【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5at ARMY
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5 - 暇つぶし2ch500:813
13/12/12 23:18:25.35
>>496 の返答が無いので書いてしまいますが……
>季長の戦った相手は東路軍の船である可能性が高い
というのは難しいと思います。
『高麗史』『高麗史節要』とも、台風後の掃討戦については
江南軍生き残りからの伝聞しか載っていないので(忠烈王世家、八年)。

一方で、『元史』日本伝にある記述、
五日、文虎等の諸将各自ら堅好の船を択びて之に乗り、士卒十余万を山下に棄つ。
『蒙古襲来絵詞』
しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候
両者は符合しています。

『高麗史』金方慶伝
八月、大風に値(あ)い、蛮軍皆な溺死す。
屍は潮汐に随いて浦に入り、浦は之が為に塞がりて、践(ふ)みて
行くべし。
遂に軍を還す。

501:名無し三等兵
13/12/14 11:02:52.32 3/LDUtpS
>>500
「はやにけかへり候」だから、「しかるへき者とも」を乗せた船はもはや戦場には
いなかったということです。

高麗史が「蛮軍皆溺死す」というのは皆溺死していない軍の立場から書いています。

江南軍の張禧の部隊は台風の損害を免れたとされますが、記録では張禧が継戦を
主張したがいれられず、撤退用の船を提供したというだけで、戦闘を行った様子が
見られません。

またイェスダルが数百艘の戦艦を率いて東征し、全軍帰還して褒賞を受けたと元史
にありますが、高麗史から彼が東路軍に属したことがわかります。

以上から台風後に戦力を保持して、絵詞に描かれるような海戦を戦い得たのは東路軍
のみであったことが推定されます。

502:813
13/12/14 23:53:21.17
>>501
先に挙げた『高麗史』金方慶伝を見るに、東路軍は早々に撤退したのではないかと思います。
(江南軍からの伝聞ではない)掃討戦の戦況が書いてあれば、話は別です。
『高麗史』『高麗史節要』に該当する記事があるのなら、ご教示ください。
『元史』日本伝では、
--
敗卒の于ショウ(門構えに昌)、脱(のが)れ帰りて言う、(中略)
方(まさ)に木を伐りて舟を作り還らんと欲せしに、七日、日本人来たりて戦い、
尽く死す。余の二三万、其の虜と為りて去る。
--
『蒙古襲来絵詞』と併読するに、江南軍(四散した東路軍も含む?)は、残余の軍船で
頑張ったのでしょう。

>全軍帰還して褒賞を受けた
主戦力として戦わなかったからでは?

間違っているのが私の方だとして、
『高麗史』忠烈王世家七年閏八月二十四日
--
左司議の潘阜を遣わし、忻都・茶丘・范文虎を労わしむ。
--
この三人(東路軍2名+江南軍1名)の雰囲気は、相当険悪だったでしょうね。
范文虎は、高麗経由で元に帰国していますので。

503:名無し三等兵
13/12/15 12:21:55.98
台風の後の伊万里湾には江南軍の中のバートルみたいな外洋航海能力を
持たない船だけが残されたって可能性は?
蒙古襲来絵詞に描かれた元船は大半が帆を持たないわけで。

あと、元軍の指揮官2人が元寇の後で敗戦の責任問われて処刑されてるね。

「カーンが遠征軍の指揮に当たった二人の重臣を共に死刑に処したのは、
この両将軍がいずれも本分を尽くさなかったからなのである。」東方見聞録

マルコ・ポーロは日本には来てないから不正確な伝聞しか書けなかったけど、
元の宮廷には17年間滞在したわけで、内部情報知りうる立場。

504:名無し三等兵
13/12/16 15:54:06.33 Y/Af9NJO
>>502
>掃討戦の戦況が書いてあれば、話は別です。 『高麗史』『高麗史節要』に該当する記事があるのなら

掃討戦は主として台風で壊滅した江南軍が受けたのだから高麗史に記述が無くて当然ですが、その
高麗史も戦況の記述があるのは鹿島の戦いだけで、存在が確実な海戦も記述が無いのですから、あて
にできません。

>『高麗史』金方慶伝を見るに、東路軍は早々に撤退したのではないかと思います

江南軍の惨状を述べた後に「遂に軍を還す」とあるからと言って、状況が連続しているとは限りません。
「遂に」は最終的帰結を述べているだけかも知れないし、上記のように字数が少ないのですから。

>四散した東路軍も含む

元軍は一応軍律のある軍隊なのですから、台風ぐらいで「四散」はあり得ないでしょう。東路軍は台風の
被害が軽微だったのであり、かつ総司令官がいるほうの支隊なのですからなおさらです。

ところで季長が戦ったのは御厨と絵詞にありますが、御厨は江南軍主力が壊滅した鷹島からも、張禧の
艦隊がいた平戸からも離れてその中間にあります。これらの艦隊から御厨へ、この次期に派遣することは
考えにくいから、季長の相手はもともと御厨地域に停泊していた艦隊でしょう。それが東路軍か江南軍か。
まあどちらの可能性もありますね。東路軍の船が高麗製で頑丈だったことで可能性が高くなるだけです。

505:名無し三等兵
13/12/16 16:19:17.44 Y/Af9NJO
>>503
>台風の後の伊万里湾には江南軍の中のバートルみたいな外洋航海能力を持たない船だけが残されたって可能性は?

絵詞で季長が首を取っている船は、碇の巻き上げ機や船倉が描かれているところから明らかに大船。
この絵に連続して左に描かれている(実際は別の絵なのかもしれないが)は、これらを持たず、また船首に
曳航用の鉄環がついている。これがバートルと思われる。

>蒙古襲来絵詞に描かれた元船は大半が帆を持たないわけで。

大船が帆を持っていたかどうかは今のところ確証がない。季長も「帆柱」とは言わず「本柱」と言っている。

>あと、元軍の指揮官2人が元寇の後で敗戦の責任問われて処刑されてるね。

それは兵を置き去りにして帰った江南軍の司令官なのでは?

506:813
13/12/16 23:27:23.27
>>504
>台風ぐらいで「四散」はあり得ないでしょう。

博多に着く前に、早速やらかしてますけど。
『高麗史』忠烈王世家七年五月二十八日
--
是月二十六日、諸軍は一岐島の忽魯勿塔に向かう、
船軍百十三人、梢水三十六人は風に遭い、其の之(ゆ)く所を失う。

>(四散した東路軍も含む?)
>>502で書いたのは、『元史』日本伝に
--
九日、八角島に至り、尽く蒙古高麗漢人を殺し
--
とあるので、「もしかすると、掃討戦で捕まった東路軍兵がいたかもしれない」という含みを持たせたのです。

残りはスルーします。

507:名無し三等兵
13/12/17 18:08:28.30 oHA4XkqR
>>506
>博多に着く前に、早速やらかしてますけど。
>船軍百十三人、梢水三十六人は風に遭い、其の之(ゆ)く所を失う。

これは恐らく一隻の船が遭難してその乗員が行方不明になったか、置き去りにされたかを
言ったものでしょう。同様の事件は文永の役でも起こっています。

508:名無し三等兵
13/12/17 22:38:04.08
台風の後で日本軍の掃討戦によって捕虜になった張百戸は東路軍だから、
東路軍の中にも台風の際に伊万里湾に停泊していた部隊があったのは確か。
ただ張百戸を軍の指揮官にしようとしてた状況だから指揮系統は滅茶苦茶。
東路軍の中でも無事だった部隊はそのまま帰還し、伊万里湾の海戦には
加わっていない。

509:名無し三等兵
13/12/18 20:30:58.84 D/dDnC2w
>>508
闘将・張成が東路軍であるのに気がつかなかった。教えてくれてありがとう。

>東路軍の中でも無事だった部隊はそのまま帰還し、伊万里湾の海戦には加わっていない。

これのソースを教えて欲しい。

510:813
13/12/18 21:42:13.46
>>508
ご教示ありがとうございます。

>>509
『元寇の新研究』所収、『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』でしょう。
日付は至正八年(1348)三月朔日とあります。
--
八月(日本暦閏七月)朔、海風作、船壊、軍還至京
--
この部分はwikipediaに載っていませんね。その続きには「二十一年君承命乾山(?)伐木・・・」
とあり、弘安の役の記事では無さそう。
台風後における東路軍の行動については、『高麗史』とほぼ同じ。

『元寇の新研究』には墓碑の拓本も載っています。
張百戸が捕虜になったという記事はありません。

511:名無し三等兵
13/12/19 01:05:38.24
>>510
張百戸が捕虜になったという記事は元史日本伝にあるでしょ。

「八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びて
これに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して
主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて
舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、
そのために虜去せらる。」

墓碑銘には景気いい話しか書いてないけど、その陰にはいろいろ不都合な
事実もあっただろうというのは、日本遠征から帰還した張百戸が1285年に
当時流刑植民地だった黒竜江の東北の極辺に屯田を命じられてることからも
推測できる。

512:813
13/12/19 21:43:33.70
>>511
『倭国伝』(講談社学術文庫)に収録されている『元史』日本伝を所持しております。
私も貴殿と同じ期待を持ったのですが、

・張総管(張百戸)の生死に言及されていない
・墓碑に記載が無いので、張成とは別人かもしれない

なので、結論を保留しました。
「記事が無い」=否定したわけではありません。
子孫があえて書かなかっただけで、同一人物かもしれないが・・・・・。
(『元史』が「張成」と書いていてくれればよかったのに。同姓同名の別人とまでは言いません)

『元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘』の翻刻は
『満鉄調査資料第169編』 (南満洲鉄道, 1936)に収録されており、
近代デジタルライブラリーで、無料で読めます。

513:名無し三等兵
13/12/19 23:47:23.33
【敵国】元寇について語るスレ【降伏】
スレリンク(history板)

パフォ居なくなったと思ったら日本史板でやってた

514:名無し三等兵
13/12/20 08:00:31.74 GDkXrXsw
元寇って日本がフルボッコにされて終了したんじゃないの?
誰か分かりやすく教えて下さい

○○が○○の場所で戦闘、被害○○人

同じく○○が○○の場所で戦闘、被害○○人

というように
wikiは分かり難いです

515:名無し三等兵
13/12/20 08:19:29.21
向こう側は何の目標も達成していないけどな

516:名無し三等兵
13/12/20 10:39:22.31
壱岐・対馬の人間は散々凌辱されたろ。

517:名無し三等兵
13/12/20 11:33:16.41
>>514
日本がフルボッコにされて終了したなら日本はモンゴル帝国に征服されてないと
おかしいだろ。
実際にはモンゴル軍が日本軍にフルボッコにされて終了した。
文永の役の戦闘損失はモンゴル軍が1万3500余人で日本軍が195人。

518:名無し三等兵
13/12/20 13:29:42.82
キルレシオ70か・・鎌倉武士強すぎでしょ・・

519:名無し三等兵
13/12/20 14:40:15.29
壱岐対馬をフルボッコにすることだけが元軍十数万の目的だったから
それを達成した元軍の大勝利だね

520:名無し三等兵
13/12/20 19:33:57.53
>>519
十数万動員した弘安ではそれすらできてないんだけど

521:名無し三等兵
13/12/21 10:20:49.84 LDaD68eX
>>517
もう少し詳しい流れを簡潔にオナシャスっ

522:名無し三等兵
13/12/21 10:22:36.96
学校で先生が日本はフルボッコで逃げまくり
台風がなければ属国化でしたみたいな事言ってたから

523:名無し三等兵
13/12/21 11:08:19.40
日教組か

524:名無し三等兵
13/12/21 11:40:30.80
むしろ皇国教育だが

525:名無し三等兵
13/12/21 17:38:58.97
で行き着いた先が神風なんちゃら

526:名無し三等兵
13/12/21 17:40:27.04 WUmkJ2kd
教科書に一騎打ちだのてつはうに苦戦しただの
追加したのは明らか戦後やぞ。

527:名無し三等兵
13/12/22 01:37:59.30 wsEFDk2n
文永の役ではなぜ元軍は撤退したの?
威力偵察?

528:名無し三等兵
13/12/22 01:49:07.84
>>527
戦闘に負けたから撤退したのに決まってるじゃん

529:名無し三等兵
13/12/23 09:27:01.86
威力偵察説って後続というか上陸部隊の本体はどんな規模の部隊を用意してたと考えてるんだろうか

530:名無し三等兵
13/12/23 17:08:49.44
考えてるわけ無いわな
単に日本が普通に勝ったのが信じられないor気にくわないだけだから

531:名無し三等兵
13/12/24 03:19:23.24
一方的に殺戮されたのは、壱岐と対馬だけ?

532:名無し三等兵
13/12/25 21:52:35.90
時代は違うが、竹島も

533:名無し三等兵
13/12/25 21:59:57.95
弘安の役の時の平戸ってどうなってたの?

534:名無し三等兵
14/01/18 21:59:28.12 A2L1bTiB
出島

535:813
14/02/03 23:42:02.36
現在、『八幡愚童大菩薩訓』筑紫本、橘守部旧蔵『八幡蒙古記』を比較しているところです。
『八幡大菩薩愚童訓』(筑紫本)は、筥崎八幡宮座主坊に伝えられてきた室町中期の
写本で、壱岐・対馬での戦況に関する記述は、ほとんどありません(住民を虐殺した記事のみ)。

両書に共通なのは、
・弘安の役において、東路軍・江南軍が合流した後で博多に攻めてきたと誤解しているところ

『八幡愚童大菩薩訓』筑紫本にのみ存在する記事
・六月六日~十三日の、海の中道での合戦を記載している

『八幡蒙古記』にのみ存在する記事
・建治元年正月二十三日、杜世忠が来日したこと
『鎌倉年代記』では「四月十四日、大元使着長門国室津浦」とあり、疑問。
この部分は、『蒙古諸軍記弁疑』所収の『八幡蒙古記』では削除されている。

嘘ばかり書いているとは思いませんが、取捨選択が難しそう。

参考:『八幡愚童訓諸本研究』(小野尚志,三弥井書店)
『筑紫本八幡大菩薩愚童訓』(福岡県文化財資料集刊行会)

536:813
14/02/05 22:21:31.45
以下、『八幡大菩薩愚童訓』(筑紫本)のうち、文永の役・弘安の役
の部分を掲載していきます。
読点を補い、字体は現代のものに改めるつもりですが、
OCR特有の間違いなどあるかも。

筑紫本は、筥崎八幡宮座主坊に伝えられてきた室町中期の写本。
『八幡愚童訓諸本研究』では
「誤写と思われる箇所も多く、又、本文の一部が脱落したかと
思われる箇所も存する点、必ずしも善本とも言えないようである」
と評されるが、
「八幡愚童訓の原型が筥崎宮祠官の手になったとすれば、
筑紫本こそ、その流れをくむもの、と考えるのが順当であろうが、
残念ながら本書(『八幡蒙古記』)の検討から、結論を得ることは出来ない」
ともあり、気になるマニアも少数いるかもしれない。

(前略)
同十一年九月之比、異賊四百五十艘之大船二三万人乗テ寄来
対馬壹岐二之嶋ヲ打落テ、筑前国今津二着ニケル、此由京都
へ聞シカバ、御祈祷共始ラル、
十月廿九日ヨリ於御宝前両座最勝王経転読有、
十一月二日ヨリ山上二諸社御ヲ勤ム、
同八日八幡へ御幸在テ御祈祷共有。両総官ニ勤賞行ハル、
其上社務宮清ヲ馬場殿ニ召テ銀剣沙金賜ケリ、
是異国降伏之御祈之為也、懇懃ノ叡信宗廟之照覧有ン覚タリ、
九国ニ馳集軍丘(ママ)誰々ソ、
少弐大友菊池原田紀伊一類臼木戸次松浦党児玉党以下
神社仏寺之司及モ我モ々卜打立ケル、
大将軍一万二千余騎、都合其勢十万騎卜云へ共数ヲ不知、

537:813
14/02/05 22:29:01.22
馬之気者天ニ上リ風ヲナシ、蹄之音ハ地ニ響キテ雷ヲナス、
三尺之剣之光ハ氷斗ニ有、一張之弓之勢ハ、
当着次タル鎧ノ毛之色々ナルカ映セルハ、
蜀江ノ錦ヲ洸ニ同立並タル旗之勢ハ浜風ニ吹レテ飜ハ、
枯野之尾花ニ異ス、
日本兵共高麗唐人等ヲアナツリ習タル様ニ思ツツ、
面々分取センスルニ味方ノ勢ハ多、彼方ノ勢ハ少シ、
異国十人ニコソ味方一人ニ当ヘシ、
此方之勢ノミ多シテ、敵軍一人モ当ン卜云テ、
味方ノ角落ナントハ曽不思、勇進テ我先ニトソ懸躍テソ待懸タル処ニ、
十一月廿日、蒙古舟ヨリ下、馬ニ打乗、旗ヲ揚テソ責懸ル、

日本之大将軍ニ少弐入道覚恵カ孫、纔(ワズカ)ニ 十二三之者ニ箭合ノ
為トテ、小鏑ヲ射サセタリケレハ、蒙古一度ニ
[豆皮/言]卜笑テ大鼓ヲ鳴シ鉦ヲ打テ時ヲ作事震シク有ケルハ、
日本之馬共驚刎ヒチメキテ進退惟谷タリ、
馬ヲコソアツカイタレ敵ニ向ン卜云事ヲ忘テヒシメキケリ、
蒙古カ矢ハ短卜云共錠ニ毒ヲ塗タレハ少モ当者ハ
毒気ニ負テ死ニケリ、鉾長刀ヲ以テ物具之明間ヲ指テ、
一面ニ立並ヒテ、奇(ママ)スル者有ハ中ヲ引退テ両方之端ヲ廻シ
合テ取篭テミサコ倒ニコロシケレ、吉[彳及](ママ)タルカ死ヲハ
腹ヲアケ肝ヲ取テ飲、本ヨリ牛馬ヲ美物卜スル者ナレハ、
射倒タル馬ヲ喰テ飽満セリ、冑ハ軽シ馬ニハ吉乗、力者強シ命ヲ
ハタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮也、
大将軍高所ニ打上リ、可逃ニハ引鼓ヲ打、懸ヘキニハ責鼓ヲ扣クニ
随テ彼逃時ハ鉄包ヲ飛ス、眼暗成鳴音高シ心ヲ迷テ、
肝ヲツフシ耳鳴テ亡然トシテ東西ヲ不弁有ケル、

538:813
14/02/05 22:34:53.74
日本之軍之様ニ相互ニ名乗合テ高名不覚ハ一人ツゝノ勝負ト思処ニ
合戦ハ大勢一度ニ寄合テ足手之[魚各](ハタラ)ク所ヲ
我モ々卜取付テヘシ倒、生取ニシケレハ、是故ニ懸出ル程ノ者
漏テ帰ハ無リケリ、誠哉不教民ヲ令戦ル事是棄ツト謂本文有
今コソ知レケリ、其中ニ松浦党多討又原田一類、
深田ニ追被入テ失ニケリ、肥田相屋三百余騎ニテ彳ヘ
タリケルカ、乗タリケル馬ノロ強シテ、自然ニ敵陣へ被引入シ
カハ、主人討セシト彼カ手之者共続テコソ懸タリケレ、
取篭テヒシ々卜残少ク討成ル、主人引入シ馬ハ此方ニ走帰ケリ、

相屋カ手ニ山田之者共五人、蒙古ニ追立ラレテ、赤坂ヲ下ニ逃処ニ、
異賊三人擽ニ々テ追懸タル、サレ共疾逃延テ一町余ニ成シカハ、
蒙古無力シテ、セメテノ事ニヤ尻ヲ掲テ此方へ向テ跳(ヲトリ)ケリ、
其時山田ノ逃武者共、口惜事哉アヤトハラニ角セラルヽ事ヨトテ、
其中ニ精兵之有ケルニ、彼尻射卜云ケルニ力尽ヌ
遠矢ニテ争可射当ナレ共、余悪サニイテサラハ射テ見ン、
南無八幡大菩薩願ハ此矢ニテ敵ニ当サセ給ヘトテ
何クニ当共無繰リ遣ケル程ニ、アヤマタスコソ射倒タレ、
日本人ハ一度ニトツト笑ケレハ、蒙古共者昔モセス手負ヲカ
キ具シテ逃ニケリ、大菩薩之御罸ニ有サランヨリ外ハ何ニシテカ
此遠矢ヲ射中ル事可有嬉サ無限、蒙古ハ次第ニツヨリ勝ニ乗テ
責来リ、赤坂ノ松原之中ニ陣ヲ取テソ居タリケル、

539:813
14/02/05 22:41:01.36
軍安思ニ相違テ面ヲ可向様モ無、味方引退テ寄合スル者無リケリ、
爰ニ菊池次郎思切テ百騎斗ヲ二手ニ分ケ押寄テ散々懸散シ
上ニ成下二成取重テ勝負ヲス、家子郎等多被討シニ、
菊池次郎計被打漏テ死人之中ヨリ起上リ、頸共余多取以
城之内ニソ入ニケル、名ヲ後代ニ留シカ、是偏ニ大菩薩之御
守護之故也然ニ勤賞蒙りタランニ者一番ニ賜リタラン物
ヲハ八幡ニ進セント願ヲ立シ故トテ、関東ニ参下賜ル甲胄ヲ
子孫ニ伝ト思ヘトモ、神恩難謝トテ当社ニ持参申キ、
少弐入道子息三郎左衛門尉景(資)并其手之者平四郎入道手光
太郎左衛門尉等始トシテ押寄テ散々ニ闘、

此外大名高家我モ々卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破ニ責入テ、
今津早良(注:原文ママ)百路原赤坂及乱入ケリ、異国者合戦何事カ可有卜
平安之敵トアナツリ思テ、妻子眷属ヲ隠置ニ不及シテ有シカハ、
家々ニ乱入テ数千之妻子共ヲ取ニケリ、軍ハ巳之時始テ日暮方ニ
成シカハ、彼方此方ニサゝヤキ事コソシケレ、
何事ソト恠ム難及力ニケレハ、水木之城ニ引篭支テ見ン卜
逃支度ヲソ構ヘケル、是ヲ聞テ我先ニト落シカハ、独モ留ル者無リケリ、

爰三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、蒙古大将軍ト思シキカ
長(タケ)七尺計ノ大男髮腮(アキ)ノ邊マテ生下リタルカ葦毛ノ馬ニ
乗十四五騎、カチ走七八十人カ程具シテ、ヲメキ呼テ追懸タリ、
其時旗之上ニ鳩翔舞ケレハ誠 八幡大菩薩之御影向トソ
憑敷テ究竟ノ兵共成シカハ、一鞭打テ馳延テ踏(フミ)留テ、
吉引テ放矢ニ、一番ニ懸ケル大男之真中射テ馬ヨリ下へ逆ニ落ニケル、
郎等共是ヲカゝケテヒシメキケル、粉ニ景資此方へ引返ル、
葦毛ノ馬ニ金造之鞍置タルカ走廻リケルヲ取テ、後ニ尋ハ、
蒙古ノ一方大将軍ニ流将公カ馬也卜、生取タル蒙古申ケリ、
鳩翔給テ大将軍ヲ討事之目出サヨ 八幡之御降伏誠ニ貴御事也、

まずはここまで。

540:813
14/02/06 00:05:34.90
すみません、後はブログを開設し、そちらで続けます。
上の文中「勤」→「勧」でした。

541:名無し三等兵
14/02/06 00:56:56.62
>>535-540
お疲れ様。
気になるのは元軍が対馬壱岐から直接今津に侵攻し、肥前には立ち寄っていないこと。
松浦党は少弐大友などと博多での戦闘に参加してること。
日蓮の「一谷入道御書」とかも普通に読めば松浦党は武藤資能の指揮下で戦っていて
元軍が肥前に侵攻した裏付けにはならないと考えてるんで。
松浦党が博多方面の戦闘に参加していたことについては、実は裏付ける史料がある。

[白井文書]
筑後国御家人守部彌次郎盛通、同四郎盛時、同六郎光盛等申す蒙古合戦の事、申し状此の如し。
実正に任せ、起請の詞を載せ、左右を申さしめ給うべし。仍って執達件の如し。
    建治三年七月五日        頼泰(花押)
  斑嶋右衛門三郎殿

松浦党の斑嶋右衛門三郎が筑後国御家人の合戦の証人になってるんだよね。

542:813
14/02/06 07:16:46.72
文中の「ぎょうにんべん」は、「ひか(へる)」と読みます。
誤字と思われる部分は、菊大路本等を参考にして校合していきます。
おそらく「難謝」→「報謝」、「粉に」→「紛れに」だと思う。

543:名無し三等兵
14/02/06 23:08:48.41
このスレ面白いよ。詳しく解説してくれるし

544:名無し三等兵
14/02/08 16:19:28.24
なんJで元寇スレが立ってたが未だに元が本気じゃ無かった説や日本は弱くて運が良かった説ばっかだったな

545:813
14/02/09 19:53:09.51
さらに訂正。
上の文中「倒」→「殺」でした。

『自然と遺跡からみた福岡の歴史』所収「遺跡からみた福岡の歴史2-遺跡の動態から見る福岡平野」p.244より
--
文永の役では社殿が元軍の兵火にかかり、神体は宇美極楽寺に避難している。
焼土層の広がりは元軍の兵火によるものであろうか。
であれば、この時期砂丘全体に分布する遺構の広がりからすると、かなり限られた範囲である。
焼土の広がりが文永の役によるものとすれば、この後も武神として崇められていく筥崎宮だが、
元軍に対して被害を最小に食い止めえたと言えるのではないだろうか。
--
本文の説明図を見ると、焼土層は箱崎遺跡の北西部分にのみ存在しています。

546:名無し三等兵
14/02/10 09:27:25.98
>>544
ソ連軍のアフガン侵攻とか米軍のベトナム戦争見れば国力や軍事力で勝ってる=戦争に勝利じゃないの分かりそうな物だけどな

547:名無し三等兵
14/02/10 11:49:33.43
>>546
元寇とアフガン侵攻とかベトナム戦争じゃ戦争の推移が全く逆だけどな。
ソ連軍もアメリカ軍も個々の戦闘では勝利して敵国奥深くに侵攻しながら戦争の長期化に
耐えられずに撤退。
一方の元寇は戦闘で惨敗し日本内部に全く侵攻出来ないまま短期間で撃滅さされてる。
明らかに弱いモンゴル帝国が国力や軍事力で遥かに勝る日本に間違って攻め込んじゃった戦争。

548:名無し三等兵
14/02/10 13:11:07.78
北九州は古代から肥沃な土地で産業が発展し交通網も食物生産量も人口も高かったからな
奈良時代からの防人制度のノウハウもあり戦力の集積地に突っ込んだ元軍は下手打った

549:名無し三等兵
14/02/11 03:21:56.80
アフガンやベトナムと比較できるのは秀吉の遠征だろう
元寇は戦場での戦闘力差で跳ね返された

550:名無し三等兵
14/02/11 03:23:58.12
日本がモンゴル帝国に国力や軍事力で遥かに勝っていたとかw
当時の日本が中国にどれだけの兵力を送れたっていうだよ
元寇は兵站が伸びすぎればその先にある弱い相手にも勝てないという例
日本は元の中心地からは間に海があるうえに遠過ぎた

551:名無し三等兵
14/02/11 03:28:54.29
秀吉の朝鮮出兵と比べても元軍ボロ負けすぎる

552:名無し三等兵
14/02/11 03:34:34.49
時代が違うし朝鮮出兵は鬼門の着上陸戦を大した抵抗を受けずに成功させたからな

553:名無し三等兵
14/02/11 03:38:08.90
文永の役は上陸完了後、弘安の役は海上でぼこられてるが

554:名無し三等兵
14/02/11 03:41:58.39
文永の役はそもそも兵力が少なかったろ
弘安の役当時の海戦でどれだけ損害与えられたって言うんだよ
2倍の兵力の相手と野戦になったらただじゃすまんぞ

555:名無し三等兵
14/02/11 05:57:52.36
>>550
九州上陸して僅か1日で負けたくせに兵站とか関係ないだろ
そもそも元の中心大都から戦場となった九州北部までの距離なんて
鎌倉から戦場までと大して変わらん
モンゴル軍の遠征としては超近距離の作戦

556:名無し三等兵
14/02/11 22:47:55.16 ZLBdxERI
>>554
4万って当時の基準で考えたら、一国を滅ぼすには十分な兵力だったんですが。
実際パガン朝はこの半分の兵力で滅ぼされてるし

557:名無し三等兵
14/02/11 22:51:35.59
>>550
カラコルムから出発して、バグダッドやキエフを簡単に征服しちゃった国らしからぬ言い訳やな>兵站ガー

558:名無し三等兵
14/02/11 22:57:52.90
とはいえ、モンゴル帝国が日本を征服するのには、どのくらいの兵力をつぎ込めば良かったのか。
14万でも駄目だったという結果からすると、30万とか50万とかの冗談みたいな数字になるのか?

559:名無し三等兵
14/02/11 23:47:54.22
文永の役って日本側が数的劣勢の状態で突っ込んでるよな

560:名無し三等兵
14/02/12 19:17:29.67
>>558
30万とか50万になると、それこそ兵站が持たなくて自壊しそうだな

561:名無し三等兵
14/02/14 15:50:04.37 EnDGQoyd
Wikipediaの元寇の記事がすげー充実してきたな。
あとは英語出来る奴が英語版へ翻訳してくれれば完璧なんだが。

562:名無し三等兵
14/02/14 18:16:46.05 IFBsc27V
三国志オタだけど、昔の一軍の規模は15000人
30000人からが大軍
当時最大兵力を投入したのが赤壁で23万人
人口的には余り変わらんから、14万って1000近い軍船を使う大軍だぞ

563:名無し三等兵
14/02/14 22:11:33.15 IFBsc27V
あと、あいつら水軍の訓練十分にしてたんかな?
対馬を拠点にして、そこで訓練してれば多分10万でも大丈夫だった

564:名無し三等兵
14/02/14 23:54:48.21
>>563
水軍の練度については何の問題も無い。
東路軍は元寇の前に三別抄との戦いで上陸作戦経験してるし、江南軍も南宋水軍を
何度も撃破してる。
当時世界最高レベルの海軍14万が鎌倉幕府軍にフルボッコにされったってこと。
元寇で練度の高い海軍が壊滅したせいでモンゴル帝国は2度と大規模な海軍作成が
出来なくなったけどね。

565:名無し三等兵
14/02/18 02:20:45.72
>>555
距離が同じなら兵站への負担も同じなのかよw
そんなトンデモ世界ならインパール作戦ももう少しましな結果になってただろうな

566:名無し三等兵
14/02/18 03:10:50.72
>>565
実際には海運が利用できる元寇って兵站の負担はモンゴル軍の数ある遠征でも
最少クラスだろうな

567:名無し三等兵
14/02/18 04:52:08.36
>兵站の負担はモンゴル軍の数ある遠征でも最少クラス
中国制覇した元が戦争全体で14万しか動かせなかったのにそれはないだろ
1つの戦場としてみれば多いけど(金がモンゴル軍に決戦を挑んだ三峰山の戦いで15万
南宋が滅んだ崖山の戦いは25万とか)中華王朝の動員力は半端ない

568:名無し三等兵
14/02/18 05:51:45.24
>>567
三峰山の戦いの15万も崖山の戦いの25万もモンゴル軍の兵数じゃないじゃん

569:名無し三等兵
14/02/18 06:18:52.80
元寇の実際の戦況はどうだったのか知りたくてこのスレに辿り着いたが漢文も古文もミリ知識もない自分にはいささか難解だった
最近はへんなイデオロギーやマルクス史観から比較的自由な研究者が増えてきたそうなので、
その辺りの最新研究に基づいた一般書籍が出てないかと調べたら
新井孝重著『戦争の日本史7蒙古襲来』というのが目についた。

こいつはスゲェ…21世紀にもなってこんな見事な自虐史観バリバリなのにお目にかかれるとは…
モンゴルage酷いけど不当に日本おとしめない分、杉山正明が良心的に見えたわ
しかも著者経歴みたら経済学部?そこで般教日本史でもやってんの?つまり専門研究家じゃない?
吉川弘文館は自分の中では硬派で堅実な本出す所だと思ってたんだけどなあ…なんでこんなのに書かせてんだよ…

570:名無し三等兵
14/02/18 07:20:04.18
>>568
元軍は全てモンゴルの遊牧民で構成されてるとでも思ってるのか
江南軍とか実質南宋軍だろ

571:名無し三等兵
14/02/18 07:26:51.94
最近のでは呉座勇一著『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』
が比較的まともだった。
あくまで比較的まともレベルでこのスレ読んでる者から見れば真新しいこと
書いてるわけじゃないんだけど。
「下剋上」は本当にあったのかって副題見ればわかるように脱マルクス史観
みたいな立場の研究者なのね。
今までの元寇研究のあまりにも滅茶苦茶な部分を、ようやくおかしいと言える
研究者の本が一般書籍にも出だしたって感じ。

572:名無し三等兵
14/02/18 11:52:09.79
>>570
いや、三峰山の戦いも崖山の戦いもその数字は敵側の兵数で
モンゴル側の兵力は三峰山の戦いは4万、崖山の戦いに至っては2万やで。

モンゴルの軍事作戦は確か南宋のジョウヨウ要塞を攻略した時が最大規模で
弘安の役はそれに継ぐ規模、当時としては史上最大規模の上陸作戦だった。

573:名無し三等兵
14/02/24 21:43:32.04
杉山正明⇒旧南宋軍で優秀で戦闘力に富む兵は中央アジア戦線に投入され、
     残りモノの弱兵が第二回日本遠征軍を編成した。

現実には⇒中央アジア戦線から兵力を引き抜いて第二回日本遠征軍を編成した。

元史/巻011 世祖八 十八年夏四月甲午,賜征日本河西軍等鈔。

574:名無し三等兵
14/02/26 20:55:19.53
自分が一番詳しいと思ってそうな細川重男とかも元寇に関しては旧態依然の認識のままだな

575:名無し三等兵
14/02/26 22:45:46.40
佐藤鉄太郎氏が何年も発表してないことが気になる
もしかして学界追われた?

576:名無し三等兵
14/02/26 22:53:33.52
あの辺りの海域って現在の漁師の方も危ないっていう場所らしいですね

577:名無し三等兵
14/02/27 20:31:57.30
>>575
現世から追われた

578:名無し三等兵
14/03/01 00:30:08.95
>>575
ここ四年くらいは特に動きないね。
つっても一万円もするような分厚い本なんて、そう何回も書けないけど

579:813
14/03/01 08:29:04.03
>>495
今更ですが、「本」=「ほ」の仮名として使われているとのこと。
帆柱で正解です。

日本思想大系21『中世政治社会思想 上』所収
『竹崎季長絵詞』p.423
岩波書店、校注担当は石井進

580:名無し三等兵
14/03/05 07:13:16.78
蒙古襲来絵詞の海戦の場面に描かれてる元軍が江南軍だとした場合、
問題になるのは弁髪の兵士が多さ。
弁髪はモンゴル、契丹、女真の習慣だからね。
江南軍には旧南宋兵以外の兵士もかなりの割合で含まれていたことになる。

581:名無し三等兵
14/03/05 07:27:03.71
弁髪だと出世しやすいとか?

582:名無し三等兵
14/03/05 10:20:22.58
海戦に不慣れな兵が多かったのは分かる
ただどうやったら上陸後に元は幕府側に勝つことが出来たんだろう?
そもそも元の最終的な戦略目標はどこにあったんだろう・・・やはり鎌倉?
現地に通じた人間もいなかったはずだしどうやって上陸後に展開していくつもりだったのか謎

583:名無し三等兵
14/03/05 11:01:21.80
>>582
最終的な戦略目標は天皇の身柄確保でしょ。
ホラズム国王ムハンマドやハンガリー国王ベーラ4世への執拗な追跡見れば
モンゴル軍が日本に対して天皇の身柄確保以外の勝利条件を設定してたとは
考えられない。

584:AV狂の詩
14/03/05 22:34:40.77 l4dZ9F11
元寇に有関心だけど知識はたいしてないので、
直接関係ないAV論を書きましょう

現在のAVは面白過ぎますよね
スクリーンを通じて女優をどんだけ見てきたか分からないほどです


70~80年代は、本当に女がお高かった

吾妻ひでおのマンガでは、主人公の高校生がとなりの美少女にやらしーことをしかけると、コテンパンに叩きのめされます
当時のマンガは似たようなパターンが多かった
女がとにかく強い
また、お高い

あるいは、女性上位なラブコメ
マンガがそうなってるのは、実態を反映してます

ボクは当時、そういった女性上位な文化が、また世相が大嫌いでした
そんな中、最も女性上位傾向から遠いカルチャーは、アイドル文化でした
アイドルは、男性に媚びを売ってる存在だったからです

90年代中盤に女性上位な文化価値がガラガラと瓦解したときは本当におどろきました


AVの本質は、
1 セックス調教された女優が何でもしているさまを写し出したドキュメンタリー
2 AVという制度を利用して製作者がやりたい放題やってるドキュメンタリー

…という点にあり、その意味でアイドルAVも企画AVも同じです

585:名無し三等兵
14/03/05 22:36:44.91 qkAfIyvg
何かネタがあるのかと思って最期まで読んでしまったorz

586:名無し三等兵
14/03/05 22:47:52.93
本来なら「海戦に不慣れ」の基準って敵軍との相対的なものだろ。
三別抄や南宋海軍相手に海戦経験してるモンゴル軍が、壇ノ浦以来約100年も
本格的な海戦の経験のない鎌倉武士に負けた言い訳に「海戦に不慣れ」って
おかしくない?

587:名無し三等兵
14/03/07 10:29:34.88
日本の言葉や事情に通じた人材とかいたのかな当時の元って
中国大陸ならまだ寝返ったやつとか雇えば現地の様子よくわかるだろうけどさ

588:名無し三等兵
14/03/07 22:01:08.95
>>587
当時の元は日本の言葉や事情に通じた商人とかから詳細な情報を得ていたよ

589:名無し三等兵
14/03/13 11:30:02.50 GmoTt7nP
スレチだがいつの間にか「応永の外寇」がかなり朝鮮寄りな記述になってた件

590:名無し三等兵
14/03/13 12:39:27.11 qNtKAsXm
どこの?

591:名無し三等兵
14/03/13 13:40:18.52
モンゴルって大平原を戦うんだろう?
そこで機動性を発揮する。

でも、日本列島には大平原なんてない。国土の8割が山岳地帯。
その山々には数千の砦があり、
しかも、人口密集国で、20万を超える大軍と戦わないといけない。
また、日本は島国なので、モンゴルからの兵站の確保が困難。

592:名無し三等兵
14/03/13 13:46:16.31
遊牧民なんて兵站なんかたいして考えてないだろ
元々略奪のために戦争してた連中なんだし

593:名無し三等兵
14/03/13 13:55:48.30
まぁ橋頭堡も作れなかったんだから山がちの地勢も補給の困難さも大して関係なく負けたんだけどな

594:名無し三等兵
14/03/13 13:56:43.81
モンゴルって人口が少ない。だから、兵力は多くない。
だから、一回では、相手を屈服させられないので
何度も攻撃をしかけ、くるしくなると、モンゴルの大平原に逃げ込み
また、攻撃態勢をととのえて、また、奇襲攻撃をかける。
その繰り返しを何度でもやる。
相手がくたばるまでやる。

一方、中国側はモンゴルを攻撃しようにも
モンゴル人は遊牧民で定住型の都市を持たないので
生活基盤事、大平原に逃げ込むので、攻撃しようがない。

595:名無し三等兵
14/03/13 14:01:50.36
逆に上陸作戦成功してたとしても先の見通しは暗かったとは言える

596:名無し三等兵
14/03/13 14:36:05.69
文永の役で陸戦での戦闘力不足を露呈しちゃってるからね

597:名無し三等兵
14/03/13 15:19:02.84
つーか元が情けない
古代日本ですら海渡って着上陸成功させてるのに

598:名無し三等兵
14/03/13 15:30:36.97
>>591
南宋征服のときは蒙古騎兵に頼らない編成にしたみたいだし、
雲南大理経由でビルマまで征服してるから、もし日本側の状態が悪ければ
何とかされちゃう可能性もあったかもよ
でも雲南遠征では連れてった馬の殆どが死んだらしい

>>589
Wikiのソースがあっちの国の文献だらけでワロタ

599:名無し三等兵
14/03/13 16:18:28.45 GmoTt7nP
>>590
Wikipediaの応永の外寇の記述。
こっちも用心しとかないといつ書き換えられるかわからんな

600:名無し三等兵
14/03/13 18:47:27.51
ネトウヨ警報!
ですがから出てくるな

601:名無し三等兵
14/03/13 19:29:54.02
>>600
日本語でおk

602:名無し三等兵
14/03/13 20:25:06.92
むしろブサヨが巣から出てくんなって話だよ。
お前らは大人しく近代史で南京ガー慰安婦ガー731ガーって言っときゃいいんだよ。

ブサヨが古代、中世、近世にまでイデオロギー丸出しで出しゃばってきたせいで
今までどんだけデタラメな説が出回ったと思ってんだよ

603:名無し三等兵
14/03/13 22:58:50.25
まぁ元寇に関して言えば戦前の右翼と戦後の左翼が見事にコラボレーションしてるけどな

604:名無し三等兵
14/03/13 23:14:23.96
元軍に関してはもっと強くないとおかしい的な補正入るからね
おまえらも最初に経緯知ったときはアレ?ってなっただろ

605:名無し三等兵
14/03/15 08:55:43.72
元軍は南宋軍と高麗軍中心の編成。
結局、日本の殆ど上陸できず
船の中に二か月間停泊したまま、食料がつき、撤退した。
その帰路の途中に突風で沈没。

606:名無し三等兵
14/03/15 08:58:52.00
モンゴルの遊牧民って
軍隊と生活基盤が一体化している。
彼らは生活基盤事、移動して暮らす。
定住型の都市をもたない。

中国がモンゴルを攻撃しようにも、モンゴル人は生活基盤事
広大なモンゴル平原の中を移動しまくるので
モンゴル人の生活基盤を破壊しようがない。

607:名無し三等兵
14/03/15 11:48:14.33
>>605
元軍は南宋軍と高麗軍中心の編成というのは嘘。
高麗軍と南宋軍は補助戦力で主力はモンゴル軍だよ。

608:名無し三等兵
14/03/15 11:51:39.31
>>607
動員数を見たら、高麗軍と南宋軍が多い。

609:名無し三等兵
14/03/15 11:55:24.90
>>608
動員数を見たら、高麗軍が戦力に占める割合は文永の役が4分の1、弘安の役は14分の1。
主力は普通にモンゴル軍な。

610:名無し三等兵
14/03/15 12:40:35.66
どっちも1万しか出さなかったってこと?
ずいぶん少ないな高麗
言い出しっぺのくせに

611:名無し三等兵
14/03/15 13:58:09.93
元寇のときのモンゴル軍って悲惨な。
二か月間、ずっと狭い船の中で暮らしたんだぜw
博多沖でw
そのうち、食料もなくなり、
船の中は兵がする小便やうんちで悪臭が漂っていたw
風呂にもはいれず、汗臭いにおいが漂う。

612:名無し三等兵
14/03/15 14:08:43.96
そして陸には首切り取ってコレクションする事に異常に拘る猟奇殺人者どもが大挙して付け狙ってる

何地獄だよここ

613:名無し三等兵
14/03/15 14:26:54.74
ハンニバルのアルプス超えに比べればマシだろ
贅沢言うな

614:名無し三等兵
14/03/15 14:32:28.71
江南軍は平戸でちんたらしてた期間長いべ

615:名無し三等兵
14/03/15 14:43:38.56
>>610
それが,国力的に派遣可能な最大数とかなのかな?

616:名無し三等兵
14/03/15 14:56:44.39
>>610
そもそも高麗が言い出しっぺではない。
元史ではまず、フビライ自身が「我は宋と日本を討たんと欲す」と言う所から話が始まるからね。
高麗は太鼓持ちで「アイツらホント生意気っすよね。やっちゃいましょうよ」
って調子こいて煽ったら「じゃあ、お前らが船作れ」って命令されたという流れ。

617:名無し三等兵
14/03/15 18:16:14.65
日本軍は九州博多に4万の兵を動員して警戒していた。それで、東路軍4万と対峙。
この場合、攻撃側が守備側と同数くらいでは、守備側が防衛するのは簡単。

戦国時代の日本国内戦争でも、攻撃側は守備側の3倍の兵力がないと
攻撃側は守備側を攻略できないといわれていたのだから。
海外異民族同士の戦いで、しかも兵站の確保が難しい海を越えてやってくるのだから
攻撃側が守備側の5倍以上くらいの兵力はないと難しい。
つまり、博多の日本軍4万に対しては、最低は20万くらいないと難しい。

しかも、日本軍は博多の九州軍だけではなく、
この時、鎌倉幕府が
九州へ援軍として駆けつける容易をしていたのが8万以上。

元軍は結局、江南軍と東路軍とで合計14万を動員していたけど
九州沿岸部をうろちょとして二か月経過してしまっていた。
元軍が日本を攻略するのは困難。
うまくいっても、九州までがせいぜい。
でも、その後、本州から駆け付ける20万近い大軍と
兵站の確保もできないまま、敵地で戦わないといけない。

618:名無し三等兵
14/03/15 18:24:04.01
地侍の買収もしてないから内陸に攻め込んでもゲリラ戦に悩まされて戦力を集中出来ないよね

619:名無し三等兵
14/03/15 18:29:01.21
九州博多に4万もいたという客観的な史料は存在しないよ。
日本軍4万は『本土防衛戦史ー元寇』が元ネタなんだけど、
元ネタである『本土防衛戦史』自体が史料的な根拠が不明な
憶測で書かれている部分が多いことでも有名だ。

日本軍の兵力に決まった兵数は無く、戦闘が開始されると
徐々に博多に集結していったというのが実態ではなかろうか。

>この場合、攻撃側が守備側と同数くらいでは、守備側が防衛するのは簡単。

守備側が防衛するのは簡単だとしているが、博多湾に現れた元軍は日本軍が
守備しない志賀島に上陸している。そして、志賀島の元軍に総攻撃を仕掛けたのは
日本側だ。つまり、この場合は「元軍が守備側だった」ということになる。
弘安の役における戦いで日本側が守勢側だったことは一度も無く、その後の壱岐島の合戦も
鷹島沖の海戦でも常に日本側は攻勢で元軍は守勢だった。

620:名無し三等兵
14/03/15 22:15:11.30
一次史料でわかってる日本の兵力は
文永の時で総大将の少弐勢が500騎(人数に直すと2000~3000程度)という事と
弘安の時で鎌倉から遣わされた援軍が6万という事だけだからね

621:名無し三等兵
14/03/16 05:10:57.24
>>617
海は陸より兵站の確保が楽だぞ。
陸では精々2週間分の食料程度しか携帯できないけど、元軍は船に3ヶ月分の
食料を積載してた。
もし陸の戦闘で2ヶ月間も累戦して利あらずなんて状態が続いたら全軍餓死してるって。

622:名無し三等兵
14/03/16 08:01:45.16 4fqZUdVT
>>621
その当時のことを考えろよw
海が楽とえるのは、航海技術が発達してからだ。
それでも、たいへん。

3ヶ月分の食料でどうやって戦うんだw
海を越えてといってもだ、結局は日本を攻略しようと思ったら
日本に乗り込んで陸地戦をしないといけない。
そうなったら、今度は簡単には海を越えて本国には逃げられない。

大陸での戦いだと、モンゴル軍は形成は無理だとみるよ
すぐにモンゴル高原に逃げ込めたけど
今度は、そうはいかない。

623:名無し三等兵
14/03/16 08:16:29.85
いや、荷物運ぶのは陸路より海路の方が楽だろ
それは今も昔も変わらん航海技術?
5世紀の時点で海越えて半島の一部を占拠できる程度の技術はあったわけで

624:名無し三等兵
14/03/16 08:30:58.06 5Tl3rBVJ
>>622
ばかす

625:名無し三等兵
14/03/16 08:47:48.90
滅茶苦茶適当に考えてみる。
一人一日の食料を500グラムとして、4万人だと1日20トン
(水とか燃料を考えたらもっと増えそうだけど,とりあえずの値ということで)
3ヶ月分の食料を準備したということは、20トン×90日=1800トン

これを馬車とかで運ぼうと思ったら、牛馬1頭で2トン運べるとしても
900頭の牛馬が必要で、この牛馬の餌が一頭一日あたり10キロか
そこらは必要で……やっぱり船に積みましょうよ。

626:名無し三等兵
14/03/16 09:23:30.60
輸送の部分だけに注目すれば、馬車よりも船ってのは正しい。
継続して戦争しようとすれば、
船で往復する為に敵地にて港を確保する必要があり、
いったん海に出ると容易に補給ができない海路よりも
道中の村で補給が可能な陸路の方が有利

で、元軍は数か月分の食料を積んで攻め込んだらしいけど、
後続の補給とかがあったかどうかが重要。
無ければ積み込んだ物資だけで戦争して勝利し、敵地を確保して補給しなければならない
これがどれ程困難なのかを考えずに>>622は輸送の部分だけしかみてない

627:名無し三等兵
14/03/16 09:51:55.85 4fqZUdVT
>>626
>これがどれ程困難なのかを考えずに>>622は輸送の部分だけしかみてない

>>621の間違いだろう?

628:名無し三等兵
14/03/16 09:53:13.22
途中の村で補給って、事前に物資集積してないと難しいのでは?
>>625と同じ原単位(食料は一人一日500g)で考えると、
一人1年分の食料は約0.2トン。4万の兵が1日に消費する食料を
20トンとすると、100人の村人を一年養える量の食料を提供して
ようやく軍隊1日分。例えば「10日分の食料を出せ」と言われて
簡単に出せる程の余剰生産力を持つ村が,そうそう有るだろうか?

629:名無し三等兵
14/03/16 09:56:15.48
だから、5世紀の日本はそれをやったってば

630:名無し三等兵
14/03/16 11:05:36.12
>>626
>積み込んだ物資だけで戦争して勝利し、敵地を確保して補給しなければならない

これって陸路の侵攻でも同じだよ。
陸路だと後続の補給なん不可能なわけで、むしろ海路より条件厳しい。
その上で更に積み込んだ物資は海路の方が陸路より桁違いに多いんだし。

海が戦争の継続にどれだけ有利に作用するかは十字軍の遠征や百年戦争が約100年、
レコンキスタに至っては約800年も継続してることから明白。

631:名無し三等兵
14/03/16 12:19:52.99
軍板民は補給とか兵站とか近代的軍事常識に洗脳され過ぎ
この時代、現地調達して自活が基本だから

632:名無し三等兵
14/03/16 12:54:41.14
いや、だからさ
陸路だって戦略目標落とさなきゃ現地調達なんかできないっての
途中に略奪できる都市あったらそこが目標になっとるわw

だから、持ってきてる物資だけで目標落とさなきゃならんのは陸路も海路も一緒
その上で、海路の方が荷物多く積めるから有利だし
橋頭堡さえ築けばどんどん運べるからさらに有利

633:名無し三等兵
14/03/16 12:59:06.65
>>632
そういえば,何故元軍は、対馬とかを長期間占拠して物資や兵を
集積しなかったんだろう?

634:名無し三等兵
14/03/16 13:09:02.31
いや、したよ
そして満を持して九州上陸
かと思ったら撃退されまた上陸したら撃退されの繰り返し
で、海上ウロウロしてたら台風であぼーん

635:名無し三等兵
14/03/16 15:43:01.68
>>634
てことは、台風が来なくて、撃退され続けるのを長期間やられてたら、
日本側も危なかった可能性があるってこと?

636:名無し三等兵
14/03/16 16:02:25.39
>>635
もう少し長く戦ったかもしれないけど、逆転は難しいんじゃないかな。
初期の戦力差が元軍撃退可能な程度に日本有利だったのだろうし
自分の土地で来た敵を撃退し続ける日本側と、攻め込んだり撤退したりを
繰り返す元軍の消耗速度を比べたら、元軍の方が早く疲弊するだろうし。
さらに、日本側は他地方からの増援を頼れるのに対して、元軍は
疫病その他で戦わなくても消耗していく。

文永の役では一日で撤退したのに、ほぼ同規模の東路軍が粘ったのは
江南軍という大規模な増援に期待していたんだろうけど。
……東路軍は対馬か壱岐に居座って、江南軍と合流後に博多を攻めるべきだった
のではなかろうか。

637:名無し三等兵
14/03/16 16:09:52.65
>>635
長期の襲撃作戦をした場合、どうしたって天候の影響は避けられない
台風やり過ごしたって冬に入れば日本海は荒れるわけだしな

倭寇の逆パターンで沿岸部を荒らす以上は中々難しいと思う

638:名無し三等兵
14/03/16 16:13:03.36
文永の役は撃退されて帰り道に台風
弘安の役は台風じゃなくてただの悪天候

639:名無し三等兵
14/03/16 16:16:15.51
>>637
夏に来ても冬に来ても悪天候。
日本海を渡っての侵略は地獄ですな。

>>638
文永の役って、晩秋から冬になりかけの時期じゃないでしょうか?
なのに台風?

640:名無し三等兵
14/03/16 16:17:05.73
あ、逆か

641:名無し三等兵
14/03/16 16:17:41.63
増援艦隊送る計画ってあったんかね

642:名無し三等兵
14/03/16 16:22:59.00
大陸に十分な兵がいても。増派は相当に困難でしょう。
海上輸送力を限界まで動員した作戦のようですから、
増援を送るには、
1 博多あたりを占領して兵を陸揚げする
2 船は大陸に戻す
3 帰ってきた船に援軍を乗せて、博多まで運ぶ
というピストン輸送する必要があります。

643:名無し三等兵
14/03/16 16:33:55.12
大きな港町確保して第二陣が来るまでの拠点を確立できないとな
そしてそれに失敗した時点で詰んでしまったと
ずいぶんと不安定な侵略作戦ではある

644:名無し三等兵
14/03/16 16:37:22.95
とはいえ、他にもっと安定した作戦があったかというと
……九州の有力武士団を内応させて港を押さえるくらいしか
思いつかないのが正直な所。

645:名無し三等兵
14/03/16 17:06:08.42
文禄の役であっさり釜山確保して2ヶ月後には平壌まで進撃した小西隊は
東路軍より兵力少ないわけで、元寇も侵略作戦としては別に普通だろ。
戦闘で勝てない相手を征服できるような都合のいい作戦なんて無いのが当然。

646:813
14/03/16 18:52:34.60
「風待ち」「志賀島」で検索して下さい。
志賀島でよい風向きに変わるのを待つのが、古来からの航海でした。

『老松堂日本行録』でもいいけど。
石築地はないけど、中継港としては重要な志賀島。

647:813
14/03/16 19:06:30.11
元史 至元十八年五月条に、
高麗の金州で東路軍江南軍が合流
→それから侵攻
というプランが「風と海流が不便なので」やめたとあります

648:名無し三等兵
14/03/16 22:19:57.12 4fqZUdVT
というか、14万もの兵を動員して
2か月かかっても、九州沿岸部の小さな島を占拠しただけだろう?
平戸島と博多湾沿岸で、2か月間、うろちょろしていたわだから。
それで、どうやって、日本全土を征服するんだ。
九州すら攻略できないのに、四国、中国、畿内、関東へと
どうやって攻め込むのかな?
兵站は追いつかない。
また、大陸のように大平原あるわけではなく、国土の8割が山岳地帯で
狭い道を攻めのぼらないといけないし。
その周囲の山々には軍事要塞があり、あちことにが敵だらけだし。

よって、兵站の確保が困難になってきたから、2か月たったところで
帰路しようとした。その途中で暴風雨で沈没。

649:名無し三等兵
14/03/16 22:40:05.61
明史には明の時代に三回も日本を攻める計画が持ち上がったけど
いずれも「モンゴルですら勝てなかったのに、倭寇で精一杯な俺らが勝てるわけないじゃん」って取り止めになってる。
そんだけ、この遠征の失敗はトラウマになったんだろうなあ

650:名無し三等兵
14/03/16 23:41:35.53
>>644
あるいは、最初の攻撃は次回以降に内応させる事が目的だったかも
元の武威を示して、抵抗したらひどい目にあう→2回目は動員に消極的になる
→2回目で圧勝、あたりを狙ったとか。

結果は、壱岐対馬などで小兵力の部隊は粉砕できたけど、そんなのは当然のこと。
九州で勝利できなければ武威を示すにならんかったということかな。

651:名無し三等兵
14/03/17 05:05:23.92
九州で勝利できなければ武威を示すにならない。
九州で勝利できるなら最初の攻撃で征服すればいいだけ。
結局、最初から最低でも九州ぐらいは征服する目的だったとしか考えられない。

652:名無し三等兵
14/03/17 14:45:45.36 98OZvmkB
いつの時代も兵站の確保は難しい。
兵隊というのは人間だから、当然、飯を食わないと死ぬし
また、糞も小便もするし、衣食住が必要なんだよ。
そういうものを数十万単位で、何か月間も遠征させるとなると
いかに大変か。

653:名無し三等兵
14/03/17 16:49:08.93
三十年戦争のヴァレンシュタインは、兵数が多ければ多いほど兵站の確保は
楽だと言ってる。
九州地方はかなり豊かな地域だから、戦闘に勝ちさえすれば現地調達で十分
やっていけるだろ。

654:名無し三等兵
14/03/17 18:26:10.30
土鍋がこっちに来たか

655:名無し三等兵
14/03/17 19:15:14.51
>>566
兵站で海運が利用できるためには積み込み地と荷降ろし地確保しなければならないわけで
元寇ではか言うんだから兵站楽だなんてとてもじゃないが言えないぞ
元寇は海軍+上陸部隊+補給物資だから兵站の負担は陸上よりきつい

656:名無し三等兵
14/03/17 19:52:41.95 98OZvmkB
>>653
旧日本軍のアホな軍部みたいなこと言うなw

現地調査の難しさを知らんのかw?

657:名無し三等兵
14/03/17 20:11:35.95
対馬とか平戸とか長崎側の島じゃ積み替え無理なん?

658:名無し三等兵
14/03/17 20:14:26.30
逆に元軍で現地調達できない消耗品となると
矢毒とかてつはうとかそのぐらいだろ?

659:名無し三等兵
14/03/17 20:16:22.74
>>658
お前は何を言ってるんだ

660:名無し三等兵
14/03/17 20:24:09.91
というか、皆殺しにして根こそぎ略奪という手段以外で
数万の軍隊に行き渡る食料が有るとなると、数万以上の人口を持つ
中世としては結構な都市に限定されるんじゃないか?

人口千人の町を根こそぎにしても、得られる食料は最大で千人の1年分程度
⇒4万人なら40分の1年=9日分くらいにしかならない。

人数が多い方が現地調達が容易って……畑作るとかの話なのかな?

661:名無し三等兵
14/03/17 21:45:20.79 98OZvmkB
中世の町って、博多でも10万人だけど、
それらの街の住人が、平穏に食料を渡すわけないし
100歩ゆずって、おとなしく外国の侵略軍に食料を渡すとしても
その街は自給自足しているのではなく、
広範囲の農村などから食料を調達するわけだから
侵略された街へは、食糧調達網が崩壊するのに、
どうやって食料を入れるのか?

戦争では兵站の確保が常識中の常識。
大軍になればなるほど、現地調達は不可能になる。
日本国内戦争である関ヶ原や大坂の陣などでも、現地調査に限界があるんだよ。

たとえば、大坂の陣なんて、ほぼ徳川幕府が全国制覇していて、
65万石の豊臣家を攻めたんだけど、豊臣家が大坂城に立てこもって
意外に頑張ったので、20万の幕府方が兵站の確保に苦労して
徳川家康は焦ったんだよ。
国内ですら、20万の大軍の食糧補給を確保するのに、大慌てするのに。

662:名無し三等兵
14/03/18 12:29:51.99
>>661
>それらの街の住人が、平穏に食料を渡すわけないし

おいおい何のための武力だよ・・・
モンゴル軍に平穏に食料を渡さなかった街の住人は皆殺しにされるだけ。
モンゴル軍が去った後で侵略された街への食糧調達網が崩壊しようが知ったこっちゃない。
占領した街で食糧を現地調達して、その食料が尽きる前に次の街を攻略する。
モンゴル軍はそうやっていくつもの国を滅ぼしたんだよ。

663:名無し三等兵
14/03/18 12:44:50.30
>>661
元軍14万人がみんな博多に駐屯してたらたしかに現地調達は成り立たないだろうな
実際は広範囲に分散して、南宋人は農業すら始めるだろうけど

664:名無し三等兵
14/03/18 14:22:46.34 sOVOePW9
>>663
どうやって、短期間で農業ではじめて、生産を上げるんだよw

その間、戦い続けないといけないんだぞw
土地勘ないところで、自分たちよりも大軍と戦わないといけない。

665:名無し三等兵
14/03/18 14:25:00.43 sOVOePW9
日本国内戦争ですら
豊臣秀吉とか徳川家康が、20万以上の大軍で遠征するのに
兵站の確保のために、ちゃんと食料を用意していくのに。
現地調達はそんなに簡単ではない。

666:名無し三等兵
14/03/18 14:36:18.12
モンゴル軍って大平原では強いけど
実は市街戦は、そんなに強くない。
日本なんて、山ばっかで大平原ないしな。

667:名無し三等兵
14/03/18 14:45:06.62
>>665
いや、モンゴル軍は基本現地調達だよ。
そもそも兵站の確保って、どこを根源地にして、どの程度の物量が必要で、
どんな輸送手段使ってたと考えてるの?
ちょっと計算すれば、モンゴル軍の軍事行動を支える手段は、物理的に
現地調達しかありえないって分かるから。

668:名無し三等兵
14/03/18 14:50:36.73
モンゴル軍は何のために馬やら羊を軍隊に同行させてんだよw
その意味でも海上進攻はモンゴルの兵站に大きな負担なんだよな

669:名無し三等兵
14/03/18 15:03:08.22
>>668
羊って動物は1日の行動範囲が6キロ程度でしかなく、そんなもの連れて戦闘
なんて不可能なの。
モンゴル軍は草原地帯なら遊牧生活しながら移動できるけど、農耕民族の国を
征服するためには草原地帯を出なくちゃいけないじゃん。
足手まといになる羊などの家畜は草原地帯に残して行かなくちゃいけないし、
そこから先は現地調達しか食糧確保の手段は無い。

670:名無し三等兵
14/03/18 15:26:04.88
>>669
行動範囲について根本的に間違えてるぞ。ユーラシアの草原地帯はおろか
イベリア半島やギリシャ半島でも普通に羊の大移動してますがな

671:名無し三等兵
14/03/18 15:31:00.80
URLリンク(ja.wikipedia.org)
羊の移動速度は一日20~30キロか。十分軍隊についていけるな。水も草も騎兵が行ける所なら十分ついていけるし

672:名無し三等兵
14/03/18 15:48:54.25
モンゴルは遊牧民だから、生活基盤事
戦地へ遠征するんだよ。
彼らは定住生活ではなくて、移動しながら生活しているわけだから。
常に兵站を確保している。

でも、日本みたいな島国へ攻め込むとき
こういったモンゴルの戦略が破たんするだろうw?
海を越えないといけないから。

673:名無し三等兵
14/03/18 15:52:36.45
モンゴルが強かったのは、少ない人口の割には動員兵力が多かったのと
移動生活している遊牧民だから、生活基盤事、戦地へ遠征できるし、
また、敵に攻撃されると、生活基盤事、モンゴルの大平原に
逃げ込むことが出来た。
そういう意味で、モンゴルは兵站の確保が容易だった。

でも、こういったモンゴル得意の戦術は
日本などの島国に攻め込む場合、困難になるんだよ。

674:名無し三等兵
14/03/18 15:53:40.29
実際の所、元軍は何ヶ月分くらい食料持ち込んでたんだ?
補給と言うより初っぱなに持ち込める量が圧倒的に多いのが海路の強みだが

675:名無し三等兵
14/03/18 16:11:04.26
モンゴル・遊牧による草地の持続可能な利用・管理
URLリンク(www.env.go.jp)

P4にヒツジ 行動半径は一日6kmって書いてあるよ

676:名無し三等兵
14/03/18 16:17:23.58
行動半径って表現が気になるな

677:名無し三等兵
14/03/18 16:30:45.68
>>675
行動半径6キロなら移動牧畜してない状況でも一日12キロ以上普通にうろついてることになるんだが大丈夫か?

678:名無し三等兵
14/03/18 16:38:41.22
>>673
生活基盤事、戦地へ遠征なんてしないよ。
戦地でのモンゴル軍の編成についての記録には家族や家畜なんて含まれてないじゃん。
生活基盤事は後方の草原地帯に残して、戦闘員だけが戦地へ遠征する。
したがって兵站は現地調達に頼るしかない。

679:名無し三等兵
14/03/18 16:42:57.96
>>678
トルコ・モンゴル系の遊牧民が遠征行くとき一切合財連れて行くのは常識だぞ……
だからこそバトゥなんかも戻らずにそのままキプチャクに定着したわけで

680:名無し三等兵
14/03/18 16:45:41.20
アウルクについて全く知らない方がモンゴルの兵站について一生懸命語ってたとはw回線切って吊ってこいよ

681:名無し三等兵
14/03/18 16:56:37.99
>>678
読め
URLリンク(iyokan.lib.ehime-u.ac.jp)

682:名無し三等兵
14/03/18 17:01:17.65
URLリンク(iyokan.lib.ehime-u.ac.jp)
元についてはこっちの方がはっきりしてるか。どこが兵站は現地調達に頼るしかないんだ?

683:名無し三等兵
14/03/18 17:15:53.40
現地調達?
何も行動しないでターンエンドすると5%くらい回復するんだろ?

684:名無し三等兵
14/03/18 17:21:17.29
>>678-679
後方・戦地の定義がずれてそう

685:名無し三等兵
14/03/18 17:37:47.17
南宋攻略時みたいな非モンゴル人特盛りの混成部隊だと思うんで上の議論とは余り関係ないと思うけど、
一応モンゴル軍も第一次ベトナム遠征では焦土作戦やられて撤退、第二次では焦土作戦の上に補給部隊も撃破されて撤退中に敗北してる

別に現地調達っつっても、都市を降伏させれば備蓄を供出させてもいいし、諸侯が降伏or協力すればより大規模な補給にも資する
ちょっと特殊な形式だが、ブランデンブルク公とかにタカりまくってフェルディナントに抗議されたヴァレンシュタインみたいなんもいるし
焦土作戦の怖いところは、これが機能しなくなる点な訳で
大北方戦争で、ピョートルの焦土作戦と補給部隊の遅れ(後に物資喪失)で現地調達の為にウクライナに転進したカール12世とか
智将は敵に食むっつーし、大概の軍隊は後方からの補給と現地調達、両方やってたんちゃう?
どっちに比重を置いてたかはケースバイケースやろうけど
元寇のときに後続の補給船団が来たのかどうかは知らない

686:名無し三等兵
14/03/18 17:50:35.82
どっちにしろ都市の制圧すらままならないなら海路も陸路も関係ない
むしろ初回に持っていける荷物が多いから海路のが有利

687:名無し三等兵
14/03/18 18:17:23.31
家畜どれくらい持ち込んでたの?

688:名無し三等兵
14/03/18 18:21:12.64
元寇が現地調達できなかったのは事実だけど、
それは「海路だったから」じゃない
単純に「戦闘に負けたから」
そんだけ

689:名無し三等兵
14/03/18 18:34:46.08
壱岐対馬での残暴が返って日本側の結束を強くしてしまったね
ユーラシア中央の民は押し並べて恐怖を撒き散らすと逃げ去ってしまう習性があったんじゃないかな
それが日本にも通用すると同じ調子で殺戮すれば恭順又は内部分裂すると勘違いした

690:名無し三等兵
14/03/18 18:45:21.90
>>689
君は一体何を言ってるんだ?妄想ならチラシの裏に書いとけ

691:名無し三等兵
14/03/18 20:03:51.46
>>606
ヤギを与えよう(植物を根こそぎ食う

692:名無し三等兵
14/03/18 22:04:20.45
>>691
普通にヤギ飼ってるわな。ヤギが問題なのは野生化や過放牧したときであって
個体数しっかり管理して飼う分には特に問題にならない

693:名無し三等兵
14/03/18 23:44:50.76
第二次世界大戦の大日本帝国の軍部も
現地調達して来いと言って、軍隊を送り出したんだよなw
そして、戦う前に大量餓死w
もう、あほかとw

日本では、今も昔も、兵站の確保への認識が甘すぎる。
それだけ、数万の大軍を遠征させるには、
衣食住の確保が必要なんだよ。
兵隊は人間なんだから。

694:名無し三等兵
14/03/19 01:33:32.79
羊ってグレイザーだから意外と食えるものが限られるんだよな

695:名無し三等兵
14/03/19 03:36:49.71
1918年に人口65万人だったモンゴル遊牧民の生活を支えていた家畜の数は、
ラクダ22万9000頭、馬115万1000頭、牛107万8000頭、羊570万頭、山羊148万8000頭。
仮に弘安の役の兵数14万人の兵站を遊牧で支えようとしたら、その約5分の1で
ラクダ4万5800頭、馬23万200頭、牛21万5600頭、羊114万頭、山羊29万7600頭が必要。
こんな数の家畜伴って軍事作戦なんて現実には不可能だけどね。

696:名無し三等兵
14/03/19 04:30:06.70
羊って1500頭前後まで牧童一人で管理するから114万頭でも1000人もいれば管理できるな
どこが不可能なんだ?

697:名無し三等兵
14/03/19 04:34:57.19
>>696
こんな数の家畜が集中したら、その周辺地域の草原をあっという間に
食い尽くしちゃうじゃん

698:名無し三等兵
14/03/19 04:50:59.01
>>697
いや、まったく。一度に全部随伴させる必要ないしその都度屠畜していくから

699:名無し三等兵
14/03/19 05:17:05.14
>>698
これってモンゴル人が毎日ギリギリの生活を営むのに必要な数だぜ。
一度に全部随伴させないなら、足りない分は当然現地調達で補うしかないよな。

700:名無し三等兵
14/03/19 05:23:08.83
>>699
牧畜の家畜の数は繁殖用と毛が少なからぬ量を占めてんだがそれまで食うのかよ
言ってる意味がさっぱり分からんぞw

701:名無し三等兵
14/03/19 05:29:47.59
>>695
おまえ、>>667だよな。>>681読んだ?読んでその主張続けんなら文盲だし
読まずに続けんなら電波だからいい加減にしとけ

702:名無し三等兵
14/03/19 05:31:04.95
>>700
生活基盤事、戦地へ遠征してたんだろ?
繁殖用と毛のための家畜も必要じゃん。

703:名無し三等兵
14/03/19 05:34:21.11
>>702
いいから>>681に目を通してこい

704:名無し三等兵
14/03/19 06:20:30.51
>>681-682
面白いなこれ

705:名無し三等兵
14/03/19 07:40:57.08
でも解答にはなってないな

706:名無し三等兵
14/03/19 07:53:16.92
>>681はコピーした奴持ってるんだけど、モンゴル軍が現地調達に頼らず、
自立して軍事行動できたという証明には一切なってないんだよね。
現地調達に頼ってたヨーロッパの軍隊にも輜重部隊は居たわけで。
>>682に至っては、平時の自国内の統治制度である屯田やイクターを兵站として
語ってて、正直ちょっと兵站に関する認識おかしくね?って感じ。

707:名無し三等兵
14/03/19 08:00:02.49
>>706
それはお前の認識がおかしいだけ。イクター制や屯田が平時の統治制度ってどんな冗談だ

708:名無し三等兵
14/03/19 08:08:08.52
現地調達しか(ここ重要)手段ないと言ってる相手にモンゴル軍(少なくとも中核の遊牧民)は生活基盤
連れて行軍してるから兵站は同時代の中では卓越してるよって話じゃないの?
でもって生活基盤連れて移動してる根拠に>>681,682あげてるんじゃ

709:名無し三等兵
14/03/19 08:09:44.89
元寇の話と一般論と混在してる

710:名無し三等兵
14/03/19 08:19:10.21
軍隊ってのは、何にも生産しない、ただ破壊するだけの
非効率的な集団なんだよ、本来は。
そんなのが、数万規模、動くんだよ。

そいつらを破壊集団として機能させようと思ったら
そいつらを生かす衣食住が必要になってくる。
なぜなら、そいつらの一つ一つは、ただの人間なんだから。
飯を食わないと死ぬし、寝ないと死ぬし、小便や糞もする。
働き続けると過労で倒れるから、適度に休まないといけない。

よって、兵站の確保は重要になってくる。
とくに大軍になればなるほど、そうなってくる。

711:ハンニバル
14/03/19 08:26:18.67
「兵站より相手が決戦に出てきてくれないことが困ります」

712:名無し三等兵
14/03/19 08:33:41.12
どこの軍でも戦闘以外の業務担当の方が人数多い

713:名無し三等兵
14/03/19 09:22:44.67
>>708
でも、史料にはチンギスのホラズム遠征やオゴデイの金国遠征の際、
生活基盤を残して出陣したと書いてあるわけだろ

714:名無し三等兵
14/03/19 09:31:09.00
>>709
元寇に関して言えば兵站続かなくて負けたってわけじゃないからな
敵地に2ヵ月もいて、何の戦果も上がってなけりゃ
兵站しっかりしてても撤退せざるを得ないだろう

715:名無し三等兵
14/03/19 12:14:08.25
弘安だと江南軍と合流する前の高麗方面軍が、兵糧あと1ヶ月分だよ!とか言ってたような
まぁ江南軍のが数多いから物資分けて貰えば問題なさそうだが
あと文永はともかく、弘安は台風来なきゃまだ粘ろうとしてなかった?

716:名無し三等兵
14/03/19 13:48:11.59
ここまで真水調達の話題なし

717:名無し三等兵
14/03/19 20:34:08.90 U0zK++C2
豊臣秀吉も15万の大軍を遠征して
3カ月経過したあたりから、兵站の確保が難しくなったな。
元寇も2カ月で兵站の確保が難しくて撤退。

718:名無し三等兵
14/03/20 00:39:20.38 itR24a1o
元寇で兵站の問題は起こってない

719:名無し三等兵
14/03/20 11:09:38.63 7xpJISpK
2ヶ月近く戦ってたのは東路軍だけっしょ
江南軍は遅れて来たから、出航からの日数でも1ヶ月半ぐらいじゃね

兵糧については、台風の後に張禧が因粮於敵以進戰って発言してるね(元史)
東路軍は江南軍と合流する前に、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来って発言が高麗史にある

720:名無し三等兵
14/03/20 19:29:34.05 ViejEQhf
>>716
その件は正直、どうやったのか想像もつかない。

721:813
14/03/20 20:07:30.28 G0HIVL+Z
『大乗院寺社雑事記』文明五年六月十七日条「渡唐船巡風[木尓]」
言い回し、漢字は現代風に改めた。
--引用
日本国より大唐国は未申(西南)の方に相(あい)当たる。
春は肥前国大島小豆浦(現・的山大島。的山=「あづち」)より船を出し、五十里北なり。
秋は同国五島ノ島(奈留浦)より船を出し、五十里南なり。
その故は、八月より二月までは北風(西北季節風)、三月より七月までは南風なり(東南季節風)。
秋風をば野分ともカリワタシとも云うなり。
--ここまで
※大陸-日本間の往来には、季節風を利用する。
 春の季節風は北寄りで、秋の季節風は南寄りである。
 春は北寄りの風に押され、南下させられてしまうので、出発地をあらかじめ北にずらす。
 五島列島まで南下せず、鷹島の西北にある的山大島で順風を待ったのである

--引用
帰朝は五月以後、未酉風(西風)船を出すなり。この風をば「マセ」といふなり。
此の「マセ」は、南風になることあり。また「左回り」とて辰巳(南東風)になることあり。
そのときは高麗島に着くことあり。
春の帰朝は大いに然るべからず云々とて此を嫌うべし(春に日本へ帰国するのはよろしくない)、風が北より吹くゆえなり。
--ここまで

※大陸→日本列島は、到着目標への「命中率」が下がる。
 本州や九州は、大陸より小さいので。

722:813
14/03/20 21:35:42.63 G0HIVL+Z
『松浦党研究』に元寇特集のある号があって、
「日本~大陸間は5~15日で渡洋できる」と書いてあったので、元ネタ探しをしていました。
所要日数の話です。

『日本考』李言恭ほか著,四庫全書収録。中華書局出版,1983
明代万暦年間の史料だが、順風を得た帆船による、大陸~日本間の所要日数の目安として。

--引用
もし東北順風を得れば、五日五夜で普陀山(舟山群島、上海の西南)に至る。
……中略……
たとひ風不便なるも、半月有余を過ぎず、已(すで)に中国に至る。
--
これは日本→大陸行きではないか、逆はどうなのか?と聞かれると、
『策彦和上入明記』では5/24に風待ち開始~6/20出発~6/26五島列島に到着
この場合は7日間で渡洋していますね。

723:813
14/03/20 22:02:05.51 G0HIVL+Z
すみません。>>722は「普陀山(舟山群島、上海の東南)」でした。

で、真水調達の話。
『日本図纂』鄭若曽。1561年。
胡宗憲の配下として倭寇対策に当たっていた人が書いたもの。

『船』(須藤利一,法政大学出版局,1968)
--引用
冬の寒いときは、まあよろしいが、
五、六月ごろなどは、水を桶の中に入れておくと、二・三日で腐り、
きわめて清冽なものでも数日も持たせておくことが出来ない。
……中略……
日本人には一つの秘法がある。
泉の水を煮ること一、二沸、これを瓶(かめ)のなかに入れておけば、
よくもって腐らないという。しかし、これも半月以上長くはもたない。
--ここまで

現代に生きている私としては、「真夏は水が二三日で腐る」というのが驚きで。
※軍事板では常識だ、というなら申し訳ない。

弘安の役の江南軍は、水が腐りやすい時期を避けたかったと思うんですが。
6/18出発(一部だけかも)というのは、書類上だけの話なのか、
それとも江南軍秘伝の方法があったのか(あるような気がする)。

724:名無し三等兵
14/03/20 22:22:06.33 ViejEQhf
>>723
真水の話、感謝です。
木の桶を使用すると、水が腐りやすいというか雑菌が繁殖しやすいのでしょうね。
沸騰させて陶器の瓶に入れるというのは、煮沸滅菌しているのでしょう。
密封が完全ではないので、長期保存までは出来ないと。

細菌対策としては、湧かして飲めば腐った水でも一応飲めます。船の上で何万人に
お茶を出せるだけの燃料があるのかは疑問ですが。

水に関してはもう一つ、単純な量の問題もあります。
一人1日1リットルの水を配給(現代の感覚からすると不十分な量ですが)したとしても
1万人に配れば1日10トンの水が必要です。東路軍は4万人が2ヶ月粘ったとして
10トン×4×60日=2400トンの水が必要です。どこかの島で給水してたのでしょうか…

725:813
14/03/20 23:48:54.25 G0HIVL+Z
>>724
ご教示ありがとうございました。
当時の木造船では、火の取り扱いに注意していたでしょうから、
「沸かして飲む」にせよ、何回も出来る方法ではなさそう。

で、追加。
水の分量。日本人の場合ですが、体格的には蒙古・高麗も同様かと思いますので。
出典は『日本図纂』鄭若曽。>>723に同じ。p.90。

--引用開始
およそ、日本船(倭寇)が来るときは、人1人について水三、四百斤、約七、八百碗を携帯する。
毎日五、六碗ずつ用い、非常に大切にして欠乏に備えている。水味は海水とは違う。
--ここまで

『日欧文化比較』ルイス・フロイス,岩波書店『大航海叢書』に収録(以下は>>723『船』の孫引き)
第十二章 船とその慣習、道具について
--引用
我々の船には長期に堪える水をいつも積んでいる。日本の船はほとんど二日毎に水を積む。
我々の船は、昼も夜も航行する。日本の船は港にとどまり、昼間航行する。
--ここまで

上にある日本船は、おそらく沿岸航法用だと思います。

726:名無し三等兵
14/03/21 07:59:49.37 GLTDAW8u
飲用水って酒じゃないのか

727:名無し三等兵
14/03/21 16:39:47.21 1GIThs+y
そういえば備前焼の甕に溜めておいた水は腐りにくいらしいな

728:名無し三等兵
14/03/21 20:03:51.88 6CJ9+rey
そういえば気泡が多く入ってて風通しがいいとか聞いたことあるな

729:名無し三等兵
14/03/22 19:34:26.61 +Vr6kumN
(あえてセンセーショナルに言えば)相撲界は現代の元寇?

730:名無し三等兵
14/03/22 21:49:40.26 uh7FSh/V
交流でしかないから違う

731:名無し三等兵
14/03/24 09:51:07.44 XkNW1k5t
そういえば英国海軍なんかは樽内に青藻とか生えてても飲んでたとか何とか

732:軍事板強制ID制式採用選挙4/19-25
14/03/30 23:19:18.73 SOCYWX1M
強制ID制仮導入ノ是非ヲ問フ投票ヲ4.19ヨリ決行セリ!総員参加セヨ!自ラノ意思ヲ示ス戦ヒニ!

【4/19~4/25までの期間、強制ID表示の是非を問う再投票を行います】

議論中失礼いたします。
皆様お気付きのように3/19に、軍事板では任意ID制から強制ID制への変更が行われました。
今回の導入は飽くまで仮導入のため、実施一ヶ月後に是非を問う投票を行います。

投票当日に向けての議論は現行自治スレにて、自治スレ他で指摘された強制ID制導入
に伴うメリット・デメリットのまとめはまとめウィキにて行っています。

自治スレッド53(ID強制表示本採用投票4/19予定)
スレリンク(army板)

軍事板強制ID制メリット・デメリットまとめWIKI
URLリンク(idtroops.wiki.fc2.com)

これらを参考に、強制IDに賛成の方も反対の方も共に、投票による意思表示をお願いします。

733:名無し三等兵
14/03/31 09:19:45.83 SMz3iAqV
腐る原因は水の中に混入してる有機物と細菌だから
木桶で輸送&保存だとあっという間だろうな

734:名無し三等兵
14/04/01 09:53:14.73 Oiy4ZQ5N
当時はまだ甕だと思われ

735:名無し三等兵
14/04/02 16:29:11.56 PY/uYyT9
しっかし、なんで元は日本、ベトナム、ジャワなんてところに手を出したんだろう?
最大最強の敵カイドゥとの決着がついていないどころか、カイドゥ側に寝返る皇族
が出たりしていた、この時期むしろ劣勢なんだけど。

736:名無し三等兵
14/04/03 00:21:18.48 u2l7SZEJ
日本は元々南宋と並ぶ攻撃目標だった。
ベトナムは一度は属国にしたのに反乱を起こしたから。
ジャワは知らん

737:名無し三等兵
14/04/03 02:21:11.83 IGaViQ1x
一つずつ勝ちきってから次ぎ行けよって思うけど
各方面への侵攻を提案する派閥があっていろいろ面倒だったりするんだろうね

738:名無し三等兵
14/04/04 16:00:10.24 PZz+1+eh
元にとって最大最強の敵は日本だよ。
例えば、文永の役と南宋侵攻作戦は同時に開始されてるけど、クビライは
そのタイミングに合わせて自分の娘を高麗王に嫁がせてる。
明らかに日本遠征の方を重視してるという意思表示。

弘安の役の際には中央アジア戦線から兵力引き抜いて江南軍に投入してるし。
カイドゥとの決着より日本遠征が大事ってのがクビライの判断なのね。

739:名無し三等兵
14/04/04 16:43:35.95 W9yZFCQv
>>735
対カイドゥ戦はモンゴル騎馬軍団
日本やベトナムやジャワへの遠征は中国人歩兵
これは陸軍と海軍のように別の兵種だから
地形や気候などの制約でどちらかを援軍
とする事が極めて困難だった
中国人歩兵は北方平原の寒さに耐えられないし
モンゴル騎兵を下馬させて歩兵戦に使うのは無駄

740:名無し三等兵
14/04/04 20:02:00.11 XzOpCdWZ
>>738
いや、どっからどう見てもカイドゥのほうがたちが悪いでしょ。
巧みな外交と謀略でもって、キプチャク汗国と同盟を結び、チャガダイ家を
支配下に置き、元朝内部まで調略の手を伸ばして、シリギの反乱を
引き起こしたりとクビライをきりきり舞いさせているし、
戦上手でもあって元軍は連戦連敗で一時はカラコルムまで迫っている。

それに大体、最強の切り札バヤンは対カイドゥに使っているし。

741:名無し三等兵
14/04/05 06:56:18.97 +yEGpv7I
>>739
ナヤンの乱では中国人歩兵が北方平原の対モンゴル騎兵戦で大活躍してるし、
クビライは弘安の役にモンゴル騎馬軍団を大量投入すると高麗王に約束してる。

>>740
バヤンなんて最強の切り札じゃないぞ。
クビライの中では文永の役よりランクが下の南宋戦を指揮しただけで、
それ以前の戦歴はゼロ。
二線級の武将場バヤンが二線級の戦線である対カイドゥ戦に回されただけ。
バヤンの南宋戦と同時期の文永の役に投入された劉復亨とかはモンケ・クビライの
2代続けて皇帝親衛隊に所属し、アリクブケの乱ではカラコルム占領を任されてる。
バヤンより明らかに格上じゃん。

742:名無し三等兵
14/04/05 12:48:16.57 x8bHTYjl
バヤンをフビライの切り札とか言う人はコーエーゲーのやりすぎですよっと。

743:名無し三等兵
14/04/05 17:09:31.62 AUhPgeEh
>>741
>クビライは弘安の役にモンゴル騎馬軍団を大量投入すると高麗王に約束してる。

ソース希望
大量の騎馬軍団なんて船で運べるの?

744:名無し三等兵
14/04/05 19:59:31.69 0rDdopBC
>>741
おいおい、二線級の将を筆頭宰相兼親衛隊司令官兼首都駐留軍司令官に
任じたりはしないでしょ普通。

745:名無し三等兵
14/04/06 02:00:56.10 jOqy/516
元寇は歴史的な戦争だよ。
当時の海戦としては、動員兵力が桁違い。

746:名無し三等兵
14/04/06 02:39:59.55 JllgJ5PQ
日本は強敵ではあるが、放置してもあんまり害無いよな

747:名無し三等兵
14/04/06 10:26:01.21 YnoDTnph
>>744
残念ながら対日機関である征東行中書省トップと兼任の高麗国王の地位は、
「諸王・駙馬の第七位」(集史テムル・カアン記)、「位は親王と同等」
(高麗史)、「席次は元朝帝室の筆頭姻族ウンギラトの次位」(益斎乱藁)
とクビライ自身の親族にほぼ匹敵し、元の朝臣なんかより高いんよ。
元にとって高麗の戦略的価値は対日本の最前線に位置してるってのが唯一で、
それがこれ程優遇されてるってのは、日本こそ最大最強の敵ってこと。

748:名無し三等兵
14/04/06 17:08:28.91 KAlUQ9hv
>>747
そういう格式が問題になるのなら対カイドゥ戦には皇子のノムガンやカマラそれから、
皇太孫テムルまで投入してるし、カイドゥと連携したナヤンの反乱の時にはクビライ自身が
親征している。

どちらを重視しているかは自ずから明らかだね。

749:名無し三等兵
14/04/06 17:37:33.09 YnoDTnph
>>748
ナヤンの反乱なんて東アジアの対日戦の利権を巡る反乱じゃん。
だから鎮圧軍には高麗軍をはじめ元寇の参加部隊が勢ぞろい。
カイドゥに対しては牽制だけにとどめる一方で、クビライ自身が親征してるんだから
完全に日本>>>>カイドゥだろ。

750:名無し三等兵
14/04/06 17:48:25.98 KAlUQ9hv
>>749
本当に日本をそこまで重視しているならナヤンの反乱もバヤンに任せて、
第三次遠征を強行しているでしょうが。

だけど、実際には第三次遠征は中止され、高麗に集結していた精鋭部隊を
全て引き抜いてナヤンにあてているし、鎮圧後も激化する一方のカイドゥの
攻勢に対応すべく皇太孫テムルとその配下の精鋭部隊をカイドゥに対して
投入し、日本遠征は計画すらされなくなっている。

751:名無し三等兵
14/04/06 17:55:11.06 YnoDTnph
>>746
モンゴル帝国側はそう考えてなかったよ。

「小邦は日本に隣接する極辺の要地であり、中原から4000里もはなれている。
国王がながらく不在では、もしも不測の事変がおこった際に報告できず、
その得失は軽微ではない。これについて某等は日夜危惧し、安心できずにいる。」
(1324年)

「高麗は倭境に隣接しています。いまその国王はながらく都下に滞在しているので、
(すみやかに)帰国させるように願います。」
(1330年)

「(高麗は)いまだに服属しない海中の倭に隣接しているため、事変の発生を
危惧しないわけにはいかない」
(1339年)

「本国は日本というまつろわぬ国に隣接しており、1日として国主なしではいられません。」
(1348年)

752:名無し三等兵
14/04/06 17:59:21.38 YnoDTnph
>>750
第三次遠征なんてやったら今度こそ元朝は滅びちまうって朝臣から大反対
されたんだが。
元の日本重視は征服対象としてではなく、モンゴル帝国を上回る軍事力を
持った脅威としての重視だから。

753:名無し三等兵
14/04/06 18:02:34.52 KAlUQ9hv
>>751
元朝というより、高麗が危機感を持っているだけじゃん。
元にとってはクビライの皇子カマラを散々に打ち破り
カラコルムにまで迫る勢いのカイドゥのほうがはるかに危険な相手。

754:名無し三等兵
14/04/06 18:07:47.15 KAlUQ9hv
>>752
日本の軍事力が元のそれを上回るというより、ただ単純に財政上の問題でしょうが
勝手に話を作らないでくれ。
それに何度も言っているけどカイドゥをいつまでも放って置くわけにも行かなんだし。

755:813
14/04/06 18:13:32.73 ehpzoF6I
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本について、
文永の役の部分までup(および『八幡蒙古記』・菊大路本との比較)完了しました。

URLリンク(hyperhamster.blog.fc2.com)

次は弘安の役ですね。

756:名無し三等兵
14/04/07 01:44:29.72 jsgRt274
モンゴル自体は動員兵力は少ない。
だって、モンゴル人の人口は少ないわけだし。

757:名無し三等兵
14/04/07 08:31:45.34 gsh4BgPu
モンゴルとひとくくりにしてるがチンギスハンのクリルタイの時点でさえ異民族の集団だから
純粋のモンゴル人の動員兵力なんて考えるだけ無駄じゃない?

758:名無し三等兵
14/04/07 09:09:52.94 RN6TvsXX
【歴史ミステリー】元寇はなかった!? - YouTube
URLリンク(www.youtube.com)

759:名無し三等兵
14/04/07 10:09:35.48 A7E8SKwm
>>754
元の首都は大都だよ
地図見れば日本とカイドゥのどちらが脅威か一目瞭然
実際、クビライはカイドゥより日本の方を重視してたし

760:名無し三等兵
14/04/07 10:28:26.23 gsh4BgPu
あの時代、海路で日本から寧波目指すことは可能でも北京を目指すのはめちゃくちゃ難しいぞ

761:名無し三等兵
14/04/07 11:16:36.43 A7E8SKwm
>>760
元朝って江南地方で収穫された穀物を全部海路で北京に輸送してたんだよ

762:名無し三等兵
14/04/07 11:25:09.30 gsh4BgPu
沿岸航海と外洋をなぜ同視してるの?あの時代に日本から軍で北京目指したら一旦、
広州に軍送ってそこから北上するか、秀吉のように朝鮮半島通るかどっちかしかできんぞ

763:名無し三等兵
14/04/07 11:57:53.23 A7E8SKwm
>>762
世界の海戦史見れば、あの時代に海運と軍事遠征の違いなんてないよ。
航路があればどこにでも軍を船に乗せて送れる。

764:名無し三等兵
14/04/07 12:03:17.79 gsh4BgPu
>>763
だからどうやって軍を送るのよ。元寇のように中国南方から九州北部、対馬目指すという風、海流ともに
恵まれてる状況でも上手くいかなかったものがどうやって、日本から北京まで軍送れるの?
高麗が元側だから朝鮮半島に沿って航海することもできない

765:名無し三等兵
14/04/07 12:08:58.05 A7E8SKwm
>>764
だから普通に船に乗せて送るんだよ。
倭寇は簡単に高麗沿岸の制海権獲ってるじゃん。
元寇が上手くいかなかったのは日本が軍事的にモンゴル帝国より強かったからだろ。

766:名無し三等兵
14/04/07 12:22:13.28 gsh4BgPu
>>765
高麗沿岸の制海権を倭寇が取ってる?前期倭寇においてもそのような記述はないな。倭寇の始まりを
14世紀前半としても中半には高麗は沿岸防衛に成功し後半には当時の倭寇の拠点であった対馬に
遠征してる。まあその結果、武官がまた権力もって高麗が終わったんだけど。このことは元の朝貢国である
高麗ですら倭寇を抑えられたことを示し、軍事的に日本がモンゴルより強いとの主張の反証になる

767:名無し三等兵
14/04/07 12:40:10.10 A7E8SKwm
>>766
沿岸防衛に成功しなかったから高麗は滅んだんだよ

768:名無し三等兵
14/04/07 15:45:22.98 gsh4BgPu
うん?高麗は統治能力失って滅びたわけでないぞ。クーデタによる政権の交代と
領域国家の崩壊は全く別のもんだぞ。倭寇なんかよりはるかに高麗に大きな打撃を
与えた紅巾軍も撃退できてるように軍制は立派に機能してたわけで

769:名無し三等兵
14/04/07 15:48:08.47 jsgRt274
>>757
モンゴル軍って、言うほど兵力は多くない。
3万前後の兵力で戦うことが多い。
基本、奇襲と撤退を繰り返し。

動員兵力では、農耕民の中国や日本のほうが多くて当たり前。

770:名無し三等兵
14/04/07 19:31:01.02 wnBm+DcO
なんで話がこじれてんのかわかんないけど
日本は南宋と並んで重要な攻撃目標で一大プロジェクトだったけど
ハイドゥがかき回したりナヤンが反乱起こしたりベトナムが独立したりで
もはや遠征どころじゃなくなったってだけのことでしょ。
国内の兵力と金バカスカつぎ込む必要がある計画なら尚更のこと。

771:名無し三等兵
14/04/07 20:05:41.80 F5imNcSo
というか、元が他国を攻めまくる目的って、世界征服で良いの?
もしそうだとしたら、日本が強かろうが弱かろうが、あるいは
征服することに利があろうがなかろうが攻めてくるんだろう、

772:名無し三等兵
14/04/08 07:23:18.53 jciaEcIJ
モンゴルは征服したと言っても、モンゴル人の人口が少ないので
征服地の要所を抑えているだけで
征服地の大部分は、これまでどおり、現地人は暮していたんだろう?

773:名無し三等兵
14/04/08 12:28:02.79 QCQtsOm8
紅巾軍って盗賊と流民中心だよねw
そんなのに首都占拠されちゃう程度だよ
高麗軍って

774:名無し三等兵
14/04/08 18:06:34.45 lqptON0H
>>772
現地(旧)政府機構に強要すれば領域支配は可能

775:名無し三等兵
14/04/08 19:21:22.21 SScrFQ+s
>>773
流民が一体どれだけの王朝、帝国を滅ぼしてきたのか知らないのか?
中国の黄巾の乱とか、東地中海の前十二世紀のカタストロフ、
それから、ゲルマン民族の大移動なんかも一種の流民みたいなものだし。

776:名無し三等兵
14/04/08 19:23:16.37 VuI/yYNN
本拠地を捨ててそのまま移り住む気で乗り込んでくる連中はそりゃ強いわ

777:名無し三等兵
14/04/09 07:03:06.11 jL2lqmog
>>768
紅巾軍の与えたダメージなんて倭寇に比べたら屁みたいなもんだよ。
朝鮮半島での穀物の流通ってほぼ全てを海運に頼ってるん。
倭寇はこれを集中的に狙ったため高麗は国家機能が完全にマヒしちまったんだよな。
モンゴル軍が陸地を30年間暴れまわっても滅びなかった高麗が倭寇によって衰退して
滅亡したのはそういう理由。

778:名無し三等兵
14/04/09 08:33:55.04 /G+2GTyl
第一次東征のすこし前、高麗の役人が「財宝が欲しいならやるから、とにかく
人を殺さないでくれ」という説諭を倭寇に対して出そう、という提案をして、
弱腰過ぎるという理由で採用されなかった、という記事があったように思う。

高麗軍の壱岐対馬の暴挙は倭寇に対する報復、あるいは恫喝の目的があったのでないか?

779:名無し三等兵
14/04/09 11:24:18.09 v+EF7vcf
>>778
高麗史にそんな話書いてあるね

780:名無し三等兵
14/04/09 18:58:25.32 9uukD4jP
>>777
国家機能がマヒした国が軍隊動員できるの?奇妙なこと言ってるなー

781:名無し三等兵
14/04/09 22:02:23.34 jL2lqmog
>>780
倭寇によって府兵制度は崩壊したから高麗は国家として軍隊動員できなくなってたよ。
だから将軍たちが現地で招集した農民とかを私兵化して対応してた。

782:名無し三等兵
14/04/09 22:12:02.74 8cGXuxP8
結局、なんで元は勝てずに退却したの?

783:名無し三等兵
14/04/09 22:17:21.78 w26ttJwd
戦場で弱かったから

784:名無し三等兵
14/04/10 08:56:00.82 WKdJCipt
>>781
うん?軍閥の成立は倭寇の気がするが?倭寇が朝鮮半島に積極的に略奪来た時期って
軍閥が配下の兵を納哈出相手に北方に動員かけてる時だぞ。だから北方が一段落すると対馬まで
遠征かけて前期倭寇を終息させたんじゃないか

785:名無し三等兵
14/04/10 13:08:05.91 i55UaG9s
李氏朝鮮の成立原因が倭寇なんだから
倭寇によって高麗が蹂躙されて国が崩壊したので
北方出身の李家の私兵で倭寇退治に成功したから李氏朝鮮が起こった

786:名無し三等兵
14/04/10 14:42:28.69 WKdJCipt
いや、李家の武臣としての権力基盤成立は倭寇が来るより前だぞ。
他の武臣との権力抗争の中でクーデタで高麗王朝まで倒したってだけで

787:名無し三等兵
14/04/10 15:45:35.54 DN0ItPde
>>784
高麗は前期倭寇を終息させてなんかないよ。
南北朝の内乱が九州でも平定され、朝鮮半島で食糧強奪してた南朝勢力が掃討
されたから終息しただけ。
高麗は軍事的には全く無能だった。
半島南部の安全保障のため今川了俊の派遣した日本軍に駐屯してもらってた
ような状態で、高麗が倭寇を終息させたとか厚かまし過ぎ。

788:名無し三等兵
14/04/10 15:52:11.63 p8wsSf0B
応永の外寇のおかげで倭寇が一端収束したとか誰の説だよ?

789:名無し三等兵
14/04/10 16:24:19.96 WKdJCipt
>>788
そっちより朴?の対馬攻撃の方。終息は言い過ぎだがその成果が
なければクーデタ起こす威信にならないでしょ。

790:名無し三等兵
14/04/10 18:42:35.71 R+duLIwq
1389年 高麗の対馬侵攻   3000隻で対馬焼き討ち 倭寇の捕虜など無し 留守狙い?
1396年 李成桂の壱岐対馬討伐 日本側記録無し 詳細不明
1419年 応永の外寇   227隻17285名で倭寇討伐 対馬で民家2000戸を焼くも軍事衝突では良いとこ無く敗退

791:名無し三等兵
14/04/10 20:09:41.01 m7t6e5fR
>>782
モンゴル軍って最強ではあっても無敵ではないんだよね。
日本遠征に限らず、例えば対南宋戦でも1235年のオゴデイによる攻撃は
皇太子クチュを戦病死させた挙句、南宋軍の大規模な反撃をうけて
逆に襄陽を奪還されるという悲惨な結果に終わっているし、
モンケによる侵攻も襄陽を落とせずじまいでモンケの戦病死という
結末を迎えている。

792:名無し三等兵
14/04/10 20:47:37.32 m7t6e5fR
>>759
本当に日本の方を重視しているならヒンドゥみたいな
三別抄の鎮圧以外はこれといった武功を挙げていない上、祖先
も生没年すらよくわからない人物ではなくもうちょっと
格上の人間を現場指揮官にあてるでしょうが。

対してカイドゥ戦には嫡子中の末子で後継者有力候補だったノムガン
皇太子チンキムの長子カマラに、その弟で皇太孫のテムルといった直系皇族やら
知枢密院事のバヤンといってそうそうたる面々を投入している。

793:名無し三等兵
14/04/10 21:08:08.17 cBXJa8Gg
モンゴルからみて日本が強いか弱いかは解りませんが、
海の向こうで攻め取るのが大変&日本の方から攻めてくる確率は低い
という条件なら、日本攻撃は後回しにするのが普通じゃないでしょうか?

794:名無し三等兵
14/04/10 21:53:43.02 DN0ItPde
>>791
確かにオゴデイやモンケの時代のモンゴル軍は南宋に勝てなかった。
でもクビライの時代には勝ったわけで、つまりモンゴル軍は進化したんだな。
そのモンゴル軍の進化の頂点でボロ負けしたのが日本。

795:名無し三等兵
14/04/10 21:57:59.09 WKdJCipt
>>793
自国が攻められた直後からお寺作るお金がないから
貿易してと交易せがんでくる相手を差し迫った脅威とは
認識しないと思うよ。商売にやってきたくせに正月に都市焼く迷惑な連中だけど

796:名無し三等兵
14/04/10 22:06:16.11 DN0ItPde
>>792
ヒンドゥは日本戦の敗北がモンゴル帝国にとって致命傷だったため粛清された上、
記録抹消されたんだろうな。
当時のクビライにとって日本戦は最重要作戦だったし。
カイドゥに対する中央アジア戦線からも兵力引き抜いて弘安の役に投入てるわけで
カイドゥ戦が日本戦より優先順位の低い戦いだってのは明白。

797:名無し三等兵
14/04/10 22:14:49.62 m7t6e5fR
>>794
というか南宋軍が弱体化しただけでしょ。
オゴデイの侵攻の時には名将、孟きょうが頑張っていたし、
モンケの遠征の時にも彼が作り上げた長江防衛線が機能していた。

対してクビライの遠征の時には賈似道の無策で長江防衛戦は骨抜きに
なっていた。しかも、それでもなお襄陽は五年間も孤立無援の中で奮戦を
続けている。

798:名無し三等兵
14/04/10 22:23:32.25 m7t6e5fR
>>796
ヒンドゥが責任を問われて粛清されたなんて話はどんな史書にも載っていないぞ。
もし違うと言うなら、ソースを示してほしい。

あと高麗に集結した戦力もナヤンの反乱後は結局、モンゴル高原での対カイドゥ戦に
投入されていて高麗には戻ってきていないんだが。

799:名無し三等兵
14/04/10 22:34:00.60 DN0ItPde
>>798
元史には記録が無いけど、当時元朝に滞在していたマルコポーロは元寇敗北の
責任を問われて将軍2人が処刑されたと書いてる。
元史では事実が隠ぺいされてるってことだし、その最有力候補はヒンドゥだろ。

800:名無し三等兵
14/04/10 22:39:11.87 WKdJCipt
ID:DN0ItPdeは相変わらずソースなしの思いこみか。倭寇についても「高麗史」に載ってる高麗の損害は
無批判に取り上げるけれど、高麗の倭寇に対する戦果は一切見えない人だし

801:名無し三等兵
14/04/10 22:44:50.73 DN0ItPde
>>800
ちゃんとソース挙げてるじゃん。
東方見聞録だよ。

あと、損害の記録は信用できるけど、戦果の記録は敵側史料と突き合せないと
信用できないってのは、戦争に関する数字の扱いとしては常識レベルだろ。

802:名無し三等兵
14/04/10 22:47:06.17 WKdJCipt
うわあ……脳内の常識ですか

803:名無し三等兵
14/04/10 22:51:14.66 m7t6e5fR
>>799
マルコ・ポーロの記述がそこまでアテになるかねえ。
元軍が平安京にまで信仰したなんて作り話を書き記しているくらいだしさあ。

804:名無し三等兵
14/04/10 22:56:05.93 WKdJCipt
それ以前に「東方見聞録」では
「将軍の一人はアバタン(阿剌罕(アラカン))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、
二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の
末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」
と処刑されたと書いてる将軍二人の名前出してるじゃん(ペディアより)w
ちなみに1268年に起きたことだそうですw

805:名無し三等兵
14/04/10 22:56:46.55 DN0ItPde
>>802
本当に軍事板の住人?
例えば、1944年10月の台湾航空戦は日本の記録だと損失312機で、
戦果は空母11隻撃沈、8隻撃破、戦艦4隻を含む45隻撃沈だよ。
この内、損害に関する記録は史実として扱われてるけど、戦果に関する記録は
アメリカ側の記録と突き合わせて信用されてない。
これが常識レベルの戦争に関する数字の扱い方な。

806:名無し三等兵
14/04/10 22:59:42.09 WKdJCipt
>>805
それは史料を突き合わせた結果、アメリカの史料により高い信憑性の判断を下したもので

>あと、損害の記録は信用できるけど、戦果の記録は敵側史料と突き合せないと
>信用できないってのは、戦争に関する数字の扱いとしては常識レベルだろ。

なんていうのとは全く違うもんだぞ

807:名無し三等兵
14/04/10 23:05:43.90 m7t6e5fR
>>805
ヒンドゥが粛清されたという話のソースは?
まさか東方見聞録だけとかいうことはないと思うけど。

808:名無し三等兵
14/04/10 23:05:52.17 DN0ItPde
>>806
アメリカの史料だって戦果に関する数字は日本側史料と突き合わせると
かなり誇張されてるよ。
戦争において正確に把握できる数字は自軍にかんするものだけで、
敵の兵力や戦果は大抵の場合信用できない。

809:名無し三等兵
14/04/10 23:24:39.63 DN0ItPde
>>803
マルコポーロは元寇から逃げ帰った指揮官が奴児干の流刑地送りになったと書いてる。
で、実際元寇に参加した張百戸が元文類の記録で奴児干の流刑地送りになってるんだな。
つまり、全くのデタラメではなく実際に処刑された将軍がいた可能性は高いんだよ。

810:名無し三等兵
14/04/10 23:35:36.01 WKdJCipt
>>809
>>804

811:名無し三等兵
14/04/10 23:44:43.31 DPDBb/qq
高麗が30年間、モンゴルと戦わなかったら、日本はあっという間に征服されてただろう

812:名無し三等兵
14/04/11 06:29:02.59 Vwrwk2G5
されるかボケ

813:名無し三等兵
14/04/11 09:05:49.09 NozZgdd8
>>794
>でもクビライの時代には勝ったわけで、つまりモンゴル軍は進化した

進化したというより、クビライはモンゴル軍を中国化させた。
本来のモンゴル軍では南宋との戦いに適合しなかったからだ。

日本軍が戦ったのは、その中国化したモンゴル軍だった。

814:名無し三等兵
14/04/11 10:10:00.67 mNQjlWUN
現代と違って、あの当時の技術で
日本を攻略するのは至難の業だけどな、
兵站の確保などを考えても。
あの当時の日本は、湿地帯が多くて、今みたいにアスファルトの道路もないいしな。
国土の8割が山岳地で、大陸のような広大な平野部もないし。
そんな国の20万人以上の大軍がいるんだし。

渡海して十数万の大軍を運用するのは難しいのに、
どうやって攻略するんだ。

815:名無し三等兵
14/04/11 11:46:59.28 1I9Bx53e
どういうプランだったのかは気になるな
仮に戦場で元軍の方が強くて博多制圧成功したとしても、その後どうするつもりだったのか

816:名無し三等兵
14/04/11 16:13:58.45 mNQjlWUN
博多湾を制圧したとしても、そこから、
どうやって、日本全土まで制圧するのか?
大陸本国からの継続的な補給の確保も難しいし。

瀬戸内海沿岸をこえて、畿内、中部、関東まで制圧するプランに限界がある。
何年もかけて、山間の湿地帯の敵地を攻めのぼらないといけない。
その山間を形成する山々には、砦があちこちある。
日本って、国土の起伏が激しくて、天然の要塞。

また、本土からの日本の援軍は20万を超えるし。

817:名無し三等兵
14/04/11 17:15:53.11 oJiJcPl0
どうあっても元の日本侵攻は本気じゃなかったことにしたい奴がいるみたいだな。

818:名無し三等兵
14/04/12 02:14:36.18 gELbdtQZ
戦場で一撫でしてやればははーって頭下げてくるって思い込んでたんかね
現地勢力取り込みとか工作ほとんどやらずに来たのは

819:名無し三等兵
14/04/12 02:26:58.76 YYu4+7wP
九州沿岸を襲撃してこれでビビッて服属すると思ったから元軍は撤退した!的な事を戦国の軍隊って本で書いてて笑ったw
フビライに処刑されるだろwそんな事したら

820:名無し三等兵
14/04/12 13:34:48.61 4N8uUlUB
元史読むと、弘安の役終わってからもメッチャ日本侵攻に拘ってるなフビライ。
国内の反乱やハイドゥがちょっかい出してきたからやむなく断念したって感じ。
上で優先順位がどうたら言ってる奴がいるが、そりゃ
一族の反乱を裏で糸引いてた奴や属国の反乱を優先的に潰すのは当たり前やろ。
属国だったベトナムの反乱やナヤンやハイドゥへの対処を優先したからといって
イコールそれが日本遠征はどうでも良かったことにはならんよ。
むしろ、それらを鎮圧した途端にフビライはまたいそいそと日本侵攻の準備始めてるし。

821:名無し三等兵
14/04/12 17:04:15.66 AtBeXNu9
>>819
その本、他にも弘安の役では日本軍が防塁での防衛戦に徹したから勝てたとか書いてあるんだよねw
主題である戦国期の合戦についての記述は参考になるけど
著者は元寇についてはまんが日本の歴史レベルの知識しかないと思われる


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