13/03/27 11:32:28.94 W5YEQuko0
こちらは神示を研究されてる方のブログの転載です。一部ですが。
我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示よめと申すのぞ。
我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。 我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。
我を張ってはならぬぞ、我がなくてもならぬぞ、この道六ヶしいなれど縁ある人は勇んで出来るぞ。
「我」
われ
と読む時は「あってはならん」になるのですが、
「我」
が
と読む時は「なくてもならん」となるんですよね。
不思議ですよね・・・
「我」
が
の意味するものとは、何でしょう?
これの事ではないのでしょうか。
「本名は信之、天明は「雅号」である。」
「雅が号」である。
雅がなくてはならん、雅があってはならず、よくこの神示よめと申すのぞ。
雅がなくてもならんぞ、雅があってはならんぞ。 雅がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。
雅を張ってはならぬぞ、雅がなくてもならぬぞ、この道六ヶしいなれど縁ある人は勇んで出来るぞ。
という事で、1994年も2016年も正しく、
どちらも「ひらく」のではないでしょうか。( -ω-)ウンウン
こういう事↓
雅があってはならず=「信之九十六才七ヵ月、ひらく。」
雅がなくてもならん=「天明九十六才七ヵ月、ひらく。」