【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5at ARMY
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5 - 暇つぶし2ch186:名無し三等兵
13/06/01 13:18:24.24
ここで聞くのはスレチな気がするが寧波焚焼事件てどんな事件なの?
元寇と比較して日本強かったと主張する人がいるんだが
軍隊による戦争なのか、取引のために市内に入り込んだ商人が好機を得て
掠奪者に衣替えしたのか今一よくわからん

187:名無し三等兵
13/06/04 04:46:40.61 EygwCAAs
>>186
当時の寧波は日本人入城禁止だから、商人が取引のために市内に入り込むことはできないよ

188:名無し三等兵
13/06/04 17:25:22.72
>>187
その主張いろんなところで見かけるが1304年の一時点で入城禁止にしたことがあるとしか史料
は言ってないのになぜ1309年まで禁令が継続してることになってるの?

189:名無し三等兵
13/06/04 23:08:57.32
>>188
日本人入城禁止は一時的じゃないよ
1325年まで入城禁止が「定制」として継続されてた史料があるし

190:名無し三等兵
13/06/05 01:48:48.30
1308年に泉府院を復活させ、市舶司を整備してる時点でそれはないな

191:名無し三等兵
13/06/05 03:26:33.30
「舶有定制。輸其物以上干官、勿入郡城、勿止貿易、則得以永遠。」(馬元帥防倭記)

寧波では日本人入城禁止と貿易振興が定制としてずっと継続されていた。
したがって城外から武力で攻め落した以外の可能性はない。

192:名無し三等兵
13/06/05 09:12:26.07
その記述でどこをどうすれば日本人が入城禁止されてたと読めるんだ?
バカも休み休み言えよ。国家として貿易再開してる資料はあるのにね

さらに寧波焚焼事件の資料においても倭商が城内に入って略奪して
軍を破った記録はあるが、武力による力攻めなら当然生じる定海への
攻撃や城攻めの記録はどこにあるの?

193:名無し三等兵
13/06/05 09:26:34.02
>>192
「郡城に入れるなかれ」って思いっきり日本人入城禁止してるじゃん。
それに「貿易を止めるなかれ」で、入城は禁止した上で貿易は振興するという政策だろ。
国家として貿易再開してる資料はあるってことは、同時に日本人入城禁止も行われていたとする
馬元帥防倭記の記述を裏付けてるってこと。

194:名無し三等兵
13/06/05 09:31:02.95
>>193
だからその記述のどこに日本人が出てんだよ。年代も書いてない

さらに後段に関する返答は?それさえ出せば解決なのに未だに
出せないの

195:名無し三等兵
13/06/05 09:32:52.32
それから正月に起きた事件だってことわかってるんだよな
儀礼中のだまし討ち以外の描写どうやって読みとんの

196:名無し三等兵
13/06/05 09:39:43.04
>>194
どこに日本人が出てんだよって史料名が「防倭記」なんだが。。。
年代は>>189に書いたけど、1325年頃。
1305年頃には日本人は入城禁止されてたわけで、それが定制としてずっと継続されていたってことね。

あと、寧波(明州)焚焼が武力による組織的な襲撃だってことは太平記に記述があるよ。

『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。』(太平記)

197:名無し三等兵
13/06/05 09:40:57.80
『島夷歳以土物互市。郡境吏卒侵漁之、不堪以忿、
持所賚流黄等薬火城中。官府・故家・民居幾尽、
観亦与。至大二年也。』(慶元府玄妙観碑銘)

これはどういう意味なんだろうな

198:名無し三等兵
13/06/05 09:43:16.36
>>196
それは1309の事件があったから整備されたことだろうに
さらに太平記の記述は活発化した倭寇全体の描写で会って
特定の事件を意味するもんでないぞ

199:名無し三等兵
13/06/05 09:48:48.83
>>198
だから、事件の前から日本人入城禁止されてた史料もあるんだよ。
事件があったからじゃないの。

あと、太平記の記述はドンピシャで寧波焚焼事件と一致するんだな。
太平記は元朝襲撃したのを九州四国の海賊どもと書いてるけど、寧波焚焼事件とピッタシ同時期に
九州四国の海賊どもが大規模蜂起してる。

200:名無し三等兵
13/06/05 09:54:36.12
海賊って言葉の響きいいな。
子供の頃、将来何になりたいかと聞かれたら自分はいつも「海賊」と答えていた。
今は仕事場のマンションで、終日机に向かって仕事する翻訳家になってしまったけどな。

201:名無し三等兵
13/06/05 10:06:01.45
>>199
なるほどその海賊が商人になって正月に市内(城内)に乱入して放火したのか
自分で言ってて無理感じないのか?さらに>>196の書き方だと福建州一帯
荒らされてなければおかしいが1309年の時点でそんな記録どこよ

202:名無し三等兵
13/06/21 09:42:00.83
もしかして、元寇より倭寇のほうがヤバイ?

203:名無し三等兵
13/06/21 10:28:21.80
そりゃ被害の総計は倭寇の方が遥かに甚大でしょう

204:名無し三等兵
13/06/22 13:11:49.26
ライバルたちの光芒で元寇でてきたが
堺屋太一の「元寇=グローバリズム」並にひどかったわ

205:名無し三等兵
13/06/24 07:37:38.69
なんかNaver翻訳掲示板を思い出すなぁ。
議論も面白いスレだわ。

206:名無し三等兵
13/07/09 NY:AN:NY.AN Xex1T21Y
そもそも蒙古襲来も八百長戦争だった

URLリンク(music.geocities.jp)

日本共産党の機関紙「赤旗」に関係がみえてきた。

207:名無し三等兵
13/07/09 NY:AN:NY.AN SXDMx4y4
>>206
糞みたいな陰謀論サイト貼り付けんなカス

208:名無し三等兵
13/07/22 NY:AN:NY.AN
陰謀大好きドラえもん~♪
なごみましょう、なごみましょう。

209:名無し三等兵
13/08/01 NY:AN:NY.AN
>>201
海族が商人を兼ねることに何か疑問がある?むしろ普通だと思うけど。

210:名無し三等兵
13/08/03 NY:AN:NY.AN 7/dXQmqz
『太平記』の記述は中国側資料の『隣交徴書』とも内容がかなり一致する。

「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、
なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、
まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、
公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。
海道の兵は、猝かに対応できない。」

211:名無し三等兵
13/08/04 NY:AN:NY.AN
慶元府の事件ってどういう経緯で発生したのだろう
単なる出先のトラブルとかではないよね
弘安における旧南宋=元の水軍の消失で倭寇の活動領域が増大したとか…

212:名無し三等兵
13/08/04 NY:AN:NY.AN
日本と元との冷戦状態が続く中、日本の商船は自衛のため武装化
   ↓
元朝側はますます警戒心を強め日本人の慶元府入城を禁止
   ↓
さらに日本の商船にだけ重税を課したため日本人の不満が爆発
   ↓
熊野浦海賊などを引き入れて慶元府襲撃

213:名無し三等兵
13/08/19 NY:AN:NY.AN
久々に元寇のwiki見たら写真資料充実し過ぎワロタw
鎧マニアだが河野通有奉納の大鎧とか初めて見たわ

214:名無し三等兵
13/08/21 NY:AN:NY.AN
あそこは編集合戦が結果として項目の充実を導いたねw
資料が充実して出典も明記されてるから、バイアスがかかってる上に
不満足な情報しか載ってない歴史豆知識本の類よりよほど有益

215:名無し三等兵
13/08/24 NY:AN:NY.AN
今年の冬くらいからさらに充実したのだな

216:名無し三等兵
13/08/24 NY:AN:NY.AN
かなり前から最近のWikipediaは侮れんのうって思ってたけど
進化し続けてるからなw

217:名無し三等兵
13/08/29 NY:AN:NY.AN
金方慶とクドゥンの軍議が壱岐の追撃戦で行われた説はなかなか面白かったのだけどな。
高麗軍主力が壱岐に留まり、主力軍が九州決戦で敗れて掃討戦の過程で全面撤退か一撃か軍議が行われたと言う説だったか。

本土で戦闘終了から(推定)撤退までのわずかな時間で軍議が決するのか?と言う疑問は依然として残ってる。

218:名無し三等兵
13/09/07 16:16:22.55
元寇と言う成功体験があり、鎌倉幕府を模範としながら、清の成立の時、黒船来航の時もあの時とは違いますと朝廷に建白して
まったく違う外交対応を取った江戸幕府も面白い政権だな。普通は鎌倉の頃と比較されて叩かれるのが怖くて戦っちゃうのに

219:名無し三等兵
13/09/07 16:36:56.40
明が救援要請したとき井伊さんが潰したんだっけ?

220:井伊(偽物)
13/09/07 16:45:44.78
>>219
ちょっと前まで戦争してた相手から救援要請されましても

221:名無し三等兵
13/09/07 17:08:15.85
>>217
問題の軍議がどこで行われたのかは判らないが、当時としては結構な暴挙である
「冬季夜間出航しての撤退。ちなみに敵前&上陸初日です」
を敢行するに当たって、伝令一発何の会議も無しだったら、蒙古軍の練度恐るべし。

222:名無し三等兵
13/09/08 02:47:56.01
>>220
井伊さんがぶっ潰すまで、結構割れてたみたいよ。

223:名無し三等兵
13/09/11 20:32:38.92
>>217
撤退の決断なんて時間かけちゃダメだろ
ほんのわずかな遅れが命取りになる可能性だってあるわけで

224:名無し三等兵
13/09/15 09:27:26.74
>>220
あれ前政権の暴走で徳川新政権は違うって事で手を打ったのに

225:名無し三等兵
13/09/15 12:55:36.80
夜半撤退を決める状況の軍議で金方慶が反対したとしたら、
作り話か、さもなくば将官として無能だと自白してるようなもの
だから九州本土とは違う場所での軍議ではと言われたのだろ

226:名無し三等兵
13/09/15 23:57:30.82
>>225
いや、朝鮮(高麗)としてはまだまだ戦えたのに宗主国の総司令官が撤退を決めたのでやむなく
撤退したのだとして、自国の武勇を誇るとともに敗戦の責任転嫁をしてるんだろ。

227:名無し三等兵
13/09/16 07:37:29.99
高麗史金方慶伝の信憑性に関わる問題になるなあ

228:名無し三等兵
13/09/16 08:31:17.22
金方慶の立場で言えば、同規模の遠征をもう一度やられたら高麗の負担が洒落にならないので
無理してでも日本を征服したかったのかも知れない。勝算があったとは思えないが。

229:名無し三等兵
13/09/16 11:03:30.64
「諸軍ともに戦え」まで元軍と高麗軍は別々に戦っていて
九州での戦闘体験を共有してなかったので危機感に差があった。
実際、その前の記述は高麗の中軍が遭遇した小規模な局地戦で
忽敦率いる元本隊がどこで何していたのか記されていない。

230:名無し三等兵
13/09/18 09:11:30.34 wCkt38jP
それ忽敦が諸軍ともに戦え、と言ったん
じゃなくて、忽敦の発言は前文で切れていて
諸軍ともに戦うという別の文節っすよ。

高麗史の翻訳を担当した先生の訳し間違い。

231:名無し三等兵
13/09/19 00:05:55.45
文永の役以前の諜報活動とか研究してる人いるのかしら。
時頼-憲宗の時期に警固体制強化の布令が出てるようだね。

232:名無し三等兵
13/09/20 11:53:12.26
>>230
それでも変わらないでしょ。
諸軍與戰まで高麗軍と元軍は別々に戦っていた。
「蒙人雖習戰、何以加此」は九州から逃げ帰った敗将の弁。

233:PC
13/10/04 22:24:01.93 J1ZR8z5E
金方慶伝はあくまで高麗軍の戦闘記録だから、高麗軍の戦闘を中心に述べており、
全軍のことは高麗軍との関連に於いて述べるだけ。

このことから言えば「諸軍」とは高麗軍の左軍、中軍、右軍のことである可能性も
あるな。

金方慶が直接指揮する中軍の戦闘を詳しく述べた後に、その他の高麗軍もともに戦って
夕方に及んだ、と言ってるだけじゃないのか?

234:名無し三等兵
13/10/04 23:05:26.31
手柄がほしくて無理やり他人の船に乗り込んできて戦闘に参加する
恐怖の九州地侍がすごいね

竹崎季長なんかフネに兜おいてきちゃうドジっこだけど、とりあえず脛当てをオデコに
つけて元軍の船にカチコミ→そのままぶっ殺しまくり大会開催しちゃう恐怖のドジっこだった。

235:名無し三等兵
13/10/04 23:12:05.06
>>233
三別抄との戦闘については高麗軍以外のことも書いてあるよ。
金方慶伝だけじゃなく世家や年表も同様だけど、高麗史に書いてあるのは
壱岐の戦闘だけで九州の戦闘の記述が無い。
でも、文永の役で元軍は博多湾から上陸してるわけで、元軍は高麗軍とは
分かれて九州で戦ってたはずなのね。

236:名無し三等兵
13/10/05 01:02:21.21 W5Rdl+SZ
>>214
少なくとも日本史関連では一番充実してる記事だと思うわ。
あそこまで一次史料からの出典をキッチリやってる記事他に無いよ。
戦国時代関連なんて結構ヒドいの多いし。

237:PC
13/10/05 10:29:31.98 nTllqcFK
>>235
「諸軍」の解釈次第だ。「諸軍」が高麗軍各部隊の意味ならばその説はなりたたない。
では「諸軍」の使われ方を見てみよう。文永の役が終わった忠烈王二年に、金方慶が
讒言される遠因となったできごとが書いてある。

出張から帰った金方慶を迎える集まりで、ある部将が金方慶の麾下(旗本)に先んじて
金に献杯しようとして麾下からなじられて答えた言葉:
「諸軍与麾下皆人也、何先後之有」「諸軍も麾下も人として平等である、先も後もなかろう」

この諸軍は動員が解かれた平時において高麗軍のトップを迎える集まりであるから、蒙漢軍
などがいるはずがない。すなわち「諸軍」とは高麗軍各部隊の意味である。

238:PC
13/10/05 10:46:35.42 nTllqcFK
もうひとつ。弘安の役の対馬戦の記述に次の文章がある。
「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下与戦」
ここには「諸軍与戦」まである。

すなわち、部将の金周鼎の部隊がまず先鋒として日本軍と交戦し、その後に
「諸軍」がみな船を下りてともに戦った。

文永の役と同様に、対馬戦では蒙漢軍の主力はまだ参戦せず、日本軍守備隊の
制圧は高麗軍にまかせたと見られる。
したがってこの文章の「諸軍」もまた、「高麗軍各部隊」である。

239:名無し三等兵
13/10/05 11:21:05.31
>>237>>238
「諸軍」なんて言葉がそんな限定的な意味なわけないじゃん。
現に金方慶伝には高麗軍のことだけでなく劉復亨の負傷の記述もあるし。

あと、高麗軍と元軍が別々に戦ってたことは史料上確かなこと。
だって高麗軍は壱岐までしか行ってないからね。

240:名無し三等兵
13/10/05 12:53:37.17 QdKgSEV0
壱岐までじゃなくて三郎浦=早良郡に高麗軍が上陸したと高麗史に
あるだろ。

241:名無し三等兵
13/10/05 13:21:40.54
>>240
三郎浦≠早良郡だよ。
高麗史には壱岐までしか到達してないと明記してある。

『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』(高麗史表)

242:名無し三等兵
13/10/05 13:40:07.87 QdKgSEV0
それは金方慶伝を思いっきり省略した高麗史表だろ。

本文である金方慶伝に三郎浦と書いてあるんだから、
高麗軍が三郎浦=早良郡に上陸したのは明白。

243:名無し三等兵
13/10/05 13:44:40.46
>>242
省略してあるだけで高麗史表も金方慶伝も意味は同じだろ。
同じ出来事に関する記述なんだから。
三郎浦は壱岐の地名であって九州じゃないってこと。

244:名無し三等兵
13/10/05 13:52:58.28
PCって何だろうと思ったらパフォーマンスコンクールの略自称ですか…

245:名無し三等兵
13/10/05 16:04:55.92 QdKgSEV0
意味は同じじゃねえよ。

本文から省略文である高麗史表が本来の意味を
失っていることは、金方慶伝が暴風雨で敗れたと
する記述が表だと壱岐に到着し戦闘で敗れたかの
ように改竄されていることからも本来の意味は
表では喪失している。

恐らくは金方慶伝の本文を1450年代に高麗史を
編纂する過程で全く違う意味の省略文にまとめ
あげたのが高麗史表なのだろう。

でさ、三郎浦=早良郡じゃなくて壱岐だとするなら
壱岐のどこよ?

246:PC
13/10/05 16:17:18.84 fiQZ89mh
>>239
>「諸軍」なんて言葉がそんな限定的な意味なわけないじゃん。

もちろん限定的とは限らない。しかしまた「諸軍」と書いてあれば必ず「高麗軍+元軍」の
意味であるとは言えない。
現に上に示した二つの例では諸軍が「高麗軍各部隊」の意味であることは認めるだろう?

>現に金方慶伝には高麗軍のことだけでなく劉復亨の負傷の記述もあるし。

そのことも>>233で「全軍のことは高麗軍との関連に於いて述べるだけ」という形でちゃんと
言っている。
高麗軍が撤退した事情に関わる重大事だから触れたのだ。

247:名無し三等兵
13/10/05 17:42:42.77
>>245
同じ意味じゃん。
暴風雨で船が敗れたのは帰路の出来事で撤退理由じゃないし。
壱岐で戦闘したうえで撤退に追い込まれてるんだから、まとめるなら
「 壱岐に至りて戦い敗れ」が一番適切。

三郎浦はおそらく壱岐の瀬戸浦あたり。
探せば他にも候補が見つかるだろ。

248:名無し三等兵
13/10/05 19:19:16.61 QdKgSEV0
はぁ?
いつどこで壱岐で決戦があり元軍が撤退したんだ?
当然、壱岐で決戦があったとする日本側の史料は
存在するんだろうな?
決戦なんだから、一日で終わった博多の攻防より史料が
多くないとおかしいことになるぞ。

でさ、瀬戸浦が三郎浦だとするソースは何よ?
壱岐決戦とか三郎浦が瀬戸浦とか荒唐無稽な主張ばっか。

249:名無し三等兵
13/10/05 23:08:25.67
>>248
壱岐で決戦があったなんて言ってないだろ。
高麗軍は壱岐で、蒙漢軍は九州で別々に戦ってたと言ってるわけで。
どの戦いが決戦の名に相応しいかと言えば、当然蒙漢軍の戦った九州の方。
九州から逃げ帰った忽敦は壱岐で金方慶を説得して撤退を決め、出航した際に暴風雨に遭った。
早良郡に上陸したのが蒙漢軍だってことや、元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖だということは、
日本側史料とも一致する。

250:名無し三等兵
13/10/06 05:37:23.99
日本軍は博多沖から蒙古の船団が消えた時点で戦闘終了を確信するはずがなく、
必ず敵の行方を追跡するはず。本土決戦後の撤退戦を想定するといろいろ説明が付きやすいことは確か。

251:名無し三等兵
13/10/06 08:11:31.61 YBJ4s0oG
>>249
>早良郡に上陸したのが蒙漢軍だってこと

正確には、「早良郡に上陸した遠征軍の中に蒙漢軍もいた」ってことだろ?

>元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖だということ

正確には、「壱岐に漂着した遠征軍の船が多数あった」ってことだろ?

252:名無し三等兵
13/10/06 11:00:11.37
蒙漢軍の規模考えたら、「早良郡に上陸したのが蒙漢軍」で問題無いだろ。
それに壱岐に漂着した元船の突出ぶりを見れば、「元軍が暴風雨に遭ったのが壱岐沖」
だというのも確実。

253:名無し三等兵
13/10/06 13:32:14.33 ESE0nqkH
確実じゃねぇよ。

勘仲記によれば、蒙古軍は南風に押し返されたって
あるだろ?
博多を出港して暴風雨にあっても南風で押し流されるのは
壱岐しかねえんだよ。

254:名無し三等兵
13/10/06 13:48:19.48
博多沖で暴風雨に流された船団が130艘もまとまって壱岐に漂着するわけないじゃん。
130艘という突出した数字は、暴風雨遭遇の場所が壹岐だったことを完璧に証明してる。

255:名無し三等兵
13/10/06 14:15:21.82
ちょと待て暴風雨で流された場合は一か所に狭くまとまるぞ
ついでに壱岐で暴風雨に遭ったら漂着という書き方にならんぞ

256:名無し三等兵
13/10/06 14:21:28.95 ESE0nqkH
博多を出港して南風で押し流され、壱岐にまとまって
漂着することのどこに無理があるんだ?
博多を出港して南風の暴風雨にあったら、壱岐に必然的に
たくさん漂着するのは当たり前だろ。

むしろ壱岐から出港して壱岐に130艘漂着したということは
壱岐で暴風雨の中を出港するとか有り得ない状況になって
しまうわけだが?
それにお前の自説だと高麗史の記述だと壱岐で劉復亨が負傷した
ことになってしまうんだが?

257:名無し三等兵
13/10/06 14:35:21.57
壱岐で暴風雨にあったら座礁って書き方になるしなw

258:名無し三等兵
13/10/06 14:41:01.60
>>256
暴風雨の中を出港したんだろ。
高麗史では夕暮れまで戦い、それから撤退を決定し、その夜暴風雨に遇った
ことになってる。
高麗軍が博多まで到達していたのなら、元艦隊は博多湾内で暴風雨に
遇ったことになるが、日本側史料からそれはあり得ない。
つまり高麗軍は博多湾には到達していない。

259:名無し三等兵
13/10/06 14:43:21.38
>>254,258
君の主張だと壱岐から出発した軍は暴風雨に頭から突っ込むことになるんだけど
どうやってそんな進路とるの?この暴風雨って台風のことでいいんだよね
先に来てる風のせいでそっち方向に進路とろうなんて考える船長いないんじゃないの
撤退決定したなら湾内に留まらないのは当然だし

260:名無し三等兵
13/10/06 14:44:57.01
ちなみに博多湾内だと外海の風や波わからないから撤退しようとして湾外に出てあらしに遭遇ってのは
十分に成り立つよ

261:名無し三等兵
13/10/06 14:54:45.39
>>259
暴風雨は台風じゃないよ。
統計的に文永の役の時期に台風が九州を襲うことはない。
あと、暴風雨遭遇の日付は10月24日。
元軍の博多湾撤退の日じゃない。

262:名無し三等兵
13/10/06 14:57:44.33
統計的に台風が10~11月に九州に来ないとは
これ見る限り断言できんな
URLリンク(agora.ex.nii.ac.jp)

263:名無し三等兵
13/10/06 15:00:49.72
それからもう一つ>>261で10月24日と書いてあるのはミスリードを誘う手法だな
現代の暦に換算して9月後半と書かなければまずいと思う

264:名無し三等兵
13/10/06 15:02:14.67
おっと自分も引きずられて
>>262で10~11月と書いてら。ここ9~10月に訂正

265:名無し三等兵
13/10/06 15:04:56.46
>>263>>264
文永の役当時の10月20日は現代の暦に換算すると11月26日なんだが・・・

266:名無し三等兵
13/10/06 15:06:48.34
>>265
換算法kwsk

267:名無し三等兵
13/10/06 15:14:25.85
>>266
URLリンク(qir.kyushu-u.ac.jp)

268:名無し三等兵
13/10/06 16:57:49.44
文永の役が11月末だと言うのを頭に入れてないと
夜半撤退の意味が分からんじゃろうに

269:PC
13/10/06 16:58:12.76 zizOTh1U
>>252
>蒙漢軍の規模考えたら、「早良郡に上陸したのが蒙漢軍」で問題無いだろ。

蒙漢軍兵士の捕虜がいたというのは蒙漢軍がいた証拠にはなるが、高麗軍がいなかった
証拠にはならない。

>>258
>高麗軍が博多まで到達していたのなら、元艦隊は博多湾内で暴風雨に遇ったことになるが、

意味不明。なぜそうなるの?

>元艦隊は博多湾内で暴風雨に遇ったことになるが、日本側史料からそれはあり得ない。

遠征軍の艦隊がどこで暴風雨に遭ったかを示す日本側史料は無いはずだが、君の言う「日本側史料」
って何?。

また、遠征軍艦隊は壱岐に漂着するまでに暴風雨に遭えばいいのだから博多湾内だって別に構わない。
まあ外海に出てからだろうけどね。

270:名無し三等兵
13/10/06 17:00:46.99
うん?博多湾内なんて陸から普通に視認できるところで敵の船団が難破したら
記録に残らんはずないんじゃないの?

271:名無し三等兵
13/10/06 17:04:44.46 ESE0nqkH
暴風雨の中を出港なんてするわけないだろ。

日本側の史料でも博多で劉復亨が負傷したことが
わかるのだから、高麗史の記述は明らか博多の戦闘。

そもそも、壱岐で大規模な戦いがあれば、何がしか記録に
残っているはずだが、そんな記録は皆無。

勘仲記に蒙古軍船が南風で北に押し流されたと書いてあり
壱岐に漂着船が多数あったということは博多湾を出たところで
蒙古軍船は暴風雨に見舞われたってことがわかる。

でさ、24日に暴風雨があったって何の史料?

272:名無し三等兵
13/10/06 17:07:09.75
>日本側の史料でも博多で劉復亨が負傷したこと
史料名プリーズ

273:名無し三等兵
13/10/06 17:10:19.37 ESE0nqkH
八幡愚童訓と少弐系図。

で、壱岐で大規模な戦いがあったとする史料プリーズ。

274:名無し三等兵
13/10/06 17:11:35.08 ESE0nqkH
あと24日に暴風雨があったという史料もな。

275:名無し三等兵
13/10/06 17:13:15.89
ぼくも待ってる所。個人的には高麗が壱岐で戦って単独で撤退なんか決めたら
絶対、後始末の記録あると思うんだけね

276:PC
13/10/06 17:15:00.05 zizOTh1U
高麗軍が九州まで来たことを示しているのは金方慶じしんの言葉だ。
「敵境に入った」とか「焚船の計」とか言うのは九州で言ってこそ似つかわしい。

味方は占領地、人員、補給において有限性があるが、敵方はそれらにおいて(相対的に)無限性を
有する、という状況において兵士に覚悟を強いる言い方だからだ。

壱岐のような離れ島では船でやってきたという敵方にも有限性がある。
だから「敵境に入った」や「焚船の計」はおおげさだ。

277:名無し三等兵
13/10/06 17:17:44.32 ESE0nqkH
そもそも三郎浦が瀬戸浦だとするソースを出せよ。

早良郡の当時の音は「サウラ」であり、高麗史の「三郎浦」は
「サムラン」と読み音が通ずる。
早良郡が三郎浦であることは疑い様がない。
高麗史の記述は明らかに博多湾の記述。

278:名無し三等兵
13/10/06 17:25:18.12
というか、金方慶は壱岐までしか来ていないなら
「壱岐に至りて戦い敗れ」から、壱岐で何者かに敗北した事にならない?

一方で九州まで来たなら、この文は「博多(あるいは太宰府)に至って敗れた」になりそうな気もするが。

279:PC
13/10/06 17:26:21.14 zizOTh1U
>>275
>個人的には高麗が壱岐で戦って単独で撤退なんか決めたら

いや、彼の説は単独決定じゃないんだよ。
高麗軍が壱岐で守備隊かたづけてのんびりしていたら、そこへ九州でやられた元軍と
追撃の日本軍とがやってきて、あらためて「諸軍ともに」日本軍と戦って、あらためて軍議を
開いて、金方慶が再戦を主張したがクドゥンの撤退論に押し切られた、とこうなるわけ。

そのあと全軍が壱岐を出航して台風に遭うわけだ。

280:名無し三等兵
13/10/06 17:31:56.92 zizOTh1U
>>277
「三郎」でサムランね。浦まで入れればサムランポ。
ちなみに朝鮮語の「浦」は河口湾を意味する。

281:名無し三等兵
13/10/06 17:32:54.64
>>279
壱岐のそばで海戦したってこと?初耳なんだけどどの史料に載ってる?

282:名無し三等兵
13/10/06 17:34:29.96 ESE0nqkH
278
だから、それは高麗史表で金方慶伝の記述を
無理矢理簡略した結果、本来の金方慶伝の意味を
完全に失っただけ。

283:名無し三等兵
13/10/06 19:18:34.80
>>282
高麗史は複数の文献をしもとに編纂されてるわけで、金方慶伝の記録が本来の意味とは
異なる簡略化をされるとか無理矢理過ぎ。
高麗史が壱岐までしか到達してないとしてる以上、三郎浦が九州でないのは確定だよ。

284:名無し三等兵
13/10/06 20:11:21.92 ESE0nqkH
無理矢理なのはお前だ。

例えば、弘安の役の高麗史表では「覇家台に至り、
戦いて敗れ、軍の還らざるもの十万有奇」とある。
覇家台とは博多のことであるが、弘安の役において
博多で戦い敗れ、軍の還らざる十万有奇といった
戦いは起きていない。
この点だけでも高麗史表の杜撰さが際立つ。
その杜撰な高麗史表を基に壱岐で大規模な戦いが
あったとは無理矢理すぎだよお前。

さらに弘安の役の部分も世家の簡略化版だし。
世家にこうある。
「太宰府に至りて累戦し(中略)官軍の返らざる者、
無慮十万有畿」

高麗史表は史料を参考にしたのではなく、元寇から
二百年後の人間が高麗史表を記述するのに金方慶伝や
世家の記録の本来の意味を喪失してまで簡略化した駄文に
しかすぎない。

285:名無し三等兵
13/10/06 20:14:35.19 ESE0nqkH
てか、早く壱岐で大規模な戦いがあったとする史料。
10月24日に暴風雨にあったとする史料。
瀬戸浦から上陸したとする史料。
劉復亨が壱岐で負傷したとする史料だせよ。

286:名無し三等兵
13/10/06 22:00:25.81
>>284
>覇家台とは博多のことであるが、弘安の役において
>博多で戦い敗れ、軍の還らざる十万有奇といった
>戦いは起きていない。
>この点だけでも高麗史表の杜撰さが際立つ。

「老松堂日本行録」によれば1420年に朝鮮の宋希環が博多に滞在した際、筥崎の松亭
について日本人から「弘安の役の時、高麗人戦亡の地なり」と説明受けてるよ。
つまり編纂が杜撰なのではなくちゃんとソースがあって書いてるの。

>>285
壱岐で大規模な戦いがあったとか誰も言ってないけど?

287:名無し三等兵
13/10/06 22:09:49.53 YBJ4s0oG
>>281
>壱岐のそばで海戦したってこと?初耳なんだけどどの史料に載ってる?

いや、彼の説は壱岐沖海戦ではない。
九州から逃げ帰った元軍も、追撃して来た日本軍も壱岐に上陸して壱岐で陸戦。
そして「及暮乃解」で自然休戦になって、例の軍議に移るわけだ。
すべて壱岐の陸上でのこと。

だから史料は金方慶伝ということだろう。

288:名無し三等兵
13/10/06 22:16:12.33
文永の役において日本軍が壱岐対馬まで追撃した史料。

「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
『菊池系圖』

「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
『菊池系圖』別本

289:名無し三等兵
13/10/06 22:45:45.89
>>269>>271
高麗史には「戦艦は岩に触れて多く敗れた」と書いあるんだから外洋なわけない。
明らかに暴風雨遭遇の場所は元船が大量に座礁してた壱岐沖だろ。

290:名無し三等兵
13/10/06 22:59:18.43 YBJ4s0oG
>>289
外洋というのは博多湾の外という意味だ。博多湾を出れば黒潮の影響を受けるのだから外洋だ。
壱岐だって外洋。

>明らかに暴風雨遭遇の場所は元船が大量に座礁してた壱岐沖だろ。

壱岐は半島へ帰るルートなのだし、壱岐周辺は暗礁も多いからそこで遭難したって別に
不思議ではない。もちろんそれ以前に遭難して壱岐に漂着したこともあり得る。

わからないのは、なんでそれが壱岐陸戦の証拠になるのかということ。

291:名無し三等兵
13/10/06 23:35:29.36 YBJ4s0oG
>>288
それは文永の役のことと弘安の役のことを合体している可能性が高いな。
系図なんて江戸時代に書き込まれたかも知れないんだからあてにならんよ。
少貳の敵将射落としだって系図では弘安の役のことにされちゃってるし。

292:名無し三等兵
13/10/07 00:02:53.89
韓国語版WIKIは都合の悪いこと一切書いてないから
なんとかしてくれ。
元寇といい、ベトナム戦争でのレイプといい・・・。あの民族はいつもそう。

293:名無し三等兵
13/10/07 02:49:47.61 2geRKbsC
はぁ?
『老松堂日本行録』なんて、百年以上先の人間が書いた
史料が何の関係がある?重要なのは高麗史表に書かれた
「覇家台に至り、 戦いて敗れ、軍の還らざるもの十万有奇」
のような戦いが実際に起きていないということが重要なんだよ。

本文を省略する過程で本来の意味とは全く違う意味になったのが
高麗史表。こんなのを拠り所にしてる時点でお前の珍説は信憑性
の欠片もない。

壱岐で漂着した元軍の掃討戦があったのは誰も否定は
してねぇよ。
『安国論私抄』にも小規模な掃討戦があったことが
書かれているからな。

ただ、『高麗史』金方慶伝の軍議の内容のような
大規模な戦いがあったって裏付ける史料は皆無。

294:名無し三等兵
13/10/07 02:50:50.81 2geRKbsC
お前は金方慶伝の軍議は壱岐であったと言ってるだろ?
つまりは、元軍と高麗軍が協力して夕暮れまで続くような大規模
な戦いがあったと主張しているわけだ。
そもそも、元軍と高麗軍が夕暮れまで日本軍と壱岐で激戦が
あれば、大規模な戦いなのだから日本側に記録が残らないわけ
がない。
公家の日記にも武家の記録にも壱岐で高麗史金方慶伝のような
戦いが起きたとする史料はなく、お前の頭の中にしかない。

だから、何度も言わせるな。
壱岐で暴風雨の中を出港とか有り得ないから。
勘仲記には、元軍が南風によって押し流されたと
あるが元軍の被害には触れていない。
それはそうだろう。博多湾を出たところで強烈な南風にあって
元軍は壱岐の沿岸に押し流され、そこで岩に触れて船が
壊れたんだから。
よって壱岐に漂着船が多いのは当たり前。

295:名無し三等兵
13/10/07 10:34:48.15
>>293
高麗史が完成きたのは1451年。
1420年に日本の博多訪れた際に日本人から直接情報得たら当然編纂に影響与えるだろ。
つまり高麗史はちゃんとした根拠のもとに編纂されており自分に都合が悪いからって、
文永の役で壱岐までしか到達してないという記述を無視することは許されないってこと。

あと壱岐で戦闘があったこと自体は日本側史料にもあるんだから何の問題もないだろ。
日本軍と元軍の戦力差を考えれば、元側から見て大規模な戦闘でも日本側からは
小規模な戦闘ってことは十分あるわけで。

296:名無し三等兵
13/10/07 13:26:28.64
壱岐説って前スレできちんとした仮説として取り扱われてたのだが、
これを頭ごなしに否定してるageくんはこのスレ初めてなの?

297:PC
13/10/07 13:41:42.04 LMnQa3IF
ひとつ気がつかなかった。
壱岐は遠征軍艦隊の予定の停泊地だった可能性が高いな。撤退する艦隊はなにごともなければ合浦まで
直行するはずだ、と考えるのは今日の我々の、動力船時代の頭だ。

遠征軍の船は帆もあるが主としては手漕ぎが推進力。手漕ぎは風まかせでないかわりに航続力は短い。
漕ぎ手を休ませなかればならないからね。両戦役を通じて艦隊の行動が島伝いなのはそのせいだろう。

つまり、博多を撤退した後の第一行程はもともと壱岐までだった。
全艦隊は台風で多くの船を失いながらも予定通り壱岐をめざし、ひとまず壱岐に停泊した。
そして壱岐を出るときに、使用に耐えなくなった船や、座礁した船、そして上陸用舟艇などの
不要になった船を遺棄した。

そう考えれば900隻のうち130隻ぐらいの船が壱岐に遺棄されたとしてもなんの不思議もない。
なにも壱岐陸戦(文永の役の第二次戦闘)などに結びつける必要はない。

298:名無し三等兵
13/10/07 15:14:01.54
撤退する艦隊が壱岐に立ち寄ることが漕ぎ手の疲労の観点から当然予想されるとしたら、
追撃するはずの日本軍は敵軍進路が予想されるのに黙って見てたことになるわけだが、
それはおかしいと思わないんだね。この人は。

299:PC
13/10/07 15:44:55.33 LMnQa3IF
>>298
追撃する以前に、博多を出て行くのを「黙って見てた」ではないか。
まあ、「黙って見てた」というのも、撤退に気がついていたとすればの話だが。

300:名無し三等兵
13/10/07 18:30:19.11
>>297
だったら江南軍が直行コース選ぶわけないし

301:名無し三等兵
13/10/07 19:54:23.08
歴史の事なんて全然知らないのでウィキペディアに頼り切ってしまうが、文永の役で元軍は

10月03日 朝鮮半島の合浦を出航
10月05日 対馬上陸
10月14日 壱岐上陸
10月16日 肥前に襲来(17日かも)
10月20日 博多に上陸

というスケジュールで博多まで来ている。戦闘しながらで所要17日。その後、博多で日本軍の反撃に遭い、
1日で作戦継続を断念、撤退した。
で、この撤退した軍が合浦に帰還したのが、1ヶ月以上後の11月27日。戦いながら来た往路の2倍以上の期間
彼らは何をしていたのか? まさか海を彷徨っていたわけではなかろう。
壱岐(あるいは対馬?)に留まって、風待ちだか船の修理だかをしていたと見るのが適当だろう。その場合
元軍は、一ヶ月前後壱岐を支配していた事になる。
で、金方慶が壱岐留守部隊だったというのは、一応筋が通らないかな?

302:名無し三等兵
13/10/07 20:02:16.12
>>299
黙って見てたわけないじゃん。
日本軍は300余艘の兵船で追撃してる。

303:名無し三等兵
13/10/07 20:30:20.55
>>301
史料が事実を伝えており、本土で蒙古軍が甚大な被害を被ったのに金方慶が戦闘継続を主張することに合理性があるのであれば、
かなり有力に考えられるのが忽敦と金方慶の戦況判断の根底にある情報が共有されていなかったケース、つまり2人が別行動していたと言う想定だと思うよ。
実際、本土決戦での被害を見てもまだ金方慶が戦闘を主張したと言うのであれば、それは愚将(含む政治的判断)もしくは舞文曲筆を疑わざるを得なくなる。

304:名無し三等兵
13/10/07 21:20:05.50
「金方慶、壱岐でお留守番説(仮称)」に従って、もう少し考える。ウィキペディア鵜呑みご容赦

10月14日以降、留守部隊(規模不明)と共に壱岐に駐留していた金方慶の下に、10月23~25日頃
九州攻撃部隊が逃げ帰ってきたとする。そして問題の軍議になるが、この時点で元軍に可能な選択肢は

案1:完全撤退(結局はこうなった)
案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
案3:占領を維持して、壱岐だけでもぶんどる。

の3つが主要な物となろう。壱岐留守部隊の規模は不明だが、高麗軍全部残っていたら戦闘員の
1/4ないし1/3という、結構な規模になる。この兵力を加えて九州再侵攻すべしと言うのが
お留守番説を前提にした、金方慶の主張と考える。
で、総司令官は壱岐留守部隊の戦力を加えても勝ち目無しと判断したというシナリオになると。
寸土をも得られぬ完敗を避けるために、案3を選択しなかった理由は判らない。壱岐の維持すら難しいほど
日本は強いと考えたのだろうか。

305:名無し三等兵
13/10/07 21:38:15.18
昔から不思議だったんだけど元寇の時
対馬とか壱岐の住人って住人も含めて全滅したの?
それとも守備隊以外は山に篭ってやり過ごしたの?

306:名無し三等兵
13/10/07 22:25:25.99 s1xVucSW
>>304
>九州攻撃部隊が逃げ帰ってきたとする。そして問題の軍議になるが

それほど単純でない。だってクドゥンが壱岐に現れた(金軍の奮戦を賞めた)あとに
「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘があるのだから、日本軍追撃部隊も壱岐に上陸している。
当面の問題はこの日本軍をどうするかだ。

>案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)

その案はない。だって金は「船を焼いてもいい」と言うのだから、もはや九州侵攻は
考えていない。

307:名無し三等兵
13/10/07 22:37:40.76 s1xVucSW
>>302
>黙って見てたわけないじゃん。

よく読んでね。
「撤退に気づいていたとすれば黙って見ていたことになる」という意味だ。

実際は日本軍は撤退に気づいていなかった、つまり撤退の現場にいなかった。
それが見事な撤退作戦成功の、唯一の合理的説明。

308:名無し三等兵
13/10/07 22:53:46.90
>>307
いや、実際には日本軍は現場にいてしかも追撃してる。
元軍の撤退は成功なんてしていない。
百道原と姪浜で日本軍に殺されまくりながらの悲惨な壊走だよ。

309:名無し三等兵
13/10/07 22:54:30.27
>>306

まず、日本軍追撃部隊は存在したとしても撃退されたと考えるべきでしょう
(合浦に帰還するまで一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたとするならば)
そうなると「諸軍与戦、及暮乃解」ではなく、日本軍を大いに破ったという記述が
来そうな物ですが……。

> >案2:九州再侵攻(金方慶の主張はこれになる)
>
> その案はない。だって金は「船を焼いてもいい」と言うのだから、もはや九州侵攻は
> 考えていない。

ということは、金方慶は船を焼いてでも壱岐を死守すべき(>>304で言う案3?)と主張したと
お考えですか? 壱岐の死守と領土化を目的とした場合、船を焼くのは下策かとも思えます。
(壱岐を確保する為には、海が安定する春まで粘って援軍を呼ぶ必要があるが、その時援軍を運ぶのに
新たな船を一冬で作るのは困難。壱岐にある船をいったん朝鮮半島まで回航して援軍を乗せる必要がある)

310:名無し三等兵
13/10/07 23:13:56.68
>>309
一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたは無いでしょ。
11月6日に元軍が本国に帰還したと京都に報告されてるんだから。
元軍が壱岐にいる状況でそんな報告はできない。
一ヶ月ほど巨済島とか済州島とかに滞在してたんじゃね?

311:名無し三等兵
13/10/08 00:51:25.23 ybegOSqB
>>295
何度も言わせるなよ。
『高麗史』表は金方慶伝や世家の簡略版。
日本人から情報を得てなどお前の根拠もない妄想だろ。
金方慶伝や世家の内容と簡略版の表にズレがあるということは
高麗史表は史料としての価値はない。
表が都合がいいからと表の性格を無視して使用すべきでは
ない。

はぁ?どの日本側の史料に夕暮れまで激戦があったとする
記述があるんだ?
系図にしたって対馬の記述しかないだろ。
元軍と高麗軍が合同して一日中、日本軍と
戦いながら日本側が小規模な戦闘と認識して
いたわけないだろ。本当に都合の悪いことは
曲解する奴だな。

まず、お前の珍説を立証するには
一、三郎浦とは壱岐のどこか?
二、壱岐に大規模な戦闘があった証拠。
三、高麗軍が壱岐までしか到達していないという
高麗史表以外の史料。
四、劉復亨が壱岐で負傷したとする史料。

これを示さなければお前の珍説は珍説でしかない。

そもそも、高麗史の元軍上陸地点である三郎浦と
博多湾の早良郡の音が通じ、高麗史の記述は明らか
博多の戦闘以外有り得ない。

312:名無し三等兵
13/10/08 01:01:11.07
>>311
残念ながら『高麗史』表と世家の内容にズレはない。

『高麗史』世家
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、
伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。 会々、夜、大いに風ふき雨ふる。
戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金セン、溺死す。」

世家でも高麗軍は壱岐までしか到達してないんだよね。
つまり、本文を省略する過程で本来の意味とは全く違う意味になった
というのはお前の妄想。

313:名無し三等兵
13/10/08 01:15:51.85 ybegOSqB
お前は馬鹿なのか?
文永の役の本文の記述は金方慶伝だ。
世家が省略文なのは金方慶伝と同様の記述があることは明らか。
金方慶伝の記述では『一岐島に至りて‥』の後に『千余級を撃殺』で
平景隆との戦いだ。
さらに金方慶伝の記述では一岐島に至るに、『倭兵は岸上に陳す。』とある。
ってことは博多湾から逃げ帰った元軍が壱岐に至ったという意味では無く
壱岐島には日本軍の守備隊がいたということ。
つまりは平景隆の戦闘を表す。
で、元軍は三郎浦=早良郡に上陸したというのが
本文の金方慶伝の内容。

博多湾の戦闘後、壱岐で大規模な戦いがあったなど
結局そんな史料は全くないのだよ。

314:名無し三等兵
13/10/08 01:19:32.83
>>305
(歴史の時間軸で)ちょっと前まで子供がぐずると「むくりこくり」と言われたらしい
そういうこと

315:名無し三等兵
13/10/08 01:34:45.30
>>313
いや、表や世家と同様に壱岐までしか到達できずに撤退したというのが
金方慶伝の内容だよ。
自分の都合に合わせて勝手に史料を捻じ曲げて解釈しちゃダメね。

316:名無し三等兵
13/10/08 02:46:31.83
>>313
一応の根拠史料を呈示して検討を加えている人間に対して「馬鹿なのか」というレスはさすがに失礼。

317:名無し三等兵
13/10/08 09:32:49.63 jAj9oT2V
>>309
>合浦に帰還するまで一ヶ月ほどを壱岐で過ごしたとするならば

それが貴方の新説であれば別ですが、彼の説の話ならば、彼の説は及暮乃解→軍議→撤退→遭難は
金方慶伝の通りに同じ一日のなかのできごととしているのです。

>「諸軍与戦、及暮乃解」ではなく、日本軍を大いに破ったという記述が来そうな物ですが……。

そんな記述はないのですから、日本軍は居残っていることを前提にしなければなりません。

>壱岐の死守と領土化を目的とした場合、船を焼くのは下策かとも思えます。

その通りです。金方慶が壱岐に居たのならば、焚船の計を口にするのは全く不適当なのです。
九州に居ての話ならぴったりですが。

318:名無し三等兵
13/10/08 09:39:41.83 jAj9oT2V
>>308
>いや、実際には日本軍は現場にいてしかも追撃してる。

ソースをどうぞ。

>元軍の撤退は成功なんてしていない。

たった1隻の座礁船とその乗員を除いて一兵一馬も残さなかったのだから鮮やかな成功だ。
座礁船については多くの文献に記述されているのだから、他に残っていなかったことは明らか。

319:名無し三等兵
13/10/08 12:07:17.24
>>318
日本軍が追撃してるソース

「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、
廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
『歴代皇紀』

志賀島の1隻は座礁じゃなく追撃で捕えられたんだよ。
暴風雨の後で志賀島に流れ着いた元船は2隻。

320:名無し三等兵
13/10/08 13:22:41.53
>>304
壱岐だけでも分捕ると言うけど、日本軍は敵主力を九州本土で大破して、
本土に近い壱岐に追撃をかけ、その数も日増しに増強されているのだから維持なんて不可能だよ
これが忽敦の判断でしょ

321:名無し三等兵
13/10/08 15:17:47.47 jAj9oT2V
>>319
兵船三百余艘の話は他の全ての史料にない。したがって裏付けがない。
「神威力云々」と書いてあるから、一代要記の「兵船二艘出来暗天合戦」や
八幡ノ蒙古記の白装束と同じような神様系だろう。

なお志賀島の座礁ないし漂着船は全ての史料で一隻。兵数が60~200人と差があるだけ。
この事件がこれだけ一致して取り上げられているということで、他に一兵一馬を
残さなかったことが推察される。見事な撤退作戦だ。

322:名無し三等兵
13/10/08 17:33:20.30
>>321
「賊船二百餘艘漂倒、神威力云々」は『勘仲記』十一月六日条で暴風雨を
神威と解釈した記事と一致する。
つまり裏付けがある。

志賀島の一隻は『帝王編年記』によれば合戦で捕えられた船であって
座礁ないし漂着船ではない。
日本軍の追撃による戦果なんだよ。
暴風雨の後で志賀島に漂着した船は『朝師御書見聞』によれば二艘。

323:名無し三等兵
13/10/08 20:40:23.66
冬の夜半に玄界灘に乗り出して見事な撤退もくそもあるものか
そういうのは尻をからげて逃げ出したと言うんだよ

324:PC
13/10/08 20:42:08.10 Zpa9xZu9
>>321
>『勘仲記』十一月六日条で暴風雨を神威と解釈した記事と一致する。

なるほど「神威」が一致するというわけか。まさに信仰だな。

>志賀島の一隻は『帝王編年記』によれば合戦で捕えられた船であって
>日本軍の追撃による戦果なんだよ。

なんだ、これのことか。
「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之、於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」

他に合戦の記述はないんだから「蒙古與武士合戦」は一般的な合戦のことだ。だから「賊船一艘取留乃」
は追撃戦の結果とは言えない。全体として「蒙古と武士の戦いがあった。船を一隻押収した。志賀島で
押収した。他の賊は帰った」と言っているだけだ。勝手に帰ったのを「追い返した」と言うのは言葉の綾だ。

これで海上追撃戦は消えたな。

325:名無し三等兵
13/10/08 22:48:27.77
>>324
合戦の結果として「賊船一艘取留乃」と書かれてるんだから、追撃戦の結果以外の
可能性はないだろ。
「追い返した」と書かれてる以上、元軍は勝手に帰ったのでは無く明確に撃退されてる。

結局なに一つまともな反証になっていない。
これで海上追撃戦は完璧に立証されたな。

326:名無し三等兵
13/10/09 02:50:56.09
324はパフォのマネしてるが、数段劣るな。

327:PC
13/10/09 09:40:46.21 1zeCFd3w
>>325
「合戦の結果」とどこに書いてあるの? 取留の「取」の字にすがりついている
のだろうが、これは「取り留む(とりとめ)」という一つの動詞だ。

「取り」は単なる接頭語で主たる意味は「留む」にある。
「取り調べる」と言っても単に尋問する意味であって、「逮捕して尋問する」の意味で
ないのと同じ。

つまりこの文章の「取り留む」は単に「押収した」または「残留した」の意味であって
「(戦って)捕獲した」という意味ではない。

まず日本語から勉強するように。
でないと「取り留めのない」ことになってしまう。

328:PC
13/10/09 09:43:19.37 1zeCFd3w
>>327
訂正:
「取り留む(とりとめ)」→「取り留む(とりとむ)」

329:PC
13/10/09 10:02:11.68 1zeCFd3w
>>325
ところで、壱岐軍議説を「きちんとした仮説」として評価して欲しいということだが、その前に
まず時系列をきちんとして欲しい。

いわゆる九州侵攻軍は10月19日夜に早良郡に上陸をはじめて、20日の昼間に日本軍との主たる
戦闘があったことは日本側の史料で確定しているよね。その後の時系列を教えてくれ。

九州侵攻軍の博多撤退開始の日時
同じく壱岐上陸の日時
追撃日本軍との第二次戦闘開始の日時
同じく自然休戦の日時
金方慶との軍議の日時
壱岐撤退開始の日時
台風による遭難の日時

以上について「日」と「時」を教えてくれ。
「時」のほうは「朝、昼間、夕方、夜」程度でいいよ。

ブログにはこれが「きちんと」書いてあるのかと思って見たが全く書いてない。
それでお願いする次第。よろしくね。

330:名無し三等兵
13/10/10 18:43:11.52
>>327
その取留た要因が「蒙古與武士合戦」しかないんだから追撃戦の結果以外の
可能性はないじゃん

331:PC
13/10/10 19:54:25.66 4uhlhBfP
>>330
そんなことより「時系列」はどうなったの?
壱岐軍議説は時系列にできないのかな? それなら成り立たないということになるが、
まさかそんなことはないよね?

332:名無し三等兵
13/10/10 21:23:46.36
ところで、冬の玄界灘を渡るのは高麗の船には命懸けでも
日本の船にとってはそれほどの難事でもなく、しかも
300隻もの軍船を直ちに用意して追撃艦隊を編成できるほど
日本の航海技術は大陸をぶっちっていたの?

333:名無し三等兵
13/10/10 21:49:18.47 H2qhJEiZ
水軍の中心である松浦党はすでに壊滅しているというのにね。

334:名無し三等兵
13/10/11 00:20:19.98
>>329
元軍が10月20日中に博多撤退を終えたことも日本側の史料で確定している。
日本軍が同じく20日に追撃開始したこともね。
で、高麗史によれば壱岐での戦闘の後の自然休戦、軍議、撤退、暴風雨遭遇は
全て同日の出来事。
24日に元船の遭難が伝わってるから21日~23日の何れかの日の出来事だろ。

335:名無し三等兵
13/10/11 01:17:23.10
>>333
松浦党はその後も存続してるから壊滅はしてないんだけど、文永の役において
いつどこで大きな損害を出したかは史料上不明。
同時代性の高い史料だと、元軍の侵攻ルートは対馬→壱岐→博多湾であって
松浦党の本拠地は含まれていない。
つまり、松浦党に犠牲が多かったことから後世に逆算して壱岐侵攻の後で
松浦半島なども襲撃されたとされてるだけなんだよね。
むしろ松浦党に損害が集中したのは水軍による追撃の結果と考えた方が自然。

336:名無し三等兵
13/10/11 08:08:08.96
何が同時代性だよ笑

同時代性を言うなら、壱岐追撃戦説なんて
同時代史料に全くないじゃねえか笑

337:名無し三等兵
13/10/11 08:16:50.57
追撃戦があったのならば記録にきちんと残るでしょう。
この季節に玄界灘に漕ぎ出すことの愚は地元の人間ならば誰もが知っていることです。

>>332
雲泥の差がありましたね。
高麗の造った泥舟などに載せられた兵士たちも哀れなものです。

338:名無し三等兵
13/10/11 10:08:43.04 B64e4v05
>>335
>同時代性の高い史料だと、元軍の侵攻ルートは対馬→壱岐→博多湾であって
>松浦党の本拠地は含まれていない。

文永の役で元軍は松浦党の本拠地をバイパスしたって?
ソースをどうぞ。

339:名無し三等兵
13/10/11 11:24:29.32
>>338
記録が無いことのソースって・・・

例えば『帝王編年記』だと
「十月十七日。自九国早馬到来于六波羅。是去三日蒙古賊人於対馬嶋合戦云々。
十八日。依蒙古事於院有議定。廿八日。筑紫飛脚到来。壱岐嶋被打取云々。
十一月三日。於院御所陰陽頭在清朝臣已下蒙古間事有御占。六日。飛脚到来。
是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

山口修とかは確かな記録が存在しないことを理由に、松浦党の本拠地襲撃を
否定してる。
その他にも、元軍の侵攻ルートを対馬→壱岐→博多湾としてる研究書って
わりと多いよ。

340:名無し三等兵
13/10/11 14:02:46.35 B64e4v05
>>339
>記録が無いことのソースって・・・

なんだ、「同時代性の高い史料だと」なんて言うからなにか史料があるのかと
思ったら、結局「無いこと」がソースなのか。

日蓮宗関係ではいくつかあるようだが、それは信じないわけ?
同じ日蓮宗関係でも都合のいいのだけピックアップしてるということかな?

341:名無し三等兵
13/10/11 14:36:49.90
>>340
同時代の日蓮は松浦党に大きな犠牲があったって言ってるだけだよ。
で、松浦党の損失は基本戦闘員の損失だから。
松浦党にも博多への招集がかかってたはずで、壱岐の後で肥前が襲撃されたら、
戦闘員は留守にしてるはずじゃん。

342:名無し三等兵
13/10/12 04:24:09.49
鎮西武士団が蒙古船が消えただけで安心して、壱岐への捜索‐追撃を行わないとは常識的に考えがたい。
松浦党本拠を「襲撃しなかった」ソースを求めてるレスがあるけど、固定観念強すぎる

343:名無し三等兵
13/10/12 06:36:35.91 RcfXsc8f
お前は妄想が強すぎるよ。

『類纂高祖遺文録』に「前国松浦党数百人伐虜さる。
この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し」とあり
八幡愚童訓にも「同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」
肥前への襲来が書かれている。

対して壱岐で大規模な戦いがあったなどいう記録は全く存在しない。
『高麗史』金方慶伝の戦闘は三郎浦=早良郡であり
壱岐で追撃戦があったとする史料は皆無。

344:名無し三等兵
13/10/12 09:32:25.86 bdICLJn6
>>335
>松浦党はその後も存続してるから壊滅はしてないんだけど

壊滅とは戦闘力を喪失することだ。一回の戦闘で一族根絶やしになるはずがないではないか。

>むしろ松浦党に損害が集中したのは水軍による追撃の結果と考えた方が自然。

君は山代諧が対馬で戦死して恩賞を得たことについて、肥前の国の御家人である山代諧が
対馬にいるわけがないから、これは追撃戦で戦死したのだと言って、追撃戦の証拠にして
いるよね。

しかし松浦党は水軍すなわち輸送手段を兼ねた戦力なのだから、追撃戦で死ぬのも対馬防衛戦
で死ぬのも可能性は同じだ。

宗資国の率いる対馬守備隊を輸送して行った山代諧が、そのまま守備隊に加わって居残り、
侵攻軍と戦って戦死したということは考えないのか?

345:名無し三等兵
13/10/12 09:44:26.15 bdICLJn6
>>344
訂正:
宗資国は対馬土着だったね。山代諧は増援部隊として対馬へ行ったと改める。
また本土との連絡係だった可能性もある。

346:名無し三等兵
13/10/12 11:21:50.34
ただ、『安国論私抄』に博多の戦闘の後に
『ユキノセト』という場所で戦闘があったのは
確かみたいだな。
ユキノセトとは対馬、壱岐のどこかだろう。

347:名無し三等兵
13/10/12 12:31:39.90
>>342
そもそも消えた敵船団がどこへ行ったのかもわからないんだから、その時点で「壱岐への捜索‐追撃」
なんて発想が出てくるわけもない。

考えるべきは敵の場所をあらためての再上陸なんだから、まずすべきことは周辺沿岸一帯への探索と
再上陸への備えだろう。

348:名無し三等兵
13/10/12 13:57:09.99 bdICLJn6
日蓮宗関係の他に一つあった。日付と場所が入っている。

「石志文書」という史料の中に石志兼の遺書というものがある。
10月16日の日付が入っており、その大要は下記のようなものである。

「石志と呼子は私(兼)の先祖伝来の私領である。このたび蒙古人との戦争に長男の二郎を
連れて呼子に出陣したが、無事に生き長らえることも難しいと思うので、石志と呼子は弟の
四郎に遺産相続させる。しかしもし二郎が無事だったら、勿論、二郎に相続させるものである。」

翌日の戦いで兼は生き延び、二郎は戦死したという。
URLリンク(www.yoyokaku.com)
なお呼子は松浦半島の先端にあり、石志はその付け根付近にある。

この文書が本物なら、10月17日に蒙古軍が松浦党の本拠地に上陸したことは明らかだな。

349:名無し三等兵
13/10/12 14:04:08.12 bdICLJn6
石志譲状は下記のページにも載っている。
URLリンク(www1.bbiq.jp)

350:名無し三等兵
13/10/13 10:30:15.37 31bU0Es4
なんのことはない、ウィキ「元寇」に石志譲状の元の文章があった(参考文献111)

「譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、
而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、
れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、
一後(ママ)のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、
仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判」

これには「呼子」などの出陣場所の地名は無い。

351:名無し三等兵
13/10/13 16:29:36.04
>>347
消えた敵船団がどこに行ったか分からないからこそ、捜索や偵察を行うんでしょ?
弘安の役の途中で転進した蒙古軍の動向を気にせずに日本軍が解兵するとでも思う?

壱岐に関しては確実に追撃対象たり得る。

352:名無し三等兵
13/10/13 16:31:59.91
>>343
まったく根拠になってない。

353:名無し三等兵
13/10/13 18:25:17.65
ここは軍板なので、いったん書を捨てて軍事的に考えてみませんか?

状況
10月20日未明、博多近郊に異国の軍隊が上陸。日本軍は直ちに反撃し
20日日没までに、異国軍を上陸地点の海岸まで押し戻した。
21日早朝、斥候より「海岸に異国軍の艦影無し」との報告が入る。
(あるいは夜間の出港を察知していたかも知れないが略す)

さて、この状況で日本軍総司令官はどんな指令を出すだろうか。
なお、日本側の水軍戦力はよく解らないので、取りあえずあった物とします。

案1 直ちに水軍を壱岐に派遣する
案2 他の地点からの上陸を警戒して、陸軍・水軍共に敵を捜索させる
案3 水軍を壱岐に派遣。陸軍には周辺の海岸を偵察させる。
案4 作戦は終了したと判断して、部隊を解散する。
案5 その他

354:名無し三等兵
13/10/13 19:51:27.14
横レス失礼。
20日に日本軍が追撃したことが歴代皇記に記載されているが
壱岐島で追撃戦を展開したとは書かずに漂倒する元軍船に出くわしたと
書いているだけ。
壱岐で追撃戦があったなどは書いていない。
つまりは日本軍が壱岐島に到着した頃には元軍は漂倒していた。

そして、安国論私抄には11月9日に「ユキノセト」に漂着した元軍を日本軍が
掃討している。これは暴風雨で味方とはぐれていた元軍船がユキノセトに
漂着し守備する日本軍に掃討されたのだろう。

史料からわかる顛末は、日本軍が壱岐島に渡った頃には元軍は暴風雨にあっており
壱岐島には元軍船が漂倒していた。

11月9日の時点で元軍船が漂着したということは暴風雨で組織的編成が崩れてから
体制を立て直すのに、元軍がかなりの時間を要していたということを意味する。
11月27日に合浦に帰還したのがその現れだ。

日本軍は味方とはぐれた壱岐の元軍船の蒙古兵を掃討し、元軍本隊はその間対馬で
編成を整えていたが間に合わず、日本軍が対馬に壱岐から軍を派遣したのを機に
元軍本隊は合浦に帰還した。
船の修理が間に合わなかった対馬の元軍船の残存船は日本軍に掃討され、『菊池系圖』別本
にある通り「追到對馬國、戮蒙古之將、」 という戦果を挙げた。

これなら、壱岐対馬追撃戦が史料上明確されない説明はつく。
元軍本隊は博多湾から撤退後、日本軍とは交戦せず、交戦したのは
本隊とはぐれた元軍だったのだ。

355:PC
13/10/13 20:39:04.77 O/KwWwGN
>>334
>24日に元船の遭難が伝わってるから21日~23日の何れかの日の出来事だろ。

電話もFAXもない時代だよ。10月21日以降に文字通り津々浦々でおこった事を、どうやって10月24日
までに集計して報告書にまとめ、しかも遠隔地まで届けるというのか?

これは原文に「一か」つまり「十一月か」と添書してあるように、11月24日の誤りだろう。
wikiも地の文では頭から11月24日としている。

356:PC
13/10/13 20:58:17.27 O/KwWwGN
>>354
>これは暴風雨で味方とはぐれていた元軍船がユキノセトに漂着し守備する日本軍に掃討されたのだろう。

それにしては日本側の損害が多い。死者が日本人195人+下郎無数というのだから尋常でない。
ひょっとするとユキノセトの蒙古人195人は単なる漂着遺体であり、「又総の生捕・・」以下は別のこと
を書いているのではないか?

例えば「総」の字が示すようにこれが戦争全体の集計であるとか。
その場合195人は名ある武士の死者であり、下郎とは家来のことであるとか。

357:PC
13/10/13 21:01:43.57 O/KwWwGN
>>356
訂正;
誤:蒙古人195人
正:蒙古人150人

358:名無し三等兵
13/10/14 16:57:59.19
パフォコン説はもはやネタの領域に入ってきたなw

359:PC
13/10/14 20:19:34.79 fyWdqDR6
>>358
遭難で疲れ果て、武器も食料も喪失したであろう200人ほどの敗残兵を処理するのに武士が195人(+下郎無数)も
やられるのか?
武士ってそんなに弱いのか?

それがおかしいと思うなら史料の解釈が間違っているのだ。

360:PC
13/10/14 20:51:56.56 fyWdqDR6
じぶんで考えられるように全文を載せておこう。
「又或記云十(一歟)月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、
鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、
又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、
又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、」

361:名無し三等兵
13/10/14 21:00:37.34
蒙古兵もその他数を知らずって書いてるから
死んだ150人や捕虜27人、頭を取られた39人が判明しているだけで
総じて総被害は不明であり単純にどちらが被害が大きかったかは比較は
できない。

362:PC
13/10/14 21:22:03.95 fyWdqDR6
私の解釈を書いておこう。
「またある記録にいわく、十一月二十四日に届いた報告によれば、蒙古の船が難破して浦々に打ち上げられた。その数は
対馬に一艘、壱岐に百三十艘、ヲロ島に二艘、鹿島に二艘、宗像に二艘、カラチ島に三艘、アクノ郡に七艘、壱岐に
さらに三艘、以上百二十四艘である。これは視認した分だけである。また十一月九日ユキノセという所に死んだ蒙古人
が百五十人(流れ着いた)。また合計の捕虜数は二十七人、頭の分捕りは(合計で)三十九個、その他の数は不明である。
また日本人の死者数は(合計で)百九十五人、下郎の死者数は不明である。」

つまり報告書は「元軍の漂着船の数」「元軍の漂着死体」「日本軍が得た戦果合計」「日本軍が被った損害合計」の四つの
部分からなるという解釈だ。

363:名無し三等兵
13/10/14 21:42:09.06
>>362
それについては特段異論は無い。
俺もそういうふうに読む。

まあ、そもそもの情報が伝聞だし、内容の信憑性については評価しようがないがな。

364:名無し三等兵
13/10/15 06:18:39.15
おいおい、暴風雨があってから20日も経って
蒙古兵の死体が流れ着くのはおかしくないか?
さらに今度は蒙古兵の首の分捕りが合計で39個で
捕虜が27人とか逆に少ない。

365:PC
13/10/15 09:29:18.17 PNu/DeHX
>>363
>俺もそういうふうに読む。

ありがとう。
この読み方が私だけでないと知って心強い。ウィキも訂正して欲しいね。
このように読むということは、この史料が壱岐軍議説や壱岐追撃戦説の根拠には
使えないということだ。

>>364
>20日も経って蒙古兵の死体が流れ着くのはおかしくないか

何日か船が漂流してから二次的に沈んだ可能性もある。それに死体がいったん沈んで
からまた浮き上がるまでに何日かかかると言うし。

>蒙古兵の首の分捕りが合計で39個で捕虜が27人とか逆に少ない。

捕虜は最終的に生かしてもらった数だろう。だから志賀島で捕まってすぐに首を
切られた60ないし200人の捕虜は数に入らないという考え。
首の分捕りは意外と少ないのではないか。菊池だって2個だし。
集団戦では取りにくいことと、ある程度の身分の首でないと認められないことが
あるだろう。

366:名無し三等兵
13/10/15 11:53:37.55
何日もかかったとしても20日もかかって
溺死者が一斉に漂着したとはどうも信じ難い。
また、唐突に日本軍の総損害の記載があるのも
不自然だ。
場所の言及が一箇所にしかないのだから、すべて
ユキノセの出来事とみた方がしっくりくる。
また、蒙古兵の死者に触れた後に「日本人死事」の
記載をもってきているのは、蒙古兵の死者に対応した
ものであろう。
対応して日本軍の死者に触れるということは、戦闘による
両者の比較と考えた方が自然だ。

367:PC
13/10/15 14:18:56.76 PNu/DeHX
>>366
これは正式の報告書ではない。報告書を見た人の話から興味のあるトピックを
とりあげてメモ書きしたようなものだ。つながりが唐突なのはむしろ自然。

まず漂着船のトピックを取り上げた。つぎに漂着つながりで漂着遺体のトピックを
取り上げた。漂着のイメージが続いているから書き方は簡略にした。
次に戦争の総決算みたいな記事があったからそのなかから興味のある数字を取り上げた。
そのような性質の史料だ。

トピックとトピックの間を「又」でつないでいる、と見れば四つのトピックからなる。
「さらに」の意味の「又壱岐」を別にすればね。

いずれにせよ単なる敗残兵掃討戦で195人の戦死者は多すぎる。
一方、これを全戦闘に於ける御家人クラスの戦死者の総数と見れば、多すぎると見る人も
少なすぎると見る人もいるだろう。
ということは妥当な範囲にあるということだ。

もしそれが事実なら、これは日本側の戦死者総数の唯一の史料だ。その意味で貴重だと
思う。

368:名無し三等兵
13/10/15 16:54:53.37
では聞くが、暴風雨から20日経った11月9日に蒙古兵
の死体が150体、ユキノセに突如打ち上げられる摩訶不思議なことが
本気であると信じているのか?
また、195人が日本側の損害の総数だとして、総数であることに
に触れていないのはなぜだ?

日本側の損害が多いか多くないかは個人の主観に
しかすぎない。まず、「日本人」とはどの層を指した
ものか?「下郎」とはどの層を指したものか?
これを明らかにせず、日本側の損害が多いと思うから
総損害であると決めつけるのは無理がある。
下郎は数を知らずと両者の総数は不明である。
安国論私抄の書き方ならば、ユキノセにおける
蒙古兵の総損害が500で日本側が300かもしれない。
一概に日本側の損害が多いとは言えない。

過去の史料から写した内容が博多の本戦では無く、
ユキノセの戦いの局地戦(または蒙古兵死体の一斉打ち上げ)
のような小事(博多本戦と比べて)の記載があるということは、
参照史料の内容自体、ユキノセに関する記録しか無かったのだ。
また、本戦に触れず日本側損害だけを
記載するのは、興味があったからだけでは説明がつかない。
場所が書いていないということは、既に述べていたからだ。
つまりは唯一の記載地名である「ユキノセ」がそれだ。

369:名無し三等兵
13/10/15 19:34:55.49
>>364
情報が届いたのが20日後ってだけで、20日経って死体が流れ着いたわけではないだろう。
壱岐や対馬からの情報が届くのにその程度の時間がかかるのはむしろ当然。

370:PC
13/10/15 20:49:58.71 PNu/DeHX
>>369
>情報が届いたのが20日後ってだけで、20日経って死体が流れ着いたわけではないだろう。

その可能性はあるね。「~ニ聞コフル定」を、二回目だから省略したというわけだ。

もうひとつの可能性はすでに起こっていた事件を11月9日になって発見したという可能性。
戦後、無人になった壱岐または対馬を恐る恐る探索して、ユキノセに達したのが11月9日
だった、というわけ。

さらにもうひとつの可能性は前にも言った漂流だ。
大船には200人ぐらい乗っていたらしいが、そんな船が暴風で航行不能になり、何日も漂流
したあげくユキノセ津の沖合で遂に沈んだとすれば、150体がまとまって流れ着くことは
あり得るだろう。
この場合、ユキノセ津は壱岐・対馬であるとは限らない。裏日本のどこかの港でもいいのだ。

ということで、ぜんぜん摩訶不思議ではない。

371:名無し三等兵
13/10/16 05:58:43.26
>>370
>>その可能性はあるね。「~ニ聞コフル定」を、二回目だから省略したというわけだ。

二回目だから省略したのならば当然、前後の文章は対応していたということになるな。
つまりは唯一の記載地名である「ユキノセ」と日本人の損害も前後で対応していたものと
みても良いことになる。
「日付」と「地名」が書かれた資料において、日本側の損害が総損害ならば
そのことに言及しないのはあり得ない。日本人の損害は「日付」と「地名」に
対応して書かれたものであると考えたほうが自然。

>この場合、ユキノセ津は壱岐・対馬であるとは限らない。裏日本のどこかの港でもいいのだ。

372:名無し三等兵
13/10/16 06:00:26.16
>>370
>>その可能性はあるね。「~ニ聞コフル定」を、二回目だから省略したというわけだ。

二回目だから省略したのならば当然、前後の文章は対応していたということになるな。
つまりは唯一の記載地名である「ユキノセ」と日本人の損害も前後で対応していたものと
みても良いことになる。
「日付」と「地名」が書かれた資料において、日本側の損害が総損害ならば
そのことに言及しないのはあり得ない。日本人の損害は「日付」と「地名」に
対応して書かれたものであると考えたほうが自然。

>この場合、ユキノセ津は壱岐・対馬であるとは限らない。裏日本のどこかの港でもいいのだ。
ということで、ぜんぜん摩訶不思議ではない

まず、この資料の問題の箇所の前文を読んでみよう。
「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、
ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也

この資料をみれば、打ち上げられた蒙古船の確認できた船数を記録している。
『勘仲記』や『八幡愚童訓』などをみても、打ち上げられた船には蒙古兵が乗船しており捕虜となっている
ことが確認できる。
また、壱岐で船が座礁しているということは、当然のことながら溺死した蒙古兵の死体も打ち上げられていた
船と共に打ち上げられていたとみてもいいだろう。

つまり、前文の内容からして、ここで君のいう「ユキノセ」の漂着150体のみ特別に言及する意味などない。
前文には確認できた座礁船に全船について言及されているのだからな。
「ユキノセ」が日付と地名付きで記載されているのが「ユキノセ」の出来事が
特別な事件だったからに他ならない。つまり、「11月9日」付けに蒙古兵の損害に対応して
記載されている日本側の損害の記載があることを考えれば、この内容から浮かび上がる特別な
事件とは蒙古兵と日本人による衝突以外に考えられない。

373:PC
13/10/16 08:26:52.02 0L4WQUlK
>>371 >>372
>唯一の記載地名である「ユキノセ」と日本人の損害も前後で対応していたものと
みても良いことになる。

「又」の字を無視している。ユキノセの話が又で始まり、次に「総の・・」の話が
又で始まるのは、それぞれが独立したトピックであることを示している。

>日本側の損害が総損害ならばそのことに言及しないのはあり得ない。

これも「又」で始まるから別のトピック。また「総の生捕り」でここからが集計の
話であることはわかるから、後はいちいち「総」をつけるのは省いたのだ。
こころみに全部「総」をつけてみよ。うるさくて読みにくい。

>「ユキノセ」の漂着150体のみ特別に言及する意味などない。

前にも言ったが、これは正式の報告書ではない。私的なメモに過ぎない。
漂着死体についていちいち記録してあったかどうかはわからないが、そうだとしても
ユキノセの150体が飛び抜けていたから代表してこれだけをメモしたと考えればよい。

374:PC
13/10/16 09:00:49.16 0L4WQUlK
>>372
>日本側の損害の記載があることを考えれば、この内容から浮かび上がる特別な
>事件とは蒙古兵と日本人による衝突以外に考えられない。

「ユキノセの合戦」にえらく執着しているようだが、具体的に考えて見たのか?
その「蒙古兵」なるものを考えて見れば、彼らは船が難破して陸に上がって以来、20日間も飢
疲れていたのだ。また武器はと言えば、もともと矢は射尽くしている上に、帰還軍でさえ
「多くの武器を棄て、残りも使用に耐えない」と高麗記にあるくらいだから、ろくに揃っていなかった。
一言で言えば彼らはよれよれの、丸腰に近い敗残兵だった。

この蒙古兵を相手にしたのは戦意旺盛、補給十分な新手の日本軍だ。用心して日本人と書いて
いるがこれは武士のことだよな?
君は鳥飼潟の戦いで死んだ武士はみつともの又二郎ただ一人だったと言ったことがあるが、
それほど死ぬことがまれな武士を、よれよれの敗残兵相手に一度に195人も大安売りして
いいのか? 状況を考えれば、むしろ相手は戦わずして降伏して当然でないか?

こんな状況で武士195人の戦死はあり得ないと考えるならば、ユキノセの合戦もまた幻になる。

375:PC
13/10/16 10:22:55.34 0L4WQUlK
>>374
訂正:
高麗記 → 高麗史

376:PC
13/10/18 17:48:57.05 PiBC0PhF
ひとつ気が付かなかった。
百歩譲って「ユキノセの合戦」が実在したとしても、それは「壱岐軍議説」(壱岐で文永の役の第二次戦闘が
行われたとする説)の証拠にはなり得ないね。

なぜなら10月9日に不明の場所で行われた敗残兵掃討戦だという「ユキノセの合戦」は、壱岐軍議説と従来説の
いずれにも整合するから。

377:PC
13/10/18 17:52:22.40 PiBC0PhF
>>376
訂正:
10月9日 → 11月9日

いつも無駄遣いして申し訳ない。

378:名無し三等兵
13/10/22 14:56:11.50
パフォが暴れてるのは年中行事として、前スレの詳しい人が嫌気がさしていなくならないか心配

379:名無し三等兵
13/10/22 19:42:13.96
>>353
状況設定がすでにおかしい。
20日に日本軍の追撃部隊が出航してるんだから、この時点で元軍は既に
撤退してるし、日本軍も把握している。

380:名無し三等兵
13/10/22 19:50:54.24
>>355
>電話もFAXもない時代だよ。10月21日以降に文字通り津々浦々でおこった事を、どうやって10月24日
>までに集計して報告書にまとめ、しかも遠隔地まで届けるというのか?

日本軍が九州沿岸及び制海権を掌握していたなら問題ないだろ。
11月24日の誤りという可能性はない。
勘仲記の内容から、安国論私抄の記述に近い報告は11月6日時点で京都へ
届いていたと考えられる。
つまり、10月24日以前に日本側は壱岐も奪還してたってこと。

381:名無し三等兵
13/10/22 20:10:42.00
【軍靴】自衛隊、射程100km超の地対艦ミサイルを石垣島に配備 中国の反発は必至か
スレリンク(poverty板)

382:PC
13/10/23 09:48:42.17 CjH8fOjf
>>380
日本軍が無線通信を持っていたという話はしばらくおいて、その、制海権を掌握していた
という日本水軍の話を聞こう。

1)元軍は主将のクドゥンが陸上にいるぐらいだから、全軍が壱岐に上陸したのだよね?
すると海上には300隻の空船(大船)が浮かんでいた。後から壱岐に到着した日本水軍は
なぜ、この空船を乗っ取りと焼き討ちで全滅させなかったのか?

船団を全滅させれば上陸した元軍はほっとけば自滅するから、わざわざ上陸して戦う必要が
ない。なぜ日本水軍はこの戦法を取らなかったのか?

2)元軍が壱岐を撤退したのは、君の考える時系列では21日か22日の夕方~夜だろう。
元軍が博多を撤退したときには日本水軍は20日当日に博多を発向したのだから、当然
壱岐でもその日のうちに出発して元軍の船団を追撃したはずだよね。

すると日本水軍もまた暴風に遭遇したはずだが、こちらは大丈夫だったのか?
甲板のない和船が、元軍の大船よりも暴風に対して強いのか?

383:名無し三等兵
13/10/23 13:02:55.16
>>382
1)海上に300隻の空船を残して全軍が上陸するということは無いだろ。
弘安の役で志賀島に上陸した元軍に対して日本軍は海陸から攻撃してるけど、
あっさり船団が全滅したりはしていないし。
当然それ相応の戦闘力は残してるはず。
それに、日本側は壹岐の状況も気になる。
上陸して残存兵力がいれば合流して戦うという選択肢もあるからね。

2)壱岐でもその日のうちに出発して元軍の船団を追撃したはず、ではない。
元軍は夜間に悪天候の中を壱岐から出発してるけど、日本水軍はそもそも
その状況下で出発できなかったということも当然あり得るわけで。

384:名無し三等兵
13/10/23 15:45:48.75 CjH8fOjf
>>383
>海上に300隻の空船を残して全軍が上陸するということは無いだろ。
>当然それ相応の戦闘力は残してるはず。

なるほど、それはあり得るな。
しかし、それならば自然と、元軍船団vs日本水軍の戦いになるのではないか?
弘安の役の壱岐の戦いだってその形だった。
もともと陸上に日本軍がいる志賀島の戦いと比較してはいけない。

>>上陸して残存兵力がいれば合流して戦うという選択肢もあるからね。

なるほど、それが日本軍が上陸した理由か。
しかし日本軍は壱岐守備隊全滅の報告をすでに受けていたのでなかったか?

>元軍は夜間に悪天候の中を壱岐から出発してるけど

悪天候なら元軍だってそもそも出航してないだろう。出航した後に天候が急変した
と考えるのじゃないのか? 
ともかく君によれば日本水軍は当夜は出発しなかった。情報遅れの要因が一つできたな。
覚えておくよ。

>>380
>日本軍が九州沿岸及び制海権を掌握していたなら問題ないだろ。

目の前の空船、あるいは部分戦力の船団を暖かく見逃してやる。
出発する全軍の船団も暖かく見逃してやる。
それで「制海権」とはよく言ったものだな。

385:名無し三等兵
13/10/23 22:02:53.49
困ったな、これじゃレスが付けられねえ

パフォの味方はしたくないが、かといって壱岐決戦説なんて馬鹿話を支持するわけにもいかんし・・・

386:名無し三等兵
13/10/23 23:12:10.28
>>385
壱岐で決戦があったとか誰も言ってないけど?

387:名無し三等兵
13/10/24 03:55:27.88
九州本土に続いて追撃戦もしくは掃討戦が存在したその記述だと言ってるのでしょ
もちろん前スレでは疑義も呈されてたけど、「あり得ねえ通説知っとけよw」みたいな短絡反応はなかったね
(その「通説」とやらが前スレまでで徹底批判されたんでしょうに。
それに軍議の描写と史実の間に齟齬が生じるなり、経過が不自然になるから支持されたのに)
史料の記述の誇張を前提とせず、史料間の従来解釈の齟齬を合理化できる解釈として充分に成り立つ

388:名無し三等兵
13/10/24 05:18:13.23
>>384
守備隊が全滅したら報告は伝わらないよ。
九州に伝わっていたのは対馬や壱岐が元軍と交戦した報告。

元艦隊が退散したことを日本側が把握してる以上、九州近海は何の危険もなく
日本船が自由に航行できる海域だろ。
「日本軍が制海権を掌握」は何の誇張もなくそのものズバリの状況じゃん。
11月6日に京都へ元艦隊の撤退と帰路の遭難が伝わってる以上、逆算すれば
10月24日以前に日本側が壱岐の支配権も奪還していたとするのは自然。

389:名無し三等兵
13/10/24 11:15:43.72 /qs3Waz6
>>388
>守備隊が全滅したら報告は伝わらないよ。
>九州に伝わっていたのは対馬や壱岐が元軍と交戦した報告。

守将の平隆景は自決の前に下人の宗三郎に命じて壱岐を脱出させ、博多に報告させた。
これによって壱岐全滅の事情が伝わった。勉強家の君がこのことを知らないはずがないな。

>元艦隊が退散したことを日本側が把握してる以上、九州近海は何の危険もなく
>日本船が自由に航行できる海域だろ。
>「日本軍が制海権を掌握」は何の誇張もなくそのものズバリの状況じゃん。

敵がいなくなったら制海権が戻るのは当たり前、犬が西向きゃのレベルだが、
自由に航行できたからと言って10月24日にあの報告書を届けるのは不可能。
そのことはまた後で書く。

>11月6日に京都へ元艦隊の撤退と帰路の遭難が伝わってる以上、逆算すれば
>10月24日以前に日本側が壱岐の支配権も奪還していたとするのは自然。

11月6日に京都に伝わったのは「20日に博多で合戦、敵船一隻押収、元軍撤退」まで。
元軍の遭難は伝わってない。

390:名無し三等兵
13/10/24 11:52:58.39
全滅って、一人残らず抹殺されたって意味か

391:名無し三等兵
13/10/24 13:31:25.83 /qs3Waz6
>>390
抹殺されたんじゃなくて、最後は全員自殺ね。
これは戦闘員の話。住民は隠れおおせた人は生き残った。

392:名無し三等兵
13/10/24 14:40:11.39
>>389
帝王編年記は「云々」って書いてるだろ。
つまり、省略されてる情報があるんだよ。
11月6日に元艦隊が遭難したことや残った艦隊が高麗へ向かったことが京都へ
報告されていたってのは、勘仲記からわかる。

「十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、
少々船又馳上陸上」

つまり日本側には博多湾を発った後の元艦隊の情報が逐一入っていたわけだ。

393:PC
13/10/24 14:50:15.69 /qs3Waz6
>>388
ところで、上にも書いたが、弘安の役の壱岐戦闘は絶好のモデルを提供している。

弘安の役で元軍は、志賀島で敗れたあと壱岐にたてこもった。恐らく元軍は一部の兵を陸上に
配置し、一部の兵を船に残して海上防衛に当たらせただろう。まさに君が>>383で想定する状況だ。

それに対して日本軍は十分に準備を整えた上で攻め懸かった。文永の役で君が想定するように、
激しい陸上戦が終わった後の20日当夜の出発などというあわただしいものではなかった。

また他に戦闘は行われていなかったから、日本軍は全力を壱岐に集中することができた。
文永の役で陸上戦闘が行われて元軍を撤退させていたのなら、弘安の役でも陸上戦闘があって、
元軍を追い落としていたとしても不思議ではない。

このように条件が揃っているのに、弘安の役の壱岐戦ではなぜ陸上戦闘がなかったのか?
君はこれを説明しなければならないね。

394:PC
13/10/24 15:11:31.32 /qs3Waz6
>>392
「而俄逆風吹來吹帰本國」は元軍の撤退をそのように表現したに過ぎない。
南風は吹いたかも知れないが、「吹き帰す」だから「帰った、撤退した」というだけで
本格的遭難のことは言っていない。

「少々船馳上陸上」は座礁の意味だ。後に捕虜五十人の話があるから、例の志賀島座礁船の
ことだとわかる。

結局は同じ情報だよ。「元軍は去った」という安堵の第一報だ。

395:名無し三等兵
13/10/24 17:04:30.81
>>394
海上で逆風に遇ったと書いてるんだから「帰った、撤退した」というだけでなく
本格的遭難としか考えられない。

それに、例の志賀島拿捕船は1艘だろ。
「少々船馳上陸上」はあきらかに複数形じゃん。

海上の逃れた後の元艦隊の動向を日本軍が追っていたことはこれで明白。
元艦隊がただ博多湾を発っただけじゃなく、海難で大損害を受けた挙句
本国に向かってることが確定してるからこその「元軍は去った」という
安堵の第一報なんだよ。

396:PC
13/10/24 20:13:54.79 avWxrkjI
>>395
>海上で逆風に遇ったと書いてるんだから

「海上で逆風に遭った」とはどこにも書いてない。「海上」は前のセンテンスで「浮かぶ」にかかる。
「凶賊船数万艘海上に浮かぶ」だ。元の船団が博多湾に現れた事をこのように言ったのだ。
それでこそ次の「しかるに俄に逆風吹き来たり(賊船を)本国へ吹き帰す」につながる。

>それに、例の志賀島拿捕船は1艘だろ。 「少々船馳上陸上」はあきらかに複数形じゃん。

「少々」は非常に少ないと言う意味だから1艘でも複数でもいいのだ。
それにこの記録は「或人曰」だから明らかに伝聞だ。じぶんで報告書を見たわけではない。
拿捕船の話を聞いたけれども数は不確かだから「少々」と書いたのだ。後で捕虜の件も出て来る
ことで他の記録と同じ志賀島拿捕船の話なのは明らか。
ということで、船団遭難のことはこの記録には入っていない。

あと、>>393への答えをよろしくね。
君の想定とほとんど同じケースの、弘安の役壱岐戦で、日本軍はなぜ上陸して戦わなかったのか?

397:名無し三等兵
13/10/24 23:45:09.13
>>387
誰も「あり得ねえ通説知っとけよw」なんて話はしとらんのだが ?

通説に批判的な点では俺も人後に落ちないつもりだが、通説に対する異説であれば何でも通るわけじゃあるまい。
壱岐決戦説など大宰府決戦説があり得ないのと同様にあり得ない。
有ったことを裏付ける資料が一切ないからな。
「史料の記述の誇張を前提とせず、史料間の従来解釈の齟齬を合理化」するためだけに無理に無理を重ねた奇説だ。

>それに軍議の描写と史実の間に齟齬が生じるなり、経過が不自然になるから支持されたのに
軍議の場が北九州であれば、むしろその方が史実と無理なく符合するぞ。
そりゃこの異説を支持してる奴もいるだろうが、支持しなくても議論の成り行き上パフォの味方をしたくないのでこのネタ
については傍観を決め込んでた連中も大勢いただろう。
俺もその一人だが。

398:名無し三等兵
13/10/25 00:27:51.01
>>397
だから壱岐で決戦があったとか誰も主張してない。
誰も主張してない以上、裏付ける資料も何もないだろ。
軍議の場が壱岐だってことは、史実やその他の資料と完璧に符号してるんだから
認めるしかないだろ。

399:名無し三等兵
13/10/25 03:38:10.76
久しぶりに来たら凄い事になってるな
読むべきレスって有る?

400:名無し三等兵
13/10/25 07:44:43.43
ない

401:名無し三等兵
13/10/25 10:38:07.01
>>396
海上に浮かぶ凶賊船数万艘が逆風に遇ったと書いてるんだから 、
「海上で逆風に遭った」そのものじゃん。
で、「俄に逆風吹き来たり」はあきらかに気象現象だろ。

あと、帝王編年記には志賀島拿捕船が1艘と明記してあるわけで、1艘のことを
「少々」などと表現しない。
志賀島拿捕船とは別に話であることも明らか。
更に國分寺文書に記された元艦隊遭難の表現とも酷似してる。

勘仲記11月6日条が元艦隊遭難の記述であることは疑いようがない。
実際にこれまでも勘仲記は元艦隊遭難の記録として扱われてきたろ。
日本軍が博多湾出港後の元艦隊の動向を完璧に把握していた動かぬ証拠だ。

402:名無し三等兵
13/10/25 10:47:41.73
>>393
弘安の役の壱岐戦では陸上戦闘がなかったという設定がおかしい。
wikiは『弘安四年日記抄』七月十二日条の「異國賊船等退散」を根拠に
日本軍が壱岐から元軍を追い落としていたとしてるよ。

403:PC
13/10/25 20:09:58.93 Lrb8ogrV
>>401
結局、11月6日の伝聞の内容が「博多合戦・元軍撤退」の情報か、それとも「元艦隊遭難」の情報か
ということだが、百歩譲って「元艦隊遭難」の情報だとしても、なぜそれが「20日壱岐追撃戦」の
証拠になるのかがさっぱりわからない。

元艦隊が壱岐で遭難したのなら、壱岐と本土との距離は近いのだから、鷹島や松浦半島あたりでは
2、3日中に漂着物などから大量遭難の徴候が明らかになったはずだ。それを太宰府が10月26日まで
に確認して飛脚を立てたならば、11月6日には京都に着く。

服部秀雄氏によれば博多→京都の飛脚の所用日数は10日と推定されているからだ。
11月6日の「元艦隊遭難」情報を説明するのに壱岐追撃戦はまったく必要ない。
逆に言えば11月6日の「元艦隊遭難」情報は壱岐追撃戦の証拠にはなり得ない。

404:PC
13/10/25 20:46:51.78 Lrb8ogrV
>>402
>wikiは『弘安四年日記抄』七月十二日条の「異國賊船等退散」を根拠に
>日本軍が壱岐から元軍を追い落としていたとしてるよ。

wikiはそんなことは言ってないが、ただwikiは竜造寺勢が7月2日に瀬戸浦に「上陸を開始した」と言って
いる。それなら陸戦があったことになるが、これは他の資料には無く、根拠不明である。

長崎県壱岐支庁発行の「壱岐島勢要覧」は
「6月29日から7月2日にかけて、肥前・肥後・筑前・薩摩の御家人は、壱岐の瀬戸浦で元軍の大船団にゲリラ的な
攻撃を行った。」と言っている。つまり海戦のみだったとしている。

405:名無し三等兵
13/10/25 22:15:12.54
>>382
忙しくて返信ができなくすまなかった。

>>「又」の字を無視している。ユキノセの話が又で始まり、次に「総の・・」の話が
又で始まるのは、それぞれが独立した事柄であることを示している

「又」は独立した事柄であることを示しているのはまったくその通りだよ。
ユキノセの話が「又」で始まり蒙古兵の戦死者について触れ、再び「又」で蒙古兵の死者とは
別の生捕二十七人について触れ、最後の「又」で蒙古兵のことと別の事柄である日本人の戦死者
について触れている。よって、「又」が使われていようがユキノセで戦闘があった否定の根拠
になりえない。

>後はいちいち「総」をつけるのは省いたのだ。
こころみに全部「総」をつけてみよ。うるさくて読みにくい。

君は「又」で別のトピックに移ったと言ったではないか?
日本側の損害について述べる前に「又」がついているのだから
前文の「総」と日本側の損害は対応したものではない。
まったく別の事柄だよ。

406:名無し三等兵
13/10/25 22:16:22.25
>ユキノセの150体が飛び抜けていたから代表してこれだけをメモしたと考えればよい。

わかっていないな。
「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、
ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也」
と「ユキノセ」の出来事に触れる前に膨大な蒙古側の損害に触れているのだから
「ユキノセの蒙古兵の死体150体が突出して多い」わけがない。
むしろ、確認された打ち上げられた船の数が170艘で、そのうち蒙古軍船の構成の3分の1が大型戦艦の千料船で
あったことを考慮して、打ち上げられた170艘のうちの3分の1である約55艘が仮に千料船だったとすれば
一艘あたり300人近く乗ることが可能であった千料船にとって「ユキノセの蒙古兵死体150体が突出して多い」
わけがないのは誰でもわかることだ。
やはり、暴風雨を免れた蒙古兵がユキノセに上陸してここで戦死したとしか読み解けないね。

407:名無し三等兵
13/10/25 22:23:04.48
>その「蒙古兵」なるものを考えて見れば、彼らは船が難破して陸に上がって以来、20日間も飢 疲れていたのだ。

そもそもの前提が君の妄想にしかすぎない。
彼らが陸に20日いたとは何を根拠にしているのだ?千料船1艘あたりには食糧も武器も積まれていたのだ。
暴風雨で本隊とはぐれ、彷徨っていた蒙古船は食糧が尽きかけていたため、略奪を目的に「ユキノセ」に
上陸したために起こった戦闘と考えれば君の疑問はすべて解決する。

>「多くの武器を棄て、残りも使用に耐えない」と高麗記にあるくらいだから、ろくに揃っていなかった

それは打ち上げられた蒙古船の話だ。
海上で暴風雨を耐えた蒙古船には当てはまらない。

408:名無し三等兵
13/10/25 22:24:12.40
>よれよれの敗残兵相手に一度に195人も大安売りしていいのか? 

重要なことに気付いた。『安国論私抄』は「日本人が195人」と言っているだけだ。
「武士」だとは言っていない。武士も島民もすべて日本人であることに変わりはない。
君はこの資料がなぜ「日本人」と記載しているのかを考える必要がある。
略奪を受け殺された島民とそれを殲滅した武士の総数が195人だったのだ。
「下郎」とは195人のうちに含まれていた存在であり殲滅した武士のことか島民のいずれか
断定できないがどちらにしろ、 蒙古軍を撃退して20日後にこれほどの島民が殺された。
注目し記載すべき事件ではないか。

409:名無し三等兵
13/10/26 06:32:45.67
>>403
>元艦隊が壱岐で遭難したのなら、壱岐と本土との距離は近いのだから、鷹島や松浦半島あたりでは
>2、3日中に漂着物などから大量遭難の徴候が明らかになったはずだ。それを太宰府が10月26日まで
>に確認して飛脚を立てたならば、11月6日には京都に着く。

それじゃあ元艦隊が本国に向かったか不明じゃん。
安国論私抄に10月24日付で詳細な座礁船の報告があるんだから、それが
11月6日に京へ伝えられたとすればいいだけのこと。

410:PC
13/10/26 11:09:34.43 GOvyNIcT
>>409
>それじゃあ元艦隊が本国に向かったか不明じゃん。

行く先しか問題がないのなら、君は>>403で私が示した時系列が成り立つことを
認めたわけだ。
行く先が知れない問題は、君の想定でも日本水軍は嵐の夜出航しなかったのだから
同じだし。

10月24日付け報告書は、単に「こっちのルートもあるよ」というだけで、上記を
否定するものではない。これで11月6日付け伝聞が壱岐追撃戦の根拠にはならない
ことが確定した。

そこで10月24日付け報告書の問題に移るが、まず君は「10月24日に聞ふる定」と
いうのは何処で「聞ふる」つまり話を聞いた、あるいは報告書を見たと考えるの?
念を押せば、上記の私の質問の核心は「何処で」にある。
場所で答えてね。

411:PC
13/10/26 13:51:53.35 GOvyNIcT
>>410
「場所」というと語弊があるかもしれない。
「地名」で答えてね。

412:PC
13/10/26 20:55:19.21 ti8Hn2J8
>>407
>暴風雨で本隊とはぐれ、彷徨っていた蒙古船は食糧が尽きかけていたため、

1隻の船が漂流したと考えるわけか。その場合はいいモデルがある。志賀島の拿捕船だ。
志賀島の拿捕船の場合、20日どころかたった一晩座礁していただけだった。武器も食糧も揃っていたと考えられる。

それでも元兵は士気低下して、日本軍の姿を見ただけで戦わずに降伏した。君が想定する漂流船の場合もこれと同じ
ことが起こっただろうよ。もちろんその場合は日本側は一人も死なない。

>>408
>「下郎」とは195人のうちに含まれていた存在であり

曲芸的な読み方を考えても、かんじんの鎌倉時代の人がそのようには読まなかっただろうね。
ところで君は以前、鳥飼潟の戦いで死んだ武士はみつともの又次郎ただ一人だったと言ったことがあるが、
このような武士の損耗率から考えて、下郎すなわち下人郎党を除く武士の戦死者総数が195人というのは
多すぎると思うか? それとも少なすぎると思うか?

413:名無し三等兵
13/10/26 21:48:59.01
>>412
>1隻の船が漂流したと考えるわけか。その場合はいいモデルがある。志賀島の拿捕船だ。
志賀島の拿捕船の場合、20日どころかたった一晩座礁していただけだった。武器も食糧も揃っていたと考えられる。


まず、状況を考えてみよう。志賀島の場合は日本軍本隊の眼前での座礁船だ。
まずこの状況で日本軍と戦っても勝ち目はない。志賀島の場合は軍船が座礁しており
戦うか降伏するかの二択しかなく逃げることも不可能だったわけだ。
対して「ユキノセ」の状況を考えてみよう。「ユキノセ」の場合は本戦から二十日も経ち日本軍本隊がユキノセに
張り付いていたとは状況から考え難い。蒙古軍は難なく島民を襲撃できたはずだ。
しかし、急報を聞き駆けつけてきた日本軍との戦闘では「ユキノセの蒙古軍」は自らの判断で接岸したのであり
ここは戦ってでも逃げ延びようとしても何らおかしくない。玉砕するかもしくは降伏するかの他に「ユキノセの蒙古軍」には
第三の「追撃戦を受けながらも逃げる」という選択肢があったのだ。まったく状況が違う以上、志賀島の場合がいいモデルとは
言い難いね。

414:名無し三等兵
13/10/26 21:49:45.86
>このような武士の損耗率から考えて、下郎すなわち下人郎党を除く武士の戦死者総数が195人というのは
多すぎると思うか? 

まず君の前提が間違っていることは既に述べたとおりだ。『安国論私抄』は「武士が195人戦死した」など一言も言っていない。
「『日本人』が195人死んだ」と言っているのだ。当然、御家人も郎党も島民もすべて『日本人』だ。
まず、君の妄想が成り立つためには「鎌倉時代において御家人階級以上のみが『日本人』として認識されていた」とする前提を
証明しなければならない。まずは御家人階級以上のみが「日本人」として認識されていたとするソースをよろしくね。

>ところで君は以前、鳥飼潟の戦いで死んだ武士はみつともの又次郎ただ一人だったと言ったことがあるが、

はて?いつ俺が「光友又二郎のみが鳥飼潟で戦死した」などありもしないしないことを言ったかな?
「鳥飼潟で戦死が確認できる唯一の人物が光友又二郎のみ」とは言ったことがあるがね。

415:PC
13/10/26 22:38:17.22 GOvyNIcT
>>414
私は安国論私抄のなかの「日本人」とは何かなどと聞いていない。その議論はまた別だ。
私は単に195人という人数が武士の戦死者総数として多すぎるか少なすぎるかと聞いたのだ。
つまり文永の役における武士の戦死者総数に関する君の概念を聞いているのだ。

答えたくなければ答えなくてもいいよ。
君にもいろいろ事情があるだろうからね。

416:名無し三等兵
13/10/26 23:39:11.58 ksfpvi5w
まあ俺が何と言っても許せないのは、東芝の携帯の変換予測が倭寇は出てくるのに原稿は出てこない事よ
安重根は出てくるのに伊藤ヒロ文が出て来ない
これどう思うよ?

417:PC
13/10/27 13:30:12.01 l+g7SAqG
>>414
君は「195人は文永の役の武士(下人郎党を除く)の戦死者総数として多いか少ないか」
という私の質問に答えないな。
答えないのはこの数字が妥当な範囲にあると考えるからだろう。私もその見方に賛成だ。

ところで「195人は島民と武士の戦死者の合計。下郎も195人に含まれる」という君の
主張はどう考えても無理だ。というか矛盾を含んでいる。

なぜなら下郎の死者の数は「数えられない、数えてない」からこそ「その数を知らず」なのに、
195人のうちに含まれるなら一度数えたことになるからだ。

やっぱり下郎は195人に含まれてないよ。
であれば195人は下郎と区別される、下郎ではない人の死者の数だ。
そういう人とはどんな人かな?

418:名無し三等兵
13/10/27 22:19:25.98
>>417
>答えないのはこの数字が妥当な範囲にあると考えるからだろう。私もその見方に賛成だ。

答えないのは今君のレスを確認したからだ。君みたいに四六時中ここに張り付いているわけではないのでね。
残念だね。全く不同意だよ。まず、君は195人は「日本側の総損害」だとしているが、対馬や壱岐、博多において受けた
日本側の損害がたった195人だったと本気で信じているのかな?
君の卑怯な点は日本側の総損害が195人としておきながら、なぜか博多の戦闘のみしか念頭にない点だ。
君は『安国論私抄』の日本側の死者数を総損害としていながら、都合のいい解釈で対馬と壱岐を無視している。
まさにダブルスタンダードだね。

>なぜなら下郎の死者の数は「数えられない、数えてない」からこそ「その数を知らず」なのに、
195人のうちに含まれるなら一度数えたことになるからだ。

残念だね。毎度ながら前提が間違っている。「数えられない、数えてない」から
「その数を知らず」ではないのだ。
まず、『安国論私抄』の史料としての性格を考えてみよう。
『安国論私抄』は鎌倉時代の史料を室町時代の日朝が参考にして書かれた史料である。
つまり、参考にした鎌倉時代の史料に「日本人が195人死んだ」と書いてあったが
その195人のうちの下郎の死者数は室町時代の日朝には知る術もなく「その数を知らず」
なのだ。よって、君の疑問はこれで解決したね。

419:PC
13/10/28 14:42:22.63 R00hgQVD
>>418
>195人は「日本側の総損害」だとしているが、対馬や壱岐、博多において受けた日本側の損害が
>たった195人だったと本気で信じているのかな?

私は>>412で「下人郎党を除く武士の戦死者総数が195人では多すぎるか、少なすぎるか」と質問し、
君はそれを>>414で引用している。だから君は質問を十分理解しているはずだ。

それにもかかわらず>>418では「195人は「日本側の総損害」だとしているが」と、あたかも195人が
下人郎党を含む戦死者総数であるかのように印象操作している。
こんなストローマンをしなければならない、なにかの事情があるのかな?

>博多の戦闘のみしか念頭にない点だ。
>都合のいい解釈で対馬と壱岐を無視している。

対馬壱岐でそれぞれ100人、合わせて200人で195人をすでに超える、と言いたいのだろうが、
それは上記の事情と関係する。それを説明しよう。

まず軍勢の中で御家人クラス(御家人+係累)の割合はどのくらいか分からないが、仮に20%と
仮定しよう。すると対馬壱岐、松浦党、博多の御家人の戦死者数は次のように推定される。
(松浦党は「数百人」討たれたと言われるが誇張もあると思うので割り引いて300人とする。)

対馬壱岐  御家人クラス40人  下人郎党160人  計200人
松浦党   御家人クラス60人  下人郎党240人  計300人
博多    御家人クラス100人  下人郎党400人  計500人
合計    御家人クラス200人  下人郎党800人  総計1000人

博多は御家人クラスの合計を195人に近い200人にするための数合わせだ。
数合わせではあるが、戦死者総数を考える上でのたたき台の意味はあるだろう。
また、御家人クラスと下人郎党の戦死の確率を同じと見るのにも問題があるにはある。

さて、改めて聞こう。このような戦死者推定は妥当と思うか?


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