12/09/08 11:18:31.90 UrA9eeJO
「中世都市・博多を掘る」を見ると、当時の博多の地図が出ている。それを見て、今までの
自分の考えを改めたところがあった。
赤坂山は内陸にあったと思っていたが、違った。赤坂山は海に突き出た小半島だったのだ。
これを赤坂半島と仮に呼ぶ。
赤坂半島の東にある博多は海に突き出た砂洲だった。これを博多半島と仮称すれば、博多半島
と赤坂半島の間は入り江で、徒渉不可能だった。だから竹崎は住吉神社の前を通って入り江の
奥を迂回して赤坂へ行った。
赤坂半島の西には仮称・祖原半島が海に突き出ていた。祖原半島の北岸の砂浜(百道原)は横に
伸びて、赤坂半島との間に鳥飼の塩干潟を囲い込んでいた。
祖原山は上記・祖原半島の付け根にあった。だからこれも内陸とは言えない。
さて鳥飼の塩干潟は当然ながら干満があった。「文永十一年・冬の嵐」によれば当日の干満差は
約1.5m、干潮は午前6時、満潮は昼12時であった。満潮時は徒渉不能になり、もはや戦場には
なり得ない。
福田兼重らの武士たちは、菊池勢が敵を追い払った赤坂半島を基点として、鳥飼の潮干潟を渡って
百道原の砂浜に突入したのであろう。そしてその戦いは鳥飼潟が徒渉できる時間帯、恐らく午前十時
ごろまでのことだったのである。