12/07/09 15:39:26.00
カーテンをあけると春の朝のやわらかな日差しが部屋に広がった。
眠い目をこすりつつ、すぐる(14)はベッドに腰掛けたが、すぐに違和感を覚えた。
―ない。
昨日の夜までベッド横のテーブルにあった折鶴が見当たらない。
まだ入院したばかりの頃に、思いを寄せていた同級生の鶴島鶴子が
持ってきてくれた、大切な折鶴がどこにもないのだ。
(寝ている間に看護婦さんが片付けたんだろうか?いやそんはずはないだろう。
あの折鶴が大事なものだということは看護婦さんも知っているし…)
すぐるは頭を抱えて昨晩眠りにつくまでの記憶をたどり始めた。
すると突然、窓がガタガタ激しく鳴った。
ハッとして顔を上げると巨大な鳥が羽ばたく姿が目に入った。
顔だけが鶴島鶴子の奇怪な姿だった。
「とろろいもを下着にしろー!とろろいもったらとろろいも!!!」
と血走った目でわめき散らしていた。
すぐるは現世に深い幻滅を感じ、カーテンを閉めてちからない足取りでベッドに
戻った。
目をつむるとすぐに睡魔が襲ってきた。
すぐるは深い眠りについた。
151:さとし(3さい)
12/07/09 15:42:02.26
次のお題は「神社と浮浪者」です。
152:名無し物書き@推敲中?
12/07/10 22:46:10.16
「神社と浮浪者」
その老人は最初は子どもたちの間で知られるようになった。いつも境内の片隅の石の上に腰を下ろし、にこにこと善良そうな笑みを浮かべるその老爺に、
子どもたちは親しみを感じた。
「おじいちゃん、誰?」
「儂はここの神様じゃよ」
「じゃあ、何か不思議なこと、やって見せて」
「駄目じゃよ。儂は力を使ってはならんことになっておる」
「エーでも、ちょっとだけでも」
「仕方がないのう」
そう言って手を出した老爺の指先から、小さな噴水が現れた。
「わーすごい」
子どもたちは大喜びで、家に帰って親に話した。親たちはそれを怪しみ、おそらく浮浪者がちょっとした手品を使って子供を騙すのだろう、問題が起きてからでは大変だと、
その誰かが警察に連絡した。
警察は任意で事情聴取すると言って、 老爺を拘束し、尋問した。
「神様だなんて、誰も信じないですよ! それでも本当だと言うなら、奇跡でも見せたらどうです? それも手品なんかじゃなくて」
「じゃから、禁じられておるのじゃ」
「はいはい、何が起きてもうちで責任取りますから、やって見せて下さい。でないと、帰せませんよ」
「知らぬぞ。では見るがよい」
老爺が立ち上がり、手首に巻き付けてあった紐を引きちぎった。足を一つ踏みつけると、そこから水が噴き出した。水の柱は次第に太さを増し、
いつしか数百メートルにも達し、あたり一帯は水没し始めた。警報が発令されるいとまもなく、その町は水没し、なぜかその中に神社のあった丘だけが小島のように残った。
その晩、その島に光が降った。光はいつもの石の上の老爺の前で止まった。
「儂はまたやってしまいました。は、わかって下さいますか、では、もう一度封印を、よろしくお願いします」
次、「酒と女と世界平和」
153:名無し物書き@推敲中?
12/07/13 13:38:19.40
「酒と女と世界平和」
俺がこのピースフル帝国の皇帝になってから、ずいぶんと経つ。禁酒法と禁女法……こ
れは俺の国民支配の根幹となる政策だ。
アルコールに触れた者は死刑。婚前に女と触れた者も死刑。これまでに多くの連中がこ
の政策に反対したものだが、皆あの世に送ってやった。今では、反論の声を聴くこともめ
っきり減った。俺は心が広い。別に反論するのはかまわない。だが、遠かれ近かれ、そう
いう者には事故死という運命が待っている。
先日も、倉庫に隠れて禁酒法と禁女法を破る集いを開いていた無法者たちを、帝国の重
装歩兵たちがその場で殺処分した。犯罪者に整った墓は要らない。死体はまとめて穴に放
り込み、上から土を被せる。世界平和のためには、多少の犠牲はやむを得ない。
そして今日、医療に使うためにアルコールを認めてほしいという嘆願が上がってきた。
その医者が言うには、アルコールには消毒効果があるというのだ。そこで試しに眼前で実
演させてみた。アルコールの臭いを嗅いだ患者は、医者の持つボトルをひったくってそれ
を飲み始めた。医者は青ざめた。
やはりアルコールは毒だ。お慈悲を、お慈悲をと繰り返す医者を、衛兵たちが断頭台へ
と連行する。私が女王(もちろん結婚している)を見ると、彼女はそれを受けて微笑んだ。
ピースフル帝国にはアルコール中毒者は居ない。女狂いも存在しない。まさにユートピ
アである。であるというのに、不思議なことに国境から逃げ出そうとする輩が多い。
そういう連中は、毎日ワインが飲めるだとか、女に触り放題だとか、そういう夢物語に
踊らされた連中がほとんどだ。寛大な心を持つ俺からしてみれば、連中はとても哀れな存
在だが、無論、その後に待っているのは死だけだ。
来年には、禁酒法と禁女法を認めぬ周辺小国への、大規模な遠征も計画されている。こ
れは歴史に名を残す聖なる戦いとなろう。禁酒法と禁女法を三千世界に広め、野蛮な人々
に正常な思考力を取り戻させるのだ。アンチ・アルコール!
「喋る自転車と兄を失った妹」
154:喋る自転車と兄を失った妹
12/07/15 10:36:53.99
嵐含みの風が暗い林をうならせている。曇天はおぼろな雲の小片を
恐ろしい早さで吹き流していた。ここは箱根の山の中、谷に開けた名もなき草野だ。
キキッ……自転車のブレーキ音が響く。林道に停まったママチャリに
跨るのは、セーラー冬服の女子高生だ。娘は自転車を降りると、
サドルを緩めてそれを抜き取った。
「気をつけろ陽子、やつはもう来ている」サドルが喋った。陽子は右手にサドルを提げ、
腿まである草を分けて道を離れる。と、フフフという女の笑い声が野に響いた。
「来たわね小娘。このあたしを倒そうとは笑止千万。何が目的か知らないけど、
その蛮勇だけは褒めてやるわ!」
突然、野草の間からリクスーの女が飛び上がった。手にはマウンテンバイクの
サドルを振りかざしている。暗い空を背景に、女の口だけが赤く光った。
陽子はサドルの両端を持って最初の一撃を受けた。重い!
体勢を立て直す暇もなく、次の一撃が横から襲う。今度は受け損ね、
リクスーのサドルが陽子の肋骨に食い込んだ。セーラー服が野に倒れる。
「お粗末。もっと修行してから来るべきだったわね」
苦痛にあえぐ陽子の股間に、女のサドルが押し当てられる。「ああっ!」少女が叫んだ。
「くはは! 美咲、今日の獲物は若いな!」女のサドルが哄笑した。
「命までは取らないわ。でも、もう無茶はしないことね。あなた、弱い」
一分ほど押し当てたのち、リクスー女が手を引いた。と、体を折り曲げた陽子が震えながら言う。
「違う……外れだわ……それはお兄ちゃんのサドルじゃない……」
「何?」美咲が聞き返す。ふらつきながら立ち上がった陽子は、すでに冷めた目をしている。
次の瞬間、一陣の風、いや影が、草の間に交錯した。
「はぐぅ!」うつぶせに倒れた美咲の尻に、陽子のサドルが押し当てられる。
「どうだ! これが日本一のサドル師、鞍馬振一の技よ!」陽子のサドルが叫んだ。
勝負あり。気絶した美咲には目もくれず、陽子は自転車の元に帰った。
「ああ、お兄ちゃんのサドルを使っているサドラーがいれば、消息がわかるかと思ったのに」
目に涙を貯める洋子。「気を落とすな。いつか、きっと見つかるさ」
帰り道、坂を下りながらサドルが言った。「ところで」「何?」
「尻はあの女のほうがよかったぜ」
次「鳥と牛と海とが」
155:名無し物書き@推敲中?
12/07/16 00:31:28.87
「出ようか」
ジュリアはそれだけ言って、僕の手を握った。
15歳の夏、僕は叔父の運転する軽トラックに乗っていた。
久しぶりに会えた叔父と、学校のことや、家族のことを話していると、一人の外国人が運転席の窓から顔を突っ込んできて言った。
「殺さないで!海の一部なのです!」
叔父はハンドルを切りって、少し離れた場所に車を停止させると言った。
「仕事の邪魔すんじゃねー!」
僕は何が起こったのか理解できず、呆然としていた。車が走り出した後も、緊張したままで、心臓はドキドキしていた。
少しすると叔父が前を向いたまま、口を開いた。
「なあ、ケン。生き物は全部同じ命をもってるんじゃねえのか。牛だって、鶏だって、鯨だって、命の重さは一緒なんじゃねーのか」
その語気が強かったので、僕は何も答えることが出来なかった。
「鯨が海の一部だってさ、だからなんなんだよ。だったら牛は大地の一部で、鶏は空の一部じゃねーのかよ。なあ、ケン」
その問いかけに、ようやく僕は答えることが出来た。
「でも、鶏は飛べないよ」
「あ、そうか、お前、賢いじゃねーか」
叔父は少し笑うと、また真顔に戻って言った。
「なんだって、同じよ。全部何かの一部だし、全部尊い命なんだよ。なあケン」
僕はやはり、また何も言えなかった。
そして、僕は今でも何も言えないままだ。
すぐ横の、美しい水槽のなかで、美しいイルカが泳いでいる。。僕絞める作業を見たし、何度もイルカを口にした。生きるということは他の生物を殺すこと。
それは、分かっている。しかし、いまここで泳いでいるイルカを、自ら殺して食べようと思えば、僕とは違う、「何か」になる必要があるように感じられてならない。
僕は牛も鶏も鯨も、全部殺した。だから生きている。しかし、その事実は机上に書かれた文字のように実感がない。
食べるとは何だろう、生命の尊さとは何だろう。纏まりを欠いた頭の中で鳥と牛と海とが、ぐるぐる回る。
その時、僕の手を振動させながら、ジュリアが言った。
「サーティー・ワン行こうよ」
「アイス、いいね」
僕は笑顔で頷いた。
“そうさ、僕らは加工された肉を食べているだけで、どんな生命も、一匹たりとも殺しちゃいない”
次、「送信せよ」
156:送信せよ
12/07/16 10:03:51.67
艦長は、金属製の操作パネルにある、『vision』と書かれたボタンを押した。
目の前に半透明のスクリーンが降りてきて、映像を映し出す。映像には、銀色の宇宙服をまとって、タンクを背負った彼の二人の部下が映し出されていた。
「艦長、無事着陸しました。遠くに生物らしきものが見えます。もう少し近づいてみます」
「生物だとして、どんな相手か分からない。注意して近づくんだ」
初めて来る惑星にはどんな危険があるとも限らない。
過去に、地球を温暖化から救う為の世界規模で開かれた気候変動枠組条約締約国会議という物があったという。
世界的な景気の悪化と、自国の利益を優先する各国の政治的思惑で、けれどもその会議は数回で終了してしまったらしい。
この会議が実効性のあるものになっていれば……。艦長はほぞを噛んだ。そして、遠くをみつめた。
地球を離れてもう数年にもなる。代替の惑星なんて、そんなにみつかるものではない。
各国より選りすぐられた、屈強な男ばかりの乗組員にも疲れの色が見えてきている。
「知性の低そうな生物なら、駆除できそうかどうか確かめてくれ」
自身が侵略者になるのは艦長の本意ではなかった。しかし苦渋の決断をしなくてはならない時もある。
「艦長、生物が見えました」
「どんな生き物だ? 危険そうか?」
「私の……私の娘です」
「違う、あれは地球に残してきた俺の彼女だ」
隊員の声が、それぞれスピーカーから流れてきた。
「よく見るんだ。モニターには、もやの様なものが映っているだけだぞ」
艦長は二人に注意を呼びかけた。
「いえ、艦長、こうやって触っても、娘の感触しかしません」
「いや、俺の彼女だ。この柔らかなふくらみ、長い髪、俺が間違える筈がありません」
どうやら、生物は見た者の一番愛する者に変化するらしい。艦長は一瞬、何かを考える素振りをした。
「感触までもか。とりあえず、危害を加える生物では無いんだな」
「あたりまえです。私の愛する……」
「当然です。俺の彼女ですよ」
「とりあえずその生物をよく調べたい。こちらに送信せよ」
艦長は、思い描いていた。お気に入りの風俗嬢をベッドに乗せ、隅々まで調べている自分を。
次のお題は、「夏の渚は水着と下着」で。
157:夏の渚は水着と下着
12/07/18 20:26:46.21
『うたかたの渚』
瀬戸内海にほど近い一軒家のベランダに、少女が一人立ち尽くしていた。小型漁船の行き交う潮騒を真剣な眼差
しで見つめている。黒目がちな瞳には思春期の希望に満ちた輝きはこれっぽっちもなく、陰気な容貌がことさらに
強調されるばかりだった。蝉のぎらついた羽音や元気いっぱいに飛び回るカモメたちの陽気な歌声とは裏腹に、
ぼさぼさ髪の彼女には鬱屈した雰囲気が取り憑いている。
「だめよ、わたしもう逃げないって決めたんだから。ちっぽけな人生とはおさらばするの」
携帯電話に何やら文字を打ち込み、自分の部屋に駆け込む。さとみは机の上に置いてある筆箱からハサミを取り
出すと足早に洗面所へと向かい、鏡の前に立つとためらうことなく自分の髪の毛を引っ掴んで勢い良く切り落とした。
流し台に長い毛の束が溜まる頃には、小ざっぱりとした健康的な少女に生まれ変わっていた。部屋に戻る途中、
台所でくつろぐ母親がぎょっとした顔で固まっていたのを横目で流し、階段を上って自室に転がり込んだ。ベッドに
転がる携帯電話を開くと新着メールが一件。さとみはメールを見終わると唇を真一文字に結んで頷き、自分を奮い
立たせるようにほっぺたを両手で二度叩いた。慌てた手つきで箪笥から市松模様の水着を引っ張り出し、着替えが
終わると薄手のパーカーをさっと羽織って大急ぎで部屋を出た。靴の紐を結びなおしていると、母親が恐る恐る足を
忍ばせやって来た。
「あんた散髪なんかしちゃって、どっか行くのかね?」
「ちょっと用事があってさ。そこの岬まで」
「引き篭もってばっかりだったあんたが珍しいねえ、とにかく気を付けて行っておいでよ。そういえば、さっき先
生がいらしたみたいで郵便受けに宿題やら連絡事項が入った袋を入れてくれたみたいだけど―」
「これから会いに行くから、お礼は言っとくね」
首を傾げたままの母親を置き去りにして、さとみは自転車のサドルにまたがり外に飛び出していった。日に焼けてい
ない白い肌がまぶしい。潮風に吹かれながら防波堤沿いの旧道をひた走ると海に岩場が飛び出した場所に着いた。
ガードレールの脇に自転車を停めると、呼吸を落ち着かせながら岩場の先端まで歩いていった。
158:夏の渚は水着と下着
12/07/18 20:32:20.37
調度その時、自転車のすぐ側に一台の車が停まった。降りてきたのはさとみの学級を担当する松木圭一。助手席
に乗っている女は降りる気配を見せず、少女に近付いていく松木を目で追うだけだった。さとみが助手席に座る女に
気付いたとき少しばかり落胆したようにみえた。
二人は対峙し、さとみは松木の目を見てもどかしそうに俯いた。
「髪型変えたのか、結構似合ってるじゃないか。学校のことで相談でもあるのか」
松木の問いかけに黙って首を横に振り、拳を握り締めていた。沈黙が続く。静寂を破ったのはさとみだった―突如、
海に身を投げた。松木が制止する間もない一瞬の出来事だった。松木は血相を変えて岩場の先端まで走って覗き
込むと、さとみはあっけらかんと手を振っていた。岩場の高さは三メートルほどで命が危険に晒される可能性はなかった。
「はらはらさせるなよ。怪我とかしてないか?」
「松木先生、わたし逃げることやめたんです」
さとみの瞳は真っ直ぐ松木を捉え、きらきらと潤っている。もう陰気な少女の影はどこにもなかった。
「もし好きになってくれるなら海に飛び込んでください」
松木はしばらく黙り込むと天を仰ぐ。悩める松木を見つめる少女の顔には不安ではなく決意がにじんでいた。事の
顛末を承知の上だったのだろう、何かを言おうとさとみが口を開いた瞬間、松木は服を脱ぎパンツ一枚で間髪入れず
海に飛び込んだ。不細工な水しぶきを上げ、水面から顔を出した松木は笑っていた。予期せぬ出来事にさとみは目を
見開いて幽霊でも見てしまったかのように口をあんぐりと開ける。
「飛び込んどいてなんだが校内での恋愛はご法度だぞ。でもまあプラトニックな関係ならありかもな」
「うそ、だって松木先生には助手席に彼女さんが―」
岩場から二人の様子を心配するように女が覗き込んだ。松木はすまんと言いながら手を振った。
「兄ちゃん何やってるの? 生徒と馬鹿やってるって教育委員会に報告しちゃうよ」
どうやら、さとみが恋人だと勘違いしたのは松木の妹だった。夏の渚に水着と下着がうたかたの恋に溺れた。
次のお題は「朝まだきのこと」です!
159:名無し物書き@推敲中?
12/07/18 22:43:01.33
朝まだきのこと
朝日の昇る前の時間。
帳を上げる者が怠ける時間、目覚ましより早く起きた私はランニングウェアに身を包み、長い髪を後ろで結び、お気に入りの音楽が入ったプレイヤーを再生させ家を出る。
ぼやけているのは視界か思考か、朝靄のせいか?とにかくはっきりしない世界。だがそれがいい、相手も自分も何となくで捉える時刻。足りない部分を想像で補う時刻。
足取りも軽く目的地の自然公園にたどり着く。
ふと少し離れた違うコースに二人の男性ランナーが走っているのに気付く。視線を感じる。見られている。私は緊張して顔を少しだけ下に向けた。しかし直ぐに思い直し顔を上げる。そうだ、今は相手の顔もはっきりしない彼は誰時。この時刻を選んだのもそのためではなかったか?
私はいつも以上に綺麗なフォームを心がけ彼らの心に刻み込むように美しい女性ランナーを演じた。
そう、それは朝まだきのこと、曖昧な部分を願望で完成させる時刻。
次題「薄氷のコンタクト」
160:名無し物書き@推敲中?
12/07/19 09:12:23.71
「薄氷のコンタクト」
「薄氷とか、この季節の話じゃないぜ、絶対に」
「わかっているさ。でも、俺に取っては今が唯一のチャンスなんだ」
雰囲気をゆるめようとしていって見たのだが、彼の表情は変わらない。
まあ、当然ではある。
俺たちがいるのは、標高三千五百メートルの高地。まさに真夏の日差しが背中を焼く中、向かっているのは氷河に連なる湖だった。
気温が低いこの地では、湖と言えど、その表面は凍っている。ただ、さすがに今その氷は薄くなって、今なら……そして今年なら……。
俺たちはようやくその湖の畔に立つ。岸部を回って、氷河の末端へ向かう。
「それじゃ、捜索にかかるか」
俺が荷物を下ろしながらそう言ったとき、彼は既に氷の上に立っていた。
「加世子……!」
それは彼の婚約者の名だった。数年前、この氷河の上流でクレバスに飲まれた。深い氷のひび割れに落ちた死体を探すのは不可能だ。
それが出来るのは、流れ下って湖に入ったとき、そしてその表面の氷が薄くなった季節、つまり今。
彼は、大声で名を呼びながら、氷をそのこぶしで叩いていた。
「見つけたのか? じゃあ、道具を持っていくから、そんなに慌てると」
俺の口から出せたのはそこまでだった。
彼が叩いた氷が割れ、その姿は瞬時に水に飲まれていた。助けに行きたかったが、既にあちこちひびの入った氷の上には、危なくて進めない。
ようやく足場を組んで引きずり上げたとき、彼はまだ氷に包まれた彼女を抱きしめて、事切れていた。
「誇大怪獣現る」
161:誇大怪獣現る
12/07/20 06:08:16.58
なにげなく言った言葉に命が宿って、一人歩きを始める。
次から次へ伝播していくうちに、それは輪郭を持ち始め、都合のいいように進化していく。
ある日、奴は帰ってきた。
「どこをどう歩いていたの」
「へえ、あの教室を出たあと、美崎くんの弟や妹、それから、電話相手の山下さんなんかにお世話になりましてね、日曜日
にガストで大いに盛り上がって、勢いで隣のテーブルに飛び移ったんですわ。そこからは、小学校、幼稚園なんかを転々と
しまして、一時などはケネディ宇宙センターなんかも通って来たんでっせ」
お茶をすすりながら、奴は誇らしげに言う。
全身毛むくじゃら、時速100キロ、髪の毛を全部引きちぎる、舌は2メートル伸びる、一日30人は食べる、垂直の壁を這う。
「人間じゃなかったの」
「最初はそうでしたがな、いつの間にかこうなりましてん」
奴が、遠くに思いをはせるような仕草と共に言う。
「確かにあの教室で俺が産声を上げたときは、ただの男でしたからな、しょうじき不安定やったんですわ、だってあんさん設
定も曖昧でしたやろ」
「そう言われても…」
「深夜にJRの高架を這う人を見たって、なんでんねん。どんな人なのか、大きさは?痩せてるの?太ってるの?何色?
性格は?おとなしい?荒い?握力は何キロ?分かりませんやろ」
「いや、そんなことは話の本筋に関係ないことなんだ」
「本筋!?話が通ったらそれで、ええんでっか?対象のアイデンティティはどうなりまんねん。あんさん自分勝手な人でんな」
「まあ、作り話だからね」
「あんさん、分かってませんな、ぜんぜん分かってませんわ、ええでっか、作り話と言ってもでんなtgyふじこlp;:」
最初人間だったものが、誇大に誇大を重ねて、いつの間にか怪獣と呼ぶにふさわしい存在になって帰ってくる。
おぼろげに原型をとどめた誇大怪獣。深夜、受話器越しに現れたそいつとしばし話したあと、俺は眠りについた。
多くの都市伝説がそうであるように、今噂になりつつある、この誇大怪獣も、そのうち皆の熱が冷めたら、消えていくだろう。
一緒に茶を飲んだ記憶だって…
次のお題→「戦場の太鼓持ち」
162:戦場の太鼓持ち
12/07/21 15:27:55.66
「はー。つまり儂はタイムスリップとやらでこの時代に来てしまった、と?」
「ええ、そのようです。日食が起こる時にそのような事が起こり戦闘機と共に部隊が空に消えてしまったという報告もあります」
「ふーむ。しかし儂はその戦闘機とやらは知らぬ。何より儂は合戦で法螺貝を吹いただけにござる」
「何故かはわかりませんが…何かが引き金となって今の時代に貴方が送られてしまったのでしょう」
「好きで来たわけではない。それより法螺貝はどこに?」
「知りません。いいですか?貴方が来たこの時代は昭和20年、世界中で戦争が起こってる最悪の時代なんですよ…」
「そうか。何があろうと我が国に敗北はなかろう?それより法螺貝を」
「知らん。何でも米国では最強最悪の兵器が完成したと聞きます…一番の敵国であるわが国にそれが使われないとも限らない…」
「法螺貝を」「貝貝うっせーな。でんでん太鼓ならあるからそれ持っとけやハゲ」
「ハゲちゃうマゲや。マゲ。マゲや、マゲ。ハゲちゃうからな」
「弱った…こんな時に関西弁ハゲマゲの面倒など見ていられない…ここ硫黄島が戦線の要というのに…」
「おいハゲちゃう言うとんねん。マゲやマゲ。マーゲ」「うっせー黙(ry
ーゴォォォォォォオオォォォォォォォオオオオォォォン…ー
突然、上空から轟々と鳴り響く音が聞こえて来た。その先には戦闘機の群れが空を埋め尽くしていた。
「来たぞー!!敵だー!!総員戦闘…っ?!ハゲ?!武士はどこに行った?!」
「あれがこの時代の敵か。なかなかおどろおどろしい格好じゃ。されど我が国、容易くは落ちぬわ!!」
激しく鳴り響くでんでん太鼓。緊張感に押されていた日本兵達は太鼓を鳴らしながら突き進む武士の背中を目で追った。
「然様な絡繰りを使わねば我らと対峙する事もままならぬ脆弱な敵共よ!!おのれらに我が国は破れはせぬ!!いざ、尋常に勝負なり!!」
激しく鳴らしていたでんでん太鼓を脇に差し、両手に刀を携え迫り来る米軍に一人で突き進む。
その勇ましい姿に心燃やされた日本兵達も一斉に米軍へと突き進む。
一人の武士と幾人もの日本兵達。弾ける土煙の中から聞こえ続けるでんでん太鼓の音。
-でんでん-武士道とは死ぬ事と見つけたり-でんでん-
次「レプリカ恋愛交差点」
163:レプリカ恋愛交差点
12/07/21 23:30:30.06
午後6時のスクランブル。赤いシグナルが青に変わるとき、無数の人並みが
動き出す。無関心、そしてすれ違い。すれ違いに意味はない。だって互いに
人を人と見てないもの。
ここは東京。雑踏の子羊におかれましては、皆さんいかがお過ごしですか。
そして僕は神だ。ふと思いつきで交差点の中央から恐るべき吸盤つき触手を出して、
あの顔この顔をからめとって阿鼻叫喚うわーたすけてーフハハこれでもかーと
やるのも一興だけど、やんないのね。なぜ人は―あーあーなぜひとは―あー
めんどくさい。なんでだろね、人はなぜ、そうも簡単にすれ違えるの。
ラブ。誰か一人を選んで、嘘だ、あなたのたった一人の恋人、誰さ? 君が選んだ
#no nameな彼/あるいは彼女? その恋はどこかで見た紐、デジャブーを
忘れた幸せの脳にココチヨイ。だよ?
しってる。君はこれまでドラマ、とか、漫画、とか、あとなんだろ、映画? そんな
嘘っぱちの甘酸っぱい恋だの愛だのプロトタイプをどっかから垂らされて、
上向いた口にあまずっぱーーーーーく受けてきたんだ。それが 本当 の
愛だとか 思わされて。
馬鹿。そんなのは、違うよ。恋のカタチ、愛のカタチ、みな全部違うのさ。
あたりまえ? そうさ、でも、君は何に安心する? あの人が……あの子が……。
規定は悪、君の『ラブ』は、君たちだけのもの、恋なくして思う、愛なくして
おもうさまざまのナニなんて、君のわけわかんない脳からぽこっと出てきた
ありもしないシチュエーションのレプリカさ。
わかってる! それでいいよ! ラブを手に入れたひとは、こんな話を聞くまでもない。
でも思うんだな、あのスクランブルを歩いて、あのアスファルトの上で交じり合う
ごみみたいな人かげのどんだけが、あは。ね?
キミ らの手にしたものが、ぜんぶ ホンモノ だったら……、生憎それは所管外。
カミサマでも、扱っておりません。
明日のキミは笑っているの。1年後のキミは泣いているの。でも、まあ、……
どっちでも、いいんじゃないかな。
次「星のお姫様」
164:名無し物書き@推敲中?
12/07/29 12:34:25.28
「星のお姫様」
私が砂漠に不時着して困っていると、そこに可愛らしいお姫様が現れました。
「お願い。羊の絵を描いて」
こちらは墜落した飛行機の修理で忙しいというのに、そんな風に何度も言ってはつきまとうので、次第に私の中に悪戯心が湧いてきました。
「じゃあ、これでどうだい?」
私は数珠のようなものを書いて見せました。何かと聞かれたら答えてあげるつもりだったのですが、彼女にはすぐにわかったようです。
「だめよ、子羊を五匹も飲み込んだニシキヘビなんて、ひどいわ。蛇は嫌いだもん!」
「じゃあ、蛇でなければいいのか?これでどう?」
私が次に描いた絵で、彼女はなおさらに怒ります。
「ひどいひどい!私が子羊を飲んでる絵ね!私、そんなこと出来ないもん。おなか、そんなに大きくないもん!」
そう言うと、上着をぺろんとおめくりになりました。そこには真っ白なおなか、かわいいおへそ、それに胸のふくらみもちらりと。
それを見て、今度は私に別な悪戯心が湧きました。私は、プンスカと可愛くお怒りになっているお姫様をなだめました。
「ごめん、冗談だよ。でも。羊は無理でも、蛇は飲めるんだよ。女の子は大人になると、誰だって出来ることなのさ」
彼女はたいそう興味をお持ちになり、教えてほしいとおっしゃいましたので、私はゆっくりと時間をかけて、蛇を飲み込む方法をお教えてしました。
お姫様はそれが気に入ってくださり、飛行機が直ったとき、私について行くとおっしゃいました。飛行機の中でも、ずっと蛇と戯れていらっしゃった
ほどです。
それから一年ばかりが過ぎた頃、お姫様は本当に子羊をお飲みになったようなお姿になりましたが、出てきたのは蛇でも羊でもありませんでした。
こうして私はまあまあ幸せになりました。
次、「刺身の天ぷら」
165:刺身の天ぷら
12/08/02 07:02:08.66
「飯はまだか」「あら、今食べたじゃない」
「仕事前だ、食べていかないと」「大丈夫ですよ、今日はお仕事は休みですから」
「今日休みで、明日は行くのか?」「いえいえ、明日も休みですよ」
「大将が言ったのか?」「ええ、大将がそう言いましたよ」「そうか」
生涯役所勤めだった父にとって、大将などと呼べる人物はいなかった。大工にでも成りたかったのだろうか。それともすし屋だろうか。 父は元々無口で、家では空気のような存在だった。
それが、ボケてからペラペラとよく喋る。父なりに抑えていたものがあるのかもしれない。
そこへ医者が入ってきて言った。
「今夜が峠かもしれません、お心積もりをしておいてください」「はい、ありがとうございます」
母は礼を言い医者の背中に頭を下げた。母と私はしばらく何も言わずに父を見つめていると、父が突然口を開いた。
「マグロの天ぷらが食べたい」「そうね」
母が布団の乱れを直しながら笑顔で言う。
私は夕日が差す、病室の階段を下りながら考えた。そう言えば、父に何かをしてあげた記憶が殆どない。最後くらい…。
料理に無縁だった私は、玉子焼き以上のものを作ったことがない。しかし、揚げ物くらいは誰に習わずとも出来るものだ。
スーパー買ったマグロの刺身に、小麦粉を水で溶いたものを、付けて、油のなかに放り込むと、今まで見てきた天ぷらに何の見劣りもしないものが出来あがった。
ドアを開けるとそれまで、目を瞑っていた父がかすれ声で言った。
「来たか」
その挨拶に笑いながら、母に天ぷらを入れたタッパーを渡す。
「なにかしら」
中身を確認して母は驚いたようだ。
「マグロの天ぷら」
「まあ、おいしそう。お父さん、功がマグロの天ぷらを作ったんですって、良かったわね」
母は箸をカバンから探し出して、で父の口に運んで食べさせた。私が父の反応に注目していると、父は言った。
「こりゃマグロの天ぷらじゃない、刺身の天ぷらだ」
どうやら、火が通ってなかったようだ。
「でも、こんな旨い物は初めて喰ったよ」
私は、満足そうな顔で言う父を見て、以前の父が帰ってきたような錯覚を覚えた。
そして、その日の深夜、父は息を引き取った。
次のお題→「土一揆に明け暮れた日々」
166:名無し物書き@推敲中?
12/08/04 23:14:55.89
『うぉおおおおおお!!!』
目を閉じると、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
両手に鍬を持ち、てぬぐいを頭に巻いて国会議事堂へと突撃した日々の事。
学生運動が流行った時代が遠い昔となり、誰もが無気力に毎日を過ごしていた時、
立ち上がったのが俺達農民だった。放射能、地震、日照り、嫁無し。相次ぐ困難に対し、
何も対策をしようとしない政府に対して、ついに全国の百姓達が立ち上がった。
100年ぶりと呼ばれるその土一揆は、わざと昔ながらの装備で行われた。
これは、過去の一揆で消えていった讃えられぬ英雄たち、一揆衆の霊をとむらう為でもあり、
また弱者という立場のまま強者へ意見を通す事を目的とした為であった。
濃縮催涙弾や意識断絶閃光弾。最新鋭兵器によって次々と倒れていく仲間たちの屍を乗り越え、
数百万人と呼ばれる『日本土一揆』の参加者たちの行動は、議事堂の周囲に積もった
仲間の体で外から議事堂が見えなくなる頃になって、やっと認められた。
総額数十億円の賠償金と、全農民に対する農耕給付金制度の確立。
それによって、全国の貧困にあえいでいた農民たちは、やっと時代に救われたのだ。
失ったものも大きかったが、あの戦いによって得たものは少なくないと私は思う。
『おじいちゃ~ん!ご飯出来たよ~!』
そんな事を振り返って考えていると、階下の孫の呼ぶ声が聞こえた。
給付金によって安定した農民の生活に惹かれ、都会の女達は続々と地方へ飛び出していった。
今や全国どこの農村だろうと、嫁探しに困窮したりする事はない。
子沢山孫だくさん、子孫繁栄という農民にとって最も重要な要求は、完全に果たされたと言っていい。
ああ、今いくよ。そう孫に返事をしてから、手元にあったボジョレヌーボーのグラスを掲げ、呟いた。
土一揆、万歳。
次「かんぜんちょうあくってこういう字だと思ってた→完全懲悪」
167:名無し物書き@推敲中?
12/08/05 20:25:19.84
携帯をいじりユキからのメールを表示させる。
『はろうけいほうってハロー警報じゃないの』
「可愛いだろ?ユキはしょっちゅうこんな間違いしてたんだ。そうだ、こんなのもある」
俺は次のメールを開いた。
『かんぜんちょうあくってこういう漢字だと思ってた→完全懲悪』
「なあ、笑えるだろ?なんだよ、完全懲悪って、本当にバカだよな、しょっちゅうこんな間違いをしてさ、そのたびに俺が間違いを教えてたんだ……でももうそれもできない」
「たのむ、許してくれ!」
鉄骨に縛られた男の必死の叫びが廃ビルの闇に吸いとられる。
「おまえはユキが助けてと言ったとき聞いたのか?」
俺はナイフを強く握りなおし、男にゆっくり近づいていった。
「たのむ!たのむ!」
「うるさい」
ナイフが男の胸に刺さろうとしたそのときだった。
「カタン」
携帯電話をうっかり落としてしまう、拾った瞬間ふいに目に入った彼女のメールに俺は動けなくなった。
『ヒロキが笑ってたら私はしあわせ』
気がつけばナイフを捨て俺は大声で泣いていた。携帯を抱き締めて、地面を思いきり何度も何度も叩いていた。いつまでもいつまでも泣き続けた。
次題 「コミュニケーション・アダプタ」
168:名無し物書き@推敲中?
12/08/05 23:03:26.70
会話とは、接続である。
声を発し、空気の振動を媒介にして互いの言葉を相手に伝えるように。
文を書き、染み付いたインクが誰かの想いを記し残すように。
無機質な『モノ』が二つの感情の受け渡しをして、初めて人と人は繋がりを持つ。
それが何であるかは関係ない。ただ、そこに『在る』だけの物を介すことで、
やっと人は人を感じる事が出来るのだ。
…だが。
震える空気を、染み込んだインクを、聞くことが、見ることが出来なかったとしたら?
それは果たして、生きている人間だと言えるのだろうか。
目の前に広がる、無限の闇。光も音も感じない、閉ざされた思考の檻の中で、俺は最後の記憶を辿る。
それは確か、車だった。
視界を塗りつぶすように迫ってくる大きな車。一瞬だけ見えたその姿は、
すぐに自分の体との距離を無くし、全ての意識を消失させた。
つまり恐らく、自分は撥ねられたのだろう。そしてきっと…どこかが、壊れてしまったのだ。
何もない、永遠に続くような虚無の世界で、両手が何かを持ち上げているのを感じた。
それは薄い布のような物。腰を半分折り曲げたような妙な体勢で寝ている事を、
触覚だけで自覚する。その形状のベッドは、テレビドラマの話の中で、何度か目にした事があった。
ここは、病院なのだろう。
トラックに撥ねられた自分は、病院へと搬送され、何らかの処置を施された。
命に別状はなかったが、起きてみれば、視覚と聴覚を失っている。
もしかしたら、今も医者が目の前で何かの検査を行っているのかもしれない。
もしかしたら、既に脳の写真を取られ、もう絶望的だと、家族に説明されているのかもしれない。
もしかしたら、今この時も、すぐそこに両親や妹が立っていて、涙を流して自分の名前を呼んでいるのかも――。
――でもそれは、自分には見えないし、聞こえない。
169:名無し物書き@推敲中?
12/08/05 23:04:43.19
『---------ッ!!』
ありったけの肺の中の空気を吐き出して、喉の声帯を震わせる。もしもそこに
人が居たら、自分を見て狂ったのかと思うかもしれない。
だが、それでも自分の耳は、何の音も拾わない。
何の声も、聞こえない。
本当に発狂してしまいそうだった。いや、もはや狂ってしまいたかった。
一体誰とも繋がれない世界で、生きていく価値が何処にあるというのだろう?
それはもはや、人間とは呼べない生き物なのではないだろうか?
気が付けば、自分の頬が濡れていた。
その滴すらも目に出来ないということにまた絶望し、涙を流す。
ああ、いっそ、今ここで舌を噛み切ってしまった方が――。
その瞬間、ふいに誰かに抱きしめられた。
手を、握られた。
胸に、顔を埋められた。
そのぬくもりは、温かさは、とてもよく知る家族の物で。
きっと流してくれているだろう、彼らの滴の伝えた温度が、無限の世界の暗闇を、
ほんの僅かに照らしてくれた。
ああ、神様。僕がこの先どうなるのかはわからないけれど――。
――どうか、この温もりだけは、奪わないでいてください。
長くなってしまいましたが、どうやら文字制限などは無いようなので。
次「三十二分と十二秒の欠落」
170:三十二分と十二秒の欠落
12/08/12 23:58:06.26
P教授の最後の発明はタイムマシンであった。あらゆるものを実現し、
最後の最後にそんなものを作ったPはやはり絶望していたのか? 誰も知るまい。
ここにPの行動について書く。無論Pはすでに読者の世界にはいないし、
なにか主語としての自然が語るように彼のことを書くのは幼稚な嘘じみているが、
お話とはそういうものだ。
Pのマシンには行き先を指定するダイヤルが付いていた。ダイヤルを回して
+1年、+5年、+10年……仕組みはそうだが彼はそんな時間量に興味はない。
ダイヤルを高速に、つまり、目で追えるより早く回すと、+INFという指定が可能だった。
世界の終わりへ。Pがそれを見たくなったとして何の不思議がある?
煙を放つタイムマシンからPが降り立ったのは灰色の大地だ。雲はなく星が見えた。
月世界のようなそこは確かに地球なのだろう。岩と砂の荒野の中に、一人の少年が
座っていた。Pは砂に足跡をつけて少年のもとに赴いた。
「ねえ見て、山手線だよ」少年が言う。抱えた膝の前に、緑の光がくるくると回転している。
Pはいった。
「18世紀から20世紀にかけて、世界は縮んだ。これほどの未来なら、山手線が
この環くらいに縮んでいても不思議はない。しかし、山手線の内側はどうなった?」
少年は石ころをPに渡した。掌に収まるそれは、セメントのツノのように微妙な面を持った、
目の荒い砂岩に見えた。Pは雲母と思しき黒い小片に見入った。
小さな、小さな、ときおり輝く……それは夜だ。街の夜のかけらだ。
「これが世界の終わりか」Pは言った。「ううん、無限の未来だよ」少年が言う。
「それは、終わりと同じことさ」Pは笑った。
「ここに来て、どのくらい経ったろう」Pはふと疑問に思った。シチズンの時計は
16時27分48秒をさしている。「200年くらいたったよ」少年が言う。
世界は縮退し時は早く流れる。時計すらも時間に置いていかれるのだ。Pはいった。
「私は帰るよ。17時で定時なんだ」
「もう17時、2時、8時、そして17時だよ」少年が言う。山手線は回っている。
「ああ。僕の、勤務時間のことさ」Pは呟いてタイムマシンに乗る。それはガラクタだった。
Pはシートに座って定時を待った。それはすぐにやってきて、また去った。
時計は16時27分48秒をさしていた。
次「梅心」