12/04/01 19:09:57.89
「商店街を一周してください」
駅前商店街の昼下がり、乗り込んできた青年の言葉にタクシーの運転手は顔をしかめた。
(自分の足でまわりゃいいだろうが)
商店街と提携し、歩き疲れた買い物客を標的にしている彼らにとってその注文は燃料の無駄遣いにしかならない。運転手は不機嫌にサイドブレーキを落とした。
「この一角にコロッケ屋がありませんでしたか? お婆さんが一人で営んでる」
五分程走っただろうか。青年が商店街の一角を指した。
「ああ……もう随分前に年だとかで店を畳みましたよ。初めてじゃないんですかお客さん」
「ええ、とても美味しいコロッケ屋でいつも人が並んでましたね」
「どうでしょうねえ、あたしゃ食べたことはないですがそんなに美味しいとも聞かなかったような」
「そんなことはないでしょう。何でも商店街一の客引き屋として、商店街から感謝状と温泉旅行をプレゼントされたんでしょう」
「え? ……あ、ああ、そんなこともあったのかなあ」
運転手がバックミラーを覗くと、青年は穏やかな表情で外を眺めている。
「でもねえ運転手さん、その温泉旅行に行っている間に空き巣に入られて有り金全部盗まれちゃ、お婆さんも大変だ―」
青年の言葉は急ブレーキの音にかき消された。「す、すんません」赤信号を見落としていた運転手がもごもごと謝る。ところが青年はやはり穏やかに「安全運転で頼みますよ」とにこにこ笑っている。しばらくしてまた青年が口を開く。
「一度は廃商店街になりかけたここも、今では立派なアーケードまで建って見違えますね」
「ところでそのコロッケ屋のおばあさんは今はどうしてるんでしょうね。もう一度あのさくさくのコロッケにかぶりついてみたかった」
運転手は答えない。いや、口はパクパクと開くものの声が出ない。
「お婆さんもしばらく頑張っていたけれどそれまでの蓄えが一銭もないんじゃどうしようもない。息子夫婦に嫌々引き取られて今はどこかの老人ホームでぼんやり過ごしているんじゃないかな……おや、どうしたんです運転手さん。顔が真っ青だ」
青年が運転手の顔を覗き込む。
「ああ、運転手さん。ここまでで結構です。おいくらですか」
「……結構です」
「そう? どうもありがとう」
青年はにっこりと笑うと商店街の人混みの中に消えていったのだった。