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東村山から東大和、武蔵村山へと広がる多摩湖は、大正末期から昭和初期にかけて造成され、
東京市民の水瓶となる予定だった。
しかし市民の人口増加に計画の見直しを余儀なくされ、貯水池としての役割は小さなものとなった。
其れまではここに、五ヶ村が集落を構えており、身を寄せるように在った。
五ヶ村はこの貯水池計画の為に廃村となり住人は転出する事となったが、本よりこの村落には
古い歴史が無く、江戸末期まで人が転入して来なかったほどで、大きな騒動にはならなかった。
五ヶ村のうちの最南は石川村と呼び、五ヶ村を縫って流れる奈良橋川の水源地であった。
石川村は人口が最も少なく、水田のほかは湧水によって出来た沼や池が多く、紀州藩の御領林であったため
太古のままの手付かずの松や柏が生い茂っていた。
この石川村に、槌ヶ久保という在所があった。
槌ヶ久保は奈良橋川の水源で、殆どが沼地であり、雨の降った後は、一帯が海のような状態だったという。
この槌ヶ久保の地名の由来は、ここにツチンドという変わった形の大蛇が棲んでいるとされ、
その形は頭が槌の様であり、この在所では夕方になると、親が遅くまで遊んでいる子を窘めるため、
奥に行くとツチンドに食われるから早く家に入れと呼ぶのが風景だったと口碑が伝わっている。
ツチンドというのは、ツチノコの様に生活道具の中から付けられた名前と思われる。
ツチンドは大工道具の木槌の様な形状をしており、頭がトンカチ型をしている大蛇という話は他に類例がない。
しかし古い時代、藁叩きの槌をツチンドと呼んでおり、静岡などでは今でも藁叩き槌をツチンドと呼んでいる。
現在当地には、頭がトンカチ型の大蛇のモニュメントがツチンドとして赤坂隧道近くの公園にあるが、
これがこの伝承のツチンドの本来の姿かどうか、疑問を呈す余地はある。
この口碑は五ヶ村廃村の折に、土地の有志が消え行く故郷を偲んで集めた中の貴重な資料である。
尚、この地域から遷された東大和市の狭山神社内山神社の祭神は萱野姫乃神となっている。