12/06/17 12:30:11.18 t+2Md+T3
>>2 続き
(秋篠宮家関係者)「紀子妃は、お父様の仕事の都合で1っ歳から渡米し、
小1の時に帰国されますが、当時は日本語がほとんど話せませんでした。
そのあと、小5でオーストリアへ転出され、中1で帰国して学習院女子中等科に
編入学されました」
当時、学校では「話すとき、日本語より先にドイツ語が頭に浮かんでしまうの」
と、級友にこぼしていた。
ことわざや慣用句にもやや疎い面がおありで、例えば、私たちが「まさに情けは人のためならず、ですね」
などと相槌を打つと、「その使い方は間違いですよ」と、ぴしゃりと仰るのですが、実は妃殿下が誤用されて
いるということがしばしばありました。そうした時は、黙って拝聴するしかなく、職員はみな、四字熟語や
ことわざを口にしないようにしていました。
(工業団地のエピソード)
そうした点は、ご自身もつとにお気づきで不得手な分野、至らぬ箇所を払しょくなさるべく、「皇室、
とりわけ皇后陛下の“過剰適応”をますます深めてしまわれた。
その姿からは、近い将来、雅子妃に取って代わる「お覚悟」すら窺えるのだ。
(神田氏の寛仁親王の話)
寸暇を惜しんで飛び回る紀子妃の姿からは、時代への覚悟とともにしたたかな戦略が仄見える。
その後医師は徐々に高みへと達しつつあるのだ。 (以上です)
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