13/01/13 13:49:25.07
『太宰府市史』『鎮西御家人の研究』(吉川弘文館,瀬野精一郎,1975)を借りてきました。
見解を修正します。
・大宰府守護所の位置は、現在の太宰府市である
高麗国使が、現在の太宰府天満宮に毛冠を献上していた記録がある
・大宰府守護所と、旧来の律令機構としての大宰府は併存して別々に機能していた
前者の権限は全鎮西に及ぶが、後者は武藤氏が守護としての権限を持っていた国々に
限られる。
発給文書の比較や武藤氏による大宰府の掌握について、
詳細は『鎮西御家人の研究』を参照のこと。
・日本側は、大宰府と(港としての)博多を一体のものとして認識していた
川添昭二「鎮西談義所」で論じられていると『鎮西御家人の研究』にあるが、未見。
日本側の認識に沿って、蒙古・高麗も「博多も大宰府の一部」と理解しており、
『元史』『高麗史』のいう「太宰府」が意味する範囲に、博多を含めてもよいのではないか。