12/12/24 15:56:55.79 IGE0jluG0
私たちは田布施という町の、これははっきり申しますと朝鮮部落です。なぜ朝鮮部落かと申しますと、
そうですね、これはちょっと語りにくい話なんですけど、歴史的にいいますと山口県は長州藩になる前に
大内藩だったんです。守護大名・大内家がずっと支配してました。大内家は完全な、本人たちも言って
ますが朝鮮人です。大内家の家臣が毛利が侵入して負けたために散っていくわけです。彼らが散り散
りになって、ほとんどが部落民にされるわけです。この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる
高句麗』という本の中にはっきりと書いています。
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東「いわゆる、「在日朝鮮人」とは違う。公式記録によると小泉純也は1904年生まれだ。丁度日露戦争
が勃発した年だよ。「在日朝鮮人」とは、1910年の日韓併合後、大日本帝国の臣民となり、日本本土に
移住してきた半島出身者で、1945年の日本敗戦で、大日本帝国が消滅した時に、日本国籍を失った人
たちだよ。」
産物に乏しい薩摩藩は、陶芸技術を持つ朝鮮人は、苗代川と言う所に集めて、集落を作らせ、薩摩焼の
生産に専念させた。薩摩焼は、薩摩藩が藩外に輸出して、貨幣を稼ぐ貴重な生産品だったので、藩は彼ら
を手厚く保護して、集落内は広範な自治を認めたんだよ。藩から優遇され、プライドも保たれた彼らは、朝
鮮人であることを隠さなかった。収入も良く、生活ぶりも豊かな彼らは、明治維新後は、薩摩士族の株を買
って、士族になるものもあらわれた。その有名な例が、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳さんだよ。」
東「しかし、連行してきた捕虜の中には、手に何も技術を持たない者たちがいた。帰農させようにも、領内の
農地は全部、びっしりと百姓を割り当てている。彼らは加世田に部落を作って住まわせられたが、漁業をやっ
て生計を立てていたようだ。薩摩は大きな漁場があるわけじゃないから一様に生活は苦しかったようだね。」
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>全羅北道の南原の出身