12/09/16 22:29:56.36
ところがだ。何とか妄想と飛躍で蒙古襲来絵詞を捌いたつもりになったものの、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞
と矛盾点はこれだけではない。
上にもあるが、なんと八幡ノ蒙古記では此の人の言う後半戦とやらに竹崎季長が参加していたというのだ。
此の人のいう八幡の蒙古記の後半戦には「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」とあり
前半戦の蒙古襲来絵詞における鳥飼潟での戦闘で負傷して竹崎は戦場を離脱していたのにもかかわらず竹崎が
後半戦に参加していたというのだ。
ところが、蒙古襲来絵詞には以下のような竹崎季長と安達泰盛とのやりとりの記載がある。
文永の役の勲功に関して、恩賞奉行の安達泰盛が竹崎に対して、「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」
との質問に対して、 竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。
ということは、竹崎ら一党は此の人のいう前半戦の鳥飼潟で負傷した時点で戦線を離脱していたのだ。
つまりは八幡ノ蒙古記は実際はその場の戦場に存在しなかった人物を無理矢理登場させたということだ。
そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。
ましてや、八幡ノ蒙古記の文永の役の結びには元軍を追い払ったのは
「白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、
へきえきして、松原の陣をにけ」とあり、筥崎宮より現れた白装束三十人の集団が元軍を追い払ったとしている点は注目に値する。
結局は、この結びにたどり着くまでには、その場にいなかった武士たちも登場させて元軍に敗れに敗れた武士団が
必要だったということがわかるのだ。
蒙古襲来絵詞などと八幡ノ蒙古記にはこれだけではなく、まだ矛盾点が多々あるのだが、これらを見ていけば、
蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記との戦況の差異は、時間的差異などではなく、現場の武士と八幡の蒙古記の著者とでは
根本的に戦況の認識が違っていたということだ。