1957年(昭和32年)には黄色5号で総武線に10両編成が投入、1958年(昭和33年)には、
中央線と同じ朱色1号に塗られた10両編成が大阪環状線に投入され、1959年(昭和34年)には常磐線に、
朱色1号の10両編成が投入、京浜東北線に黄色5号の10両編成が投入された。
京浜東北線に投入された10両編成はMc-M'-T-Tc-Mc-M'-T-M-M'-Tcの基本6両編成+付属4両編成で、
1959年(昭和34年)当時、京浜東北線では基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていたことと、
下十条電車区と蒲田電車区では検修線が10両分無く、配置されていた40系電車は4両と6両に編成を、
分割して検修を行っていたことに合わせた為で、当時、京浜東北線は配置両数は700両以上と多く、
103系電車投入後でも4分の3は旧形国電であったため、少しでも新性能化を促進する目的で、
1961年(昭和36年)に京浜東北線へ103系電車と同じ青22号に塗られた10両編成が投入された。
1965年(昭和40年)7月から赤羽線も10両編成になっており、車両の配置も山手線と同じ池袋電車区で、
あった絡みで、山手線に103系電車が投入、捻出された101系電車を用いて赤羽線の101系電車化を行った。
292:名無し野電車区
12/12/11 17:20:17.23 X8oudSay0
800番台
中央本線の臨時列車増発で、トンネル断面の小さい高尾以西への入線に対応するために、
パンタグラフ取り付け部の屋根高さを低くした構造の車両で、1961年(昭和36年)に、
パンタグラフを備えたクモハ・モハ101形のみが登場した。
特徴として、他系列の低屋根車と同じく低屋根部分は扇風機に代わってファンデリアが備えられ、
国鉄時代末期までは全車武蔵小金井電車区に配置されていて、1980年(昭和55年)には鶴見線に転用。
クモハ101形800番代(801-806)モハ101形800番代(801-810)
その後
本来、中央線用として500両程度作ればよかっただけの101系電車の製造が完全に打ち切られたのは、
103系電車の製造開始から5年が経過した1965年(昭和40年)で、常磐線が1961年(昭和36年)から、
Mc-M'-T-M-M'-T-T-M-M'-Tcの基本10両編成にMc-M'-M-M'-Tcの付属5両編成を併結した15両編成化、
したためで編成両数の違いから編成の組替え、電動車2両を組み込む必要が生じたこと、山手線から、
総武緩行線に101系電車を転用する際に、大阪環状線など一部の増備に際して、将来の転用を視野に、
分割り出来る編成Mc-M'-Tc-Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの基本7両編成に付属3両編成の増備が必要と、
なったためで、その結果、製造両数は1375両に及び、1000両近くが101系電車の性能に適さない路線での、
使用となり、また6M4Tでの運転自体も性能ギリギリだったことから、1960年(昭和35年)以降、
新製冷房103系電車の新造と配備以後も冷房化改造が満足にできないなどの弊害があり、
中央線、山手線、京浜東北線、総武緩行線など首都圏の重通勤路線は103系電車化するまで、
冷房化率を上げることが困難であった。
293:名無し野電車区
12/12/11 17:25:58.18 X8oudSay0
南武線
1967年(昭和42年)中央線に新製冷房車の103系電車が配置で捻出された10両編成2本が南武線に転出、
新たに電動車2両を新造して、編成をMc-M'-T-M-M'-Tcの6両編成4本に変更して投入したが、
南武線投入車への冷房改造は1972年(昭和47年)まで行われなかった。
武蔵野線
1973年(昭和48年)4月1日に武蔵野線府中本町駅-新松戸駅間の開業にともない、
常磐線の松戸電車区から15両編成6本を転属させ、Mc-M'-T-M-M'-T-T-M-M'-Tcの10両編成6本と、
Mc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本に組替え、同線には一部区間に、
長大トンネルが存在することから、A基準に準拠した難燃化対策が施された。
その後、京浜東北線に配備されていたMc-M'-T-Tc-Mc-M'-T-M-M'-Tcの10両編成5本を転入させ、
Mc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本を関西本線(大和路線)の電化用に転属させた。
関西本線(大和路線)
1973年(昭和48年)9月20日に関西本線(大和路線)湊町駅-奈良駅間電化用に、
武蔵野線の武蔵野操車場からMc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本が転入、
関西本線(大和路線)では、分割されて5両編成で運行、1989年(平成元年)3月13日の、
ダイヤ改正まで運行された。
片町線
1976年(昭和51年)常磐線から捻出された5両編成5本が転入、さらに大阪環状線の森ノ宮電車区から、
Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの7両編成から付随車1両を外した6両編成3本が転入、片町線で運用開始。
294:名無し野電車区
12/12/11 20:56:28.91 POUCUzznO
西武鉄道350系
1977年に初の4ドア車両として2000系を投入したが、現場サイドからすれば
既存の101系を基本とした4ドア車両を求める声が多く、1984年に新101系シリーズ
最終型の301系モハ313編成投入した後の1986年に101系の4ドア車両試作車として
8両編成5本が落成した。今回からは東急以外に日立が製造に参入したため、所沢工場製は2本のみ。
走行系は新101系(301系)を基本としているものの、車内は3000系に準じたもの
となり、また冷房装置はラインテリアに変更され、補助電源はSIVに変更された。
101系シリーズ唯一の側面方向幕も付いた車両でもある。
新宿線に3本 池袋線に2本されたが、池袋線には馴染めず、2年後には全て
新宿線に転属された。
1988年にも2本投入される予定であったが、既存の101系ベースの車両よりも
2000系を増備が得策と判断され、その後は新2000系に4ドア車両の量産が
切り替えられてしまい製造は打ち切られた。
主に準急や急行に用いられたが、10両編成にするためには2連車が必要であったが、
新宿線には新101系の2連がなく、401系の連結が出来ないことから単独使用が余儀なくされた。
苦肉の策としてサハ1350形の間の5-6号車に新101系のを連結する変則的な
混血10両編成が組成された。
組まれた101系のモハは242 245 258 259である。モハ1355の編成には2連の290編成を
組み込んだ。
2006年の更新工事により制御装置をVVVF制御化され、車内は9000系に準じた
ものとなった。同時に9000系に編入されることになり9050系に差別化されている。
2011年にはシングルアームパンタ化及び全車両が30000系と同じ空気圧縮機に変更された。
なおこの際に全車両が10連貫通化されているが、4M6Tとなったために真ん中に
組み込まれる車両の種車は301系のサハに変更され、4ドア車両に車体を更新している。
また2010年に全車両が池袋線へ集結されている。
295:名無し野電車区
12/12/11 21:41:22.51 7hwFibP60
JR北海道 クモハ710
721系などの増備により、711系が札幌圏から室蘭本線苫小牧以南及び函館本線岩見沢以北での
ローカル運用が増えていった。
しかしながら、それらの区間では3連では過剰輸送になることからモハ711を制御車化して2連にするとともに
ワンマン対応化することとなった。
改造は最小限とすることとなり、室蘭/札幌方デッキ部分左側に運転席を取りつけ、背後の雪切室を廃止して左側ドアを
設ける形となり、新設されたドアは台車と支障することからステップがせり出す方式となった。
貫通ドアを内開きの先頭車と同じものにし、ヘッドライトを4灯つけただけで、中間車の顔のままとなった。
形は変であったが、2連ワンマン化により地方輸送に貢献することとなった。
296:名無し野電車区
12/12/11 22:04:06.65 /UwV9mxh0
JR九州415系電車 沖縄仕様
JR九州が所有している415系の普通鋼製車体オールロングシート車を、トイレなしの3両編成に組み換え。
偶数向きクハ411(トイレ付き): 廃車
奇数向きクハ411(トイレなし): 偶数向きに方転改造
モハ415: 先頭車化改造(廃車クハから運転台部分を移植)
297:名無し野電車区
12/12/11 22:13:48.07 /UwV9mxh0
>>296続き
沖縄に鉄道建設
軌間: 1067mm(三六軌間)
駅ホームの高さ: 1100mm(レール面上より)
建設ルート: なるべく米軍基地の敷地内を通すようにする。
298:名無し野電車区
12/12/12 06:50:57.80 9TknB9qe0
冷房改造
主電動機の低さとMT比率の問題で、冷房化が困難な101系電車は製造終了まで非冷房で製造されたが、
中央線の架線を、より太いシンプルカテナリーに交換工事が終了した1964年(昭和39年)から、
中央線の編成を8M2Tの10両編成に変更、同時に編成替えした編成から冷房改造が施されたが、
翌年に101系電車の新造が終了したことで、冷房改造が施工された編成は10両編成5本で終了した。
それ以外は主要通勤路線に新製冷房車の103系電車配置による捻出で、転用線区に移ってから、
編成の組替えで電動車の比率が高い場合のみ、冷房改造を実施することになり、最初は103系電車と同じ、
集中冷房装置を搭載したが、1970年(昭和45年)からは車体補強が必要無い、東芝・日立製の、
分散式冷房装置を搭載したが、全車には施工されず、全体の40%しか冷房改造されなかった。
299:名無し野電車区
12/12/12 06:53:39.34 9TknB9qe0
終焉
1979年(昭和54年)3月に常磐線では103系電車の置換えが完了、置換えられた一部は廃車され、
中央線でも103系電車、201系電車への置換えと老朽化に伴う廃車が始まった。
1980年(昭和50年)に武蔵野線でも10両編成2本が103系電車に置換えられ廃車、
1981年(昭和56年)には総武線の津田沼電車区に所属する10両編成4本が103系電車に置換えで廃車、
1983年(昭和58年)には大阪環状線の10両編成5本が103系電車に置換えられて廃車が始まった。
首都圏の重通勤路線から101系電車が消え去るのは1985年(昭和60年)の中央線で、
3月14日のダイヤ改正で快速以外の運用が終了、3月25日には快速運用も終了した。
青梅線・五日市線で使用されていた車両は1986年(昭和61年)に103系電車に置換えられ、
民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)には210両が継承され、継承された多くが冷房改造車で、
南武線は1992年(平成4年)、鶴見線は1997年(平成9年)まで運用された。
南武線の浜川崎駅-尻手駅間(南武支線)は特殊路線として2両編成3本(6両)が、
2003年(平成15年)まで運用された。南武支線用の車両は最初に製造されたクモハ100形10両のうち、
3両が使用されており、JR発足後にワンマン化(塗色も変更)と冷房化の2つの改造を受けており、
他線で使用されていた車両が、周り回って南武支線に配置、2003年(平成15年)11月28日に、
205系1000番台への置き換えにより、定期運用を離脱、廃車後は解体された。
300:名無し野電車区
12/12/12 06:56:51.57 9TknB9qe0
近畿圏では大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)・片町線(学研都市線)・関西本線(大和路線)などで、
運用されていたが、関東地区以上にハイペースで103系電車への置換えで撤退が進み、
西日本旅客鉄道(JR西日本)に継承されたのは片町線で使用されていた14両(うち冷房車8両)のみで、
同線での編成はMc-M'-T-M-M'-Tcの6両編成で、冷房車は中央・総武緩行線からの転入車が多く、
非冷房車は大阪環状線からの転入車であった。その後、桜島線に転用されたが、207系電車によって、
置き換えられる形となり、1991年(平成3年)3月30日に同線での営業運転を終了し、
同年4月29日のイベント電車の運転を最後に翌1992年(平成4年)に全廃された。
時期は前後するが、1982年(昭和57年)の水害で関西本線王寺駅に留置されていた60両が使用不能、
(電気機器の冠水による絶縁劣化および、床材が水を吸い膨れ上がる現象が発生したため)となり、
急遽関東地区から廃車予定車を転属させ2年間使用に充てられた。この時、元中央線快速の車両は、
オレンジ地に前面黄帯入り、元中央・総武緩行線の車両は関西地区には福知山線103系電車にしか、
なかった黄色のまま使用され、共に異彩を放っていた。
保存
国鉄初の新性能電車として試作、老朽化のため1979年(昭和54年)に廃車されたクモハ101-001が、
廃車後もJR東日本東京総合車両センター(旧・大井工場)正門前に静態保存されていたが、その後、
2007年(平成19年)10月14日に埼玉県さいたま市に開設された鉄道博物館に移設され、展示されている。
301:名無し野電車区
12/12/12 06:59:28.47 9TknB9qe0
秩父鉄道への譲渡など
現在、JR線上からは消滅した101系電車であるが、埼玉県の羽生駅-三峰口駅間を走る秩父鉄道では、
国鉄時代の1981年(昭和56年)頃からJR化後まで譲渡された3両編成12本(計36両)が在籍している。
形式は1000系電車となり、Tc-M-M'c(クハ101形-モハ101形-クモハ100形)の編成6本と、
Mc-M'-Tc(クモハ101形-モハ100形-クハ100形)編成6本で譲渡された。
入線当時は黄色に茶帯の塗装に前面に「秩父鉄道」と表記されていた塗装で比較的原型を保っていたが、
後のワンマン化を前にクリームを基調として赤と青の帯を施した塗装に変更された。その後、
冷房化(分散冷房)やパンタグラフの2基搭載化などを経て、2008年(平成20年)までは全車が、
在籍していたが、2009年(平成21年)2月に7000系電車の入線により1004Fと1009Fの2編成が、
運用を離脱し廃車された。なお、鉄道博物館の開館に併せて4編成が同年秋からオレンジバーミリオン、
スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス(関西線色)の4種類の塗装へ順次復元されている。
なお、京福電気鉄道福井支社(→えちぜん鉄道)や福井鉄道などが他社から車両を譲り受けた際は、
軌間が合わないなどの理由から台車や電装品を101系電車の廃車発生品に交換するなど、
部品提供の事例がある。また、愛知環状鉄道では開業にあたって車両を製造する際に、
経費削減の観点からモーターなどに101系電車の廃車発生品を採用している。
302:名無し野電車区
12/12/12 12:22:09.65 Ydc9Hq8B0
JR北海道カーフェリー津軽丸、松前丸
1986年、JR発足直前に青函トンネル開通後の輸送の補完として青函連絡船をカーフェリー化して存続することが決定した。これは例えるなら東海道新幹線に対する国鉄高速バスといった位置付けである。
1988年3月に鉄道航送終了後青森、函館の両桟橋をカーフェリー仕様に改装し経年の浅い石狩丸、檜山丸をカーフェリーとして再改装し、カーフェリー用新造船として津軽丸、松前丸を投入して1989年3月に運行を再開した。
本船は旧津軽丸型を一回り小さくし近代化させたような雰囲気をしており座席区分も旧津軽丸型と同じである。ただし座席は100系新幹線のものをベースにしたものになっていたり、車椅子用の設備が用意されているなどと時代に合わせた改善点がいくつもある。
なお本航路は2000年4月にJR北海道カーフェリーとして分社化されている。
303:名無し野電車区
12/12/12 22:53:16.70 yqZkJa/w0
コキ108
JR貨物が試作した120キロ運転対応コンテナ車。
構造はMc250系のT260形に似ている。
基礎ブレーキ装置をディスクブレーキと踏面ブレーキの併用とし、ブレーキを強化することで120キロ運転に対応。
また台車がコキ10000形以来の空気ばね台車となった。
貨車では前例のない電気指令式ブレーキを採用したため、牽引機関車が限定される(EF200・EF210・EF510・EH200・EH500・EH800・DF200、それ以外の機関車でも非常時に牽引可能なように自動空気ブレーキを併設しているが最高速度が110キロになる)。
304:名無し野電車区
12/12/13 19:09:35.93 gi7CHr1T0
JR北海道771系電車
JR北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張&低床ホーム化に伴い製作される非振り子の特急型電車。
正面のスタイルは789系(基本番台)に類似するが、車体長25m&車体幅3.4mとなり、
車輪直径は910mmに、床面高さはレール面上1300mmに、ステップ高さはレール面上550mmになり、
架線電圧は新製当初より25kV(50Hz)対応となっている。
またステンレス車体側面のビードも復活。
JR北海道773系電車
771系と同時に製作される振り子式の特急型電車。
車体幅は3.2mで、ステップ高さはレール面上550mmとなっている。
両系列ともに車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。また本州以南の在来線(狭軌のまま)にはもちろん入線できない。
305:名無し野電車区
12/12/13 22:53:07.59 uoWDZKO70
クム9000
JR貨物が開発した高速バスピギーバック輸送用貨車。
高速バスや観光バスをそのまま貨車に乗せることで乗り換えなしで目的地まで列車とバスで移動できるようにした。
しかし高さ制限から三菱ふそうエアロキングのような車高の高い2階建てバスは搭載できないのが難点だった。
DMVはバス側に鉄道用の車輪を搭載する必要があるが高速バスピギーバック輸送なら無改造でそのまま貨車に積載可能である。
306:名無し野電車区
12/12/14 16:31:25.77 ot4lB/r2O
クム2000 85000
平成5年にピギーバック輸送は効率の悪さなどから輸送を廃止にする線が高まった。
そこでJR貨物はトラックではなく乗用車を函館近辺にダイレクトに運べる利点を
生かして時間がかかるフェリーに対抗すべく青函間を乗用車を行き来する
輸送に切り替えるべく、既存のクム1000 80000双方を改造したもので、
2形式で18両ずつ36両が改造された。
輸送は単独または高速貨物列車の後部に5~7両を連結して輸送する。
運用は青森(タ)~五稜郭間である。
牽引はED79型又はEH500(将来的にはEH800型も加わる)又は輸送専用に青函ATCを
追加装着したDF200型を用いる。
国産及び輸入の普通乗用車及びSUV RV車 ミニバン ワゴン車 ライトバン系なら
2台、軽自動車なら3台積載可能で、1~2t積みの普通トラックや最大2~3t
積みロング又は4tトラック1台まで積載可能。
(但しパネルバントラックは不可)
人員は積載された乗用車の車内に乗ったまま輸送。
費用は運転手分の青森~五稜郭間の普通運賃と積載する車により料金が変わる。
軽自動車\2800
1500CC以下\3500
1500CC以上3000CC以下\4200
それ以上 ミニバン RV車など\4500
2tまでのトラック\7350
2t以上4t以下のトラック\8400
冬季は荒天などで欠航する青函間のフェリーが多く、確実に輸送できる貨物列車による
マイカー輸送は対フェリーの切り札として登場したためにフェリー会社は危機感を強め、
東日本フェリーは高速フェリー「ナッチャン」を新造で3隻投入したが、
かえって逆に経営を傾けさせるだけで結果的に破綻に追い込ませた。
瀬戸大橋線にも倉敷から高松や松山で使う計画だったが、これは見送られた。
307:名無し野電車区
12/12/14 19:35:50.78 W826IFs30
>>282は561系。
>>88
683系は交直両用電車なので木曽地区の狭小トンネルを走れないよ。
308:名無し野電車区
12/12/14 19:45:04.21 CgYFnGnq0
新規姉妹スレ立ち上げ
タイトル: 【JR北海道】キハ281・283系気動車 廃車への道のり
309:名無し野電車区
12/12/14 20:02:38.11 kg5BS+Tz0
>>302
廃止する頃に青函連絡船を何隻か残すって検討はしたらしいが、採算が合わないってことでやめたそうだ。
310:名無し野電車区
12/12/14 20:11:04.32 RwxOTRpg0
>>305
クム90000
JR貨物が開発したクム9000の改良版。
バスタブ型台枠を採用することでエアロキングを搭載できるように改良した。
しかしエアロキングは全高が3.8mもあるためにエアサスをパンクさせて車高を下げる必要があるのと架線と接触する可能性があることから中央本線に入線出来ないのが難点である。
311:名無し野電車区
12/12/14 21:34:56.11 tc/CCYjB0
京都市営地下鉄10系「スーパーマリオブラザーズ塗装」
2016年に地下鉄開業35周年を迎える京都市営地下鉄は、35周年の記念イベントとして烏丸線に任天堂の看板キャラクター「スーパーマリオブラザーズ」の塗装を施した車両を運行することを決定した。
スーパーマリオの起用の背景としては、
・国際観光都市である京都にふさわしい、世界的に知名度の高いキャラクターであること
・特定の年齢層・国だけではなく、世界中で愛されているキャラクターであること
・任天堂が京都を代表する企業の一つであること
・(飽くまで噂レベルでしか無いが)担当者がスーパーマリオブラザーズのファンであったとされる
などがあったと言われている。
6両編成の各車両が初代「スーパーマリオ」の地上ステージ・地下ステージ・水中ステージ・アスレチックステージ・空中ステージ・城ステージをモチーフとした塗装を施され、
車内も座席のモケットが同シリーズのアイテムである「スーパーキノコ」を意識した赤字に白の水玉模様の入ったもの(優先席は緑地に白の水玉模様)に変更された。
車内情報装置のプログラムも変更され、駅名表示などの前後に同シリーズのアイテム(スーパーキノコ、ファイアフラワーなど)の絵が表示されるようになった。
なお、京都市営地下鉄への直通運転を行う近鉄及び京阪も、任天堂のゲームソフトをモチーフとしたデザインを採用した列車を登場させている。
312:名無し野電車区
12/12/15 04:51:50.72 WigsoLBdO
>>311
京王電鉄9000系 小田急電鉄新4000形 「サンリオキャラクタートレイン」
多摩センターにある全天候型テーマパークであるサンリオピューロランドを
最寄り駅とする小田急と京王が開園から間もなく25年を迎えるために、
サンリオキャラクターの列車を走らせようと言うことになった。
しかしキャラクターは京王と小田急とは別れた。
京王はドアの注意喚起にも使われているハローキティとキキとララを採用し、 小田急はマイメロディとけろけろけろっぴをキャラクターに採用した。
小田急は前面もマイメロにモチーフとしたものとなり、綾瀬方はマイメロのピンクで
唐木田方はクロミの黒色となった。
座席のモケットは京王が白色にハローキティ又はキキとララのイラスト 小田急は
同じく白色にマイメロ クロミ けろっぴのイラストとなる。
車内情報装置も京王はハローキティ 小田急はマイメロのキャラクターが登場する。
また小田急はマイメロに合わせて車内がピンク色を主体としたものとなった。
(当初予定されていたクロミをイメージした黒色の車内はさすがに見送られた)
また京王は側面のLED幕にもハローキティ等のキャラクターが出る。
両者とも小田急は多磨急行を京王は都営線直通の相模原線急行に主体に使われるが、
特に京王は相模原線だけでなく京王線にも充当されるため、京王八王子行きや
高尾山口行きの準特急などにも普通に充当されている。
小田急も全編成10両で運転する急行に充当されることがあり、マイメロ電車が
ついに片瀬江ノ島や小田原まで入ってきたと2chの小田急スレで入っている。
いよいよ箱根湯本か?と書き込みめ高まっているらしい。
313:名無し野電車区
12/12/15 13:20:11.87 h5f738fT0
>>311
京都市営地下鉄100系「けいおん!塗装」
2081年に地下鉄開業100周年を迎える京都市営地下鉄は、100周年の記念イベントとして50年ぶりに新造した烏丸線の車両100系に京都アニメーションの看板キャラクター「けいおん!」の塗装を施した車両を運行することを決定した。
けいおん!の起用の背景としては、
・国際観光都市である京都にふさわしい、世界的に知名度の高いキャラクターであること
・特定の年齢層・国だけではなく、世界中で愛されているキャラクターであること
・京都アニメーションが京都を代表する企業の一つであること
・(飽くまで噂レベルでしか無いが)担当者がけいおん!のファンであったとされる
などがあったと言われている。
4両編成の各車両が初代「けいおん!」の主役である平沢唯、秋山澪、田井中律、琴吹紬をモチーフとした塗装を施され、
車内も座席のモケットが同シリーズの衣装である「制服」を意識した紺色の背もたれに灰色のシートカバー模様(優先席は夏服にあわせ白色の背もたれに灰色のシートカバー)に変更された。
車内情報装置のプログラムも変更され、駅名表示などの前後に同シリーズのアイテム(ギター・カスタネットなど)の絵が表示されるようになった。
なお、京都市営地下鉄への直通運転を行う近鉄及び京阪も、京都アニメーションのアニメ作品をモチーフとしたデザインを採用した列車を登場させている。
314:anorak?
12/12/15 19:13:58.68 veh4VamK0
>>284書き直し
◎国鉄HD40形ラックレール対応ディーゼル・電気両用機関車
○1960年代に首都圏と北陸の短絡ルートとして信飛線(塩尻~新島々~安房峠~神岡~飛騨古川)及び
白山線(角川~白川郷~三方岩岳~白山下~鶴来~寺井)が着工、80年開業。
一部並行の北陸鉄道の路線は廃止。
飛騨山脈(北アルプス)及び白山山地の横断は火山帯なので長大トンネルは難工事が予想され、
建設費と工期抑制の為に安房峠及び三方岩岳を地形に沿って越えるルートを採用。
故に両峠越えは箱根登山鉄道並の最大80‰の急勾配区間となり、粘着運転のみでは豪雪時に空転多発が危惧されるので
ラックレールを敷設、昔の碓氷峠のアプト式では無く、構造が単純なフォン・ロール(Lamella)式。
両路線では長い連続急勾配の存在で動力車に高粘着性能を要求されるので且つ秘境での給電諸経費削減に、
両路線に挟まれた高山本線飛騨古川・角川間と共に交流20kV60Hzで電化。
当ルート用にED42以来のラックレール対応機関車となるHD40が新造された。
直流電化の塩尻駅構内に乗り入れるが、交流電化の利点を最大限活かす為に、なお且つ急勾配での停電時に備え、
サイリスタ連続位相制御の交流電機にディーゼルエンジンとブラシレス交流発電機も搭載した、
電気式ディーゼル機関車とのハイブリッドとした。
形式称号の動力種表記はH、4x番は特殊機。
交流通電架線下以外での走行はELではなくDLモードで、DLモードの性能はELモードの半分。
車長20m弱のデッキ付き箱形車体。
軸配置はラックレールに噛み合う歯車(ピニオン)をzとしてB-1zz1-Bと、三つの台車の内、中間台車が歯車専用。
主電動機は動輪用に四つ、歯車用が二つ。
保安装置はEF63/71を踏襲し、ブレーキはELモード専用の回生、発電、電磁吸着ブレーキなど。
ラッセルヘッドかロータリーヘッドを接合し当ルートの除雪も行う。
電車牽引用双頭連結器。客車用EG。
ラックレールも含む40‰以上の急勾配区間では、原則、列車の前後共に当機を連結しプッシュプル運転。
当区間を通過する車両は連結器強化等の横軽対策と同様のを要する。
78年に試作車登場、80年に塩尻・寺井間で就役。
87年にJR東海に当ルートの塩尻・白山下間と共に承継。
数年後にラックレールから鉄輪式リニアモーターカーへの切り替えで引退予定。
315:名無し野電車区
12/12/21 13:36:26.93 nKeBzHD70
国鉄103系電車
国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、
経済性を最重視して設計され、1959年(昭和34年)10月から1983年(昭和58年)1月までの23年間に、
総計3468両を製造、国鉄通勤電車初の新製冷房車として製造された電車でもある。
基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系電車を基に、おおむね踏襲している。
切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け、
車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・直巻整流子電動機を用いた、
抵抗制御・MM'ユニット方式で、国鉄初のディスクブレーキ付き台車を付属車に採用した。
国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを、
前提として設計されているが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて、
高速特性を近郊形電車の111系並に設定している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hで有り、
よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、
駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められる、
ケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造を、
高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策などを施して改善した車両も存在した。
なお、最初の投入先が山手線であったことから一部の雑誌執筆者からは駅間距離が短い山手線専用形式と、
言われたこともあったが、当時の関係者によって完全に否定されている。最高速度は100km/hと、
なっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく実用95km/h程度である
本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)東西線乗入用のアルミ製車両である、
301系電車の基本となったほか、地方長距離路線用の4扉セミクロスシートの107系電車にも応用された。
316:名無し野電車区
12/12/21 13:39:26.16 nKeBzHD70
標準形通勤電車の設計
101系電車の失敗が確実となった1955年(昭和30年)を境に、首都圏の通勤事情は年々悪化、翌年の、
1956年(昭和31年)1月には中央線の朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、
「交通地獄」の様相を呈して来ていて、この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系電車を、
6M4Tの10両編成で投入を開始したが、101系電車の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに、
電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える、
必要があり、同線を走っていた旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系電車は両開きドアで、
あることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に、
回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系電車の設計がまとまるまでの間、
中央線用に設計された101系電車を性能的に適さない山手線や総武線などに増備せざるを得なかったのは、
待ったなしのラッシュ輸送改善のためであり、101系電車を入れても新性能電車投入のスピードアップ、
などの効果が薄いため、これら通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低コストで大量に量産しうる、
新形通勤電車が必要となり、101系電車では当初全M車編成で3.2km/h/sという高い加速度が目標とされたが、
変電能力と架線温度で6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になり、新形通勤電車の、
投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区を検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが、
明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での、
運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、
これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0km/h/s程度の、
加速度にとどめ、むしろ3.5km/h/sという減速度を目指す、新通勤電車の形式は103系電車となった。
317:名無し野電車区
12/12/21 14:07:42.82 nKeBzHD70
車体の設計
車体は101系電車をベースにしているがいくつか変更点が有り、前面窓がHゴム支持の3枚つづりとなり、
運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小した。
運転台機器は視認性を重視したメーター類配置、操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられた、
マスコン・ブレーキハンドル・運転士座席、扱いやすさの観点から多用するスイッチ類を制御卓に集約、
正面行先表示器の拡大と電動化、後位側面に電動行先表示器(方向幕)を設置、その下の側窓は下段上昇、
上段下降式に変更、行先表示器指令器と冷房制御盤を運転室背後の客室仕切板に設置したことで、
運転室背後の客室仕切中央の窓を2枚とも廃止、客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、
その下の妻窓上段を固定化、居住性の改善目的で、座面拡張と蛍光灯の増設を実施、電動空気圧縮機を、
2倍の能力があるC2000形とし、三菱電機製の集中冷房装置AU60系が搭載が決定され、
冷房電力供給用電動発電機 (MG) は制御・補助回路兼用としつつ、自車を含め4両まで、
一括給電可能な出力 (160kVA) の物をモハ102形に集約搭載、終着駅での折返しで、
長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設。
318:名無し野電車区
12/12/21 14:10:21.07 nKeBzHD70
走行装置
103系通勤電車用として、端子電圧375VのMT56が設計されたが、想定される速度域や消費電力量などを、
考慮して全界磁定格回転数は1250rpmで103系電車に搭載した場合の定格速度は33.5km/hという、
中速形の電動機となり、高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で、
最大限弱めることとし、弱め界磁率を35%と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時における、
RMS電流を1時間定格の80%、回復余力を10%と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、
主電動機出力は120kWとした。定格速度は38.5km/hとなり、定格回転数は1420rpmとなった。
これは定格速度が低く、実際の運転では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85%界磁上において、
バランスをとっている。また最大許容端子電圧をMT54などの750Vではなく900Vまでにしたことで、
電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。
台車
試作車の台車は電動車がDT21形の派生形式であるDT26C形、付随車がTR62X形で、
量産車は電動車がDT33形、付随車がTR212形で、このTR212形は車輪間にディスクブレーキを、
装着した形式で、国鉄車輌初のディスクブレーキ装着車となった。
319:名無し野電車区
12/12/21 14:14:13.88 nKeBzHD70
0番代
1959年(昭和34年)から1983年(昭和58年)まで製造された、103系の基本形式である。
非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。
製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。
基本形式
モハ103形0番代 (M)
モハ102形、クモハ102形とユニットを組む電動車で、パンタグラフと主制御器を搭載する。
モハ102形0番代 (M')
モハ103形とユニットを組む電動車で、電動発電機と空気圧縮機を搭載する。
クハ103形0番代 (Tc)
制御車。車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。
サハ103形0番代 (T)
運転台のない付随車。
クモハ102形0番代 (Mc')
モハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機を搭載する。
常磐線上野駅-取手駅間の付属編成用として1967年(昭和42年)9月から1970年(昭和45年)に、
偶数向き専用で新造され、後年は改造編入車を含んだ。
320:名無し野電車区
12/12/21 14:23:09.90 nKeBzHD70
1960年-1964年製造車
モハ103:1-220・モハ102:1-220・クハ103:1-98・サハ103:1-188が該当する最初の量産車グループ。
山手線向けを皮切に、1962年(昭和37年)に京浜東北線や中央線など順次首都圏各線区へ導入された。
試作編成に存在しなかったサハ103形が追加された。山手線に先行投入されていた試作車は、
のちにこのグループに合わせた仕様に改造されている。
1964年-1970年製造車
上記に続いて製造された量産車グループで、モハ103:221-336・モハ102:221-336・クハ103:99-158、
サハ103:189-268・クモハ102:1-117が該当する。本グループの1967年(昭和42年)度から、
1970年-1974年製造車
モハ103:337-429・モハ102-337-429・クハ103-159-226・サハ103-269-362が該当。これまでの運用で、
表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから、俗に「1次改良車」とも呼ばれる。
変更点は客室窓をユニットサッシに変更、クハ103形の前照灯を新造時からシールドビーム2灯に変更、
モハ103形の主制御器をCS20A形からCS20D形に改良などが行われた。
1974年-1981年製造車
モハ103:430-856・モハ102:430-856・クハ103:226-426・サハ103-362-576が該当する。
本グループでは、クハ103形に一部設計変更が実施され、山手線・京浜東北線ATC化のため準備工事を施工。
運転台後部にATC装置(ATC-6形)搭載のため機器室を設置、同部分の戸袋窓を廃止、
前面窓ガラスにデフロスタを取付(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去)、
2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設、車内を地下鉄乗入車と同じA-A基準に準拠、
ブレーキ弁がME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更。
後に中央快速線や総武線などのATC非設置線区にも投入されることになり、対応するクハ103:277-426は、
ATC関連を非装備で製造され、ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME48形ブレーキ弁装備で落成した。
1981年-1983年製造車
モハ103:856-1216・モハ102:858-1216・クハ103:426-512・サハ103:576-692が該当する。
321:名無し野電車区
12/12/21 14:37:55.32 nKeBzHD70
0番代の投入先
1958年(昭和33年)6月に国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などが議論、同年10月の常務会にて、
新形通勤103系電車の投入線区は山手線を始め、京浜東北線・中央線・総武緩行線の4線に決定された。
1966年(昭和41年)7月には常磐線への投入も決定、101系電車による15両編成化を考慮して、
新形式クモハ102形の設計と新造を決定した。
山手線
1960年(昭和35年)4月1日から黄緑6号1色に塗られた10両貫通編成が品川電車区と池袋電車区に配備、
翌月の5月1日から営業運転を開始、5月以降も品川電車区や新設の田端電車区に配備されていき、
黄緑6号1色は乗客から「ウグイス色」と呼ばれ、1970年(昭和45年)3月31日に同線から、
同じ黄緑6号1色に塗られた40系電車が引退、同年4月1日に山手線は完全103系電車化となった。
山手線初の通勤電車10両貫通編成
1952年(昭和27年)10月1日のダイヤ改正において、山手線は40系電車による10両編成化が実現したが、
当時は検修施設の関係で基本6両編成+付属4両編成となっており、40系電車クモハ41形電車の前面は、
半流非貫通型が多く、数が少ない半流貫通型でも幌を装備して無い関係から、先頭車同士の場合、
基本編成から付属編成への通り抜けは不可能となっていた。1960年(昭和35年)5月1日から、
103系電車10両貫通編成が投入されると、山手線初の貫通編成となり、これは通勤形電車では初めての事で、
運転中に余分な運転台がない分だけ定員数が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。
322:名無し野電車区
12/12/21 14:41:13.01 nKeBzHD70
京浜東北線
1962年(昭和37年)2月1日から青22号1色に塗られた基本6両編成+付属4両編成の10両編成が、
下十条電車区と蒲田電車区に配置、その後も順次配置、1964年(昭和39年)に検修施設の問題を、
改修すると同時に10両貫通編成を配置、1972年(昭和47年)6月30日に同線から同じ青22号1色の、
40系電車が引退、同年7月1日に103系電車化が達成される。
中央線
1962年(昭和37年)から朱1号1色に塗られた10両貫通編成が三鷹電車区に配置、快速電車に投入され、
その後も順次配置、1966年(昭和41年)には新設された豊田電車区に配置されたが、中央線の配置は、
1970年(昭和45年)に終了、最終的に10両貫通8本、基本6両編成+付属4両編成4本の配置で終った。
総武線
1963年(昭和38年)に黄色1号1色に塗られた10両貫通編成が三鷹電車区と津田沼電車区に配置されたが、
総武線には101系電車が大量に配置されていたことで、103系電車の配置は1970年(昭和45年)までに、
10両貫通編成6本、基本6両編成+付属4両編成6本の配置で終った。
首都4線以外の投入
増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも本系列が投入され始めた。
323:名無し野電車区
12/12/21 14:46:47.62 nKeBzHD70
阪和線
阪和線の天王寺駅-鳳駅間は朝ラッシュ時の混雑が1964年(昭和39年)4月に319%となっていた。
このような状況において、さらに鳳以南では1968年(昭和43年)度までに26,000戸の住宅開発と、
都市開発が予定されており、このような状況下、早晩にラッシュ対策に追われる事が予想され、
1964年(昭和39年)7月から快速列車の一部に6M2Tの103系電車8両編成を投入した。
快速のスピードアップが図られることで、電動車6両に制御車2両の強力編成となり、
東和歌山駅(現在の和歌山)-天王寺駅間で通勤時間帯8分、日中6分の時間短縮が行われた。
103系電車は山手線や京浜東北線という緩行線用に、これまで使用しており、快速用として、
使用するのは、このときが初めてである。
常磐線
常磐線は上野駅-取手駅間は40系電車による10両編成化を1956年(昭和31年)に達成し、
1959年(昭和34年)には101系電車が投入、1961年(昭和36年)10月のダイヤ改正後から朝夕ラッシュのみ、
101系電車による15両編成化されたが、1964年(昭和39年)10月には1時間の混雑率270%で、首都圏でも、
最も混雑する路線となった。そこで同線増強のため、101系電車を捻出して、103系電車を投入する、
計画が持ち上がるが、当時103系電車は山手線、京浜東北線、中央線、総武線の4通勤路線に集中配置が、
続けられてる状況で多線に投入する余裕が無く、先送りの状態だったが、1966年(昭和41年)4月には、
混雑率300%を越え、京阪神緩行線と同じくお手上げ状態になるのが予想されたことで、国鉄本社でも問題化、
7月の常務会で常磐線に新型103系電車の配置を決定、1967年(昭和42年)に3月に10両貫通編成が、
松戸電車区に配置、4月1日から運用開始、7月から付属4両編成を併結した14両編成で配置、運用された。
1968年(昭和43年)の3月以降の配置から付属編成が新形式クモハ102形を含めた付属5両編成となり、
朝夕ラッシュ時にも101系電車と車輌数が合う15両編成で同年4月1日から運用、それ以前に配置された、
14両編成とともに常磐線の主力として使用され、101系電車が同線から撤退した1975年(昭和50年)に、
常磐線の103系電車化が達成される。
324:名無し野電車区
12/12/21 14:52:39.26 nKeBzHD70
京阪神緩行線
1962年(昭和37年)に入ると京阪神緩行線が通勤路線へ変貌したことを受けて、大阪鉄道管理局では、
通勤型103系電車の投入を検討していた。この背景には前年の昭和36年12月には朝ラッシュ時、
30分あたりの混雑率は、東淀川駅→大阪駅間で普通電車が303%、快速電車が294%、塚本駅→大阪駅間で、
普通電車が282%、快速電車が333%となっており、平均的にラッシュ時は300%の混雑率を記録し、
昭和37年度電車転属要求会議において大阪緩行新形式電車取替用として318両の要求をしている。
しかし、当時のラッシュ時の近距離快速電車の編成は15分間隔で8両-10両編成であり、国鉄本社は、
快速増発のために新形式が必要というのであれば、むしろ増発せずに増結すれば良いとの意見などもあり、
大鉄の高性能電車については今後の課題として体良く却下されている。
当時、関東首都圏でも軒並みラッシュ時は200%の混雑率を記録、山手線、京浜東北線を始めとする、
重通勤路線、東海道線や横須賀線などの長中距離路線でも慢性的な混雑から車輌を転用することは、
難しいと判断、103系電車投入で、余剰があった40系電車を関東から京阪神緩行線に転用していた。
転用された40系電車ではラッシュ時の輸送力では抜群の威力を発揮するが、昼間時の着席サービスが、
犠牲になることから大阪鉄道管理局は何とかして3扉クロスシートの京阪神緩行線を維持しようとしたが、
ラッシュ時には300%近い乗車率で、超満員の乗客でドアガラスが破損するなど、もはやお手上げの状態で、
3扉クロスシート車を主眼としていた大阪鉄道管理局の方針、根本が覆る状態となっていた。
325:名無し野電車区
12/12/21 14:55:29.58 nKeBzHD70
この頃から大阪鉄道管理局の考え方にも柔軟性が出てきて、着席サービスより輸送能力重視に変更、
40系電車の転入を積極的に受け入れるとともに、新型103系電車の配置を国鉄本社に要求、
爆発的な通勤需要の伸びを見せる東京圏の配置を優先した結果、京阪神緩行線は待たされ続けたが、
1967年(昭和43年)に入ると国鉄本社でも京阪神緩行線の投入を先送りにしていると、
1970年(昭和45年)の大阪万博開催に間に合わない状況になる懸念が出たことで、同年5月14日から、
明石電車区と宮原電車区に10両編成の103系電車が配置され始め、同線の35系電車、70系電車を、
新潟地区の長岡運転所に転出させ、2年後の1696年(昭和44年)2月までに両電車区に、
18編成180両が勢揃いして万博輸送に当たることとなり、乗客からは冷房付きで好評だった。
中央本線名古屋地区
1974年(昭和49年)から中央西線名古屋地区に投入され、神領電車区(現在の神領車両区)に配置、
投入分は1974年度からのATC非装備の新造分と、ATC対応車の投入で山手線・京浜東北線から捻出された、
初期製造車編成の2つに分かれ、どちらも塗装は青22号1色となり、投入時に以下の改造を施工、
前面窓ガラスにデフロスタを取付(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去)、
2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設、先頭車側面にサボ(行先方向板)受けの設置、
サボを使う関係で方向幕の使用は行わず、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などの、
ステッカー貼付による固定表示とされ、運用は10両貫通編成とされていたが、京浜東北線からの転入車は、
基本6両編成+付属4両編成のままで運用された。
326:名無し野電車区
12/12/21 15:00:18.00 nKeBzHD70
横浜線
1974年(昭和49年)6月から東神奈川電車区に1980年度新造分の7両編成が配置され始め、
翌年にも7両編成3本が配置され、1979年(昭和54年)3月までに7両編成12本を配置、
同年9月30日に40系電車が同線から引退、103系電車化が完了した。
南武線
1981年(昭和56年)6月から中原電車区に1981年度新造分の6両編成が配置、
1983年(昭和58年)度末までに6両編成8本が配置された。
327:名無し野電車区
12/12/21 15:15:14.90 /AHJCmGd0
長文はご遠慮ください。
このスレは毎回のように512kBを超えているし。
328:名無し野電車区
12/12/22 08:49:07.99 cFsKrri30
試作車
1959年(昭和34年)に先行試作車として新造された車両で、山手線用に4両編成2本が製造された。
量産車との相違点は台車が、DT26C形(電動車)・TR62X形(付随車)を装着、製造当時の車両番号は、
ウグイス色の地に白文字(量産車は黒文字)で、当初は1-を称していたが、
1960年(昭和35年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された。
モハ103:1-2・モハ102:1-2 → モハ103:901-902・モハ102:901-902
クハ103:1-4 → クハ103:901-904
1962年(昭和37年)12月に量産車化改造が施工された後は山手線から中央線に転用、4両編成のまま、
900番代と併結用に新造された0番代6両編成に併結されて10両編成で運用、最終配置は豊田電車区で、
老朽化により1992年(平成4年)に全車廃車となった。
改造工事
1974年(昭和49年)から1980年(昭和55年)までに山手線・京浜東北線に配置されたいた、
半数のクハ103形運転台後部にATC装置を搭載する改造が行われ、同部分の戸袋窓は、
内側だけ板で塞がれていた。この改造は財政事情を軽減する目的で新造車より改造車の方が、
コスト削減になることから実施され、改造対象外の編成は捻出され、他線区に転出させた。
改造対象編成はランダムに選ばれて、1964年(昭和39年)度から1970年(昭和45年)度製造車が多く、
山手線の改造対象車のうち2編成は1960年(昭和35年)度から1964年(昭和39年)度製造だった。
また、1975年(昭和50年)頃から、1970年度まで製造されたクハ103形0番代は白熱1灯の前照灯を、
シールドビーム2灯化する改造も行われた。