12/03/09 23:28:43.54 yMAc88IP0
>>643
続き
あの日から一週間が経った。
俺は変わることなく惰眠を貪り続け、買い溜めしたカップ麺はまたも底を尽いてしまった。前回の経験を思いだし、俺は誰とも会わないで済むように深夜にコンビニへと出かけた。
今夜は空に月が出ていた。夜の帳に綺麗に浮かんでいた。八月にしては涼しい夜で、たまに吹いてくる風が優しく頬をくすぐっている。
「ありがとうございました」
店員に見送られ、俺はコンビニを後にした。手には大量のカップ麺が入ったビニール袋を持っている。これでまた一週間は引きこもれる。
街灯の薄明かりに照らされる静かな帰り道。
まるで世界には俺しかいないみたいだ。誰も住んでいないように静まり返った家々は、月の光を浴びて何となく作り物のように感じられた。
夜風に吹かれながらぶらぶらと歩いていく。目の前を猫が通り過ぎていった。俺は欠伸を漏らし、何とはなしに目で追った。
猫はゆるゆると歩を進め、公園のフェンスの横を通り、やがて誰かの足元で立ち止まった。顔をすり寄せて甘えるように鳴いた。
その誰かが猫を抱きかかえる。優しく頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。
「……」
俺は思わず息を呑んでいた。それは猫を抱えた人物が少女だったからだ。歳は十七か十八ぐらいだろう。彼女は黒い髪を肩口まで伸ばしていた。腕の中の猫を見つめる目は少し垂れている。可愛い子だった。
少女はふと、猫から視線を外した。俺の方に目を向けた。じーっと見つめてくる。
「……何か用ですか?」
その空気に堪えきれなくなった俺が少女に訊いた。それでもなお少女は無言だった。何がしたいんだ、この子は。意味が分からない。
俺は黙ったままの少女を見やり、そしてハッと思い至った。この少女は俺を変質者だと考えているのではなかろうか? だとしたら大変なことだ!
冤罪だ! 俺は痴漢なんてしていない! と警察で叫ぶ自分の姿を幻視して、俺は胃に氷を詰め込まれたような気分になった。慌てて彼女に弁明する。
「あ、あの、こ、こ、これは違うんだよ!!」
何が違うのかは自分でも分からなかったが、俺はとにかく必死に否定した。しかし少女は、悲鳴をあげるわけでもなく、罵声を浴びせるわけでもなく、ただ黙ってじーっと俺を見つめ続けた。
「だからさ……」
弁明の言葉が尽き、俺は馬鹿みたいに口を開けたまま固まってしまった。気まずい沈黙が場に落ちる。
すると、おもむろに少女が口を開いた。
「あなたって素敵です。付き合ってください」
「……はあ?」
俺はやっぱり馬鹿みたいに口を開いて固まった。今、この少女は何と言ったんだ? 俺の聞き間違えか?
「お願いします。付き合ってください」
聞き間違えではなかった。少女は俺を見つめ、ハッキリとそう言った。
「え、あの、どお、え?」
みっともなく混乱する俺をよそに、少女はニコニコ笑顔で俺の手を掴んだ。
「一緒に頑張らせてください!!」
「え、頑張らせて?」
何を? 当然な疑問を頭に浮かべる。
だが少女は猫を地面に下ろし、俺の手に一枚の紙を握らせた。そして満開の笑みを浮かべる。
「とりあえず今日は遅いので、これ私の携帯番号です。明日の朝九時以降なら何時でもいいので掛けてください」
そう言い置くと、俺の反応も確かめずに少女はサッと踵を返して走りだした。公園の中に入って行き、すぐに暗闇に紛れてしまう。
「何だったんだよ……」
渡された紙と少女の手の温もりを握りしめ、残された俺は呆然と呟いた。