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>>483に続く平行世界もの
◎国鉄103系10000番台電車
○20世紀前半日本は日露戦争勝利後から遼東半島の旅順大連一帯の関東州を統治したが、WW2惨敗で失う。
>>483の経緯により、文革で国力疲弊した中国共産党独裁体制下の中国(中共)から再び租借権を付与され、
1979年に日本国大連租借地が誕生。
当地内の鉄道は、日本国有鉄道大連総局が管轄。
中国から直通する既存の標準軌の路線とは別に、租借地内限定の通勤用の路線網を内地と同様の狭軌、直流1.5KVなどの
在来線国電規格で以て整備され、80年代半ばに第一期線が開業。
この大連国電用に新造投入されたのが、103系10000番台である。
既に内地では201/203系が量産されていたが、外地大連では現場の職員の大半が中国人であって、しかも文革の影響で
教育水準が低いこともあり、彼らが扱いやすいであろう枯れた技術を導入せざるを得なかった。
地下鉄に準拠した区間の存在により103系1500番台を基礎とし、大連の気候に合わせ半自動ドア等の耐寒装備を追加。
本派生番台には車種として従来通りのクハやモハなどに加えてサロ103形10000番台がある。
このサロの固有仕様は次の通り:サハ165に酷似した車体の裾絞りのないデッキ付きの二扉車、台車はコイルバネ、
冷房は集中式、座席は転換クロスシート、車端に車掌室、業務用室、洋式便所、洗面所、など。
かくして103系が従来の標準軌路線への貼り付け線増区間にて中国直通の重厚長大列車と併走する光景が出現。
グリーン車は、80年代当時の日本人と中国人の大きな所得格差により実質日本人専用車であった。
87年にJR大連に承継され、内地では205系が登場しても枯れた技術の安定性は簡単に手放すことが出来ず暫く量産された。
その後、中国の改革開放により大連は日本の生産拠点のみならず中国東北の玄関口としても急速に発展し、
JR大連も香港のMTRとよく比較される程利用客が増加した。
が、しかし、90年代後半以後、中国人による大連の早期返還要求運動が大きくなった影響で、JR大連は鉄道への投資を
JR西並に抑制した結果、JR東の同期の201/203系が淘汰される一方で、103系10000番台は主力車として現在も活躍中。