12/04/01 19:51:10.01
子どもの頃の出来事というのは案外鮮明に覚えているものだ。その頃の僕は今と変わらず卑屈で矮小な考え方をする人間だった。記憶のそこここにそうした跡がこびりついている。
消したい記憶の数々を何かの拍子に思い出しては通りの一角に立ち尽くし、言いようのない気持ちになるのだ。
「五十円、貸してくれない?」
小学校の頃、隣町の絵画教室に通っていた僕はその日も一つ年上の姉と一緒に駅の待合室で電車が来るのを待っていた。田舎のとても小さな駅で、券売機などなく、駅員から直接切符を買わなければならない。今では考えられないような駅だ。
順番を待っていると僕らの前で切符を買っていた男が「あれ?」と声をあげた。
「五十円ないな……駅員さん、貸してくれませんか」
男の無遠慮な問いに僕は心底驚いて怖くなった。というのも駅員がきっぱりと断るのを見て、男が次に何をするか想像がついたからだ。男はぐるっと後ろを振り返り、僕らを見おろして言った。
「五十円、貸してくれない?」
困ったような笑みを浮かべて男は言った。太鼓のように心臓が鳴るのがわかった。もっと驚いたのは姉が財布を取りだして五十円玉を取りだそうとしたことだった。
「ありません」
僕は姉の手から財布をとりあげて言った。怖くて男の顔を見ることはできなかった。彼は再び駅員と交渉を始めたが、しばらくして小さな待合室から出て行った。
「返してもらえるわけないじゃん!」
駅のホームで姉の鈍重さを詰ると、どこか納得がいかないような表情で姉はぽつりと謝った。
この話を思い出したのはそれから十年以上たった後のことだ。姉が交通事故に遭ったと両親から連絡があり、大学の講義を抜け出して駅へと急いだ。
十台以上並ぶ券売機に小銭を入れていると、フッとかすめるようにその記憶が甦ったのだ。立ち止まる僕を後ろから詰る声が聞こえ、慌てて切符をとって改札を抜けた。その間にはもう、僕の小さくも誇らしい記憶は、惨めで情けない思い出へと変わっていた。..