12/10/28 02:13:23.74 /lTlY6Ca0
>>111に続く平行世界もの
◎国鉄スハ10形客車
1960年 二階建て
○>>8の歴史により日本は朝鮮北部の咸鏡道中部沿岸を韓国からの租借地として日本が統治する事になり、
この地を任那府と呼び、地方自治制度対象外の官庁直轄地とした。
戦争で壊滅した旧朝鮮総督府鉄道の咸鏡線等の各路線が国鉄によって復興したが、内地との車両共通化で狭軌となった。
元々旧鮮鉄は北米や後の新幹線に準じる標準軌で敷設されたので、韓国への返還と再改軌を想定して
トンネル等の建築限界は本土の在来線に比べ大きく新幹線に近く、それに伴い車両限界は、車高と車幅の最大値は
本土の在来線と同値だが、車両限界の断面はほぼ直方体と余裕がある点で異なった。
これにより戦後の高度経済成長期には逼迫した需要に対する輸送力増強目的に任那府専用の超大型車両が導入された。
その一つが、10系客車に属する二階建客車スハ10形である。
車体は、車端の平屋区画二つと車体中央の台車間に二階建て区画、両者を結ぶ乗降デッキ区画二つから成る。
最大の特徴は、独自の車両限界断面に沿って車体の二階建て区画の二階から一階までの車体側面が垂直となっている。
一方、本土だと二階と一階の側面を屈折せざるを得なくなり、居住性も悪く、当時の技術では製造費が馬鹿高くなる。
積載重量をス級に収める為に徹底的に軽量化され、その一環として極寒地なのに二重窓を採用せずユニット窓にした。
仮に冷房も搭載していたならばマハ10になっていた。乗降デッキと各階を結ぶ階段は直線状。
台車や接客設備等のその他の仕様はナハ11形を踏襲。
就役後、輸送力増強に貢献したが、黄害という欠点を露呈させた。
便所使用知らせ燈がつくと、一階では「うんこが降ってくるぞ!早く窓を閉めろ!」、「アイゴー」と乗客パニック。
車端設置の便所が垂れ流しだったので糞尿が車内の一階に直撃するのであった。
しかも保温性が悪く、厳冬期は寒かった。
内地からの旅行客には珍しく、乗ってみたい車両だが、毎日利用する地元民にとっては不人気な車両であった。
1950年代から60年代初頭に設計された車両形式は、腐蝕に対し薄過ぎる鋼板の使用等の徹底した軽量化が裏目に出て
寿命が短かった。スハ10も老朽化激しくなり、国鉄末期の1986年までに全廃された。
127:名無し野電車区
12/10/28 09:26:27.14 CVO4f/PZO
国鉄 スハ46 スハフ45 スハニ33
特急用スハ44系の北海道型である。昭和29年に作られており、二重窓やバッテリーの
重量増のために屋根を鋼製とし、アルミサッシにするなどオハ46系の構造も
一部取り入れられている。台車もTR47ではなくオハニ36型と同じTR52又は電車用TR48を客車用にした
TR49を履く。
座席は方転は無理な関係上固定クロスではなく、転換クロスシートとなった。
全て札幌に配置され、特急「ていね」から特急「ニセコ」として函館~札幌間の
特急に使われ、牽引がC62型であったためにかつてのつばめ はとやはつかりを
彷彿とする編成となり、小樽~長万部間の重連は特に人気が高かった。
とりわけ2号機牽引はつばめの再来と大人気編成であった。
また比較的平坦な室蘭・千歳線経由の特急「すずらん」にも使われた。
牽引機はD51型が使われたが、これが後に気動車化されていく際に急勾配がある
山線小樽経由より距離が長くても比較的平坦な室蘭・千歳線経由へシフトされていく
布石となってしまった。
なお2等はナロ10及びスロ60が本州より廻されて北海道仕様に改装して
使われていた。
気動車特急の登場後は道内の寝台急行の座席車にも使われるようになり、
狩勝 まりも 利尻に使われていた。
14系化に伴い廃車が始まったものの、スハニ33-3 スハ46-1 3 4 6 8 9 13 16 スハフ45-2 3 6 11が
残されてJR北海道に承継された。また青函連絡船羊蹄丸が船の科学館に
展示される際にスハ46-7 12 スハフ45-5が車両庫に入れられて展示された。
128:名無し野電車区
12/10/28 09:52:11.83 CVO4f/PZO
>>127続き
JR北海道に承継されたスハニ33-3 スハ46-1 3 4 6 8 9 13 16 スハフ45-2 3 6 11は
C62-3が復活時に牽引する客車に選ばれてその際車内を14系と同等に整備され、
座席は回転式リクライニングに変更された。運転終了後は一時期急行「はまなす」に
使われたため、旧客が青函トンネルを通る異様な光景が見られた。
現在SLすずらんを初めとするSL列車牽引客車用にスハシ44らと共に使われている。
なお来年度にスハニ33-3 スハ46-4 8 16 スハフ45-2がJR東日本に譲渡される
(北海道に譲渡したオハ47型1両も返還)予定でこれらは全て土崎の秋田車両センターに
モスボールされており、東北で来年動態復元が決まったC58型の牽引用に
使われる可能性が高い。
また船の科学館閉館に伴い羊蹄丸内に展示されていたスハ46-7 12 スハフ45-5は
解体されるのではと言われていたが、SL急行用で状態のいい旧客を求めていた
大井川鐵道が全て購入して現在新金谷で原型に近い形に整備中で、
大鐵はオハニ36 スハフ43と組成してかわね路に使用する計画である。
なお重量があるため、44系で組成した編成ではC11型重連でもE10型
電気機関車の後補機が必要になると言う。
129:名無し野電車区
12/10/29 14:04:04.64 RFVYoeX30
国鉄 ナユ20
昭和35年、九州夜行特急に郵便車を連結し、首都圏と九州間における主に小荷物の速達性を
重視した郵便車を連結するように郵政省が製造した、20系専用郵便車
カニ21の次位に連結し、編成美を崩さないように深い屋根に20系と同様の塗装が施されている。
目的が速達小荷物の輸送であるため、仕分け室はない護送便仕様となっており、側面には両開きの大型ドアが2か所設置されている。
長らく九州ブルトレに連結されて使用されていたが、昭和40年代後半になってくると速達小荷物の輸送は航空便へシフトしていき、更に列車そのものが14系や
24系といった新系列への更新が進んだこともあり、徐々に郵政省から国鉄へ譲渡され、ナニ20に形式変更され荷物車として東北や関西ブルトレの20系に連結
されるようになっていった。
昭和50年3月、あさかぜの24系化により最後の3両が国鉄に譲渡され形式消滅した。
ナニ20に形式変更はされたものの、その構造が荷物車としてそのまま使えたことから全車原形をとどめたまま最後まで使用され、昭和55年10月、あけぼのの24系化に伴い
ナニ20も形式消滅した。
現在、ナニ20-3が大宮の鉄道博物館にナハネフ23の次位に連結されて展示されているのは、このスレの諸氏には周知のことであろう。
130:名無し野電車区
12/10/29 14:19:36.89 RFVYoeX30
国鉄 スユニ14
昭和49年、14系寝台車を使用したブルトレにおいて小荷物及び郵便輸送の必要性が発生したために製造された
荷物・郵便合造車
外観はスハネフ14の車掌室部分の後ろ、客室にあたる部分が荷物室と郵便室になっており、両開きの大型ドア1か所と
片開きの郵便用ドア1か所がついている。
郵便室は区分室がない護送便用となっており、床下にはスハネフ14と同容量の発電ユニットがついている。
また、列車の特殊性から中間車に組み込まれて運用されることを想定し、乗客が通り抜けできるように側廊下式の通路が確保されている。
さくら、みずほ、日本海などに連結されて使用されたほか、14系座席車に変更された急行「雲仙・霧島」にも連結されて活躍した。
また、14系15型が登場し20系から置き換えられた関西ブルトレ用に、白帯からステンレス帯、車掌室切妻になって登場した100番台も新たに追加製造された。
しかしながら、昭和57年11月で小荷物輸送及び郵便輸送が廃止されたため、全車廃車となった。
特に100番台は登場からわずか4年での廃車となり、国会においてその無駄使いが糾弾されたため、広く国民に知れ渡ることになったのは皮肉なことであった。
不運な車輛であった。
131:名無し野電車区
12/10/30 00:46:27.84 sLrtMU2d0
国鉄 ナハシ20
昭和43年、関西ブルトレや東北ブルトレといった比較的走行時間が短く、かつ輸送力増強として座席車を連結することが効果的な列車に
20系が投入されることになったために製造されたニ等座席車とビュフェの合造車である。
就寝前2時間、到着前1時間程度の営業時間しか取れない列車において、本格的な食堂車では居座る客が多く回転が悪いため、日本食堂側が
国鉄に対して回転の良いビュッフェ方式にしてほしいとの嘆願が出されたことと、1両まるまる食堂車にするよりは少しでも列車定員を増やしたい
国鉄営業サイドの利害の一致と、その両方のサービスに対する乗客からの歓迎により、好評をもって迎えられた。
外観は急行用電車のサハシを深屋根にして客室部分の窓がHゴムの大型固定窓になったような感じで、客用ドアは車体中央についている。
その後、二等座席をフリースペースにしたナハシ20-100も誕生し、ナシ20とコンビを組んで「あさかぜ」などの長距離列車にも連結されるようになり
就寝前に軽く一杯やりたいが、食堂車はどうも・・・という層に受けて繁盛することとなった。
しかしながら、20系から新系列の14系や24系などに置き換えが進むにつれて休車や廃車が出始め、昭和55年10月のダイヤ改正で最後の「あけぼの」から
撤退した時点で全車廃車となった。
現在、大宮の鉄道博物館の屋外休憩所となっているナハシ20-101でお弁当を食べたりしたことがある諸氏は、このスレにはたくさんいると思う。
132:名無し野電車区
12/10/30 01:32:16.10 QLHAecVj0
クモニ103/モニ103/サニ103
余っていた103系と輸送量が減少気味の阪和線・関西空港線を利用してクロネコヤマトの運搬に利用できるようにした車両。
荷物車扱いだが当初特に車内に変更はなく、カーゴを手すりに引っ掛けられるようにした程度であった。
その後渋滞がいないこともあって増発され、車内の椅子を撤去し、荷物棚を設置するなど本格的な荷物車になった。
133:名無し野電車区
12/10/30 13:58:12.57 slvYLGa80
国鉄30系電車
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級3扉ロングシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
鉄道省の電動車としては初めて全長20m級の鋼製車体を採用した電車である。
両運転台式三等制御電動車のモハ30形、片運転台式三等制御電動車のモハ31形、
片運転台式三等制御付属車のクハ36形、運転台無し三等付随車のサハ37形、
運転台無し二等三等付随車のサロハ44形、三等荷物合造制御付属車のクハニ45形、
6形式328両を指し、20m級の半鋼製車体の側面3か所に幅1100mmの引戸を設け、
運転台後部の窓は600mm、ロングシートの扉両側及び車端部の窓は700mm、
残る扉中間部の窓は800mmとなっていて、窓配置d1D6D6D2となっている。
主電動機は30系用に開発された出力124kWのMT30、制御装置もCS-7となり、
台車は電動車がDT12、付随車用にはTR23を使用、屋根上の通風器は3列で、
車両間に貫通幌と引戸を装備、本系列は4扉ロングシートの40系電車が登場するまで、
通勤型電車の標準形として活躍、年度ごとの設計変更や、戦後の更新などで、
形態もバラエティに富んでいる。
モハ30形(30001-30046)
1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて合計46両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの両運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D6D6D1d、
両前面は平妻の非貫通型3枚窓、運転室の形状は鉄道省初の全室型となり、
丸屋根、パンタグラフは上り方の運転席側の屋根に搭載され、台車はDT12を採用、
1934年(昭和9年)度の製造分、30021から仕様が変更され、
両前面形状が平妻の貫通型に変更、全車が番号に関係無く上り向きにされていた。
134:名無し野電車区
12/10/30 14:00:30.07 slvYLGa80
モハ31形(31001-31116)
1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて合計116両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの片運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D6D6D2、
前面は平妻の非貫通型3枚窓、運転室の形状は鉄道省初の全室型となり、
車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、パンタグラフは運転席側の屋根に搭載され、
台車はDT12を採用、1934年(昭和9年)度の製造分、31071から仕様が変更され、
前面は貫通型(大阪地区向けは幌台枠付)に変更、同時にパンタグラフも、
車体後部の屋根、連結側にパンタグラフを設置され、見た目が違っている。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
クハ36形(36001-36058)
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて合計68両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの片運転台式三等制御付随車で、窓配置d1D6D6D2、
前面は平妻の非貫通型3枚窓、運転室の形状は鉄道省初の全室型となり、
車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、台車はTR23を採用、
1934年(昭和9年)度の製造分、36039から前面が平妻の貫通型となり、
1936年(昭和11年)度の製造分、36057から058の2両は前面が半流線型になり、
台車はTR23。奇数番号は上り向き、偶数番号は下り向き。
サハ37形(37001-37088)
1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)にかけて合計88両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D6D6D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、台車はTR23。
135:名無し野電車区
12/10/30 14:34:43.18 slvYLGa80
サロハ44形(44001-44014)
1933年(昭和8年)度に6両、1935年(昭和10年)度に8両が製造された、
車体長20m級3扉ロングシートの運転台を持たない二等三等付随車で、
二等室側面窓は幅700mmの窓を二つずつまとめ、二等室と三等室の境界には、
仕切りが設けら、二等車室には固定式クロスシートを2組×2列配置、
三等室にはロングシートを配置、両車端部に貫通幌と引戸を装備、丸屋根、台車はTR23、
また1935年(昭和10年)度からの44007-44014は鉄道省の大井工場、大宮工場で製造、
鉄道省の工場で電車が新造されたのは、1917年(大正6年)以来のことであった。
クハニ45形(45001-45006)
1936年(昭和11年)度に6両が製造された車体長20m級3扉ロングシートの、
片運転台式三等荷物合造制御車で、荷物室を運転台の後位に設置した関係で、
前面は半流型の非貫通3枚窓、荷物室には幅1200mmの両開き式の引戸が2か所設けられ、
側面窓配置はd1D(荷)1D(荷)1D6D2になり、台車はTR23。
4両は常磐線の松戸電化開業用、残り2両は山手線用に用意された。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正でモハ30形はクモハ30形、
モハ31形はクモハ31形に改称される。
大阪地区への転入
1937年(昭和12年)1月に4扉ロングシートの40系電車が新造、東京地区に集中配備されることになり、
同時に東京地区で運用されていた30系を大阪地区に転入させることが決定、片町線を始め城東線、
京阪神緩行線に集中配備され、転入した車輌は吹田工場で幌枠台を装備する改造が行われた。
136:名無し野電車区
12/10/30 14:41:10.13 slvYLGa80
サロハ44形の格下げ
前年の日中戦争勃発で戦時体制に入ったことで1938年(昭和13年)3月に、
京阪神緩行線の二等車も廃止され、14両全車が三等車代用として使用されることになった。
1941年(昭和16年)から正式に二等室のクロスシートと仕切り壁を撤去して、
全室三等車に変更、これによりサロハ44形はサハ37形に編入され、
(37089-37102)に改称され消滅した。外装はサロハ時代のままであった。
クモハ30形の中間車化改造
1939年(昭和14年)大阪地区のクモハ30形16両に対し、50系や40系に倣った、
中間電動車化を実施、改造施工車は前面が非貫通タイプの8両、
貫通タイプの8両が両運転台を撤去、運転台機器、乗務員扉を撤去して、
側面窓を設置して客室化、妻面の改造を行い、完全に中間車改造化、
クモハ30形のまま30800番台に改められたが、運用上不都合が生じることで、
予備形式として開けられていた20番代、モハ20形(20001-20016)に改称された。
クモハ30形の片運転台撤去
大阪地区で運用されている両運転台式クモハ30形の非貫通型12両の、
非パンタ側運転台を撤去して客室化、片運転台式にする改造が、
中間電動車化改造と同じ時期、1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)に、
かけて実施され、番号はクモハ31形200番代(31201-31212)に編入するとして、
運転機器や乗務員扉の撤去、側面窓の設置、妻面の改造が行われた。
この改造でクモハ30形の非貫通型は消滅した。
137:名無し野電車区
12/10/30 14:46:34.16 slvYLGa80
戦災と戦後の状況
本系列は戦時の通勤輸送で相当に酷使、戦争の末期に始まった米軍の空襲により、
実に4分の1弱の89両が焼失、戦後は輸送量が激増したことで疲弊の度合いを増していった。
残った車両は1948年(昭和23年)頃から更新修繕により、戦前の状況に復していったが、
それと並行して車内設備の向上等の改良も行われていった。
更新修繕
1951年(昭和26年)から更新修繕を実施、施工された工場や時期によって内容が異なるが、
ガーランド型ベンチレーターをグローブ型ベンチレーターに交換、絶縁強化、
鋼板プレスドアに交換、前面運行番号窓の拡大、行先表示窓を埋め込みの修繕が行われた。
地方への転出
30系の後継車となる40系の大量進出、新性101系の登場で、1955年(昭和30年)頃から、
置換えを本格的に開始、転用線区としては仙石線、身延線、飯田線、大糸線、
宇部線、小野田線など戦時中の私鉄電化買収路線がほとんどである。
地方に転出した30系は、その大半の線区では編成単位、2両、4両編成で運用され、
クハ36形およびサハ37形はトイレの取付が行われ、400番台に改称された。
転出後、雨水の流入による腐食防止で運転台窓や戸袋窓部分にHゴム化改造されるのが多く、
吹田工場施工車では小型化した運転台窓とともに特徴的な前面を形作ることになった。
138:名無し野電車区
12/10/30 14:54:09.86 slvYLGa80
低屋根化改造
トンネル断面が小さい身延線に転出したクモハ30形2両、クモハ31形8両に、
架線とパンタグラフの絶縁距離確保のため、屋根の一部を削って、
パンタグラフの取付位置を低くする低屋根化が行われた。
低屋根化された10両は800番台に改称された。
晩年
1970年代以降、4扉セミクロスシート車の60系が地方線区に転出してくると、
35系よりも座席数が少ない30系は余剰が発生、順次廃車が行われた。
保存
大宮工場で事業用(職員輸送用)として在籍していた30系2両のうち、クモハ31017が、
保存されることになり、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月30日付けで除籍、
JR化後は大宮総合車両センター内で保管されていたが、JR東海浜松工場から打診を受け、
2002年(平成14年)にJR東海に譲渡、同年から浜松工場の敷地に展示されている。
クモハ31017と組んでいたクモハ31092はJR化後に大宮工場で解体された。
139:名無し野電車区
12/10/31 21:11:38.83 fQVH+oj10
国鉄チキ10000形
コキ10000形を改造して作られたレール運搬用貨車。
重量物を扱い、夜間作業も多く発生するレール取り降ろし作業の安全性と作業効率を向上させるため試作された。
ジブクレーンや照明設備が標準装備されているほか、床下にディーゼル発電機を搭載している。
140: 【東電 71.2 %】
12/10/31 23:02:53.77 JqVI+jy3O
JR東日本E241系/E541系/E741系・キヤE141系:
工事用列車の電車化及び気動車化を図る為に投入。
E241系は中央線トンネル対応で、東京総合車両センターに配置。
E541系は小山車両センターと勝田車両センターと新潟車両センターに配置。小山車は黒磯選別、勝田車は交直自動切替。
E741系は秋田車両センターと仙台車両センターに配置。
キヤは松本車両センター(小海線)・高崎車両センター(八高線)・仙台車両センター(東北ローカル)・幕張車両センター(久留里線)・秋田車両センター(東北・新潟ローカル)に配置。
小山車は東鷲宮工臨で久喜駅の中線に留置される事も多数。
141:名無し野電車区
12/11/01 00:05:16.09 ValB14ov0
JR北海道 キヤ183
除雪や車輛回送のために在籍するディーゼル機関車の置き換え用として、振り子式車輛の投入により余剰となったキハ183系を活用するとともに
年々減少していく機関士乗務員の代わりに運転士の確保が容易な気動車化をするために登場した形式
中間車でかつ高出力エンジンを搭載しているキハ182-1550番台を改造し、貫通ドアつきの高運転台を便所側に取り付け、2両1組で運用される。
旧客室部分は粘着力向上のために死重が積まれ、一部を資材格納用の荷物室にされている。
DE15のラッセルヘッドやDD14のロータリー装置を着脱可能にし、ロータリー装置についてはDD14と同様1エンジン又は2エンジンの使用が可能なようになっている。
2エンジン使用の場合は、DD14と同様後ろの車輛が推進役を果たす。
また、車輛回送は平地においてキハ283系10連までの無動力回送を牽引する能力があり、札サウと苗穂間の車輛回送を想定している。
全部で16両が改造され、手稲、苗穂、旭川、釧路、函館の各地に配置され活躍している。
142:名無し野電車区
12/11/01 12:44:33.07 QK3a1IAr0
クモハ103・102-2000番台
JR東日本が南武支線用に103系を先頭車化改造したもの。
ATC車に準じた運転台を取り付け、ワンマン化改造を施工した。
両方が先頭車化改造車の編成とクモハ103が0番台の編成があった。
143:名無し野電車区
12/11/01 15:08:25.57 uWi13Ycl0
国鉄32系電車
1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
両運転台式三等制御電動車のモハ32形、片運転台式三等制御電動車のモハ33形、
片運転台式三等制御付属車のクハ38形、運転台を持たない三等付随車のサハ39形、
片運転台式三等郵便荷物合造車のモハユニ23形、運転台無し二等三等合造車サロハ24形、
片運転台式二等三等制御車クロハ25形の計285両のことである。
32系電車は東京地区の横須賀線投入と1934年(昭和9年)須磨-吹田間が電化開業で、
電車の運転が開始されたのに伴い新製投入されたものである。
32系は横須賀線の電車運行で投入される予定だったが、20m級車体と主電動機の開発が間に合わず、
17m級11系の設計変更である12系を投入する運びとなり、横須賀線に20m級車体の投入は、
東京鉄道管理局の悲願でもあった。また阪神間では阪神電気鉄道本線および、阪神急行電鉄神戸線(現・阪急電鉄)が、
京阪間では京阪電気鉄道の京阪本線と、新京阪線(現・阪急京都線)がすでに開業、特に阪急や新京阪では、
強力な150kW、170kW級の主電動機を装備した優秀な電車が高速運転を行い、これらに対抗するため、
同線での急行電車の運行を企図した背景がある。当時としては比較的長距離の運行を想定し、
片側2扉の20m級車体にを装備したが、既に並行私鉄では全鋼製車両も存在してた状況では、
内装が木製の半鋼製の32系では、やや見劣りする感は免れなかった。
基本形式
車体の基本構成は20m級車体2扉クロスシート車で、前後扉両側に立席スペースが増大、
扉間の窓は立席スペースの2枚計4枚と2枚1組6個で計16枚になった。
車端部には貫通幌と引戸を装備し、主電動機は30系と同じ出力124kWのMT30、制御装置もCS-7、
歯車比はモハ12形と同じく高速型の1:2.26、台車は電動車がDT12、付随車用にはTR23を使用、
屋根上の通風器はガーランド型通風器を3列に配置した。
144:名無し野電車区
12/11/01 15:20:41.56 uWi13Ycl0
モハ32形(32001-32016)
両運転台式の2扉クロスシート三等制御電動車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
1932年(昭和7年)度中に16両が製造され、定員104名(座席68名、立席48名)、
主に増結用として使用、側面窓配置はd1D2(12)2D1d、全車上り向きにされていて、
パンタグラフは上り方の運転室側屋根に設置された。
モハ33形(33001-33136)
片運転台式の2扉クロスシート三等制御電動車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
運転室の形状は全室型、1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)に136両を製造、
1934年(昭和9年)度の33063から仕様が変更され、前面が貫通扉の付いた貫通型となり、
運転室側に載せられていたパンタグラフも車体後部、連結側の屋根に設置された。
側面窓配置はd1D2(12)2D2で、屋根上の通風器が3列となっている。
本系列で最も多く製造された基幹形式である。定員129名(座席74名、立席55名)、
奇数番号車は上り向き、偶数番号が下り向きに統一されている。
クハ38形(38001-38058)
片運転台式の2扉クロスシート三等制制御付随車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
運転室の形状は全室型、1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)に58両を製造、
32系としては最も長期にわたって製造された形式で、1934年(昭和9年)の38021からは、
前面が貫通型に変更、1936年(昭和11年)に製造された38051-058の8両は、
貫通扉が付いた半流線型となり、32系で唯一、3回も仕様が変更され、
側面窓配置は、d1D2(12)2D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、
サハ39形(39001-39064)
運転台を持たない2扉クロスシート三等付随車で車両間に貫通幌と引戸を装備、
1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)にかけて64両が製造された。
145:名無し野電車区
12/11/01 15:23:54.81 uWi13Ycl0
モハユニ23形(23001-23005)
片運転台式の2扉クロスシート三等郵便荷物合造車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
1933年(昭和8年)に横須賀線用に5両を製造、車体は、前位より運転台、荷物室、
郵便室、三等客室に区分、定員80名(座席48名、立席32名)、郵便2t、荷物3tである。
サロハ24形(24001-24004)
運転台を持たない2扉クロスシート二・三等合造車で1934年(昭和9年)に4両を製造、
定員(二等40名、三等60名(座席32名、立席28名)、側面窓配置は2D222242D2。
クロ25形(25001-25002)
片運転台式の2扉クロスシート二・三等制御車で前面形状は平妻の非貫通型3枚窓、
横須賀線に32系が運用されると皇族の葉山御用邸往来、軍籍にある皇族の横須賀軍港へは、
20m級の貴賓車と海軍からの要望を受けて、1934年(昭和9年)に2両を製造、
定期列車への併結とされたため、運転台付きの制御車とされた。
内部の構成は12系クロ28形と同じく、運転室直後に便所と洗面室、その後位に、
区分式の貴賓室(定員12人)が置かれ、腰板には御紋章取付け用の台座が設けられた。
前位側の乗降用扉はその直後に置かれ、切替スイッチ付きのドアエンジンが装備され、
そこから後位は随伴員用の控室(二等室)となり、座席は戸袋部分がロングシート、
それ以外はクロスシートで、奇数車は上り向き、偶数車は下り向きである。
定員は貴賓14名、二等28名(座席16名、立席12人)で窓配置はd1221D2222D2。
東海道線への投入
1934年(昭和9年)9月に東京-熱海間の東海道線にも32系電車の投入が決定、
投入されたのは前面が貫通型のモハ33形16両とサハ39形16両で、8両編成で運行された。
146:名無し野電車区
12/11/01 16:13:09.88 uWi13Ycl0
急行電車運行
1935年(昭和10年)3月3日に京都駅-神戸駅間が電化全通すると緩行電車と、
料金不要の設定で急行電車2本を運行するとともに32系が充てられ、
編成は固定貫通4両編成、クリーム色2色塗装を施した32系で、
(神戸側)モハ33-サハ39-サロハ24-モハ33(京都側)
(神戸側)モハ33-サハ39-サロハ24-モハ33(京都側)
モハ33形は前面が貫通型が選ばれ投入、30分間隔で29往復が設定され、
2編成が4分折り返しで交互に走り、1936年(昭和11年)3月18日には、
元町駅へと延長したことで4月1日から急行が元町駅にも停車、
1936年(昭和11年)5月13日には急行用の車両として斬新な、
流線型の車体デザインを採用した50系(流電)2編成4両が投入され、
32系は急行運用から退いた。32系が急行運用されたのは1年2ヵ月だった。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で中間電動車がモハ、
制御電動車はクモハに規定されたことで32系も改称され、
モハ32形がクモハ32形、モハ33形がクモハ33形に改称される。
クモハ33形の中間車化改造
1938年(昭和13年)横須賀線のクモハ33形8両に対し、50系や40系に倣った、
中間電動車化が計画され、改造施工車は前面が非貫通タイプの4両、
貫通タイプの4両が運転台機器、乗務員扉を撤去して、側面窓を設置して客室化、
妻面の改造を行い、完全に中間車改造化が大井工場で実施、
クモハ33形のまま30800番台に改められたが、運用上不都合が生じることで、
空いていた34形に編入、モハ34形(34001-34008)に改称した。
中間車改造されたモハ34形8両は、横須賀線に居たクハ38形の半流4両、
36055-36058と4両固定編成2本、非貫通のクハ36形と4両固定編成2本とされた。
147:名無し野電車区
12/11/01 16:20:42.69 uWi13Ycl0
オリンピック試験塗装
1940年(昭和15年)に皇紀2600年を記念して開催される予定だった、
東京オリンピックに先立ち、省電の塗装変更が計画され、1938年(昭和13年)、
32系にも試験塗装が行なわれることになり、塗色はB案と呼ばれた、腰板部が海老茶色、
窓回りがクリーム色になり、対象は横須賀線の2本、東海道線の1本に決定した。
38027-34007-34008-38028(横須賀線)
38029-34005-34006-38030(横須賀線)
33109-39047-39044-33113(東海道線)
戦時改造
戦時体制により1943年(昭和18年)に大阪地区のクモハ32形の12両、
クモハ33形(33039-33088)の40両を4扉化する計画が実施され、
戦局の悪化、資材欠乏などでクモハ32形4両、クモハ33形は12両が、
施工されたにとどまった。改造の施工は吹田工機部で、
施工車はクモハ42形、クモハ43形に改称、改番が実施された。
32007→42001、32008→42002、32009→42003、32010→42004、
33037→43001、33038→43002、33039→43003、33040→43004、
33057→43005、33058→43006、33063→43007、33064→43008、
33071→43009、33072→43010、33073→43011、33074→43012、
サロハ24形の格下げ
戦時体制となった後も京都-神戸間で運用されていたサロハ24形も、
1944年(昭和19年)4月1日に二等車廃止により三等車代用とされ、
扉を2か所に増設して4扉化することとされたが、戦局悪化と資材欠乏で、
1両の改造もないまま計画は中止され、サハ39形(39041-39044)に編入された。
148:名無し野電車区
12/11/01 17:31:05.90 2d4JKUYXO
JR貨物(日鐵運輸)M450系
M200系の派生形式で、コンテナではなくロングレール輸送用の貨物電車として開発された。
EF510型と同レベルの牽引力を持つ電動車を前後に連結して付随貨車8両を牽引する。
T450型は製造費用軽減のため、チキ新5500形のブレーキ装置を改造して充てる。
所有はJR貨物だが、レール輸送を行う日鐵運輸が第三者所有者となっており、
塗装は同社所有のチキ新5500形同様のライトグリーン塗装である。
T450形の荷重が改造に際して37tから44tに引き上げられ、100mの60Kgロングレールを
24~28本積載可能。
新幹線用レールの輸送用であるため、横取り用架台はあるが現場投下は
考慮されていないため、投下装置はない。
同形をJR東日本が興味を示しており、採用された場合はE481系レール輸送車となる可能性がある。
東日本は投下装置付きロングレール用だけでなく、普通レール輸送用の二本立て
兼用可能に設計される予定。
なおこれもレール輸送車はコキ100-101形から改造される(4両1ユニットの
ため)事が検討され、普通レール用はコキ104形又は3両1ユニットの
コキ105形からの改造が検討されている。
149:名無し野電車区
12/11/01 17:36:58.22 uWi13Ycl0
戦災と戦後の更新修繕
太平洋戦争末期の米軍の空襲により、本系列では11両が被災し、廃車となっている。
戦後、戦災や戦時改造から免れ、2扉のまま残った32系は1949年(昭和24年)から、
更新修繕が行われ、ガーランド形3列通風器を屋根中心1列のグローブ形に交換、
クハ38形やサハ39形に便所取付などが行われた。
中部地区・京阪神地区への転用
1950年(昭和25年)に横須賀線と東海道線に80系が新製投入、1952年(昭和27年)には、
4扉セミクロスシートの60系が両線に投入さると、32系の京阪神地区への転用、
ならびに東海道線電化中の名古屋地区へ1953年(昭和28年)6月から転用が始まり、
京阪神地区へ転用された車輌は吹田工場で急電色、中京地区転用された車輌は、
名古屋工場、浜松工場で東海色に塗替えられた。
地方線区への転用と低屋根化改造
1964年(昭和39年)80系や60系の進出、4扉セミクロスシートの新性能105系が登場したことで、
国鉄本社では32系を何処に転用するか検討され、2扉クロスシートという装備を活かせる、
長距離路線の飯田線と身延線に転用を決定、静岡鉄道管理局は身延線への転属する車輌は、
パンタグラフが前位に在る非貫通型は飯田線、パンタグラフが後位に在る貫通型は身延線に、
配置することになり、パンタグラフ取付け部分の屋根高さを低くする改造を浜松工場で行い、
800番台に改称、同時に更新修繕で多くの貫通型が運転窓や戸袋のHゴム化などが行われた。
150:名無し野電車区
12/11/01 17:39:30.71 uWi13Ycl0
クハ38形の電装化
飯田線に転出した半流クハ38形38051と38052が電装化されることになり、
豊川分工場にて30系と同じ主電動機MT30、制御装置もCS-7、台車は戦災廃車で余剰品だった、
歯車比が低速の30系電動車のを使用、パンタグラフは運転室側の屋根に搭載され、
32系列で唯一、半流前面の前パンタ車となり、同時にクモハ33形200番代に編入され、
33201-33202に改称された。この2両は電動車が不足するだろうと予測されたことで、
静岡鉄道管理局が前倒しに電装化を実施した車輌であったが、飯田線に転属して来た32系は、
固定編成化が多く、結局サハ39形を間に挟んだ状態で1983年(昭和58年)8月まで使用された。
終焉と保存
最初に淘汰されたのは飯田線で使用されていた伊那松島機関区の非貫通クモハ32形4両、
クモハ33形4両、クハ38形2両、サハ39形4両が1981年(昭和56年)に廃車され、
豊橋機関区、伊那松島機関区に配置されていた残りも1983年(昭和58年)8月に廃車となった。
クモハ33023が橋機関区で保管されていたが、飯田線沿線での保存が計画され、
1991年(平成3年)に中部天竜駅構内に開設された佐久間レールパークに移された。
なお、同車は2011年(平成23年)に名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館で、
製造時の姿に復元のうえ展示されている。
151:名無し野電車区
12/11/01 20:02:18.82 QK3a1IAr0
キハ48系ジョイフルトレイン「キハ・フォーティエイト」
JR東海でキハ48を改造して作ったジョイフルトレイン。
キハ48をベースに内装を改造した。
内装や塗装のデザインにSKE48のメンバーが関わったという。
152:名無し野電車区
12/11/01 22:20:34.49 1GF14gf80
国鉄195系貨物電車
国鉄が貨物列車の復権を賭け、コンテナ列車のさらなる速度向上を図るべく試作した貨物電車。
クコ195(Tc)+モコ195(M)+モコ194(M')+モコ195(M)+モコ194(M')+クコ194(Tc')の6両編成。
走行装置は特急型電車と共通とし、最高速度120km/hを実現した。
また、直流区間専用車であるが、機関車牽引による交流区間・非電化区間への直通も可能であった。
車体はコンテナの重量を支えるため魚腹型の側枠で荷重を負担する構造を踏襲した。
これにより床下への機器搭載が事実上不可能となる(外部からの目視検査や検修が困難)ため、
制御装置、MG、コンプレッサなどは電動車の車端部に機器室を設けて搭載している。
各車に10ftコンテナ4個、もしくは12ftコンテナ3個を搭載可能。
国鉄貨物部門の期待を背負って登場した車両であり、
貨物輸送の衰退に危機感を抱いていた労組側も試験運用には非常に協力的であったが、
通常の貨車に比べ積載量が少ないこと、貨物輸送量が大幅に増える見込みはなく現状でも機関車、貨車の余剰が
発生していることを理由に量産は見送られた。
しかし貨物電車による高速輸送の夢は消えることなく、JR貨物M250系として結実することとなる。
153:名無し野電車区
12/11/03 11:12:56.69 QnHbAKv1O
JR東日本キハ21 23 24形
東日本大震災とそれに続く新潟福島豪雨により、気動車の被災も多かったために
特に被害が多かった只見線などでは車両不足が表面化した。そこで只見線の
救援車両として近隣の会津鉄道に協力を求めるも車両手一杯であることから断られた。
しかしそこへ親会社の京成電鉄を通じて関東鉄道が救援車両のリースに協力出来る
回答が得られたことから2両編成2本リースするキハ2300形をキハ23形として、
4両をリースするキハ2400形をキハ24形として3年間のリース契約を結んだ。
またキハ2100形もキハ21形として1両リースされるため、計9両がJR東日本に
リースされた。
旧国鉄形式が復活したと思えるのは形式上の便宜上でそうしたためで、
実際には関鉄塗装で形式も関鉄のままで使われる。
見返りとして久留里線で廃車予定のキハ37形及びキハ30形が無償譲渡された。
関鉄はキハ37形をキハ370形として取手~水海道間用に、キハ30形は300形に
編入して旧国鉄塗装のまま使用する予定。
キハ38形の解体部品も購入する予定で、労せずキハ100形や300形など旧式車両を
予備品を確保出来たことでキハ5000形取り替えによる引退のペースを遅くしたと言われている。
154:名無し野電車区
12/11/03 22:22:19.67 B0SXXGW90
クモハ52 3800番台
諸事情あってJR化後も中国地方某路線で使用されていた流電を経費節減のため単行運転できるように改造したもの。
増設側の正面デザインはクモハ113 3800番台に酷似している。
番台も一足飛びに3800番台となっているが社内で猛反対した勢力の精一杯の抵抗だったという。
また、すぐに復元できるような構造になっていたが、改造に携わった某工場スタッフが「すぐ復元できるように設計した」旨匿名掲示板に投稿されている。
2011年廃車となり、元のクモハ52デザインに復元され各地の博物館で展示されている。
155:名無し野電車区
12/11/03 22:47:31.88 99hVpIy20
JR東海 C231系
20XX年、東海東南海地震発生。地震により発生した津波は、名古屋港の防波堤を破壊し、
名古屋市中心部(高台になっている旧城下町を除く)まで多大な津波被害を受けた。
また、各所でで車両共々橋梁崩落、脱線、転覆、火災、暴徒化した外国人労働者による破壊などが発生し、JR東海は多くの車両を喪失した。
そこで、JR東日本は、当時廃車を進めていたE231系の無償譲渡を提案。
ドア数の違いを理由に、当初、JR東海は難色を示したものの、背に腹は代えられず、受け入れた。
譲渡に際し、廃車予定だった0番台を5両編成に改め、形式をC231系に改めた上で、
順次、震災被害が比較的少なかった中央本線経由で輸送した。
これらの車両は、長期間に渡って中央総武線で酷使されていたため、状態はあまり良くなかったが、
リニア中央新幹線が建設途中だった上に東海道新幹線が被災してしまったJR東海に、
もはや在来線の車両を新車で置き換える余裕などなく、
辛うじて生き残った他のJR東海生え抜き車共々、だましだまし使われ続けた。
その結果、JR東日本でE231系が全廃された後になってもJR東海には大量のC231系が走り続ける結果となり、
さながら20世紀末のJR西日本大阪環状線のごとき様相となってしまった。
156:名無し野電車区
12/11/04 01:25:10.81 1sdwdALL0
国鉄クイ151
元々クロ151として製造されるもグリーン車の上位等級が復活し
パーラーカーと個室をもつ同形式の客室がこれに割り当てられ
形式変更されたもの。
国鉄クイ181
上記クイ151が181系に改造された際に誕生した形式。
国鉄クイロ181
東海道新幹線開業により181系が山陽区間に転出したクイ181は
パーラーカー利用が芳しくなく同客室を通常グリーン車に改装
された。
国鉄クイハ181
パーラーカーを通常グリーン車に改装されたクイロ181だった
がそれでも利用率が伸びず、結局グリーン席を普通席に交換
する事になり誕生したのが同形式。昭和48年迄にクハ181-50
&60番台に改造され形式消滅した。
157:名無し野電車区
12/11/04 08:35:33.81 uMPLCgS8O
JR東日本クイE259
東北新幹線の「グランクラス」が好評であることから、在来線特急にも
導入の機運か高まり、既にスピードと所要時間では並行する京成に勝ち目が
なかった首都圏から成田空港を結ぶ成田エクスプレスにグランクラスが導入された。
成田空港方先頭のクロE259をグランクラスに改装し、座席数は海山6席1列の12席のみ。
グリーン車よりグレード高い車両と言うことで、1等を示すイ級を平成以降の
在来線特急に初めて導入された。
来年度には「踊り子」にもE259系が投入されるため、自ずとグランクラスの
特急が増える予定。
料金は普通乗車券にグリーン車指定席特急料金プラス3000円。
モロハE259-1550
クイE259の次に連結される半室グリーン車 普通の合造車。
成田空港方がグリーン席で8席16名定員。
158:名無し野電車区
12/11/04 09:37:25.33 3r+vWOon0
JR東日本 E259系直流特急形電車
東京メトロ東西線直通用に開発された、地下鉄運用可能な特急形電車
平日は朝晩の中央ライナー及び青梅ライナーとして、休日はあずさ及びかいじとして運用される。
西船橋発着で、かいじの一部が千葉発着となる。
中野~三鷹間は中央線緩行線を走行し、三鷹で中央線に乗り入れる。
外観は成田エクスプレスに似ている。
159:名無し野電車区
12/11/04 14:48:19.41 sWwOcmWL0
JR東日本 キロネE185
地方ローカル線の増収のために登場した、単行ワンマン仕様の気動車
経費削減のために、ハイブリッド気動車となっている。
赤字が続く地方ローカル線の収益改善のため、全列車各駅停車の特急扱いとし、更に料金的に最大限取れる
「個室A寝台」として設定できるようにしている。
車内は片側1ドアで、長手方向にロングシートが並び、適当な長さで低いパーテーションがつく。
定員は10名だが、立席承知で同額を払えば乗せてもらえる。
第一段として只見線に導入され、地方自治体から猛反発を食らうが「それなら赤字分どうにかしろ」とJR側が開き直り
泣き寝入り状態となっている。
他のローカル線を抱える地方自治体は、次はうちかと戦々恐々としているらしい。
160: 【東電 71.4 %】
12/11/04 18:09:40.06 Zp6X583xO
JR東日本E585系/西日本W585系:
寝台特急あけぼのの24/25系客車の老朽化と、EF64-1000/EF81の老朽化で電車化して効率を上げる目的で投入。
W585系は日本海/きたぐに/シュプールなどの臨時寝台列車用にJR東日本からライセンス供与。
E585系は尾久車両センターに(仙台団臨も兼ねる)、W585系は京都車両所に配置されるが、W585系は日本海/きたぐに/シュプールが運行されない期間はあけぼの運用で貸し出し。
JR東日本E28系/JR西日本W28系客車:
北海道新幹線開通にと25系の老朽化で北斗星とトワイライトの客車置き換え。
E28系はEF510-500(自社所有)、W28系はEF510-0(JRFより借用)による牽引。
161:名無し野電車区
12/11/05 22:50:06.34 KkjHcBfu0
クモユ445・クモニ444
国鉄が開発した特急郵便荷物車。
本当はクモユニにするつもりだったが、床下スペースの関係上クモユとクモニがユニットを組む構成となった。
歯車比は3.5に設定され、120キロ運転が可能。
485系の特急列車と連結して郵便荷物列車の速達化を目論んだ。
郵便荷物輸送廃止後も生き残り、JR東日本とJR西日本に承継され、現在は事業用車代用として使用されている。
162:名無し野電車区
12/11/05 22:52:24.37 u9b+uIoo0
JR東海/西日本700系(史実と異なる)
JR西日本は対航空機における競争力の強化策として500系新幹線を投入、特に速達タイプの「のぞみ」に充当していた。
しかし、軽量化のため採用されたアルミハニカム構造が高価であること、
騒音対策として客室断面積を小さくしたことによる居住性の問題、
従来の300系と座席数が異なることにより異常時の運用が制限されるなどの問題が指摘され、9編成144両で生産を終了した。
そこでJR東海と西日本は適度なコストで500系の走行性能を持ちつつ、居住性・運用の自由度向上を図るべく
新型新幹線車両を共同開発することとした。こうして登場したのが700系である。
500系と異なりT-M1-Mp-M2の3M1Tのユニット構成としたが、主電動機の出力を向上させることで300km/h走行に必要な性能を確保した。
一方、100系、300系で実績のある渦電流ブレーキは、回生ブレーキの進歩によりT車のブレーキ力を負担することが
可能となったことと、重量が大きいことから省略された。
車体はアルミ合金のダブルスキン構造とし軽量化と断熱性・静粛性向上を両立している。
その他、搭載機器の改良や小型化により軽量化された重量を乗り心地や騒音の改善に振り向け、居住性・快適性を向上させた。
懸案であった座席定員の問題も300系と各号車の定員をそろえ、運用の自由度向上を実現している。
登場以降逐次増備がなされ、100系を完全に置き換えた2003年10月のダイヤ改正以降は「のぞみ」の主力として
東海道・山陽新幹線を疾走した。また、山陽区間専用の7000番台も登場し、0系「ウエストひかり」を置き換えた。
しかし、後継のN700系が登場して以降は廃車が進む300系に代わって「ひかり」「こだま」の運用が中心となった。
現在はさらに新型のN700Aの登場がアナウンスされており、その雄姿を見ることができるのもあと数年となっている。
163:名無し野電車区
12/11/06 02:59:54.63 NWfeZ0cT0
> 500系と異なりT-M1-Mp-M2の3M1Tのユニット構成としたが、
> 主電動機の出力を向上させることで300km/h走行に必要な性能を確保した。
なお、この700系の先頭形状から微気圧波対策の膨らみや、乗務員扉などを省く一方
冷房機能強化や言語表示の繁体中国語表記に変更するなどの仕様変更を施したのが
日本の新幹線車両輸出第一号となる台湾新幹線こと台灣高速鐵路の700T型電聯車で
ある事は言うまでもないw
164:名無し野電車区
12/11/06 07:20:05.39 i/HG3Xrl0
国鉄35系電車
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級3扉セミクロスシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
片運転台式三等制御電動車のモハ35形、片運転台式三等制御付属車のクハ46形、
運転台を持たない三等付随車のサハ47形の3形式が新造され、後に30系や32系からの、
改造編入車を含むようになった。東京・大阪の都市圏内の電化工事が着々と進行すると、
省線電車の運転区間も拡大、中長距離の通勤用として、ラッシュ時にも対応出来る、
サービス提供できるよう、省電初採用の3扉セミクロスシート車として登場した。
最初に投入されたのは中央線で、翌年までにモハ35形が16両、サハ47形16両を投入、
現在の中央線は常に新車が投入されるが、当時の新車は京浜線・山手線優先で、
中央線は17mの11系ロングシートが主体で、20mで3扉セミクロスシートのモハ35形は、
座席数が増えて座れるからと乗客から好評を得た。
モハ35形(35001-35070)
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)末にかけて合計70両が製造された、
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D6D6D2、
前面形状は平妻の貫通型となり、鉄道省初の車体後位パンタグラフとなり、
戦前の鉄道車両の製造技術が質量ともに向上していた時期に製造されたことから、
登場年次ごとに軽合金製の客用ドアを採用、1935年(昭和10年)度の35055からは、
試作要素的に張り上げ屋根を採用するなど形態が異なっていた。
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はDT12、主電動機は30系と同じMT30、
歯車比は1:2.56で、奇数番号車は上り向き、偶数番号が下り向きに統一されている。
165:名無し野電車区
12/11/06 07:30:02.85 i/HG3Xrl0
クハ46形(46001-46020)
1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)末にかけて合計20両が製造された、
車体長20m級3扉セミクロスシートの片運転台式三等制御付随車で、窓配置d1D6D6D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23、1935年(昭和10年)度の、
46015からの6両はモハ35形の35055以降と同じ、張り上げ屋根を採用、
奇数番号車は上り向き、偶数番号が下り向きに統一されている。
サハ47形(47001-47056)
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて合計50両が製造された、
車体長20m級3扉セミクロスシートの運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D6D6D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23、1935年(昭和10年)度の、
47047からの10両はモハ35形の35055以降と同じ、張り上げ屋根を採用した。
京阪神緩行線への投入
1935年(昭和10年)京都駅-神戸駅間で急行電車の運行が始まると、
同時に従来から11系や30系で運行されていた緩行電車に35系の投入が決定、
張り上げ屋根を採用したモハ35とサハ47形の4両編成5本が投入された。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で中間電動車がモハ、
制御電動車はクモハに規定されたことで35系も改称され、
モハ35形がクモハ35形に改称される。
大阪地区への転入
1937年(昭和12年)40系電車が新造され、東京地区に集中配備されることになり、
東京地区で運用されていた35系を大阪地区に転入、京阪神緩行線に集中配備され、
転入した車輌は吹田工場で運転台に貫通幌枠と幌が設置されている。
166:名無し野電車区
12/11/06 07:33:26.24 i/HG3Xrl0
戦時改造
1943年(昭和18年)にクモハ35形26両がセミクロスシートを撤去の上、
ロングシート(座席削減)化され、クモハ31形200番代(31231-31256)に編入、
クハ46形14両とサハ47形20両も同様に、クハ36形100番代(36101-36114)、
サハ37形20両(37077-37096)に編入された。
戦災と戦後の状況
太平洋戦争末期の米軍の空襲により、本系列もクモハ35形3両、クハ46形4両が焼失、
これらの車両は戦後、復旧車名目で私鉄に払下げられた。
35系の各形式は戦時改造によってロングシート化されたほか、戦争末期には、
輸送力強化のため更に座席を撤去、ドアエンジンの部分しか座席が存在しない車両も多く、
終戦直後の混乱期を過ぎて復興期には、これらの荒廃した車両の整備復元を目的とした、
更新修繕が1949年(昭和24年)から行われ、セミクロスシートへの復元改造を実施、
同時に元の35系に編入が行われた。
阪和線への転出
1951年(昭和26年)輸送力が急上昇中の戦時電化買収路線である阪和線に一部が転出、
京阪神緩行線に70系が投入された1953年(昭和28年)には35系の阪和線転出が本格化、
1955年(昭和30年)には全車が阪和線に転出した。
二度目の更新修繕とその他の改造
桜木町事故以降列車火災防止のためにとられた対策を取り入れ、1955年(昭和30年)に再び、
更新修繕を実施、施工された工場や時期によって内容が異なるが、主要な工事内容は、
ガーランド型ベンチレーターをグローブ型ベンチレーターに交換、 絶縁強化、
鋼板プレスドアに交換、前面運行番号窓の拡大、側面幕板の行先表示窓を埋め込みなど。
張り上げ屋根車は、この更新修繕でも普通屋根にされなかったことで、後年人気を集めた。
167:名無し野電車区
12/11/06 07:57:54.17 i/HG3Xrl0
地方への転出
阪和線で使用されていた35系であるが、1957年(昭和32年)には70系が投入され、
1961年(昭和36年)には東京地区から40系が転入、新性能電車107系の新製配置に伴い、
徐々に地方路線に転出、それぞれの線区の車両置き換えに伴い地方路線に転出した。
地方路線への転出に際し、使用線区の状況に対応した低屋根化や便所設置などの改造、
勾配や短駅間距離に対応するため、歯車を30系と同じ低速型に交換している。
転出後、雨水の流入による腐食防止で運転台窓や戸袋窓部分にHゴム化改造されるのが多く、
吹田工場施工車では小型化した運転台窓とともに特徴的な前面を形作ることになった。
転用線区としては、仙台鉄道管理局管内の仙石線、静岡鉄道管理局管内の身延線、飯田線、
長野鉄道局管内の大糸線、岡山鉄道管理局管内の宇野線、赤穂線、福塩線、
広島鉄道管理局管内の宇部線、小野田線など、戦時中の私鉄買収路線がほとんどで、
信越本線(新潟地区)・上越線、信越本線(長野地区)などの地方幹線にも転出、
新潟地区に転出した車輌は赤2号と黄5号に変更して使用されている。
168:名無し野電車区
12/11/06 07:59:29.04 i/HG3Xrl0
低屋根化改造
1966年(昭和41年)から身延線に転出したクモハ35形に対し、狭小限界トンネル通過の際、
絶縁距離を確保するため、パンタグラフ取付け部分の屋根高さを低くする改造を、
浜松工場で行い、改造後は800番台に改番された。
便所設置改造
長距離運用が行なわれる身延線や飯田線で使用されていたクハ46形とサハ39形に、
1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけてトイレの取付けが開始された。
改造当初は原番のままで、1968年(昭和43年)5月時点で改造済みだった10両が、
400番台に改番、クハに関しては運転台の向きに応じて奇数、偶数が付された。
本改造は1970年代に入っても追加で実施された。
晩年
使い勝手のいい35系は、他旧形電車と違い、転出先の各路線においても長く活躍したが、
1970年代後半になると、さすがの35系も老朽化が覆い隠せない状態となり、
新潟各線区の信越本線・上越線・白新線・羽越本線以外は同じ3扉セミクロスシート、
新性能電車である111系・113系に置き換えが開始されるようになり、
新潟地区でも1982年(昭和57年)には全車が置換え、廃車となった。
169:名無し野電車区
12/11/06 09:46:29.03 4OkTmF060
719系5000番台(史実とは若干異なる)
奥羽本線の標準軌化により同線の一般列車用には719系の標準軌仕様である5000番台が投入されることとなったが、定期検査に関してはコスト削減のために東北新幹線の仙台総合車両所で行うことが計画された。
このため、定期検査のためとはいえ東北新幹線を走行して同車両所に入線する必要が生じたため、719系5000番台には東北新幹線を自力走行できる仕様が追加されることとなった。
(このため、史実のクモヤ743は誕生していない)
基本仕様は史実の5000番台と変りないが、新幹線上を自力走行するため新幹線用のATCを搭載。また、交流25000Vへの対応化が行われている。
主電動機はMT61系列(架線電圧20000V時150kW)であるが、新幹線区間では架線電圧の昇圧により主電動機出力を実効190kW程度として運用し、出力を確保している(400系と逆のパターン)。
ギア比は1:6.07から1:4.21(19:80)に変更し、160km/hで新幹線区間を走行して仙台総合車両所に向かう。160km/hという高速運転を行う車両であるが、飽くまで定期検査のための回送運転のみであるため、客室は特に気密化は行われていない。
特殊な事情から誕生した車両ではあるが、「160km/h運転が可能な普通電車」「新幹線を走る普通電車」として鉄道ファンから注目されていることは言うまでもない。
170:名無し野電車区
12/11/06 22:40:27.23 1QGMbOl90
鉄道省 EH10型直流電気機関車
昭和16年、増大する石炭需要を賄うために鉄道省は青函トンネルの建設と夕張線~室蘭本線~函館本線の
電化を進め、ついに夕張から釜石までの電化及び直通運転が開始されることになった。
夕張から釜石の製鉄所まで2000トン列車を牽引できるように開発されたのが本形式である。
EF10の片側のデッキを撤去し、2両背合連結したような形と性能であった。
この機関車の登場と、上記直通ルートが開業したわずか一カ月後に太平洋戦争が勃発したため、この機関車の登場を待っての開戦とも言われた。
戦時中は期待どおり大量の石炭を釜石製鉄所や本州に送り届ける活躍をしたが、戦争末期には長期間の酷使と空襲により稼働機が激減した。
戦後、北海道からの食糧輸送のためにGHQから最優先で整備を命じられ、昭和21年には全機再稼働にこぎつけ、再び本州の生命を支えることとなった。
のちに、後継機としてEF16をベースにしたEH16が登場し、昭和45年全車廃車になった。
現在、小樽総合博物館にマニ30の前に連結された状態で1号機が展示されているのは、この板の諸氏には周知のことであろう。
171:anorak?
12/11/11 19:14:54.64 CrFWEKsK0
>>126に続く平行世界もの
◎国鉄オハネシ15/25形寝台食堂合造客車
1978年 ビュッフェ
○食堂車での従業員の労働条件は厳しいものであり、車中泊となるブルートレイン等の夜行列車は顕著であった。
その為、高度経済成長により同じ賃金で楽な仕事が増加した1970年代、食堂車の従業員、特に調理師の確保が困難になり、
70年代半ば、山陽新幹線博多開業に伴って新設の新幹線食堂車に限られた調理師等の人材を優先的に集中配置した影響で、
ついに寝台特急、ブルートレインでさえも食堂車の休業、あるいは食堂車を外した列車が急増した。
夜行列車としては理想的な夜遅く出発で早朝到着の有効時間帯を乗客の平均乗車時間が超過しているにも拘わらず
食堂車無しの列車、いわゆる餌なしブルートレインは、乗客には不評であった。
76年に雪だるま式に膨張する赤字対策として76年大幅値上げの影響で、国鉄の利用客は大きく減少した。
夜行としては理想的な有効時間帯を越えてしまった列車は、航空との競争に負け、大打撃。
その様な長距離のくせに食堂車無しで給食サービスに問題があった寝台特急へのテコ入れとして
24系客車グループのオハネシ25形と14系のオハネシ15形が新造され、連結された。
本形式の意匠は、二段B寝台車オハネ15/25の車体半分を新幹線の37形をモデルとした立食ビュッフェにしたものである。
そうしたのは、列車編成の乗客定員をなるべく減らさないことから半室とし、営業形態が、調理師の確保困難から
アルバイト一人でも営業できる立ち食い蕎麦うどん屋とする為である。
そば屋の利用客の回転率を上げる為に立食とし、酔客の長い防止で酒の提供は無し。
乗降扉は車端に寝台区画とトイレ洗面区間に挟めて設置。
78年の登場直後、例えば、ゆうづる、下関あさかぜ、瀬戸、日本海、あかつき、明星、彗星に連結され、
立食蕎麦うどん屋の営業を開始。 店員は鉄道マニアのバイトが多かった。
が、しかし、それでもブルートレイン等の夜行列車の凋落は止まらなかった。
87年の国鉄分割民営化でJR各社に承継される。
バブルの崩壊以後、新幹線、航空、高速バス、格安ホテルの台頭で、夜行列車はどんどん臨時に格下げ若しくは廃止され、
定期は絶滅寸前に陥った。
2012年現在、本形式連結の立食そば屋営業は定期列車では“あけぼの“だけになってしまった。
172:名無し野電車区
12/11/11 20:32:35.58 tKzLC+DwO
京急1800形
京急が2000形の床下機器を流用し、600形の車体を使用して登場した車両。平成10年から平成12年にかけて製造された。
車内は600形と異なり、ロングシートと車端部はクロスシートが採用されている。
(後の600形、ロングシート化改造や新1000形初期車は、これが元にされている。)
8両6本48両と4両6本24両の合計72両が改造されて、直通に使用されている。
尚、2008年からは機器老朽化に伴い、8両編成は三菱製インバーター、4両編成は東洋製インバーターを取り付けている。
現在では8両編成がスカイアクセスにも使用され、4両編成は新1000形・600形4両編成と共に付属編成として使用される。
ちなみにスカイアクセス直通対応車は、601~608、1121~1153、1801~1806となっている。
尚、この改造で不要となった2000形の車体は久里浜工場で解体された。
173: 【東電 72.8 %】
12/11/11 20:59:21.84 Q9AqJDPEO
IGRいわて銀河鉄道・青い森鉄道EF510-550:
北斗星・カシオペア牽引機のIGR及び青い森乗り入れでの精算目的で投入。
551号機:IGR所有、側面ロゴはIwate Galaxy Railway・カシオペア塗装
552号機・553号機:青い森所有、Blue forest Railway・北斗星塗装。
検修業務と定期検査はJR東日本に委託。田端配置。
ちなみに東日本の訓練や貨物運用には入らない。
E28系/W28系客車・IGR/青い森・北陸新幹線並行在来線会社所有車:
北斗星・トワイライトの客車置き換えで一部ユニットに乗り入れ精算の為に中間組み込み。
外見ではJRロゴが無く、並行在来線会社のロゴがある程度(東武6050系(野岩・会津所有)と同様)で、検修・定期検査はJRに委託で、見分けが殆ど付かない。
174:名無し野電車区
12/11/13 00:04:47.49 PcHMg0lY0
流電 2000系5000番台 交流専用通勤型電車
つくばエクスプレス開業に伴い、千葉県に買い取ってもらえると期待していた流山電鉄であったが
そのあても外れ、このまま厳しい営業を続けなくてはならなくなったため、損失補てんをごねた結果
千葉県が「つくばエクスプレスに車輛リースさせてやる」といって購入した車輛
3編成購入し、つくばエクスプレス側が苦笑しながらリースに応じている。
外観、運用ともにオリジナルと同じだが、車輛銘版が「流電株式会社」になっている。
所属区所の標記は「流山」であるが、当然ながら一度として入庫したことはない。
175:名無し野電車区
12/11/13 09:08:22.00 TbqM3l2d0
国鉄40系電車
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級4扉ロングシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
旧形電車製造数としては日本最大級となり、製造期間が15年と長期間に渡り量産された。
また鉄道省車輌では、初の4扉鋼製車体で、圧倒的な輸送力・客扱能力を有し、
50系と同じく固定編成を前提のもとで設計、新製投入は東京地区に集中投入され、
輸送力増強を目的に開発された電車であるが、21世紀現在に至るまでJRや大手私鉄で、
ラッシュ輸送に広く用いられている全長20m片側4の通勤輸送向け電車の元祖となった、
日本の鉄道史上画期的な存在である。
運転台無し三等中間電動車のモハ40形、片運転台式三等制御電動車のクモハ41形、
片運転台式三等制御付属車のクハ48形、運転台無し三等付随車のサハ49形、
4形式2064両を指し、50系に続き、運転台が無い中間電動車モハ40形が採用され、
車両の最大長は、連結器長を縮めて車体長を19.5メートルに延長、収容力を増加させ、
幅1000ミリの片開き扉が片側4か所に設置、扉は車端側から2枚ずつ車体中央に、
引かれる構造となり、窓上下に帯が巻かれ、扉間の窓は幅800mmの2段上昇式が4個並び、
運転台後部の窓だけは500mmとされ、前面は半流線型の非貫通3枚窓、連結側は切妻型、
屋根上の通風器は大型の押し込み型が電動車は6個、制御車と付随車は7個並んだ。
主電動機は50系MT36の改良強化型である端子電圧750V時、定格出力142kWのMT40を搭載、
電機子軸受にローラーベアリングを採用、独立した冷却ダクトを持ち、ロングランや、
過負荷へのゆとりがあった。制御装置は次世代の電動カム軸式制御器はCS10を搭載、
台車はローラーベアリングを採用した新台車、DT13が標準台車となった。
176:名無し野電車区
12/11/13 09:15:46.75 TbqM3l2d0
モハ40形(40001-40504)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計504両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの運転台を持たない三等中間電動車で、窓配置2D4D4D4D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、パンタグラフの搭載位置は制御電動車と同じ法則で、
台車はDT13、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向き。
クモハ41形(41001-41686)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計686両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの片運転台式三等制御電動車で、窓配置d1D4D4D4D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、前面は半流線型の非貫通3枚窓、運転室の形状は全室型、
車端部に貫通幌と引戸を装備、パンタグラフはPS13型を運転席側の屋根に搭載され、
パンタグラフの鍵外し線は当時としては珍しく、屋根内側に配線、運転室内に引込まれ、
レバー型スイッチで上下操作が出来るようにされていた。台車はDT13。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向き。
クハ48形(48001-48462)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計462両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの片運転台式三等制御付随車で、窓配置d1D4D4D4D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、前面は半流線型の非貫通3枚窓、運転室の形状は全室型、
車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向き。
サハ49形(49001-49412)
1937年(昭和12年)から1954年(昭和29年)にかけて合計412両が製造された、
車体長20m級4扉ロングシートの運転台を持たない三等付随車で、窓配置21D4D4D4D2、
両車端部に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。
前面の変更
1941年(昭和16年)6月以降の新造分から52系制御付随車のクハ59形と同じく、
前面は半流線型の貫通で新造、先頭車同士の連結の場合、東京地区の電車は車輌間の行き来は、
行わない方針だったので、幌枠の台座は設置されて無く、スマートな印象を与えた。
177:名無し野電車区
12/11/13 09:21:25.16 TbqM3l2d0
改造編入
1943年(昭和18年)戦時体制下の輸送力増強で、2扉クロスシート車のクモハ32形から10両、
クモハ33形からは20両が4扉改造、40系に編入が計画されたが、資材不足などで実際には、
クモハ32形から4両、クモハ33形からは12両が施工されたに過ぎなかった。
改造の施工は吹田工機部で、施工車はクモハ42形、クモハ43形に改称、改番が実施された。
32007→42001、32008→42002、32009→42003、32010→42004、
33037→43001、33038→43002、33039→43003、33040→43004、
33057→43005、33058→43006、33063→43007、33064→43008、
33071→43009、33072→43010、33073→43011、33074→43012、
戦災と戦後の状況
本系列は、東京地区で使用されたことから太平洋戦争末期の米軍の空襲により、
モハ40形9両、クモハ41形15両、クハ48形11両、サハ49形13両の計48両が焼失した。
この他、33形から改造後に40系編入した5両も焼失、焼失した車体は復旧されたが、
輸送需要の急上昇で、一日でも早く復旧させるために資材と工期を節約目的で、
屋根の骨組以外は木造で作られ、絶縁関係の脆弱であり、ガラスの節約で側面の窓は3段に区切られ、
中段は固定、下段と上段が開けられるように作られていて、極めて粗悪かつ不完全な車輌であった。
連合軍専用車
1946年(昭和21年)日本に進駐した連合国軍の専用車として本系列も接収され、
計20両に指定が行われ、これらは窓下に白帯を巻き、「U.S.ARMY」「U.S.MILITARY CAR」、
「U.S.ARMY SECTION」「ALLIED FORCES CAR」などの標記がなされた。
前面の再変更
1941年(昭和16年)6月以降の新造分から前面は半流線型の貫通で新造されたが、1946年(昭和21年)度の新造再開時に、
前面が再び半流線型の非貫通に戻されて新造、以後新造終了まで非貫通のままで新造された。
178:名無し野電車区
12/11/13 09:29:51.62 TbqM3l2d0
ジュラルミン電車
1946年(昭和21年)復興名目で製造メーカーは電車の新造を再開したが、資材不足は深刻で、
戦時中に航空機の外板に使われていたジュラルミンが余っていたことに目を付け、
川崎車輛で製造した40系のうち12両の外板にジュラルミンを張り、製造した。
これは日本で初めて軽合金製外板を車体に用いた電車であるが、骨組みは普通鋼を用いていて、
外観は溶接構造ではなく戦前型電車のようなリベット留め、クリアーのアクリル塗料を塗り、
1編成は細い青色帯、もう1編成には細い水色帯を入れて、アクセントにして、
番号は900番代を割り当て、京浜線と山手線に投入、照明に蛍光灯を試験的に採用したため、
車内も明るく、乗客や沿線住民から「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた。
クモハ41901-クハ48901-クモハ41903-サハ49901-サハ49902-クモハ41902(京浜線)
クモハ41905-サハ49903-モハ40901-サハ49904-モハ40902-クハ48902(山手線)
もともと腐食しやすいジュラルミンの為、検修区では頻繁に外板整備が行われていたが、
経年電蝕により、1954年(昭和29年)頃から車体に劣化が見られ始めたことで、
1956年(昭和31年)頃に12両とも普通鋼外板に改造された。
40系電車の私鉄導入
私鉄各社は太平洋戦争中の酷使や戦災の結果、多数の電車が損耗し、一方で買い出し客を中心に、
輸送需要が急増加したことで、1946年(昭和21年)から運輸省の統制の下、
大手私鉄に運輸省標準型電車として40系電車を割当供給し、その代わりに中小型車を、
地方中小私鉄に譲渡させることになった。その際、40系電車の割当てを受けたのは東武鉄道、
東京急行電鉄(小田急電鉄・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海電気鉄道)、
山陽電気鉄道の各社線で、1948年(昭和23年)までに合計120両が各社に供給された。
割り当てられた40系電車は、クモハ41形、クハ48形、サハ49形の3形式で、国鉄が一括発注、
各私鉄に割り当てたため、国鉄番号を持つが、国鉄に車籍編入されたことはない。
色見本電車
1948年(昭和23年)山手線所属の電車に試験塗装が6両編成6本に行われ、それぞれ黄緑、
青緑色、青色、水色、橙色、白色に塗られ、色見本電車と呼ばれた。
179:名無し野電車区
12/11/13 10:07:41.55 TbqM3l2d0
桜木町事故
32系改造車で戦災復旧車、戦後製造された40系電車は、資材欠乏と工期短縮により、
簡易化構造で極めて安全性に欠けるもので、新製早々に漏電で全焼する事故が相次いでいた中、
1951年(昭和26年)4月24日、京浜線桜木町駅付近で、切断事故によって垂下していた架線に、
モハ32形から4扉化改造編入、戦災復旧されたクモハ42形が接触短絡、クモハ42003は全焼、
2両目のクモハ43007も車体半分近くまで半焼、焼死者96人・重軽傷者53人を出す大惨事となり、
屋根に木製を使うなど可燃性が高いた車体で、旅客の脱出が困難という車体構造の欠陥、
尚且つ満員状態で、クモハ42003が増結されていた都合上、2両目のクモハ43007と貫通されて、
なかったことで被害が拡大、この火災事故の衝撃は強く、以後「桜木町事故」と呼ばれ、
国鉄戦後五大事故の一つとされている。
更新修繕
この事故後、即座に40系全車、とくに戦時中製造車に対して集中的に行われ、集電装置の二重絶縁と、
集電板の取替え、主回路、補助回路の改良、保安向上、電流遮断器の増設、 車内への耐火塗料の塗布、
車内天井を鋼板に交換し絶縁を強化、ドアコックの設置など、非常時の脱出が安易な構造に、
徹底的な改善・改修が行なわれ、外装ではパンタグラフ母線および空気配管の隠蔽が行われた。
この工事は1956年(昭和31年)までの間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われた。
4扉改造編入車の事業用車へ改造
32形、33形からの改造編入車は全て、国鉄工場で車両基地内での入換、回送時の牽引車・控車、
などに充当される事業用車、クモヤ90形に改造されたことで、42形と43形は消滅した。
0番台(元クモハ43形→クモヤ90001-90013)
1951年(昭和26年)にクモハ43形改造車をベースに改造、側面窓は3段窓のままで、
中段も上昇式に変更、両運転台化を施されたが、比較的原型を保っていた。
20番台(元クモハ42形→クモヤ90021-90023)
1951年(昭和26年)にクモハ42形改造車をベースに改造、側面窓は2段窓に変更された。
180:名無し野電車区
12/11/13 10:20:32.66 TbqM3l2d0
台車の変更
1952年(昭和27年)度製造分から台車の変更が行われ、電動車はプレス材溶接組み立て構造の、
上天秤式ウィングばね式台車であるDT20(電動車)を採用、制御車と付随車は一体鋳造による、
軸ばね式台車のTR48を採用し、従来とは一線を画する乗り心地を実現している。
試作全金属製造(950番台)
1954年(昭和29年)40系の最終8両の車体を軽量構造の全金属車体で組立、
車体側面は従来車にあった窓上下の補強帯を外板の内側に隠し、雨樋を高い位置に置いて、
幕板に埋め込み、内装についても木材の使用をやめて全金属化、窓もアルミサッシの2段窓とし、
室内灯に蛍光灯が採用されている。クハ48形の前面には行先表示器が本格的に採用され、
これにより、当時の国鉄通勤形電車前面形態の基本形が確立した。
番号はジュラルミンの次として、950番代が付番され、(41951-49951-49952-41952)4両、
(48951-40951-40952-48952)4両で、山手線に投入、この全金属車で、40系電車の新製は終了、
以後の通勤型4扉車増備は、101系などの新性能電車に引き継がれていくことになる。
試験冷房改造
1956年(昭和31年)大手私鉄の特急車輌などに冷房装置を搭載した車輌が登場したことで、
国鉄でもサービス格差を改善する目的、将来の通勤車輌への搭載、冷房方式の比較・検討のため、
三菱電機が試作した内部に2基の大型ユニットクーラーを収めた集中型AU20Xを、
クモハ41067-サハ49302-サハ49191-クモハ41122の4両編成に搭載、
東芝が試作した三菱電機と同じ2基の大型ユニットクーラーを収めた集中型TSU50Xを、
クハ48087-モハ40055-モハ40196-クハ48106の4両編成に搭載、冷房装置を搭載するにあたり、
車輌中央部の両側面に補強を入れ、鉄製窓枠をアルミサッシに変更、冷房電源用のMGは、
クハとサハに搭載したことで車輌間の切り離しが行え無い固定編成化された。
181:名無し野電車区
12/11/13 10:52:06.27 TbqM3l2d0
60系への編入
1960年(昭和35年)に新性能通勤電車103系が投入されると、余剰となった40系の転出が始まり、
転用先の中央東線や東北線、山陽線などの長距離路線では4扉ロングシートの通勤車による、
長距離運転が不評を買ったことで、同じ4扉セミクロスシート車の60系に編入改造するこが決定、
改造はロングシートを撤去、セミクロスシートを設置、グローブ形通風器を押込形通風器に、
交換する改造が1964年(昭和39年)から大井工場、大宮工場、名古屋工場などで行われ、
同時に編入改番が行われ、モハ40形がモハ62形、クモハ41形がクモハ63形、
クハ48形がクハ68形、サハ49形がサハ69形に改番が実施された。
アコモ改善工事
1964年(昭和39年)から内装や窓サッシ等の更新工事が行われ、側面窓のアルミサッシ化、
内装を一旦外し、木製内装をアルミデコラ化粧板に変更、床も鉄板とリノリウム貼り、
シート色を深緑から青色に変更、室内灯は白熱灯から蛍光灯に変更されている。
このメニューは60系編入車以外の全車が対象、初期製造分から実施される予定だったが、
実際には後期製造分から順次、行われた。
第一次先頭車化改造
1968年(昭和43年)以降、さらなる地方転出が進み、短編成化されると先頭車が不足したことから、
モハ40形20両が運転台取付改造され、クモハ41形1000番台に編入、運転台はパンタグラフ側とされ、
前面形状は切妻型のHゴム化された非貫通3枚窓、運転席窓上に行先表示器と運行番号表示窓を装備、
これらは施工された工場や、時期によって細部の仕様が異なっていた。
奇数車は上り向き、偶数車は下り向きにされていた。
第二次先頭車化改造
1970年(昭和45年)短編成化にともない不足する先頭車を補うため、モハ40形16両に、
運転台を取り付けたクモハ73形1100番台が製作された。本番台は、奇数番号車と偶数番号車ともに、
1000番代と形態が異なり、奇数番号車は下り向き、偶数番号車は上り向きに運転台を取付たため、
全車が後部にパンタグラフが有り、さらに運転台窓は高運転台構造のHゴム3枚窓となっていた。
182:名無し野電車区
12/11/13 11:21:58.52 TbqM3l2d0
2パンタグラフ搭載車
仙石線に転用されたクモハ41形41471・41496の2両に冬季の架線霜取用として、
屋根後部にもパンタグラフを搭載する改造が1972年(昭和47年)に盛岡工場で実施された。
事業用車への改造
1970年代始め、余剰となっていたモハ40形をベースとして製作、車両基地内での入換や、
回送時の牽引車・控車などに充当されるもので、高運転台構造の両運転台化を施され、
運転台正面中央窓が下に長くなり、特長的な前面となっていた。
首都圏・中京・京阪神向けに配属されたが、ATC化の煽りや101系改造のクモヤ145形が配属されると、
豊田・小山・新前橋・松本・沼津・静岡・神領・大垣・森ノ宮・奈良・網干、岡山・広島・下関の、
各地方基地への転属が相次ぎ、国鉄末期には静岡・長野の2両を残して廃車された。
クモヤ90形100番代(90101-90115)
ブレーキ系統の新旧読替機構(自動ブレーキ・電磁直通ブレーキ)を追加、
保安性を向上し、耐寒耐雪仕様となっている。
クモヤ90形800番台(90801-90805)
中央本線系統の小断面トンネルに対応したパンタグラフ部分のみを低屋根とし低屋根、耐寒耐雪仕様で、
外装は100番台と同様な仕様だが、前照灯を窓下配置のシールドビーム2灯形とされたのが特徴。
架線試験車
1969年(昭和44年)新性能電車の配置で余剰となった40系を架線試験車に改造、
クモハ41157-モハ40091-モハ40302-クモハ41198の4両が充てられ、
モハ40の車両中央付近の屋根には架線観測用のドームが上方へ張出しているほか、
検測時に架線を照らす投光器が設置され、観測室、測定室が設置されており、
クモハ41157には倉庫、電源室、41238は暗室、整理室、寝室が備えられた。
183:名無し野電車区
12/11/13 11:24:45.00 zqtGgYHe0
201系500番台
国鉄が1985年から製造した201系の最終形態。
台車がボルスタレスのDT50/TR235に変更された。
戸袋窓が廃止されている。
当初は1987年で製造を中止するはずだったが東中野事故が起きたため1989年に19両追加製造された(1編成に生き残りのクハ201-3を組み込んだため)。
184:名無し野電車区
12/11/13 11:36:16.27 TbqM3l2d0
その後の状況
40系は4扉車体による圧倒的な輸送力・客扱能力を活かし、山手線・京浜東北線や、
中央線(中央快速線)・常磐線、後に城東線・西成線(現:大阪環状線の前身)、
片町線(現:学研都市線)、京阪神緩行線など各通勤路線で広く用いられたが、
新性能電車101系、103系が登場、徐々に勢力を広げると大都市での用途を失い、中央東線、
東北線、山陽線、などの中長距離路線に転用、1970年代は新たに電化された御殿場線や房総地区、
呉線、仙石線や可部線に転用、一部のクハ48形・サハ49形にはトイレのを取り付けが行われた。
また特殊用途の運用例としては、1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)の年末年始に、
日本海産特産物の臨時荷物輸送列車として村上駅-大垣駅(東京駅経由)間という、
長距離運行を行なったことがある。40系は1981年(昭和56年)から廃車が始まり、
1987年(昭和62年)頃には、ほとんどが廃車されていた。また60系に編入された車輌も、
使い勝手が良いことから国鉄末期まで残っているのが多く、事業用車も国鉄末期まで残っていた。
保存車
クモハ41001が廃車後、大井工場で保管されていたが、2007年(平成19年)10月に、
さいたま市大宮区に開設された鉄道博物館で保存展示され、大宮工場で職員輸送用として、
在籍していたクモハ41形2両サハ49形1両の3両編成、41237-49303-41238も動態保存が決定、
JR東日本管内でイベント用として運行、2002年(平成14年)に電磁直通ブレーキを装備して再復活、
1986年(昭和61年)に陸前原ノ町電車区で廃車、留置されていた前面貫通型のクモハ41316が、
民営化後のJR東日本によって大井工場に搬入され修復、一旦は宮城野電車区で保管されていたが、
1998年(平成10年)に大井工場に移動、同工場で保管、2010年(平成22年)にJR東海から、
名古屋市港区に建設が進められていたリニア・鉄道館で保存したい打診を受けたことで、
JR東海に譲渡され、2011年(平成23年)に名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館で、
製造時の姿に復元のうえ展示されている。
185:名無し野電車区
12/11/13 19:32:16.72 533SKuZhO
301系 クハ301-9~
昭和44年に作られた301系の最終型。千代田線向けに作られ、5連を2本連結した
10両編成として5連6本30両が作られた。
AU712による冷房改造も行われたが、当初更新後の付属編成用を行わない方針
となったため、中間車両が東西線向けに三鷹に転属された車両を除いて平成4年に
廃車された。
103系1200番台 クハ103-1206~
昭和57年に7両編成2本作られた最終型。この車両ははじめからAU75Bの冷房準備を
行っている。また高運転台になっているのも識別点。
平成元年に冷房改造された際に一度常磐快速用として一時的に松戸へ転出。
平成5年に郡山工場で更新された際に1000番台のモハユニットとサハ103を組み込み
10両貫通で復帰した。
E231系に取り替えられる平成19年まで使われた。
186: 【東電 59.3 %】
12/11/14 06:08:35.30 gxSTNg4HO
JR東日本205系5900番台:
モハ205/204を改造してPMSM試験用に改造。
埼京線ではE233-6000投入で余剰になる205系の中で事故で片割れユニットのハエ24編成を改造。
モハ204-386→5901側には三菱製PMSM、モハ205-388→5901側には日立製PMSM。
横浜線でもE233-6000投入で余剰となる205系の中で異端の6ドア無し編成のH28編成の大船寄り1ユニットを改造。
モハ205-5902には東芝製PMSM、モハ204-5902には東洋製PMSM。
205系6000番台:
前述のPMSMを鶴見線と浜川崎支線で投入。
・浜川崎支線がクモハ205-6000+クハ204-1300(南武線クハ204-1200を転用)
・鶴見線がクハ205-1400+モハ205-6000+クハ204-1400(共に南武線クハ1200番台を転用)
ちなみに、浜川崎支線の1000番台は寒冷地改造・貫通化改造して高崎転属(107系の一部を置き換え)、鶴見線の1100番台は秩父鉄道に売却。
187:名無し野電車区
12/11/16 09:43:43.22 +DNmqdUQ0
国鉄50系電車
1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて、日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
京阪神地区固有の急行電車として計画、それまでの日本における電車原則に反する、
「運転台のない中間車にモーター搭載」とする中間電動車方式を日本初、鉄道省初採用とし、
1936年(昭和11年)1月31日の車両形式称号規程改正で車両の種類を表す記号が変更、
それまでの電動車は全てモハが使われていたが、改正後は動力装置のある運転台車両は、
クモハに名称が変更、50系は最初にクモハが使われた車輌で、4両固定編成を組むことを前提に、
各部の設計が行われて、汎用性を重視する戦前の鉄道省制式電車としては極めて異例の車両である。
基本設計は32系電車に準じ、主電動機は出力136kWのMT36、主制御器はCS7、歯車比1:2.04、
車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れ、電気溶接による全溶接構造、
加えて側窓上下の補強用帯を外板裏側に隠した、ノーシル・ノーヘッダー方式を採用、
併せて雨樋を屋根肩部からより上部に移設して、幕板と屋根板肩部を一体とした、
張り上げ屋根方式を採用したこともあって、非常に平滑なすっきりとした外観となった。
また、連結面は完全な切妻とされ、編成としての美観を考慮したデザインとなり、狭窓の初期2編成は、
裾部が丸め込まれた床下のスカートを装着して流麗にまとめられ、当初は「魚雷形電車」と形容され、
後には「流電」の愛称で親しまれたが、床下機器の保守の障害、乗務員扉を省略したことで、
さまざまな不便が生じ、実務にあたる運用・保守の双方から大きな不評を買い、スカートの撤去、
乗務員扉の増設が行われ、各部の改善は52系製造に引き継がれ、本格的な特急形車両開発の礎となった。
188:名無し野電車区
12/11/16 09:45:08.70 +DNmqdUQ0
モハ50形2両(50001-50002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等中間電動車で、鉄道省初の中間電動車で、窓配置2D2(12)2D2、
両妻面は切妻型、パンタグラフは番号に関係無く、下り向きの屋根上に搭載、台車はDT12A、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はガーランド形を1列配置されていた。
クモハ51形2両(51001-51002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御電動車で、運転室は全室型、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
窓配置3D2(12)2D2、パンタグラフは車体後方の屋根、連結側に設置、連結面の妻面は切妻型、
車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置、台車はDT12A、
全車が番号に関係無く上り向きにされていた。
サハ55形2両(55001-55002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等付随車で、窓配置2D2(12)2D2、車両間に貫通幌と引戸を装備、
屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置、台車はTR23。
クハ56形2両(56001-56002)
1936年(昭和11年)度に計2両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、運転室は全室型、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
窓配置3D2(12)2D2、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、屋根上の通風器は、
ガーランド形を1列に配置、台車はTR23、全車が番号に関係無く下り向きにされていた。
189:名無し野電車区
12/11/16 09:48:13.16 +DNmqdUQ0
1936年(昭和11年)3月31日付で4両1編成が川崎車輛兵庫工場で製造、4月22日に2編成目も製造、
急行運用に使用が開始されたのは同年7月1日で、竣工直後の編成は以下の通りで、
東海道線基準で京都寄りにクモハ51形、神戸寄りにクハ56形を連結した。
51001-55001-50001-56001
51002-55002-50002-56002
当初は従来通りの葡萄色を主体として、扉と窓枠、スカートがベージュ、さらに屋根を灰色に塗装、
比較的地味な塗装であったが、すぐに窓周りをクリーム色、幕板と腰板をマルーンの2色、
急電色に変更された。二等車が必要な場合はサハ55形を外し、32系サロハ24形を連結して対応、
1937年(昭和12年)10月にはサハ55形にトイレを設置、全車のスカート撤去、
およびクモハ51形、クハ56形に乗務員扉の設置が行われた。
急行電車運休
1940年(昭和15年)以降は電力事情の問題から急行電車も運休となる事例が出始め、
1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行電車の運転を中止された。
戦時改造
戦時体制による輸送強化で、50系も3扉化改造計画が浮上、この計画は戦争の激化による物資の不足、
人手の不足により、1両の改造もないまま終戦を迎えた。
戦後
本系列での戦災廃車は1両も無く、戦時中に扉を増設する等の車体改造は行われなかったが、
クロスシートを撤去、座席のロングシート化が行われており、戦時中の酷使や、戦後の乗客の急増、
整備の不徹底によって荒廃した状態となっていたが、1948年(昭和23年)には戦後いち早く整備が行われ、
戦前の設備が復活、乗客に喜ばれた。
190:名無し野電車区
12/11/16 10:19:12.59 zloJrPzwO
東武2000系(もしも、東急が屈した場合)
18mという要件を押し通した東急が突然東武の要件を飲まざるえなくなった。
20mという点以外は変わらないが、最終的に強度不足で冷房が取り付けられず廃車となった。
その後、関東私鉄はすべて先頭車20.14m?中間車20mというガイドラインが早々と導入されることになる。
191:名無し野電車区
12/11/16 10:37:33.48 +DNmqdUQ0
急行電車復活と阪和線転用
1948年(昭和23年)10月1日に京都-神戸間で急行電車の運行が復活することになり、
4両編成2本が急行運用に入る為、車体塗色を「アイスキャンデー色」と呼ばれる濃淡の青色で塗分け、
その塗分け部に赤線を配した塗色に改められた。1950年(昭和25年)8月から同年9月にかけて、
80系電車が宮原電車区に新製配置、同年10月1日より急行電車に投入されるまで使用され、
その後は阪和線の特急電車運用に転用する為、1950年(昭和25年)9月より本系列を吹田工場で、
車体塗色を緑1号と肌色に近いクリーム3号のツートンカラーに変更して鳳電車区への転属を実施、
この特急色は後に阪和色と呼ばれた。
飯田線に転用
阪和線では年々、乗客の増加が激しくなり、特急運用にも30系、35系の3扉車が活用される状況で、
1955年(昭和30年)から阪和線に70系電車の新製配置が開始されると、乗客から2扉車の50系が、
敬遠されるようになったことで、阪和線での50系運用が難しく、限界に達したと判断され、
日本国有鉄道本社では50系の転用先が検討され、「流線形電車」という記念碑的な車両をどこに、
転用するかが話題となっていたが、2扉クロスシートという装備を活かせる長距離路線を探した結果、
飯田線と身延線が候補に上り、低屋根改造を要しない飯田線に転用されることとなり、
1956年(昭和31年)4月に鳳電車区から豊橋機関区に転属、一旦は4両編成で普通列車に使用され、
同年10月からは飯田線に快速列車が設定され、50系が使用されることとなると、豊川分工場に入庫して、
窓周りを黄かん色、幕板と腰板を緑2号に塗り分けた東海色とされ、快速運用に入ったが、
運転台が広過ぎるのが徒となり、一人乗務の運転士では単線区間の通過駅でのタブレット授受に、
支障をきたすと言うことで、急遽快速使用を止めたが、翌年3月には運転士2人乗務制となることで、
快速運用が復活するが、1961年(昭和36年)3月31日に80系最初期車4両編成が快速運用に充てられると、
快速運用から外され、以後は普通列車に使用、豊橋機関区から伊那松島機関区へ転属、
1968年(昭和43年)以降は横須賀色と塗替えられた。
192:名無し野電車区
12/11/16 10:38:57.64 +DNmqdUQ0
終焉と保存
50系電車は旧形国電最末期の1983年(昭和58年)8月まで使用、戦前の鉄道省を代表する電車なので、
廃車後は第1編成を残し、第2編成が早々と解体されるため、東海道線を上り、横浜で折り返りて、
大船工場に入庫、同工場で解体され、同年8月31日に第1編成が「さよなら運転」と称して、
豊橋-大阪間に臨時運行され、運行終了後は吹田工場に入庫、そのまま4両編成のまま保管されていたが、
国鉄民営化後にクハ56001とモハ50001は末期姿のまま、国鉄吹田工場玄関前に展示されることになった。
残りのクモハ51001とサハ55001は一時期、解体の危機に瀕していたが引続き、吹田工場で留置、
2010年(平成22年)10月にJR東海から名古屋市港区に開館予定のリニア・鉄道館で、
展示する打診を受けたことで、JR西日本からJR東海に譲渡されることが決定、譲渡にあたり、
吹田工場で製造時の姿に復元され、2011年(平成23年)3月14日から同舘で展示公開されている。
193: 【東電 72.2 %】
12/11/16 12:47:49.30 b6MdMfoLO
>>190
東武2000系(20m車)冷房改造車:
強度不足で廃車とされると思いきや、アルナ工機で車体補強工事をして、1720/1800系同様のキノコ形冷房改造をした(ファンデリアを冷房送風口に改造)。
同時に地下鉄内の熱籠もりで営団から苦情が来るので、電機子チョッパに改造(サヤ8001で試験)直巻電動機をそのまま使う為、9000系量産先行車搭載の主回路チョッパや10000系の抵抗併用界磁チョッパは採用しなかった。
CPはDH-25DからHB-2000に交換し、CP設置車を削減。MGはBLMG
20000系投入後は、業平橋線系統では使いづらいので東上線に転属して地上専用になった。
東上線ATC化に伴い全廃。
東武20000系/20050系/20070系(20m):
2000系の冷房改造でも陳腐化が激しかった為、10000系をベースに投入。また、20m故に東上線の有楽町線直通用編成も製造。9000系量産車は3編成(9102F~9104F)に留まり、1988年の3(21001F~21003F)編成と1991年の1編成(21004F)は20000系となった。
ちなみに9050系は製造されず、有楽町線新線に伴う増備は20050系になった。
東上線20000系/20050系:
21000-22000-23000-*24000-25000-26000-*27000-28000-29000-20000(*はサハ)
194:名無し野電車区
12/11/17 11:48:26.58 GPPBetOIO
>>193
東急9050系
7000系の代替として平成元年より投入された9000系の日比谷線対応型。
VVVF装置が東横線用の日立ではなく東洋電機GTOになっているのが区別点である。
8両編成7本投入され、間合いで東横線の地上運用にも使われている。
2012年の直通運転廃止を前に大井町線に転用された9000系のデハ及びサハを
組み込んだ10連化した上で田園都市線への転用を開始。現在残り3編成が最後の運用に就く。
これらの残りと田園都市線2000系全ては豊橋鉄道へ、8500系の8542Fは富士急行へ
それぞれ譲渡されることになっている。
富士急は8500系を7000系として富士登山電車用とフジサン特急用として
3連3本の陣容とする予定で、現行フジサン特急の2000系はしなの鉄道169系の
保守部品取りとして全て廃車され、現行の富士登山電車は銚子電鉄へ無償譲渡される。
195:名無し野電車区
12/11/18 01:10:26.21 e67iuXOc0
クモヤ90-920番台。
牽引用クモヤ90のうち数両は全金属製モハ72-920番台から改造された。
前面はクハ79-920を貫通型にしたような形、最終に改造されたものはクモヤ145などと同じ前面である。
JR化後も東日本に2両、東海に一両、西日本に2両残されたが2000年代に全車廃車となった。
そのうち東日本に残存していたうちの一両は碓氷峠鉄道文化村に保存され、
西日本に残存したうちの一両は松任工場に残されたクハ79920とともに梅小路鉄道博物館の保存車両として保存される予定で
吹田工場に留置されている。
196:名無し野電車区
12/11/18 19:01:22.28 D+vppYK10
>>194
20mだったら東急日比直は廃止にならなかったと思うが。
197:名無し野電車区
12/11/19 10:00:15.48 a1qNkhLE0
国鉄52系電車
1937年(昭和12年)度と1939年(昭和14年)度に日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した、
車体長20m級2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
1936年(昭和11年)に登場した50系電車が好評なことと、京阪神間での優位を確保するため、
翌年の1937年(昭和12年)度中に4両編成4本の計16両が増備され、第1編成が同年6月25日、
第2編成が7月26日、第3編成が9月10日、第4編成が10月8日に宮原電車区へ配置された。
52系は50系と車体基本構造は同一だが、同車の使用実績を反映して側面窓が広幅に変更され、
三等室が1100mm、戸袋車端部が700mm、二等室の部は1200mmとなったことでスマートさが増し、
50系で採用された中間電動車をさらに進化させ、先頭車は完全にモーターを搭載せず、
運転台のない中間車だけにモーター搭載とする完全中間電動車方式を採用、50系で問題視された、
スカートの廃止、乗務員扉も製造時から設置、屋根上の通風器はガーランド形2列に変更された。
主電動機は50系と同じ吊り掛け式だが、出力136kWのMT36から出力140kWのMT42に変更され、
50系の「旧流」に対して52系は「新流」と呼ばれて利用客に好評、大阪鉄道局でも、
旧流を1次車、新流を2次車と呼ぶようになった。
大阪での評価が高かったことから、東京鉄道局でも52系を横須賀線に投入する要求を出し、
検修サイド側からの意見で流線形の前面では何かと不都合と要求が出たことで、前面の設計を見直し、
両端の制御車を流線形から通常の貫通路付きに変更、貫通路付き前面は平妻構造ではなく、
32系制御車クハ58形の最終増備車と同じ半流線形構造の運転台となり、東京鉄道局では、
先頭車同士の連結した場合、通り抜けは行って無いことから幌と幌座の装備は行われ無かったことから、
ひじょうにスマートな前面となり、形式もクハ59形が付番され、後に半流型は3次車と呼ばれ、
当時、横須賀線は20m級6両編成で運行していた都合上、4両編成では運用に支障が生じるので、
モハ52形から電装部分を省いた、運転台を持たない三等付随車サハ57形が8両新造され、
3M3Tの6両編成で1939年(昭和14年)度中に田町電車区へ6両固定編成8本の計48両が配置された。
198:名無し野電車区
12/11/19 10:01:24.05 a1qNkhLE0
モハ52形(52001-52032)
1937年(昭和12年)度に8両、1939年(昭和14年)に24両、計32両が製造された、
車体長20m級2扉クロスシートの運転台を持たない三等中間電動車で、側窓は広幅、
窓配置2D2(6)2D2、両妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、台車はDT12A、
パンタグラフは番号に関係無く、下り方の屋根上に搭載されていた。
サハ57形(57001-57008)
1939年(昭和14年)に8両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
運転台を持たない三等付随車で、側窓は広幅、窓配置2D2(6)2D2、両妻面は切妻型、
車両間に貫通幌と引戸を装備、台車はTR23。
クハ58形(52001-52008)
1937年(昭和12年)度に計8両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、前面は半径1200mmと半径2800mmの円を組み合わせた、
半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置、窓柱を15度内側に倒した流線形の前頭部で、
運転室は全室型、窓配置d1D1(6)2D2、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR23、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
クハ59形(59001-59016)
1939年(昭和14年)度に計16両が製造された車体長20m級2扉クロスシートの、
片運転台式三等制御付随車で、前面は貫通扉付きの半流線形構造、先頭部は貫通扉付きだが、
幌枠台は付けられておらず、スマートな前面で、運転室は全室型、窓配置d1D2(6)2D2、
運転台後部の窓だけは幅500mmとされ、連結面の妻面は切妻型、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車はTR23、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
199:名無し野電車区
12/11/19 10:06:55.66 a1qNkhLE0
車体塗色
京阪神間に投入された2次車はクリームとマルーンのツートンカラー、急電色で塗装され、
横須賀線に投入された3次車はブライトブルーと呼ばれる青20号1色に塗装された。
青20号は4扉通勤車の40系電車で初採用された塗装で、山手線、京浜線に続き3番目に採用、
これ以降、横須賀線を走る32系も順次、青20号1色に塗替えられた。
竣工直後の編成 東京-神戸
58001-52001-52002-58002(急電)1937年
59001-52009-52010-57001-52011-59002(横須賀線)1939年
戦時体制
1940年(昭和15年)戦時体制下の電力事情問題で、京阪神間の急行電車も運休となる事例が出始め、
1942年(昭和17年)11月のダイヤ改正で急行電車の運転を中止、急電色はぶどう1色に塗替えられた。
3扉化、4扉化改造計画
この計画は末期まで実行されず、戦争の激化による物資の不足、人手の不足により、
1両の改造もないまま終戦を迎えた。
戦後
本系列での戦災廃車は1両も無く、戦時中に扉を増設する等の改造は行われなかったが、
クロスシートを撤去、座席のロングシート化が行われており、戦時中の酷使や、
戦後の乗客の急増、整備の不徹底によって荒廃した状態となっていたが、
1948年(昭和23年)には戦後いち早く整備が行われ、戦前の設備が復活した。
200:名無し野電車区
12/11/19 10:14:58.08 a1qNkhLE0
急行電車復活
1948年(昭和23年)10月1日に京阪神間で急行電車の運行が復活することになり、
2次車4両編成2本が急行運用に入る為、車体塗色を「アイスキャンデー色」と呼ばれる、
濃淡の青色で塗分け、その塗分け部に赤線を配した塗色に改められ、残りの2次車2本も、
窓周りをクリーム色、幕板と腰板をマルーンの急電色にに塗り分けたられた。
2次車の横須賀線転用
1950年(昭和25年)8月から9月に80系電車が宮原電車区に新製配置、同年10月1日から、
急行電車に運用されると、急行運用から離脱する2次車の転出先が問題となり、
同年7月1日から横須賀線にも東京-久里浜間に準急電車が設定され、80系電車8両編成が投入、
横須賀線の基本編成が8両編成になったことで、2次車を横須賀線に転出させることが決定、
横須賀線への転出にあたり、2次車は4両+4両の8両編成にされ、そのうちの8両編成1本は、
急電色から横須賀色に変更されたが、アイスキャンデー色の4両編成2本は、
東京鉄道管理局の意向で、アイスキャンデー色のままで運用され、沿線の乗客を喜ばせた。
また2次車の横須賀線転入により、横須賀線から32系6両編成4本が東海道線に転出した。
3次車の編成組替え
横須賀線に80系電車の投入で、基本編成が6両編成から8両編成に変更されたことで、
3次車48両の全編成変えを実施、6両編成4本からモハ52形1両、サハ57形1両を抜き、
8両貫通編成4本、4両編成×2の8両編成2本に組替えられた。先頭車同士が向い合う、
8両編成は貫通は行われなかった。
201:名無し野電車区
12/11/19 10:18:43.57 a1qNkhLE0
便所の設置
横須賀線のクハ58形とクハ59形、サハ57形の全車は、長距離運用に供されることから、
1954年(昭和29年)度に大井工場において便所の新設を行った。その際、便所向い側のシートは、
クロスシートに変更され、全車が対象だったことから改番は行われなかった。
飯田線に転用
1952年(昭和27年)には4扉セミクロスシートの60系が横須賀線に新製配置され、
乗客も2扉車と4扉車の乗車位置違いを上手く利用して、支障の無い乗降を行ってきたが、
沿線の発展とともに年々乗客数が予想を上回る急増加したことで、朝夕ラッシュ時には、
2扉車の乗降時間がダイヤの乱れを生じ出した1956年(昭和31年)2扉車の運用は限界に達し、
日本国有鉄道本社では何処に転用するか早急に検討され、2扉クロスシートという装備を活かせる、
長距離路線の飯田線に転用されることとなり、1956年(昭和31年)末に2次車、3次車の全車が、
伊那松島機関区に転属、すぐに豊橋機関区に転属した。
サハ57形を制御車に改造
飯田線に転出した3次車のサハ57形全車は1957年(昭和32年)1月29日付で豊川分工場にて、
運転台を新設、制御車(奇数向き、偶数向き)に改造され、クハ59形100番代59101-59104に編入、
改造の際、運転室側の前面はクハ59形と同じ半流型となったが、前面の貫通扉は設置されず、
40系と同じ非貫通型の半流型前面とされ、2次車とともに人気を博した。
202:名無し野電車区
12/11/19 11:04:22.85 a1qNkhLE0
飯田線での車体塗色
2次車、3次車の塗色については、転入後も横須賀線時代そのままで使用されたことで、
飯田線には2次車の横須賀色2本、アイスキャンデー色2本、3次車の横須賀色8本が走ったが、
1968年(昭和43年)にはアイスキャンデー色の2次車も横須賀色に塗り直された。
終焉と保存
飯田線の2次車、3次車は旧形国電の運用最末期である1983年(昭和58年)8月まで使用され、
廃車後は国鉄関係者、特に大阪鉄道管理局の関係者の尽力で2次車のモハ52001とクハ58001が廃車時、
末期姿のまま、急電色に塗替えられて大阪の交通科学博物館に保存され、モハ52002とクハ58002も、
末期姿で浜松工場で保管、同工場で修繕された際に横須賀色からアイスキャンディー色に塗替えられた。
国鉄民営化後は引続き、浜松工場で保管されていたが、2006年(平成18年)7月にJR東日本から、
さいたま市大宮区に開設する鉄道博物館で保存展示したいため、譲渡の打診があったことで、
JR東海からJR東日本に譲渡、2007年(平成19年)10月14日から同博物館で展示公開されている。
3次車の保存は、第8編成のクハ59007-モハ52031-モハ52032-クハ59008が横須賀色のまま、
大船工場で保存され、国鉄民営化後も引続き、同工場で保管、公開されていたが、
2006年(平成18年)2月8日に同工場の閉鎖前日に東京総合車両センターに移動、
以後は東京総合車両センターで保管されている。なお元サハ57形から制御車改造された、
クハ59形59103が個人に売却され、現在も購入主の元で保存されている。
203:名無し野電車区
12/11/20 16:27:01.60 SdbRbSBN0
117系900番台
国鉄が製造した117系のチョッパ制御試験車。
201系と同様のチョッパ装置を搭載した。
主電動機はMT60で、歯車比は4.82であるため120キロ運転が可能である。
台車はDT46/TR231を採用。
204:名無し野電車区
12/11/21 13:32:34.34 co89wKxiO
JR北海道881系・JR東日本E759系・JR北海道729系・JR東日本E729系:
北海道新幹線開通に伴う青函トンネルの25kV化に伴い、特急型の白鳥置き換えと一部普通に格下げ。
白鳥は新幹線との絡みで本数削減して、削減分は普通に格下げ。
複電圧で、制御系統はE6系をベースにする。
205:名無し野電車区
12/11/22 09:15:18.08 V+faIRKqO
201系950番台 205系900番台 910番台
国鉄が205系を作るにあたって昭和59年と60年にそれぞれ試作したもの。
軽量化と制御装置系の試験的観点で作られた。
201系950番台は前面は201系と同じだが、車体はステンレス製で東急製のために
当時の私鉄車両同様にコルゲートが多いものを使用している。
制御装置はサイリスタチョッパではなく、当時の大手私鉄が採用し始めた
界磁チョッパ制御式で、東洋電機製の機器を採用した。
そのため走行音は東急8500系同様の轟音だが、重量を電動車で42tから38.5tまで軽量化した。
翌年まず205系900番台が作られた。やはりコルゲートの多いステンレス車体であったが、
側窓は1枚窓下降式となり、制御装置は前年の201系950番台と同じように
界磁チョッパながらこちらは三菱電機製で小田急8000形同様の走行音が特徴。
台車はDT50/TR235試作のDT50/TR235XA XB XCである。
その後車体のステンレス板をコルゲートの少ないタイプを採用した原型に近い
910番台が作られた。
こちらは添加励磁制御式で三菱電機製界磁チョッパと争ったものの、
国鉄は量産車両は添加励磁式を採用することになった。
側窓の1枚窓下降式も採用されたが、910番台は通常の二段ユニット窓で
川崎は先行して920番台用に作ったものなど10両編成4本40両分を二段ユニット窓の
車体で作ってしまったために量産型の1~4が1枚窓にならなかった要因となる。
206:名無し野電車区
12/11/22 09:39:46.40 V+faIRKqO
>>205続き
配置
201系950番台は三鷹に配置されて中央 総武緩行線で使用された。
もともと編成が6+4編成であったためだが、東西線乗り入れ車両の301系 103系の
誤乗が表面化するなどしたため、平成元年には中央快速用として武蔵小金井に
飛ばされた。ただし6+4編成であったが運用は貫通編成同様の扱いで使われている。
その後豊田に移し、E233系が登場後は京葉線転用が有力視されたものの、
試作的要素の車を残されることはなく平成17年に廃車された。
205系900 910番台は山手線で広範囲に試験を行い、その後運用に加わった。
他線の試運転も精力的に行っており、総武 横浜 埼京 京浜東北などにも入った。
平成16年に231系に押しだされる形で京葉に転属。速度が量産型より劣るため
京葉線での使用は短期でそのまま武蔵野線に転用された。その際抜き取られた
モハはそのまま廃車された。
平成22年に209系500番台に取り替えられて廃車された。
207: 【東電 80.1 %】
12/11/22 13:46:38.91 xdfqDXNOO
E231系9000番台・E233系9000番台:
永久磁石同期電動機の長期試験目的。
E231系9000番台は取手快速用の付属5連を改造。E233系9000番台は中央線及び京葉線の4連として投入。
(0番台6連+9000番台/5000番台6連+9000番台)
208:名無し野電車区
12/11/23 00:43:16.25 mD7ou2kB0
クモユ445・クモニ444
国鉄が製造した交直流対応の郵便荷物車。
床下機器の関係で1両に纏める事が出来ず、クモユとクモニがコンビを組む構成になってる。
車体構造はクモヤ443と似ている。
485系の特急列車と併結して郵便・荷物列車の速達化を目論んだ。
209:anorak?
12/11/23 17:41:26.30 8lS69VFr0
>>171に続く平行世界もの
◎国鉄マユ45形郵便客車、EF68形直流用電気機関車、EF72形交流用電機
1986年
○1984年2月のダイヤ改正で貨物輸送のリストラと共に荷物と郵便も対象となり、ネットワークが疎となり、
特に走行中の車内で郵便物を区分けする取扱便が全廃、護送便と締切便が残った。
さらに郵政省は86年末までに鉄道の利点が活かせる政令指定都市圏間直行の高速締切便以外は全廃する方針を固めた。
それは、従来は、郵便小包は国鉄独自の荷物輸送とは競合するにも拘らず、郵便車は国鉄の荷物車と混結されて
列車の最高速度が95km/hだったのを、郵便を分離し、最高速度110km/hのパレット輸送車で編成された特急郵便列車を
札幌~東京~大阪~福岡などの各大都市間を直行するダイヤで新設し、この日本を一本で貫く系統以外は全廃。
この実現の為に以下の車両が郵政省の財政的支援で登場した。
マユ45は、パレット輸送特化で客車と言うよりも貨車にかなり近いマニ44をベースにブレーキ機能の改良でmax110km/h。
新造車0番台と先述の荷物列車削減で捻出されたマニ44からの改造車1000番台がある。
EF68は、東北本線黒磯以南及び東海道山陽本線での牽引機として設計され、それは、貨物削減及び85年の東京口
ブルートレイン牽引機のEF66への交代で捻出されたEF65形1000番台を種車に、EF60からEF67への改造と同様に、
回生ブレーキ搭載の電機子チョッパ制御に改造し、EF67と同様に出力を増強、粘着性能を向上、
EF65との大きな違いは定格速度が向上し、EF58並の高速運転性能を有する。
EF72は、東北線交流電化区間用に設計され、新造車だが先述の貨物削減で生じた廃車発生品を活用し、
走行システムはEF71/ED78をベースとして改良された回生ブレーキ搭載のサイリスタ連続位相制御で
ED75と比べて営業最高速度を110km/hに向上し、定格速度も、EF58並の高速運転性能を有し、
その意匠は重連運転を想定していないのでEF70に似る。
1986年11月の国鉄最後の全国規模のダイヤ改正で、先述の車両を使用した特急郵便列車が登場し、
それ以外の鉄道郵便は全廃された。
87年4月の国鉄分割民営化でJR貨物に承継。
その後、鉄道郵便はコンテナが主役となり、路線網も拡大され、その一方でマユ45による輸送形態は縮小し、
2007年で終了し、マユ45は全廃、EF68とEF72は現役。
210:名無し野電車区
12/11/26 02:11:21.51 o25f99Lt0
JR東日本E621系
JR貨物でED75の定期運用がなくなり、おりしも設備の老朽化が進んだため、
日本唯一の地上切り替え方式であった黒磯駅構内を直流化し、
デッドセクションを黒磯ー高久間に設置、
貨客とも交直両用車で運用することとなった。
これに伴い、主に黒磯-郡山での運用車両として
E621系が導入された。
車体はE721系に準じているが、交直両区間に対応すべく、機器配置が大幅に変更されている。
当該区間はワンマン運転のため、E721系後期車同様、ワンマン設備が設置されている。
なお、交流区間では交流専用車との併結も可能で、
郡山以北では、E721系や701系との併結運用もある。
後に羽越線用として、耐寒装備をより強化した1000番台も登場している。
211:名無し野電車区
12/11/27 14:31:41.71 elbJlIKi0
国鉄60系電車
日本国有鉄道(国鉄)が1952年(昭和27年)に製造した旧形近郊通勤形電車形式群の総称である。
横須賀線や東海道線の通勤通学路線用の混雑緩和、長距離通勤路線用にポイントを置いた設計で、
国鉄初の4扉セミクロスシート車として開発、1952年(昭和27年)から1958年(昭和33年)にかけて、
80系電車と同じMM'ユニット方式の運転台を持たない中間電動車モハ60形とモハ61形、制御車クハ66形、
付随車サハ67形、二等車のサロ65形を始め、40系電車からの改造編入車を含めると合計1584両を指す。
1950年(昭和25年)横須賀線と東海道本線東京地区は沿線開発とともに輸送事情逼迫は極めて著しく、
当初は両線に新型車輌投入は早晩と思われていたが、朝夕ラッシュ時は通勤路線と同等な混み具合で、
新型車輌の投入が待った無しの状態となり、苦肉の策として通勤ラッシュ時に抜群の威力を発揮した、
4扉ロングシート車の40系電車を投入する予定だったが、長距離路線の性格上、座席数の確保も、
課題として残されていた都合上、40系電車の4扉と80系電車のクロスシートを合わせた発案がなされ、
車体は40系電車を基本に、扉間にクロスシートを1組、扉両脇に2人掛けのロングシートを設置、
扉部の車体中央にはスタテッション・ポールが1本、吊り革と手摺は40系電車より増設され、
80系電車と同じ動力分散方式で、2両の電動車を1ユニットで取り扱い、片方の電動車(M)に、
主制御器、主抵抗器、パンタグラフ、もう片方の電動車(M')にMG、CPなどの補機類を載せ、
1C8M制御のMM'ユニット方式を80系電車に続いて採用、主電動機もモハ80形と同じ吊り掛け式の、
150kWのMT42Bと電動カム軸接触器式のCS10も搭載、歯車比も80系電車と同一の1:2.56となり、
屋根上の通風器は、通風改善で新開発した取入口に5枚の立てフィンが付いた押込型を1列、
モハ61形は千鳥状に7個配置、それ以外の形式は千鳥状に8個配置した。
クハ66形の前面は計画時、80系電車1次車と同様に半流線型の非貫通型2枚窓で計画されたが、
既に80系電車は前面2枚窓の湘南フェイスで登場してた後だったことから80系クハ86形2次車と同様、
前面2枚窓の湘南フェイスで1952年(昭和27年)から製造された。
212:名無し野電車区
12/11/27 14:33:17.84 elbJlIKi0
基本形式
モハ60形0番代(60001-60178)
モハ61形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、MG、CPなどの補機類が搭載され、
窓配置は2D4D4D4D2で、両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、
台車は新開発したDT17が装備された。ユニットの関係上、全車が上り向きになっていた。
モハ60形200番代(60201-60286)
モハ61形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M')で、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更、台車はDT20を装着している。
モハ61形0番代(61001-60178)
モハ60形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、
1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までに半鋼製車体で新造、主制御器、主抵抗器を搭載され、
窓配置は2D4D4D4D2で、両妻面は切妻型で幅30cmの2段上昇窓付、車両間に貫通幌と引戸を装備、
ユニットの関係上、全車が下り向き、パンタグラフは上り向きの屋根上に搭載され、
台車は新開発したDT17が装備された。
モハ61形200番代(61201-61286)
モハ60形とユニットを組む車体長20m級4扉セミクロスシートの運転台を持たない三等中間電動車(M)で、
1956年(昭和31年)度から1958年(昭和33年)までに全金属車体で新造、床がリノリウムを張り、
室内がアルミデコラ化粧板、側面窓枠がアルミサッシに変更、台車はDT20を装着している。