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ノート続き
たとえば、一人の女性が、恐怖に大きく見開かれた瞳で、彼女にしか見えないなにかを見つめているとしよう。観客は、
スクリーンに、カンバスに、女性の恐怖の表情と、彼女の視線の方向とを見るわけだが、しかし、その対象、恐怖の原因と
なるもの、フレーム外にあるものを見るのではない。私は作家のディーノ・ブツァッティが叫んでいる女性を描いた絵を
思い出す。彼女は明らかに裸であり、確か窓枠ごしか、よくある漫画のコマの中に描かれた半身像で、彼女の両目は、なにか
未知のものに注がれていて、それは彼女の視線から判断して、彼女のすぐ近く、それも彼女の膝のあたりにあるのだ。そこに、
漫画のように添えられたキャプションが、完璧なサディズムをもって、件の対象の謎めいた性格を、平凡な質問(「何が彼女を
そんなに叫ばせているのか?」ーとか何とか、その文章を正確に思い出すことができない)によって強調している。絵画に
おいては(もちろん写真でも同じことだが)、女性の顔に浮かんだ恐怖の表情のように、謎は明らかに、宙づりにされたままに
置かれる運命にある。というのは、そこではイメージは、通時的に発展したりはしないからだ。一方、映画においては(そして
同じ原則に従う漫画においても)、画角を変えたり、切り返したり、パンしたり等々で、この恐怖を引き起こした原因を見せる
ことができるーゆえに、もし監督が、観客の欲求不満をわざと長引かせたかどで非難されたくなかったら、むしろそれを
見せなければならないーそして、一部分が省略されて見えないシーンによって、観客がもたげる疑問に答えることができる。
つまり、この口を開けた空隙の挑戦に答えることができる。その空隙を満たし、恐怖の原因として説得力があるように見える
ものを作り出すことができる。別の言い方で言えば、観客は本当に恐怖を体験することができるのだ。サスペンスはこの満足感に
糧を与えるため、そのありように変化をつけることで成り立っている。
上で言及されてるブツァッティの絵とは、たぶんこのことだと思うけど、ボニツェールが言うようなキャプションはない。
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