12/03/05 17:31:08.55
端的に言って平野は「日本国民」を欺く自分を何とか隠そうとしてきた。
小説の中でもこれはしばしちらちら覗いている思考だ。
『決壊』で政治家や、都政を腐す文脈、その日本の芸能界への嫌味をみればいい。
或いは『フェカンにて』で美化した自己像に投影された、主人公が考えて感じている事。
その一切は国家からの給付で留学している処にはない。国家への責任感、という明治の先人にあった意思は少しもない。
当人の利己心がただ羅列されていく。読む者はその逐一の仕業をみて、主人公の父親の自殺した年齢と最後の崖から飛び降りられる地位を見透かしていく。
日本への親しみを表明するフランス人の婦人や、現地の西洋人へのあしらいを平野当人の憧れていた鴎外に重ねて、何とかやり過ごす。
結局、この浅はかさ、いわば平野の初めからもっていた世間へのプチブル根性的傲慢な態度は、この小説家の仕事の一切に染み込んでいる。
そしてこの落ち度は読者の中にも伝わる。それが多くの誠実たらんとする人文学に属した者からは嫌味に感じられ、批判されゆくのだ。この浅はかさとは何か。
言ってみれば「学歴」「戦後」「首都」などの構造を利用して、リバタニアンとしてふるまう自己の美化だ。それが人々にとって鼻持ちならないものなのだ。