12/05/08 21:46:06.67
状況は切迫していた。
足場を確保しようにも、氷が脆く、なかなか爪が利かない。
何度か蹴りこんでいるうちに、表面の氷は全て崩れ落ち、
彼の身体を支えているのは、ピッケル一本だけになった。
すでに体力は限界に達している。
ずるずると手から抜け出ていくピッケルを掴みなおそうと、
必死で身をよじるが、むしろ彼の身体は下がっていく。
どうすることも出来ずに眺めていると、彼は振り向いて私に言った。
「ああ駄目だ、こりゃあ。今回も駄目だったわ」
まるでゲームでもしていたかのように楽しげに笑うと、彼はそのまま、
クレバスの闇に消えて行った。
「白石ぃー!」
そう、大声で叫んだつもりが、ただかすれた音が、ヒューヒューと鳴っただけだった。
彼は生前言っていた。
「山で死ねたら本望だ」と。
それは登山家の多くが口にする言葉だが、彼もその通りの死にかたが、
出来たのだろうか。
私はそれ以来「山」を降りた。
自分が向いていないことを、友人の死からはっきりと悟ったのだ。
あの時、かろうじて凍結を免れた片側の眼球で見た、その笑顔を、
私は今でも鮮明に覚えている。