12/11/16 09:43:43.22 +DNmqdUQ0
国鉄50系電車
1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて、日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
京阪神地区固有の急行電車として計画、それまでの日本における電車原則に反する、
「運転台のない中間車にモーター搭載」とする中間電動車方式を日本初、鉄道省初採用とし、
1936年(昭和11年)1月31日の車両形式称号規程改正で車両の種類を表す記号が変更、
それまでの電動車は全てモハが使われていたが、改正後は動力装置のある運転台車両は、
クモハに名称が変更、50系は最初にクモハが使われた車輌で、4両固定編成を組むことを前提に、
各部の設計が行われて、汎用性を重視する戦前の鉄道省制式電車としては極めて異例の車両である。
基本設計は32系電車に準じ、主電動機は出力136kWのMT36、主制御器はCS7、歯車比1:2.04、
車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れ、電気溶接による全溶接構造、
加えて側窓上下の補強用帯を外板裏側に隠した、ノーシル・ノーヘッダー方式を採用、
併せて雨樋を屋根肩部からより上部に移設して、幕板と屋根板肩部を一体とした、
張り上げ屋根方式を採用したこともあって、非常に平滑なすっきりとした外観となった。
また、連結面は完全な切妻とされ、編成としての美観を考慮したデザインとなり、狭窓の初期2編成は、
裾部が丸め込まれた床下のスカートを装着して流麗にまとめられ、当初は「魚雷形電車」と形容され、
後には「流電」の愛称で親しまれたが、床下機器の保守の障害、乗務員扉を省略したことで、
さまざまな不便が生じ、実務にあたる運用・保守の双方から大きな不評を買い、スカートの撤去、
乗務員扉の増設が行われ、各部の改善は52系製造に引き継がれ、本格的な特急形車両開発の礎となった。
188:名無し野電車区
12/11/16 09:45:08.70 +DNmqdUQ0
モハ50形2両(50001-50002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等中間電動車で、鉄道省初の中間電動車で、窓配置2D2(12)2D2、
両妻面は切妻型、パンタグラフは番号に関係無く、下り向きの屋根上に搭載、台車はDT12A、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はガーランド形を1列配置されていた。
クモハ51形2両(51001-51002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御電動車で、運転室は全室型、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
窓配置3D2(12)2D2、パンタグラフは車体後方の屋根、連結側に設置、連結面の妻面は切妻型、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置、台車はDT12A、
全車が番号に関係無く上り向きにされていた。
サハ55形2両(55001-55002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D2(12)2D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、
屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置、台車はTR23。
クハ56形2両(56001-56002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、運転室は全室型、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
窓配置3D2(12)2D2、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器は、
ガーランド形を1列に配置、台車はTR23、全車が番号に関係無く下り向きにされていた。
189:名無し野電車区
12/11/16 09:48:13.16 +DNmqdUQ0
1936年(昭和11年)3月31日付で4両1編成が川崎車輛兵庫工場で製造、4月22日に2編成目も製造、
急行運用に使用が開始されたのは同年7月1日で、竣工直後の編成は以下の通りで、
東海道線基準で京都寄りにクモハ51形、神戸寄りにクハ56形を連結した。
51001-55001-50001-56001
51002-55002-50002-56002
当初は従来通りの葡萄色を主体として、扉と窓枠、スカートがベージュ、さらに屋根を灰色に塗装、
比較的地味な塗装であったが、すぐに窓周りをクリーム色、幕板と腰板をマルーンの2色、
急電色に変更された。二等車が必要な場合はサハ55形を外し、32系サロハ24形を連結して対応、
1937年(昭和12年)10月にはサハ55形にトイレを設置、全車のスカート撤去、
およびクモハ51形、クハ56形に乗務員扉の設置が行われた。
急行電車運休
1940年(昭和15年)以降は電力事情の問題から急行電車も運休となる事例が出始め、
1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行電車の運転を中止された。
戦時改造
戦時体制による輸送強化で、50系も3扉化改造計画が浮上、この計画は戦争の激化による物資の不足、
人手の不足により、1両の改造もないまま終戦を迎えた。
戦後
本系列での戦災廃車は1両も無く、戦時中に扉を増設する等の車体改造は行われなかったが、
クロスシートを撤去、座席のロングシート化が行われており、戦時中の酷使や、戦後の乗客の急増、
整備の不徹底によって荒廃した状態となっていたが、1948年(昭和23年)には戦後いち早く整備が行われ、
戦前の設備が復活、乗客に喜ばれた。
190:名無し野電車区
12/11/16 10:19:12.59 zloJrPzwO
東武2000系(もしも、東急が屈した場合)
18mという要件を押し通した東急が突然東武の要件を飲まざるえなくなった。
20mという点以外は変わらないが、最終的に強度不足で冷房が取り付けられず廃車となった。
その後、関東私鉄はすべて先頭車20.14m?中間車20mというガイドラインが早々と導入されることになる。
191:名無し野電車区
12/11/16 10:37:33.48 +DNmqdUQ0
急行電車復活と阪和線転用
1948年(昭和23年)10月1日に京都-神戸間で急行電車の運行が復活することになり、
4両編成2本が急行運用に入る為、車体塗色を「アイスキャンデー色」と呼ばれる濃淡の青色で塗分け、
その塗分け部に赤線を配した塗色に改められた。1950年(昭和25年)8月から同年9月にかけて、
80系電車が宮原電車区に新製配置、同年10月1日より急行電車に投入されるまで使用され、
その後は阪和線の特急電車運用に転用する為、1950年(昭和25年)9月より本系列を吹田工場で、
車体塗色を緑1号と肌色に近いクリーム3号のツートンカラーに変更して鳳電車区への転属を実施、
この特急色は後に阪和色と呼ばれた。
飯田線に転用
阪和線では年々、乗客の増加が激しくなり、特急運用にも30系、35系の3扉車が活用される状況で、
1955年(昭和30年)から阪和線に70系電車の新製配置が開始されると、乗客から2扉車の50系が、
敬遠されるようになったことで、阪和線での50系運用が難しく、限界に達したと判断され、
日本国有鉄道本社では50系の転用先が検討され、「流線形電車」という記念碑的な車両をどこに、
転用するかが話題となっていたが、2扉クロスシートという装備を活かせる長距離路線を探した結果、
飯田線と身延線が候補に上り、低屋根改造を要しない飯田線に転用されることとなり、
1956年(昭和31年)4月に鳳電車区から豊橋機関区に転属、一旦は4両編成で普通列車に使用され、
同年10月からは飯田線に快速列車が設定され、50系が使用されることとなると、豊川分工場に入庫して、
窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けた東海色とされ、快速運用に入ったが、
運転台が広過ぎるのが徒となり、一人乗務の運転士では単線区間の通過駅でのタブレット授受に、
支障をきたすと言うことで、急遽快速使用を止めたが、翌年3月には運転士2人乗務制となることで、
快速運用が復活するが、1961年(昭和36年)3月31日に80系最初期車4両編成が快速運用に充てられると、
快速運用から外され、以後は普通列車に使用、豊橋機関区から伊那松島機関区へ転属、
1968年(昭和43年)以降は横須賀色と塗替えられた。
192:名無し野電車区
12/11/16 10:38:57.64 +DNmqdUQ0
終焉と保存
50系電車は旧形国電最末期の1983年(昭和58年)8月まで使用、戦前の鉄道省を代表する電車なので、
廃車後は第1編成を残し、第2編成が早々と解体されるため、東海道線を上り、横浜で折り返りて、
大船工場に入庫、同工場で解体され、同年8月31日に第1編成が「さよなら運転」と称して、
豊橋-大阪間に臨時運行され、運行終了後は吹田工場に入庫、そのまま4両編成のまま保管されていたが、
国鉄民営化後にクハ56001とモハ50001は末期姿のまま、国鉄吹田工場玄関前に展示されることになった。
残りのクモハ51001とサハ55001は一時期、解体の危機に瀕していたが引続き、吹田工場で留置、
2010年(平成22年)10月にJR東海から名古屋市港区に開館予定のリニア・鉄道館で、
展示する打診を受けたことで、JR西日本からJR東海に譲渡されることが決定、譲渡にあたり、
吹田工場で製造時の姿に復元され、2011年(平成23年)3月14日から同舘で展示公開されている。
193: 【東電 72.2 %】
12/11/16 12:47:49.30 b6MdMfoLO
>>190
東武2000系(20m車)冷房改造車:
強度不足で廃車とされると思いきや、アルナ工機で車体補強工事をして、1720/1800系同様のキノコ形冷房改造をした(ファンデリアを冷房送風口に改造)。
同時に地下鉄内の熱籠もりで営団から苦情が来るので、電機子チョッパに改造(サヤ8001で試験)直巻電動機をそのまま使う為、9000系量産先行車搭載の主回路チョッパや10000系の抵抗併用界磁チョッパは採用しなかった。
CPはDH-25DからHB-2000に交換し、CP設置車を削減。MGはBLMG
20000系投入後は、業平橋線系統では使いづらいので東上線に転属して地上専用になった。
東上線ATC化に伴い全廃。
東武20000系/20050系/20070系(20m):
2000系の冷房改造でも陳腐化が激しかった為、10000系をベースに投入。また、20m故に東上線の有楽町線直通用編成も製造。9000系量産車は3編成(9102F~9104F)に留まり、1988年の3(21001F~21003F)編成と1991年の1編成(21004F)は20000系となった。
ちなみに9050系は製造されず、有楽町線新線に伴う増備は20050系になった。
東上線20000系/20050系:
21000-22000-23000-*24000-25000-26000-*27000-28000-29000-20000(*はサハ)
194:名無し野電車区
12/11/17 11:48:26.58 GPPBetOIO
>>193
東急9050系
7000系の代替として平成元年より投入された9000系の日比谷線対応型。
VVVF装置が東横線用の日立ではなく東洋電機GTOになっているのが区別点である。
8両編成7本投入され、間合いで東横線の地上運用にも使われている。
2012年の直通運転廃止を前に大井町線に転用された9000系のデハ及びサハを
組み込んだ10連化した上で田園都市線への転用を開始。現在残り3編成が最後の運用に就く。
これらの残りと田園都市線2000系全ては豊橋鉄道へ、8500系の8542Fは富士急行へ
それぞれ譲渡されることになっている。
富士急は8500系を7000系として富士登山電車用とフジサン特急用として
3連3本の陣容とする予定で、現行フジサン特急の2000系はしなの鉄道169系の
保守部品取りとして全て廃車され、現行の富士登山電車は銚子電鉄へ無償譲渡される。
195:名無し野電車区
12/11/18 01:10:26.21 e67iuXOc0
クモヤ90-920番台。
牽引用クモヤ90のうち数両は全金属製モハ72-920番台から改造された。
前面はクハ79-920を貫通型にしたような形、最終に改造されたものはクモヤ145などと同じ前面である。
JR化後も東日本に2両、東海に一両、西日本に2両残されたが2000年代に全車廃車となった。
そのうち東日本に残存していたうちの一両は碓氷峠鉄道文化村に保存され、
西日本に残存したうちの一両は松任工場に残されたクハ79920とともに梅小路鉄道博物館の保存車両として保存される予定で
吹田工場に留置されている。
196:名無し野電車区
12/11/18 19:01:22.28 D+vppYK10
>>194
20mだったら東急日比直は廃止にならなかったと思うが。
197:名無し野電車区
12/11/19 10:00:15.48 a1qNkhLE0
国鉄52系電車
1937年(昭和12年)度と1939年(昭和14年)度に日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した、
車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
1936年(昭和11年)に登場した50系電車が好評なことと、京阪神間での優位を確保するため、
翌年の1937年(昭和12年)度中に4両編成4本の計16両が増備され、第1編成が同年6月25日、
第2編成が7月26日、第3編成が9月10日、第4編成が10月8日に宮原電車区へ配置された。
52系は50系と車体基本構造は同一だが、同車の使用実績を反映して側面窓が広幅に変更され、
三等室が1100mm、戸袋車端部が700mm、二等室の部は1200mmとなったことでスマートさが増し、
50系で採用された中間電動車をさらに進化させ、先頭車は完全にモーターを搭載せず、
運転台のない中間車だけにモーター搭載とする完全中間電動車方式を採用、50系で問題視された、
スカートの廃止、乗務員扉も製造時から設置、屋根上の通風器はガーランド形2列に変更された。
主電動機は50系と同じ吊り掛け式だが、出力136kWのMT36から出力140kWのMT42に変更され、
50系の「旧流」に対して52系は「新流」と呼ばれて利用客に好評、大阪鉄道局でも、
旧流を1次車、新流を2次車と呼ぶようになった。
大阪での評価が高かったことから、東京鉄道局でも52系を横須賀線に投入する要求を出し、
検修サイド側からの意見で流線形の前面では何かと不都合と要求が出たことで、前面の設計を見直し、
両端の制御車を流線形から通常の貫通路付きに変更、貫通路付き前面は平妻構造ではなく、
32系制御車クハ58形の最終増備車と同じ半流線形構造の運転台となり、東京鉄道局では、
先頭車同士の連結した場合、通り抜けは行って無いことから幌と幌座の装備は行われ無かったことから、
ひじょうにスマートな前面となり、形式もクハ59形が付番され、後に半流型は3次車と呼ばれ、
当時、横須賀線は20m級6両編成で運行していた都合上、4両編成では運用に支障が生じるので、
モハ52形から電装部分を省いた、運転台を持たない三等付随車サハ57形が8両新造され、
3M3Tの6両編成で1939年(昭和14年)度中に田町電車区へ6両固定編成8本の計48両が配置された。
198:名無し野電車区
12/11/19 10:01:24.05 a1qNkhLE0
モハ52形(52001-52032)
1937年(昭和12年)度に8両、1939年(昭和14年)に24両、計32両が製造された、
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、側窓は広幅、
窓配置2D2(6)2D2、両妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、台車はDT12A、
パンタグラフは番号に関係無く、下り方の屋根上に搭載されていた。
サハ57形(57001-57008)
1939年(昭和14年)に8両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等付随車で、側窓は広幅、窓配置2D2(6)2D2、両妻面は切妻型、
車両間に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。
クハ58形(52001-52008)
1937年(昭和12年)度に計8両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
運転室は全室型、窓配置d1D1(6)2D2、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR23、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
クハ59形(59001-59016)
1939年(昭和14年)度に計16両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、前面は貫通扉付きの半流線形構造、先頭部は貫通扉付きだが、
幌枠台は付けられておらず、スマートな前面で、運転室は全室型、窓配置d1D2(6)2D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR23、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
199:名無し野電車区
12/11/19 10:06:55.66 a1qNkhLE0
車体塗色
京阪神間に投入された2次車はクリームとマルーンのツートンカラー、急電色で塗装され、
横須賀線に投入された3次車はブライトブルーと呼ばれる青20号1色に塗装された。
青20号は4扉通勤車の40系電車で初採用された塗装で、山手線、京浜線に続き3番目に採用、
これ以降、横須賀線を走る32系も順次、青20号1色に塗替えられた。
竣工直後の編成 東京-神戸
58001-52001-52002-58002(急電)1937年
59001-52009-52010-57001-52011-59002(横須賀線)1939年
戦時体制
1940年(昭和15年)戦時体制下の電力事情問題で、京阪神間の急行電車も運休となる事例が出始め、
1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行電車の運転を中止、急電色はぶどう1色に塗替えられた。
3扉化、4扉化改造計画
この計画は末期まで実行されず、戦争の激化による物資の不足、人手の不足により、
1両の改造もないまま終戦を迎えた。
戦後
本系列での戦災廃車は1両も無く、戦時中に扉を増設する等の改造は行われなかったが、
クロスシートを撤去、座席のロングシート化が行われており、戦時中の酷使や、
戦後の乗客の急増、整備の不徹底によって荒廃した状態となっていたが、
1948年(昭和23年)には戦後いち早く整備が行われ、戦前の設備が復活した。
200:名無し野電車区
12/11/19 10:14:58.08 a1qNkhLE0
急行電車復活
1948年(昭和23年)10月1日に京阪神間で急行電車の運行が復活することになり、
2次車4両編成2本が急行運用に入る為、車体塗色を「アイスキャンデー色」と呼ばれる、
濃淡の青色で塗分け、その塗分け部に赤線を配した塗色に改められ、残りの2次車2本も、
窓周りをクリーム色、幕板と腰板をマルーンの急電色にに塗り分けたられた。
2次車の横須賀線転用
1950年(昭和25年)8月から9月に80系電車が宮原電車区に新製配置、同年10月1日から、
急行電車に運用されると、急行運用から離脱する2次車の転出先が問題となり、
同年7月1日から横須賀線にも東京-久里浜間に準急電車が設定され、80系電車8両編成が投入、
横須賀線の基本編成が8両編成になったことで、2次車を横須賀線に転出させることが決定、
横須賀線への転出にあたり、2次車は4両+4両の8両編成にされ、そのうちの8両編成1本は、
急電色から横須賀色に変更されたが、アイスキャンデー色の4両編成2本は、
東京鉄道管理局の意向で、アイスキャンデー色のままで運用され、沿線の乗客を喜ばせた。
また2次車の横須賀線転入により、横須賀線から32系6両編成4本が東海道線に転出した。
3次車の編成組替え
横須賀線に80系電車の投入で、基本編成が6両編成から8両編成に変更されたことで、
3次車48両の全編成変えを実施、6両編成4本からモハ52形1両、サハ57形1両を抜き、
8両貫通編成4本、4両編成×2の8両編成2本に組替えられた。先頭車同士が向い合う、
8両編成は貫通は行われなかった。
201:名無し野電車区
12/11/19 10:18:43.57 a1qNkhLE0
便所の設置
横須賀線のクハ58形とクハ59形、サハ57形の全車は、長距離運用に供されることから、
1954年(昭和29年)度に大井工場において便所の新設を行った。その際、便所向い側のシートは、
クロスシートに変更され、全車が対象だったことから改番は行われなかった。
飯田線に転用
1952年(昭和27年)には4扉セミクロスシートの60系が横須賀線に新製配置され、
乗客も2扉車と4扉車の乗車位置違いを上手く利用して、支障の無い乗降を行ってきたが、
沿線の発展とともに年々乗客数が予想を上回る急増加したことで、朝夕ラッシュ時には、
2扉車の乗降時間がダイヤの乱れを生じ出した1956年(昭和31年)2扉車の運用は限界に達し、
日本国有鉄道本社では何処に転用するか早急に検討され、2扉クロスシートという装備を活かせる、
長距離路線の飯田線に転用されることとなり、1956年(昭和31年)末に2次車、3次車の全車が、
伊那松島機関区に転属、すぐに豊橋機関区に転属した。
サハ57形を制御車に改造
飯田線に転出した3次車のサハ57形全車は1957年(昭和32年)1月29日付で豊川分工場にて、
運転台を新設、制御車(奇数向き、偶数向き)に改造され、クハ59形100番代59101-59104に編入、
改造の際、運転室側の前面はクハ59形と同じ半流型となったが、前面の貫通扉は設置されず、
40系と同じ非貫通型の半流型前面とされ、2次車とともに人気を博した。
202:名無し野電車区
12/11/19 11:04:22.85 a1qNkhLE0
飯田線での車体塗色
2次車、3次車の塗色については、転入後も横須賀線時代そのままで使用されたことで、
飯田線には2次車の横須賀色2本、アイスキャンデー色2本、3次車の横須賀色8本が走ったが、
1968年(昭和43年)にはアイスキャンデー色の2次車も横須賀色に塗り直された。
終焉と保存
飯田線の2次車、3次車は旧形国電の運用最末期である1983年(昭和58年)8月まで使用され、
廃車後は国鉄関係者、特に大阪鉄道管理局の関係者の尽力で2次車のモハ52001とクハ58001が廃車時、
末期姿のまま、急電色に塗替えられて大阪の交通科学博物館に保存され、モハ52002とクハ58002も、
末期姿で浜松工場で保管、同工場で修繕された際に横須賀色からアイスキャンディー色に塗替えられた。
国鉄民営化後は引続き、浜松工場で保管されていたが、2006年(平成18年)7月にJR東日本から、
さいたま市大宮区に開設する鉄道博物館で保存展示したいため、譲渡の打診があったことで、
JR東海からJR東日本に譲渡、2007年(平成19年)10月14日から同博物館で展示公開されている。
3次車の保存は、第8編成のクハ59007-モハ52031-モハ52032-クハ59008が横須賀色のまま、
大船工場で保存され、国鉄民営化後も引続き、同工場で保管、公開されていたが、
2006年(平成18年)2月8日に同工場の閉鎖前日に東京総合車両センターに移動、
以後は東京総合車両センターで保管されている。なお元サハ57形から制御車改造された、
クハ59形59103が個人に売却され、現在も購入主の元で保存されている。
203:名無し野電車区
12/11/20 16:27:01.60 SdbRbSBN0
117系900番台
国鉄が製造した117系のチョッパ制御試験車。
201系と同様のチョッパ装置を搭載した。
主電動機はMT60で、歯車比は4.82であるため120キロ運転が可能である。
台車はDT46/TR231を採用。
204:名無し野電車区
12/11/21 13:32:34.34 co89wKxiO
JR北海道881系・JR東日本E759系・JR北海道729系・JR東日本E729系:
北海道新幹線開通に伴う青函トンネルの25kV化に伴い、特急型の白鳥置き換えと一部普通に格下げ。
白鳥は新幹線との絡みで本数削減して、削減分は普通に格下げ。
複電圧で、制御系統はE6系をベースにする。
205:名無し野電車区
12/11/22 09:15:18.08 V+faIRKqO
201系950番台 205系900番台 910番台
国鉄が205系を作るにあたって昭和59年と60年にそれぞれ試作したもの。
軽量化と制御装置系の試験的観点で作られた。
201系950番台は前面は201系と同じだが、車体はステンレス製で東急製のために
当時の私鉄車両同様にコルゲートが多いものを使用している。
制御装置はサイリスタチョッパではなく、当時の大手私鉄が採用し始めた
界磁チョッパ制御式で、東洋電機製の機器を採用した。
そのため走行音は東急8500系同様の轟音だが、重量を電動車で42tから38.5tまで軽量化した。
翌年まず205系900番台が作られた。やはりコルゲートの多いステンレス車体であったが、
側窓は1枚窓下降式となり、制御装置は前年の201系950番台と同じように
界磁チョッパながらこちらは三菱電機製で小田急8000形同様の走行音が特徴。
台車はDT50/TR235試作のDT50/TR235XA XB XCである。
その後車体のステンレス板をコルゲートの少ないタイプを採用した原型に近い
910番台が作られた。
こちらは添加励磁制御式で三菱電機製界磁チョッパと争ったものの、
国鉄は量産車両は添加励磁式を採用することになった。
側窓の1枚窓下降式も採用されたが、910番台は通常の二段ユニット窓で
川崎は先行して920番台用に作ったものなど10両編成4本40両分を二段ユニット窓の
車体で作ってしまったために量産型の1~4が1枚窓にならなかった要因となる。
206:名無し野電車区
12/11/22 09:39:46.40 V+faIRKqO
>>205続き
配置
201系950番台は三鷹に配置されて中央 総武緩行線で使用された。
もともと編成が6+4編成であったためだが、東西線乗り入れ車両の301系 103系の
誤乗が表面化するなどしたため、平成元年には中央快速用として武蔵小金井に
飛ばされた。ただし6+4編成であったが運用は貫通編成同様の扱いで使われている。
その後豊田に移し、E233系が登場後は京葉線転用が有力視されたものの、
試作的要素の車を残されることはなく平成17年に廃車された。
205系900 910番台は山手線で広範囲に試験を行い、その後運用に加わった。
他線の試運転も精力的に行っており、総武 横浜 埼京 京浜東北などにも入った。
平成16年に231系に押しだされる形で京葉に転属。速度が量産型より劣るため
京葉線での使用は短期でそのまま武蔵野線に転用された。その際抜き取られた
モハはそのまま廃車された。
平成22年に209系500番台に取り替えられて廃車された。
207: 【東電 80.1 %】
12/11/22 13:46:38.91 xdfqDXNOO
E231系9000番台・E233系9000番台:
永久磁石同期電動機の長期試験目的。
E231系9000番台は取手快速用の付属5連を改造。E233系9000番台は中央線及び京葉線の4連として投入。
(0番台6連+9000番台/5000番台6連+9000番台)
208:名無し野電車区
12/11/23 00:43:16.25 mD7ou2kB0
クモユ445・クモニ444
国鉄が製造した交直流対応の郵便荷物車。
床下機器の関係で1両に纏める事が出来ず、クモユとクモニがコンビを組む構成になってる。
車体構造はクモヤ443と似ている。
485系の特急列車と併結して郵便・荷物列車の速達化を目論んだ。
209:anorak?
12/11/23 17:41:26.30 8lS69VFr0
>>171に続く平行世界もの
◎国鉄マユ45形郵便客車、EF68形直流用電気機関車、EF72形交流用電機
1986年
○1984年2月のダイヤ改正で貨物輸送のリストラと共に荷物と郵便も対象となり、ネットワークが疎となり、
特に走行中の車内で郵便物を区分けする取扱便が全廃、護送便と締切便が残った。
さらに郵政省は86年末までに鉄道の利点が活かせる政令指定都市圏間直行の高速締切便以外は全廃する方針を固めた。
それは、従来は、郵便小包は国鉄独自の荷物輸送とは競合するにも拘らず、郵便車は国鉄の荷物車と混結されて
列車の最高速度が95km/hだったのを、郵便を分離し、最高速度110km/hのパレット輸送車で編成された特急郵便列車を
札幌~東京~大阪~福岡などの各大都市間を直行するダイヤで新設し、この日本を一本で貫く系統以外は全廃。
この実現の為に以下の車両が郵政省の財政的支援で登場した。
マユ45は、パレット輸送特化で客車と言うよりも貨車にかなり近いマニ44をベースにブレーキ機能の改良でmax110km/h。
新造車0番台と先述の荷物列車削減で捻出されたマニ44からの改造車1000番台がある。
EF68は、東北本線黒磯以南及び東海道山陽本線での牽引機として設計され、それは、貨物削減及び85年の東京口
ブルートレイン牽引機のEF66への交代で捻出されたEF65形1000番台を種車に、EF60からEF67への改造と同様に、
回生ブレーキ搭載の電機子チョッパ制御に改造し、EF67と同様に出力を増強、粘着性能を向上、
EF65との大きな違いは定格速度が向上し、EF58並の高速運転性能を有する。
EF72は、東北線交流電化区間用に設計され、新造車だが先述の貨物削減で生じた廃車発生品を活用し、
走行システムはEF71/ED78をベースとして改良された回生ブレーキ搭載のサイリスタ連続位相制御で
ED75と比べて営業最高速度を110km/hに向上し、定格速度も、EF58並の高速運転性能を有し、
その意匠は重連運転を想定していないのでEF70に似る。
1986年11月の国鉄最後の全国規模のダイヤ改正で、先述の車両を使用した特急郵便列車が登場し、
それ以外の鉄道郵便は全廃された。
87年4月の国鉄分割民営化でJR貨物に承継。
その後、鉄道郵便はコンテナが主役となり、路線網も拡大され、その一方でマユ45による輸送形態は縮小し、
2007年で終了し、マユ45は全廃、EF68とEF72は現役。
210:名無し野電車区
12/11/26 02:11:21.51 o25f99Lt0
JR東日本E621系
JR貨物でED75の定期運用がなくなり、おりしも設備の老朽化が進んだため、
日本唯一の地上切り替え方式であった黒磯駅構内を直流化し、
デッドセクションを黒磯ー高久間に設置、
貨客とも交直両用車で運用することとなった。
これに伴い、主に黒磯-郡山での運用車両として
E621系が導入された。
車体はE721系に準じているが、交直両区間に対応すべく、機器配置が大幅に変更されている。
当該区間はワンマン運転のため、E721系後期車同様、ワンマン設備が設置されている。
なお、交流区間では交流専用車との併結も可能で、
郡山以北では、E721系や701系との併結運用もある。
後に羽越線用として、耐寒装備をより強化した1000番台も登場している。
211:名無し野電車区
12/11/27 14:31:41.71 elbJlIKi0
国鉄60系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1952年(昭和27年)に製造した旧形近郊通勤形電車形式群の総称である。
横須賀線や東海道線の通勤通学路線用の混雑緩和、長距離通勤路線用にポイントを置いた設計で、
国鉄初の4扉セミクロスシート車として開発、1952年(昭和27年)から1958年(昭和33年)にかけて、
80系電車と同じMM'ユニット方式の運転台を持たない中間電動車モハ60形とモハ61形、制御車クハ66形、
付随車サハ67形、二等車のサロ65形を始め、40系電車からの改造編入車を含めると合計1584両を指す。
1950年(昭和25年)横須賀線と東海道本線東京地区は沿線開発とともに輸送事情逼迫は極めて著しく、
当初は両線に新型車輌投入は早晩と思われていたが、朝夕ラッシュ時は通勤路線と同等な混み具合で、
新型車輌の投入が待った無しの状態となり、苦肉の策として通勤ラッシュ時に抜群の威力を発揮した、
4扉ロングシート車の40系電車を投入する予定だったが、長距離路線の性格上、座席数の確保も、
課題として残されていた都合上、40系電車の4扉と80系電車のクロスシートを合わせた発案がなされ、
車体は40系電車を基本に、扉間にクロスシートを1組、扉両脇に2人掛けのロングシートを設置、
扉部の車体中央にはスタテッション・ポールが1本、吊り革と手摺は40系電車より増設され、
80系電車と同じ動力分散方式で、2両の電動車を1ユニットで取り扱い、片方の電動車(M)に、
主制御器、主抵抗器、パンタグラフ、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せ、
1C8M制御のMM'ユニット方式を80系電車に続いて採用、主電動機もモハ80形と同じ吊り掛け式の、
150kWのMT42Bと電動カム軸接触器式のCS10も搭載、歯車比も80系電車と同一の1:2.56となり、
屋根上の通風器は、通風改善で新開発した取入口に5枚の立てフィンが付いた押込型を1列、
モハ61形は千鳥状に7個配置、それ以外の形式は千鳥状に8個配置した。
クハ66形の前面は計画時、80系電車1次車と同様に半流線型の非貫通型2枚窓で計画されたが、
既に80系電車は前面2枚窓の湘南フェイスで登場してた後だったことから80系クハ86形2次車と同様、
前面2枚窓の湘南フェイスで1952年(昭和27年)から製造された。
212:名無し野電車区
12/11/27 14:33:17.84 elbJlIKi0
基本形式
モハ60形0番代(60001-60178)
モハ61形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、MG、CPなどの補機類が搭載され、
窓配置は2D4D4D4D2で、両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車は新開発したDT17が装備された。ユニットの関係上、全車が上り向きになっていた。
モハ60形200番代(60201-60286)
モハ61形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更、台車はDT20を装着している。
モハ61形0番代(61001-60178)
モハ60形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、主制御器、主抵抗器を搭載され、
窓配置は2D4D4D4D2で、両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、
ユニットの関係上、全車が下り向き、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載され、
台車は新開発したDT17が装備された。
モハ61形200番代(61201-61286)
モハ60形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更、台車はDT20を装着している。
213:名無し野電車区
12/11/27 14:37:52.36 elbJlIKi0
クハ66形0番代(66001-66068)
車体長20m級4扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1952年(昭和27年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、前面窓は80系と同じ角枠の湘南フェイス非貫通2枚窓で、
乗務員室は全室型、乗務員扉と客用扉間に在る窓だけ幅23cmの下段上昇2枚窓とされ、
窓配置はd1D4D4D4D2で、台車は新開発したTR48を採用した。
クハ66形100番代(66101-66142)
車体長20m級4扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、前面窓の木枠がHゴム抑えに変更、
床がリノリウムを張り、室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更された。
サハ67形0番代(67001-67080)
車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1952年(昭和27年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D4D4D4D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR48。
サハ67形100番代(67101-67162)
車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、室内がアルミデコラ化粧板、
側面窓枠がアルミサッシに変更された。
214:名無し野電車区
12/11/27 14:39:03.30 elbJlIKi0
サロ65形(65001-65040)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二等付随車で、当初は東海道線専用であり、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)に半鋼製車体で新造、定員64名。
二等車であるため車体両端に幅700mmの客用扉を設け、窓は固定式クロスシート普通二等車共通の、
幅1200mmの2段上昇式大窓で、寸法が大きいことから、外観上は軽快な印象を受ける。
窓配置はD8D1となり、後位側に便所と洗面所を設け、座席は布地にブルーの塩化ビニール張りを使用、
床は木床の上に灰色のリノリウムを張り、デッキと客室との仕切は設置されなかった。
座席の布地に化学繊維を多用していることが特徴で、当時はまだ化学繊維が珍しく、
目新しさを強調することを目的に採用したことがうかがえる。台車はTR45を改良したTR45Aを装着、
サロ65形100番代(65101-65142)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二等付随車で、当初は東海道線専用であり、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更された。
1958年(昭和33年)TR48Aに変更した。後年に従来のモケット張りに変更している。
低屋根車
モハ60形800番代(60801-60826)
1952年(昭和27年)に登場した中央東線向けの三等中間電動車(M')で、MG、CPなどの補機類を搭載、
歯車比は40系電車と同一の1:2.87として、平坦線での高速性能よりは、むしろ勾配区間における、
登坂力に配慮したものとなっていた。
モハ61形800番代(61801-61826)
1952年(昭和27年)に登場した中央東線向けの三等中間電動車(M)で、主電動機や主制御器は、
モハ60形と同一であるが、同線に介在する狭小トンネルの建築限界の関係で、パンタグラフ部分の屋根が、
低く抑えられており、パンタグラフの折畳み高さを低減、歯車比も40系電車と同一の1:2.87として、
平坦線での高速性能よりは、むしろ勾配区間における登坂力に配慮したものとなっていた。
215:名無し野電車区
12/11/27 14:58:37.53 elbJlIKi0
車体塗色
60系電車の横須賀線向けに登場した車両は、横須賀線に投入された80系電車と同じ、
窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号の塗り分けられた横須賀色(スカ色)で登場、
すぐに東海道線用の窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けた「湘南色」でも登場、
先頭車の塗り分けも80系電車と同じ「金太郎塗」で塗り分けられたが、製造年によって、
多少の違いが有り、アールの角度がキツイのと、そうで無いのとで分かれていた。
なお1964年(昭和39年)以降、東海道線東京口で運用されていた車輌も、多線に転出後は、
多くがスカ色に変更されたのが多く、廃車まで湘南色で運用されたのは極僅かだった。
横須賀線での運用
1952年(昭和27年)2月に窓周りをクリーム2号、幕板と腰板を青2号に塗り分けたモハ60形が6両、
モハ61形が6両、クハ66形が4両、サハ67形が8両の合計24両が横須賀線用として固定12両編成2本で、
田町電車区へ配備され、同年中に12両編成6本を配備、それまで横須賀線の主役であった32系電車の、
置き換えを開始、60系電車は戦後横須賀線の主力となり、輸送力の増強に寄与、60系電車の増備に伴って、
横須賀線のダイヤと設備面も全面整備され、同年9月から東京-大船間の東海道線共用路線を分離、
品川-横浜間は品鶴貨物線を通り、横浜駅ホームの2面4線の増設、終日15分ヘッドを基準ダイヤ設定、
東京-横須賀間のホーム長が16両停車可能になったことで、車両面でも基本編成12両に付属編成4両を連結、
最長16連での運転を開始、60系電車の増備とともに、順調に輸送力の強化に努めてきた。
その一方で、横須賀駅-久里浜駅間は輸送需要が格段に落ちることから横須賀駅以南は付属編成4連による、
現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。
216:名無し野電車区
12/11/27 15:06:19.51 elbJlIKi0
東海道線での運用
1952年(昭和27年)2月に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を青20号に塗り分けたモハ60形が16両、
モハ61形が16両、クハ66形が16両、サハ67形が8両、サロ65形8両の合計48両が東海道線用として、
田町電車区へ配備、下り方から4両目と5両目に東海道線専用で設計された二等車サロ65形を2両組み込み、
基本12両編成と付属4両編成の最長16両編成で運行、電気機関車牽引の客車列車を始め、少数残っていた、
17m級車体の12系電車を始め、32系電車の置換え開始、こちらは運用当初、沿線需要に対して4扉車では、
過剰とも思える車輌配置だったが、沿線の宅地化による人口の爆発的増加で、すぐに需要を満たす、
車輌配置となり、同年9月には東京-大船間が横須賀線との共用路線を分離したことで、
ダイヤパターンも終日15分ヘッドに変更、現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。
山スカの登場
中央東線は戦前から甲府まで電化、17m3扉のクモハ11形400番代の4両編成で運行されていて、
1950年(昭和25年)には富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗り入れ運行用に、
80系電車8両編成で投入したが、桜木町事故後、狭小トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、
屋根高さを低く抑えた専用の形式が求められたことで、80系電車の投入を一時中止、応急対策として、
クモハ11形400番代4両編成2本のパンタグラフ部分を低屋根改造して同区間に運用投入してたが、
17m級車体では見劣りすることから新たにモハ80形のパンタグラフ部分を低屋根化した、
モハ80形800番代4両を新造、固定8両編成2本による準急「富士五湖」として河口湖乗り入れを再開、
当時の中央東線はダイヤに余裕があることから、臨時列車が増発しやすく、年々、行楽用の臨時列車や、
「自然科学電車」という遠足用の団体臨時列車の運行本数が増加していったことで、
1952年(昭和27年)に60系電車の投入が決定、投入にあたり電動車のパンタグラフ部分を低屋根化、
歯車比は勾配区間の為、高速性能より登坂力に配慮した40系電車と同一の1:2.87とされ、
モハ60形800番代18両、モハ61形800番代18両、クハ66形28両、サハ67形8両の固定8両編成4本、
固定4両編成10本が横須賀色で投入され、「山スカ」の愛称で親しまれた。
217:名無し野電車区
12/11/27 15:26:12.45 elbJlIKi0
その他の運用
1952年(昭和27年)8月、海水浴客の増加による東京-熱海間の急行「湘南」の増発で、
ピンチヒッターとしてヘッドマークを装着した60系電車が使用され、翌年にも使用された。
また1954年(昭和29年)から高崎線や上越線でのスキー臨時電車など通常とは異なる運用もあり、
スキー臨時電車は1981年(昭和56年)まで使用された。
塗色の変更
横須賀線向けに登場した車両は、32系、52系、80系電車と同じクリーム2号と青2号で塗られたが、
1956年(昭和31年)度の製造分からクリーム1号と青15号に変更、既に運用に入ってる車輌も、
順次、クリーム1号と青15号に変更されていった。
218:名無し野電車区
12/11/27 17:08:07.75 elbJlIKi0
第1次更新修繕と冷房化
1960年(昭和35年)に通勤車初の新製冷房車103系が登場すると、他形式の通勤車にも冷房化をと、
乗客から要求が多数寄せられたことで、横須賀線と東海道線の60系電車を冷房改造することが決定、
同時に更新修繕も兼ねる改造が1961年(昭和36年)から行われ、1956年(昭和31年)度製造からの、
全金属車体で製造された車輌から冷房装置を搭載されることになり、搭載する冷房装置は、
1956年(昭和31年)に40系電車で試験搭載、その後103系にも搭載された三菱電機が製造した、
集中型冷房装置AU50Tを搭載、冷房装置を搭載するにあたり車体側面の補強も行われ、
同時に車内のアルミデコラ化粧板を交換、床のリノリウムも交換、白熱灯照明の蛍光灯化、
座席の布地をビニルクロスから通常の青モケット張りに変更する更新修繕が行われた。
第2次更新修繕と冷房化
全金属車体の60系電車に冷房装置の搭載が始まると、冷房されて無い半鋼製車体を敬遠する利用者から、
苦情が多数寄せられたことで、1962年(昭和37年)から半鋼製車体も更新修繕と冷房改造が行われ、
全金属車体と同じ冷房装置を搭載、車内の木板を剥し、薄緑のアルミデコラ化粧板に交換、
木製床も剥され、鉄板を敷かれ、灰色のリノリウム貼りとなり、側面窓もアルミサッシに変更、
白熱灯照明も蛍光灯化、座席も青モケット張りに変更され、クハ66形の運転台窓の角枠は大井工場、
大宮工場、大船工場ではアルミサッシの角枠に変更、その上に外装に合わせた塗装がされたが、
浜松工場や名古屋工場で施工された車輌は角枠からHゴム化され、湘南フェイス非貫通2枚窓でも、
半鋼製車体は2種類の前面が登場した。
219:名無し野電車区
12/11/28 07:44:08.40 05qcGtZ2O
京成電鉄 1600形 1651~
1500形を一般用に転用して置き換えるために昭和30年に作られた1600形の追加生産車である。
この車両は吊掛ではなく750形同様のTDカルダン制御としたため、1650形と差別化された。
1651-1653 1654-1656の2連2本が最初作られ、昭和32年に1600形と同じく
付随車両1652 1655が作られて3両編成化された。
車内設備は1600形と変わらないが、成田方先頭にトイレが付いており、中間車は
売店を設けていない。
3200形に置き換えられた昭和45年に車体を210形と同一の車体に更新。
主電動機等も3300形と同一にして3連からモハ750形から抜き取ったクハ2200形
を組み入れた4両編成2本に組み替えている。
晩年は千葉線 金町線で使われて平成元年に3600形に取り替えられ廃車された。
3000形以前の青電形式が平成まで本線で生き残った唯一の形式であった。
現在モハ1651形が八千代市の京成バラ園に、モハ1654形は北総線が京成高砂まで
延長開業する平成3年に北総線矢切駅前広場に運転室部分の1/3カットモデルで保存。
220:名無し野電車区
12/11/28 08:22:08.22 xOo++CzS0
40系電車の60系電車へ改造編入
1960年(昭和35年)に4扉ロングシートの新性能103系電車が新造、首都圏通勤路線に投入されると、
40系電車の置換えが始まり、余剰となった車輌をロングシートからセミクロスシートに改造した、
60系電車編入改造が行われ、室内のロングシートを撤去して、セミクロスシートへの交換、
通風器を60系電車と同じ押込型に交換などを行い、改番編入され、編入後はモハ62形、クハ68形の他、
クモハ63形、サハ69形とバラエティーになった。この中にはパンタグラフ部分の屋根を低屋根改造、
編入したモハ62形800番代26両とクハ68形18両、サハ69形8両が中央東線用に配置され、
こちらは元40系電車だったことから「山ゲタ」の愛称で呼ばれた。
地方への進出
1966年(昭和41年)から60系電車の後継車となる4扉セミクロスシートの新性能107系電車が、
横須賀線と東海道線東京地区に少量づつ投入が始まると、60系電車の置換えが始まり、
捻出された60系電車は東北本線の上野駅-宇都宮駅、上野駅-黒磯間で準急・ローカル運用に入り、
高崎線も大宮駅-高崎駅間の運用、中央西線などに転出、それ以外だと新規電化区間の開業用や、
電化区間で運用される電機機関車牽引される客車列車の電車化に投入されるようになった。
横須賀線と東海道線東京地区は1981年(昭和56年)までに、新性能107系電車に置き換えられて全車転出、
その後は東北本線、高崎線、中央西線などで従来と変わらぬ運用を続けた。
221:名無し野電車区
12/11/28 08:24:36.79 xOo++CzS0
「山スカ」のその後
1954年(昭和29年)から8両固定編成4本が中央東線に投入、「山スカ」が増備され、
1960年代に入ると17m級電車に代り、中央東線のローカル運用にも「山スカ」グループが運用され、
中央東線は横須賀色一遍になり、急行と準急が80系電車の「山急」、臨時列車とローカル運用は、
「山スカと山ゲタ」の黄金時代を迎えた。1964年(昭和39年)8月23日に甲府駅-上諏訪駅間、
1965年(昭和40年)5月20日に塩尻駅間までの中央東線全線電化が達成、山スカの運行区間も小淵沢駅や、
塩尻駅まで運用区間を拡大、1960年代から1970年代にかけて中央東線のローカル運用主役だった、
「山スカ」は1977年(昭和52年)から投入が始まった勾配・寒冷路線用の4扉セミクロスシート車の、
新性能電車131系電車が投入されたことで、全車が広島運転所へ転出し、呉線に運用された。
中央西線
1966年(昭和41年)7月の中央西線名古屋駅-瑞浪駅間の電化に伴い、横須賀線と東海道線から、
大垣電車区に転入してきた60系電車によって同区間における電車運転を開始した。同年10月からは、
主に東海道線から転用された60系電車で浜松駅-米原駅間の電車運行を開始、客車列車を置換え、
1968年(昭和43年)には横須賀線から転入した60系電車を新設の神領電車区に移管、
同年8月に電化区間が中津川駅まで延伸されたことによって、10月のダイヤ改正後から、
中央西線の朝ラッシュ時に中津川駅-大垣駅行きの快速を設定、投入された60系電車は、
固定8両編成で運行され、横須賀線からの転入車は、編成の中間に4扉のサハ67形2両だったが、
東海道線からの転入車はサハ67形2両の編成と、格下げ車の2扉サハ75形2両の編成が在り、
同線の混雑時には4扉車と2扉車では扉数が違うために生じる不便を横須賀線と同じ乗降方式で解消、
湘南色で塗られた車輌も順次、横須賀色に塗替えられた。
222:名無し野電車区
12/11/28 08:48:16.81 xOo++CzS0
長野地区
信越本線長野地区が電化された1972年(昭和47年)にサハ75形が組込まれた8両編成を転出させると、
中央西線の60系電車は横須賀線からの転入車だけとなり、横須賀一色で染まった。
その後、沿線の開発とともに利用客の増加で、余剰となっていた4扉ロングシートの40系電車を投入、
1973年(昭和48年)中央西線全線電化に伴い、運転区間を坂下駅まで延長、1975年(昭和50年)には、
南木曽駅まで延長すると、横須賀線から余剰となった60系電車を転入させて、輸送力の増強に務めた。
両毛地区
1968年(昭和43年)の両毛線電化に際し、新前橋電車区へ3扉ロングシートの30系電車を投入、
翌年に40系電車から60系電車の改造編入車、4両編成8本を投入、一部は「房総夏ダイヤ」の、
臨時快速「富津岬」として、千葉鉄道管理局が借り入れた後に新前橋電車区へ移ったグループもある。
その後、1970年(昭和45年)の吾妻線長野原駅-大前駅間開業に伴って同線の運用の一部を受持ち、
東海道線で余剰となった付属4両編成4本を投入、両毛線の主力として運用された。
長野地区
1972年(昭和47年)3月のダイヤ改正で、中央西線から長野運転所に転入した60系電車を活用して、
信越本線長野地区を運行する普通列車の電車化を実施、60系電車の運用区間は軽井沢駅-直津江駅間で、
いわゆる「横軽越え」には投入されず、同時に投入された80系電車も湘南色から横須賀色に塗替えれ、
8両編成同士のすれ違いが見られ、妙高高原-直津江間では新潟色の70系電車との共演が見れた。
1974年(昭和49年)には、長野運転所に123系電車が増備され、普通列車用の60・80系電車を、
松本運転所に転出させたことにより、出入庫運用として篠ノ井線の松本駅まで運転区間を拡大した。
223:名無し野電車区
12/11/28 08:49:40.89 xOo++CzS0
広島地区
電化前の呉線の通勤列車は、C59形やC62形といった蒸気機関車が10両近く連結されたスハ32系や、
オハ35系を牽引する勇壮なもので、電化時に一部EF58形牽引の客車列車は残ったものの、
ローカル列車の主力は電化時の一時代用で充てられた80系電車、40系電車などで運行され、
ラッシュ時には首都圏から転入した40系電車10連で運行されるようになった。
この40系電車の多くが青20号の他、青22号(スカイブルー)、黄緑6号(ウグイス色)が多く、
朱色1号(オレンジバーミリオン色)、青緑1号(エメラルドグリーン)も含まれていたことから、
首都圏の重通勤線区を連想させる雰囲気があった。しかし40系電車のロングシートでは、
ラッシュ時の詰込みはきくものの、座席数が少ないことから、利用者の不満が出ていて、
同時に投入された80系電車に比べて大きく劣ったことで、通勤時にも一定の座席数が確保出来る、
60系電車の配置を要望したが、当時60系電車の余剰は無く、選定車輌が二転三転した結果、
40系電車から60系電車に改造編入された車輌を一時的に投入したが、数が足りないことから、
横須賀線と東海道線で余剰になるたびに随時、60系電車、80系電車を投入させていき、
1977年(昭和52年)に中央東線の「山スカ」が153系に置換えられ、呉線に大量転入したことで、
横須賀線と東海道線からの転入車を山陽本線に転出させ、「山スカ・山ゲタ」グループだけに集約され、
8両固定編成12本、4両固定編成16本を組み、広駅・呉駅 - 広島駅間の通勤列車を中心に、
呉線と山陽本線広島駅 - 小郡駅(現・新山口駅)間で運用を開始し、それまで甲州の山岳地帯を駆抜け、
甲府盆地では遠くに南アルプスや八ヶ岳の山並みを眺めて走っていた「山スカ」が、
一転して穏やかな広島湾の海岸線沿いを走ることになったが、長編成でSL時代の名撮影地の一つである、
黒瀬川橋梁を渡る姿は、C59形、C62形牽引の通勤列車とは違う迫力があった。
224:名無し野電車区
12/11/28 08:57:01.69 xOo++CzS0
先頭車化改造
地方転出の短編成化で、不足する制御車を補うため、1967年(昭和42年)にサハ67形10両に、
前位側へ切妻構造の運転台を取付け、先頭車化改造を行い、新形式のクハ67形とした。
これらの先頭車化改造車は、施工された工場によって運転窓の大きさ、前照灯の取付位置が違っており、
大井工場で施工した4両は103系電車に似た低運転窓と白熱1灯、大船工場で施工した4両は低運転窓と、
窓下の左右にそれぞれ白熱灯1灯を配し、浜松工場で施工した2両は高運転窓に窓下の左右に、
それぞれ白熱灯1灯とバリエーションが違っていた。
一等車の格下げ改造
1960年(昭和35年)7月1日に一等・二等のみの二等級制に移行、東海道線専用であったサロ65形も、
一等車に格上げされたが、地方転出後は一等車の需要が減少することから、1967年(昭和42年)から、
転出後は二等車への格下げを行い、サハ65形となった。
その他の改造
1972年(昭和47年)神領電車区に配置されていたクハ66形の前照灯をシールドビーム2灯に改造、
いわゆる「ブタ鼻」改造が行われたが、改造車は(クハ66071、66072、66075、66076)の4両のみ。
225:名無し野電車区
12/11/28 08:59:10.10 xOo++CzS0
終章と保存
60系電車の本格的な置換えは1983年(昭和58年)から始まり、東北本線・高崎線で運用されていた、
一部の車両が廃車になったほか、翌年には信越本線長野地区一部、1984年(昭和59年)2月には、
中央西線の神領電車区に所属する60系電車が107系に置換えられ、12月には全車の置換えが完了した。
12月17日に中津川駅-名古屋駅間でさよなら運転が実施されている。また、同じ時期に両毛地区、
長野地区でも全車の置換えが完了、最後に残ったのは山陽本線と呉線だけとなったが、
1986年(昭和61年)3月に131系電車の転入によって、60系電車の運用は同年4月1日をもって終了、
60系電車が初製造されて34年にわたる営業運転の歴史は終了した。
保存
東北本線で運用され、廃車となった前面が角枠のままだったクハ66形66001と66002、
モハ60形60001とモハ61001の4両編成が大宮工場で保管され、民営化後は東京総合車両センターで保管、
2007年(平成19年)10月にさいたま市大宮区に開設した鉄道博物館内で保存展示、
中央西線で廃車となったクハ66形66051、信越本線で廃車となったサハ65形65001の2両が、
2011年(平成23年)3月14日に愛知県名古屋に開館したリニア鉄道舘で保存展示、
山陽本線で廃車となったクハ66形66023と66026、モハ60形60027とモハ61形61027の4両編成が、
大阪の交通科学博物館敷地内に保存され、いずれも末期状態、冷房搭載のままだった。
226:名無し野電車区
12/11/30 00:03:38.87 BCI7FG/C0
JR東日本 E551系 交直流特急型電車
JR東日本が常磐線の特急「ひたち」の旧型車置き換えと輸送力増強用に開発した全二階建て特急電車。
常磐線では民営化直後に投入された651系による「スーパーひたち」と、485系を使用する通常の「ひたち」の2種類の特急が走っているが、485系は設備・性能の双方の面で651系に劣り(指定席券もスーパーひたちのものから先に売り切れていくという事態が続発していた)、
またバブル景気で「地方に自宅を構えて特急や新幹線で都心へ通勤する」という利用者が増えていたため、輸送力の増強を迫られていた。
これらの解決策として、全二階建て特急電車で485系を置き換えることが決定。この計画により開発・投入されたのがE551系である。
編成は10両の基本編成と、5両の付属編成で構成されている。基本編成は6M4T、付属編成は4M1T。基本編成の中間車1両はグリーン車となっている。
車体は既に誕生していた415-1901や215系の設計をもとにした、ステンレス製の全二階建て。但し先頭車の1F部分は制御装置や補機を収めた機器室となっている。
座席は回転式リクライニングシート。普通車は輸送力を重視して910mmピッチ・2-2配列、グリーン車は1160mmピッチ・1-2配列となっている。また、一部の車両は車端部に4人用セミコンパートメントを配置。
但し「シートピッチが窮屈」との苦情も少なくなかったため、後期増備車は普通車のシートピッチを970mmに拡大している。
ドアは片側2ドア。乗降時間短縮のため、特急型としては珍しく1300mm幅の両開きドアを採用した。
制御方式は255系に続きVVVFインバータ制御(日立製GTOインバータ)を採用。1C4M3郡制御(付属編成は1C4M2郡制御)とし、先頭車の床下にVVVF装置(を始めとした機器類)を集中搭載している。
主電動機はMT70(史実とは異なる)。全二階建ての巨体を130km/hで走行させるため、230kWという大容量に設定された。
駆動方式はTD方式。ギア比は1:5.65。
台車は軸梁式のボルスタレス方式。ヨーダンパとアンチローリング気候を搭載する。
起動加速度は2.5km/h/sと通勤電車並に設定。最高速度は651系と同じ130km/h。
尚、この車両の投入により、土浦~勝田間の駅も15両対応化が行われた。
同時期に増備されていた二階建て新幹線「Max」に倣い、一部で非公式ながら「Maxひたち」と呼ばれることがある。
227:名無し野電車区
12/12/03 09:25:51.10 5PBBAA640
国鉄70系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1953年(昭和28年)に製造した旧形近郊通勤形電車形式群の総称である。
当時、浜松まで電化されていた東海道線静岡地区や、その後の電化延長による名古屋地区、
関西の阪和線などの中距離通勤路線で使用するために、戦前に製造された35系電車をベースに、
セミクロスシートの3扉車として1953年(昭和28年)に開発され、1956年(昭和31年)まで半鋼製車体、
1957年(昭和32年)からは全金属車体で製造され、中間電動車モハ70形および、制御車クハ76形、
付随車サハ77形の3形式が1959年(昭和34年)までに、合計396両が製造された。
70系電車の開発は戦前製造のセミクロスシート3扉車の35系電車を始め、他系列と混結が前提で、
長距離・長編成での使用を想定していなかったことから同時期に製造されていた80系電車や、
60系電車で採用されたMM’ユニット方式は採用されず、戦前車輌と同じ1M方式で製造され、
主電動機も35系電車と同じ吊り掛け式のMT30を採用、歯車比も1:2.56で制御装置もCS-7を採用、
制御車のクハ76形が前面2枚窓の湘南フェイスで製造されている都合上、ほぼ同時期に製造されていた、
60系電車や80系電車と比較されることが多いが、実際はメカニズム面をはじめ完全に異なり、
製造・運用開始は60系電車や80系電車の方が先であるが、系列番号から勘違いされることがある。
228:名無し野電車区
12/12/03 09:30:31.90 5PBBAA640
基本形式
モハ70形0番代(70001-70142)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、1953年(昭和28年)から、
1956年(昭和31年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D6D6D2で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列7個装備、
パンタグラフは上り向きに搭載され、台車はDT17が装備された。
モハ70形200番代(70201-70246)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、1957年(昭和32年)から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、窓配置は2D6D6D2で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、戸袋窓など固定窓がHゴム化され、
天井に蛍光灯と扇風機を落成当初から設置、屋根上の通風器はグローブ型を1列7個装備、
パンタグラフは上り向きに搭載され、台車はDT20が装備。
229:名無し野電車区
12/12/03 09:32:36.71 5PBBAA640
クハ76形0番代(76001-76094)
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1953年(昭和28年)から、
1956年(昭和31年)までに半鋼製車体で新造、前面は60系電車や80系電車と同じ、運転窓が角枠となった、
2枚窓の湘南フェイスとされ、窓配置はd1D6D6D2(トイレ側は1d1D6D6D11)、両側面の第1と第2客用扉は、
後方に引かれる構造で、第3客用扉だけ前方に引かれる構造となり、乗務員扉と客用扉の間に、
在る窓は幅200mmの下段のみ上昇式開閉であり、3位側に便所を設け、便所の向い側、4位側のシートは、
クロスシートとされ、屋根上の通風器はグローブ型が1列8個並び、台車はTR48を装備。
クハ76形100番代(76101-76132)
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1957年(昭和32年)から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、前面窓がHゴム化され、戸袋窓の固定窓もHゴム化され、
窓配置はd1D6D6D2(トイレ側は1d1D6D6D11)、両側面の第3客用扉だけ前方に引かれる構造で、
乗務員扉と客用扉の間に在る窓は幅200mmの下段のみ上昇式開閉であり、3位側に便所を設け、
便所の向い側、4位側のシートはクロスシートとされた。台車は0番代と同じTR48を装備。
230:名無し野電車区
12/12/03 09:40:35.36 5PBBAA640
サハ77形0番代(77001-77050)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間付随車で、1953年(昭和28年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置は2D6D6D2で、両側面の第1と第2客用扉は、
後方に引かれる構造で、第3客用扉だけ前方に引かれる構造となり、両妻面は切妻型で貫通路両脇には、
幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列8個装備、
3位側に便所を設け、便所の向い側、4位側のシートはクロスシートで、台車はTR48を装備。
サハ77形100番代(77101-77116)
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間付随車で、1957年(昭和32年)から、
1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、車体側面に従来あった窓上下のシルヘッダーを廃して、
窓も上下寸法が大型化、洗礼された車体となり、窓配置は2D6D6D2で、戸袋窓など固定窓はHゴム化され、
両側面の第3客用扉だけ前方に引かれる構造で、両妻面は切妻型で貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓付、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はグローブ型を1列8個装備、3位側に便所を設け、
便所の向い側、4位側のシートはクロスシートで、台車はTR48を装備。
車体塗色
70系電車の車体塗色は窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けた「東海色」登場、
阪和線用は窓周りをクリーム3号、幕板と腰板を緑1号に塗り分けた「阪和色」、
京阪神緩行線向けには、51系電車の増備として投入されたこともあり、ぶどう色2号の一色で登場、
1964年(昭和39年)に新潟地区に転属した車両は、雪中での視認性向上のため、他の旧形電車と同様、
窓周りを黄5号、幕板と腰板を赤2号との「新潟色」と呼ばれる塗装に変更された。
231:名無し野電車区
12/12/03 09:46:32.52 5PBBAA640
東海道線静岡地区
1953年(昭和28年)3月に窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けたモハ70形8両、
クハ76形8両の4両編成4本が、当初の予定どおり沼津機関区に投入されて、沼津駅-静岡駅間、
沼津駅-浜松駅間を運行、後の増備された車輌も新設された沼津第二機関区(後の沼津電車区)に配置、
蒸気機関車牽引の客車列車置換えに貢献、1957年(昭和32年)には4両編成15本の配置となり、
週末のみの運用区間で、沼津駅以東の熱海駅や小田原駅まで延長運用が行われた。
黄かん色と緑2号に塗り分けは乗客から「東海色」などと呼ばれ、この塗色を採用するにあたり、
静岡地方特産品にちなんだミカンとお茶に由来して採用、その後、国鉄は「東海色」を直流電化区間の、
近郊形3扉セミクロスシート電車における車両制式色とし、後年は地域に関係なく広く採用され、
民営化後の東海旅客鉄道(JR東海)でもコーポレートカラーとしてオレンジ色を採用、引き継がれている。
東海道線名古屋地区
1953年(昭和28年)7月21日に浜松駅-名古屋駅間が電化され、11月11日には稲沢駅間まで電化されると、
名古屋駅-静岡駅間、名古屋駅-浜松駅間を電車による運行が計画され、1954年(昭和29年)3月1日に、
窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けたモハ70形8両、クハ76形8両の4両編成4本が、
名古屋客貨車区に配置され、名古屋駅-浜松駅間の運行を始め、同年11月1日に静岡駅まで運行、
1955年(昭和30年)7月20日には米原駅間まで電化されたことで、4両編成を7両編成化する為、
モハ70形8両、サハ77形4両を配置、新たに7両編成5本を配置、7両編成9本の計63両が運用された。
1956年(昭和31年)11月19日の東海道全線電化では名古屋電車区から大垣電車区に配置換えをされ、
同じく大垣電車区に配置された32系電車4両編成を併結した11両編成で、大垣駅-名古屋駅間、
名古屋駅-浜松駅・静岡駅間などに運用された。
232:名無し野電車区
12/12/03 15:03:18.56 5PBBAA640
京阪神緩行線
1953年(昭和28年)3月にぶどう色一色のモハ70形12両、クハ76形8両、サハ77形4両の6両編成4本が、
35系電車と一緒に輸送力増強を図るという位置付けで宮原電車区に配置、車体塗装が地味なことから、
早々に利用客から「茶坊主」と呼ばれ、その後の増備は中断するが、1955年(昭和30年)から、
1957年(昭和32年)にかけて緩行電車の7両化に伴う増備が行われ、モハ70形4両配属の他、
7両編成4本が新たに配備、電動車の比率がMT比4M3Tと高かった。
京阪神緩行線に投入された70系電車を語るうえで忘れてはならないのは、代用「急電」への投入で、
1950年(昭和25年)から急電に投入された80系電車は8連編成で投入され、ラッシュ時20分ヘッド、
日中30分ヘッドで運行していた。しかし急電の予備編成は2本しかなく、京阪神沿線の発展とともに、
1954年(昭和29年)には編成不足となり、そこで編成に余裕のあった70系電車を急電に代用、
塗色はぶどう色のまま、客用ドア横に急行表示を掲出し、前面には急電の羽根型ヘッドマークを装着して、
急電運用を開始、使用された70系電車は塗色がぶどう色のままだったため、緩行電車と勘違いされて、
誤乗車が相次ぎ、乗客からの苦情が多かったことから、1955年(昭和30年)再び代用急電を運行する際、
前年の反省と秋以降の急電増発を考慮し、このときは塗色をマルーンとクリームの関西急電色に変更、
ヘッドマークを装着して運行した。前述のとおり急電の利用者は増加し、夏季運用終了後の9月1日から、
急電の終日20分ヘッド化を実施した。1956年(昭和31年)1月に入って80系電車が1編成投入され、
ようやく代用急電の任を解かれた。
233:名無し野電車区
12/12/03 15:08:24.70 5PBBAA640
阪和線
戦前から高速電車として名高い阪和線は、戦時買収私鉄の中でも他の路線とは一線を画す存在で、
戦時中の荒廃が酷く、復興には時間がかかったが、1950年(昭和25年)に京阪神間の急電を80系電車に、
置き換えたことで捻出された「流電」50系電車1次車4両編成2本と32系電車の4両編成×4本により、
新設の特急運用と従来の急行運用に投入、これらの車両は利用者から好評であり、特急や急行も、
年々増発されていったが、利用者の増加のペースも速く、50系電車1次車や32系電車の2扉では、
ラッシュ時の乗降に時間がかかるようになり、また従来の阪和社形電車も主力として運用されていたが、
1954年(昭和29年)に入ると、国鉄標準型への改造工事を更新修繕と同時に実施していたことから、
工場へ入る期間も長く、車両数は慢性的に不足していた。その一方で、阪和線と並行する南海電気鉄道が、
南海本線の特急・急行用にオール2扉車の11001系電車を投入し、阪和線に対して質的優位に立った。
同時に南海鉄道が、当時他の戦時買収私鉄各社(鶴見臨港鉄道や青梅電気鉄道など)とともに進めていた、
戦時買収線の復帰・払い下げ運動、阪和電気鉄道の旧経営陣が進めていた阪和電鉄の再興運動に加え、
南海鉄道と比較して目に見えて復興の進まない阪和線に対して苛立ちを覚えた利用者や沿線住民の一部が、
同調、大きな動きに発展する勢いがあった。国鉄としても阪和線は手放せない路線であることから、
何らかの目に見える対策が必要であり、そのために阪和線専用の新車投入を約束、新車といっても、
南海11001系電車と同じ転換クロスシートの2扉車を阪和線に投入することは、当時の国鉄では、
80系電車は急行・準急運行で手が一杯、60系電車も横須賀線や東海道線で一杯であり、
誰が見ても阪和線に投入が困難なだけでなく、なおのこと無理な話であった。
234:名無し野電車区
12/12/03 15:22:41.82 5PBBAA640
以上のような問題点やラッシュ時への対応を考慮した結果、ラッシュ時にも対応できて乗り心地や、
居住性に優れた車両ということで当時、東海道線静岡地区や名古屋地区、京阪神緩行線に配置され始めた、
70系電車の投入が決まり、第一陣の6両×4本(24両)が1955年(昭和30年)の9月から10月にかけて、
窓周りをクリーム3号、幕板と腰板を緑1号に塗り分けた通称「阪和色」で、鳳電車区へ配属され、
直ちに特急・急行を中心に運行を開始、70系電車配置による置換えで、1956年(昭和31年)4月には、
「流電」50系電車の1次車4両2本が飯田線に転出した。
戦時買収私鉄路線に国電最新鋭の新車が投入されることは、空前の出来事であり、
尚且つ6両編成化されたことによって座席数が増えたことで、「流電」50系電車や32系電車より、
快適なクロスシート、明るい阪和色とあいまって利用者から好評をもって迎えられた。
70系電車の第2陣は1957年(昭和32年)明けから年末にかけて、全金属車両の6両×5本(30両)が投入され、
従来車と合わせて6両×9本の合計54両が配属、阪和線の輸送力の増強に追われていたが、
70系電車の後継となる新性能の近郊形電車の登場まで、まだ時間がかかることが予想され、
その間にも阪和線の輸送力増強には待ったなしの状況となり、1958年(昭和33年)から中央線快速、
城東線・西成線→大阪環状線に新性能101系電車を投入、捻出した40系電車を京阪神緩行線に転入させ、
70系電車の全車を阪和線に転出させた。この時点で70系電車は東海道線静岡地区、名古屋地区、
阪和線のみとなり、阪和線での70系電車は同線の主力となり、70系電車が国電としては破天荒な、
「特急」「急行」のヘッドマークを付けて阪和線を疾走した。
235:名無し野電車区
12/12/03 15:31:43.90 5PBBAA640
1958年(昭和33年)10月1日から紀勢西線直通の気動車準急列車「きのくに」の新設に伴い、
「特急」を「快速」に、「急行」を「直行」に種別変更を実施、1962年(昭和37年)1月22日には、
阪和線の快速運用に新性能103系電車が投入されると、阪和線での70系電車天国に暗雲がたちこめ、
新潟地区の電化開業を控えた同年5月11日に転出する35系電車と一緒に70系電車の6両編成2本が、
電化応援分として長岡第二機関区に貸し出された。
更新修繕
1964年(昭和39年)から1953年(昭和28年)と1954年(昭和29年)製造車に対して、更新修繕を実施、
クハ76形の運転台窓Hゴム化、運転台窓下部への通風器取付、前面下部にタイフォン取付、
鉄窓をアルミサッシに変更、照明の蛍光灯化、座席の布地をビニルクロスからモケット張りへの変更が、
1966年(昭和41年)まで行われた。
地方への進出
阪和線へ集中配置された70系電車だったが、前述のように1962年(昭和37年)に新潟地区への、
応援分として貸し出されたが、それ以降は何事も無く、1969年(昭和44年)に60系電車の後継車、
4扉セミクロスシートの新性能107系電車の配属が決定すると、余剰となった70系電車を、
新潟地区に転出させた。また1965年(昭和40年)に東海道線静岡地区に70系電車の後継となる、
3扉セミクロスシートの新性能111系電車が投入、捻出された70系電車は電車化が急務であった、
長岡運転所や新前橋電車区に転出した。
236:名無し野電車区
12/12/03 17:09:21.34 5PBBAA640
新潟地区
1962年(昭和37年)5月20日に新潟地区上越線の新潟駅-長岡駅間が電化、電車運行されることになり、
当初は余剰があった17m級11系電車5両編成、20m級30系電車4両編成で運行を始めたが、
電化前から新潟鉄道管理局(新潟支社)としては、80系電車や60系電車の配置を国鉄本社に出していたが、
80系電車や60系電車は当時、転属させる余裕は一切無いことで、白羽の矢が立ったのが70系電車で、
沿線の発達とともに激増する乗客で捌くために阪和線へ新性能103系電車を配置、捻出した35系電車と、
貸し出し名目で70系電車の6両編成2本が長岡第二機関区に転出させた。この6両編成2本は阪和色のまま、
新潟駅-長岡駅間で一時的に運用されていたが、翌年には窓周りを黄5号、幕板と腰板を赤2号の、
「新潟色」に塗替えられ、その後も長岡運転所で使用、1963年(昭和38年)9月13日にも阪和線から、
6両編成3本が長岡運転所に転出、1965年(昭和40年)以降、新性能111系電車の投入で置換えられた、
70系電車が東海道線静岡地区から大量転入してきた。当初は新潟駅-長岡駅間だけであった運転区間も、
延長され、上越線は清水トンネルを越えて高崎駅まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津駅、
のちには妙高高原駅まで拡大した。新潟地区に転出した70系電車で特筆すべき点は、窓周りを黄5号、
幕板と腰板を赤2号の、いわゆる「新潟色」に塗装されていたことで、降雪量の少ない地域の者から見ると、
少しどぎつく見えるが、冬季における視認性の向上や、日本海側の冬の気候に打ち克つために、
明るい色を好む地域性から「新潟色」の採用に繋がった。しかし、冬季だけでなく、新緑の風景や、
越後平野の水田にも映える塗色であったことから、ローカルカラーとして定着していった。
237:名無し野電車区
12/12/04 10:08:26.76 UFhdE5dp0
両毛地区
1967年(昭和42年)6月10日に長野原線の渋川駅-長野原駅間が電化、当初は余剰となっていた、
17m級11系電車4両編成で運行していたが、9月1日から20m級車体の30系電車3両編成を転入させ運行、
1971年(昭和46年)3月7日に吾妻線に改称したとともに、東海道線静岡地区から新性能111系電車の、
置換えで捻出された70系電車4両編成3本を転入させた。当初は「東海色」のままで運用されたが、
新前橋電車区に所属する30系電車や60系電車に合わせて、横須賀色「スカ色」に塗り替えられた。
その後、大きな動きはなく、1982年(昭和57年)まで使用、吾妻線の主力として運用された。
岡山地区
1971年(昭和46年)に新性能107系電車の配備で阪和線から捻出された6両編成4本が、
山陽本線岡山地区に転属、30系電車や35系電車に混じり、ローカル運用に入り、
阪和色からぶどう色に塗替えられ、京阪神緩行線以来の「茶坊主」が復活、1979年(昭和54年)に、
東海道線静岡地区から転出して来た新性能111系電車に置換えられるまで運用された。
広島地区
1977年(昭和52年)3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月1日に「さよなら運転」を実施した後、
4両編成6本の計24両が福塩線に転入、17m級11系電車を置換えるとともに運用を開始、
阪和色のまま、同線に残る35系電車、30系電車とともに運用された。
238:名無し野電車区
12/12/04 10:13:07.22 UFhdE5dp0
終章
70系電車の本格的な置換えは1975年(昭和50年)に阪和線に新性能131系電車が投入されから始まり、
翌年には余剰となった70系電車の一部は4両編成され、東海道線の岡崎駅-新豊田駅で旅客営業開始した、
岡多線に4両編成5本が転属、1977年(昭和52年)3月15日に阪和線の新性能化が完了、4月1日に、
「さよなら運転」を実施したあと、余剰廃車を除く24両が福塩線に転出した。
新潟地区では1976年(昭和51年)1月-2月にかけて日本海側を豪雪が襲った際、信越本線の新潟駅、
宮内駅間や上越線の宮内駅間-高崎駅間などで70系電車の普通列車が雪に耐え切れずに空転して、
次々とダウン、多くの普通列車が遅延や運休を余儀なくされたことで、この事態を憂慮した当時の、
新潟鉄道管理局は国鉄本社に対して70系電車の置き換えを要請、国鉄本社も当時推進していた、
地方線区近代化の一環として耐寒耐雪構造を強化した115系電車を長岡運転所に大量投入、
1978年(昭和53年)1月から4月にかけて70系電車を一気に置き換えた。この置換えと同時に、
上越線での減車化(6→5両へ)と運用も見直され、運用減となった上越線では、清水トンネルを通過して、
高崎駅までの運用が消滅している。また信越線でも毎年の豪雪と1978年(昭和53年)6月の集中豪雨による、
柏崎駅の冠水により、70系電車とともに配置されたばかりの新性能115系電車5両編成4本が水没してしまい、
信越線の新性能計画が大きくずれ、急遽休車中や留置されていた70系電車の中からMT比3M2Tの、
強力5両編成を組成して運用に投入、信越線の新性能化は翌年の1979年(昭和54年)3月になった。
1976年(昭和51年)4月26日から70系電車による運行が始まった岡多線にも新性能化の波が押し寄せ、
1980年(昭和55年)3月に111系電車に置換えられて廃車、1981年(昭和56年)11月から吾妻線も、
新性能115系電車への置換えを開始していて、翌年の1982年(昭和57年)1月までに115系電車化された。
239:名無し野電車区
12/12/04 10:15:01.72 UFhdE5dp0
このように1970年代後半から1980年代の初めに「玉突き廃車」を実施していた70系電車であったが、
最後に残ったのは福塩線だけとなった。福塩線の70系電車は阪和線からの転入車だったモハ70形200番代、
クハ76形100番代の全金属車体を主体とした4両編成6本で、阪和線時代とは異なり単線区間を、
のんびり走行していたが、置換えによって捻出された新性能111系電車の転入によって同線における運用は、
1982年(昭和57年)12月26日をもって終了、これをもって29年にわたる営業運転の歴史は終了した。
保存
広島工場内にモハ70形200番代のラストナンバー、70246とクハ76形100番代のラストナンバー、
76132が一時期、保管されていたが、のちに廃車解体され、JR関連では保存車両は存在しないが、
廃車後に民間企業が購入したサハ77111が倉庫代わりとして使用されていたが、荒廃したことで、
1997年(平成9年)に解体され、民間人が購入したクハ76123が自宅敷地内に保存されていて、
これが唯一残る70系電車となっている。
240:名無し野電車区
12/12/04 17:11:36.42 6yV0Vghh0
>>54
そのような車両は四国転用だろ。
241:名無し野電車区
12/12/04 17:16:12.00 6yV0Vghh0
オランダ鉄道113系電車
2006-2007年ごろ、JR本州3社が所有していた113系電車を1435mm化改造の上オランダに転用した。
車体塗色は湘南色のまま、主電動機もそのまま使用している。
242:anorak?
12/12/05 18:33:51.33 RqiIOLKq0
>>209に続く平行世界もの
◎国鉄131系直流近郊形電車
1982年 碓氷峠自走
○最大66.7‰の連続急勾配が在る信越本線の横川・軽井沢区間の碓氷峠越えには、補機としてEF63の二両が
全列車に連結されたが、普通列車運用の115系三両編成をEF63二両が推進・牽引するのは不経済であった。
そこで、信越線の高崎・小諸区間でのローカル列車の合理化を目的に碓氷峠を自走出来る近郊形電車が新造された。
それが131系である。
本系鉄には、最大66.7‰の急勾配区間の碓氷峠での登坂性能のみならず、他の区間にて最高120km/h走行する特急の運行の
邪魔にならない、つまり特急のスジを痛めず、変えずに済む高速性能も要求され、
なおかつ製造費と保守費低減の為に201系で実用化の電機子チョッパや界磁チョッパを採用せず、抵抗制御を採用。
これら従来の方法では相反する要求を満たす為に、つまり登坂性能には103系等の通勤形を超え、南海ズームカーや
神戸電鉄の車両に匹敵する高い歯車比を採用する一方で、115系等の国鉄標準の近郊形電車の高速性能を満たす為に
後述する規格外の大型の大出力主電動機を採用する事になった。
そのモーターは大き過ぎて、カルダン駆動方式では台車に収納出来ないので、吊り掛け駆動方式となった。
車種と標準編成は、軽井沢←クハ130(Tc')クモハ131(Mc)クモハ131(Mc)→横川。
碓氷峠走行中での故障に備え、EF63を二両一組で運用するのを踏襲し、本系列も1M方式電動車Mc二両一組で運用。
Mcに走行用の機器を集約し、パンタグラフは二基搭載し、一基は予備。全車、台車はコイルバネ。
ブレーキ系は、主力の発電ブレーキに加え、抵抗制御ではあるが磁気増幅器搭載で回生ブレーキも併設し、
特に停電時に急勾配で停車状態を維持する為の各種ブレーキへの非常電源となる大容量の蓄電池を搭載。
車体の意匠は115系に準じ、両開き三扉のセミクロスシート、Tc'に便所、冷房搭載。
1982年11月のダイヤ改正で就役開始し、碓氷峠を通過する普通列車の大半が131系に置き換えられた。
205系の登場を機に85年に界磁添加励磁制御に改造され、回生ブレーキの失効速度が下げられた。
87年JR東日本に承継。97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
2003年に新型車に置き換えられ全車廃車。
243:anorak?
12/12/05 19:00:33.21 RqiIOLKq0
>>241の訂正と追記
訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○
追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。
244:anorak?
12/12/05 19:04:15.97 RqiIOLKq0
>>242-243の訂正と追記
訂正
>本系鉄 × → 本系列 ○
>高い歯車比 × → 大きいギア比 ○
> >>241 × → >>242 ○
追記
>97年の長野新幹線開業の際、信越線の横川・篠ノ井区間は上下分離方式で引き続きJRが運営。
国鉄が破産寸前の1980年代に東北上越新幹線が開業したが、それらの利益が高金利の建設債務と並行在来線の赤字で
相殺されて経営改善には貢献しなかった、という教訓から、整備新幹線の建設には、一に財源には公的無償資金援助、
二に並行在来線の経営分離の自由が認められた。
北陸新幹線高崎・長野区間着工の際、JR東日本は並行在来線の横川・篠ノ井区間を経営分離する事を表明。
JR東が発足当時とは想定外の黒字であった事から『税金等の公的資金の援助で新幹線という金の卵を手に入れて、
赤字の在来線を納税者に押し付けるとは、そこまで一民間企業を厚遇して良いものだろうか』云々の批判を受け、
結局、インフラを第三セクターの第三種鉄道事業者の保有とした上でJRが第二種鉄道事業者として運営を継続する事で、
97年秋の長野新幹線開業時に横川・篠ノ井間が新しいJRの地方交通線として信越本線から分離する事になった。
これは他にも波及し、並行在来線の上下分離区間は路線名が変わるが、全区間は外観上JRが一体運営。
245:名無し野電車区
12/12/05 22:08:48.12 QP4oT5lo0
国鉄 ナシ21 ナシ21-100
昭和39年に登場した、2両連節構造の食堂車
通常の食堂車の調理室側を背中合わせに連結したような外見を持っている。
昭和33年に登場した20系寝台特急は「動くホテル」と呼ばれ、好評を持って迎えられていたが、
乗客から食堂車の混雑について苦情が発生していた。おりしも東京オリンピックを控え外国人観光客対策も
視野に入れて、国鉄本社営業部としても日本食堂と協議に入っていた。
当初は単純に食堂車の増結を国鉄側は提案したが、日本食堂側から従業員確保が難しいこと(1列車に14名の従業員)
混雑の大半は飲酒を伴う「居座り組」であり、回転率が悪く収益上もよろしくないことから平行線をたどっていた。
戦前のように定食時間を設定する等検討がなされたが、それはそれでトラブルの種になることから折衷案として1両は現状の
食堂営業をしつつ、もう1両を予約制のレストランとすることで決着した。
その際、厨房従業員の合理化のために厨房をできるだけ1か所にしたい、との要望と、厨房の広さの兼ね合いから連節構造として
通路の2/3を厨房直結とすることで、料理などを運ぶ専用通路として確保する構造となった。
部内では「食堂車より1両でも寝台や座席車を連結して輸送力確保すべき」との意見も上がったが、東京オリンピックに来る
外国人観光客対策も必要、とのことから導入が決定された。
レストラン車は、発車後から21時までをディナータイムとし、23時までをパブタイム営業として自由開放する形になり、外国人は
もよとより、財界人や芸能人、政治家などいわゆる上流階級の走る社交場として機能し、若いサラリーマンなどは「いつかは俺も」
という憧れの食堂車となっていた。また、一生に一度の新婚旅行客なども奮発して乗ることも多く、終始華やいだ雰囲気であった。
しかしながら、航空機の発達とともにそういった客層のブルトレ離れが進み、更に昭和47年には新系列の14系や24系などが登場
したこともあり、昭和50年10月のダイヤ改正で最後まで残っていた「あさかぜ」用の3組6両が廃車されて形式消滅した。
246:名無し野電車区
12/12/06 17:42:17.71 5kpKs8Sd0
フェラーリ新幹線
フランスのTGVをベースに、車体を真っ赤に塗り、車体各所にフェラーリ(Ferrari)のロゴが入っている。
247:名無し野電車区
12/12/06 23:09:08.61 t7clqyvk0
国鉄 747型特急用航空機
昭和50年、オイルショックの影響などにより全国新幹線網の建設が中断・延期などの憂き目にあっていた。
更に航空機の発達が追い打ちをかけて在来線長距離特急の乗客減少が続いていた。
そこで、国鉄は「建設予定の整備新幹線の代行輸送」を名目に、航空事業本部を設立し、航空輸送に乗りだすことになり
ボーイング747を導入することとなった。
羽田空港に羽田航空営業所(電略:ハタクウ)を開設し、機体には所属略称である「東ハネ」と標記された。
機体の塗装は国鉄バス風の白地に青いラインで、尾翼には大きな動輪マークと、2階席下部分に巨大なJNRマークが入った。
客室乗務員は全員男性で、チーフは「車掌長」の赤腕章を、その他の乗務員は「乗客専務」の腕章をつけ、パイロットは
「操縦士」の白腕章をつけて乗務した。なお航空機関士はそのまま「機関士」の腕章を着用していた。
国鉄分割民営化により、JRエアとして現在でも各路線に就航しているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。
248:名無し野電車区
12/12/06 23:42:57.97 zx2yA8VE0
>>247
近鉄航空 L-1011形特急用航空機
近鉄が国鉄航空事業本部に対抗して設立した「近鉄航空」の羽田-伊丹線で使用された機体。
(近鉄が航空事業に参入した理由としては、かつて構想されていた関東地区への進出計画の名残であったとも言われている)
機体は同社の特急車両と同じく、オレンジと紺色で塗装されている。
1985年頃からエコノミークラス+1000円で利用できる「デラックスシート」を装備したことでも知られているが、これが後の「アーバンライナー」のデラックスシートにつながったとも言われている。
また、日本航空の「クラスJ」はこの座席を参考にしたという説も存在する。
近鉄航空は現在は「近畿エアライン」に社名を変更し、関空/伊丹と新千歳・羽田・福岡・那覇を結ぶ路線を運航していることは周知のとおりである。
249:名無し野雷車区
12/12/07 22:15:09.21 8DKQG6jV0
まるでルフトハンザの逆バージョンだな
250:名無し野電車区
12/12/07 22:50:23.46 Rj9KUeMZ0
阪神国内航空 YS-11
近鉄航空とほぼ同時期に阪急グループが設立した「阪神国内航空」で使用されていたYS-11。
同社の設立の経緯としては、当時の阪急電鉄社長の「阪急は伊丹空港の近くも走っている、ならば空の旅にも進出してみてはどうだろうか」という考えがあったためと言われている。
機体は開業当初は阪急電鉄の車両と同じくマルーン一色で塗装されていたが、
利用者から「暗色系の機体は軍用機を思わせる」という声が出たことや、
また日光による機体温度の上昇で空調の効率が悪化するなどの理由により白地にマルーン帯に改められた。
この塗装は現在まで続いていることは周知の通りであろう。
垂直尾翼にはこれも阪急電鉄の車両と同じく、Hankyuのイニシャルである「H」を図案化したマークが描かれていた(後に阪急グループ共通のCIに変更)。
阪神国内航空の特徴として、
・「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」の考え
・開業以来一貫してターボプロップ機を使用
という点がある。
このうち「料金はエコノミークラス、サービスはファーストクラス」を実現するために、同社のYS-11はオリジナルよりも定員数の減少(64人→48人)が行われ、代わりにシートピッチの拡大やハイグレードな座席の設置などが行われている。
サービス内容に至っても、全席エコノミークラスでありながら同時期の日航・全日空のファーストクラスのそれとほぼ同等の水準であると評された。
1998年に後述する新型ターボプロップ機に置き換えられ、全機退役している。
251:名無し野電車区
12/12/07 23:16:22.17 Rj9KUeMZ0
ナニワ航空機 N-100
阪神国内航空がYS-11の後継機として導入したターボプロップ式旅客機。
先述の通り同社は開業以来一貫してターボプロップ機を使用しているが、ターボプロップ機に固執する理由としては巡航速度に於いてはジェット機に対して燃費と静粛性で有利である、短距離での離着陸が可能なために小規模な空港にも進出しやすいという実用的な理由の他に、
阪神国内航空の初代社長の「プロペラがある飛行機の方が旅のロマンを演出しやすい」という考えがあったためと言われている。
(実際、同社の宣伝では『プロペラ式の飛行機で優雅な空の旅』『速さよりもゆったりと飛んでみませんか』などの、速さよりもゆったりとした旅行をアピールするようなキャッチフレーズを幾度と無く採用している)
一方で開業以来使用されてきたYS-11形機が機体そのものの老朽化や安全装置取り付けの難しさで退役の時期を迎えたことや、48人という定員の少なさから後継機の導入が求められてきたものの、
大型旅客機市場はほとんどジェット機が占めており、今更になって"時代遅れの低速なターボプロップ式旅客機"を一社のためだけに製造するようなメーカーが現れることは無いことは明白であった。
このため、阪神国内航空の親会社である阪急電鉄は自社開発の旅客機を製造することを決断。
航空機メーカー「ナニワ航空機」を設立し、"自社仕様の旅客機"を製造することを決定した。
人員に関しては、YS-11の製造元である旧日本航空機製造のOBの採用の他に、三菱重工業や川崎重工業からの引き抜きもあったと言われている。
252:名無し野電車区
12/12/07 23:18:12.01 Rj9KUeMZ0
こうして「阪神国内航空専用機」としてロールアウトした機体がN-100である。
ネーミングは阪急電鉄のかつての名車・100系「P-6」から採用されたという説がある。
機体はボーイング767シリーズとほぼ同クラスの、ワイドボディ中型機とされた。
座席はエコノミーのみのモノクラスではあるものの、多くのファーストクラスと遜色ないシートピッチと座席に設定されている。
このため乗客定員は180名程度と、中型機としては比較的少ない数となっている。
主翼は安定性を重視し、高翼式とした。
エンジンはターボプロップ方式。C-130形輸送機と同型の、アリソンT56-A-15を4発搭載する。プロペラは4枚翼。
ターボプロップ機でありながらフライバイワイヤやグラスコックピットを採用し、新型ジェット機とほぼ同等の機能や操作性を備えている。
巡航速度は500km/h、最大速度は580km/h。
元々は事実上の阪神国内航空の専用機として開発された機体であるが、整備性の良さや堅牢性、さらに燃費や使い勝手の良いターボプロップ機であることからアジア地域の一部の航空会社でも採用されている。
海外向けの機体は座席を通常のエコノミークラスと同程度まで増やしたものも存在する。
(堅牢性に関しては、ナニワ航空機のスタッフに日本航空機製造のOBが多数在籍していたためだとも言われている。
またこの点から、一部の航空ファンからは『YS-11の実質的な後継機』と見られることもあるらしい)
253:名無し野電車区
12/12/08 08:10:10.45 voI3EhJTO
京成航空CRJ700
過去に谷津遊園の遊覧ヘリコプターなどを手掛けていた日本ヘリコプターが
親会社の京成電鉄と吸収されて京成航空として遊覧ヘリコプター及び報道や
送電線パトロールなどのヘリコプター業に進出した。
そして2012年にローコストエアラインとして航空輸送の導入を決める。
採用されたのはカナダボンバルディア製小型ジェット旅客機CRJ700である。
成田空港をハブとして7機を導入。名実共にエアスカイライナーとして運航された。
行き先は成田~伊丹 福島 庄内 中部国際であるが、直後にIBEXを吸収合併により、
IBEXが運用していた仙台と小松にも就航した。
>>215も後継機材としてCRJ700を採用し、ジェット化が図られた。
現在三菱が開発中の旅客機のカスタマーとして加わっている。
なお富士急が出資しているフジドリームエアラインを来年度に吸収合併する。
これにより、成田~静岡も就航する予定。
また大型機材の計画でエアバスA319または日本の航空会社が採用していない
B737NGシリーズのB737-900の導入を検討している。
254:名無し野電車区
12/12/08 08:12:07.16 voI3EhJTO
>>253訂正
>>215は誤りで正しくは>>252
255:名無し野電車区
12/12/08 10:25:58.59 948v6x690
国鉄80系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1950年(昭和25年)に開発した、旧形長距離列車用電車形式群の総称で、
いわゆる「湘南電車」の初代車両であり、客車列車の置き換えを目的に当初から、
長大編成組成を前提として設計され、電車が長距離大量輸送に耐えることを実証した車両である。
電車化の本命だった東京駅-小田原駅・熱海駅間の東海道本線東京地区は、戦前から蒸気機関車、
電気機関車牽引による客車列車運行と横須賀線から転属した17m級12系電車、20m級32系電車による、
混合運用を行っており、終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、加減速性能、
高速性能に優れた電車を用いて、列車運行頻度を増やし、激増する輸送需要に対応しなければ、
ならない状況に陥り、鉄道省時代からの懸案であった東海道本線用の長距離電車の開発用に、
1948年 (昭和23年) 4月26日、関西急電で使用されていた52系電車2次車4両編成2本を使用して、
4M3Tの強力編成を作り、中間に17m級サハ17形を改造した性能試験車サヤ16形(16001)を連結、
この時は119km/hの最高速度を記録、同年5月10日には横須賀線で使用してた52系電車3次車、
6両編成2本を組替えして6M3T編成、同年5月23日には京浜線の40系電車11両、8M3T編成1本を使用して、
茅ヶ崎-辻堂間で高速度試験が行われた。この結果を元に同年10月から企画と開発が始まり、
開発に際しては実績のある既存技術に加え、当時各製造メーカーで試験が繰り返れていた、
動力分散方式を採用する案となり、動力分散方式として2両の電動車を(1ユニット)で取り扱いをして、
片方の電動車(M車)に主制御器、主抵抗器、パンタグラフといった主電動機のコントロールに、
直接関係した機器を2両分、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せる1C8M制御の、
MM'ユニット方式を日本初、鉄道車輌として初採用する案が決定された。
256:名無し野電車区
12/12/08 10:28:17.05 948v6x690
主電動機は吊り掛け式150kWのMT42Bが開発され、MT42Bは国鉄が採用した電車用吊り掛けとしては、
最大の出力、国鉄最後の吊り掛け式となり、高速域での速度性能向上に加え、弱め界磁と、
起動減流抵抗による減流起動を組み合わせることで衝動が小さくスムーズな起動を可能とした、
電動カム軸接触器式も界磁機能付きのCS10Aも搭載、歯車比は高速運転に適した1:2.56、
装備する台車は専用に開発されたDT16の改良版である高速運転用台車DT17Bを装備し、
制御車と付随車の台車はTR28が装備されたが、1952年(昭和27年)からTR48に変更、
ブレーキシステムには複雑精緻な電磁空気弁による長大編成用自動空気ブレーキを装備し、
編成の先頭から最後尾まで、ほぼ遅延なくブレーキを動作させることが可能となり、日本の電車としては、
未曾有の長大編成である12両編成、16両編成運転が実現、乗り心地やコスト面での改善を図った。
車体は車端に寄せたデッキを備えた片開き片側2扉で、客車と同様のデッキと客室を壁で仕切る配置とされ、
ドア幅については乗降を円滑にするため、他の電車と同じく1100mm幅を採用、長距離運用を意識して、
客車に極力近づけたことは画期的であり、内装は木製、照明は白熱灯が片側10個2列に並び、
客用扉の窓も横桟が3本入り、古臭く見えたが、不規則運用も兼ねて、最初から耐寒設計を導入、
座席下には電気暖房を備え、座席のシートピッチも客車同様とされたが、ビニールクロスの座席は、
夏期の乗客から不評を買ったことで、後年はモケットに変更された。また窓の高さが、
客車や従来の電車よりも若干高い設計とされていて、屋根上の通風器は箱型の押込み式が千鳥上に、
モハ80形は9個、クハ86形とサハ87形は10個並び、クハ86形の乗務員室後ろのデッキ部分は、
夏期になると蒸し風呂だと乗客から不評を買ったことで、1954年(昭和29年)度製造分からは、
通風器が横並びに2個配置とされ、それ以前の製造車にも順次、取付られていった。
257:名無し野電車区
12/12/08 10:30:39.31 948v6x690
前面形状は1949年(昭和24年)末に製造されたクハ86001-86010の運転台正面は小田急1700形3次車に似た、
前面に限り雨樋位置を上に上げた、張り上げ屋根構成でシルヘッダーを捲いた非貫通の2枚窓であったが、
クハ86011からは2枚窓が傾斜した湘南2枚窓とされ、最初にこのデザインを試みたクハ86011-86016の6両は、
クハ86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、曲面の付いた形状で、
続くクハ86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現、ここに80系電車の象徴、
後の60系電車や70系電車、私鉄各社にも広がる湘南2枚窓デザインが完成、このデザインはスピード感と、
近代性があり、当時としては極めて斬新な形状で「湘南型」と呼ばれた。
また1956年(昭和31年)度製造の全金属車両からは正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓になり、
車体側面に従来あった窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も上下寸法が大型化、
側面窓枠がアルミサッシ化され、内装もアルミデコラ化粧板を使用する完全な全金属化され、
床はリノリウム貼り、当初から蛍光灯照明となっている。これは60系電車も同じになっている。
258:名無し野電車区
12/12/08 10:33:27.53 948v6x690
基本形式
モハ80形0番代(80001-80168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上、全車が下り向き、
1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車端部に広幅貫通路と幌を装備した。
モハ80形200番代(80201-80248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、モハ81形とユニットを組み、
主制御器、主抵抗器を搭載、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載、ユニットの関係上全車が下り向き、
1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、
車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板の採用、蛍光灯採用、側面窓枠が鉄枠からアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載され、
国鉄急行型電車では初の冷房搭載車輌となった。
モハ81形0番代(81001-81168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの、
2段上昇窓が付き、ユニットの関係上、全車が東海道線基準で上り向きになっていた。
モハ81形200番代(81201-81248)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、モハ80形とユニットを組み、
MG、CPなどの補機類が搭載され、1956年(昭和31年)度から1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、
窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
259:名無し野電車区
12/12/08 10:37:25.34 948v6x690
モハ82形0番代(82001-82004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
パンタグラフ部分の屋根を低くして、パンタグラフの折畳み高さを低く抑えられた専用形式で、
歯車比は加速力より登坂力を重視した40系電車と同じ1:2.87とされたモハ83形0番代と、
ユニットを組む運転台を持たない三等中間電動車(M)で、新造当初は、
モハ80形800番代が付番されたが、1954年(昭和29年)にモハ82形に改番された。
モハ82形100番代(82101-82104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
モハ83形0番代(83001-83004)
1951年(昭和26年)に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の河口湖乗入れ運行用として、
歯車比が40系電車と同じ1:2.87にされたモハ83形0番代とユニットを組む運転台を持たない、
三等中間電動車(M')で、新造当初は、モハ81形800番代が付番されたが、
1954年(昭和29年)にモハ83形0番代に改番された。
モハ83形100番代(83101-83104)
1958年(昭和33年)度に4両が全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は従来あった、
窓上下のウィンドウ・シル/ヘッダーを廃して窓も大型化、室内はアルミデコラ化粧板を採用、
床はリノリウムを張り、蛍光灯採用、側面窓枠がアルミサッシに変更され、
新造当初から三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
260:名無し野電車区
12/12/08 10:54:55.50 948v6x690
クモユニ84形(84001-84004)
車体長20m級の両運転台を持つ郵便荷物合造制御電動車で、1951年(昭和26年)度に半鋼製車体で新造、
前面形状はクハ86017以降の湘南型非貫通2枚窓で、神戸寄りに郵便室を配置、幅1000mmの両開きを配置、
東京寄りに荷物室が設置され、幅1200mmの両開きを配置、窓配置はd1D(郵便)1111D(荷物)1dで、
パンタグラフは両運転室側に載せられていた。
サロ85形0番代(85001-85016)
日本初、狭軌路線初の車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、
1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)に準急列車用として16両を新造、窓配置D2(5/5)2D、
台車間をバスタブ状の床構造として1階の床高さを線路面ギリギリまで引き下げた構造で、
デッキから客室に入ると神戸寄りから海側に洗面所、山側に便所、海側に2人掛け座席を両2列配置、
山側にラセン階段、1階座席は2人掛けを両配置10列、2階座席も2人掛けを両配置10列とし、
海側に2人掛け座席を両2列配置、山側にラセン階段、海側に車掌室、山側に乗務員室となっている。
座席はリクライニング機能が付いた回転クロスシートで、目的地に到着後は乗車する車掌が、
進行方向に向って座席の向きを変えていた。建築限界や車両限界の関係上、東海道線以外の路線、
中央線などには入線が出来ず、後年は東北本線の上野駅-黒磯駅間で使用され、1960年(昭和35年)から、
冷房改造を実施、その際に偶数車の車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。
サロ85形100番代(85101-85116)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない二階建て二等付随車で、1958年(昭和33年)から、
1959年(昭和34年)に全金属車体で16両を新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下のウィンドウ、
シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、二階建て車輌は集中冷房装置の搭載が困難なことから、
両車端部の屋根上に、三菱電機がサロ85形専用に開発した分散式冷房装置ATU10型が搭載、
偶数車は車掌室と乗務員室を撤去、補助冷房として室内冷房機が搭載された。
261:名無し野電車区
12/12/08 10:58:23.13 948v6x690
クハ86形0番代(86001-86058)
車体長20m級2扉クロスシートの三等制御付随車で、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に、
半鋼製車体で製造、窓配置dD1(9)1D、前面形状は86001-86010の運転台正面が半流線型の、
ウインドシル・ヘッダーを巻いた非貫通2枚窓で、86011以降の製造分からは傾斜を付けた正面2枚窓に変更、
86011-86016は86010までの台枠を流用した関係で、中心に「鼻筋」となる鋼板合わせ目のない、
曲面の付いた形状であったが、86017以降は、台枠形状を変更して折れ目の付いた「鼻筋」が出現した。
クハ86形100番代(86101-86128)
車体長20m級2扉クロスシートの片運転台式三等制御付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、正面窓がHゴム支持による車体直結の固定窓となり、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓配置dD1(9)1D、側面窓枠がアルミサッシ、
窓も大型化、、床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、
1958年(昭和33年)度製造分から、三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
サハ87形0番代(87001-87088)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1950年(昭和25年)から、
1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、窓配置D1(10)1D、車両妻面は切妻型で、
車端部に広幅貫通路と幌を装備、貫通路両脇には幅30cmの2段上昇窓が付いた。
サハ87形100番代(87101-87168)
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等付随車で、1956年(昭和31年)度から、
1959年(昭和34年)までに全金属車体で新造、窓配置D1(10)1D、車体側面は窓上下の、
ウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、床はリノリウムを張り、
室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分からは三菱電機製造の、
集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
262:名無し野電車区
12/12/08 11:00:22.99 948v6x690
クハニ88形(88001-88004)
車体長20m級クロスシートの片運転台式三等荷物合造制御車で、前位より運転台、荷物室、三等客室に、
区分され、荷物室には幅1,200mmの両開きの荷扱い扉、窓配置はd1D(荷物)1(8)1Dという、
変則的なものとなっていて、基本編成下り方専用、1952年(昭和27年)度に製造された。
サシ89形(89001-89008)
車体長20m級の簡易食堂車で、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)に半鋼製車体で8両を新造、
側面に客用扉は東京寄りの車体端に在るだけで、神戸寄り山側の端には物資積卸用として、
750mm幅の片開き業務用扉を設置、側窓は下段上昇式の2枚窓、窓配置11(10)1D、
車両妻面は切妻型、車端部の広幅貫通路には片側2枚引き戸の4枚両引き戸を装備した。
調理室はは神戸寄りの山側に設置され、電気コンロ、大型電気冷蔵庫、大型冷水器、ジュースクーラー、
アイスクリームストッカー、サイフォン式コーヒー沸かし器、トースター等の電気機器を備え、
カウンターと通路を挟んで海側の側面に沿ってテーブルが設置され、着席用に丸型の回転椅子を装備、
景色を見ながら食事が出来るようになったいた。また車体中央から東京寄りは山側に2人掛けテーブル、
海側に4人掛けテーブルを設置、床下には自車電源用の50kVAのMG・CPを搭載、食堂用の水タンクは、
東京寄りに楕円型の1500Lを1基、神戸寄りに丸型の600Lを2基、床下に搭載した。
サシ89形は東京駅-浜松駅間の急行「遠州」用として日本初、狭軌路線初の二階建て二等付随車とともに、
1951年(昭和26年)度に4両を製造、提供された食事はモーニング洋食を始め、サンドウィッチ、
トースト&コーヒーやジュースなどの軽食が中心で、後のビッフェ車の原型となった。
サシ89形100番代(89101-89108)
車体長20m級の簡易食堂車で、1956年(昭和31年)度に4両、1958年度に4両が全金属車体で新造、
車体側面は窓上下のウィンドウ・シルヘッダーを廃して、窓も大型化、側面窓枠がアルミサッシ、
床はリノリウムを張り、室内はアルミデコラ化粧板、蛍光灯の採用、1958年(昭和33年)度製造分は、
三菱電機製造の集中型冷房装置AU50Mが搭載された。
263:名無し野電車区
12/12/08 11:03:17.34 948v6x690
改造形式
クハ89形(89001-89022)
地方線区への転用過程で必須だった短編成化に伴うサハ87形100番代からの改造。
車体塗色
湘南色
80系電車の独特な窓周りをオレンジ(黄かん色)、幕板と腰板をブルー(青20号)に塗り分けた塗装は、
「湘南カラー」や「湘南色」と呼ばれ、茶色1色塗装が当然だった当時の鉄道界に新鮮な驚きを与えた。
この塗色は、日本国外の鉄道雑誌に掲載されていたアメリカのグレート・ノーザン鉄道の大陸横断列車、
「エンパイア・ビルダー」用車両の塗装にヒントを得て、「湘南地方の海と太陽」を重ね合わせて、
国鉄で考案されたと開発に携わった国鉄技術者が証言している。当初発注車は窓周りが比較的濃い、
朱色であったが、評判が悪かったため、次からみかん色に変更、ほかにも彩度や明度は、塗料の退色など、
耐久性の問題もあり、時代により、あるいは担当工場により、塗り分け線とともに幾度か変更されてきた。
これ以降、「湘南地方の海と太陽にちなんだもの」と国鉄もそのようにPRした。
この塗色は1968年(昭和43年)のダイヤ改正でオレンジ色とグリーン色の「東海色」に変更されるまで、
国鉄の直流急行形電車の標準塗色の一つとなり、「東海色」に変更後もオレンジ色は引き継がれて、
オレンジ色をコーポレートカラーとして採用している東海旅客鉄道(JR東海)を筆頭に、
現在の本州JR各社にまで引き継がれ、東海道本線を走るステンレス車両の211系電車、さらにJR化後に、
登場したE231系電車、E233系電車にも、帯色として多少色が薄くなってはいるが受け継がれている。
また湘南顔の80系電車および60系電車、70系電車で採用された塗り分けは「金太郎塗」と呼ばれ、
国鉄の初期の試作型気動車のほか多くの私鉄でも採用された。初期2枚窓の80系1次車は当初、
オレンジ色の部分が比較的少なかったが、のちに2枚窓のものと同様に大きくした。
264:名無し野電車区
12/12/08 11:14:51.03 948v6x690
横須賀色
東海道本線東京口に続き、1950年(昭和25年)7月に横須賀線向けとして80系電車が投入された。
これらは東京駅-横須賀駅間に設定された準急電車「三浦」運用に充当、この「横須賀線用」は、
その初期には戦前の32系電車、52系流線型・半流型電車と同じ、窓周りをクリーム2号、
幕板と腰板を青2号に塗り分けられ、派手な「湘南色」車と異なり、落ち着きがあった。
1956年(昭和31年)からクリーム1号と青15号に塗装が変更された。
関西急電色
横須賀線に続き、1950年(昭和25年)10月に東海道本線京阪神地区向けとして80系電車が投入され、
戦前の52系流線型電車と同じ、窓周りがクリーム3号、幕板部および腰板部がぶどう色3号の、
関西急電の伝統であった「急電色」に塗装された。この色の80系電車は、派手な「湘南色」車と異なり、
独特の渋味のあるたたずまいで異彩を放っていた。また塗り分け線も湘南色とは異なっていた。
塗り分け調整
80系電車は、最初に登場した0番代から全金属車体の100/200番台に至るまで、湘南色の塗り分けには、
微妙な違いがあり、特に全金属車体となった200番台車と、それ以前のウインドシル・ヘッダー付き、
半鋼製車体の80系電車各車とでは、車体構造や側窓寸法の相違から基本塗り分けラインが異なっており、
混結運転時には美観の点で難が出るので、何処の電車区でも極力混結は行われなかった。