12/11/15 04:23:38.96 VOSSz5cP
明治維新後、固定的な世襲四親王家体制は崩壊した。男系の途絶えた世襲親王家は断絶。
結果として、明治維新後のドサクサで僧籍から還俗した伏見宮系のみが残る。
天皇大権は、統帥大権と天皇大権であった。皇族は軍事となって、天皇の藩屏を担う。
明治移行の皇族像は、江戸時代以前とは断絶している要素もある。
永世皇族制のもとでは、皇族が増えすぎ皇族の権威の低下、財政的な問題、
大正天皇に男子が4人いたことなどもあり、
伏見宮系の皇族は、明治天皇の直系の「正統」な皇族とは別の存在と考えられるようになる。
皇室典範では、個別の調整として臣籍降下させることができたが、
大正9年の決定により、伏見宮系は明治維新の時の当主を初代として五世までを皇族とし、
それ以降は自動的・機械的に一律の臣籍降下と決まった。
(現在の宮内庁の公式見解もそうである)
その後も伏見宮系の次男以下の個別調整での臣籍降下は進んだが、大正9年の決定から四半世紀を経、
そろそろ一律の伏見宮系全員の臣籍降下が始まろうかという時期に、終戦となった。
だからGHQの要請も、さしたる抵抗もなく受け入れられた。
天皇家を存続させたいという国民的な強い願いがあったが、
伏見宮系を残したいとの感情は希薄だった。
皇族は軍人になっており、梨本宮はA級千犯の候補にもなっったりもしていた。
天皇家の存続(及び昭和天皇の戦犯免除)には、政府中枢も必死に動いたが
諸般の状況から伏見宮系を皇族に残そうと抵抗する動きは、皆無といってもよかった。
皇太子の結婚に際しては、それまでの伝統に従い、旧皇族(か五摂家)から皇太子妃を迎えよう
という旧勢力もあったが、それとは別の出身の美智子妃がミッチーブーブを起こし、
新しい皇室像として国民に受け入れられていった。
その後も旧典範時代のように旧皇族や五摂家の系統と結婚した親王はいない。
そういった点からも、皇族女子と旧皇族を結婚させればよい、という話は、
戦後、国民に受け入れられてきた皇室像とも異なる。