13/01/17 23:42:11.93
軍板の元寇スレにおいて博多が大宰府かどうかなど本来何の意味も無い。
過去の経緯を踏まえても、かろうじて意味があるのは元寇当時、北九州の政庁は何処にあったのかと
それを元軍が認識していたかどうかだけ。
当時、北九州の政庁は博多にあったのか ? → 博多にはなかった。
では、何処にあったのか? → 大宰府にあった。
その事実を元軍は知っていたのか? → 知っていた。
これでおしまい。
軍板としてはこれ以上議論する事は無い。
まだ博多=大宰府云々の話を続けたいんなら、それは元寇の軍事史的視点とは何の関係も無い、せい
ぜい文化史的な意味合いしかないんだから、日本史板にでも専用スレを立ててやればいいだろう。
26:名無し三等兵
13/01/18 02:05:20.92
良いからコテつけろパフォ
27:名無し三等兵
13/01/18 09:41:08.62
今の時点で判別は出来るがw
一体何時まで居座るんだろう?
28:名無し三等兵
13/01/18 22:23:37.02 aq4Sdydr
>>19
>「日本国太宰府博多津居住」とは、中国寧波にある三石碑の碑文。
有り難う。「寧波」「三石碑」で検索したら、碑文の全文解読(試案)の資料があった。
私が墓石と書いたのは間違いで、在日華僑が寧波の寺に参道建設費用を喜捨したことの
記念碑である。
日付はいずれも乾道三年(1167年)で、元寇より100年ちょっと前のものである。
石碑Ⅰに「日本国大宰府博多津居住弟子丁淵・・」とあり。
石碑Ⅱに「日本国大宰府居住弟子張寧・・」とある。
「弟子」とは仏弟子のことであるが、必ずしも僧侶ではなく、商人が仏弟子の立場で寄付する
という意味だろう。
石碑Ⅱは「博多」を省略して「大宰府」のみだが、これだけで博多と分かったことを示している。
29:名無し三等兵
13/01/18 22:24:56.92 aq4Sdydr
>>28
URLをつけるのを忘れた。下記。
URLリンク(www.japanology.cn)
30:名無し三等兵
13/01/18 22:31:26.77 aq4Sdydr
>>28
碑文の大宰府は太宰府に訂正
31:名無し三等兵
13/01/18 23:59:14.53
>>28-30
はいはい、わかったからもうスレと全く関係ないネタを延々と書き続けるのは止めろ。
とっとと立ち去れ。
そして二度と戻ってくるな。
32:名無し三等兵
13/01/19 07:17:39.79
つまり反論は出来ませんと
33:名無し三等兵
13/01/19 10:26:10.05
誰が反論できないんだって ?
パフォがか ?
34:名無し三等兵
13/01/19 10:30:10.14
反論も何もパフォが唱えている「パフォーマンス説」の根拠の一つであった
蒙古軍は太宰府は博多と認識していたという主張が誤りで、蒙古側が内陸の
太宰府政庁の存在を認知したということが判明したのであるから、パフォの
主張は完全に崩壊したんだよね。
そのことを誤魔化すために延々と>>28のような博多も太宰府の一角と認知していた
ということを書き続けている。博多を太宰府の一角と認知していたのは、もう>>831氏
が証明された通りであり、パフォはその尻馬に乗っかって繰り返し「パフォーマンス説」
が崩壊したことを誤魔化す書き込みを続けている。これを荒しとは言わずしてなんだろう?
35:名無し三等兵
13/01/19 10:38:32.82 7YDfXZPi
博多の華僑が「日本国太宰府居住・・」と刻んで寧波三石碑を建てたのが1167年、
そのちょうど半世紀後、文永の役の約半世紀前の1217年に、金史に次の記録が現れる。
「貞祐5年・興定元(1217)年 
〔『金史』15〕
12月 5日 日本国大宰府民七十二人を乗せた船が即墨(山東省)に漂着。金、食糧を供給して本国に 
還す。」
これが博多華僑の船であることはもはや明らかだ。
前スレでこれを紹介した時はすぐに次のコメントがついた。
>>759 (前スレ)
>漂着船に乗ってた人間が大宰府の方から来たと話しただけだろ。
>
そんなもの町としての博多が大宰府と同一視されていた証拠でもなんでもない。
今では、特に外国人の間で博多が太宰府とばれたことについて、異を唱える人はもういないだろう。
皆さんも大きな進歩を遂げたのだ。
36:名無し三等兵
13/01/19 10:41:50.84 7YDfXZPi
>>35
訂正
博多が太宰府とばれた → 博多が太宰府と呼ばれた
37:名無し三等兵
13/01/19 10:43:03.31
831が証明したことをあんたが威張ることではないだろう。
38:名無し三等兵
13/01/19 10:57:46.14
>>35
博多=太宰府の一角であると元軍が認識していたのはその通り。
しかしながら、そもそもあんたがそのことにしがみ付くように
なったのは>>8のような妄想を唱えた事に端を発し、>>813氏によって
>>8のような妄想は崩壊し>>25という結論を迎えたのであるから
あんたの主張は論破され終了しているのだよ。
これ以上「博多=太宰府の一角」にしがみ付いて自論が崩壊したことを
隠すのはみっともない。
39:名無し三等兵
13/01/19 11:01:58.58 7YDfXZPi
>>34
>蒙古軍は太宰府は博多と認識していたという主張が誤りで
>博多を太宰府の一角と認知していたのは、もう>>831氏が証明された通りであり
「一角」までは認めたわけだな。以前から私は「太宰府広域市博多区」という形でそのことを言っている。
博多が太宰府の一角であれば「蒙古軍は博多を太宰府と認識していた」ということになるではないか。
そのような認識によって元・高麗人が博多のことを太宰府と呼び、それが史料に現れることがある。
そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識を知らないと、史料を読み誤る。
私が言っているのはそのことなのだ。
40:名無し三等兵
13/01/19 11:11:56.12
>そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識を知らないと、史料を読み誤る。
私が言っているのはそのことなのだ。
なるほど。あんたは>>8のようなあんたの妄想が崩壊したので「そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識
を知らないと、史料を読み誤る。私が言っているのはそのことなのだ」と論点を摩り替えたのだな?
41:名無し三等兵
13/01/19 12:37:46.43
>>39
まず「膺懲パフォーマンス説」が誤りであったと認めろ。
話はそれからだ。
42:名無し三等兵
13/01/19 20:07:39.15 7YDfXZPi
>>40
それはあんたが作った妄想だ。
私はずっと史料の読み方のことしか言っていないのだから崩壊もクソもない。。
>>41
それはお前の造語だ。
私はそんな説を唱えたことはないから誤りもクソもない。
43:813
13/01/19 20:44:24.82
『日田記』。
冒頭に「文政六年四月財津永澄」とある。
凡例に
「此書五冊ハ永倫豊西記日田伝記郡司職次第異本郡職次第(此書二部予未見之)
西国太平記九州記等其外群書ヲ引テ誤リヲ改正シテ著述セルモノニテ氏ノ宝書ナリ」
とあり、財津永倫が『豊西記』『日田伝記』『豊後日田郡司職次第』等をもとに編纂したことが分かる。
私が閲覧したのは文献出版から刊行された『日田記』で、財津永澄によって書写された
ものが底本となっている。
文永十一年十月二十日の記事には、以下のような補注がついている。
--(引用)
郡司職次第曰蒙古人襲来手負討死交名注文別紙ニ在リ是又後世ニ不伝可惜
--(ここまで)
これは、『豊後国日田郡司職次第』にある以下の記事を指している。
--(引用)
永基
号弥次郎
文永十一年
十月二十日蒙古人襲来之時於筑前国早良郡姪浜并百路原両所軍陳一日中二ケ度
抽抜群大功手負討死交名注文在別紙
為被忠賞拝領当国安岐郷弁分弘永以下五ケ名
御下文明白也
--(ここまで)
「軍陳」は「軍陣」かもしれない。
なお、弘安八年に作成された『豊後国図田帳』に、
「弁府十町 地頭日田弥三郎永基法名法基」とある(弥次郎ではなく弥三郎)。
幕府の命令で作成された土地台帳であるから、信頼できると思う。
日田永基は、文永の役で戦死したのだろうか?
手負討死交名注文が現存していれば……
44:名無し三等兵
13/01/19 20:53:04.87
つまり、弘安八年の頃に日田永基が生きていたという資料があるってこと?
45:名無し三等兵
13/01/19 21:30:00.04
>>42
嘘をつくな。
そもそも、お前が【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】1あたりで元軍は博多=太宰府と認識していたすれば、
博多に軍事的圧力を掛けて示威行為を示すのが目的だったはずだと言ってたが?
残念ながら、過去スレが完全に埋没してしまってチェックできないのが残念だが。
46:名無し三等兵
13/01/19 21:42:38.93
>>42
>それはお前の造語だ。
>私はそんな説を唱えたことはないから誤りもクソもない。
他の住人からは一貫して「パフォ」の呼称で呼ばれ、「膺懲パフォーマンス説」とは何かについても過去スレから何度と
なく説明されて来たのに、それについて今まで一言の反論も無かったのが、ここに来て「そんな説を唱えたことはない」
とは恐れ入ったな。
・文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為の元軍のパフォーマンスであった。
・元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからである。
これがお前の主張である事に異論は無いな ?
47:名無し三等兵
13/01/19 21:45:44.84
そんなことはもうどうでもいいよ。
パフォも46も消えろよ。
813のような偏向のない客観的なレス以外いらん。
48:名無し三等兵
13/01/19 22:31:01.31
逃走の口実にするためのパフォの自演かな ?
49:名無し三等兵
13/01/19 22:41:17.56
>>43
福岡県飯塚市に「弁分」という地名があるから、最初これを苗字とした弁分弘永という武士以下5名が討ち死にした
という意味かと思ったが、「弁分」「弘永」共、文永の役の戦功により日田氏が地頭職を得た土地の名前らしい。
50:813
13/01/20 00:31:34.60
『豊後国日田郡司職次第』は、『日田記』の作者が参考にした資料の一つです。
で、『日田記』より
--
文永十二年永基六位上に叙シ左衛門尉ニ任ス
関東ヨリ下文ヲ賜ヒ豊後国安岐郷ヲ宛行ル
--
とあり、元ネタは『豊西記』。(未見)
本人が死亡していて官位を追贈したのか、それとも生存していたのか。
また、弘安八年の記事に
--
同八年日田孫二郎永貞従四位下ニ叙シ左衛門督ニ任ス
郡司職次第曰……(省略)……
弘安八年ヲ以テ祖父ノ譲リ状ヲ得タリ
異本郡司職次第ニハ祖父法基譲状ヲ得タリトアリ
--
『豊後国日田郡司職次第』の伝本によって、
「祖父(日田永基)が永貞に所領を譲った」
「法基(日田永基の法名)が所領を譲ってもらった」
と異なっており、『日田記』は両方を併記しています。
特に後者の説は、永基の生存が前提となる話ですが、それを平然と書いている。
そもそも『日田記』『豊後国日田郡司職次第』とも、日田永基が文永の役で戦死した
とは書いていません。
『豊後国図田帳』に領主として名前が出てくることもあり、戦死したというのは疑わしいのでは?
手負討死交名注文は戦闘による負傷者・戦死者を報告するものなので、
現存していれば判断材料になったのですが。
51:名無し三等兵
13/01/20 01:14:31.98
哲学ニュースの「世界史勉強してない奴のために各国の歴史を簡単に書く」
ってまとめ記事の米欄でお前らめっちゃバカにされてるぞ。
ま、いくらここで喚いたところで所詮は珍説の一つに過ぎないからなあ。
52:名無し三等兵
13/01/20 01:37:57.09
>哲学ニュースの「世界史勉強してない奴のために各国の歴史を簡単に書く」ってまとめ記事の米欄で・・
笑うところですかこれ ?
53:名無し三等兵
13/01/20 01:45:56.23
>>51
すごいねえ~
ν速VIP板とそのまとめサイトって世界的に評価されている板で、米を付けてるのは世界的に
権威を認められた人達だけだったんだあ~
54:名無し三等兵
13/01/20 02:48:43.66
見てきたけどあまりのレベルの低さに吹いたわw
55:名無し三等兵
13/01/20 09:46:25.88
苦し紛れに持ち出してきた"権威"がν速まとめサイトの米欄ってところが爆笑モン
56:名無し三等兵
13/01/20 10:02:39.89 PXbjvpXc
>>46
>他の住人からは一貫して「パフォ」の呼称で呼ばれ、「膺懲パフォーマンス説」とは何かに
>ついても過去スレから
これを見ればお前が私に関する「パフォーマンス」の由来を全く知らないことがわかる。
だから「なんとかパフォーマンス」もお前の造語だと言っているのだ。
57:名無し三等兵
13/01/20 10:13:41.32
>>56
「膺懲パフォーマンス説」という言葉自体はお前の見解を纏めた俺の造語だ。
だがそれについてお前は一切の反論をしなかった。
・文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為の元軍のパフォーマンスであった。
・元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからである。
これがお前の見解だよな ?
早く答えろよ。
58:605
13/01/20 10:48:40.07
>>50
いや、恐れ入る。
こんなにも、よく調べてるとはね。
確かにこれだけ、日田が生存していた証拠があると戦死に疑念を抱かざるを得ない。
対して日田が戦死したというのは怪しげな「伝説」の類が根拠になっている可能性がある。
ただ、前スレであがっていた
【日田系圖】 八代 日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名
この史料をどう解釈すれば良いのだろう?
そもそも、この系図は何に掲載されているのか教えていただきたい。
59:名無し三等兵
13/01/20 11:25:57.45
「パフォ」とは本来はこいつが日本史板で「日本軍が苦戦したのは武士の戦い方が基本的に自らの武功をアピール
するためのパフォーマンス・コンクールであり、それゆえ戦力の逐次投入しか出来なかったからだ」といった内容の
「武士は『やあやあ我こそは』の一騎打ち主体の戦法だったから集団戦法の元軍に歯が立たず蹴散らされた」って
俗説をそのまま引きずるような説を唱えていた事に由来する。
こいつが軍板で元寇は膺懲目的の威示行動だったと言い出したときに「今度は元寇自体が元軍のパフォーマンス
だったって言うのかよ」って事で「パフォ」の意味が変質して使われるようになった。
今更そんな話を持ち出すってのは、ここに到って尚「ガラパゴス武士のパフォーマンスコンクール」ネタを蒸し返す
つもりなのかね ?
60:名無し三等兵
13/01/20 12:14:26.08
たとえ占領できても船の兵站が続かないんだから亜盆だろ
61:名無し三等兵
13/01/20 12:19:16.33
>>60
兵站は占領地の略奪で賄うのがモンゴルの基本戦略。
62:名無し三等兵
13/01/20 13:17:06.55
>>51
それを読んでみたけど蒙古襲来に関する具体的なコメントなんてどこにもないよ。
63:名無し三等兵
13/01/20 13:33:12.94
哲学ニュースnwkってまとめブログなら米161件ついて元軍の話しとるでよ?
同じスレまとめてる他のブログ見たんでね?
64:名無し三等兵
13/01/20 14:25:37.26
犬HKの偏向報道は着実に実を結んでるね(ニッコリ
URLリンク(ameblo.jp)
65:名無し三等兵
13/01/20 16:47:48.66
一番、恐ろしいのは64のようなブログ主のようにNHKの主張を鵜呑みにして
現代日本を攻撃しだす輩だな。本人は新しい知識(嘘の知識)を仕入れて偉く
なったつもりになってるんだろうが。実際は、NHKの思惑通りに動かされている
駒にしかすぎないのだが。
そもそも、陳興道と元が戦っていた頃に日本征服計画なんて無かったのだから
陳興道のおかげで日本征服計画が頓挫したなんてことは無いのだが。
66:名無し三等兵
13/01/20 17:41:54.22
さかのぼり日本史のホームページにあるこの問題なんですけど
蒙古の侵略を免れた日本。「弘安の役」がその後の日本にどのような
影響をもたらしたといえるか?
朝廷の権力が水面下で持続する結果となった
外交政策に置いての情報収集能力が高まった
神国思想が一気に高揚した
外交政策に置いての情報収集能力が高まった←これが×な理由は何でしょうか?
弘安の役の後、鎌倉幕府は間諜を大陸に派遣していたようですが、情報収集能力
が高まったからでは無いのですか?
67:813
13/01/20 17:57:16.07
>>58
私が調べた範囲では、問題の系図は見つかりませんでした。
考えられる可能性は、
※問題の系図の方が正しかった場合
・系図作者が手負討死交名注文を確認した
(当時は存在していたものとして)
・『豊後国図田帳』にある日田弥三郎永基は、日田弥次郎永基と別人だった
※問題の系図の方が間違っていた場合
・系図作者が『豊後国日田郡司職次第』にある
「永基…(省略)…抜群大功手負討死交名注文在別紙」
という部分を見て
「日田永基が手負い討ち死にした」
と読み間違えた
結論は、手負討死交名注文が発見されない限りは出せないでしょう。
現時点では、手負討死交名注文に永基の名前がある可能性は低いと考えています。
『豊後国図田帳』に、討ち死にしたと報告したはずの人名を記載して、
幕府に提出するのもおかしな話ですから。
68:名無し三等兵
13/01/20 19:27:05.34
例えばある場所で何らかの歴史的大事件が起こり、偶々その近くにもはや由来も忘れられたような
古い社や祠があった場合、その歴史的事件と社や祠を結びつけた「伝承」などは事後的にいくらでも
作り出されます。
元寇という歴史的大事件が有り、しかもその地で日田永基が奮戦して武功を挙げたというのが記録
として残っているのだから、もしその地にそういうものがあれば、それと元寇や日田永基と結びつけた
「伝承」は簡単に作られるでしょう。
しかも日田軍の戦死者について記載された文書があり、その具体的な名前が書かれた別紙が早期
に失われていたとすれば伝承されるうちに日田永基が戦死したという話に容易に変質します。
地元の、「伝承」のある稲荷神社より遥かに有力な神社である筥崎宮が、元寇で日本軍は大敗し、
数多の武士が討ち死にしたという話を吹聴している状況下なら尚更でしょう。
69:名無し三等兵
13/01/21 00:28:25.60
蒙古軍って冬戦争のときのロシア軍みたいなもんか
使い捨て部隊
70:名無し三等兵
13/01/21 10:11:51.80 4JLfy8UD
>>57
>だがそれについてお前は一切の反論をしなかった。
>これがお前の見解だよな ?
>早く答えろよ
いい加減なものを他人の「見解」として押し付けて、それに「反論」しなければ認めたことにするという
汚い奴には何も答えないのが唯一の答だ。
71:名無し三等兵
13/01/21 11:23:42.94
>>70
上手い言い訳をするものだね。でも、君が過去>>57で挙げられたような主張を散々していたことは
俺もはっきり記憶してるぞw
72:名無し三等兵
13/01/21 13:46:59.39
>>66
一般的には「鎌倉幕府は国際情勢に対して無知だった」ということにされてるから
73:名無し三等兵
13/01/21 21:42:41.21
>>63
これの過去スレって日本史板や軍板に大量にあるのだけど、
そこのコメ欄は「仮説」として持ち出された後で否定された主張ばかりなんだよ。
たとえば
>実際にはモンゴル軍も九州の内地にある程度進出したりと大混戦だった
「内地にある程度」進出って、もしかして太宰府決戦説とか言う妄説?何が根拠なのかさっぱり不明
>ちなみに元は、海を越えての侵略は日本を含め全て失敗してる。これ豆な。
服属を誓ったすえに騙し討ちで撤退したジャワと、返書すら拒否して10数万の敵を撃破した日本を同じレベルで把握する人がまた出たか
>さすがにモンゴル本隊が来てたら日本も終わりだったけどな。
>元寇の時に来たのはモンゴルに降伏した朝鮮軍であり、モンゴル軍本隊じゃない。
>モンゴルにしてみれば、日本なんて手に入ろうが入らまいがどっちでもよかった。
参考資料集にすら掲載されてる事実まで捏造した、新棄民説とも呼ぶべき珍説。
いったい何を根拠にこういう空想を繰り広げてるのか理解に苦しむ
こんな素人の思い込みサイトに批判されるのは、むしろ勲章でしかないよ
74:名無し三等兵
13/01/21 23:25:25.26
>>70
>いい加減なものを他人の「見解」として押し付けて、それに「反論」しなければ認めたことにするという
こちらは、これがそちらの見解なのか ? と聞いているだけ。
違うなら違うと言って「正確な」自説を展開すればいいだけのこと。
回答拒否するならそれでいい。
「膺懲パフォーマンス説」(あるいは「膺懲威示行動説」)は完全崩壊したと宣言させてもらう。
これで「博多=大宰府」云々を議論する必要もなくなったな。
75:名無し三等兵
13/01/27 03:27:05.25
結局モンゴル側の戦場での勝利って離島の分しか無いの?
76:名無し三等兵
13/01/27 12:54:18.05
文永の対馬、壱岐に関しては勝利なんだが、
軍議が壱岐で行われたとすると、対馬南部は確保できてなかったのではという気もするな。
77:名無し三等兵
13/01/27 14:01:54.53
守備兵力がせいぜい百騎程度の離島を数万の大軍で襲った虐殺行為を「勝利」と呼ぶなどおこがましい。
78:名無し三等兵
13/01/27 17:03:03.85
日本から見たら壱岐対馬は前線の監視砦みたいなもんだから、
万単位の兵力相手に防衛は困難(例外も無いではないが)。
まあ、いったん取られても日本本体には影響が無いから、
また取り返せばいいだけのこと。
79:名無し三等兵
13/01/28 03:07:38.40
いや、100騎弱とはいえ高度な技術を持つ弓箭の兵と、歩兵主体に移行している蒙古軍(実際は高麗軍?)にしてみたら、
おそらく千人隊が交替しないといけない程度の激戦なので、蒙古側の主観では「相当規模の戦闘のすえの勝利」なんだよ。
だから金方慶が-今までは連戦連勝だったのに-などと言う錯覚を起こす原因になってるのではないかな
80:名無し三等兵
13/01/28 08:13:14.46
『高麗史』でやたらと壱岐戦が詳しく書いてるのもそれが理由なんだろうな。
『元史』も具体的な戦場を挙げている洪茶丘伝なんかも、島の戦闘しか書いてないし。
対馬、壱岐の強力な日本軍を撃破したのに、博多にはもっと強力な日本軍が…。
そりゃあ、その日に逃げ出すわな。
81:名無し三等兵
13/01/28 14:50:56.49
撤退戦で、九州本土から直ちに追撃のかかった壱岐から対馬に退いて粘るという選択肢はなかったのだな。
82:名無し三等兵
13/01/28 21:13:10.36
>>58 >>67
その系図なら福岡県史資料に載ってるよ。
[日田系圖]
八代
日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名、
九代
日田永資 六郎左衛門尉弘安四年蒙古襲來之時有軍功依之賜筑前國三奈木莊、
83:813
13/01/29 00:04:38.28
>>82
少し調べたところ、『筑後将士軍談』に同じ系図がありました。
序文に嘉永6年(1853)とあります。
--
日田氏
取豊西記妄誕甚多、今取其要
--
とあり、『豊西記』を元に著者(矢野一貞)が補訂したものでしょうか。
『豊西記』は未見ですが、日田永基が討ち死にしたと書いてあるのかもしれません。
参考:『筑後将士軍談』(大正15年,筑後遺籍刊行会,矢野一貞)
84:名無し三等兵
13/01/30 17:52:01.33
>>69
蒙古軍が外征部隊を使い捨てにすることはあり得ない。
蒙古軍は抵抗する者に徹底的な懲罰を与える一方、侵略遠征の協力者には
略奪品や領土や奴隷などの旨味を与えることで求心力保ってるんだから。
外征部隊を使い捨てになんかしたら帝国の崩壊に直結する。
85:名無し三等兵
13/02/01 09:58:33.62
そもそも冬戦争の時のロシア軍も使い捨て部隊じゃ無いだろ
86:名無し三等兵
13/02/04 10:31:50.58 xff+pAGB
何で元寇のモンゴル軍は本気じゃなかったみたいなトンデモが蔓延るんだろうね?
世界制服を国是とするモンゴル帝国から見れば、南宋征服がほぼ確実だった元寇時点で
日本以上に重要な攻撃目標なんかなかったのに。
元寇でモンゴル軍は帝国の威信をかけて日本に侵攻し、その上で圧倒的な日本軍の武力に
ボロ負けしたって事実がそんなに受け入れ難いかな?
87:名無し三等兵
13/02/06 03:28:40.02
>>86
「世界中に進出したモンゴルが日本ごとき(ガチ偏見)に負けるはずがない」
↓
「そうだ!本気を出してなかったんだ」or「軍事勝利以外の目的があったんだ!」
だいたいこれ。早い話が「武士ごとき」に偉大なるモンゴルが負けたってのが嫌なだけ
日本史研究上は「武士の奮闘を評価してた戦前研究」を戦争アレルギーつきで過剰否定した反動が来てる
あと武士がモンゴル兵に劣ってるっていう解釈に使われる『八幡愚童訓』が重要視されるのは網野善彦が著書に「一番詳細な史料」って紹介したから
てか陸軍少将の竹内秀喜が「鳥飼潟で衝突できる兵力は一万が限界」って指摘してる。
お互いほぼ同数が衝突できるとすれば重装騎兵が主力の武士団と軽装歩兵主体のモンゴルじゃ前者が有利なのは当たり前
そういった当たり前の発想が出てこないくらい今の日本史研究者は軍事全般に疎いし、軽視してる。軍事は学者の触れることじゃないって感じに
88:名無し三等兵
13/02/06 07:25:33.59
元軍が装備錬度共に勝っていたと仮定したとしてもベトナム戦争の米軍みたいな例も有るしな
北ベトナム軍に対して装備も錬度も劣っていた所か圧倒的に上だったはずなのに撤退させられてるよね
ベトナムが元軍を撃退したのは実力って主張にはあんまり反論しないのにねえ
89:名無し三等兵
13/02/06 09:25:01.44
と言うかベトナム戦争やアジアの独立戦争のゲリラ戦による旧宗主国の撤退に影響を受けた戦後学者が、
戦中から形成されていた神風説を強化してしまったのじゃないかと思ってる。
弘安の役でも終始積極的攻勢に出ていたのは日本軍だが、元寇防塁の役割が過度に強調されている
文永の役は日本軍が馬の足場に適した場所に陣を構えて堅実に防御するはずが、予想外に勝ってしまったんだよな。
だから敵をさんざんに蹴散らしたものの、とりあえず1日目は軍を纏めようと言うことになったのだろう
90:名無し三等兵
13/02/06 17:47:13.39
戦後学者とか完全に好き嫌いで勝ち負け決めてるからな。
モンゴル軍の第一次ベトナム侵攻なんて使者が帰国しなかったから急遽侵攻して、
ベトナム国王軍を撃破し、首都を占領破壊した上で投獄されてた使者を救出して帰還し、
その後ベトナムはモンゴルの属国化したのに何故かベトナム軍が勝ったことになってる。
一体どういう基準だよ?
91:名無し三等兵
13/02/07 10:06:35.32
>>89
>弘安の役でも終始積極的攻勢に出ていたのは日本軍だが、元寇防塁の役割が過度に強調されている
それは思った。元寇防塁によって元軍の侵攻を防いだみたいなことが言われてるのが本当に謎。
日本軍は防塁で防戦したことなんて無いし、弘安の役におけるすべての戦いが日本側が攻勢なのに
全く逆の日本軍が防戦一方みたいな解釈がまかり通ってるのが謎すぎる。
92:名無し三等兵
13/02/07 10:43:53.90
日本軍が防戦一方の大ピンチ、そこに神風が吹いて一発大逆転
ってのが一般に信じられてるドラマストーリーだからな
93:名無し三等兵
13/02/07 14:11:00.58
面白いのは壱岐侵略時でも暴風雨に遭遇してる点だな
その時の元軍は大勢に影響なく九州まで侵攻してる
暴風雨で壊滅って説が誇張だと分かりそうなもの。
94:名無し三等兵
13/02/08 09:42:30.39
文永の役と弘安の役の神風についての説明ってセットで補強し合う関係なんだな。
普通なら、弘安の役で停泊中の艦隊が嵐に遭っても、兵員は陸地に避難してて無事だと
気付くじゃん。
それを避けるため、モンゴル軍は文永の役で圧倒的に勝ってたけど、夜になったら
一旦船に戻ったとか滅茶苦茶な嘘をつき続ける必要があるのか。。。
95:名無し三等兵
13/02/08 13:33:17.96
神風に守られた国であることは否定されたけど
風で勝ったって事になってる部分はそのまま残って思考停止したままなのが多いな
96:名無し三等兵
13/02/08 23:29:12.53
>>90
マジで冗談じゃないよな
あと琉球やアイヌが元軍を撃退したとかぬかす嘘吐きにもうんざりする
97:名無し三等兵
13/02/09 00:40:32.58
陳朝は占領だけは免れたって感じだもんなぁ・・
属国にはなってるんだよね
まともに撃退となるとマムルーク朝と日本だけになるのかな?
98:名無し三等兵
13/02/09 15:15:28.38
ハルジー朝は?
99:名無し三等兵
13/02/09 15:20:33.16
Battle of Amroha
URLリンク(en.wikipedia.org)
100:名無し三等兵
13/02/10 10:26:36.64
>>98
ハルジー朝はわからない。
インド史関連の本では読んだことあるけど、ドーソンのモンゴル帝国史では
スルーだし、モンゴル帝国側の史料ってあるのかな?
フレグ・ウルスもチャガタイ・ウルスもその時期はモンゴル軍同士の戦いが
忙しくて大規模なインド侵攻なんてやる余裕あったかも疑問。
101:名無し三等兵
13/02/10 12:13:21.09
しかし、弘安の役の元軍は何をしにきたのか意味わからんね。
日本に攻めてきて、やったことと言えば、ひたすら日本軍の猛攻から防戦するだけで
最後まで日本軍に大攻勢を仕掛ける事はなかった。海上に漂う時間が長くなるほど
兵士の士気、兵糧、疫病などの衛生面、陸上の日本軍の増援などでますます不利になる
ってことがわかっていなかったのかね。
102:名無し三等兵
13/02/10 13:53:15.75
橋頭堡が築けなくてそういう状況に追い込まれただけです
戦力目標は太宰府の陥落と日本の従属化
103:名無し三等兵
13/02/11 01:21:46.87
1420年に博多に滞在した朝鮮の使者が筥崎の松亭について日本人から、
「弘安の役の時、高麗人戦亡の地なり」と説明されたらしい。
そんな所で戦闘無かったよな。
高麗人の捕虜が斬首された場所ってことか?
104:名無し三等兵
13/02/12 14:06:20.03
>>97
マムルーク朝11万対モンゴル1万だっけ、
それもモンゴルの方は万騎長が率いているから1万だろって推測で、
実はそれ以下という説もある。
どちらにせよ10倍以上の戦力差じゃ負ける方が不思議。
105:名無し三等兵
13/02/12 17:17:42.44
それでも勝つことが多かったのは当時のモンゴル騎兵のすごいところ
106:名無し三等兵
13/02/12 17:27:10.24
元の目的は軍事的圧力によって日本を服属させるためで日本を占領するつもりなどなく
散々に痛めつけたのでこれで言う事を聞くと思ったので退却した
戦国の軍隊 P.64
予定通りの退却だな
まあ名乗り合いパフォーマンスは武士(笑)同士のチャンバラごっこだけでやってりゃいいよ、
お前らネトウヨも仮想戦記のプロット書いてないで職安にでも言ったらどうだ?
107:名無し三等兵
13/02/12 17:41:13.28
煽るならもうちょっと真摯な態度で煽れカス
108:名無し三等兵
13/02/12 17:44:12.31
>これで言う事を聞くと思ったので退却した
子供の使いじゃないんだからさぁ
本当にこんな間抜けな理由で撤退したら元軍の指揮官は全員処刑だよね…
109:名無し三等兵
13/02/12 17:54:09.08
パフォのリターンマッチ
弘安の役のようにボコボコにされるのか
110:名無し三等兵
13/02/12 23:38:23.52
>>104
マムルーク側ももう少し少なかったはず。
対十字軍での戦力を考えると当時の中東に5万以上集める勢力は無かったかと。
まあ2~3万くらいはいただろうけどね。
111:813
13/02/13 00:06:29.96
過去スレに、官道の話が出ていたので。
結論から言うと、赤坂~太宰府ルートの官道は、水城以南では途絶していたという話です。
現在の福岡市~太宰府市を結んでいた、古代の官道は以下の二本。
・水城東門ルート
太宰府~水城東門~博多遺跡群(太宰府市北西~博多区方面)
・水城西門ルート
太宰府~水城西門~鴻臚館付近(太宰府市西~中央区方面)
うち西門ルートは、九世紀後半までに官道としての機能を喪失。
官道中央に墳墓が造られていることを根拠とする(大宰府条坊跡第99次調査地点)。
※ただし一部は存続していたようで、
水城より北にある九州大学筑紫地区遺跡では、鎌倉時代の道路(幅3.9m)が発見されている。
東門ルートは、博多の発展とともに重要性を増して現在に至る。
最近では、西門ルート←→東門ルートを結ぶバイパスの存在も指摘されています。
参考
「鴻臚館から大宰府への道─水城西門ルート福岡市内探索の中間報告─」吉留秀敏,2009/2
『太宰府市史』通史編1
112:名無し三等兵
13/02/13 22:30:54.50
元寇って、文永は他の遠征と比べても十分な兵力だし、
弘安に至っちゃモンゴル帝国の遠征の中で二番目くらいにでかいんでしょ?
この時点で「元軍本気じゃなかった」説は相当苦しいのに、素人どころか
研究者や学者にまで信じてる人が少なくないのはなんでなの?
113:名無し三等兵
13/02/13 22:59:17.02
いや最近は予定通りの退却だったと言い換えてる奴がいる
114:名無し三等兵
13/02/14 00:32:38.85
予定通りって何が予定だったんでしょうね
朝貢も服属も出来なかったじゃないですか
115:名無し三等兵
13/02/14 23:34:58.98
「あ、これ無理だから撤退」っていう意味での自主撤退と「ここまで予定通りなんで撤退しますね」って意味の自主撤退で後者を使用する学者がけっこういるよな
前者は全滅するくらいなら追撃されてもいいからとっとと帰りますっていみだから完全に敗北だけど後者なら一応敗北扱いにはならないから自分のイデオロギーが守れるからね
>>114
新井あたりに聞けば分かるんでない?
悪党研究だけしてりゃいいのにバカみたいな本書いてるんだしきっと素晴らしい見解をもってると思うよ
あと時々疑問に思うんだが、こういった土地を占領して政治的な譲歩を引き出す場合って居座るもんじゃないのか?
時々政治的譲歩を引き出すために侵略したとか言ってる奴いるけど、それだとなおさら早期に撤退しちゃいけない気がするんだが
116:名無し三等兵
13/02/15 01:29:07.93
モンゴル軍に侵攻された国のほとんどが首都占領されても降伏せずに
国王が別の要害に篭って抵抗続けてるんよ。
そんな戦いを世界中でやってたモンゴル軍が僅か1日の戦闘で
「これで言う事を聞くと思った」なんてあり得ない。
戦争をそんなに甘く考えてるはずが無い。
117:名無し三等兵
13/02/15 02:11:40.77
>>116
だよなぁ……
一日で九州から撤退したせいで話がややこしくなってるけど、そもそも外交手段としての戦争は外交目的を達成して初めて意味を得るんだよな
そのあたりを日本の歴史学者は曲解してる気がする。どんなに理屈こねようと外交手段として失敗した以上文永の役は戦略的に意味をなしてない
戦闘に勝ったとか博多落としたとか以前に大目標たる服属させることに失敗してるじゃねーかと
そーいった根本的なことに目をそむけて史料の批判がどーだ台風がどーだなんてやってるのは学者としてどうなんだと……
118:名無し三等兵
13/02/16 22:34:34.51
戦闘国家・戦闘民族と言えば
スレリンク(whis板)l50
119:名無し三等兵
13/02/23 21:58:27.40
>>117
そこで別の目的があったはずと必死に考えちゃうのが、日本的歴史学なのかも。
120:名無し三等兵
13/02/25 00:11:36.76
篭城中の南宋に対する補給路を経つ為に日本に攻め込むが失敗
南宋攻略後リベンジするがまたも失敗
これ以上でも以下でも無いね
121:名無し三等兵
13/02/26 00:24:48.34
文永の役前に南宋戦は山場を越えて征服は時間の問題と認識されてたから
それはない。
クビライは日本遠征に合わせて娘を高麗国王に嫁がせてるわけで、むしろ
日本戦の方が本命だった可能性が高い。
122:名無し三等兵
13/02/26 01:00:38.47
>>120
実際あの時代の交易量でも交易路絶たれると困るのかね?
儲けてもあの国の役人は特に軍備に費やすより私腹肥やすイメージ強いし
賄賂の分鎧薄くなりそうな偏見が
123:名無し三等兵
13/02/27 17:11:17.27
軍事の素人に元寇の作戦立てさせると、すぐに瀬戸内海から一気に京都侵攻みたいなこと言い出すけど、
そんなのは下策なんだよな。
日本を征服するつもりなら上陸して内陸に侵攻しちゃダメ。
元軍は逆に通商破壊を行うべきだった。
日本って河川が短くて国内流通の大半を海運に頼っていたから、それを狙い撃ちにされると国家機能が
麻痺しちゃう。
モンゴル軍に内陸荒らされても耐えた高麗王朝が、倭寇に海運狙われて滅びたのを見れば、通商破壊が
どれだけ効果的か一目瞭然。
124:名無し三等兵
13/03/02 05:46:46.55
モンゴルの侵攻は耐えたんじゃなくて支配を受け入れただけだろ
125:名無し三等兵
13/03/05 13:48:26.49
このスレを読むと、戦前の反動なのか、学問の世界は未だに反日史観が幅を効かせてるみたいだね。
126:名無し三等兵
13/03/05 19:06:46.66
皇国史観でも武士がボコボコになったけど
日本は神国なので神風が吹いて勝ったという見方
をされていたのが問題を複雑にしてる。
127:名無し三等兵
13/03/07 08:23:43.55 mubrqgS1
日本の軍艦旗は、モンゴル帝国を記念した
URLリンク(ichiba.geocities.jp)
蒙古襲来が海岸線だったからかもしれないが、
モンゴル帝国は陸軍ではなく、海軍のようだ。
これは、今日、日本を守る米軍が「第七艦隊」であることと同じだろう。
つまり、今日米海軍が日本沿岸を防衛するように、
モンゴル海軍は当時の日本沿岸を防衛してくれた。
世界最大の貿易国家日本にとって、大きな経費の節約だった。
( URLリンク(ichiba.geocities.jp) )
128:名無し三等兵
13/03/07 21:23:49.46
やっぱ文永の役で10月20日に日本艦隊の追撃はあったとしか考えられないな。
11月6日に元軍の撤退と洋上の嵐遭遇の報が京都に届いてるけど、
これって
日本側も兵船出して元艦隊の動向把握してないと知り得ない情報。
『勘仲記』は元艦隊が博多湾から壱岐対馬に退いたじゃなく、本国へ
引き返したと書いてるわけで。
ただ元艦隊が博多湾を発っただけじゃ、そのまま瀬戸内海から京都衝く
可能性だってあるんだし、追い返したなんて報告するわけない。
129:名無し三等兵
13/03/10 08:07:53.25
>>128
その場合、高麗史にある倭兵伏すこと麻の如しとか言う記述は
元軍を追撃してきた日本艦隊を、壱岐に残留した高麗軍が迎撃したとなる?
130:名無し三等兵
13/03/27 10:10:26.26 ZeBXk7+r
age
131:名無し三等兵
13/03/29 12:15:39.55 UahE8rEr
久しぶりに来たらスレまだあってホッとした
んだけど>>127なんぞこれ
日本は元と軍事同盟も結んでなければ第七艦隊は同盟国に軍事進攻なぞせんぞ
132:名無し三等兵
13/04/04 19:40:02.13
日本史板のあれはパフォくんかな?
133:名無し三等兵
13/04/06 23:09:30.71
BS歴史館「蒙古襲来」で高麗について触れず
4月4日/4月12日放送 NHK BSプレミアム
シリーズ 外圧(1)「蒙古襲来!空前の国難を救った“神風”」
ここでは高麗はモンゴルに服属したとだけ紹介、日本に攻めてきたのは
高麗や南宋の人であるとだけ説明。
朝鮮人の都合の悪いことをいつも隠す、NHKはいい加減にしてもらいたい。
134:名無し三等兵
13/04/06 23:10:29.06
↑タイプミスwwwすまん 高麗のところ訂正
BS歴史館「蒙古襲来」で高麗について触れず
4月4日/4月12日放送 NHK BSプレミアム
シリーズ 外圧(1)「蒙古襲来!空前の国難を救った“神風”」
ここでは高麗はモンゴルに服属したとだけ紹介、日本に攻めてきたのは
モンゴルや南宋の人であるとだけ説明。
朝鮮人の都合の悪いことをいつも隠す、NHKはいい加減にしてもらいたい。
135:名無し三等兵
13/04/08 15:13:08.56
しかも勝因は手抜き船説だったな
136:名無し三等兵
13/04/09 09:24:23.48
さらに対馬が日本の領域外であると言わんばかりの地図まで
ドアップで紹介
NHK解約推奨
137:名無し三等兵
13/04/10 16:54:05.72
それもそのはずで
流出した北朝鮮工作機関協力者リストになんとNHK職員の名前があった
しかも報道しないことで組織全部同じとみなされても仕方ない有様に
138:名無し三等兵
13/04/12 08:55:26.97
北朝鮮は元寇に思い入れ無いんじゃね?
139:名無し三等兵
13/04/12 22:58:53.44
日本は被害者ではない日本の対応が悪い
なら、新政府にやられた朝鮮は仕方ないな
文書の書式が気に食わないと突っぱねたんだから
140:名無し三等兵
13/04/12 23:30:51.66
NHKのやつはひどいな
恫喝文を侵略を目的ではなく侵略する気なら最初から軍事行動するだろって
モンゴルはスパイ戦略に優れてたことを知らないのか
あとモンゴルの同盟国は同盟国というよりモンゴルの私兵兵を出せと言われたら出さなければ潰される
返書すれば~よかったって
141:名無し三等兵
13/04/12 23:43:06.61
上陸出来なくて海上で疫病って
多民族軍はモンゴル軍じゃないってモンゴル帝国というか国民国家以前の軍事を全否定だな
神風が吹かなくても上陸出来ない軍隊が脅威とか
兵士が犯罪者や捕虜、投降兵だから弱いって
NHK流石だな
142:名無し三等兵
13/04/13 09:31:27.50 K0EteN8F
鹿児島の男たちは戦争に駆り出され常に犬死
URLリンク(ichiba.geocities.jp)
第二次大戦では、硫黄島、サイパン、沖縄戦で鹿児島の兵士は殺された。
明治の台湾出兵、西南戦争でも、犬死だった。
関ヶ原では、島津義弘は自ら敵中突破を強行、自分と周囲の部下だけ、
のうのうと鹿児島に帰還した。
蒙古襲来でも、福岡で戦ったのは、薩摩のサムライが多く、
そこに、福岡のサムライの面影はない。
ここでも、犬死だった。
(仮説を含む)
( URLリンク(ichiba.geocities.jp) )
143:名無し三等兵
13/04/13 11:51:33.60
>>86
本気もクソもコンクエストに失敗したら失敗で敗北だよね
144:名無し三等兵
13/04/14 09:31:49.54
結局の所、日本側のあまりに極端な勝ちっぷりが問題で
真っ当な戦闘以外に原因が無いと納得できないんだろうね
まさか世界帝国モンゴルがこんなに弱いわけがないという前提で語られる
145:名無し三等兵
13/04/14 10:55:26.75
1・朝鮮が日本に加害者として関わった事実を隠したい&薄めたい。
2・朝鮮がボロ負けしたモンゴルに日本が勝った歴史を上書きしたい。
3・とにかく日本が悪かったことにしたい。
4・とにかく日本は強くなんか無いと言うことにしたい。
制作者の意図は、おおよそこんな感じなのかな。
146:名無し三等兵
13/04/14 11:09:24.83
>>140
>恫喝文を侵略を目的ではなく侵略する気なら最初から軍事行動するだろって
そんなものが侵略する気が無かった根拠として通用するなら、秀吉や明治政府だって
朝鮮を侵略する気は無かったってことだな
147:名無し三等兵
13/04/15 00:54:40.34
>>146
明治政府と朝鮮てまんまだよな
朝鮮「書式が気に食わない、なんだこの単語は?」
新政府「あ?」
148:名無し三等兵
13/04/18 15:32:01.40
朝鮮の場合、元寇みたいな大規模な軍事行動もうけず抵抗もしないで
むしろ日本を利用しようとして主権者が寝返ったりとか
元寇の例とは全然ちがうだろ?
149:名無し三等兵
13/04/18 20:16:31.37
>>147
まあ同じ血が流れてるからねえ
150:名無し三等兵
13/04/19 21:17:56.14
>>147
元寇で書式云々は単なる建前だよ。
日本側が問題にしてたのは、モンゴルが侵略国家で、裏で日本侵略の準備を進めてること。
外交文書としてオブラードに包むため書式を問題にしただけで。
151:名無し三等兵
13/04/23 18:48:53.68 XDneYfw3
第二次大戦時における韓国とは"高麗棒子"。
これは日本人がそう呼んでいたのではなくて
あの戦争の当事者である中国人が韓国の事を揶揄して呼称していたもの。
そんな加害者である韓国=中国の人いわく"高麗棒子"が、日本を戦犯国だとか言っているのは片腹痛い。
今の韓国の人は高麗棒子として、なぜ中国の人々からそう呼ばれ蔑視されていたのかを認識し
逃げずにその歴史に向かい合い、ちゃんと反省する必要があるんだと思う。
152:名無し三等兵
13/04/23 20:26:11.34
侵略前に現地政府とコンタクト取ってれば侵略じゃ無いって言うなら大東亜戦争も侵略目的ではなかった事になるな
153:名無し三等兵
13/04/24 12:27:27.69
最近の教科書とか、モンゴル帝国は侵略国家ではなくユーラシア大陸に「パクス・モンゴリカ」を
もたらしたとか絶賛し、属国にならなかった日本を南宋の禅僧の偏った情報を鵜呑みにしたとか
叩いてるじゃん。
でも、その舌の根も乾かないうちに「高麗やベトナムのアジア民衆による抵抗運動が日本を救った」
とかも書いてるわけ。
この矛盾何?
「アジア民衆による抵抗運動」とかは「パクス・モンゴリカ」破壊を狙ったテロ行為として糾弾しないと
整合性とれないでしょ。
そもそも史料ではモンゴルが侵略国だという情報を日本にもたらしてたのは南宋の禅僧なんかじゃなく、
高麗の抵抗勢力だし。
「奉使日本趙良弼遣書状官張鐸來言、去歳九月、與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所。
守者云、曩為高麗所紿、屡言上國來伐」
元史日本伝
154:名無し三等兵
13/04/24 14:00:53.22
つーか島国でよそを侵略するでもなく
それなりに平和にやってるのにな
何でわざわざモンゴル帝国下に入らなきゃならんの
155:名無し三等兵
13/04/24 18:24:58.65
グローバルスタンダードは正義
米帝は正しいという危険思想
156:名無し三等兵
13/04/25 16:40:13.17 sSvk+QZF
ヒトラーの誕生日は蒙古襲来
URLリンク(ichiba.geocities.jp)
第二次世界大戦は、ヨーロッパ戦線から、
ハワイ真珠湾攻撃まで、「蒙古襲来」だった。
(仮説を含む)
( URLリンク(ichiba.geocities.jp) )
157:名無し三等兵
13/04/25 17:23:33.61
糞サイト貼り付けんなボケ
158:名無し三等兵
13/04/26 20:00:51.53
NHK板にいるNHKの中の人っぽい人の話だと
元寇に関するNHKの放送は問題ないんだってさ
すげえ力説してる
根拠なしだけど
159:名無し三等兵
13/04/26 20:25:34.24
928 :名無しさんといっしょ:2013/04/26(金) 20:21:56.20 ID:IGgVsBJH
>>927
NHKは言葉で仕事をしている。
あんたのような日本語を粗末に扱う人間より、はるかに言葉にうるさい。
あんたは「平和的に服属を求める」という表現さえ理解できていないのだろう。
スパイ派遣が武力行使か?船舶建造が武力行使か?
笑わせるな。日本語を勉強しろ。
160:名無し三等兵
13/04/26 20:37:59.23
スレリンク(nhk板)
スレタイはアレだけど、該当スレは↑
NHKってやっぱこういう人間ばっかなのかな
161:名無し三等兵
13/04/26 20:43:52.99
「平和的に」「服属を求める」のが、正しい日本語なのか?
162:名無し三等兵
13/04/26 20:55:50.55
それで言葉に使ってるらしいよ、NHKの中の人はw
163:名無し三等兵
13/04/26 22:17:41.02
>>160
ID:IGgVsBJH
こんなのがNHKの宣伝担当員なの?
逆効果じゃないのか?
164:名無し三等兵
13/04/26 22:25:38.82 Kzn25weF
サムライエースっていうマンガ雑誌で元寇の話とかあつかい始めてるよ。
これもそのうち圧力で潰されるんじゃね。
165:名無し三等兵
13/04/27 09:07:59.09
侵略はいかんことか?
天上の神から授かった使命なんだが?
虐殺?抵抗しなければころさんよ
カリフ?バグダッド?話が遅すぎるんよ
暗殺教団?陰謀が合ったから皆殺しにしてやったんよ
166:名無し三等兵
13/04/27 09:27:05.99
>>165
そう並べてみると、世界征服を企む悪の秘密結社の類に見えてくるな。
167:名無し三等兵
13/04/27 17:36:00.87
>>165
国連憲章ではいかんことになってるな
もっとも五大国の面々もその前にさんざんやりつくしたわけだがw
168:名無し三等兵
13/04/27 18:31:34.31
そのうち三国は、いまでもやっとるな
169:名無し三等兵
13/04/28 13:17:51.44
>>159
現在でも一般の犯罪に対しては死刑を廃止した国ですら
外国のスパイ行為には法律上死刑が残ってる国が多いのは何故ですか?っと。
170:名無し三等兵
13/05/01 13:54:58.76
数万の大群で偵察
共産党の懲罰戦争かよ
171:名無し三等兵
13/05/18 09:34:54.04
実際懲罰みたいなもんだったな
辺境の蛮族を蹴散らす簡単なお仕事と聞いて来てみたら
完全武装の職業軍人どもが血眼になって首切り取ろうと襲ってくる
なんだよこれ
どんな罰ゲームだ
172:名無し三等兵
13/05/19 11:11:04.10
まさかこんな島国に戦争慣れした連中が大量いるとは思わなかったんだろうな
173:名無し三等兵
13/05/30 21:56:25.64
>>169
スパイの刑が重いのは感情的には納得できるんだが理屈で説明しろと言われると困るな
なんでなの?
174:名無し三等兵
13/05/30 22:02:49.58 TQ52UjXl
元寇ってもし暴風雨が来ないで上陸されてたら九州占領されてた?
陸戦でどれだけ日本側が戦えたのか気になる
175:名無し三等兵
13/05/30 22:56:28.91
まず台風来なくても大規模な上陸はできなかったろうに
176:名無し三等兵
13/05/30 22:58:17.03
台風来る前に上陸押しとどめられてるしな。到着してたのだけじゃ推しきれないと思う
177:名無し三等兵
13/05/30 23:02:37.79
>>173
重罪にしなかったら、諜報員はやりやすくなるでしょ
スパイ天国になる
178:名無し三等兵
13/05/31 03:25:33.48
>>174
上陸できる時間なんていくらでもあったのに上陸しても日本軍に歯が立たないと認識してたから
上陸しなかったんだろ。
伊万里湾の中でひしめき合っていた艦隊がすぐ対岸の九州へ上陸を試みないまま殲滅されるなんて異常。
極度に日本軍を恐れていたとしか思えない。
179:名無し三等兵
13/05/31 11:59:13.85
恐れるも何も一回撃退されたから次の手段考えるために船に引き揚げたら
台風にあったんだろ。それとも何か撃退されても突貫続けなければいけないのか?
180:名無し三等兵
13/05/31 17:42:44.40
当時の海戦だと大型船の利はあんまりなかったのかな
181:名無し三等兵
13/05/31 18:18:39.14
海戦だと大型船って小回りが利かないだけ不利じゃん
182:名無し三等兵
13/05/31 18:26:02.83
>>180
というか大砲登場前には鈍重なだけで逆に不利
例えばローマ時代に軍船はガレー船でも商船は帆船で(当時としては)そこそこ大型
183:名無し三等兵
13/05/31 18:27:38.16
海賊退治に大型のガレー船作ったはいいがろくに役に立たなかったのはペルシャの逸話だっけ?
184:名無し三等兵
13/05/31 18:59:17.06
舷側高くすれば斬り込み喰らわなくなりそうだけど
大砲無いのにやっても互いに噛み合わなくなるだけかな
185:名無し三等兵
13/06/01 00:08:24.69
五弾廻船とかほんまかいなという
186:名無し三等兵
13/06/01 13:18:24.24
ここで聞くのはスレチな気がするが寧波焚焼事件てどんな事件なの?
元寇と比較して日本強かったと主張する人がいるんだが
軍隊による戦争なのか、取引のために市内に入り込んだ商人が好機を得て
掠奪者に衣替えしたのか今一よくわからん
187:名無し三等兵
13/06/04 04:46:40.61 EygwCAAs
>>186
当時の寧波は日本人入城禁止だから、商人が取引のために市内に入り込むことはできないよ
188:名無し三等兵
13/06/04 17:25:22.72
>>187
その主張いろんなところで見かけるが1304年の一時点で入城禁止にしたことがあるとしか史料
は言ってないのになぜ1309年まで禁令が継続してることになってるの?
189:名無し三等兵
13/06/04 23:08:57.32
>>188
日本人入城禁止は一時的じゃないよ
1325年まで入城禁止が「定制」として継続されてた史料があるし
190:名無し三等兵
13/06/05 01:48:48.30
1308年に泉府院を復活させ、市舶司を整備してる時点でそれはないな
191:名無し三等兵
13/06/05 03:26:33.30
「舶有定制。輸其物以上干官、勿入郡城、勿止貿易、則得以永遠。」(馬元帥防倭記)
寧波では日本人入城禁止と貿易振興が定制としてずっと継続されていた。
したがって城外から武力で攻め落した以外の可能性はない。
192:名無し三等兵
13/06/05 09:12:26.07
その記述でどこをどうすれば日本人が入城禁止されてたと読めるんだ?
バカも休み休み言えよ。国家として貿易再開してる資料はあるのにね
さらに寧波焚焼事件の資料においても倭商が城内に入って略奪して
軍を破った記録はあるが、武力による力攻めなら当然生じる定海への
攻撃や城攻めの記録はどこにあるの?
193:名無し三等兵
13/06/05 09:26:34.02
>>192
「郡城に入れるなかれ」って思いっきり日本人入城禁止してるじゃん。
それに「貿易を止めるなかれ」で、入城は禁止した上で貿易は振興するという政策だろ。
国家として貿易再開してる資料はあるってことは、同時に日本人入城禁止も行われていたとする
馬元帥防倭記の記述を裏付けてるってこと。
194:名無し三等兵
13/06/05 09:31:02.95
>>193
だからその記述のどこに日本人が出てんだよ。年代も書いてない
さらに後段に関する返答は?それさえ出せば解決なのに未だに
出せないの
195:名無し三等兵
13/06/05 09:32:52.32
それから正月に起きた事件だってことわかってるんだよな
儀礼中のだまし討ち以外の描写どうやって読みとんの
196:名無し三等兵
13/06/05 09:39:43.04
>>194
どこに日本人が出てんだよって史料名が「防倭記」なんだが。。。
年代は>>189に書いたけど、1325年頃。
1305年頃には日本人は入城禁止されてたわけで、それが定制としてずっと継続されていたってことね。
あと、寧波(明州)焚焼が武力による組織的な襲撃だってことは太平記に記述があるよ。
『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。』(太平記)
197:名無し三等兵
13/06/05 09:40:57.80
『島夷歳以土物互市。郡境吏卒侵漁之、不堪以忿、
持所賚流黄等薬火城中。官府・故家・民居幾尽、
観亦与。至大二年也。』(慶元府玄妙観碑銘)
これはどういう意味なんだろうな
198:名無し三等兵
13/06/05 09:43:16.36
>>196
それは1309の事件があったから整備されたことだろうに
さらに太平記の記述は活発化した倭寇全体の描写で会って
特定の事件を意味するもんでないぞ
199:名無し三等兵
13/06/05 09:48:48.83
>>198
だから、事件の前から日本人入城禁止されてた史料もあるんだよ。
事件があったからじゃないの。
あと、太平記の記述はドンピシャで寧波焚焼事件と一致するんだな。
太平記は元朝襲撃したのを九州四国の海賊どもと書いてるけど、寧波焚焼事件とピッタシ同時期に
九州四国の海賊どもが大規模蜂起してる。
200:名無し三等兵
13/06/05 09:54:36.12
海賊って言葉の響きいいな。
子供の頃、将来何になりたいかと聞かれたら自分はいつも「海賊」と答えていた。
今は仕事場のマンションで、終日机に向かって仕事する翻訳家になってしまったけどな。
201:名無し三等兵
13/06/05 10:06:01.45
>>199
なるほどその海賊が商人になって正月に市内(城内)に乱入して放火したのか
自分で言ってて無理感じないのか?さらに>>196の書き方だと福建州一帯
荒らされてなければおかしいが1309年の時点でそんな記録どこよ
202:名無し三等兵
13/06/21 09:42:00.83
もしかして、元寇より倭寇のほうがヤバイ?
203:名無し三等兵
13/06/21 10:28:21.80
そりゃ被害の総計は倭寇の方が遥かに甚大でしょう
204:名無し三等兵
13/06/22 13:11:49.26
ライバルたちの光芒で元寇でてきたが
堺屋太一の「元寇=グローバリズム」並にひどかったわ
205:名無し三等兵
13/06/24 07:37:38.69
なんかNaver翻訳掲示板を思い出すなぁ。
議論も面白いスレだわ。
206:名無し三等兵
13/07/09 NY:AN:NY.AN Xex1T21Y
そもそも蒙古襲来も八百長戦争だった
URLリンク(music.geocities.jp)
日本共産党の機関紙「赤旗」に関係がみえてきた。
207:名無し三等兵
13/07/09 NY:AN:NY.AN SXDMx4y4
>>206
糞みたいな陰謀論サイト貼り付けんなカス
208:名無し三等兵
13/07/22 NY:AN:NY.AN
陰謀大好きドラえもん~♪
なごみましょう、なごみましょう。
209:名無し三等兵
13/08/01 NY:AN:NY.AN
>>201
海族が商人を兼ねることに何か疑問がある?むしろ普通だと思うけど。
210:名無し三等兵
13/08/03 NY:AN:NY.AN 7/dXQmqz
『太平記』の記述は中国側資料の『隣交徴書』とも内容がかなり一致する。
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、
なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、
まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、
公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。
海道の兵は、猝かに対応できない。」
211:名無し三等兵
13/08/04 NY:AN:NY.AN
慶元府の事件ってどういう経緯で発生したのだろう
単なる出先のトラブルとかではないよね
弘安における旧南宋=元の水軍の消失で倭寇の活動領域が増大したとか…
212:名無し三等兵
13/08/04 NY:AN:NY.AN
日本と元との冷戦状態が続く中、日本の商船は自衛のため武装化
↓
元朝側はますます警戒心を強め日本人の慶元府入城を禁止
↓
さらに日本の商船にだけ重税を課したため日本人の不満が爆発
↓
熊野浦海賊などを引き入れて慶元府襲撃
213:名無し三等兵
13/08/19 NY:AN:NY.AN
久々に元寇のwiki見たら写真資料充実し過ぎワロタw
鎧マニアだが河野通有奉納の大鎧とか初めて見たわ
214:名無し三等兵
13/08/21 NY:AN:NY.AN
あそこは編集合戦が結果として項目の充実を導いたねw
資料が充実して出典も明記されてるから、バイアスがかかってる上に
不満足な情報しか載ってない歴史豆知識本の類よりよほど有益
215:名無し三等兵
13/08/24 NY:AN:NY.AN
今年の冬くらいからさらに充実したのだな
216:名無し三等兵
13/08/24 NY:AN:NY.AN
かなり前から最近のWikipediaは侮れんのうって思ってたけど
進化し続けてるからなw
217:名無し三等兵
13/08/29 NY:AN:NY.AN
金方慶とクドゥンの軍議が壱岐の追撃戦で行われた説はなかなか面白かったのだけどな。
高麗軍主力が壱岐に留まり、主力軍が九州決戦で敗れて掃討戦の過程で全面撤退か一撃か軍議が行われたと言う説だったか。
本土で戦闘終了から(推定)撤退までのわずかな時間で軍議が決するのか?と言う疑問は依然として残ってる。
218:名無し三等兵
13/09/07 16:16:22.55
元寇と言う成功体験があり、鎌倉幕府を模範としながら、清の成立の時、黒船来航の時もあの時とは違いますと朝廷に建白して
まったく違う外交対応を取った江戸幕府も面白い政権だな。普通は鎌倉の頃と比較されて叩かれるのが怖くて戦っちゃうのに
219:名無し三等兵
13/09/07 16:36:56.40
明が救援要請したとき井伊さんが潰したんだっけ?
220:井伊(偽物)
13/09/07 16:45:44.78
>>219
ちょっと前まで戦争してた相手から救援要請されましても
221:名無し三等兵
13/09/07 17:08:15.85
>>217
問題の軍議がどこで行われたのかは判らないが、当時としては結構な暴挙である
「冬季夜間出航しての撤退。ちなみに敵前&上陸初日です」
を敢行するに当たって、伝令一発何の会議も無しだったら、蒙古軍の練度恐るべし。
222:名無し三等兵
13/09/08 02:47:56.01
>>220
井伊さんがぶっ潰すまで、結構割れてたみたいよ。
223:名無し三等兵
13/09/11 20:32:38.92
>>217
撤退の決断なんて時間かけちゃダメだろ
ほんのわずかな遅れが命取りになる可能性だってあるわけで
224:名無し三等兵
13/09/15 09:27:26.74
>>220
あれ前政権の暴走で徳川新政権は違うって事で手を打ったのに
225:名無し三等兵
13/09/15 12:55:36.80
夜半撤退を決める状況の軍議で金方慶が反対したとしたら、
作り話か、さもなくば将官として無能だと自白してるようなもの
だから九州本土とは違う場所での軍議ではと言われたのだろ
226:名無し三等兵
13/09/15 23:57:30.82
>>225
いや、朝鮮(高麗)としてはまだまだ戦えたのに宗主国の総司令官が撤退を決めたのでやむなく
撤退したのだとして、自国の武勇を誇るとともに敗戦の責任転嫁をしてるんだろ。
227:名無し三等兵
13/09/16 07:37:29.99
高麗史金方慶伝の信憑性に関わる問題になるなあ
228:名無し三等兵
13/09/16 08:31:17.22
金方慶の立場で言えば、同規模の遠征をもう一度やられたら高麗の負担が洒落にならないので
無理してでも日本を征服したかったのかも知れない。勝算があったとは思えないが。
229:名無し三等兵
13/09/16 11:03:30.64
「諸軍ともに戦え」まで元軍と高麗軍は別々に戦っていて
九州での戦闘体験を共有してなかったので危機感に差があった。
実際、その前の記述は高麗の中軍が遭遇した小規模な局地戦で
忽敦率いる元本隊がどこで何していたのか記されていない。
230:名無し三等兵
13/09/18 09:11:30.34 wCkt38jP
それ忽敦が諸軍ともに戦え、と言ったん
じゃなくて、忽敦の発言は前文で切れていて
諸軍ともに戦うという別の文節っすよ。
高麗史の翻訳を担当した先生の訳し間違い。
231:名無し三等兵
13/09/19 00:05:55.45
文永の役以前の諜報活動とか研究してる人いるのかしら。
時頼-憲宗の時期に警固体制強化の布令が出てるようだね。
232:名無し三等兵
13/09/20 11:53:12.26
>>230
それでも変わらないでしょ。
諸軍與戰まで高麗軍と元軍は別々に戦っていた。
「蒙人雖習戰、何以加此」は九州から逃げ帰った敗将の弁。
233:PC
13/10/04 22:24:01.93 J1ZR8z5E
金方慶伝はあくまで高麗軍の戦闘記録だから、高麗軍の戦闘を中心に述べており、
全軍のことは高麗軍との関連に於いて述べるだけ。
このことから言えば「諸軍」とは高麗軍の左軍、中軍、右軍のことである可能性も
あるな。
金方慶が直接指揮する中軍の戦闘を詳しく述べた後に、その他の高麗軍もともに戦って
夕方に及んだ、と言ってるだけじゃないのか?
234:名無し三等兵
13/10/04 23:05:26.31
手柄がほしくて無理やり他人の船に乗り込んできて戦闘に参加する
恐怖の九州地侍がすごいね
竹崎季長なんかフネに兜おいてきちゃうドジっこだけど、とりあえず脛当てをオデコに
つけて元軍の船にカチコミ→そのままぶっ殺しまくり大会開催しちゃう恐怖のドジっこだった。
235:名無し三等兵
13/10/04 23:12:05.06
>>233
三別抄との戦闘については高麗軍以外のことも書いてあるよ。
金方慶伝だけじゃなく世家や年表も同様だけど、高麗史に書いてあるのは
壱岐の戦闘だけで九州の戦闘の記述が無い。
でも、文永の役で元軍は博多湾から上陸してるわけで、元軍は高麗軍とは
分かれて九州で戦ってたはずなのね。
236:名無し三等兵
13/10/05 01:02:21.21 W5Rdl+SZ
>>214
少なくとも日本史関連では一番充実してる記事だと思うわ。
あそこまで一次史料からの出典をキッチリやってる記事他に無いよ。
戦国時代関連なんて結構ヒドいの多いし。
237:PC
13/10/05 10:29:31.98 nTllqcFK
>>235
「諸軍」の解釈次第だ。「諸軍」が高麗軍各部隊の意味ならばその説はなりたたない。
では「諸軍」の使われ方を見てみよう。文永の役が終わった忠烈王二年に、金方慶が
讒言される遠因となったできごとが書いてある。
出張から帰った金方慶を迎える集まりで、ある部将が金方慶の麾下(旗本)に先んじて
金に献杯しようとして麾下からなじられて答えた言葉:
「諸軍与麾下皆人也、何先後之有」「諸軍も麾下も人として平等である、先も後もなかろう」
この諸軍は動員が解かれた平時において高麗軍のトップを迎える集まりであるから、蒙漢軍
などがいるはずがない。すなわち「諸軍」とは高麗軍各部隊の意味である。
238:PC
13/10/05 10:46:35.42 nTllqcFK
もうひとつ。弘安の役の対馬戦の記述に次の文章がある。
「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下与戦」
ここには「諸軍与戦」まである。
すなわち、部将の金周鼎の部隊がまず先鋒として日本軍と交戦し、その後に
「諸軍」がみな船を下りてともに戦った。
文永の役と同様に、対馬戦では蒙漢軍の主力はまだ参戦せず、日本軍守備隊の
制圧は高麗軍にまかせたと見られる。
したがってこの文章の「諸軍」もまた、「高麗軍各部隊」である。
239:名無し三等兵
13/10/05 11:21:05.31
>>237>>238
「諸軍」なんて言葉がそんな限定的な意味なわけないじゃん。
現に金方慶伝には高麗軍のことだけでなく劉復亨の負傷の記述もあるし。
あと、高麗軍と元軍が別々に戦ってたことは史料上確かなこと。
だって高麗軍は壱岐までしか行ってないからね。
240:名無し三等兵
13/10/05 12:53:37.17 QdKgSEV0
壱岐までじゃなくて三郎浦=早良郡に高麗軍が上陸したと高麗史に
あるだろ。
241:名無し三等兵
13/10/05 13:21:40.54
>>240
三郎浦≠早良郡だよ。
高麗史には壱岐までしか到達してないと明記してある。
『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』(高麗史表)
242:名無し三等兵
13/10/05 13:40:07.87 QdKgSEV0
それは金方慶伝を思いっきり省略した高麗史表だろ。
本文である金方慶伝に三郎浦と書いてあるんだから、
高麗軍が三郎浦=早良郡に上陸したのは明白。
243:名無し三等兵
13/10/05 13:44:40.46
>>242
省略してあるだけで高麗史表も金方慶伝も意味は同じだろ。
同じ出来事に関する記述なんだから。
三郎浦は壱岐の地名であって九州じゃないってこと。
244:名無し三等兵
13/10/05 13:52:58.28
PCって何だろうと思ったらパフォーマンスコンクールの略自称ですか…
245:名無し三等兵
13/10/05 16:04:55.92 QdKgSEV0
意味は同じじゃねえよ。
本文から省略文である高麗史表が本来の意味を
失っていることは、金方慶伝が暴風雨で敗れたと
する記述が表だと壱岐に到着し戦闘で敗れたかの
ように改竄されていることからも本来の意味は
表では喪失している。
恐らくは金方慶伝の本文を1450年代に高麗史を
編纂する過程で全く違う意味の省略文にまとめ
あげたのが高麗史表なのだろう。
でさ、三郎浦=早良郡じゃなくて壱岐だとするなら
壱岐のどこよ?
246:PC
13/10/05 16:17:18.84 fiQZ89mh
>>239
>「諸軍」なんて言葉がそんな限定的な意味なわけないじゃん。
もちろん限定的とは限らない。しかしまた「諸軍」と書いてあれば必ず「高麗軍+元軍」の
意味であるとは言えない。
現に上に示した二つの例では諸軍が「高麗軍各部隊」の意味であることは認めるだろう?
>現に金方慶伝には高麗軍のことだけでなく劉復亨の負傷の記述もあるし。
そのことも>>233で「全軍のことは高麗軍との関連に於いて述べるだけ」という形でちゃんと
言っている。
高麗軍が撤退した事情に関わる重大事だから触れたのだ。
247:名無し三等兵
13/10/05 17:42:42.77
>>245
同じ意味じゃん。
暴風雨で船が敗れたのは帰路の出来事で撤退理由じゃないし。
壱岐で戦闘したうえで撤退に追い込まれてるんだから、まとめるなら
「 壱岐に至りて戦い敗れ」が一番適切。
三郎浦はおそらく壱岐の瀬戸浦あたり。
探せば他にも候補が見つかるだろ。
248:名無し三等兵
13/10/05 19:19:16.61 QdKgSEV0
はぁ?
いつどこで壱岐で決戦があり元軍が撤退したんだ?
当然、壱岐で決戦があったとする日本側の史料は
存在するんだろうな?
決戦なんだから、一日で終わった博多の攻防より史料が
多くないとおかしいことになるぞ。
でさ、瀬戸浦が三郎浦だとするソースは何よ?
壱岐決戦とか三郎浦が瀬戸浦とか荒唐無稽な主張ばっか。
249:名無し三等兵
13/10/05 23:08:25.67
>>248
壱岐で決戦があったなんて言ってないだろ。
高麗軍は壱岐で、蒙漢軍は九州で別々に戦ってたと言ってるわけで。
どの戦いが決戦の名に相応しいかと言えば、当然蒙漢軍の戦った九州の方。
九州から逃げ帰った忽敦は壱岐で金方慶を説得して撤退を決め、出航した際に暴風雨に遭った。
早良郡に上陸したのが蒙漢軍だってことや、元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖だということは、
日本側史料とも一致する。
250:名無し三等兵
13/10/06 05:37:23.99
日本軍は博多沖から蒙古の船団が消えた時点で戦闘終了を確信するはずがなく、
必ず敵の行方を追跡するはず。本土決戦後の撤退戦を想定するといろいろ説明が付きやすいことは確か。
251:名無し三等兵
13/10/06 08:11:31.61 YBJ4s0oG
>>249
>早良郡に上陸したのが蒙漢軍だってこと
正確には、「早良郡に上陸した遠征軍の中に蒙漢軍もいた」ってことだろ?
>元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖だということ
正確には、「壱岐に漂着した遠征軍の船が多数あった」ってことだろ?
252:名無し三等兵
13/10/06 11:00:11.37
蒙漢軍の規模考えたら、「早良郡に上陸したのが蒙漢軍」で問題無いだろ。
それに壱岐に漂着した元船の突出ぶりを見れば、「元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖」
だというのも確実。
253:名無し三等兵
13/10/06 13:32:14.33 ESE0nqkH
確実じゃねぇよ。
勘仲記によれば、蒙古軍は南風に押し返されたって
あるだろ?
博多を出港して暴風雨にあっても南風で押し流されるのは
壱岐しかねえんだよ。
254:名無し三等兵
13/10/06 13:48:19.48
博多沖で暴風雨に流された船団が130艘もまとまって壱岐に漂着するわけないじゃん。
130艘という突出した数字は、暴風雨遭遇の場所が壹岐だったことを完璧に証明してる。
255:名無し三等兵
13/10/06 14:15:21.82
ちょと待て暴風雨で流された場合は一か所に狭くまとまるぞ
ついでに壱岐で暴風雨に遭ったら漂着という書き方にならんぞ
256:名無し三等兵
13/10/06 14:21:28.95 ESE0nqkH
博多を出港して南風で押し流され、壱岐にまとまって
漂着することのどこに無理があるんだ?
博多を出港して南風の暴風雨にあったら、壱岐に必然的に
たくさん漂着するのは当たり前だろ。
むしろ壱岐から出港して壱岐に130艘漂着したということは
壱岐で暴風雨の中を出港するとか有り得ない状況になって
しまうわけだが?
それにお前の自説だと高麗史の記述だと壱岐で劉復亨が負傷した
ことになってしまうんだが?
257:名無し三等兵
13/10/06 14:35:21.57
壱岐で暴風雨にあったら座礁って書き方になるしなw
258:名無し三等兵
13/10/06 14:41:01.60
>>256
暴風雨の中を出港したんだろ。
高麗史では夕暮れまで戦い、それから撤退を決定し、その夜暴風雨に遇った
ことになってる。
高麗軍が博多まで到達していたのなら、元艦隊は博多湾内で暴風雨に
遇ったことになるが、日本側史料からそれはあり得ない。
つまり高麗軍は博多湾には到達していない。
259:名無し三等兵
13/10/06 14:43:21.38
>>254,258
君の主張だと壱岐から出発した軍は暴風雨に頭から突っ込むことになるんだけど
どうやってそんな進路とるの?この暴風雨って台風のことでいいんだよね
先に来てる風のせいでそっち方向に進路とろうなんて考える船長いないんじゃないの
撤退決定したなら湾内に留まらないのは当然だし
260:名無し三等兵
13/10/06 14:44:57.01
ちなみに博多湾内だと外海の風や波わからないから撤退しようとして湾外に出てあらしに遭遇ってのは
十分に成り立つよ
261:名無し三等兵
13/10/06 14:54:45.39
>>259
暴風雨は台風じゃないよ。
統計的に文永の役の時期に台風が九州を襲うことはない。
あと、暴風雨遭遇の日付は10月24日。
元軍の博多湾撤退の日じゃない。
262:名無し三等兵
13/10/06 14:57:44.33
統計的に台風が10~11月に九州に来ないとは
これ見る限り断言できんな
URLリンク(agora.ex.nii.ac.jp)
263:名無し三等兵
13/10/06 15:00:49.72
それからもう一つ>>261で10月24日と書いてあるのはミスリードを誘う手法だな
現代の暦に換算して9月後半と書かなければまずいと思う
264:名無し三等兵
13/10/06 15:02:14.67
おっと自分も引きずられて
>>262で10~11月と書いてら。ここ9~10月に訂正
265:名無し三等兵
13/10/06 15:04:56.46
>>263>>264
文永の役当時の10月20日は現代の暦に換算すると11月26日なんだが・・・
266:名無し三等兵
13/10/06 15:06:48.34
>>265
換算法kwsk
267:名無し三等兵
13/10/06 15:14:25.85
>>266
URLリンク(qir.kyushu-u.ac.jp)
268:名無し三等兵
13/10/06 16:57:49.44
文永の役が11月末だと言うのを頭に入れてないと
夜半撤退の意味が分からんじゃろうに
269:PC
13/10/06 16:58:12.76 zizOTh1U
>>252
>蒙漢軍の規模考えたら、「早良郡に上陸したのが蒙漢軍」で問題無いだろ。
蒙漢軍兵士の捕虜がいたというのは蒙漢軍がいた証拠にはなるが、高麗軍がいなかった
証拠にはならない。
>>258
>高麗軍が博多まで到達していたのなら、元艦隊は博多湾内で暴風雨に遇ったことになるが、
意味不明。なぜそうなるの?
>元艦隊は博多湾内で暴風雨に遇ったことになるが、日本側史料からそれはあり得ない。
遠征軍の艦隊がどこで暴風雨に遭ったかを示す日本側史料は無いはずだが、君の言う「日本側史料」
って何?。
また、遠征軍艦隊は壱岐に漂着するまでに暴風雨に遭えばいいのだから博多湾内だって別に構わない。
まあ外海に出てからだろうけどね。
270:名無し三等兵
13/10/06 17:00:46.99
うん?博多湾内なんて陸から普通に視認できるところで敵の船団が難破したら
記録に残らんはずないんじゃないの?
271:名無し三等兵
13/10/06 17:04:44.46 ESE0nqkH
暴風雨の中を出港なんてするわけないだろ。
日本側の史料でも博多で劉復亨が負傷したことが
わかるのだから、高麗史の記述は明らか博多の戦闘。
そもそも、壱岐で大規模な戦いがあれば、何がしか記録に
残っているはずだが、そんな記録は皆無。
勘仲記に蒙古軍船が南風で北に押し流されたと書いてあり
壱岐に漂着船が多数あったということは博多湾を出たところで
蒙古軍船は暴風雨に見舞われたってことがわかる。
でさ、24日に暴風雨があったって何の史料?
272:名無し三等兵
13/10/06 17:07:09.75
>日本側の史料でも博多で劉復亨が負傷したこと
史料名プリーズ
273:名無し三等兵
13/10/06 17:10:19.37 ESE0nqkH
八幡愚童訓と少弐系図。
で、壱岐で大規模な戦いがあったとする史料プリーズ。
274:名無し三等兵
13/10/06 17:11:35.08 ESE0nqkH
あと24日に暴風雨があったという史料もな。
275:名無し三等兵
13/10/06 17:13:15.89
ぼくも待ってる所。個人的には高麗が壱岐で戦って単独で撤退なんか決めたら
絶対、後始末の記録あると思うんだけね
276:PC
13/10/06 17:15:00.05 zizOTh1U
高麗軍が九州まで来たことを示しているのは金方慶じしんの言葉だ。
「敵境に入った」とか「焚船の計」とか言うのは九州で言ってこそ似つかわしい。
味方は占領地、人員、補給において有限性があるが、敵方はそれらにおいて(相対的に)無限性を
有する、という状況において兵士に覚悟を強いる言い方だからだ。
壱岐のような離れ島では船でやってきたという敵方にも有限性がある。
だから「敵境に入った」や「焚船の計」はおおげさだ。
277:名無し三等兵
13/10/06 17:17:44.32 ESE0nqkH
そもそも三郎浦が瀬戸浦だとするソースを出せよ。
早良郡の当時の音は「サウラ」であり、高麗史の「三郎浦」は
「サムラン」と読み音が通ずる。
早良郡が三郎浦であることは疑い様がない。
高麗史の記述は明らかに博多湾の記述。
278:名無し三等兵
13/10/06 17:25:18.12
というか、金方慶は壱岐までしか来ていないなら
「壱岐に至りて戦い敗れ」から、壱岐で何者かに敗北した事にならない?
一方で九州まで来たなら、この文は「博多(あるいは太宰府)に至って敗れた」になりそうな気もするが。
279:PC
13/10/06 17:26:21.14 zizOTh1U
>>275
>個人的には高麗が壱岐で戦って単独で撤退なんか決めたら
いや、彼の説は単独決定じゃないんだよ。
高麗軍が壱岐で守備隊かたづけてのんびりしていたら、そこへ九州でやられた元軍と
追撃の日本軍とがやってきて、あらためて「諸軍ともに」日本軍と戦って、あらためて軍議を
開いて、金方慶が再戦を主張したがクドゥンの撤退論に押し切られた、とこうなるわけ。
そのあと全軍が壱岐を出航して台風に遭うわけだ。
280:名無し三等兵
13/10/06 17:31:56.92 zizOTh1U
>>277
「三郎」でサムランね。浦まで入れればサムランポ。
ちなみに朝鮮語の「浦」は河口湾を意味する。
281:名無し三等兵
13/10/06 17:32:54.64
>>279
壱岐のそばで海戦したってこと?初耳なんだけどどの史料に載ってる?
282:名無し三等兵
13/10/06 17:34:29.96 ESE0nqkH
278
だから、それは高麗史表で金方慶伝の記述を
無理矢理簡略した結果、本来の金方慶伝の意味を
完全に失っただけ。
283:名無し三等兵
13/10/06 19:18:34.80
>>282
高麗史は複数の文献をしもとに編纂されてるわけで、金方慶伝の記録が本来の意味とは
異なる簡略化をされるとか無理矢理過ぎ。
高麗史が壱岐までしか到達してないとしてる以上、三郎浦が九州でないのは確定だよ。
284:名無し三等兵
13/10/06 20:11:21.92 ESE0nqkH
無理矢理なのはお前だ。
例えば、弘安の役の高麗史表では「覇家台に至り、
戦いて敗れ、軍の還らざるもの十万有奇」とある。
覇家台とは博多のことであるが、弘安の役において
博多で戦い敗れ、軍の還らざる十万有奇といった
戦いは起きていない。
この点だけでも高麗史表の杜撰さが際立つ。
その杜撰な高麗史表を基に壱岐で大規模な戦いが
あったとは無理矢理すぎだよお前。
さらに弘安の役の部分も世家の簡略化版だし。
世家にこうある。
「太宰府に至りて累戦し(中略)官軍の返らざる者、
無慮十万有畿」
高麗史表は史料を参考にしたのではなく、元寇から
二百年後の人間が高麗史表を記述するのに金方慶伝や
世家の記録の本来の意味を喪失してまで簡略化した駄文に
しかすぎない。
285:名無し三等兵
13/10/06 20:14:35.19 ESE0nqkH
てか、早く壱岐で大規模な戦いがあったとする史料。
10月24日に暴風雨にあったとする史料。
瀬戸浦から上陸したとする史料。
劉復亨が壱岐で負傷したとする史料だせよ。
286:名無し三等兵
13/10/06 22:00:25.81
>>284
>覇家台とは博多のことであるが、弘安の役において
>博多で戦い敗れ、軍の還らざる十万有奇といった
>戦いは起きていない。
>この点だけでも高麗史表の杜撰さが際立つ。
「老松堂日本行録」によれば1420年に朝鮮の宋希環が博多に滞在した際、筥崎の松亭
について日本人から「弘安の役の時、高麗人戦亡の地なり」と説明受けてるよ。
つまり編纂が杜撰なのではなくちゃんとソースがあって書いてるの。
>>285
壱岐で大規模な戦いがあったとか誰も言ってないけど?
287:名無し三等兵
13/10/06 22:09:49.53 YBJ4s0oG
>>281
>壱岐のそばで海戦したってこと?初耳なんだけどどの史料に載ってる?
いや、彼の説は壱岐沖海戦ではない。
九州から逃げ帰った元軍も、追撃して来た日本軍も壱岐に上陸して壱岐で陸戦。
そして「及暮乃解」で自然休戦になって、例の軍議に移るわけだ。
すべて壱岐の陸上でのこと。
だから史料は金方慶伝ということだろう。
288:名無し三等兵
13/10/06 22:16:12.33
文永の役において日本軍が壱岐対馬まで追撃した史料。
「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
『菊池系圖』
「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
『菊池系圖』別本
289:名無し三等兵
13/10/06 22:45:45.89
>>269>>271
高麗史には「戦艦は岩に触れて多く敗れた」と書いあるんだから外洋なわけない。
明らかに暴風雨遭遇の場所は元船が大量に座礁してた壱岐沖だろ。
290:名無し三等兵
13/10/06 22:59:18.43 YBJ4s0oG
>>289
外洋というのは博多湾の外という意味だ。博多湾を出れば黒潮の影響を受けるのだから外洋だ。
壱岐だって外洋。
>明らかに暴風雨遭遇の場所は元船が大量に座礁してた壱岐沖だろ。
壱岐は半島へ帰るルートなのだし、壱岐周辺は暗礁も多いからそこで遭難したって別に
不思議ではない。もちろんそれ以前に遭難して壱岐に漂着したこともあり得る。
わからないのは、なんでそれが壱岐陸戦の証拠になるのかということ。
291:名無し三等兵
13/10/06 23:35:29.36 YBJ4s0oG
>>288
それは文永の役のことと弘安の役のことを合体している可能性が高いな。
系図なんて江戸時代に書き込まれたかも知れないんだからあてにならんよ。
少貳の敵将射落としだって系図では弘安の役のことにされちゃってるし。
292:名無し三等兵
13/10/07 00:02:53.89
韓国語版WIKIは都合の悪いこと一切書いてないから
なんとかしてくれ。
元寇といい、ベトナム戦争でのレイプといい・・・。あの民族はいつもそう。
293:名無し三等兵
13/10/07 02:49:47.61 2geRKbsC
はぁ?
『老松堂日本行録』なんて、百年以上先の人間が書いた
史料が何の関係がある?重要なのは高麗史表に書かれた
「覇家台に至り、 戦いて敗れ、軍の還らざるもの十万有奇」
のような戦いが実際に起きていないということが重要なんだよ。
本文を省略する過程で本来の意味とは全く違う意味になったのが
高麗史表。こんなのを拠り所にしてる時点でお前の珍説は信憑性
の欠片もない。
壱岐で漂着した元軍の掃討戦があったのは誰も否定は
してねぇよ。
『安国論私抄』にも小規模な掃討戦があったことが
書かれているからな。
ただ、『高麗史』金方慶伝の軍議の内容のような
大規模な戦いがあったって裏付ける史料は皆無。
294:名無し三等兵
13/10/07 02:50:50.81 2geRKbsC
お前は金方慶伝の軍議は壱岐であったと言ってるだろ?
つまりは、元軍と高麗軍が協力して夕暮れまで続くような大規模
な戦いがあったと主張しているわけだ。
そもそも、元軍と高麗軍が夕暮れまで日本軍と壱岐で激戦が
あれば、大規模な戦いなのだから日本側に記録が残らないわけ
がない。
公家の日記にも武家の記録にも壱岐で高麗史金方慶伝のような
戦いが起きたとする史料はなく、お前の頭の中にしかない。
だから、何度も言わせるな。
壱岐で暴風雨の中を出港とか有り得ないから。
勘仲記には、元軍が南風によって押し流されたと
あるが元軍の被害には触れていない。
それはそうだろう。博多湾を出たところで強烈な南風にあって
元軍は壱岐の沿岸に押し流され、そこで岩に触れて船が
壊れたんだから。
よって壱岐に漂着船が多いのは当たり前。
295:名無し三等兵
13/10/07 10:34:48.15
>>293
高麗史が完成きたのは1451年。
1420年に日本の博多訪れた際に日本人から直接情報得たら当然編纂に影響与えるだろ。
つまり高麗史はちゃんとした根拠のもとに編纂されており自分に都合が悪いからって、
文永の役で壱岐までしか到達してないという記述を無視することは許されないってこと。
あと壱岐で戦闘があったこと自体は日本側史料にもあるんだから何の問題もないだろ。
日本軍と元軍の戦力差を考えれば、元側から見て大規模な戦闘でも日本側からは
小規模な戦闘ってことは十分あるわけで。
296:名無し三等兵
13/10/07 13:26:28.64
壱岐説って前スレできちんとした仮説として取り扱われてたのだが、
これを頭ごなしに否定してるageくんはこのスレ初めてなの?
297:PC
13/10/07 13:41:42.04 LMnQa3IF
ひとつ気がつかなかった。
壱岐は遠征軍艦隊の予定の停泊地だった可能性が高いな。撤退する艦隊はなにごともなければ合浦まで
直行するはずだ、と考えるのは今日の我々の、動力船時代の頭だ。
遠征軍の船は帆もあるが主としては手漕ぎが推進力。手漕ぎは風まかせでないかわりに航続力は短い。
漕ぎ手を休ませなかればならないからね。両戦役を通じて艦隊の行動が島伝いなのはそのせいだろう。
つまり、博多を撤退した後の第一行程はもともと壱岐までだった。
全艦隊は台風で多くの船を失いながらも予定通り壱岐をめざし、ひとまず壱岐に停泊した。
そして壱岐を出るときに、使用に耐えなくなった船や、座礁した船、そして上陸用舟艇などの
不要になった船を遺棄した。
そう考えれば900隻のうち130隻ぐらいの船が壱岐に遺棄されたとしてもなんの不思議もない。
なにも壱岐陸戦(文永の役の第二次戦闘)などに結びつける必要はない。
298:名無し三等兵
13/10/07 15:14:01.54
撤退する艦隊が壱岐に立ち寄ることが漕ぎ手の疲労の観点から当然予想されるとしたら、
追撃するはずの日本軍は敵軍進路が予想されるのに黙って見てたことになるわけだが、
それはおかしいと思わないんだね。この人は。
299:PC
13/10/07 15:44:55.33 LMnQa3IF
>>298
追撃する以前に、博多を出て行くのを「黙って見てた」ではないか。
まあ、「黙って見てた」というのも、撤退に気がついていたとすればの話だが。
300:名無し三等兵
13/10/07 18:30:19.11
>>297
だったら江南軍が直行コース選ぶわけないし
301:名無し三等兵
13/10/07 19:54:23.08
歴史の事なんて全然知らないのでウィキペディアに頼り切ってしまうが、文永の役で元軍は
10月03日 朝鮮半島の合浦を出航
10月05日 対馬上陸
10月14日 壱岐上陸
10月16日 肥前に襲来(17日かも)
10月20日 博多に上陸
というスケジュールで博多まで来ている。戦闘しながらで所要17日。その後、博多で日本軍の反撃に遭い、
1日で作戦継続を断念、撤退した。
で、この撤退した軍が合浦に帰還したのが、1ヶ月以上後の11月27日。戦いながら来た往路の2倍以上の期間
彼らは何をしていたのか? まさか海を彷徨っていたわけではなかろう。
壱岐(あるいは対馬?)に留まって、風待ちだか船の修理だかをしていたと見るのが適当だろう。その場合
元軍は、一ヶ月前後壱岐を支配していた事になる。
で、金方慶が壱岐留守部隊だったというのは、一応筋が通らないかな?
302:名無し三等兵
13/10/07 20:02:16.12
>>299
黙って見てたわけないじゃん。
日本軍は300余艘の兵船で追撃してる。
303:名無し三等兵
13/10/07 20:30:20.55
>>301
史料が事実を伝えており、本土で蒙古軍が甚大な被害を被ったのに金方慶が戦闘継続を主張することに合理性があるのであれば、
かなり有力に考えられるのが忽敦と金方慶の戦況判断の根底にある情報が共有されていなかったケース、つまり2人が別行動していたと言う想定だと思うよ。
実際、本土決戦での被害を見てもまだ金方慶が戦闘を主張したと言うのであれば、それは愚将(含む政治的判断)もしくは舞文曲筆を疑わざるを得なくなる。
304:名無し三等兵
13/10/07 21:20:05.50
「金方慶、壱岐でお留守番説(仮称)」に従って、もう少し考える。ウィキペディア鵜呑みご容赦
10月14日以降、留守部隊(規模不明)と共に壱岐に駐留していた金方慶の下に、10月23~25日頃
九州攻撃部隊が逃げ帰ってきたとする。そして問題の軍議になるが、この時点で元軍に可能な選択肢は
案1:完全撤退(結局はこうなった)
案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
案3:占領を維持して、壱岐だけでもぶんどる。
の3つが主要な物となろう。壱岐留守部隊の規模は不明だが、高麗軍全部残っていたら戦闘員の
1/4ないし1/3という、結構な規模になる。この兵力を加えて九州再侵攻すべしと言うのが
お留守番説を前提にした、金方慶の主張と考える。
で、総司令官は壱岐留守部隊の戦力を加えても勝ち目無しと判断したというシナリオになると。
寸土をも得られぬ完敗を避けるために、案3を選択しなかった理由は判らない。壱岐の維持すら難しいほど
日本は強いと考えたのだろうか。
305:名無し三等兵
13/10/07 21:38:15.18
昔から不思議だったんだけど元寇の時
対馬とか壱岐の住人って住人も含めて全滅したの?
それとも守備隊以外は山に篭ってやり過ごしたの?
306:名無し三等兵
13/10/07 22:25:25.99 s1xVucSW
>>304
>九州攻撃部隊が逃げ帰ってきたとする。そして問題の軍議になるが
それほど単純でない。だってクドゥンが壱岐に現れた(金軍の奮戦を賞めた)あとに
「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘があるのだから、日本軍追撃部隊も壱岐に上陸している。
当面の問題はこの日本軍をどうするかだ。
>案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
その案はない。だって金は「船を焼いてもいい」と言うのだから、もはや九州侵攻は
考えていない。
307:名無し三等兵
13/10/07 22:37:40.76 s1xVucSW
>>302
>黙って見てたわけないじゃん。
よく読んでね。
「撤退に気づいていたとすれば黙って見ていたことになる」という意味だ。
実際は日本軍は撤退に気づいていなかった、つまり撤退の現場にいなかった。
それが見事な撤退作戦成功の、唯一の合理的説明。
308:名無し三等兵
13/10/07 22:53:46.90
>>307
いや、実際には日本軍は現場にいてしかも追撃してる。
元軍の撤退は成功なんてしていない。
百道原と姪浜で日本軍に殺されまくりながらの悲惨な壊走だよ。
309:名無し三等兵
13/10/07 22:54:30.27
>>306
まず、日本軍追撃部隊は存在したとしても撃退されたと考えるべきでしょう
(合浦に帰還するまで一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたとするならば)
そうなると「諸軍与戦、及暮乃解」ではなく、日本軍を大いに破ったという記述が
来そうな物ですが……。
> >案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
>
> その案はない。だって金は「船を焼いてもいい」と言うのだから、もはや九州侵攻は
> 考えていない。
ということは、金方慶は船を焼いてでも壱岐を死守すべき(>>304で言う案3?)と主張したと
お考えですか? 壱岐の死守と領土化を目的とした場合、船を焼くのは下策かとも思えます。
(壱岐を確保する為には、海が安定する春まで粘って援軍を呼ぶ必要があるが、その時援軍を運ぶのに
新たな船を一冬で作るのは困難。壱岐にある船をいったん朝鮮半島まで回航して援軍を乗せる必要がある)
310:名無し三等兵
13/10/07 23:13:56.68
>>309
一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたは無いでしょ。
11月6日に元軍が本国に帰還したと京都に報告されてるんだから。
元軍が壱岐にいる状況でそんな報告はできない。
一ヶ月ほど巨済島とか済州島とかに滞在してたんじゃね?
311:名無し三等兵
13/10/08 00:51:25.23 ybegOSqB
>>295
何度も言わせるなよ。
『高麗史』表は金方慶伝や世家の簡略版。
日本人から情報を得てなどお前の根拠もない妄想だろ。
金方慶伝や世家の内容と簡略版の表にズレがあるということは
高麗史表は史料としての価値はない。
表が都合がいいからと表の性格を無視して使用すべきでは
ない。
はぁ?どの日本側の史料に夕暮れまで激戦があったとする
記述があるんだ?
系図にしたって対馬の記述しかないだろ。
元軍と高麗軍が合同して一日中、日本軍と
戦いながら日本側が小規模な戦闘と認識して
いたわけないだろ。本当に都合の悪いことは
曲解する奴だな。
まず、お前の珍説を立証するには
一、三郎浦とは壱岐のどこか?
二、壱岐に大規模な戦闘があった証拠。
三、高麗軍が壱岐までしか到達していないという
高麗史表以外の史料。
四、劉復亨が壱岐で負傷したとする史料。
これを示さなければお前の珍説は珍説でしかない。
そもそも、高麗史の元軍上陸地点である三郎浦と
博多湾の早良郡の音が通じ、高麗史の記述は明らか
博多の戦闘以外有り得ない。
312:名無し三等兵
13/10/08 01:01:11.07
>>311
残念ながら『高麗史』表と世家の内容にズレはない。
『高麗史』世家
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、
伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。 会々、夜、大いに風ふき雨ふる。
戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金セン、溺死す。」
世家でも高麗軍は壱岐までしか到達してないんだよね。
つまり、本文を省略する過程で本来の意味とは全く違う意味になった
というのはお前の妄想。
313:名無し三等兵
13/10/08 01:15:51.85 ybegOSqB
お前は馬鹿なのか?
文永の役の本文の記述は金方慶伝だ。
世家が省略文なのは金方慶伝と同様の記述があることは明らか。
金方慶伝の記述では『一岐島に至りて‥』の後に『千余級を撃殺』で
平景隆との戦いだ。
さらに金方慶伝の記述では一岐島に至るに、『倭兵は岸上に陳す。』とある。
ってことは博多湾から逃げ帰った元軍が壱岐に至ったという意味では無く
壱岐島には日本軍の守備隊がいたということ。
つまりは平景隆の戦闘を表す。
で、元軍は三郎浦=早良郡に上陸したというのが
本文の金方慶伝の内容。
博多湾の戦闘後、壱岐で大規模な戦いがあったなど
結局そんな史料は全くないのだよ。
314:名無し三等兵
13/10/08 01:19:32.83
>>305
(歴史の時間軸で)ちょっと前まで子供がぐずると「むくりこくり」と言われたらしい
そういうこと
315:名無し三等兵
13/10/08 01:34:45.30
>>313
いや、表や世家と同様に壱岐までしか到達できずに撤退したというのが
金方慶伝の内容だよ。
自分の都合に合わせて勝手に史料を捻じ曲げて解釈しちゃダメね。
316:名無し三等兵
13/10/08 02:46:31.83
>>313
一応の根拠史料を呈示して検討を加えている人間に対して「馬鹿なのか」というレスはさすがに失礼。
317:名無し三等兵
13/10/08 09:32:49.63 jAj9oT2V
>>309
>合浦に帰還するまで一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたとするならば
それが貴方の新説であれば別ですが、彼の説の話ならば、彼の説は及暮乃解→軍議→撤退→遭難は
金方慶伝の通りに同じ一日のなかのできごととしているのです。
>「諸軍与戦、及暮乃解」ではなく、日本軍を大いに破ったという記述が来そうな物ですが……。
そんな記述はないのですから、日本軍は居残っていることを前提にしなければなりません。
>壱岐の死守と領土化を目的とした場合、船を焼くのは下策かとも思えます。
その通りです。金方慶が壱岐に居たのならば、焚船の計を口にするのは全く不適当なのです。
九州に居ての話ならぴったりですが。
318:名無し三等兵
13/10/08 09:39:41.83 jAj9oT2V
>>308
>いや、実際には日本軍は現場にいてしかも追撃してる。
ソースをどうぞ。
>元軍の撤退は成功なんてしていない。
たった1隻の座礁船とその乗員を除いて一兵一馬も残さなかったのだから鮮やかな成功だ。
座礁船については多くの文献に記述されているのだから、他に残っていなかったことは明らか。
319:名無し三等兵
13/10/08 12:07:17.24
>>318
日本軍が追撃してるソース
「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、
廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
『歴代皇紀』
志賀島の1隻は座礁じゃなく追撃で捕えられたんだよ。
暴風雨の後で志賀島に流れ着いた元船は2隻。
320:名無し三等兵
13/10/08 13:22:41.53
>>304
壱岐だけでも分捕ると言うけど、日本軍は敵主力を九州本土で大破して、
本土に近い壱岐に追撃をかけ、その数も日増しに増強されているのだから維持なんて不可能だよ
これが忽敦の判断でしょ
321:名無し三等兵
13/10/08 15:17:47.47 jAj9oT2V
>>319
兵船三百余艘の話は他の全ての史料にない。したがって裏付けがない。
「神威力云々」と書いてあるから、一代要記の「兵船二艘出来暗天合戦」や
八幡ノ蒙古記の白装束と同じような神様系だろう。
なお志賀島の座礁ないし漂着船は全ての史料で一隻。兵数が60~200人と差があるだけ。
この事件がこれだけ一致して取り上げられているということで、他に一兵一馬を
残さなかったことが推察される。見事な撤退作戦だ。
322:名無し三等兵
13/10/08 17:33:20.30
>>321
「賊船二百餘艘漂倒、神威力云々」は『勘仲記』十一月六日条で暴風雨を
神威と解釈した記事と一致する。
つまり裏付けがある。
志賀島の一隻は『帝王編年記』によれば合戦で捕えられた船であって
座礁ないし漂着船ではない。
日本軍の追撃による戦果なんだよ。
暴風雨の後で志賀島に漂着した船は『朝師御書見聞』によれば二艘。
323:名無し三等兵
13/10/08 20:40:23.66
冬の夜半に玄界灘に乗り出して見事な撤退もくそもあるものか
そういうのは尻をからげて逃げ出したと言うんだよ
324:PC
13/10/08 20:42:08.10 Zpa9xZu9
>>321
>『勘仲記』十一月六日条で暴風雨を神威と解釈した記事と一致する。
なるほど「神威」が一致するというわけか。まさに信仰だな。
>志賀島の一隻は『帝王編年記』によれば合戦で捕えられた船であって
>日本軍の追撃による戦果なんだよ。
なんだ、これのことか。
「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之、於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」
他に合戦の記述はないんだから「蒙古與武士合戦」は一般的な合戦のことだ。だから「賊船一艘取留乃」
は追撃戦の結果とは言えない。全体として「蒙古と武士の戦いがあった。船を一隻押収した。志賀島で
押収した。他の賊は帰った」と言っているだけだ。勝手に帰ったのを「追い返した」と言うのは言葉の綾だ。
これで海上追撃戦は消えたな。
325:名無し三等兵
13/10/08 22:48:27.77
>>324
合戦の結果として「賊船一艘取留乃」と書かれてるんだから、追撃戦の結果以外の
可能性はないだろ。
「追い返した」と書かれてる以上、元軍は勝手に帰ったのでは無く明確に撃退されてる。
結局なに一つまともな反証になっていない。
これで海上追撃戦は完璧に立証されたな。
326:名無し三等兵
13/10/09 02:50:56.09
324はパフォのマネしてるが、数段劣るな。
327:PC
13/10/09 09:40:46.21 1zeCFd3w
>>325
「合戦の結果」とどこに書いてあるの? 取留の「取」の字にすがりついている
のだろうが、これは「取り留む(とりとめ)」という一つの動詞だ。
「取り」は単なる接頭語で主たる意味は「留む」にある。
「取り調べる」と言っても単に尋問する意味であって、「逮捕して尋問する」の意味で
ないのと同じ。
つまりこの文章の「取り留む」は単に「押収した」または「残留した」の意味であって
「(戦って)捕獲した」という意味ではない。
まず日本語から勉強するように。
でないと「取り留めのない」ことになってしまう。
328:PC
13/10/09 09:43:19.37 1zeCFd3w
>>327
訂正:
「取り留む(とりとめ)」→「取り留む(とりとむ)」
329:PC
13/10/09 10:02:11.68 1zeCFd3w
>>325
ところで、壱岐軍議説を「きちんとした仮説」として評価して欲しいということだが、その前に
まず時系列をきちんとして欲しい。
いわゆる九州侵攻軍は10月19日夜に早良郡に上陸をはじめて、20日の昼間に日本軍との主たる
戦闘があったことは日本側の史料で確定しているよね。その後の時系列を教えてくれ。
九州侵攻軍の博多撤退開始の日時
同じく壱岐上陸の日時
追撃日本軍との第二次戦闘開始の日時
同じく自然休戦の日時
金方慶との軍議の日時
壱岐撤退開始の日時
台風による遭難の日時
以上について「日」と「時」を教えてくれ。
「時」のほうは「朝、昼間、夕方、夜」程度でいいよ。
ブログにはこれが「きちんと」書いてあるのかと思って見たが全く書いてない。
それでお願いする次第。よろしくね。
330:名無し三等兵
13/10/10 18:43:11.52
>>327
その取留た要因が「蒙古與武士合戦」しかないんだから追撃戦の結果以外の
可能性はないじゃん
331:PC
13/10/10 19:54:25.66 4uhlhBfP
>>330
そんなことより「時系列」はどうなったの?
壱岐軍議説は時系列にできないのかな? それなら成り立たないということになるが、
まさかそんなことはないよね?
332:名無し三等兵
13/10/10 21:23:46.36
ところで、冬の玄界灘を渡るのは高麗の船には命懸けでも
日本の船にとってはそれほどの難事でもなく、しかも
300隻もの軍船を直ちに用意して追撃艦隊を編成できるほど
日本の航海技術は大陸をぶっちっていたの?
333:名無し三等兵
13/10/10 21:49:18.47 H2qhJEiZ
水軍の中心である松浦党はすでに壊滅しているというのにね。
334:名無し三等兵
13/10/11 00:20:19.98
>>329
元軍が10月20日中に博多撤退を終えたことも日本側の史料で確定している。
日本軍が同じく20日に追撃開始したこともね。
で、高麗史によれば壱岐での戦闘の後の自然休戦、軍議、撤退、暴風雨遭遇は
全て同日の出来事。
24日に元船の遭難が伝わってるから21日~23日の何れかの日の出来事だろ。