12/08/30 14:56:04.20
創作をする者評論を書くべし
優れた著作を読んで得たものを書き込め
感想文は禁止
2:名無し物書き@推敲中?
12/08/31 17:58:36.37
「アドルフ」 コンスタン著、大塚幸男訳 岩波文庫
本物の自由主義者の恋愛は、美しい幸福劇でもなければ寂寥に趣を得るような悲劇でもない。
そんなことを考えさせられる小説だった。主人公アドルフの軌跡に筋の通ったところは皆無。時に
やさしく、時に身勝手ですらある彼の立ち居振る舞いは、自由の持つ残酷な側面を教えてくれる。
仮にこの作品を恋愛小説とするならば、これほど厳しく苦しい恋愛像もないだろう。
多くの恋愛劇(とりわけ日本の小説やアニメや漫画や映画やドラマ)における恋愛は、恋愛の過
程に、男女が関係を深めていく流れに、焦点を合わせ、主眼を置く。読者もそこに生ずる男女の
機微や人物たちの感情の変化、物語の流動を楽しむ。極論すればその過程こそが恋愛だと信じ
ている向きすらある。
ところが、「アドルフ」は違う。男女の駆け引きなど、序盤にこそ散見するものの、物語の大半は
エレノールを手にした後の叙情に終始する。アドルフの胸中を中盤以降ずっと占めるものは、愛を
獲得したがゆえに失った自由への希望である。「まじわりたくてたまらない群集」への帰還を切望し、
一方で愛を捨て去る覚悟もない。
物語はエレノールの遺書で幕を閉じる。「苛烈で才気あふれる女」の末期の叫びは、そのまま激
しい糾弾となってアドルフを襲う。自由への怨嗟、「個人」という概念への悲憤に塗れた文章は、ア
ドルのすべてを否定する。作者コンスタン自身が認める「自伝的小説」であるこの作品における、
アドルフの否定は、すなわちコンスタン自身の徹底した自己否定に他ならない。終生変節をいとわず生き抜いた
自由主義者であり個人主義者の
3:名無し物書き@推敲中?
12/08/31 18:23:59.46
途中で送信してしまった。ラスト二行目から書き直し。
アドルフの否定は、すなわちコンスタン自身の徹底した自己否定に他ならない。自由主義を
貫くためには、自身の歩んできた道筋からも自由にならなければならないとする姿勢からは、
いっそ潔さすら感じるほどである。
以上を踏まえてみると、日本における「恋愛」は自由主義とは無縁のものなのだと改めて感
じさせられる。日本の恋愛劇は、ほぼ必ず、結婚というひとつの到達点を基準に叙述される。
破局や不倫という言葉にしても結婚という概念が前提になければ成立しない。
その背景にあるものは、「家族」という形式である。恋愛は家族へと至るステップでなければ
描くことすら許されない……そんな雰囲気すら感じてしまう。
自由であるためにはあらゆる束縛から自由でなくてはならない。愛からも、家族からも自由
でなければ、それは本物の自由ではないと訴える「アドルフ」の言葉を目にして、本物の自由
主義を知る文化にちょっと憧れつつも、「いや、やっぱしんどそうだ」と「小さな共同体」への帰
参を願ってしまう自分に気がついたり……。いずれにせよ得るところが大きい小説である。
長文、失礼しました。
4:名無し物書き@推敲中?
12/08/31 18:31:26.23
「賭博者」 ドストエフスキー著、原卓也訳
落とし穴の上に金貨を置くのはなぜか。「金貨の魅力で落とし穴を悟らせないため」ではない。
「
5:名無し物書き@推敲中?
12/08/31 18:55:03.35
また途中で書き込んでしまいました、すみません。最初から。
「賭博者」 ドストエフスキー著、原卓也訳
落とし穴の上に金貨を置くのはなぜか。「金貨の魅力で落とし穴を悟らせないため」ではない。
「うお、金貨だ、ラッキー」と小走りしてきて落とし穴に嵌るようなマヌケには、そもそも用はない。
そうではなく、「落とし穴のリスク」と「金貨というメリット」を天秤にかけ、「いや、俺ならなんとか
落とし穴のわなを回避して金貨をゲットできるはず」という誘惑を発露させるためである。
賭博をモチーフとした小説や漫画は数多くあるが、多くは上記の構造を物語の主軸にすえる。
そこにおける駆け引きや騙しあい、知略の応酬にドラマが生じるためであり、読者もその部分を
楽しむことで、物語を味わうことができる。
しかし、この小説の主人公、アレクセイ・イワノーヴィチは違う。もうひとつ上の賭博者である。
彼にとっての賭博は、ゲームに勝利して金銭や栄誉を得るための手段ではない。より純粋に、
「リスクを求める」ためだけの行為である。彼にとって勝ち負けはもはやどうでもよく、ただただ、
目の前の賭博という行為が、危険なものであるか、すべてを失うようなリスクを与えてくれるか、
それだけに彼は執着する。
「勝利の瞬間には以前の失敗などすべて忘れてしまう!なにしろ私は生命を賭ける以上の
覚悟で勝利を獲得し、一か八かの賭けをしたのだ―だから、私はふたたび人間の仲間に入れ
たのである!」と激白する主人公の姿は、賭博が、賭博の生むリスクそのものが、人間として
生きる意義と活力の双方を彼にとってもたらしてくれている状況を読者に伝える。
マネをしたい生き方では決してないが、リスクを厭い、安定をひたすらに求める態度で生活を
していると、ふと「俺、生きてんのかな」と思うことがある。危険(リスク……戦争、自然災害、飢
餓、貧困etc)が人間にもたらしたものの大きさを振り返ってみるべき時代にさしかかっている
のかもしれない、などとエラソーに考えてしまう作品である。
長文、失礼しました。