12/09/20 14:51:16.43 oEE79A2/
>>93
>この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、
八幡ノ蒙古記と高麗史の一致点はそれだけでないことは>>49ですでに言った。
それを見てもらえばいいのだが折角だからもういちど繰り返してあげよう。
1)日没まで戦闘が行われたこと(説明略)。
2)日本軍の損害が大きかったこと。
高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と八幡ノ蒙古記の戦闘記述とが一致する。
高麗史はじぶんが負けたときは「官軍潰」とか「以累戦不利」とかちゃんとそのように書くから信頼できる。
3)劉復亨が射落とされたこと。
高麗史は「劉復亨当流矢」、八幡ノ蒙古記は少貳が水城街道で部下に射させた記述。
4)元軍が当夜に撤退したこと。
八幡ノ蒙古記は翌朝元軍の船が消えていた記述、高麗史は「劉復亨当流矢、先登船」。
高麗史は直接的ではないが、まさか一週間とか野戦病院で唸っていたという書き方ではあるまい。
ここで注目すべきは単に一致するというだけではなく、1)3)4)については、日本側では八幡ノ蒙古記しか
これを記録していないことだ。
いかに八幡ノ蒙古記の性格に問題があろうと、記録が「ある」と「ない」とではその差は無限大だ。
このような史料価値は決して無視していいものではない。
八幡ノ蒙古記に含まれる、当時としては当たり前な宗教的な部分をことさらに取り上げるのは
学者を含めて「元軍そのまま撤退説」派の宣伝に過ぎない。