架空の車両形式・番台スレ 20次車at RAIL
架空の車両形式・番台スレ 20次車 - 暇つぶし2ch215:名無し野電車区
12/11/27 14:58:37.53 elbJlIKi0
車体塗色
60系電車の横須賀線向けに登場した車両は、横須賀線に投入された80系電車と同じ、
窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号の塗り分けられた横須賀色(スカ色)で登場、
すぐに東海道線用の窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けた「湘南色」でも登場、
先頭車の塗り分けも80系電車と同じ「金太郎塗」で塗り分けられたが、製造年によって、
多少の違いが有り、アールの角度がキツイのと、そうで無いのとで分かれていた。
なお1964年(昭和39年)以降、東海道線東京口で運用されていた車輌も、多線に転出後は、
多くがスカ色に変更されたのが多く、廃車まで湘南色で運用されたのは極僅かだった。

横須賀線での運用
1952年(昭和27年)2月に窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号に塗り分けたモハ60形が6両、
モハ61形が6両、クハ66形が4両、サハ67形が8両の合計24両が横須賀線用として固定12両編成2本で、
田町電車区へ配備され、同年中に12両編成6本を配備、それまで横須賀線の主役であった32系電車の、
置き換えを開始、60系電車は戦後横須賀線の主力となり、輸送力の増強に寄与、60系電車の増備に伴って、
横須賀線のダイヤと設備面も全面整備され、同年9月から東京-大船間の東海道線共用路線を分離、
品川-横浜間は品鶴貨物線を通り、横浜駅ホームの2面4線の増設、終日15分ヘッドを基準ダイヤ設定、
東京-横須賀間のホーム長が16両停車可能になったことで、車両面でも基本編成12両に付属編成4両を連結、
最長16連での運転を開始、60系電車の増備とともに、順調に輸送力の強化に努めてきた。
その一方で、横須賀駅-久里浜駅間は輸送需要が格段に落ちることから横須賀駅以南は付属編成4連による、
現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。

216:名無し野電車区
12/11/27 15:06:19.51 elbJlIKi0
東海道線での運用
1952年(昭和27年)2月に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けたモハ60形が16両、
モハ61形が16両、クハ66形が16両、サハ67形が8両、サロ65形8両の合計48両が東海道線用として、
田町電車区へ配備、下り方から4両目と5両目に東海道線専用で設計された二等車サロ65形を2両組み込み、
基本12両編成と付属4両編成の最長16両編成で運行、電気機関車牽引の客車列車を始め、少数残っていた、
17m級車体の12系電車を始め、32系電車の置換え開始、こちらは運用当初、沿線需要に対して4扉車では、
過剰とも思える車輌配置だったが、沿線の宅地化による人口の爆発的増加で、すぐに需要を満たす、
車輌配置となり、同年9月には東京-大船間が横須賀線との共用路線を分離したことで、
ダイヤパターンも終日15分ヘッドに変更、現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。

山スカの登場
中央東線は戦前から甲府まで電化、17m3扉のクモハ11形400番代の4両編成で運行されていて、
1950年(昭和25年)には富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗り入れ運行用に、
80系電車8両編成で投入したが、桜木町事故後、狭小トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、
屋根高さを低く抑えた専用の形式が求められたことで、80系電車の投入を一時中止、応急対策として、
クモハ11形400番代4両編成2本のパンタグラフ部分を低屋根改造して同区間に運用投入してたが、
17m級車体では見劣りすることから新たにモハ80形のパンタグラフ部分を低屋根化した、
モハ80形800番代4両を新造、固定8両編成2本による準急「富士五湖」として河口湖乗り入れを再開、
当時の中央東線はダイヤに余裕があることから、臨時列車が増発しやすく、年々、行楽用の臨時列車や、
「自然科学電車」という遠足用の団体臨時列車の運行本数が増加していったことで、
1952年(昭和27年)に60系電車の投入が決定、投入にあたり電動車のパンタグラフ部分を低屋根化、
歯車比は勾配区間の為、高速性能より登坂力に配慮した40系電車と同一の1:2.87とされ、
モハ60形800番代18両、モハ61形800番代18両、クハ66形28両、サハ67形8両の固定8両編成4本、
固定4両編成10本が横須賀色で投入され、「山スカ」の愛称で親しまれた。

217:名無し野電車区
12/11/27 15:26:12.45 elbJlIKi0
その他の運用
1952年(昭和27年)8月、海水浴客の増加による東京-熱海間の急行「湘南」の増発で、
ピンチヒッターとしてヘッドマークを装着した60系電車が使用され、翌年にも使用された。
また1954年(昭和29年)から高崎線や上越線でのスキー臨時電車など通常とは異なる運用もあり、
スキー臨時電車は1981年(昭和56年)まで使用された。

塗色の変更
横須賀線向けに登場した車両は、32系、52系、80系電車と同じクリーム2号と青2号で塗られたが、
1956年(昭和31年)度の製造分からクリーム1号と青15号に変更、既に運用に入ってる車輌も、
順次、クリーム1号と青15号に変更されていった。

218:名無し野電車区
12/11/27 17:08:07.75 elbJlIKi0
第1次更新修繕と冷房化
1960年(昭和35年)に通勤車初の新製冷房車103系が登場すると、他形式の通勤車にも冷房化をと、
乗客から要求が多数寄せられたことで、横須賀線と東海道線の60系電車を冷房改造することが決定、
同時に更新修繕も兼ねる改造が1961年(昭和36年)から行われ、1956年(昭和31年)度製造からの、
全金属車体で製造された車輌から冷房装置を搭載されることになり、搭載する冷房装置は、
1956年(昭和31年)に40系電車で試験搭載、その後103系にも搭載された三菱電機が製造した、
集中型冷房装置AU50Tを搭載、冷房装置を搭載するにあたり車体側面の補強も行われ、
同時に車内のアルミデコラ化粧板を交換、床のリノリウムも交換、白熱灯照明の蛍光灯化、
座席の布地をビニルクロスから通常の青モケット張りに変更する更新修繕が行われた。

第2次更新修繕と冷房化
全金属車体の60系電車に冷房装置の搭載が始まると、冷房されて無い半鋼製車体を敬遠する利用者から、
苦情が多数寄せられたことで、1962年(昭和37年)から半鋼製車体も更新修繕と冷房改造が行われ、
全金属車体と同じ冷房装置を搭載、車内の木板を剥し、薄緑のアルミデコラ化粧板に交換、
木製床も剥され、鉄板を敷かれ、灰色のリノリウム貼りとなり、側面窓もアルミサッシに変更、
白熱灯照明も蛍光灯化、座席も青モケット張りに変更され、クハ66形の運転台窓の角枠は大井工場、
大宮工場、大船工場ではアルミサッシの角枠に変更、その上に外装に合わせた塗装がされたが、
浜松工場や名古屋工場で施工された車輌は角枠からHゴム化され、湘南フェイス非貫通2枚窓でも、
半鋼製車体は2種類の前面が登場した。

219:名無し野電車区
12/11/28 07:44:08.40 05qcGtZ2O
京成電鉄 1600形 1651~
1500形を一般用に転用して置き換えるために昭和30年に作られた1600形の追加生産車である。
この車両は吊掛ではなく750形同様のTDカルダン制御としたため、1650形と差別化された。
1651-1653 1654-1656の2連2本が最初作られ、昭和32年に1600形と同じく
付随車両1652 1655が作られて3両編成化された。
車内設備は1600形と変わらないが、成田方先頭にトイレが付いており、中間車は
売店を設けていない。
3200形に置き換えられた昭和45年に車体を210形と同一の車体に更新。
主電動機等も3300形と同一にして3連からモハ750形から抜き取ったクハ2200形
を組み入れた4両編成2本に組み替えている。
晩年は千葉線 金町線で使われて平成元年に3600形に取り替えられ廃車された。
3000形以前の青電形式が平成まで本線で生き残った唯一の形式であった。
現在モハ1651形が八千代市の京成バラ園に、モハ1654形は北総線が京成高砂まで
延長開業する平成3年に北総線矢切駅前広場に運転室部分の1/3カットモデルで保存。

220:名無し野電車区
12/11/28 08:22:08.22 xOo++CzS0
40系電車の60系電車へ改造編入
1960年(昭和35年)に4扉ロングシートの新性能103系電車が新造、首都圏通勤路線に投入されると、
40系電車の置換えが始まり、余剰となった車輌をロングシートからセミクロスシートに改造した、
60系電車編入改造が行われ、室内のロングシートを撤去して、セミクロスシートへの交換、
通風器を60系電車と同じ押込型に交換などを行い、改番編入され、編入後はモハ62形、クハ68形の他、
クモハ63形、サハ69形とバラエティーになった。この中にはパンタグラフ部分の屋根を低屋根改造、
編入したモハ62形800番代26両とクハ68形18両、サハ69形8両が中央東線用に配置され、
こちらは元40系電車だったことから「山ゲタ」の愛称で呼ばれた。

地方への進出
1966年(昭和41年)から60系電車の後継車となる4扉セミクロスシートの新性能107系電車が、
横須賀線と東海道線東京地区に少量づつ投入が始まると、60系電車の置換えが始まり、
捻出された60系電車は東北本線の上野駅-宇都宮駅、上野駅-黒磯間で準急・ローカル運用に入り、
高崎線も大宮駅-高崎駅間の運用、中央西線などに転出、それ以外だと新規電化区間の開業用や、
電化区間で運用される電機機関車牽引される客車列車の電車化に投入されるようになった。
横須賀線と東海道線東京地区は1981年(昭和56年)までに、新性能107系電車に置き換えられて全車転出、
その後は東北本線、高崎線、中央西線などで従来と変わらぬ運用を続けた。

221:名無し野電車区
12/11/28 08:24:36.79 xOo++CzS0
「山スカ」のその後
1954年(昭和29年)から8両固定編成4本が中央東線に投入、「山スカ」が増備され、
1960年代に入ると17m級電車に代り、中央東線のローカル運用にも「山スカ」グループが運用され、
中央東線は横須賀色一遍になり、急行と準急が80系電車の「山急」、臨時列車とローカル運用は、
「山スカと山ゲタ」の黄金時代を迎えた。1964年(昭和39年)8月23日に甲府駅-上諏訪駅間、
1965年(昭和40年)5月20日に塩尻駅間までの中央東線全線電化が達成、山スカの運行区間も小淵沢駅や、
塩尻駅まで運用区間を拡大、1960年代から1970年代にかけて中央東線のローカル運用主役だった、
「山スカ」は1977年(昭和52年)から投入が始まった勾配・寒冷路線用の4扉セミクロスシート車の、
新性能電車131系電車が投入されたことで、全車が広島運転所へ転出し、呉線に運用された。

中央西線
1966年(昭和41年)7月の中央西線名古屋駅-瑞浪駅間の電化に伴い、横須賀線と東海道線から、
大垣電車区に転入してきた60系電車によって同区間における電車運転を開始した。同年10月からは、
主に東海道線から転用された60系電車で浜松駅-米原駅間の電車運行を開始、客車列車を置換え、
1968年(昭和43年)には横須賀線から転入した60系電車を新設の神領電車区に移管、
同年8月に電化区間が中津川駅まで延伸されたことによって、10月のダイヤ改正後から、
中央西線の朝ラッシュ時に中津川駅-大垣駅行きの快速を設定、投入された60系電車は、
固定8両編成で運行され、横須賀線からの転入車は、編成の中間に4扉のサハ67形2両だったが、
東海道線からの転入車はサハ67形2両の編成と、格下げ車の2扉サハ75形2両の編成が在り、
同線の混雑時には4扉車と2扉車では扉数が違うために生じる不便を横須賀線と同じ乗降方式で解消、
湘南色で塗られた車輌も順次、横須賀色に塗替えられた。

222:名無し野電車区
12/11/28 08:48:16.81 xOo++CzS0
長野地区
信越本線長野地区が電化された1972年(昭和47年)にサハ75形が組込まれた8両編成を転出させると、
中央西線の60系電車は横須賀線からの転入車だけとなり、横須賀一色で染まった。
その後、沿線の開発とともに利用客の増加で、余剰となっていた4扉ロングシートの40系電車を投入、
1973年(昭和48年)中央西線全線電化に伴い、運転区間を坂下駅まで延長、1975年(昭和50年)には、
南木曽駅まで延長すると、横須賀線から余剰となった60系電車を転入させて、輸送力の増強に務めた。

両毛地区
1968年(昭和43年)の両毛線電化に際し、新前橋電車区へ3扉ロングシートの30系電車を投入、
翌年に40系電車から60系電車の改造編入車、4両編成8本を投入、一部は「房総夏ダイヤ」の、
臨時快速「富津岬」として、千葉鉄道管理局が借り入れた後に新前橋電車区へ移ったグループもある。
その後、1970年(昭和45年)の吾妻線長野原駅-大前駅間開業に伴って同線の運用の一部を受持ち、
東海道線で余剰となった付属4両編成4本を投入、両毛線の主力として運用された。

長野地区
1972年(昭和47年)3月のダイヤ改正で、中央西線から長野運転所に転入した60系電車を活用して、
信越本線長野地区を運行する普通列車の電車化を実施、60系電車の運用区間は軽井沢駅-直津江駅間で、
いわゆる「横軽越え」には投入されず、同時に投入された80系電車も湘南色から横須賀色に塗替えれ、
8両編成同士のすれ違いが見られ、妙高高原-直津江間では新潟色の70系電車との共演が見れた。
1974年(昭和49年)には、長野運転所に123系電車が増備され、普通列車用の60・80系電車を、
松本運転所に転出させたことにより、出入庫運用として篠ノ井線の松本駅まで運転区間を拡大した。

223:名無し野電車区
12/11/28 08:49:40.89 xOo++CzS0
広島地区
電化前の呉線の通勤列車は、C59形やC62形といった蒸気機関車が10両近く連結されたスハ32系や、
オハ35系を牽引する勇壮なもので、電化時に一部EF58形牽引の客車列車は残ったものの、
ローカル列車の主力は電化時の一時代用で充てられた80系電車、40系電車などで運行され、
ラッシュ時には首都圏から転入した40系電車10連で運行されるようになった。
この40系電車の多くが青20号の他、青22号(スカイブルー)、黄緑6号(ウグイス色)が多く、
朱色1号(オレンジバーミリオン色)、青緑1号(エメラルドグリーン)も含まれていたことから、
首都圏の重通勤線区を連想させる雰囲気があった。しかし40系電車のロングシートでは、
ラッシュ時の詰込みはきくものの、座席数が少ないことから、利用者の不満が出ていて、
同時に投入された80系電車に比べて大きく劣ったことで、通勤時にも一定の座席数が確保出来る、
60系電車の配置を要望したが、当時60系電車の余剰は無く、選定車輌が二転三転した結果、
40系電車から60系電車に改造編入された車輌を一時的に投入したが、数が足りないことから、
横須賀線と東海道線で余剰になるたびに随時、60系電車、80系電車を投入させていき、
1977年(昭和52年)に中央東線の「山スカ」が153系に置換えられ、呉線に大量転入したことで、
横須賀線と東海道線からの転入車を山陽本線に転出させ、「山スカ・山ゲタ」グループだけに集約され、
8両固定編成12本、4両固定編成16本を組み、広駅・呉駅 - 広島駅間の通勤列車を中心に、
呉線と山陽本線広島駅 - 小郡駅(現・新山口駅)間で運用を開始し、それまで甲州の山岳地帯を駆抜け、
甲府盆地では遠くに南アルプスや八ヶ岳の山並みを眺めて走っていた「山スカ」が、
一転して穏やかな広島湾の海岸線沿いを走ることになったが、長編成でSL時代の名撮影地の一つである、
黒瀬川橋梁を渡る姿は、C59形、C62形牽引の通勤列車とは違う迫力があった。

224:名無し野電車区
12/11/28 08:57:01.69 xOo++CzS0
先頭車化改造
地方転出の短編成化で、不足する制御車を補うため、1967年(昭和42年)にサハ67形10両に、
前位側へ切妻構造の運転台を取付け、先頭車化改造を行い、新形式のクハ67形とした。
これらの先頭車化改造車は、施工された工場によって運転窓の大きさ、前照灯の取付位置が違っており、
大井工場で施工した4両は103系電車に似た低運転窓と白熱1灯、大船工場で施工した4両は低運転窓と、
窓下の左右にそれぞれ白熱灯1灯を配し、浜松工場で施工した2両は高運転窓に窓下の左右に、
それぞれ白熱灯1灯とバリエーションが違っていた。

一等車の格下げ改造
1960年(昭和35年)7月1日に一等・二等のみの二等級制に移行、東海道線専用であったサロ65形も、
一等車に格上げされたが、地方転出後は一等車の需要が減少することから、1967年(昭和42年)から、
転出後は二等車への格下げを行い、サハ65形となった。

その他の改造
1972年(昭和47年)神領電車区に配置されていたクハ66形の前照灯をシールドビーム2灯に改造、
いわゆる「ブタ鼻」改造が行われたが、改造車は(クハ66071、66072、66075、66076)の4両のみ。

225:名無し野電車区
12/11/28 08:59:10.10 xOo++CzS0
終章と保存
60系電車の本格的な置換えは1983年(昭和58年)から始まり、東北本線・高崎線で運用されていた、
一部の車両が廃車になったほか、翌年には信越本線長野地区一部、1984年(昭和59年)2月には、
中央西線の神領電車区に所属する60系電車が107系に置換えられ、12月には全車の置換えが完了した。
12月17日に中津川駅-名古屋駅間でさよなら運転が実施されている。また、同じ時期に両毛地区、
長野地区でも全車の置換えが完了、最後に残ったのは山陽本線と呉線だけとなったが、
1986年(昭和61年)3月に131系電車の転入によって、60系電車の運用は同年4月1日をもって終了、
60系電車が初製造されて34年にわたる営業運転の歴史は終了した。

保存
東北本線で運用され、廃車となった前面が角枠のままだったクハ66形66001と66002、
モハ60形60001とモハ61001の4両編成が大宮工場で保管され、民営化後は東京総合車両センターで保管、
2007年(平成19年)10月にさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、
中央西線で廃車となったクハ66形66051、信越本線で廃車となったサハ65形65001の2両が、
2011年(平成23年)3月14日に愛知県名古屋に開館したリニア鉄道舘で保存展示、
山陽本線で廃車となったクハ66形66023と66026、モハ60形60027とモハ61形61027の4両編成が、
大阪の交通科学博物館敷地内に保存され、いずれも末期状態、冷房搭載のままだった。

226:名無し野電車区
12/11/30 00:03:38.87 BCI7FG/C0
JR東日本 E551系 交直流特急型電車
JR東日本が常磐線の特急「ひたち」の旧型車置き換えと輸送力増強用に開発した全二階建て特急電車。
常磐線では民営化直後に投入された651系による「スーパーひたち」と、485系を使用する通常の「ひたち」の2種類の特急が走っているが、485系は設備・性能の双方の面で651系に劣り(指定席券もスーパーひたちのものから先に売り切れていくという事態が続発していた)、
またバブル景気で「地方に自宅を構えて特急や新幹線で都心へ通勤する」という利用者が増えていたため、輸送力の増強を迫られていた。
これらの解決策として、全二階建て特急電車で485系を置き換えることが決定。この計画により開発・投入されたのがE551系である。
編成は10両の基本編成と、5両の付属編成で構成されている。基本編成は6M4T、付属編成は4M1T。基本編成の中間車1両はグリーン車となっている。
車体は既に誕生していた415-1901や215系の設計をもとにした、ステンレス製の全二階建て。但し先頭車の1F部分は制御装置や補機を収めた機器室となっている。
座席は回転式リクライニングシート。普通車は輸送力を重視して910mmピッチ・2-2配列、グリーン車は1160mmピッチ・1-2配列となっている。また、一部の車両は車端部に4人用セミコンパートメントを配置。
但し「シートピッチが窮屈」との苦情も少なくなかったため、後期増備車は普通車のシートピッチを970mmに拡大している。
ドアは片側2ドア。乗降時間短縮のため、特急型としては珍しく1300mm幅の両開きドアを採用した。
制御方式は255系に続きVVVFインバータ制御(日立製GTOインバータ)を採用。1C4M3郡制御(付属編成は1C4M2郡制御)とし、先頭車の床下にVVVF装置(を始めとした機器類)を集中搭載している。
主電動機はMT70(史実とは異なる)。全二階建ての巨体を130km/hで走行させるため、230kWという大容量に設定された。
駆動方式はTD方式。ギア比は1:5.65。
台車は軸梁式のボルスタレス方式。ヨーダンパとアンチローリング気候を搭載する。
起動加速度は2.5km/h/sと通勤電車並に設定。最高速度は651系と同じ130km/h。
尚、この車両の投入により、土浦~勝田間の駅も15両対応化が行われた。
同時期に増備されていた二階建て新幹線「Max」に倣い、一部で非公式ながら「Maxひたち」と呼ばれることがある。

227:名無し野電車区
12/12/03 09:25:51.10 5PBBAA640
国鉄70系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1953年(昭和28年)に製造した旧形近郊通勤形電車形式群の総称である。
当時、浜松まで電化されていた東海道線静岡地区や、その後の電化延長による名古屋地区、
関西の阪和線などの中距離通勤路線で使用するために、戦前に製造された35系電車をベースに、
セミクロスシートの3扉車として1953年(昭和28年)に開発され、1956年(昭和31年)まで半鋼製車体、
1957年(昭和32年)からは全金属車体で製造され、中間電動車モハ70形および、制御車クハ76形、
付随車サハ77形の3形式が1959年(昭和34年)までに、合計396両が製造された。

70系電車の開発は戦前製造のセミクロスシート3扉車の35系電車を始め、他系列と混結が前提で、
長距離・長編成での使用を想定していなかったことから同時期に製造されていた80系電車や、
60系電車で採用されたMM’ユニット方式は採用されず、戦前車輌と同じ1M方式で製造され、
主電動機も35系電車と同じ吊り掛け式のMT30を採用、歯車比も1:2.56で制御装置もCS-7を採用、
制御車のクハ76形が前面2枚窓の湘南フェイスで製造されている都合上、ほぼ同時期に製造されていた、
60系電車や80系電車と比較されることが多いが、実際はメカニズム面をはじめ完全に異なり、
製造・運用開始は60系電車や80系電車の方が先であるが、系列番号から勘違いされることがある。

228:名無し野電車区
12/12/03 09:30:31.90 5PBBAA640
基本形式
モハ70形0番代(70001-70142)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、1953年(昭和28年)から、
1956年(昭和31年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D6D6D2で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列7個装備、
パンタグラフは上り向きに搭載され、台車はDT17が装備された。

モハ70形200番代(70201-70246)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、1957年(昭和32年)から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、窓配置は2D6D6D2で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、戸袋窓など固定窓がHゴム化され、
天井に蛍光灯と扇風機を落成当初から設置、屋根上の通風器はグローブ型を1列7個装備、
パンタグラフは上り向きに搭載され、台車はDT20が装備。

229:名無し野電車区
12/12/03 09:32:36.71 5PBBAA640
クハ76形0番代(76001-76094)
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1953年(昭和28年)から、
1956年(昭和31年)までに半鋼製車体で新造、前面は60系電車や80系電車と同じ、運転窓が角枠となった、
2枚窓の湘南フェイスとされ、窓配置はd1D6D6D2(トイレ側は1d1D6D6D11)、両側面の第1と第2客用扉は、
後方に引かれる構造で、第3客用扉だけ前方に引かれる構造となり、乗務員扉と客用扉の間に、
在る窓は幅200mmの下段のみ上昇式開閉であり、3位側に便所を設け、便所の向い側、4位側のシートは、
クロスシートとされ、屋根上の通風器はグローブ型が1列8個並び、台車はTR48を装備。

クハ76形100番代(76101-76132)
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1957年(昭和32年)から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、前面窓がHゴム化され、戸袋窓の固定窓もHゴム化され、
窓配置はd1D6D6D2(トイレ側は1d1D6D6D11)、両側面の第3客用扉だけ前方に引かれる構造で、
乗務員扉と客用扉の間に在る窓は幅200mmの下段のみ上昇式開閉であり、3位側に便所を設け、
便所の向い側、4位側のシートはクロスシートとされた。台車は0番代と同じTR48を装備。

230:名無し野電車区
12/12/03 09:40:35.36 5PBBAA640
サハ77形0番代(77001-77050)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間付随車で、1953年(昭和28年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D6D6D2で、両側面の第1と第2客用扉は、
後方に引かれる構造で、第3客用扉だけ前方に引かれる構造となり、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列8個装備、
3位側に便所を設け、便所の向い側、4位側のシートはクロスシートで、台車はTR48を装備。

サハ77形100番代(77101-77116)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間付随車で、1957年(昭和32年)から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、窓配置は2D6D6D2で、戸袋窓など固定窓はHゴム化され、
両側面の第3客用扉だけ前方に引かれる構造で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓付、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列8個装備、3位側に便所を設け、
便所の向い側、4位側のシートはクロスシートで、台車はTR48を装備。

車体塗色
70系電車の車体塗色は窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けた「東海色」登場、
阪和線用は窓周りをクリーム3号、幕板と腰板を緑1号に塗り分けた「阪和色」、
京阪神緩行線向けには、51系電車の増備として投入されたこともあり、ぶどう色2号の一色で登場、
1964年(昭和39年)に新潟地区に転属した車両は、雪中での視認性向上のため、他の旧形電車と同様、
窓周りを黄5号、幕板と腰板を赤2号との「新潟色」と呼ばれる塗装に変更された。

231:名無し野電車区
12/12/03 09:46:32.52 5PBBAA640
東海道線静岡地区
1953年(昭和28年)3月に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けたモハ70形8両、
クハ76形8両の4両編成4本が、当初の予定どおり沼津機関区に投入されて、沼津駅-静岡駅間、
沼津駅-浜松駅間を運行、後の増備された車輌も新設された沼津第二機関区(後の沼津電車区)に配置、
蒸気機関車牽引の客車列車置換えに貢献、1957年(昭和32年)には4両編成15本の配置となり、
週末のみの運用区間で、沼津駅以東の熱海駅や小田原駅まで延長運用が行われた。
黄かん色と緑2号に塗り分けは乗客から「東海色」などと呼ばれ、この塗色を採用するにあたり、
静岡地方特産品にちなんだミカンとお茶に由来して採用、その後、国鉄は「東海色」を直流電化区間の、
近郊形3扉セミクロスシート電車における車両制式色とし、後年は地域に関係なく広く採用され、
民営化後の東海旅客鉄道(JR東海)でもコーポレートカラーとしてオレンジ色を採用、引き継がれている。

東海道線名古屋地区
1953年(昭和28年)7月21日に浜松駅-名古屋駅間が電化され、11月11日には稲沢駅間まで電化されると、
名古屋駅-静岡駅間、名古屋駅-浜松駅間を電車による運行が計画され、1954年(昭和29年)3月1日に、
窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けたモハ70形8両、クハ76形8両の4両編成4本が、
名古屋客貨車区に配置され、名古屋駅-浜松駅間の運行を始め、同年11月1日に静岡駅まで運行、
1955年(昭和30年)7月20日には米原駅間まで電化されたことで、4両編成を7両編成化する為、
モハ70形8両、サハ77形4両を配置、新たに7両編成5本を配置、7両編成9本の計63両が運用された。
1956年(昭和31年)11月19日の東海道全線電化では名古屋電車区から大垣電車区に配置換えをされ、
同じく大垣電車区に配置された32系電車4両編成を併結した11両編成で、大垣駅-名古屋駅間、
名古屋駅-浜松駅・静岡駅間などに運用された。

232:名無し野電車区
12/12/03 15:03:18.56 5PBBAA640
京阪神緩行線
1953年(昭和28年)3月にぶどう色一色のモハ70形12両、クハ76形8両、サハ77形4両の6両編成4本が、
35系電車と一緒に輸送力増強を図るという位置付けで宮原電車区に配置、車体塗装が地味なことから、
早々に利用客から「茶坊主」と呼ばれ、その後の増備は中断するが、1955年(昭和30年)から、
1957年(昭和32年)にかけて緩行電車の7両化に伴う増備が行われ、モハ70形4両配属の他、
7両編成4本が新たに配備、電動車の比率がMT比4M3Tと高かった。

京阪神緩行線に投入された70系電車を語るうえで忘れてはならないのは、代用「急電」への投入で、
1950年(昭和25年)から急電に投入された80系電車は8連編成で投入され、ラッシュ時20分ヘッド、
日中30分ヘッドで運行していた。しかし急電の予備編成は2本しかなく、京阪神沿線の発展とともに、
1954年(昭和29年)には編成不足となり、そこで編成に余裕のあった70系電車を急電に代用、
塗色はぶどう色のまま、客用ドア横に急行表示を掲出し、前面には急電の羽根型ヘッドマークを装着して、
急電運用を開始、使用された70系電車は塗色がぶどう色のままだったため、緩行電車と勘違いされて、
誤乗車が相次ぎ、乗客からの苦情が多かったことから、1955年(昭和30年)再び代用急電を運行する際、
前年の反省と秋以降の急電増発を考慮し、このときは塗色をマルーンとクリームの関西急電色に変更、
ヘッドマークを装着して運行した。前述のとおり急電の利用者は増加し、夏季運用終了後の9月1日から、
急電の終日20分ヘッド化を実施した。1956年(昭和31年)1月に入って80系電車が1編成投入され、
ようやく代用急電の任を解かれた。

233:名無し野電車区
12/12/03 15:08:24.70 5PBBAA640
阪和線
戦前から高速電車として名高い阪和線は、戦時買収私鉄の中でも他の路線とは一線を画す存在で、
戦時中の荒廃が酷く、復興には時間がかかったが、1950年(昭和25年)に京阪神間の急電を80系電車に、
置き換えたことで捻出された「流電」50系電車1次車4両編成2本と32系電車の4両編成×4本により、
新設の特急運用と従来の急行運用に投入、これらの車両は利用者から好評であり、特急や急行も、
年々増発されていったが、利用者の増加のペースも速く、50系電車1次車や32系電車の2扉では、
ラッシュ時の乗降に時間がかかるようになり、また従来の阪和社形電車も主力として運用されていたが、
1954年(昭和29年)に入ると、国鉄標準型への改造工事を更新修繕と同時に実施していたことから、
工場へ入る期間も長く、車両数は慢性的に不足していた。その一方で、阪和線と並行する南海電気鉄道が、
南海本線の特急・急行用にオール2扉車の11001系電車を投入し、阪和線に対して質的優位に立った。
同時に南海鉄道が、当時他の戦時買収私鉄各社(鶴見臨港鉄道や青梅電気鉄道など)とともに進めていた、
戦時買収線の復帰・払い下げ運動、阪和電気鉄道の旧経営陣が進めていた阪和電鉄の再興運動に加え、
南海鉄道と比較して目に見えて復興の進まない阪和線に対して苛立ちを覚えた利用者や沿線住民の一部が、
同調、大きな動きに発展する勢いがあった。国鉄としても阪和線は手放せない路線であることから、
何らかの目に見える対策が必要であり、そのために阪和線専用の新車投入を約束、新車といっても、
南海11001系電車と同じ転換クロスシートの2扉車を阪和線に投入することは、当時の国鉄では、
80系電車は急行・準急運行で手が一杯、60系電車も横須賀線や東海道線で一杯であり、
誰が見ても阪和線に投入が困難なだけでなく、なおのこと無理な話であった。

234:名無し野電車区
12/12/03 15:22:41.82 5PBBAA640
以上のような問題点やラッシュ時への対応を考慮した結果、ラッシュ時にも対応できて乗り心地や、
居住性に優れた車両ということで当時、東海道線静岡地区や名古屋地区、京阪神緩行線に配置され始めた、
70系電車の投入が決まり、第一陣の6両×4本(24両)が1955年(昭和30年)の9月から10月にかけて、
窓周りをクリーム3号、幕板と腰板を緑1号に塗り分けた通称「阪和色」で、鳳電車区へ配属され、
直ちに特急・急行を中心に運行を開始、70系電車配置による置換えで、1956年(昭和31年)4月には、
「流電」50系電車の1次車4両2本が飯田線に転出した。
戦時買収私鉄路線に国電最新鋭の新車が投入されることは、空前の出来事であり、
尚且つ6両編成化されたことによって座席数が増えたことで、「流電」50系電車や32系電車より、
快適なクロスシート、明るい阪和色とあいまって利用者から好評をもって迎えられた。
70系電車の第2陣は1957年(昭和32年)明けから年末にかけて、全金属車両の6両×5本(30両)が投入され、
従来車と合わせて6両×9本の合計54両が配属、阪和線の輸送力の増強に追われていたが、
70系電車の後継となる新性能の近郊形電車の登場まで、まだ時間がかかることが予想され、
その間にも阪和線の輸送力増強には待ったなしの状況となり、1958年(昭和33年)から中央線快速、
城東線・西成線→大阪環状線に新性能101系電車を投入、捻出した40系電車を京阪神緩行線に転入させ、
70系電車の全車を阪和線に転出させた。この時点で70系電車は東海道線静岡地区、名古屋地区、
阪和線のみとなり、阪和線での70系電車は同線の主力となり、70系電車が国電としては破天荒な、
「特急」「急行」のヘッドマークを付けて阪和線を疾走した。

235:名無し野電車区
12/12/03 15:31:43.90 5PBBAA640
1958年(昭和33年)10月1日から紀勢西線直通の気動車準急列車「きのくに」の新設に伴い、
「特急」を「快速」に、「急行」を「直行」に種別変更を実施、1962年(昭和37年)1月22日には、
阪和線の快速運用に新性能103系電車が投入されると、阪和線での70系電車天国に暗雲がたちこめ、
新潟地区の電化開業を控えた同年5月11日に転出する35系電車と一緒に70系電車の6両編成2本が、
電化応援分として長岡第二機関区に貸し出された。

更新修繕
1964年(昭和39年)から1953年(昭和28年)と1954年(昭和29年)製造車に対して、更新修繕を実施、
クハ76形の運転台窓Hゴム化、運転台窓下部への通風器取付、前面下部にタイフォン取付、
鉄窓をアルミサッシに変更、照明の蛍光灯化、座席の布地をビニルクロスからモケット張りへの変更が、
1966年(昭和41年)まで行われた。

地方への進出
阪和線へ集中配置された70系電車だったが、前述のように1962年(昭和37年)に新潟地区への、
応援分として貸し出されたが、それ以降は何事も無く、1969年(昭和44年)に60系電車の後継車、
4扉セミクロスシートの新性能107系電車の配属が決定すると、余剰となった70系電車を、
新潟地区に転出させた。また1965年(昭和40年)に東海道線静岡地区に70系電車の後継となる、
3扉セミクロスシートの新性能111系電車が投入、捻出された70系電車は電車化が急務であった、
長岡運転所や新前橋電車区に転出した。

236:名無し野電車区
12/12/03 17:09:21.34 5PBBAA640
新潟地区
1962年(昭和37年)5月20日に新潟地区上越線の新潟駅-長岡駅間が電化、電車運行されることになり、
当初は余剰があった17m級11系電車5両編成、20m級30系電車4両編成で運行を始めたが、
電化前から新潟鉄道管理局(新潟支社)としては、80系電車や60系電車の配置を国鉄本社に出していたが、
80系電車や60系電車は当時、転属させる余裕は一切無いことで、白羽の矢が立ったのが70系電車で、
沿線の発達とともに激増する乗客で捌くために阪和線へ新性能103系電車を配置、捻出した35系電車と、
貸し出し名目で70系電車の6両編成2本が長岡第二機関区に転出させた。この6両編成2本は阪和色のまま、
新潟駅-長岡駅間で一時的に運用されていたが、翌年には窓周りを黄5号、幕板と腰板を赤2号の、
「新潟色」に塗替えられ、その後も長岡運転所で使用、1963年(昭和38年)9月13日にも阪和線から、
6両編成3本が長岡運転所に転出、1965年(昭和40年)以降、新性能111系電車の投入で置換えられた、
70系電車が東海道線静岡地区から大量転入してきた。当初は新潟駅-長岡駅間だけであった運転区間も、
延長され、上越線は清水トンネルを越えて高崎駅まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津駅、
のちには妙高高原駅まで拡大した。新潟地区に転出した70系電車で特筆すべき点は、窓周りを黄5号、
幕板と腰板を赤2号の、いわゆる「新潟色」に塗装されていたことで、降雪量の少ない地域の者から見ると、
少しどぎつく見えるが、冬季における視認性の向上や、日本海側の冬の気候に打ち克つために、
明るい色を好む地域性から「新潟色」の採用に繋がった。しかし、冬季だけでなく、新緑の風景や、
越後平野の水田にも映える塗色であったことから、ローカルカラーとして定着していった。

237:名無し野電車区
12/12/04 10:08:26.76 UFhdE5dp0
両毛地区
1967年(昭和42年)6月10日に長野原線の渋川駅-長野原駅間が電化、当初は余剰となっていた、
17m級11系電車4両編成で運行していたが、9月1日から20m級車体の30系電車3両編成を転入させ運行、
1971年(昭和46年)3月7日に吾妻線に改称したとともに、東海道線静岡地区から新性能111系電車の、
置換えで捻出された70系電車4両編成3本を転入させた。当初は「東海色」のままで運用されたが、
新前橋電車区に所属する30系電車や60系電車に合わせて、横須賀色「スカ色」に塗り替えられた。
その後、大きな動きはなく、1982年(昭和57年)まで使用、吾妻線の主力として運用された。

岡山地区
1971年(昭和46年)に新性能107系電車の配備で阪和線から捻出された6両編成4本が、
山陽本線岡山地区に転属、30系電車や35系電車に混じり、ローカル運用に入り、
阪和色からぶどう色に塗替えられ、京阪神緩行線以来の「茶坊主」が復活、1979年(昭和54年)に、
東海道線静岡地区から転出して来た新性能111系電車に置換えられるまで運用された。

広島地区
1977年(昭和52年)3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月1日に「さよなら運転」を実施した後、
4両編成6本の計24両が福塩線に転入、17m級11系電車を置換えるとともに運用を開始、
阪和色のまま、同線に残る35系電車、30系電車とともに運用された。

238:名無し野電車区
12/12/04 10:13:07.22 UFhdE5dp0
終章
70系電車の本格的な置換えは1975年(昭和50年)に阪和線に新性能131系電車が投入されから始まり、
翌年には余剰となった70系電車の一部は4両編成され、東海道線の岡崎駅-新豊田駅で旅客営業開始した、
岡多線に4両編成5本が転属、1977年(昭和52年)3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月1日に、
「さよなら運転」を実施したあと、余剰廃車を除く24両が福塩線に転出した。
新潟地区では1976年(昭和51年)1月-2月にかけて日本海側を豪雪が襲った際、信越本線の新潟駅、
宮内駅間や上越線の宮内駅間-高崎駅間などで70系電車の普通列車が雪に耐え切れずに空転して、
次々とダウン、多くの普通列車が遅延や運休を余儀なくされたことで、この事態を憂慮した当時の、
新潟鉄道管理局は国鉄本社に対して70系電車の置き換えを要請、国鉄本社も当時推進していた、
地方線区近代化の一環として耐寒耐雪構造を強化した115系電車を長岡運転所に大量投入、
1978年(昭和53年)1月から4月にかけて70系電車を一気に置き換えた。この置換えと同時に、
上越線での減車化(6→5両へ)と運用も見直され、運用減となった上越線では、清水トンネルを通過して、
高崎駅までの運用が消滅している。また信越線でも毎年の豪雪と1978年(昭和53年)6月の集中豪雨による、
柏崎駅の冠水により、70系電車とともに配置されたばかりの新性能115系電車5両編成4本が水没してしまい、
信越線の新性能計画が大きくずれ、急遽休車中や留置されていた70系電車の中からMT比3M2Tの、
強力5両編成を組成して運用に投入、信越線の新性能化は翌年の1979年(昭和54年)3月になった。
1976年(昭和51年)4月26日から70系電車による運行が始まった岡多線にも新性能化の波が押し寄せ、
1980年(昭和55年)3月に111系電車に置換えられて廃車、1981年(昭和56年)11月から吾妻線も、
新性能115系電車への置換えを開始していて、翌年の1982年(昭和57年)1月までに115系電車化された。

239:名無し野電車区
12/12/04 10:15:01.72 UFhdE5dp0
このように1970年代後半から1980年代の初めに「玉突き廃車」を実施していた70系電車であったが、
最後に残ったのは福塩線だけとなった。福塩線の70系電車は阪和線からの転入車だったモハ70形200番代、
クハ76形100番代の全金属車体を主体とした4両編成6本で、阪和線時代とは異なり単線区間を、
のんびり走行していたが、置換えによって捻出された新性能111系電車の転入によって同線における運用は、
1982年(昭和57年)12月26日をもって終了、これをもって29年にわたる営業運転の歴史は終了した。

保存
広島工場内にモハ70形200番代のラストナンバー、70246とクハ76形100番代のラストナンバー、
76132が一時期、保管されていたが、のちに廃車解体され、JR関連では保存車両は存在しないが、
廃車後に民間企業が購入したサハ77111が倉庫代わりとして使用されていたが、荒廃したことで、
1997年(平成9年)に解体され、民間人が購入したクハ76123が自宅敷地内に保存されていて、
これが唯一残る70系電車となっている。

240:名無し野電車区
12/12/04 17:11:36.42 6yV0Vghh0
>>54
そのような車両は四国転用だろ。

241:名無し野電車区
12/12/04 17:16:12.00 6yV0Vghh0
オランダ鉄道113系電車
2006-2007年ごろ、JR本州3社が所有していた113系電車を1435mm化改造の上オランダに転用した。
車体塗色は湘南色のまま、主電動機もそのまま使用している。

242:anorak?
12/12/05 18:33:51.33 RqiIOLKq0
>>209に続く平行世界もの
◎国鉄131系直流近郊形電車
1982年 碓氷峠自走
○最大66.7‰の連続急勾配が在る信越本線の横川・軽井沢区間の碓氷峠越えには、補機としてEF63の二両が
全列車に連結されたが、普通列車運用の115系三両編成をEF63二両が推進・牽引するのは不経済であった。
そこで、信越線の高崎・小諸区間でのローカル列車の合理化を目的に碓氷峠を自走出来る近郊形電車が新造された。
それが131系である。
本系鉄には、最大66.7‰の急勾配区間の碓氷峠での登坂性能のみならず、他の区間にて最高120km/h走行する特急の運行の
邪魔にならない、つまり特急のスジを痛めず、変えずに済む高速性能も要求され、
なおかつ製造費と保守費低減の為に201系で実用化の電機子チョッパや界磁チョッパを採用せず、抵抗制御を採用。
これら従来の方法では相反する要求を満たす為に、つまり登坂性能には103系等の通勤形を超え、南海ズームカーや
神戸電鉄の車両に匹敵する高い歯車比を採用する一方で、115系等の国鉄標準の近郊形電車の高速性能を満たす為に
後述する規格外の大型の大出力主電動機を採用する事になった。
そのモーターは大き過ぎて、カルダン駆動方式では台車に収納出来ないので、吊り掛け駆動方式となった。
車種と標準編成は、軽井沢←クハ130(Tc')クモハ131(Mc)クモハ131(Mc)→横川。
碓氷峠走行中での故障に備え、EF63を二両一組で運用するのを踏襲し、本系列も1M方式電動車Mc二両一組で運用。
Mcに走行用の機器を集約し、パンタグラフは二基搭載し、一基は予備。全車、台車はコイルバネ。
ブレーキ系は、主力の発電ブレーキに加え、抵抗制御ではあるが磁気増幅器搭載で回生ブレーキも併設し、
特に停電時に急勾配で停車状態を維持する為の各種ブレーキへの非常電源となる大容量の蓄電池を搭載。
車体の意匠は115系に準じ、両開き三扉のセミクロスシート、Tc'に便所、冷房搭載。
1982年11月のダイヤ改正で就役開始し、碓氷峠を通過する普通列車の大半が131系に置き換えられた。
205系の登場を機に85年に界磁添加励磁制御に改造され、回生ブレーキの失効速度が下げられた。
87年JR東日本に承継。97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
2003年に新型車に置き換えられ全車廃車。

243:anorak?
12/12/05 19:00:33.21 RqiIOLKq0
>>241の訂正と追記

訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○

追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。

国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。

244:anorak?
12/12/05 19:04:15.97 RqiIOLKq0
>>242-243の訂正と追記

訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○

> >>241 × → >>242 ○

追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。

国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。

245:名無し野電車区
12/12/05 22:08:48.12 QP4oT5lo0
国鉄 ナシ21 ナシ21-100

昭和39年に登場した、2両連節構造の食堂車
通常の食堂車の調理室側を背中合わせに連結したような外見を持っている。

昭和33年に登場した20系寝台特急は「動くホテル」と呼ばれ、好評を持って迎えられていたが、
乗客から食堂車の混雑について苦情が発生していた。おりしも東京オリンピックを控え外国人観光客対策も
視野に入れて、国鉄本社営業部としても日本食堂と協議に入っていた。

当初は単純に食堂車の増結を国鉄側は提案したが、日本食堂側から従業員確保が難しいこと(1列車に14名の従業員)
混雑の大半は飲酒を伴う「居座り組」であり、回転率が悪く収益上もよろしくないことから平行線をたどっていた。
戦前のように定食時間を設定する等検討がなされたが、それはそれでトラブルの種になることから折衷案として1両は現状の
食堂営業をしつつ、もう1両を予約制のレストランとすることで決着した。
その際、厨房従業員の合理化のために厨房をできるだけ1か所にしたい、との要望と、厨房の広さの兼ね合いから連節構造として
通路の2/3を厨房直結とすることで、料理などを運ぶ専用通路として確保する構造となった。

部内では「食堂車より1両でも寝台や座席車を連結して輸送力確保すべき」との意見も上がったが、東京オリンピックに来る
外国人観光客対策も必要、とのことから導入が決定された。

レストラン車は、発車後から21時までをディナータイムとし、23時までをパブタイム営業として自由開放する形になり、外国人は
もよとより、財界人や芸能人、政治家などいわゆる上流階級の走る社交場として機能し、若いサラリーマンなどは「いつかは俺も」
という憧れの食堂車となっていた。また、一生に一度の新婚旅行客なども奮発して乗ることも多く、終始華やいだ雰囲気であった。

しかしながら、航空機の発達とともにそういった客層のブルトレ離れが進み、更に昭和47年には新系列の14系や24系などが登場
したこともあり、昭和50年10月のダイヤ改正で最後まで残っていた「あさかぜ」用の3組6両が廃車されて形式消滅した。

246:名無し野電車区
12/12/06 17:42:17.71 5kpKs8Sd0
フェラーリ新幹線
フランスのTGVをベースに、車体を真っ赤に塗り、車体各所にフェラーリ(Ferrari)のロゴが入っている。

247:名無し野電車区
12/12/06 23:09:08.61 t7clqyvk0
国鉄 747型特急用航空機

昭和50年、オイルショックの影響などにより全国新幹線網の建設が中断・延期などの憂き目にあっていた。
更に航空機の発達が追い打ちをかけて在来線長距離特急の乗客減少が続いていた。

そこで、国鉄は「建設予定の整備新幹線の代行輸送」を名目に、航空事業本部を設立し、航空輸送に乗りだすことになり
ボーイング747を導入することとなった。

羽田空港に羽田航空営業所(電略:ハタクウ)を開設し、機体には所属略称である「東ハネ」と標記された。
機体の塗装は国鉄バス風の白地に青いラインで、尾翼には大きな動輪マークと、2階席下部分に巨大なJNRマークが入った。

客室乗務員は全員男性で、チーフは「車掌長」の赤腕章を、その他の乗務員は「乗客専務」の腕章をつけ、パイロットは
「操縦士」の白腕章をつけて乗務した。なお航空機関士はそのまま「機関士」の腕章を着用していた。

国鉄分割民営化により、JRエアとして現在でも各路線に就航しているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。

248:名無し野電車区
12/12/06 23:42:57.97 zx2yA8VE0
>>247
近鉄航空 L-1011形特急用航空機
近鉄が国鉄航空事業本部に対抗して設立した「近鉄航空」の羽田-伊丹線で使用された機体。
(近鉄が航空事業に参入した理由としては、かつて構想されていた関東地区への進出計画の名残であったとも言われている)
機体は同社の特急車両と同じく、オレンジと紺色で塗装されている。

1985年頃からエコノミークラス+1000円で利用できる「デラックスシート」を装備したことでも知られているが、これが後の「アーバンライナー」のデラックスシートにつながったとも言われている。
また、日本航空の「クラスJ」はこの座席を参考にしたという説も存在する。

近鉄航空は現在は「近畿エアライン」に社名を変更し、関空/伊丹と新千歳・羽田・福岡・那覇を結ぶ路線を運航していることは周知のとおりである。

249:名無し野雷車区
12/12/07 22:15:09.21 8DKQG6jV0
まるでルフトハンザの逆バージョンだな

250:名無し野電車区
12/12/07 22:50:23.46 Rj9KUeMZ0
阪神国内航空 YS-11
近鉄航空とほぼ同時期に阪急グループが設立した「阪神国内航空」で使用されていたYS-11。
同社の設立の経緯としては、当時の阪急電鉄社長の「阪急は伊丹空港の近くも走っている、ならば空の旅にも進出してみてはどうだろうか」という考えがあったためと言われている。
機体は開業当初は阪急電鉄の車両と同じくマルーン一色で塗装されていたが、
利用者から「暗色系の機体は軍用機を思わせる」という声が出たことや、
また日光による機体温度の上昇で空調の効率が悪化するなどの理由により白地にマルーン帯に改められた。
この塗装は現在まで続いていることは周知の通りであろう。
垂直尾翼にはこれも阪急電鉄の車両と同じく、Hankyuのイニシャルである「H」を図案化したマークが描かれていた(後に阪急グループ共通のCIに変更)。

阪神国内航空の特徴として、
・「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」の考え
・開業以来一貫してターボプロップ機を使用
という点がある。
このうち「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」を実現するために、同社のYS-11はオリジナルよりも定員数の減少(64人→48人)が行われ、代わりにシートピッチの拡大やハイグレードな座席の設置などが行われている。
サービス内容に至っても、全席エコノミークラスでありながら同時期の日航・全日空のファーストクラスのそれとほぼ同等の水準であると評された。
1998年に後述する新型ターボプロップ機に置き換えられ、全機退役している。

251:名無し野電車区
12/12/07 23:16:22.17 Rj9KUeMZ0
ナニワ航空機 N-100
阪神国内航空がYS-11の後継機として導入したターボプロップ式旅客機。
先述の通り同社は開業以来一貫してターボプロップ機を使用しているが、ターボプロップ機に固執する理由としては巡航速度に於いてはジェット機に対して燃費と静粛性で有利である、短距離での離着陸が可能なために小規模な空港にも進出しやすいという実用的な理由の他に、
阪神国内航空の初代社長の「プロペラがある飛行機の方が旅のロマンを演出しやすい」という考えがあったためと言われている。
(実際、同社の宣伝では『プロペラ式の飛行機で優雅な空の旅』『速さよりもゆったりと飛んでみませんか』などの、速さよりもゆったりとした旅行をアピールするようなキャッチフレーズを幾度と無く採用している)
一方で開業以来使用されてきたYS-11形機が機体そのものの老朽化や安全装置取り付けの難しさで退役の時期を迎えたことや、48人という定員の少なさから後継機の導入が求められてきたものの、
大型旅客機市場はほとんどジェット機が占めており、今更になって"時代遅れの低速なターボプロップ式旅客機"を一社のためだけに製造するようなメーカーが現れることは無いことは明白であった。
このため、阪神国内航空の親会社である阪急電鉄は自社開発の旅客機を製造することを決断。
航空機メーカー「ナニワ航空機」を設立し、"自社仕様の旅客機"を製造することを決定した。
人員に関しては、YS-11の製造元である旧日本航空機製造のOBの採用の他に、三菱重工業や川崎重工業からの引き抜きもあったと言われている。

252:名無し野電車区
12/12/07 23:18:12.01 Rj9KUeMZ0
こうして「阪神国内航空専用機」としてロールアウトした機体がN-100である。
ネーミングは阪急電鉄のかつての名車・100系「P-6」から採用されたという説がある。
機体はボーイング767シリーズとほぼ同クラスの、ワイドボディ中型機とされた。
座席はエコノミーのみのモノクラスではあるものの、多くのファーストクラスと遜色ないシートピッチと座席に設定されている。
このため乗客定員は180名程度と、中型機としては比較的少ない数となっている。
主翼は安定性を重視し、高翼式とした。
エンジンはターボプロップ方式。C-130形輸送機と同型の、アリソンT56-A-15を4発搭載する。プロペラは4枚翼。
ターボプロップ機でありながらフライバイワイヤやグラスコックピットを採用し、新型ジェット機とほぼ同等の機能や操作性を備えている。
巡航速度は500km/h、最大速度は580km/h。

元々は事実上の阪神国内航空の専用機として開発された機体であるが、整備性の良さや堅牢性、さらに燃費や使い勝手の良いターボプロップ機であることからアジア地域の一部の航空会社でも採用されている。
海外向けの機体は座席を通常のエコノミークラスと同程度まで増やしたものも存在する。
(堅牢性に関しては、ナニワ航空機のスタッフに日本航空機製造のOBが多数在籍していたためだとも言われている。
 またこの点から、一部の航空ファンからは『YS-11の実質的な後継機』と見られることもあるらしい)

253:名無し野電車区
12/12/08 08:10:10.45 voI3EhJTO
京成航空CRJ700
過去に谷津遊園の遊覧ヘリコプターなどを手掛けていた日本ヘリコプターが
親会社の京成電鉄と吸収されて京成航空として遊覧ヘリコプター及び報道や
送電線パトロールなどのヘリコプター業に進出した。
そして2012年にローコストエアラインとして航空輸送の導入を決める。
採用されたのはカナダボンバルディア製小型ジェット旅客機CRJ700である。
成田空港をハブとして7機を導入。名実共にエアスカイライナーとして運航された。
行き先は成田~伊丹 福島 庄内 中部国際であるが、直後にIBEXを吸収合併により、
IBEXが運用していた仙台と小松にも就航した。
>>215も後継機材としてCRJ700を採用し、ジェット化が図られた。
現在三菱が開発中の旅客機のカスタマーとして加わっている。
なお富士急が出資しているフジドリームエアラインを来年度に吸収合併する。
これにより、成田~静岡も就航する予定。
また大型機材の計画でエアバスA319または日本の航空会社が採用していない
B737NGシリーズのB737-900の導入を検討している。

254:名無し野電車区
12/12/08 08:12:07.16 voI3EhJTO
>>253訂正
>>215は誤りで正しくは>>252

255:名無し野電車区
12/12/08 10:25:58.59 948v6x690
国鉄80系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1950年(昭和25年)に開発した、旧形長距離列車用電車形式群の総称で、
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、客車列車の置き換えを目的に当初から、
長大編成組成を前提として設計され、電車が長距離大量輸送に耐えることを実証した車両である。

電車化の本命だった東京駅-小田原駅・熱海駅間の東海道本線東京地区は、戦前から蒸気機関車、
電気機関車牽引による客車列車運行と横須賀線から転属した17m級12系電車、20m級32系電車による、
混合運用を行っており、終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、加減速性能、
高速性能に優れた電車を用いて、列車運行頻度を増やし、激増する輸送需要に対応しなければ、
ならない状況に陥り、鉄道省時代からの懸案であった東海道本線用の長距離電車の開発用に、
1948年 (昭和23年) 4月26日、関西急電で使用されていた52系電車2次車4両編成2本を使用して、
4M3Tの強力編成を作り、中間に17m級サハ17形を改造した性能試験車サヤ16形(16001)を連結、
この時は119km/hの最高速度を記録、同年5月10日には横須賀線で使用してた52系電車3次車、
6両編成2本を組替えして6M3T編成、同年5月23日には京浜線の40系電車11両、8M3T編成1本を使用して、
茅ヶ崎-辻堂間で高速度試験が行われた。この結果を元に同年10月から企画と開発が始まり、
開発に際しては実績のある既存技術に加え、当時各製造メーカーで試験が繰り返れていた、
動力分散方式を採用する案となり、動力分散方式として2両の電動車を(1ユニット)で取り扱いをして、
片方の電動車(M車)に主制御器、主抵抗器、パンタグラフといった主電動機のコントロールに、
直接関係した機器を2両分、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せる1C8M制御の、
MM'ユニット方式を日本初、鉄道車輌として初採用する案が決定された。

256:名無し野電車区
12/12/08 10:28:17.05 948v6x690
主電動機は吊り掛け式150kWのMT42Bが開発され、MT42Bは国鉄が採用した電車用吊り掛けとしては、
最大の出力、国鉄最後の吊り掛け式となり、高速域での速度性能向上に加え、弱め界磁と、
起動減流抵抗による減流起動を組み合わせることで衝動が小さくスムーズな起動を可能とした、
電動カム軸接触器式も界磁機能付きのCS10Aも搭載、歯車比は高速運転に適した1:2.56、
装備する台車は専用に開発されたDT16の改良版である高速運転用台車DT17Bを装備し、
制御車と付随車の台車はTR28が装備されたが、1952年(昭和27年)からTR48に変更、
ブレーキシステムには複雑精緻な電磁空気弁による長大編成用自動空気ブレーキを装備し、
編成の先頭から最後尾まで、ほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては、
未曾有の長大編成である12両編成、16両編成運転が実現、乗り心地やコスト面での改善を図った。

車体は車端に寄せたデッキを備えた片開き片側2扉で、客車と同様のデッキと客室を壁で仕切る配置とされ、
ドア幅については乗降を円滑にするため、他の電車と同じく1100mm幅を採用、長距離運用を意識して、
客車に極力近づけたことは画期的であり、内装は木製、照明は白熱灯が片側10個2列に並び、
客用扉の窓も横桟が3本入り、古臭く見えたが、不規則運用も兼ねて、最初から耐寒設計を導入、
座席下には電気暖房を備え、座席のシートピッチも客車同様とされたが、ビニールクロスの座席は、
夏期の乗客から不評を買ったことで、後年はモケットに変更された。また窓の高さが、
客車や従来の電車よりも若干高い設計とされていて、屋根上の通風器は箱型の押込み式が千鳥上に、
モハ80形は9個、クハ86形とサハ87形は10個並び、クハ86形の乗務員室後ろのデッキ部分は、
夏期になると蒸し風呂だと乗客から不評を買ったことで、1954年(昭和29年)度製造分からは、
通風器が横並びに2個配置とされ、それ以前の製造車にも順次、取付られていった。

257:名無し野電車区
12/12/08 10:30:39.31 948v6x690
前面形状は1949年(昭和24年)末に製造されたクハ86001-86010の運転台正面は小田急1700形3次車に似た、
前面に限り雨樋位置を上に上げた、張り上げ屋根構成でシルヘッダーを捲いた非貫通の2枚窓であったが、
クハ86011からは2枚窓が傾斜した湘南2枚窓とされ、最初にこのデザインを試みたクハ86011-86016の6両は、
クハ86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、曲面の付いた形状で、
続くクハ86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現、ここに80系電車の象徴、
後の60系電車や70系電車、私鉄各社にも広がる湘南2枚窓デザインが完成、このデザインはスピード感と、
近代性があり、当時としては極めて斬新な形状で「湘南型」と呼ばれた。

また1956年(昭和31年)度製造の全金属車両からは正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓になり、
車体側面に従来あった窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も上下寸法が大型化、
側面窓枠がアルミサッシ化され、内装もアルミデコラ化粧板を使用する完全な全金属化され、
床はリノリウム貼り、当初から蛍光灯照明となっている。これは60系電車も同じになっている。

258:名無し野電車区
12/12/08 10:33:27.53 948v6x690
基本形式
モハ80形0番代(80001-80168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上、全車が下り向き、
1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車端部に広幅貫通路と幌を装備した。

モハ80形200番代(80201-80248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上全車が下り向き、
1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板の採用、蛍光灯採用、側面窓枠が鉄枠からアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載され、
国鉄急行型電車では初の冷房搭載車輌となった。

モハ81形0番代(81001-81168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの、
2段上昇窓が付き、ユニットの関係上、全車が東海道線基準で上り向きになっていた。

モハ81形200番代(81201-81248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

259:名無し野電車区
12/12/08 10:37:25.34 948v6x690
モハ82形0番代(82001-82004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
パンタグラフ部分の屋根を低くして、パンタグラフの折畳み高さを低く抑えられた専用形式で、
歯車比は加速力より登坂力を重視した40系電車と同じ1:2.87とされたモハ83形0番代と、
ユニットを組む運転台を持たない三等中間電動車(M)で、新造当初は、
モハ80形800番代が付番されたが、1954年(昭和29年)にモハ82形に改番された。

モハ82形100番代(82101-82104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

モハ83形0番代(83001-83004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
歯車比が40系電車と同じ1:2.87にされたモハ83形0番代とユニットを組む運転台を持たない、
三等中間電動車(M')で、新造当初は、モハ81形800番代が付番されたが、
1954年(昭和29年)にモハ83形0番代に改番された。

モハ83形100番代(83101-83104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

260:名無し野電車区
12/12/08 10:54:55.50 948v6x690
クモユニ84形(84001-84004)
車体長20m級の両運転台を持つ郵便荷物合造制御電動車で、1951年(昭和26年)度に半鋼製車体で新造、
前面形状はクハ86017以降の湘南型非貫通2枚窓で、神戸寄りに郵便室を配置、幅1000mmの両開きを配置、
東京寄りに荷物室が設置され、幅1200mmの両開きを配置、窓配置はd1D(郵便)1111D(荷物)1dで、
パンタグラフは両運転室側に載せられていた。

サロ85形0番代(85001-85016)
日本初、狭軌路線初の車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、
1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)に準急列車用として16両を新造、窓配置D2(5/5)2D、
台車間をバスタブ状の床構造として1階の床高さを線路面ギリギリまで引き下げた構造で、
デッキから客室に入ると神戸寄りから海側に洗面所、山側に便所、海側に2人掛け座席を両2列配置、
山側にラセン階段、1階座席は2人掛けを両配置10列、2階座席も2人掛けを両配置10列とし、
海側に2人掛け座席を両2列配置、山側にラセン階段、海側に車掌室、山側に乗務員室となっている。
座席はリクライニング機能が付いた回転クロスシートで、目的地に到着後は乗車する車掌が、
進行方向に向って座席の向きを変えていた。建築限界や車両限界の関係上、東海道線以外の路線、
中央線などには入線が出来ず、後年は東北本線の上野駅-黒磯駅間で使用され、1960年(昭和35年)から、
冷房改造を実施、その際に偶数車の車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。

サロ85形100番代(85101-85116)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、1958年(昭和33年)から、
1959年(昭和34年)に全金属車体で16両を新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下のウィンドウ、
シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、二階建て車輌は集中冷房装置の搭載が困難なことから、
両車端部の屋根上に、三菱電機がサロ85形専用に開発した分散式冷房装置ATU10型が搭載、
偶数車は車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。

261:名無し野電車区
12/12/08 10:58:23.13 948v6x690
クハ86形0番代(86001-86058)
車体長20m級2扉クロスシートの三等制御付随車で、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に、
半鋼製車体で製造、窓配置dD1(9)1D、前面形状は86001-86010の運転台正面が半流線型の、
ウインドシル・ヘッダーを巻いた非貫通2枚窓で、86011以降の製造分からは傾斜を付けた正面2枚窓に変更、
86011-86016は86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、
曲面の付いた形状であったが、86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現した。

クハ86形100番代(86101-86128)
車体長20m級2扉クロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となり、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓配置dD1(9)1D、側面窓枠がアルミサッシ、
窓も大型化、、床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

サハ87形0番代(87001-87088)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1950年(昭和25年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で、
車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓が付いた。

サハ87形100番代(87101-87168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下の、
ウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分からは三菱電機製造の、
集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

262:名無し野電車区
12/12/08 11:00:22.99 948v6x690
クハニ88形(88001-88004)
車体長20m級クロスシートの片運転台式三等荷物合造制御車で、前位より運転台、荷物室、三等客室に、
区分され、荷物室には幅1,200mmの両開きの荷扱い扉、窓配置はd1D(荷物)1(8)1Dという、
変則的なものとなっていて、基本編成下り方専用、1952年(昭和27年)度に製造された。

サシ89形(89001-89008)
車体長20m級の簡易食堂車で、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)に半鋼製車体で8両を新造、
側面に客用扉は東京寄りの車体端に在るだけで、神戸寄り山側の端には物資積卸用として、
750mm幅の片開き業務用扉を設置、側窓は下段上昇式の2枚窓、窓配置11(10)1D、
車両妻面は切妻型、車端部の広幅貫通路には片側2枚引き戸の4枚両引き戸を装備した。
調理室はは神戸寄りの山側に設置され、電気コンロ、大型電気冷蔵庫、大型冷水器、ジュースクーラー、
アイスクリームストッカー、サイフォン式コーヒー沸かし器、トースター等の電気機器を備え、
カウンターと通路を挟んで海側の側面に沿ってテーブルが設置され、着席用に丸型の回転椅子を装備、
景色を見ながら食事が出来るようになったいた。また車体中央から東京寄りは山側に2人掛けテーブル、
海側に4人掛けテーブルを設置、床下には自車電源用の50kVAのMG・CPを搭載、食堂用の水タンクは、
東京寄りに楕円型の1500Lを1基、神戸寄りに丸型の600Lを2基、床下に搭載した。
サシ89形は東京駅-浜松駅間の急行「遠州」用として日本初、狭軌路線初の二階建て二等付随車とともに、
1951年(昭和26年)度に4両を製造、提供された食事はモーニング洋食を始め、サンドウィッチ、
トースト&コーヒーやジュースなどの軽食が中心で、後のビッフェ車の原型となった。

サシ89形100番代(89101-89108)
車体長20m級の簡易食堂車で、1956年(昭和31年)度に4両、1958年度に4両が全金属車体で新造、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分は、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。

263:名無し野電車区
12/12/08 11:03:17.34 948v6x690
改造形式
クハ89形(89001-89022)
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形100番代からの改造。

車体塗色
湘南色
80系電車の独特な窓周りをオレンジ(黄かん色)、幕板と腰板をブルー(青20号)に塗り分けた塗装は、
「湘南カラー」や「湘南色」と呼ばれ、茶色1色塗装が当然だった当時の鉄道界に新鮮な驚きを与えた。
この塗色は、日本国外の鉄道雑誌に掲載されていたアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車、
「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装にヒントを得て、「湘南地方の海と太陽」を重ね合わせて、
国鉄で考案されたと開発に携わった国鉄技術者が証言している。当初発注車は窓周りが比較的濃い、
朱色であったが、評判が悪かったため、次からみかん色に変更、ほかにも彩度や明度は、塗料の退色など、
耐久性の問題もあり、時代により、あるいは担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
これ以降、「湘南地方の海と太陽にちなんだもの」と国鉄もそのようにPRした。
この塗色は1968年(昭和43年)のダイヤ改正でオレンジ色とグリーン色の「東海色」に変更されるまで、
国鉄の直流急行形電車の標準塗色の一つとなり、「東海色」に変更後もオレンジ色は引き継がれて、
オレンジ色をコーポレートカラーとして採用している東海旅客鉄道(JR東海)を筆頭に、
現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線を走るステンレス車両の211系電車、さらにJR化後に、
登場したE231系電車、E233系電車にも、帯色として多少色が薄くなってはいるが受け継がれている。

また湘南顔の80系電車および60系電車、70系電車で採用された塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、
国鉄の初期の試作型気動車のほか多くの私鉄でも採用された。初期2枚窓の80系1次車は当初、
オレンジ色の部分が比較的少なかったが、のちに2枚窓のものと同様に大きくした。

264:名無し野電車区
12/12/08 11:14:51.03 948v6x690
横須賀色
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)7月に横須賀線向けとして80系電車が投入された。
これらは東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」運用に充当、この「横須賀線用」は、
その初期には戦前の32系電車、52系流線型・半流型電車と同じ、窓周りをクリーム2号、
幕板と腰板を青2号に塗り分けられ、派手な「湘南色」車と異なり、落ち着きがあった。
1956年(昭和31年)からクリーム1号と青15号に塗装が変更された。

関西急電色
横須賀線に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして80系電車が投入され、
戦前の52系流線型電車と同じ、窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号の、
関西急電の伝統であった「急電色」に塗装された。この色の80系電車は、派手な「湘南色」車と異なり、
独特の渋味のあるたたずまいで異彩を放っていた。また塗り分け線も湘南色とは異なっていた。

塗り分け調整
80系電車は、最初に登場した0番代から全金属車体の100/200番台に至るまで、湘南色の塗り分けには、
微妙な違いがあり、特に全金属車体となった200番台車と、それ以前のウインドシル・ヘッダー付き、
半鋼製車体の80系電車各車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なっており、
混結運転時には美観の点で難が出るので、何処の電車区でも極力混結は行われなかった。

265:名無し野電車区
12/12/08 11:20:41.31 948v6x690
営業運転開始後
東海道線東京口
1950年(昭和25年)4月1日に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けたモハ80形6両、
モハ81形6両、クハ86形4両、サハ87形8両の12両編成2本が田町電車区に配置、試験運転後の、
5月1日から設定された東京駅-小田原駅間の準急電車に運行、当初準急電車の名前と愛称は無く、
乗客から「湘南電車」の愛称で呼ばれていたことで、国鉄でも準急電車に名称を付けることになり、
5月26日から準急電車「湘南」として、黄かん色と青20号の塗り分けも「湘南色」と呼んだ。
同年6月18日に田町電車区へ12両編成2本が配置されると、伊豆方面の乗客に的を絞った、
準急電車「伊豆」を7月1日から東京駅-伊東駅間で運行、同日から先頭車に「湘南」「伊豆」の、
ヘッドマークを取り付けて運行されるようになり、ヘッドマークは当初、丸型だったが、
1951年(昭和26年)4月からは丸型の両側に羽を付けた容に変更された。

横須賀線
1950年(昭和25年)7月17日に窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号に塗り分けたモハ80形4両、
モハ81形4両、クハ86形4両、サハ87形4両の8両編成2本が田町電車区に配置、翌月の8月1日から、
東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」として運行を開始、1952年(昭和27年)9月から、
東京-大船間の東海道線共用路線を分離、品川駅-横浜駅間は品鶴貨物線を通るルートに変更、
横浜駅ホームの2面4線の増設、東京駅-横須賀駅間のホームが全駅で延伸されたことにより、
8両編成から12両編成で運行された。

266:名無し野電車区
12/12/08 11:24:38.01 948v6x690
東海道本線京阪神地区
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして、
宮原電車区に80系電車8両編成2本を投入、これらは戦前以来の急行電車運用に充当すべく、
戦前形50系電車の阪和線転用、52系電車の横須賀線転用と引き替えに新製配置されたもので、
この「関西急電用」80系電車は、50系・52系流線型電車以来の関西急電の伝統であった「急電色」、
窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号に塗り分けられた。

東海道線長距離
東海道線東京口や横須賀線、京阪神地区での80系電車による運行が始まると、接客設備が電車としては、
良好であったことから、1950年(昭和25年)11月には東京駅-静岡駅間に準急電車「駿河」を、
12両編成で運行、1951年(昭和26年)2月には東京駅-浜松駅間への運用領域を拡大が図られ、
1950年(昭和25年)4月に開発が間に合わなかった狭軌路線初の二階建て二等付随車サロ85形と、
簡易食堂車サシ89形が1951年(昭和26年)3月に田町電車区へ配置されると、東京駅-浜松駅間に、
基本12両編成+付属4両編成の16両編成で急行電車「遠州」が運行されるようになり、
これは電車としては当時、世界最長編成の電車列車であった。
その後、1953年(昭和28年)7月21日に名古屋駅間までが電化されると、東京駅-名古屋駅間を、
急行電車「東海」が運行され、「遠州」と同じくサロ85形2両、サシ89形1両を組込んだ16両編成で運行、
1956年(昭和31年)11月19日に東海道全線が電化されると、東京駅から一気に大阪駅間を運行する、
急行電車「せっつ」を運行、1958年(昭和33年)には東京駅-姫路駅間に急行電車「はりま」を運行した。

267:名無し野電車区
12/12/08 11:29:36.25 948v6x690
中央東線
中央東線の東京駅から富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖まで乗り入れは、
1950年(昭和25年)9月から80系電車8両編成1本で行われたいたが、桜木町事故後、
トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、80系電車での乗入れを一時中止、
1951年(昭和26年)からパンタグラフ部分の屋根を低くし、歯車比を40系電車に同じとした、
モハ80形800番代2両、モハ81形800番代2両を新造、同年8月から準急電車「富士山麓」として、
新宿駅-河口湖駅までの乗入れ運行した。

高崎線
1952年(昭和27年)4月1日に大宮駅-高崎駅間が電化、当初は30系電車で電車運行が始まったが、
同年7月1日から東京駅-高崎駅間で80系電車を使い、準急列車「あかぎ」が8両編成で運行され、
1954年(昭和29年)に60系電車が配置されたことで、8両編成から12両編成に変更、
1958年(昭和33年)には60系電車ともに16両編成化された。

東北本線・日光線
1958年(昭和33年)4月14日に東北本線大宮駅-宇都宮駅間が電化され、上野駅-宇都宮駅間を電車化、
80系電車による上野駅-宇都宮駅間の準急列車「ふたあら」を運行開始、1959年(昭和34年)5月22日には、
宇都宮駅-黒磯駅間が電化させたことで、上野駅-黒磯駅間を80系電車による準急列車「なすの」を運行、
同年(昭和34年)9月22日に日光線が電化されたことで、同年10月1日から国際的観光地である日光市に、
東京から直接向かう急行列車「日光」が東京駅-日光駅間を80系電車で運行された。
急行「日光」の編成は8両編成2本で、サロ85形100番代2両を挟んでいた。

268:名無し野電車区
12/12/08 11:33:06.18 948v6x690
山陽本線
1964年(昭和39年)7月25日に全線電化が完成すると、神戸駅-下関駅間に電車運行が設定され、
8月1日から急行電車「防長」が湘南色の基本12両編成+付属4両編成の16編成2本で運行された。

臨時・団体
1950年(昭和25年)の登場後から行楽用、企業旅行や修学旅行などの臨時団体に、
使用されることが多くなり、同年12月29日には帰省準急電車として東京駅-静岡駅間を運行、
1951年(昭和26年)4月には行楽用の臨時準急電車「日本平」が東京駅-静岡駅間で運行、
その後も毎年、団体臨時に運行されることが多くなり、東海道線名古屋駅までの電化が完成した、
1953年(昭和28年)7月以降は修学旅行用の臨時団体電車などの運行が多くなった。

更新修繕と冷房化
1958年(昭和33年)度から冷房装置を搭載して新造された翌年、初期車から更新修繕と同時に、
冷房装置の搭載が決定、木製室内をアルミデコラ化粧板を交換、木製床を剥し、鉄板を敷き、
その上に灰色のリノリウムを貼り、鉄製だった前面窓と側面窓枠はアルミサッシ枠に変更され、
座席の布地を青モケット張りに変更する更新修繕が行われ、冷房装置搭載にあたり側面補強とともに、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載する工事が1964年(昭和39年)まで全車に行われた。

269:名無し野電車区
12/12/08 11:34:03.73 duALeXBO0
711系800番台
80系電車(主に300番台)を交流化改造。
出入り口にはステップが取り付けられ、車体塗色は交直流急行色に変更された。
吊り掛け駆動方式のため、他の711系とは併結できない。

270:名無し野電車区
12/12/08 11:42:59.58 948v6x690
地方への進出
1960年代後半に入ると国鉄電化の伸張に伴って首都圏や京阪神地区を始め、運用線区を拡大していき、
その後も本州内の国鉄直流電化区間の大半で、おもに急行電車から臨時電車まで広範に運用された。
もともと大出力であり、電動車(M)比率を上げることで急勾配での運用も十分に可能であったため、
山岳路線でも広く用いられた。但し当初より他系列電車との混結を考慮しない設計であり、改造車を含め、
制御電動車が存在しなかったので編成は最短でも2M2Tの4両以上となった。運用線区の広域化の過程では、
さまざまな対策が施されて、信越本線長野電化時には横川駅-軽井沢駅間の碓氷峠越え区間に備えた、
いわゆる「双連」が施され、トンネル断面制約のある中央西線(中津川以北)への投入に際して、
モハ80形のパンタグラフを低断面トンネル対応形 (PS23) への交換が行われた。
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形のクハ89形化改造などが行われた。

先頭車化改造
地方転出の短編成化で、不足する制御車を補うため、1966年(昭和41年)からサハ87形の前位側へ、
切妻構造の運転台を取付け、先頭車化改造を行い、新形式のクハ89形とした。
これらの先頭車化改造車は、施工された工場によって運転窓の大きさ、前照灯の取付位置が違っており、
大井工場で施工した4両は103系電車に似た低運転窓と白熱1灯、大船工場で施工した4両は低運転窓と、
窓下の左右にそれぞれ白熱灯1灯を配し、浜松工場で施工した2両は高運転窓に窓下の左右に、
それぞれ白熱灯1灯とバリエーションが違っていた。

その他の改造
1972年(昭和47年)神領電車区に配置されていたクハ86形の前照灯をシールドビーム2灯に改造、
いわゆる「ブタ鼻」改造が行われたが、改造車は(クハ86051、86052、86061、86062)の4両のみ。

271:名無し野電車区
12/12/08 11:46:00.94 duALeXBO0
JR西日本 サロ222・223形
JR東日本E217系のグリーン車サロE216・E217形をJR西日本が223系に編入改造。
サロ222形の種車はサロE216形、サロ223形の種車はサロE217形である。

272:名無し野電車区
12/12/08 11:47:35.70 948v6x690
飯田線
1967年(昭和42年)3月にクモユニ96形に置換えられたクモユニ84形の全車が飯田線に転入、
1983年(昭和58年)6月の同車廃車まで同線で他系列と併結され、運用された。

中央西線
1968年(昭和43年)7月に新設の神領電車区へ12両編成2本が転入、翌年にも2本が転入、
転入車は湘南色から横須賀色に塗替えられ、中津川駅-名古屋駅間の準急電車に運用され、
翌年にも12両編成2本が神領電車区へ転入した。

京阪神地区
1950年(昭和25年)10月から京阪神地区で関西急電として80系電車が運用されてきたが、
1972年(昭和47年)3月に宮原電車区へ新性能121系電車が置換えで配置され、捻出された80系電車は、
「急電色」のまま、神領電車区に転出、その後横須賀色に塗替えられた。

長野地区
1972年(昭和47年)に60系電車とともに12両編成4本が転入、長野運転所、松本運転所に配置され、
信越本線長野地区での準急電車運行、湘南色は順次、横須賀色に変更されたが、湘南色のまま、
廃車まで残ったのあった。また 大糸線の準急電車運行に投入された初期2枚窓車のクハ86形2両を含む、
8両編成1本は大糸線転属に際して青22号一色に塗り替えられ、「海坊主」という愛称で親しまれた。

273:名無し野電車区
12/12/08 11:49:25.02 948v6x690
終焉
80系電車の本格的な置換えは1981年(昭和56年)から始まり、3月に中央東線の河口湖乗入れが、
新性能125系電車に置換えられたのを始め、同年10月に東海道本線東京駅乗り入れが消滅、
東北本線・高崎線で運用されていた車輌も1983年(昭和58年)から60系電車と同じく廃車になり、
信越本線長野地区や中央西線、山陽本線でも1984年(昭和59年)から廃車が始まった。
それ以降も急行電車や準急電車、団体電車での運用も残っていたが、老朽化や機器整備の合理化の見地から、
1986年(昭和61年)1月18日に80系電車の運用は終了、2月1日と2日に東海道線東京口の東京駅-熱海駅間、
高崎線を含む東京駅-高崎駅間で「さよなら運転」が行われ、湘南色と横須賀色の16両編成4本が運行、
80系電車が初製造されて36年にわたる営業運転の歴史は終了した。

保存
高崎線で運用され、廃車となった前面が角枠のままだったクハ86形86027と86028、
モハ80形80027とモハ81027の4両が大宮工場で保管され、民営化後は東京総合車両センターで保管、
2007年(平成19年)10月にさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、
山陽本線で廃車となったクハ86形86127と86128、モハ80形80241とモハ81形80241が、
大阪の交通科学博物館敷地内に保存され、狭軌路線初の二階建て二等付随車サロ85形85001と、
サシ89001がさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、サロ85形85101が、
2011年(平成23年)3月14日に愛知県名古屋に開館したリニア鉄道舘で保存展示、
クモユニ84形84001が浜松工場で保管、84002が民営化後の東京総合車両センターで入替用事業車として、
運用と保存された他、山陽本線で廃車になったクハ86形86007が民間に売却され、個人宅で保存、
神領電車区で廃車になったクハ86051も個人に売却され、個人宅で保存されている。

274:名無し野電車区
12/12/08 12:32:52.80 vLkg7LK50
817系9000番台
JR九州が七つ星を導入するも料金が非常に高く利用率は低迷していた
そんな状況を打破するため2018年に投入されたのがこの817系9000番台である
特徴は817系の構体をほぼそのまま使用した寝台電車ということである
817系3000番台ベースの3両編成で門司港側から順に1号車、2号車、3号車、となっています
乗客は1号車の運転台よりの両側の扉でのみ乗降できます
車内設備は1号車には乗降扉の目の前にホテルでいうフロントがありそこにはスタッフルームも併設されています
1号車の後ろ半分はロビーカーになっており展望席部分は床から1段高くされています
2号車には客室が3室あり各部屋にトイレと風呂も併設されています
3号車はレストランカーになっており
通路は外側に迂回するように配置されレストラン内の人の流動を極力抑えることに成功しています。レストラン内はこちらも床が1段高くされており外からの注目を集めることなく、なおかつ御食事時の素晴らしい眺めに貢献しています

275:名無し野電車区
12/12/08 13:05:20.13 vLkg7LK50
817系9000番台 続き
厨房は車両の二分の一のスペースに設けられており業務用扉は3号車の運転台よりの両側の扉を使用、レストランの席の数は3組と全乗客が同時に使用できるだけの席を確保しております
全体での特徴は全車両車イスに対応していること、813系や817系など他の車両とも併結できること、非電化区間では電源車を介して
ディーゼル機関車を連結して運行することが可能だということ、その電源車は双頭連結器と屋根上にパンタグラフを設置し車内にディーゼルエンジンと変電機を備えており直流区間への乗り入れも
機関車に牽引してもらう必要があるが可能であること、そして、この車両に対応する改造を受けた機関車は推進運転時にこちら側の運転台で遠隔操作が可能なこと、などが挙げられる。
遠隔操作が可能な機関車はJR九州の全てのディーゼル機関車(七つ星用のものも含む)、JR貨物門司機関区のDD51の一部、同じく門司機関区のEH500の内の二両などがある。
但し、遠隔操作が可能ではない機関車でも牽引したり低速になるが推進運転も可能である

276:名無し野電車区
12/12/08 20:18:37.74 Qy80pNc00
キハシ26
キハ56の半室ビュッフェ車。

キハシ27
キハ57の半室ビュッフェ車。

キハシ28
キハ58の半室ビュッフェ車。
後年冷房と4VKが搭載されて番号が+2000になった。

277:名無し野電車区
12/12/09 02:31:48.55 Q0Tx2KQnO
東武鉄道2030系
20000系登場で余剰となった日比谷線直通用2000系を支線転用改造して昭和63年に登場した。
当時日光鬼怒川地区では3070系が活躍していたが、勾配線区ゆえに電制装備車の配置が運転サイド(の労働組合)から求められており、それに応えた転用である。
先頭車のみを対象に地下鉄乗り入れ機器の撤去、抑速ブレーキ、耐雪ブレーキの追加、霜取りパンタの増設、ドアカット回路の設置、正面貫通路の整備と幌の設置、老朽箇所の修繕が行われた。
なお、冷房化は車体強度の問題もあり見送られた。
塗装はセイジクリームをベースに窓下にロイヤルマルーンの帯を巻いた独特のものである。
力のあるオールM編成は電制も良く効き、運転サイドからは喜ばれた。
しかし依然として非冷房であることが営業面では好ましくなく、平成10年にツリカケ冷房車5050系に置き換えられて姿を消した。

278:名無し野電車区
12/12/09 09:21:30.52 r9zbVjrzO
東武鉄道Q634系「TOBU-Eye」
東武鉄道が開発した総合検測車である。関東一円に広大な路線を持つ東武鉄道は
軌道用の検測車と軌陸式の架線検測車しか持っておらず、営業運転レベルの
検測が出来なかった。そこで東武鉄道は営業運転速度で運転しながら検測する
総合検測車を導入することになった。
同型の検測車両を持つ小田急や東急の検測車両を検討した結果、既存車両を
改装した総合検測車を作ることになった。
当初8000系のモハ8500-クハ8600から改装する計画だったが、日光線など
勾配路線があることや2連の大師線や亀戸線などもあるため、6050系4編成から 改装された。
改造されたのは6158F 6161F 6164F 6173Fである。なお6173F改造車が東上線向け
以外は全て本線(スカイツリーライン)系統である。
モヤQ634は検査用含め2パンタ式とし、電気架線信号系を、クヤQ634は
軌道検測及び動揺測定 レール探傷を行う。
本線向け3本は南栗橋に2本と七光台1本配置とし、前者は東武動物公園以北の
伊勢崎線 日光線と宇都宮線を検測し、上毛電気鉄道の検測も委託。
七光台配置車は野田 亀戸 大師線と浅草~東武動物公園間の本線を検測する。
東上線配置車は森林公園配置で、東上線と越生線以外に秩父鉄道の検測委託も行う。
またCS-ATCも搭載しているため、曳舟~押上間の検測も可能。

279:名無し野電車区
12/12/09 12:46:17.89 gF7fwgEr0
JR九州 717系3000番台
JR西日本117系電車をJR九州が交流化改造。
出入り口にはステップが取り付けられ、車体塗色が変更された。

280:名無し野電車区
12/12/09 12:52:07.64 gF7fwgEr0
JR四国N6000系電車
JR東海313系電車をベースにしたJR四国の新型電車。

281:名無し野電車区
12/12/09 12:58:26.71 gF7fwgEr0
JR四国3000系気動車
ベースはJR北海道キハ283系気動車。
メーカーは日本車輌製造。

282:名無し野電車区
12/12/09 17:27:13.76 SoEivcK6O
JR東海671系
1990年代初頭、名古屋~北陸を結ぶ「しらさぎ」用に投入。371系の交直両用版。3編成のみ投入。
「(ワイドビュー)しらさぎ」として運転。前面展望が楽しめたり二階建てグリーン車が連結されていて子供や鉄ヲタに人気。

283:名無し野電車区
12/12/09 21:49:25.54 CZWDAOha0
JR東日本 E26系100番台

カシオペア用として使用されているE26系をベースに、上越線経由で「日本海の夕日を楽しむ」
夜行列車用にグレードアップされた車輛

主な相違点として、電源車をカハ26として中間車化し、食堂車の隣にサロンカーとして連結するようにしたこと。
また、札幌側最後尾車が展望スイートを含むスイート車となり、行きも帰りも最後尾の景色を楽しめる個室となった。

塗装はトワイライトエクスプレスのように落ち着いた深い色となり、カシオペアの未来感ある塗装とは違ったものとなっている。

この列車の登場に合わせて、専用塗装のEF510が2両登場し、好評を持って迎えられている。

284:anorak?
12/12/09 22:54:04.94 CqOu4B5B0
>>242-244に続く平行世界もの
◎国鉄HD40形ラックレール対応ディーゼル・電気両用機関車
○1960年代に首都圏と北陸の短絡ルートとして塩尻と高山を結ぶ信飛線が着工し、80年に開業。
経路は、塩尻~新島々~白骨温泉~安房峠~平湯温泉~高山。全線電化単線。
信飛線は長い連続急勾配の存在で動力車に高粘着性能を要求されるので且つ秘境での給電諸経費削減に交流20kV60Hz。
飛騨山脈(北アルプス)横断は安房峠を長大トンネルで貫くにも火山帯なので難工事が予想されたので
建設費と工期抑制の為に安房峠を地形に沿って越えるルートを採用した。
故に最大80‰の急勾配区間の出現となり、豪雪地帯なのでスリップの危険など粘着運転のみでは危惧されたので
ラックレールを採用。それは、昔の碓氷峠のアプト式では無く、構造が単純なフォン・ロール(Lamella)式。
当路線用にED42以来のラックレール対応機関車となるHD40が新造された。
交流電化の利点を最大限活かす為に交直流両用電機とせず、粘着性能に優れたサイリスタ連続位相制御の交流電機に
ディーゼルエンジンと発電機も搭載した、電気式ディーゼル機関車とのハイブリッドとした。
形式称号の動力種表記はHとなる。
直流電化と非電化区間での走行はELではなくDLモードで、また信飛線での除雪や急勾配上の停電時にも。
固有仕様は以下:車体が車長20m弱のデッキ付き。
軸配置はラックレールに噛み合う歯車(ピニオン)をzとしてB-1zz1-Bと、三つの台車の内、中間台車が歯車専用。
主電動機は動輪用に475KWのが四つ、歯車用のが二つ。
常用ブレーキはELモードでは交流回生ブレーキ、DLモードは発電。非常用には電磁吸着ブレーキなど。
ラッセルヘッドかロータリーヘッドを接合し除雪も行う。
電車牽引に備え双頭連結器。客車や直流用電車への冷暖房用電源装置搭載。
ラックレール区間を含む45‰以上の急勾配を通過する際、列車の前後共に当機を連結しプッシュプル運転。
当区間を通過する車両は連結器強化などの横軽対策と同様のを要する。
78年に試作車登場、量産され80年に就役し、新宿発着の直流用特急電車も塩尻・高山区間で牽引。
87年にJR東海に信飛線と共に承継。JR貨物塩尻機関区に常駐し、委託。
数年後にはラックレールから鉄輪式リニアモーターカーへの切り替えで引退予定。

285:名無し野電車区
12/12/10 21:46:24.47 VkLtyCiQ0
>>252-253補足

N-100はYS-11に続く事実上の国産旅客機第二弾であるが、機体サイズがB767とほぼ同程度なことから「政治的圧力で頓挫するのではないか」と心配する動きもあったものの、
「阪急グループの事実上の専用機」という当初の目的や、4発の中型機とは言え"遅れてきたターボプロップ機"ということもあって意外なほどスムーズに事が進んだという逸話がある。

また、N-100の開発と、ナニワ航空機の設立に関して当時の阪神国内航空の担当者はこう語っている。
「まずボーイング社に言ってみたのですが、『発展途上国向けならともかくなぜ先進国の航空会社、
 それもたった一社だけのために時代遅れのターボプロップ機を作らなければならないのか』と断られました。
 次にマグダネル・ダグラス社を当たってみたのですが、ここにも『今更MD-94Xを生産ラインに載せろというのか』と言われました。
 エアバスからも『採算がとれるかどうかは絶望的。A320を買う方が安上がりだ』と言われました。
 フォッカーに至っては、『我々には大型ターボプロップ機の経験は無い。
 経営面で苦しい我社としてはありがたいが、あなた達の会社が命知らずであるならばこの案件を受けてもいいだろう』とまで言ってきました。
 このことを本社の幹部に直談判したら、『仕方ない。どこも作らないというのなら自分たちで作ればいいだけだ』ということになり、自前の航空機メーカーを設立する運びとなったのです」

これらを含めたナニワ航空機設立と、N-100の開発の逸話に関してはNHK「プロジェクトX」の『大阪発の翼、大空へ』の回で取り上げられたことはご存知の通りであろう。

N-100の操縦性に関しては、実質的な"前作"であるYS-11(ナニワ航空機には日本航空機製造のOBが多数在籍している)の反省を活かし極力素直なものに仕上がっていたと評されており、
実際に本機に搭乗したFAAの関係者も「このような航空機が日本だけしか飛ばないのは惜しい」と評していたことがある。

あとエンジンに関して訂正
×アリソンT56-A-15
○プラット&ホイットニーT34-P-9W

286:名無し野電車区
12/12/11 16:02:51.31 X8oudSay0
国鉄101系電車
1955年(昭和30年)に登場した日本国有鉄道の直流通勤形電車。
国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式を採用、近代的メカニズムを搭載し、
いわゆる「新性能電車」のはしりとなった系列で、80系電車や60系電車に続き、2両の電動車を、
1ユニットとして必要機器を分散して搭載するMM'ユニット方式を引続き採用、
直巻整流子電動機を抵抗制御、発電ブレーキ併用の電磁直通ブレーキと、コイルばね台車、
車体は切妻形で運転台は傾斜した平面3枚窓のシンプルなデザイン、両開き4扉を持つ軽量構造の、
全金属車体、車内は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシートを備え、続く103系電車にも、
ほぼそのまま引き継がれた、国鉄通勤形電車の一時代を画した仕様である。
この基本システムは1980年代前半に至るまで、国鉄電車に広く応用された。

1951年(昭和26年)頃から各車輌製造メーカーでは駆動方式を従来の吊り掛け駆動方式から脱却して、
新世代のカルダン駆動方式にする研究と試作が続いていたが、共振や製造コストの高さなどで、
開発が延滞していたが、アメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリック社などから最新技術を導入して、
1953年(昭和28年)に大手私鉄の東武鉄道と京阪電気鉄道、営団地下鉄などがカルダン駆動を採用した、
高性能なカルダン駆動車の通勤電車が開発、増備され、通勤輸送の質的改善に成果を上げていたことで、
1953年(昭和28年)9月に国鉄でも新性能通勤電車の開発を始め、開発当初は加減速性能の向上を狙って、
全電動車方式(オールM編成)を採用したのが大きな特徴である。個々の電動機の能力を極限まで、
高めるのではなく、全車両を電動車として編成全体の出力を高める方針が取られ、
主電動機は新開発した高回転型で小型軽量なMT46形が用いられた。

287:名無し野電車区
12/12/11 16:10:14.95 X8oudSay0
車体
1954年(昭和29年)に試作された40系電車全金属車体の基本構造を採用、全金属製セミ・モノコック構造、
車体長は19.5m、ウィンドウ・シル/ヘッダーのない車体の断面は幅2.8m、両側がまっすぐ立ち上がる形で、
前面は切妻非貫通型、運転台の前面は上部が室内に約10度傾いた3枚窓で、3枚の運転窓は各独立した、
Hゴム支持となり、運転台上方に方向幕と運行幕枠の取付、前照灯は幕板上部に埋込まれ、
客用扉は1300m幅の両開き扉に変更、ドア間の側面客室窓はアルミサッシを用いた全開可能な2段上昇式を、
2組1セットにまとめたデザインとなり、戸袋窓は縦方向に長いHゴム支持の固定窓とされ、
通風器は通風能力を重視した大型グローブ式を電動車は屋根上に6個1列、付随車は屋根上に7個1列に並び、
室内の通風器通風口には換気面と居住性改善のために扇風機を設置、この扇風機は40系電車を始め、
60系電車、80系電車の小型と違い、かなり大きい大形の扇風機が設置された。室内は40Wの蛍光灯照明が、
国鉄車輌では初採用され、座席は扉間7人掛け、車端部3人掛けのロングシート、制御車は戦前からの、
半流型52系電車と同じ、運転台と扉の間には座席の設定は行われ無かった。客室から運転台への扉は、
客室から見て右側に配置、この配置は後の103系電車を始め、多くの国鉄車輌に長く用いられている。

走行機器
主電動機は新開発のMT46形で、端子電圧375V、1時間定格100kwの直流直巻整流子電動機(補極付)で、
分路界磁制御自己通風型であり、主制御器も新開発したCS12形で、発電ブレーキの制御が追加、
ブレーキは電磁直通方式のSELD方式、台車は新開発のDT21形を電動車に採用、付随車はTR64形。

288:名無し野電車区
12/12/11 16:11:27.92 X8oudSay0
基本形式
クモハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの片運転台を持つ制御電動車(M')で、モハ101形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1955年(昭和30年)から1957年(昭和32年)までに、
全金属車体で10両を新造、ユニットの関係上、全車が偶数向きとされていた。

クモハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの片運転台を持つ制御電動車(M)で、モハ100形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは車体後方、連結側の屋根上に搭載、ユニットの関係上、
全車が奇数向きとされ、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造された。

モハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない中間電動車(M')で、クモハ101形・モハ101形と、
ユニットを組み、MG、CPなどの補機類が搭載され、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに、
全金属車体で新造、ユニットの関係上、全車が偶数向きとされていた。

モハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない中間電動車(M)で、モハ100形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、ユニットの関係上、パンタグラフは全車下り向きの屋根上に搭載、
1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造された。

289:名無し野電車区
12/12/11 16:18:25.23 X8oudSay0
サハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの運転台を持たない付随車(T)で、1955年(昭和30年)から、
1963年(昭和38年)までに全金属車体で新造された。

クハ100形
車体長20m級両4扉ロングシートの制御付随車(Tc)で、1955年(昭和30年)から、
1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造、全車が偶数向き専用とされたいた。

クハ101形
車体長20m級両4扉ロングシートの制御付随車(Tc)で、1955年(昭和30年)から、
1965年(昭和40年)までに全金属車体で新造、全車が奇数向き専用とされていた。

計画の頓挫
試作車10両1本が1955年(昭和30年)3月に登場し同年6月から中央線で営業運転を開始したが、
すぐに使用電力の多さが問題になり、限流値の抑制により加速力を抑えて運転することになった。
10M100%乗車時の起動加速度は約2.2km/h/s、旧形電車の6M4T100%乗車時の起動加速度は約2.0km/h/sで、
このため全電動車編成でありながら付随車を従えて走る旧形電車と性能面では大きく変わらなかった。
同年7月に量産車の全電動車10両編成2本を同線に投入したが、試作車の投入時と状況は変わり無く、
性能を十分に発揮することが出来ないことから量産車の中央線投入を一旦、中止した。

290:名無し野電車区
12/12/11 16:19:33.56 X8oudSay0
電力設備が整っていないことで性能を殺さざるを得なかった101系電車だが、中央線の新性能化後は、
総武線や常磐線など他の通勤路線に順次投入することが計画されており、これらの路線の多くが、
10両編成であること、電気設備が中央線同様101系電車の全性能運転には耐えられないこと、
MT比1:1にすると加速度が旧形国電以下に落ちることから加速度を維持するために起動電流を多く、
流す必要があるが、主電動機の温度上昇問題もあり、どの程度まで過負荷にできるかは未知数であった。

そこで1955年(昭和30年)11月に営業列車を用いてMT比1:1とした場合、主電動機の温度上昇についての、
試験を行ったところ、MT比1:1で限流値350Aの場合は、閑散時もラッシュ時も限界温度以上の熱を持ち、
いずれ運用に支障が出ることが判明したことで、国鉄本社は101系電車を非効率と位置付け、
次世代の汎用的通勤電車として101系電車が使えないこと結論付けたことから、どのような線区でも、
設備投資を増強せずとも使用でき、さらに車両制作費の面でも経済的なMT比1:1編成が可能な、
標準型通勤電車の開発を新たに始めていくことになり、それまではMT比2:1とした101系電車を、
新造して間に合わすことにして、この時点でクモハ100形の新造は中止となった。

291:名無し野電車区
12/12/11 17:18:01.54 X8oudSay0
次期通勤電車までのつなぎ
101系電車が通勤輸送を改善する最善手にならないことは明らかではあったが、次期通勤電車の設計には、
回生ブレーキなどの試験結果なども待つ必要があり、当面は101系電車の増備を続ける必要があり、
中央線には6M4Tの朱色1号のMc-M'-Tc-Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの10両編成で投入されたのを皮切りに、
1956年(昭和31年)から車体塗装を黄色5号に塗られた山手線へ6M4Tの10両編成が投入され、
翌年の1957年(昭和32年)には黄色5号で総武線に10両編成が投入、1958年(昭和33年)には、
中央線と同じ朱色1号に塗られた10両編成が大阪環状線に投入され、1959年(昭和34年)には常磐線に、
朱色1号の10両編成が投入、京浜東北線に黄色5号の10両編成が投入された。
京浜東北線に投入された10両編成はMc-M'-T-Tc-Mc-M'-T-M-M'-Tcの基本6両編成+付属4両編成で、
1959年(昭和34年)当時、京浜東北線では基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていたことと、
下十条電車区と蒲田電車区では検修線が10両分無く、配置されていた40系電車は4両と6両に編成を、
分割して検修を行っていたことに合わせた為で、当時、京浜東北線は配置両数は700両以上と多く、
103系電車投入後でも4分の3は旧形国電であったため、少しでも新性能化を促進する目的で、
1961年(昭和36年)に京浜東北線へ103系電車と同じ青22号に塗られた10両編成が投入された。
1965年(昭和40年)7月から赤羽線も10両編成になっており、車両の配置も山手線と同じ池袋電車区で、
あった絡みで、山手線に103系電車が投入、捻出された101系電車を用いて赤羽線の101系電車化を行った。

292:名無し野電車区
12/12/11 17:20:17.23 X8oudSay0
800番台
中央本線の臨時列車増発で、トンネル断面の小さい高尾以西への入線に対応するために、
パンタグラフ取り付け部の屋根高さを低くした構造の車両で、1961年(昭和36年)に、
パンタグラフを備えたクモハ・モハ101形のみが登場した。
特徴として、他系列の低屋根車と同じく低屋根部分は扇風機に代わってファンデリアが備えられ、
国鉄時代末期までは全車武蔵小金井電車区に配置されていて、1980年(昭和55年)には鶴見線に転用。
クモハ101形800番代(801-806)モハ101形800番代(801-810)

その後
本来、中央線用として500両程度作ればよかっただけの101系電車の製造が完全に打ち切られたのは、
103系電車の製造開始から5年が経過した1965年(昭和40年)で、常磐線が1961年(昭和36年)から、
Mc-M'-T-M-M'-T-T-M-M'-Tcの基本10両編成にMc-M'-M-M'-Tcの付属5両編成を併結した15両編成化、
したためで編成両数の違いから編成の組替え、電動車2両を組み込む必要が生じたこと、山手線から、
総武緩行線に101系電車を転用する際に、大阪環状線など一部の増備に際して、将来の転用を視野に、
分割り出来る編成Mc-M'-Tc-Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの基本7両編成に付属3両編成の増備が必要と、
なったためで、その結果、製造両数は1375両に及び、1000両近くが101系電車の性能に適さない路線での、
使用となり、また6M4Tでの運転自体も性能ギリギリだったことから、1960年(昭和35年)以降、
新製冷房103系電車の新造と配備以後も冷房化改造が満足にできないなどの弊害があり、
中央線、山手線、京浜東北線、総武緩行線など首都圏の重通勤路線は103系電車化するまで、
冷房化率を上げることが困難であった。

293:名無し野電車区
12/12/11 17:25:58.18 X8oudSay0
南武線
1967年(昭和42年)中央線に新製冷房車の103系電車が配置で捻出された10両編成2本が南武線に転出、
新たに電動車2両を新造して、編成をMc-M'-T-M-M'-Tcの6両編成4本に変更して投入したが、
南武線投入車への冷房改造は1972年(昭和47年)まで行われなかった。

武蔵野線
1973年(昭和48年)4月1日に武蔵野線府中本町駅-新松戸駅間の開業にともない、
常磐線の松戸電車区から15両編成6本を転属させ、Mc-M'-T-M-M'-T-T-M-M'-Tcの10両編成6本と、
Mc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本に組替え、同線には一部区間に、
長大トンネルが存在することから、A基準に準拠した難燃化対策が施された。
その後、京浜東北線に配備されていたMc-M'-T-Tc-Mc-M'-T-M-M'-Tcの10両編成5本を転入させ、
Mc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本を関西本線(大和路線)の電化用に転属させた。

関西本線(大和路線)
1973年(昭和48年)9月20日に関西本線(大和路線)湊町駅-奈良駅間電化用に、
武蔵野線の武蔵野操車場からMc-M'-M-M'-Tc+Mc-M'-M-M'-Tcの10両編成3本が転入、
関西本線(大和路線)では、分割されて5両編成で運行、1989年(平成元年)3月13日の、
ダイヤ改正まで運行された。

片町線
1976年(昭和51年)常磐線から捻出された5両編成5本が転入、さらに大阪環状線の森ノ宮電車区から、
Mc-M'-T-T-M-M'-Tcの7両編成から付随車1両を外した6両編成3本が転入、片町線で運用開始。

294:名無し野電車区
12/12/11 20:56:28.91 POUCUzznO
西武鉄道350系
1977年に初の4ドア車両として2000系を投入したが、現場サイドからすれば
既存の101系を基本とした4ドア車両を求める声が多く、1984年に新101系シリーズ
最終型の301系モハ313編成投入した後の1986年に101系の4ドア車両試作車として
8両編成5本が落成した。今回からは東急以外に日立が製造に参入したため、所沢工場製は2本のみ。
走行系は新101系(301系)を基本としているものの、車内は3000系に準じたもの
となり、また冷房装置はラインテリアに変更され、補助電源はSIVに変更された。
101系シリーズ唯一の側面方向幕も付いた車両でもある。
新宿線に3本 池袋線に2本されたが、池袋線には馴染めず、2年後には全て
新宿線に転属された。
1988年にも2本投入される予定であったが、既存の101系ベースの車両よりも
2000系を増備が得策と判断され、その後は新2000系に4ドア車両の量産が
切り替えられてしまい製造は打ち切られた。
主に準急や急行に用いられたが、10両編成にするためには2連車が必要であったが、
新宿線には新101系の2連がなく、401系の連結が出来ないことから単独使用が余儀なくされた。
苦肉の策としてサハ1350形の間の5-6号車に新101系のを連結する変則的な
混血10両編成が組成された。
組まれた101系のモハは242 245 258 259である。モハ1355の編成には2連の290編成を
組み込んだ。
2006年の更新工事により制御装置をVVVF制御化され、車内は9000系に準じた
ものとなった。同時に9000系に編入されることになり9050系に差別化されている。
2011年にはシングルアームパンタ化及び全車両が30000系と同じ空気圧縮機に変更された。
なおこの際に全車両が10連貫通化されているが、4M6Tとなったために真ん中に
組み込まれる車両の種車は301系のサハに変更され、4ドア車両に車体を更新している。
また2010年に全車両が池袋線へ集結されている。


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