13/08/30 00:23:56.47 x7lREDJU
>>246
夫と定めた人の法要に出席することもできず、形見もないという悲しみ、察するに余りあります。
彼の家族に受け入れられ、確かに彼とあなたが夫婦であったと認められて悲しみを共有することができたら、どんなにか良かったか…
そう残念に思われる気持ちも理解できます。
でも、たとえ血の繋がった親兄弟でさえ身内の死に対して思いを共有できないこともあるのが現実です。
ましてや突然の自死という、何に怒り何を憎めばよいのかわからない悲劇の前では、皆自分を保つだけで精一杯でしょう。
そして、葬儀や法要といった儀式、形見の品や写真といった物質は、故人への思いや在りし日の繋がりをより鮮明な形に整えてくれるものですが
それらがなかったとしても、あなたには自分の身体に染み渡っている彼との忘れがたい思い出がたくさんあるのだから
いつでも彼と対話できる…だから彼そのものではない「何か」に我を忘れて執着する必要なんてないと思うのですよ。
あなたと彼の二人だけが知っていることが多ければ多いほど、あなたは誰とも本当の意味で悲しみを共有することはできません。
でも、それは、彼とあなたの間に何者も入り込めなかった証で、とびきり素敵なことではありませんか?
悲しみを一人きりで味わい尽くすのも、贅沢で立派な供養の方法だと思います。
私は故人のための仏壇を、自分の心の中に置いているので、いつでも好きなときに話しかけてますよw
確かに、どんなに強く思っていても、故人の記憶はだんだんに薄れていきます。
でもそれは忘れることとは違います。
繰り返し繰り返しあなたが彼を思い出すことで、彼の生き方や魂があなたの血肉となって、一緒に生きていくことができる。
…まだ新盆を迎えられたばかりの方にはなかなか実感が得られないと思いますが
泣いて泣いてボロボロに泣き尽くした後、きっとすぐ側に暖かい魂が寄り添ってくれてることに気付けると思います。
その日まで、どうぞエネルギーを自分の悲しみをいたわる方向に向けてください。