【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 3at ARMY
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 3 - 暇つぶし2ch2:名無し三等兵
12/09/06 18:17:46.05
復活

3:名無し三等兵
12/09/06 18:25:52.44
例のageて長文書く人はスルーの方向で

4:名無し三等兵
12/09/06 19:05:54.07
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
武家は後半の負けを報告していない


の人か

5:名無し三等兵
12/09/06 21:15:40.26
待ってました!
左巻自虐史観の妄想"定説"じゃなく、純軍事的な検証がしたいね

6:名無し三等兵
12/09/06 23:07:23.65 qixeqseI
>威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで

理解が足りないね。

>棄民戦略にすぎない

弘安の役はいざ知らず文永の役に棄民も屯田もない。

>なんとか神威で勝っただけで

神威もなにも、文永の役は勝っていない。
水城に撤退して博多箱崎を明け渡したのを勝ちとは言えない。
元軍も撤退したからいいとこ引き分け。

>武士が強いわけが無い

あの戦い方でも引き分けに持ち込んだのは武士の強さだ。

7:名無し三等兵
12/09/07 15:14:52.50 0JKrH/RF
南無八幡大菩薩

8:名無し三等兵
12/09/07 17:21:56.59
師説を覆せない日本歴史学会の馬鹿学者共にはほとほと呆れ返る

9:名無し三等兵
12/09/07 18:17:48.20
>>7
八幡と言えば
室町幕府は八幡(源義家)の子孫であることから将軍就任の正当性を確保した都合で
八幡愚童訓を否定して元寇の再検証するのは難しかったんだろうな
江戸幕府(というか家康)にいたっては系図を(ry

10:名無し三等兵
12/09/07 18:21:01.56 L7363x87
>>8
師説ってなに?

11:名無し三等兵
12/09/07 18:25:23.69
まあ武士に痛撃を与えてこれで鎌倉の奴らもビビって服属するだろと思って兵を退いただけで負けてはいない
作戦目標を達しただろww

12:名無し三等兵
12/09/07 18:52:03.30
服属するだろうと思って撤退したなら、服属しなければ作戦目標を達成したことにならんだろ。
知恵遅れかお前

13:名無し三等兵
12/09/07 21:09:19.88
「官軍整わず矢尽き」て撤退したと元軍自ら認めてるのに、
さらに撤退中に悪天候で多数が溺死してるのに、
それを元軍勝利と言う連中は頭がおかしいの??

14:名無し三等兵
12/09/07 22:24:44.09
>>13
日本人の優秀さを世に出したくない人達がいるから

15:名無し三等兵
12/09/07 23:11:17.05
>>11
「入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」

元史の記述だととても元軍が戦略目標を達成していたとは思えない
日本軍は破った、「而」(それなのに)軍の編成が乱れ矢も尽きたので、
「惟」(ただ)捕虜を捕まえあたりを略奪するだけで帰った、とわざわざ書いているのだから
遠征が思うように進まず、作戦中途での撤退を強いられたことは疑いようが無いだろう

16:名無し三等兵
12/09/07 23:29:16.68
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
武家は後半の負けを報告していない
モンゴルは作戦目標を達成して帰った

17:名無し三等兵
12/09/07 23:34:30.21
普通は苦戦したら2度もモンゴルに攻め込もうと考えないよな
モンゴルが思いのほか弱かったから、逆に攻め込もうと考えたんじゃないのか

18:名無し三等兵
12/09/07 23:38:51.75
文永の役って結局博多はどうなったの?

19:名無し三等兵
12/09/07 23:46:21.35
>>18
博多は一時的にも占領された記録がない(別の寺や神社もあったのに)
箱崎に小規模の元軍別働隊が上陸して八幡宮を焼いて慌てて逃げ帰ったのは確からしい

20:名無し三等兵
12/09/08 02:31:25.39
上陸地点が早良郡だとすると博多の町まで来れて無いんじゃないかね

21:名無し三等兵
12/09/08 05:10:54.47
でも学者大先生方は文永の役はボロ負けだったと書くぞ
そんなボロ負けした連中が高麗征伐しようとか言い出すのもおかしな話だなw

22:名無し三等兵
12/09/08 08:39:45.61 UrA9eeJO
>>15
それでいいと思うよ。
日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とすつもりだっただろうがそうは行かず、
大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す、
元軍は出来れば水城大宰府まで行くつもりだっただろうが、思ったより日本軍の
抵抗が強くて損害も出たので、先の見通しが立たず1日で撤退。

だから引き分け。

23:名無し三等兵
12/09/08 11:18:31.90 UrA9eeJO
「中世都市・博多を掘る」を見ると、当時の博多の地図が出ている。それを見て、今までの
自分の考えを改めたところがあった。

赤坂山は内陸にあったと思っていたが、違った。赤坂山は海に突き出た小半島だったのだ。
これを赤坂半島と仮に呼ぶ。

赤坂半島の東にある博多は海に突き出た砂洲だった。これを博多半島と仮称すれば、博多半島
と赤坂半島の間は入り江で、徒渉不可能だった。だから竹崎は住吉神社の前を通って入り江の
奥を迂回して赤坂へ行った。

赤坂半島の西には仮称・祖原半島が海に突き出ていた。祖原半島の北岸の砂浜(百道原)は横に
伸びて、赤坂半島との間に鳥飼の塩干潟を囲い込んでいた。
祖原山は上記・祖原半島の付け根にあった。だからこれも内陸とは言えない。

さて鳥飼の塩干潟は当然ながら干満があった。「文永十一年・冬の嵐」によれば当日の干満差は
約1.5m、干潮は午前6時、満潮は昼12時であった。満潮時は徒渉不能になり、もはや戦場には
なり得ない。

福田兼重らの武士たちは、菊池勢が敵を追い払った赤坂半島を基点として、鳥飼の潮干潟を渡って
百道原の砂浜に突入したのであろう。そしてその戦いは鳥飼潟が徒渉できる時間帯、恐らく午前十時
ごろまでのことだったのである。

24:名無し三等兵
12/09/08 13:12:50.08
>>22
引き分けの訳ないだろ
鎌倉側の勝利条件は侵略軍の撃退なんだぞ

25:名無し三等兵
12/09/08 13:22:59.80
そりゃそうだけどさ
敵主力をフルボッコしないと勝った気がしないのが人情ってもんだ
川中島の戦いだって武田の目的は北信濃の防衛なんだから戦略的には完勝してるのに
何故かいまだに引き分けみたいな話しになってる

26:名無し三等兵
12/09/08 13:38:38.64
てか戦闘での勝敗≠戦争の勝敗であることぐらいこの板の住人なら常識だろうに
日中戦争もナム戦も、戦闘で勝ってたかどうかは関係なく戦略目的を果たせなかった日本・アメリカの完敗だし、それは元寇も同じ

27:名無し三等兵
12/09/08 14:02:31.54 UrA9eeJO
赤坂半島は砂洲ではなく、海面から聳える山であった。その海岸は砂浜ではなく、崖であった。
(したがって上陸適地ではないから、その後、防塁も築かれなかった)
鴻臚館は赤坂半島の突端、海を見下ろす景勝地にあった。それはベイビューホテルだったのである。
ただし、鴻臚館はこの時代にはもう存在していなかった。

「文永十一年・冬の嵐」は、その跡が城塞になっており、元軍襲来のときも日本軍が固く守っていた
と言う。「凶徒あかさかにぢんをとる」という蒙古襲来絵詞の記述も、元軍が赤坂を占領したという
意味ではなく、対向する攻撃陣地を築いたという意味だと言う。

だが本当だろうか。沖の浜に集結した武士たちが、「赤坂は馬の足場が悪い、どうせここまで攻め寄せる
だろうから、ここまで来たら犬追物の犬のように射てやろう」と言い合っていたという蒙古襲来絵詞
の描写からは、赤坂を守っていた別部隊がいたという様子は感じられない。

上に述べたように、鴻臚館跡は半島の突端で、博多との間は徒渉不能の入り江なのだ。いったん半島の
付け根を占領されれば、たちまちにして連絡が絶たれて孤立無援になる。そんな場所にわざわざ守備兵
を置いただろうか。少なくともそのように述べる史料はない。史料にないことは事実もない、という
流行りの論法に従えば、赤坂は無防備だった。


28:名無し三等兵
12/09/08 14:03:06.06 UrA9eeJO
20日早朝、元軍はこの赤坂山を無血占領したのだ。しかし赤坂攻略の元軍は小部隊だったから、100騎
ほどの菊池勢に追い落とされた。上記赤坂の地勢から言って、菊池勢は、小半島の付け根から突端に
向かって、つまり南から北に向かって攻めた。追われた元軍は鳥飼潟を徒渉するグループと、入り江の
奥の陸地伝いに逃げるグループとに分かれた。菊池勢はそれらを打ち棄てて博多に帰った。

替わった竹崎勢はまず徒渉グループを追って取り逃がし、目標を変えて陸地伝いグループを追った。
期せずして攻撃方向は祖原山になった。竹崎勢は祖原山から下って来た迎撃部隊と戦って頓挫した。
その後を白石勢が継いで、迎撃部隊を祖原山に追い上げた。

では祖原山は落ちたのか? そのように述べている史料はない。ここでも、史料にないことは事実もない、
の論法を適用すれば祖原山は落ちなかった。福田兼重申し状を、元軍を祖原山から追い払って百道原に
撃退したと解釈する読み方は誤りであることを、日本史板の元寇スレに書いた。

29:名無し三等兵
12/09/08 17:21:20.71 mD49GKVy
太宰府を陥落させてたら武士の負けだろ

30:名無し三等兵
12/09/08 20:49:15.89
>>29
実際は陥落してないから武士の勝ちなんですけどね

>>9
偶然にもそこが八幡宮だったことが神風伝説につながるわけか
ぶっちゃけ八幡蒙古記(現地の神職が書いたやつ)の裏動機って
「うちだけ焼かれてむかつくぅ、こっちにも守備兵おいとかなかった武士の悪口書いちゃえ」だろ?w

31:30
12/09/08 20:51:26.64
前レスに>>19も追加

32:名無し三等兵
12/09/09 11:00:00.42 Syc6wBAu
福田兼重申し状には「祖原山」の文字はない。福田勢は祖原半島の付け根にある祖原山の元軍を追い落と
して海岸の百道原まで追撃したのではなく、赤坂半島から鳥飼潟を徒渉して浜伝いに百道原に突撃した
のであろう。祖原山とは無関係である。

祖原半島の西には仮称・姪浜半島があって、同じように祖原半島との間に入り江を抱え込んでいる。
この入り江もまた潮干潟だったのであろう。一日に二度敵を破ったと言われる日田永基の二度目の突撃は、
百道原の浜を通り抜け、さらにこの潮干潟を徒渉して姪浜まで行ったのであろう。ちなみに日田永基は
このとき百道原で忠死し、戦後に子の基宗が替わって恩賞を受けたという言い伝えがある。

このような武士たちの浜伝いの突撃はそれなりに元軍を混乱させたであろうが、姪浜まで行ったところで
その奥には生の松原があり、さらに今津浜があり、これらにも元軍は上陸していた。武士たちの浜伝いの
突撃に対して、元軍は期せずしてとんでもない縦深陣地を敷いたことになった。

そのうちに潮が満ち始めると、武士たちは退路がなくなることを恐れて赤坂半島に戻り、攻撃は収束した。
満潮は正午だから、それよりかなり前、恐らく午前十時ごろまでのことである。

元軍もまた、浜伝いの進撃ルートがなくなっては海岸や半島部にいても意味がないので、おのずから
陸地部に進撃ルートを求めた。これまで各半島の海岸部で揚陸したり、日本軍に対応していた元軍は
陸地部に集結することになった。元軍のローラーが東に向けて回転し始めた。

33:名無し三等兵
12/09/09 14:37:10.07
いいかげんブログに書けよ

34:名無し三等兵
12/09/10 11:38:14.67
>>25
じゃあ秀吉の唐入りは日本の勝ちですか?っと

35:名無し三等兵
12/09/10 14:22:42.81 HxAeCRsb
文永の役の日本側の戦闘記録としては鳥飼潟合戦の記録しかない、だからそれ以外の戦闘はなかった、と
いう説が流行っている。この説は、鳥飼潟合戦に敗れた元軍は百道原からそのまま撤退した、と続く。

だがこの考え方は大いに問題がある。なぜならば上に考察したように、満潮を考慮に入れるならば鳥飼潟
合戦は午前中の早い時間に収束したと考えられるからである。一方、高麗史には「諸軍與戦、及暮乃解」
つまり高麗軍と蒙漢軍がいっしょになって日暮れまで戦った後、自然休戦に至ったと書かれている。

「鳥飼潟合戦しかなかった説」と高麗史とを両立させるならば、お昼前から夕暮れまでに至る長い時間帯が
ぽっかりと空いてしまう。これは明らかにおかしい。

しかしその空白の時間に関する、日本側の記録がほんとうにないのかと言えば、八幡ノ蒙古記がある。
八幡ノ蒙古記は、「されども蒙古次第に強く、勝ちに乗じて攻め来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入
して、松原の中に陣を取りてぞ居たりける」と記述する。

これは上陸の進捗と軍の集結とによって元軍の勢力が次第に増強され、じりじりと東に向かって進撃して、
遂に赤坂に到達した状況を述べているであろう。そして八幡ノ蒙古記は、「軍(いくさ)、辰刻より始まり
しが、日も暮れ方になりしかば」と、武士たちが懸命に戦った後、夕方に及んで戦意喪失したことを述べる
のである。空白の時間はない。

なお、上記、八幡ノ蒙古記が言う元軍の「赤坂松原の陣」は、蒙古襲来絵詞で菊池勢に追い落とされた赤坂
陣地とは明らかに異なる。
絵詞の赤坂陣地は、武士たちが沖の浜に集結したばかりのときにすでに出現していたのであるから、八幡ノ
蒙古記が記述する赤坂陣地のような、それまでの前段階がない。恐らく朝の早い時間に小部隊が取り付いた、
偵察陣地だったのであろう。だから菊池勢によって簡単に追い落とされたのである。

36:名無し三等兵
12/09/10 21:06:12.00
なぜ、捕まえたモンゴル人を奴隷にしなかったんだろう?

37:名無し三等兵
12/09/10 21:27:04.63
人類は奴隷制が成立するまでは、捕虜を皆殺しにしてた
取って食ったり

38:名無し三等兵
12/09/11 02:43:07.56
夕方に及んで武士が戦意を喪失した状況だったなら、
何で夜中に船を置き捨てて慌てて玄界灘を逃げてくのか疑問に思わんのかね…
そこから始まってると言っても過言じゃないのにさ

39:名無し三等兵
12/09/11 02:51:33.52
>>22
あなたが思ってるよりもっとはっきりした戦況だっただろうね。少なくとも蒙古側には。
夜間に撤退を決めると言うのは既に撤兵論が主流になっている状況と考えて間違いない。
対馬壱岐の攻防の段階で軍内部に早期撤兵論が出てた可能性もある。

40:名無し三等兵
12/09/11 03:25:33.80
文永の役の解説してるサイト見たら頭痛くなってきた
曰く、高麗はわざと船を脆く作った
曰く、元軍は勝ってたけど逃げる武士を追撃せず船に戻った
曰く、その夜ちょうど台風が来て脆く作られた船は沈んだ

完全に信じ切ってるのな

41:名無し三等兵
12/09/11 03:54:05.11
35が言うような武士が懸命に戦って敗北したという後半戦とやらが存在したなら
武士たちは負傷・郎党の戦死をネタに散々に幕府に恩賞を要求したはずだろうに。

負傷・郎党の戦死は、当時では勲功となる。だから、一人も蒙古兵を討ち取っていなくて
負傷だけした福田兼重の申状のようなものが残ってる。

弘安の役での武士の書状でも蒙古兵を討ち取った内容より郎党の戦死や自らの負傷に関する
書状が多いのはそのため。

42:名無し三等兵
12/09/11 10:01:16.30 VlrqfZes
>>38
>夕方に及んで武士が戦意を喪失した状況だったなら

日本軍が戦意喪失して水城に撤退していなかったら、一兵一馬も残さず見事に乗船させる
ことは不可能だったろうね。
交戦中の水際撤退はダンケルク、ディエップの様相になったはず。

>何で夜中に船を置き捨てて

どんな作戦にも犠牲はつきもの。
夜間に未知の海域で900隻(本船は300隻)のうちたった1隻の座礁で済ませたのは立派なものだ。
また、救助のためにそれ以上の犠牲が予想されるなら、打ち棄てるのも軍隊として当然の判断。

>>39
>夜間に撤退を決めると言うのは既に撤兵論が主流になっている状況と考えて間違いない。

元軍のなかで撤兵論が主流になっていたことは、全くあなたと同意見だ。

当夜撤退のの要因としては:
1)季節的に言って、はじめからどこで撤退したらいいかで頭一杯の遠征軍だったこと。
2)元軍もまた損害、損耗が大きかったと考えられること。
3)日本軍が撤退した当日の夜が、損害最小で撤退するための絶好機であったこと。

が考えられる。

43:名無し三等兵
12/09/11 13:55:00.05 VlrqfZes
>>41
言っている意味がわからない。
日本軍の戦死者や負傷者は、いま残っている恩賞関係の書状の数だけしかなかったと
言いたいのか?

44:名無し三等兵
12/09/11 17:36:21.75
>>43
お前が言うように後半戦が大規模な決戦で日本軍が敗北したなら
戦死や負傷をネタに幕府に恩賞を要求した書状が残っていないわけがないだろう。

お前が言うように前半が小規模な局地戦だったとして、なぜ小規模な局地戦だけ
負傷を誇る武士の書状が残っているのか疑問に思わないのか?

大体、蒙古襲来絵詞では鳥飼潟の戦闘以降、竹崎が戦場から離脱していたのにもかかわらず
お前が後半戦としている八幡ノ蒙古記の該当部分の「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」
と鳥飼潟の戦い以降に竹崎季長が戦闘に加わって戦っていたと捏造されてる。

ちなみに文永の役における竹崎の勲功に関して、安達泰盛の「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」との問いに対して
竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。
つまり、八幡ノ蒙古記の「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」ような後半の大敗北戦とやらは存在しなかったし
竹崎季長もそんな戦闘の存在を認めていない。

それだけじゃない。お前が後半戦としている八幡ノ蒙古記での赤坂の戦闘では「菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、
かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ」とあり、菊池武房以外は全員戦死したことになっている。
ところが、実際は菊池武房の弟の有隆・康成らは生き残っている。

ということは「菊池はかりは、うちもらされ」たような戦闘はなかったということだ。

そもそも、元側の高麗史に「諸軍與戦、及暮乃解」とあるように元軍が決定的な勝利を得れなかったことが
確認されるんだから、八幡ノ蒙古記のような戦闘と高麗史の戦況は合致していない。
どちらが嘘をついてるか、状況判断と冷静に客観的に見れば一目瞭然だな。


45:名無し三等兵
12/09/11 18:44:05.48
だいたい八幡蒙古記(それを下敷きにして京都で書かれたと思われる八幡愚童訓も)
白装束集団とか火柱とかあまりにも荒唐無稽すぎてさすがに当時の人間でも信じないだろう
これ八幡神宣伝が主目的ならもっと現実味もたせて書くんじゃない?

46:名無し三等兵
12/09/11 22:25:06.37
各地で小規模の日本軍VS 元軍の大軍
結果:各地で日本軍の大勝利

47:名無し三等兵
12/09/12 07:41:32.22
なんで元軍連戦連敗なんだ?
武士相手だと相性が悪い?

48:名無し三等兵
12/09/12 07:57:26.39
>>47
十分に訓練された兵士には簡単に勝てない
日本は訓練された兵士を大量に動員できた

49:名無し三等兵
12/09/12 10:44:11.97 EDuxd3TX
>>44
>そもそも、元側の高麗史に「諸軍與戦、及暮乃解」とあるように元軍が決定的な勝利を得れなかったことが
>確認されるんだから、八幡ノ蒙古記のような戦闘と高麗史の戦況は合致していない。

それについては高麗史と八幡ノ蒙古記は一致している。
八幡の蒙古記は夕方に武士たちが戦意を失って個々に撤退し始めたことを記述するが、本来なら元軍はここで
追撃戦を行って、日本軍を一挙に壊滅させなければならない。しかし八幡ノ蒙古記はそのように述べていない。
元軍はただ眺めていたことになる。(劉復亨の小部隊を除いては)
元軍にももはや軍として追撃戦を行う余力が残っていなかったのだ。

これこそが「及暮乃解」つまり夕方の自然休戦の姿であり、その点において高麗史と八幡ノ蒙古記は一致して
いるのだ。
その他にも高麗史と八幡ノ蒙古記との一致点は:

*日本軍の損害が大きかったこと(高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と一致)
*劉復亨が矢傷を負ったこと(八幡ノ蒙古記では流将公、流と劉の中国語音は同じ)
*元軍が当日の夜に撤退したこと(高麗史に「劉復亨当流矢、先登船」は一連のできごとを思わせる)

などがある。

注目すべきは、細かいことは抜きにして戦いの大筋において、高麗史と八幡ノ蒙古記の間に基本的な
一致が見られることだ。
我々は慣れているからなんでもないことのように思うが、実はこれは重要なことである。
なぜならばこの二つの史料が、互いに相手を参考にした可能性はほぼゼロだからだ。
これは二つの史料が互いに裏付け合って信憑性を高めていることに他ならない。

50:名無し三等兵
12/09/12 10:46:47.32 EDuxd3TX
>>44
>前半が小規模な局地戦だったとして、なぜ小規模な局地戦だけ負傷を誇る武士の書状が残っているのか疑問に
>思わないのか?

私は>>23 で、ある本で当時の博多周辺の地形図を見て考え方を改めたことを書いたが、重要なことを見落として
いた。そのことに昨日、気がついた。

後半戦が存在したとして、その戦場はどこであったかと言えば、それは祖原山から赤坂山にかけての一帯だ。
祖原山は朝の早い時間に占領されていたことを蒙古襲来絵詞が記述しており、その後これが日本軍の手に落ちた
という記録はない。

恐らく元軍に占領されたままであり、後半戦に於いては元軍の進撃の支点になったと思われる。
また赤坂山周辺は八幡ノ蒙古記の記述において、終盤の戦闘の主戦場であったことが窺われる。
この二つの山、ないし半島の間が、「後半戦」の戦場だったのだ。

ところで、>>23 で述べたように、この地域は全て鳥飼の潮干潟の沿岸である。つまり、このあたりをひっくるめて
地域名で呼ぶならば、それは鳥飼潟なのだ。これが「鳥飼潟合戦」という呼び名の由来と思われる。

このことから必然的に次の結果が生じる。
福田文書や日田文書のように、海岸部の地名が入っていれば、それは潮の干満から考えて朝方の戦闘に違いないが、
恩賞関係の文書に単に「鳥飼潟合戦」と書いてあるならば、それは朝方の戦闘か、それともいわゆる「後半戦」か、
判別できないのだ。

「後半戦なかった説」の唯一の根拠は、かくして消滅した。

なお、私は>>35 において私は「鳥飼潟合戦は満潮によって収束した」などと書いているが、これは上記のことに
気づく前に書いたものなので、>>35 の「鳥飼潟合戦」は適宜「浜伝いの戦闘」などと読み替えていただきたい。

51:名無し三等兵
12/09/12 13:36:10.06 EDuxd3TX
>>49
補足:
八幡ノ蒙古記と高麗史の重要な一致点はもうひとつあった。それは:

*戦いが夕方まで続いたこと。

八幡ノ蒙古記は「日も暮れ方になりしかば」、高麗史は「及暮乃解」と、互いに一致する。

52:名無し三等兵
12/09/12 19:38:13.36
>>47
日本軍は世界有数の軍事大国であり、屈指の弓馬の兵であって、
銅鑼と鉦で進退する蒙古軍3万程度で勝てる相手じゃなかったから。

53:名無し三等兵
12/09/12 21:42:41.11 EXQiteyK
「銅鑼と鉦で進退する蒙古軍は整然とした集団戦術で強い」と言われるが、
練度も士気も低い徴募兵はそうでもしないと動かせないのだろう。
そもそも鳴り物による命令伝達はパターンも少なく、柔軟な行動ができたと
は思えない。
対して個々の武士団は、常日頃寝食を共にしている騎馬と徒歩の郎党の
主従集団であり、練度も士気も高く、阿吽の呼吸で手足の如く動けただろう。



54:名無し三等兵
12/09/12 22:15:09.77
ぶっちゃけたった三万で落とそうなんて舐めすぎにも程があるよな
元軍は順当に戦って順当に負けただけだろ

55:名無し三等兵
12/09/12 22:40:21.06
元の戦力見積りが甘かったとしか
遊牧民族じゃないから舐めててたのと
朝鮮あたりから後進国と聞かされて真に受けたんだろうね

56:名無し三等兵
12/09/12 22:49:36.14
騎馬民族VS戦闘民族

57:名無し三等兵
12/09/12 23:20:27.18
元て自分達よりも高性能な弓持った弓騎兵との集団戦闘って経験あったのかね

58:名無し三等兵
12/09/13 05:29:29.24
>>47
慶長弘安でも連戦連勝
十分に訓練された武士は強いんだよ

59:名無し三等兵
12/09/13 05:31:11.73
文禄慶長やった

60:名無し三等兵
12/09/13 10:16:24.37
台風16号がまた神風化してる

61:名無し三等兵
12/09/13 20:22:22.61
阿津賀志山の合戦で、鎌倉・奥州の両軍は大規模な土木工事を行い双方で4万とも5万とも言われる兵が激突した
承久の乱も奥州合戦も、鎌倉方だけで10万に近い武士が動員されている。元軍は30万でも厳しいだろう。つまり日本の征服なんて言うは易く行うは…せいぜい米軍だけだな

62:名無し三等兵
12/09/13 21:52:34.68
小さい島国で大国同士並みの内戦を何度もやってる修羅の国を
征服しようと考えた元が哀れ

63:名無し三等兵
12/09/14 01:12:32.69
元は渡海作戦だから不利だっただけだ
武士に大陸を席巻して大帝国を建設するような軍事力があったとでも思ってるのか?
そこらの原住民に負けて逃げ帰るのが関の山だ
世界帝国を築いていたモンゴルの水準は当時は他の国とは隔絶しているよ

64:名無し三等兵
12/09/14 10:47:38.92
彼の先祖が七代に渡り蒙古と強制混血した結果ああなってしまったのだ。
生暖かく見守ってあげなさい。

65:名無し三等兵
12/09/14 14:47:22.09
>>63
じゃ当時の世界の大国で高度な防御性のある鎧を着て、高度な弓射技能を持った騎兵10万
ならびにそれに準ずる専門の戦闘員20万を動員できる国家を挙げてみな。

66:名無し三等兵
12/09/14 14:50:24.26
渡海作戦だったから不利?とんでもない。
玄界灘があったから蒙古軍は日本軍の追撃から逃れられたじゃないか
陸続きだったら九州武士団は高麗南部に殺到して略奪の限りを尽くしとるわい

67:名無し三等兵
12/09/14 19:11:39.63
>>62
日本は北海道を除いて30万平方キロ。現在のドイツは35万平方キロ。
イタリアと同等、イギリスより大きい。生産力まで考えたら、ぜんぜん小さい島国ではない。

大国。

68:名無し三等兵
12/09/15 12:06:42.66
要するに当時の日本側(武士)を過小評価したい人がいるのね

69:名無し三等兵
12/09/15 13:33:19.15
重装備の鎧着た武士達に弓を幾ら撃っても死なないで
弓矢でハリネズミ状態の武士達が突進してきて
鋭い日本刀で鎧ともども真っ二つにされる友軍を見て
蒙古軍「こ、こいつら不死身の化け物か!」
って逃げたんだろ

70:名無し三等兵
12/09/15 13:46:38.95
鎌倉時代の日本とモンゴルを軍事的に見ると ほぼ互角 兵力は双方とも50万 武器に
関して言えば日本は軟鉄の鎧 兜 モンゴルは皮で出来た鎧 兜 皮ジャンパーを五枚
重ねた程度のモンゴル軍の鎧は日本刀の前にひとたまりも無かった モンゴル兵の刀は
長さ1メートル 幅10センチで騎馬戦には向いても相手の刀を受け止めるようには、なって
いない ましてや日本刀を受け止めたら真っ二つにされてしまう。

モンゴル軍の弓は200メートル の長距離を届くので皮で出来た鎧には有効だが 
日本の鎧は軟鉄の鎧なので凹む事は有っても 突き破る事は不可能 
事実 日本軍は鉄甲に身を固めているので弓が役に立たないと書いている
反対に日本軍の刀はモンゴル騎兵を鎧もろとも斬ってしまうと 日本を征服しょうと思えば最低
50万の兵力が必要 三ヶ月以内にもう50万の兵力を送らないと征服する事は不可能 これだけの
兵力を送る為には少なくとも一万隻の船が必要 それだけの船を造ればアジアの山はことごとく
はげ山になる。

71:名無し三等兵
12/09/15 14:03:24.80
混戦の中、無我夢中で戦ってる武士に背後から何度も斬り付ける蒙古軍兵士

「ドンッ、ドンッ、ドンッ」

しかし、武士は無傷なので背後を斬り付けられてる事を知らない
しかし、頑張る蒙古軍兵士

「ドンッ、ドンッ、ドンッ」

背後からドンドンとする音に気がついた武士

武士「何だお前は!ドンドンうるせぇーぞ!」

「ズバッ」 「ズバッ」

蒙古軍兵士「ギャーッ」

                          END

72:名無し三等兵
12/09/15 20:29:15.49
つーかその気になれば陸路より海路の方が大軍運びやすいだろ
当時は今みたいに海上で阻止とか不可能だし

73:名無し三等兵
12/09/15 20:33:51.30
現代だって海路が一番安価で大量に物を運ぶ手段だよ

74:名無し三等兵
12/09/15 21:00:19.72
久しぶりに元寇スレ覗いたら、未だに長文の仮想戦記書く人が一日中張り付いてんだな

75:名無し三等兵
12/09/15 22:41:40.57
パフォーマンスさんが元寇を愛している同好の士なのは分かるが、やや的外れな愛なんだな


76:名無し三等兵
12/09/16 20:47:47.78
でも>>49-51に誰も反論できませんっと。

77:名無し三等兵
12/09/16 21:56:17.17
そりゃどっちも引いて痛み分けでしたってだけなら誰も反論しないんじゃね

78:名無し三等兵
12/09/16 22:29:10.96
妄想に反論も糞もなかろう。

元軍がどこから上陸したかもわかっていないにもかかわらず、今津から上陸していたと
根拠も無く断定するだけではなく、元軍は縦横陣地を構築していたとしたり、さらに飛躍して
元軍はそこから進撃して、資料には無い「後半戦」があったと断定するなど飛躍に次ぐ飛躍ばかりだ。

武士たちの記録では元軍は赤坂から鳥飼潟、さらに百道原、姪浜と後退しているところまでは
確認できる。しかし、後半戦なるものがあれば、記録が残らないはずがないだろう。

まして、後半戦とやらがあったとして、当時戦死や負傷は勲功となるにもかかわらず
後半戦の戦死や負傷だけは触れないわけがない。触れていないということはそんな戦闘は
なかったのだ。

恐らく、蒙古襲来絵詞など八幡ノ蒙古記の戦況に都合の悪い資料をどう捌こうかと考えた末に
ひねり出した妄想にすぎないのだろうが。
例えば、此の人は八幡の蒙古記と蒙古襲来絵詞を無理矢理整合性をはかろうとした結果、
「竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほとは、よくふるまひたれと」
のたった一文を以って、蒙古襲来絵詞の戦闘の該当部分と断定して蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記の
矛盾した戦況の整合性をはかっている。
しかし、どう読もうが文永の役で竹崎季長が「船にかゝりしほとは」などという海戦を行ったことは確認されない。
そこで、此の人はさらに飛躍と妄想で八幡ノ蒙古記の著者は前半戦はほとんど知らなかったに違いない、海岸での戦闘だから
海戦のように書かれているのだろうと苦しいこじつけで納得するしかなかった。
後半戦とやらがあれだけ生き生きとこと細かく描写している著者が前半戦だけは知らなかったなど都合の良い解釈に
過ぎないのだ。

79:名無し三等兵
12/09/16 22:29:56.36
ところがだ。何とか妄想と飛躍で蒙古襲来絵詞を捌いたつもりになったものの、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞
と矛盾点はこれだけではない。
上にもあるが、なんと八幡ノ蒙古記では此の人の言う後半戦とやらに竹崎季長が参加していたというのだ。
此の人のいう八幡の蒙古記の後半戦には「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」とあり
前半戦の蒙古襲来絵詞における鳥飼潟での戦闘で負傷して竹崎は戦場を離脱していたのにもかかわらず竹崎が
後半戦に参加していたというのだ。

ところが、蒙古襲来絵詞には以下のような竹崎季長と安達泰盛とのやりとりの記載がある。
文永の役の勲功に関して、恩賞奉行の安達泰盛が竹崎に対して、「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」
との質問に対して、 竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。

ということは、竹崎ら一党は此の人のいう前半戦の鳥飼潟で負傷した時点で戦線を離脱していたのだ。
つまりは八幡ノ蒙古記は実際はその場の戦場に存在しなかった人物を無理矢理登場させたということだ。
そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。

ましてや、八幡ノ蒙古記の文永の役の結びには元軍を追い払ったのは
「白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、
へきえきして、松原の陣をにけ」とあり、筥崎宮より現れた白装束三十人の集団が元軍を追い払ったとしている点は注目に値する。
結局は、この結びにたどり着くまでには、その場にいなかった武士たちも登場させて元軍に敗れに敗れた武士団が
必要だったということがわかるのだ。

蒙古襲来絵詞などと八幡ノ蒙古記にはこれだけではなく、まだ矛盾点が多々あるのだが、これらを見ていけば、
蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記との戦況の差異は、時間的差異などではなく、現場の武士と八幡の蒙古記の著者とでは
根本的に戦況の認識が違っていたということだ。


80:名無し三等兵
12/09/17 10:00:43.94 WMfkNe9J
>>79
>そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。

いわゆる「後半戦」が無かったと言いたいようだが、高麗史金方慶伝にちゃんと「及暮乃解」
つまり「夕方に及んで自然休戦した」、夕方まで戦った、と書いてあるのに、
なんで「後半戦」がなかったと言えるのか?

しかも戦いが夕方に及んだということは八幡ノ蒙古記も「日も暮れ方になりしかば」と書いて
金方慶伝と一致している。

互いに参考にできない内外の二つの史料が一致することほど信憑性を高めるものはないと思うが。

恩賞関係の文書とかの話ではなく、金方慶伝の記述を信用しない理由を書いてくれ。

81:名無し三等兵
12/09/17 18:58:38.85
>>80
単に根拠の乏しい妄想でひねり出した「後半戦」とやらと戦ってるだけだと思う。
自分の妄想を解決してくれないから他人を批判するなんて本末転倒だよ。

82:名無し三等兵
12/09/17 19:58:02.85 MJjKnO37
>>81
では聞くが、高麗史金方慶伝と八幡ノ蒙古記の両方に述べられる夕暮れ時の戦闘は「後半戦」とは呼ばないのか?

83:名無し三等兵
12/09/17 20:40:09.84 MJjKnO37
夕暮れ時の戦闘が「後半戦」ではないという禅問答は置いといて、先に進もう。

>>50で得られたことは重要だと思うので、もういちどまとめて置く。
「中世都市博多を掘る」所載の地形図によれば、当時の赤坂山は小半島状に海に突き出た台地であった。
この小半島の西岸は鳥飼潟に接していた。

その西方約2.5kmのところに、仮称・祖原半島が海に突き出て
おり、その基底部に祖原山が隆起していた。
二つの半島を円弧状につなぐ海岸が、鳥飼潟の南岸を形成した。
祖原山は鳥飼潟のほとりに隆起していたと言って良い。

仮称・祖原半島の先端は東西に細く伸びる砂州になっていた。この砂州が百道原である。
このうち東に伸びる砂州が、鳥飼潟の北限を形成した。

このように、当時の鳥飼潟は今日我々が想像するよりもはるかに広大であった。
また上記説明に見るように、文永の役の記述に出て来る戦場はほとんど鳥飼潟周辺にある。
だから、文永の役の戦闘は「鳥飼潟合戦」「鳥飼潟陣」などの言葉でほとんど包含し得るのである。

もちろん赤坂山も包含される。
だから高麗史や八幡の蒙古記が述べる夕暮れ時の戦い(後半戦?)が、赤坂山をめぐって戦われたとしても、
それは鳥飼潟合戦のうちなのだ。

逆に言えば、「戦闘記録は鳥飼潟合戦のものしかないから、鳥飼潟合戦以外の戦闘はなかった。だから
後半戦は無かった」という言い方はできないのである。
鳥飼潟合戦が前半戦のみ、とは限らないからである。

84:名無し三等兵
12/09/17 21:10:22.19 MJjKnO37
すこし付け加える。
鳥飼潟そのものも戦場になった。竹崎季長も鳥飼潟に馬を乗り入れて敵を追っている。

私は鳥飼の潮干潟という言葉から、あのガタリンピックが行われる有明海の干潟を連想して、あんなところで
騎馬戦をやったのかと思って、げんなりしていた。

しかし最近見たテレビ番組で眼から鱗が落ちた。
それは厳島神社を撮った番組だった。あの海中に立つ大鳥居は、そばまで行くには小舟で行くしかないのだが、
引き潮の時は露出した海底を歩いて行けるのだ。その海底は固くしまっていて、人が歩いても足は沈まず、
なんの問題もない。

もし鳥飼の潮干型もあのようであれば、徒渉可能であるばかりか、むしろ絶好の騎馬戦場だったのではないか。
まあ実際の所はわからないし、竹崎は馬を「馳せ倒して」はいるけどね。

85:名無し三等兵
12/09/18 13:44:12.32
「前半戦」と「後半戦」に戦闘が分断されていたという主張自体、根拠に乏しい。

86:名無し三等兵
12/09/18 15:01:55.97 VFxUb+JT
>>85
別に分断されていたとは言っていない。
私は朝方から夕方まで、ずーっと戦闘が続いたと言っているだけだ。
もちろん、戦闘はおのずから何回かの中断を夾んだだろうが、それはまた別の話だ。

後半戦と言う言葉じたい、私が言い出した言葉ではない。
戦いが早い時間帯(例えば午前中)で終結して、元軍がそのまま百道原海岸から撤退した、
と主張する人たちがいて、その人たちが主張する、戦闘がおわった時間があるわけだ。

それが何時頃なのか、まだ聞いて見てはいないが、ともかくそのような時間があって、
それより後の時間に行われた(あるいは行われたはずのない)戦闘を「後半戦」と、
その人たちが呼んでいるのだ。

私はその人たちに話を合わせて「後半戦」という言葉を使っているだけ。
そして私は、「後半戦」は確かに存在した、なぜなら戦闘は夕方まで続いたと、高麗史や
八幡ノ蒙古記に書いてあるから、と主張しているわけだ。実に簡単明瞭な話だ。

ところが「元軍そのまま撤退説」の人たちは、恐らくこの説を唱える学者連中を信奉している
ためだろうが、後半戦の存在を認めることができない。
だから、戦闘は夕方まで続いたかも知れないが「後半戦」は無かった、
と禅問答のような話になってしまうわけだ。

87:名無し三等兵
12/09/18 17:38:55.70
なぜ元軍が夜半撤退を決意したのかについては、その後半戦とやらで元軍など各所で敗れ、日没がなければ全軍崩壊の危機に立たされており、
翌日に日本軍の反攻が必至だったから それで済む話だな

自然休戦なら夜間までの僅かな時間で軍議を撤退に一決するほうが不自然だし、
高麗史の記述はそれで説明できる。矛盾が明らかな八幡蒙古記と無理に整合性を取る必要なんてない。

88:名無し三等兵
12/09/19 08:35:32.96 TQwjaCNx
>>87
>日没がなければ全軍崩壊の危機に立たされており、翌日に日本軍の反攻が必至だったから
>それで済む話だな

日没に及んだ「後半戦」の存在を認めるわけか?

>高麗史の記述はそれで説明できる。矛盾が明らかな八幡蒙古記と無理に整合性を取る必要なんてない。

高麗史だけでは裏付けがない。八幡ノ蒙古記との一致があってはじめて高麗史の裏付けができる。
八幡ノ蒙古記の価値はそこにある。逆もまた真。

高麗史と八幡ノ蒙古記の一致については>>49 >>51を参照。

89:名無し三等兵
12/09/19 22:44:13.86
マヤの2012年人類滅亡預言と、IMFの2013年の世界の経済見通しも一致してるけど、
それは何らお互いの補強証拠にならないよw

90:名無し三等兵
12/09/20 09:52:07.99 oEE79A2/
>>89
いっしょうけんめい考えたけど、残念だったね。

IMFはマヤの予言を思い切り参考にできる(参考にしたかどうかは知らないが)。

高麗史と八幡ノ蒙古記とは互いに参考にする可能性がほぼゼロ。
>>49参照。

91:名無し三等兵
12/09/20 10:28:40.56
IMFがマヤの予言を参考にする可能性もほぼゼロだと思うがw

92:名無し三等兵
12/09/20 11:41:56.54 oEE79A2/
>>91
そりゃ常識的に言って参考にしなかっただろうが、IMFの人がマヤに凝っていて、
参考にしようと思えばできる。マヤについて書かれた本は世の中にあるのだから。

高麗史と八幡ノ蒙古記の筆者たちは、互いにいくら参考にしようと思ってもできない。
(書かれた時代が互いに近いことと、文化的に途絶していたことによって)
その違いだ。

93:名無し三等兵
12/09/20 14:05:15.43
>>90>>92
IMFの誰がマヤの予言を参考にするんだよw

何ら関連性なく書かれた2つの文書が同じ内容を示してると言う例なら、
キリスト教の外典と日本史の偽書だって同じ内容を書いたりしてるしオカルトではそういう「一致」を強調する
しかしそれがトンデモなのは言うまでもない

この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、
その戦闘の性格について何ら一致点が存在しない。

94:名無し三等兵
12/09/20 14:09:39.25
どうしてそこまでして八幡蒙古記と高麗史の記述を無理やり一致させようとするのか。
普通に一方は史料的根拠としては採用しがたく、高麗史の記述は単に日没に及んで戦闘が停止されたと読む
それが素直な読み方だろう。その戦闘の経緯については他の史料から探るほかない
蒙古軍が勝利を得られなかったのは蒙古側史料でもその後の軍議の内容でもはっきり分かる

第一級史料と言い難い八幡蒙古記の当該記述にあくまでこだわるからそういう変なことになるんだよ
両者を一生懸命一致させようとしてるから、まあ元寇ファンなのは分かるけどさ

95:名無し三等兵
12/09/20 14:21:46.59 oEE79A2/
>>93
>キリスト教の外典と日本史の偽書だって同じ内容を書いたりしてるしオカルトではそういう「一致」を強調する
>しかしそれがトンデモなのは言うまでもない

その通りだな。
その偽書なりオカルトなりの主張する「一致」がなぜ価値がないのか?
それはその偽書が君の言う「キリスト教の外典」を「見て」書かれた可能性があるからだ。
実際に見たかどうかは問題ではない。見た可能性を否定できなければもうだめなのだ。

そこで君に聞くが、君は八幡ノ蒙古記が高麗史金方慶伝を「見て」書かれた可能性があると主張するのか?
あるいはまた、高麗史金方慶伝が八幡ノ蒙古記を「見て」書かれた可能性があると主張するのか?

96:名無し三等兵
12/09/20 14:51:16.43 oEE79A2/
>>93
>この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、

八幡ノ蒙古記と高麗史の一致点はそれだけでないことは>>49ですでに言った。
それを見てもらえばいいのだが折角だからもういちど繰り返してあげよう。

1)日没まで戦闘が行われたこと(説明略)。
2)日本軍の損害が大きかったこと。
 高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と八幡ノ蒙古記の戦闘記述とが一致する。
 高麗史はじぶんが負けたときは「官軍潰」とか「以累戦不利」とかちゃんとそのように書くから信頼できる。
3)劉復亨が射落とされたこと。
 高麗史は「劉復亨当流矢」、八幡ノ蒙古記は少貳が水城街道で部下に射させた記述。
4)元軍が当夜に撤退したこと。
 八幡ノ蒙古記は翌朝元軍の船が消えていた記述、高麗史は「劉復亨当流矢、先登船」。
 高麗史は直接的ではないが、まさか一週間とか野戦病院で唸っていたという書き方ではあるまい。

ここで注目すべきは単に一致するというだけではなく、1)3)4)については、日本側では八幡ノ蒙古記しか
これを記録していないことだ。
いかに八幡ノ蒙古記の性格に問題があろうと、記録が「ある」と「ない」とではその差は無限大だ。
このような史料価値は決して無視していいものではない。

八幡ノ蒙古記に含まれる、当時としては当たり前な宗教的な部分をことさらに取り上げるのは
学者を含めて「元軍そのまま撤退説」派の宣伝に過ぎない。


97:名無し三等兵
12/09/20 18:15:17.51
>>96
96は馬鹿



2chといえども96が馬鹿であるという記録がある以上
96は馬鹿なんだろう

98:名無し三等兵
12/09/20 19:03:25.61
>>97
御見事ww

99:名無し三等兵
12/09/20 22:37:57.16
>>97
ワロタww

100:名無し三等兵
12/09/21 03:03:05.15
>>96
49で「もはや追撃余力が残っていなかった」と書いて戦闘継続不可能だった事実は認めてるじゃん
敵地で戦闘継続不可能になったらどうなる?即時撤退しか選択肢がない。夜中に尻をからげて逃げ出すわけだ
少数の日本軍相手に。これを敗北と言わずして何という。子供が見たって負けだと分かる


101:せんかく
12/09/21 07:30:45.90 E4BoiWle
>>100
>敵地で戦闘継続不可能になったらどうなる?即時撤退しか選択肢がない。

追撃余力が残っていなかったというのは主として兵の疲労の問題だ。
むかしの戦争は体力勝負だから兵の疲労による中断は当たり前。
一晩寝て疲労回復すればまた話は別だ。金方慶はそれをやろうと言ったわけだ。

それにも係わらず撤退を決めたのは、日本軍が目の前にいなくなった今こそが
損害最小で撤退する絶好機と見たからだろう。
誰しもダンケルクやディエップはいやだからね。

>これを敗北と言わずして何という

勝ったか負けたかは見方しだいだ。私はそれよりも事実はなんだったのかを問題にして、
「元軍そのまま撤退説」を批判しているわけだ。

それは別として、勝ったか負けたかの判断基準として両軍の意識を取り上げる見方もある。
その見方によるならば、日本軍は「こりゃだめだ。手も足も出ない」と思い、
元軍は「このくらい痛めつけてやれば十分。任務は果たした」と思っていたかも知れない。

102:名無し三等兵
12/09/21 09:00:22.08
>高麗史と八幡ノ蒙古記の筆者たちは、互いにいくら参考にしようと思ってもできない
>(書かれた時代が互いに近いことと、文化的に途絶していたことによって

八幡ノ蒙古記成立から高麗史成立まで100年以上あるし
その間に日朝間の交流が途絶えていたわけではないだろ
八幡ノ蒙古記の記述内容が何らかの形で朝鮮に伝わり
高麗史の参考にされた可能性はゼロではない
少なくともIMFがマヤの予言を参考にする可能性を否定できないと言う奴には
八幡ノ蒙古記が高麗史の参考にされた可能性を否定する資格はない

103:名無し三等兵
12/09/21 11:09:24.77
>>101
その「見方」について言うなら、戦争の勝敗を決めるのは戦略目標を達成できたかどうかであり、
当事者がどういう感想を持ったかなど関係無い
そんなこと言い出す輩は杉山某と同様、軍事の知識はからっきしだということが分かるw

104:名無し三等兵
12/09/21 13:09:00.74 zSoY9S0z
>これぐらい痛めつければ充分だ。
で、撤退か?
占領が目的だったのでは?

105:名無し三等兵
12/09/21 13:43:57.93
横レスですまんが、なんかageの人は言ってることがむちゃくちゃだね。

日本軍を水城まで追い払ったなら夜に撤退する必要なんてないじゃん。
兵が疲れてるのがわかってるんだから、なんでゆっくり泊まっていかなかったの?
敗北した軍勢が10kmも向こうまで逃げていったなら、ドンと博多の町でも見物して
翌日、ゆっくり撤退したら良かったじゃん。

106:名無し三等兵
12/09/21 13:46:25.53
結局は、高麗史にあるとおりどっちかが決定的勝利をあげることなく
日暮れになり、自然休戦した隙に元軍が撤退したっていうのが
一番、納得できる戦況かな。

107:名無し三等兵
12/09/21 15:13:43.61 E4BoiWle
>>106
>どっちかが決定的勝利をあげることなく日暮れになり、

それはいわゆる「後半戦」の存在を認めることだが、それでいいのか?

108:名無し三等兵
12/09/21 15:48:41.63
>>107
はぁ?なんでそうなるんだ?
鳥飼~姪浜、麁原山付近の戦闘で夕暮れまで決着がつかなくてもなんら問題ないし。

109:名無し三等兵
12/09/21 15:52:24.72
間違って他人に噛み付いちゃったんだろw

110:名無し三等兵
12/09/21 16:18:01.35
そもそも日本軍を追い払って圧倒的優位ってんなら「冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き」なんて言い訳めいた記述するもんかね

111:名無し三等兵
12/09/21 16:23:30.28
>>110
「冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き」
じゃなくて「冬十月、その国(日本)に入りこれを敗る。而して官軍整わず、また矢尽き」

まぁ、撤退の理由は言い訳めいてるけど。

112:名無し三等兵
12/09/21 16:28:35.91
>>110
「これを破らんとする」じゃなくて「これを破る」じゃないの?
まあ「戦・・敗之」は定型分だからあまり意味は無いと思うけどね

URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
三国史記・高句麗中川王
魏將尉遲楷名犯長陵諱將兵來伐。王簡精騎五千、戰於梁貊之谷。敗之。斬首八千餘級。
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)
三国史記・高句麗高広開土王
三年秋七月、百濟來侵、王率精騎五千、逆撃敗之。餘寇夜走。
四年秋八月、王與百濟戰於水之上。大敗之。虜獲八千餘級。

113:名無し三等兵
12/09/21 18:26:39.70 XtYBxIPR
>>108
>はぁ?なんでそうなるんだ?
>鳥飼~姪浜、麁原山付近の戦闘で夕暮れまで決着がつかなくてもなんら問題ないし。

それでいいのだよ。
「後半戦」というのは文字を見ての通り、時間の問題であって地域の問題ではないからね。
君は「後半戦」の存在を認めたのだ。

学者を含めてそれを認めない人たちがいるから聞いて見た。

114:名無し三等兵
12/09/21 18:40:09.93
>>113
そうそう。ただし、あんたの唱えてる珍説の「八幡の蒙古記の記述は後半戦」
なんて微塵も思わないけどw

115:名無し三等兵
12/09/22 03:19:07.51
この人は八幡の関係者なんかね

116:名無し三等兵
12/09/22 05:59:49.11
ゆっくりしていってね! by 鎌倉武士団

117:名無し三等兵
12/09/22 12:09:36.32
元寇を国際的視点から見てみると面白いな。何で日本と三別抄の協働作戦に拘るんだろう?
日本と南宋のほうがずっと関係深いじゃん

118:名無し三等兵
12/09/22 13:46:16.33 S+Qp7T8n
>>114
>「八幡の蒙古記の記述は後半戦」なんて微塵も思わないけど

「日も暮れ方になりしかば」が後半戦でないとは、やっぱり禅問答だな。

119:名無し三等兵
12/09/22 14:15:52.63 S+Qp7T8n
>>102
>八幡ノ蒙古記成立から高麗史成立まで100年以上あるし
>高麗史の参考にされた可能性はゼロではない

高麗史の一次的成立は1395年で、たしかに八幡ノ蒙古記成立の約100年後だが、
高麗史はその当時まで実存した高麗王朝実録を書き直しただけと言われている。
(書き直しの目的は中国との関係や李氏朝鮮の立場に合わせること)

王朝実録は歴代の王ごとに書かれるもので、朝鮮王朝実録の例で見れば各王の
没後数年で完成している。

文永の役は元宗の没年に起こったから、その記録は元宗実録に入っている。
上に述べたことから、元宗実録は文永の役の数年後には完成していたと見られる。

また、元宗世家に含まれる文永の役の記述は金方慶伝の同記述の短縮と見られること
から、金方慶伝の記述もこの時点ですでに存在したと見られる。

以上のように高麗史の文永の役関係記述の成立は八幡ノ蒙古記より早い。
高麗史が八幡ノ蒙古記を参照した可能性はやっぱりゼロである。

120:名無し三等兵
12/09/22 14:23:32.38 ncP0ggCZ
元寇では、蒙古側から日本軍の強さを驚嘆する言葉も漏れているし
けっこうよい戦いだったのではないかね
実際のところ、当時の鎌倉幕府は三十万の軍隊を動かす力があった。
蒙古軍十万も、長期戦では勝てなかったでしょう

121:名無し三等兵
12/09/22 15:08:09.11 S+Qp7T8n
>>120
>元寇では、蒙古側から日本軍の強さを驚嘆する言葉も漏れているし

ソース希望

122:名無し三等兵
12/09/22 15:20:10.12 S+Qp7T8n
>>119
訂正:
高麗史の文永の役関係記述の成立は八幡ノ蒙古記より早い。

  ↓ 

高麗史の文永の役関係記述の原史料の成立は八幡ノ蒙古記より早い。

123:名無し三等兵
12/09/22 17:09:58.87
>>118
禅問答じゃないよ。その場にいなかった武士を登場させたり
菊池兄弟を兄以外全員戦死したと書いたり、嘘八百を並びたててる
八幡の蒙古記は後半戦などではなく、「架空戦」だったという至極
単純明瞭な答えがあるじゃないか。

他の人も言ってたが、高麗史や蒙古襲来絵詞、八幡の蒙古記などの
戦況の違う資料から無理矢理整合性をとろうとするから、こんなに
妄想だらけの戦況になるんだよ。

124:名無し三等兵
12/09/22 18:33:29.79 ThGPdDE6
>>123
禅問答だ。
君は「夕暮れに及ぶ戦闘は存在したか」という問題(これは>>106で君も存在を認めている)と、
「八幡ノ蒙古記が描く後半戦は真実か」という問題とをゴッチャにして論じているのだ。

夕暮れ時に及ぶ戦闘とは、その内容はどうであれ、「後半戦」に違いないではないか。

ところで君は:
>高麗史にあるとおりどっちかが決定的勝利をあげることなく日暮れになり、自然休戦した

と書いているが、これは細かいことを抜きにすれば、八幡ノ蒙古記が記述する終盤の戦況そのものだ。
夕方に日本軍は撤退し、元軍はそれを追わなかったのだからね。
前にも書いたが八幡ノ蒙古記は大筋において高麗史と一致するところが貴重なのであり、この点において
八幡ノ蒙古記に代わり得る日本側資料はいまのところ皆無だ。

125:名無し三等兵
12/09/22 18:40:12.95
>>123
どこが禅問答だw
終日戦闘があったのは誰もが認めてることじゃないか。
恐らく、このスレでそれを否定してる人はいないんじゃないかな。
じゃあ、問題は何か?
「八幡ノ蒙古記が描く後半戦は真実か」という問題だけだね。
だから「これは細かいことを抜きにすれば」の細かい事が問題になってる。

126:名無し三等兵
12/09/22 18:41:01.48
訂正訂正
>>123じゃなくて>>124な。

127:名無し三等兵
12/09/22 19:35:58.31
後半戦自体が無理矢理ひねり出した概念だから
後半戦は真実か?って命題にするのもなんかおかしい

128:名無し三等兵
12/09/22 20:34:45.33 ThGPdDE6
>>125
>「八幡ノ蒙古記が描く後半戦は真実か」という問題だけだね。

それについては>>96で、
「大筋において金方慶伝と一致する(だから大筋は真実である可能性が高い)」
ということを書いた。
1)~4)の一致点も書いた。いずれもほぼ事件の輪郭を決める重要な要素だ。

君はこれに対してまだ反論していない。順序としてまず>>96に反論するべきではないか?

なお、一致点の追加として:
1’)戦闘の終わり方は自然休戦であった。
を付け加えよう。これの説明は>>124>>49に書いた。

では反論をどうぞ。
反論がなければ同意と認める。

129:名無し三等兵
12/09/23 19:38:05.20
>>128
いちいち反論求めるな。こっちはあんたみたいに引き篭もって一日中2chに
張り付いて妄想を垂れ流してる暇はねえんだ。

>1)日没まで戦闘が行われたこと

確かに終日戦闘が行われたのは八幡ノ蒙古記や高麗史など諸資料でも一致してる。
ただ、高麗史と八幡ノ蒙古記では根本的戦況は全く違うと言っていい。
確かに高麗史では「及暮乃解」とあるけど、これに関しては戦況が全く書かれていない。
高麗史の性格上、八幡ノ蒙古記が言うように「今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」
というほど日本側が損害を受けていたら、書かないはずが無い。ましてや「諸軍与戦」とあり
高麗軍が参戦していたことは確実であるにもかかわらずだ。
高麗史は性格上、高麗軍の功績を強調するからな。

だが、高麗史は「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けている。そして次に続く文章が例の軍議で
クドゥンの発言に「兵法小敵之堅、大敵之擒」とあるように「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘で元軍は自軍を
「小敵」、日本側を「大敵」と認識した。
しかし、八幡ノ蒙古記の記述はどうか?高麗史「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を「(武士が)おくひやう神にさそはれて、
今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」と日暮れ頃には、日本軍が壊滅状態だったとしている。
これほどの壊滅状態と高麗史の「諸軍与戦、及暮乃解」「兵法小敵之堅、大敵之擒」では戦況が違いすぎる。
ようするに元軍は「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を勝利だとは思っていなかったということだ。
だから、戦闘の様子を全く記さず「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けた。




130:名無し三等兵
12/09/23 19:38:46.71
2)日本軍の損害が大きかったこと。
 高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と八幡ノ蒙古記の戦闘記述とが一致する。

都合のいいところだけ抜き出すなよ。「倭兵大敗、伏屍如麻」は金方慶伝にある
文章なんだが「倭兵大敗、伏屍如麻」に至る経緯を書くと、日本兵が高麗軍中軍に
攻撃を仕掛けてきましたが、金方慶が鏑矢を抜き、大喝すると日本兵は辟易して逃げ出しました。
それを高麗軍諸将が追撃して「倭兵大敗、伏屍如麻」という状況になりました。
まあ、大体こんな感じ。
ここで注目されるのはたった一人の高麗の将軍が「大喝」すると日本兵が逃げ出していったということ。
ということは大規模な戦闘などではなく、家単位の武士と郎党が数十人程度で襲ってきたのだろう。
これは、蒙古襲来絵詞にもあるように菊池勢や竹崎勢が家単位で戦っていたことでもわかる。
つまり、「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
した小規模な戦闘だったってことがわかる。

では、大規模な本戦はというと「倭兵大敗、伏屍如麻」の後に続く「諸軍与戦、及暮乃解」
の戦闘だ。「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘で元軍は苦戦したのは確実で決定的な勝利を得られなかった
ことは上でも言った。
つまり、この部分に関しては八幡の蒙古記と高麗史の記述は一致しているとは言えない。


131:名無し三等兵
12/09/23 19:39:42.42
3)劉復亨が射落とされたこと。

これは本当に疑問。流将公とは本当に劉復亨のことなのか。
八幡ノ蒙古記は「流将公」なる人物は、「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」を連れ
「おくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」というほど
壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。
しかし、劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。
「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の少人数を連れて、突出するようなことが
あるだろうか。あまりにも非現実的で、なおかつ流なる人物を射落とす際に
「せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、
弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、
逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」
と八幡大菩薩の威光を匂わせつつ、あまりにもリアルすぎる軍記物語のような描写に
なっている。
ここで面白いのが少弐家伝で少弐景資が百道原で蒙古軍大将を射倒したという記録があることだ。
面白いことに、福田兼重の文書にも百道原一帯で武士と元軍との間で激しい矢戦があり、福田兼重が
負傷したという記録がある。「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時」
万戸の劉復亨が疲れきった蒙古兵たちを掻い潜って、少人数で追撃してきたという八幡の蒙古記よりよっぽど
現実的だ。この際に高麗史の「(劉復)亨、中流矢、先登舟」という状況が生まれたのだろう。

八幡の蒙古記のいうように追撃をしてきた流を射倒したなら、高麗史にいう「(劉復)亨、中流矢、先登舟」
も甚だおかしい。なぜなら八幡の蒙古記のいうように日本側を追い払い、撤退はまだ決まっていないにもかかわらず
劉を船に乗せるはずがあろうはずがない。ひとまず、占拠したであろう博多で安静にしても良かったはずだ。


132:名無し三等兵
12/09/23 19:43:37.68
しかし、負傷した劉は船まで帰った。つまり、陸にいるのは危険な状況だったからだ。その状況から考えられるのが
少弐家伝にあるように上陸地である百道原付近で負傷して、高麗史にあるように危険な陸から退去して船に帰ったのだ。
百道原一帯では安静にできる場所はないからな。だから船に逃れたのだろう。

4)元軍が当夜に撤退したこと。
 八幡ノ蒙古記は翌朝元軍の船が消えていた記述、高麗史は「劉復亨当流矢、先登船」。
 高麗史は直接的ではないが、まさか一週間とか野戦病院で唸っていたという書き方ではあるまい。

戦闘の記録があるのは20日のみ。そして翌日に戦闘の記録はなかった。
間接的ではあるが、諸資料とも20日のうちに撤退したことは十分に確認できる。

ちなみに八幡の蒙古記は夜のうちに元軍が撤退したとは書いていない。、
「夕過(カ)る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、
此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、
にけたるは、大風に吹しつけられにけり」とあるように筥崎宮の奮戦で元軍が追い返されたのだ。
ここでも高麗史と八幡の蒙古記の著者の戦況認識の差は顕著に見られる。

133:名無し三等兵
12/09/24 11:14:16.12 AxyN3hlG
>>129~>>132

1)日没まで戦闘が行われたこと

>確かに終日戦闘が行われたのは八幡ノ蒙古記や高麗史など諸資料でも一致してる。

なるほど、君は夕方まで戦闘が行われたことにおいて高麗史と八幡ノ蒙古記が一致することを認めた
わけだ。
なお、八幡ノ蒙古記以外の日本側資料で、夕方までの戦闘を明示しているものはない。

2)日本軍の損害が大きかったこと

>「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
>した小規模な戦闘だったってことがわかる。

「数千の」以下は、それこそ八幡ノ蒙古記が描く戦闘様相そのものではないか。
君は少なくとも高麗軍が戦った緒戦の戦闘様相において、高麗史と八幡ノ蒙古記が一致することを
認めたわけだ。
なお、この戦闘様相は「大勢の中に駆け入って珍しくも命永らえた」という日田文書とも一致する。

134:名無し三等兵
12/09/24 11:15:03.02 AxyN3hlG
3)劉復亨が射落とされたこと

>流将公とは本当に劉復亨のことなのか。

劉と流の中国語読みは同じliu(二声)だ。少なくともliuと言う名前の大将が射られたことにおいて
高麗史と八幡ノ蒙古記とは一致する。
また劉は蒙漢軍を率いる副元帥だが、八幡ノ蒙古記の「一方の大将」という表現もそれにふさわしい。

これに対して少貳家伝は射られた大将の名前がない。また弘安の役のこととなっているのが致命的である。

4)元軍が当夜に撤退したこと

>戦闘の記録があるのは20日のみ。そして翌日に戦闘の記録はなかった。
>間接的ではあるが、諸資料とも20日のうちに撤退したことは十分に確認できる。

いいかげんなことを言ってはいけない。戦闘の記録がないことと敵が撤退したことはイクオルではない。

>しかし、負傷した劉は船まで帰った。

なるほど、負傷した劉がその日のうちに乗船したことを認めるわけだな。
そこで「先登舟」の「先」が効いてくる。「先」とは他の人たちより先に、という意味だ。
つまりは他の人たちもその後に乗船したということになる。

一方、八幡ノ蒙古記は:
「夜も明ぬれば廿一日なり、あしたに松原を見ればさばかり屯せし敵もをらず、海のおもてを見わたせば、
きのふの夕べまで所せきし賊船一艘もなし」
と言うのだから、議論するまでもなかろう。

君は、元軍が20日当日に撤収したということにおいて、高麗記と八幡ノ蒙古記が一致することを認めたわけだ。

反論と言うよりは賛同のコメントになったな。ありがとう。

135:名無し三等兵
12/09/24 11:26:15.38 AxyN3hlG
>>133
訂正:

 日田文書 → 福田文書

136:名無し三等兵
12/09/24 11:44:01.10 AxyN3hlG
>>134
訂正:
<高麗記と八幡ノ蒙古記が一致することを認めたわけだ>

高麗記 → 高麗史


137:名無し三等兵
12/09/24 12:06:15.54
>>134
>> なお、八幡ノ蒙古記以外の日本側資料で、夕方までの戦闘を明示しているものはない。

これに対する反論をよろしくな。つまりは八幡の蒙古記と高麗史は一致していない。

確かに終日戦闘が行われたのは八幡ノ蒙古記や高麗史など諸資料でも一致してる。
ただ、高麗史と八幡ノ蒙古記では根本的戦況は全く違うと言っていい。
確かに高麗史では「及暮乃解」とあるけど、これに関しては戦況が全く書かれていない。
高麗史の性格上、八幡ノ蒙古記が言うように「今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」
というほど日本側が損害を受けていたら、書かないはずが無い。ましてや「諸軍与戦」とあり
高麗軍が参戦していたことは確実であるにもかかわらずだ。
高麗史は性格上、高麗軍の功績を強調するからな。

だが、高麗史は「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けている。そして次に続く文章が例の軍議で
クドゥンの発言に「兵法小敵之堅、大敵之擒」とあるように「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘で元軍は自軍を
「小敵」、日本側を「大敵」と認識した。
しかし、八幡ノ蒙古記の記述はどうか?高麗史「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を「(武士が)おくひやう神にさそはれて、
今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」と日暮れ頃には、日本軍が壊滅状態だったとしている。
これほどの壊滅状態と高麗史の「諸軍与戦、及暮乃解」「兵法小敵之堅、大敵之擒」では戦況が違いすぎる。
ようするに元軍は「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を勝利だとは思っていなかったということだ。
だから、戦闘の様子を全く記さず「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けた。

>君は少なくとも高麗軍が戦った緒戦の戦闘様相において、高麗史と八幡ノ蒙古記が一致することを
認めたわけだ。

ほう。「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
した小規模な戦闘だったわけだが、あんたは高麗史の記述の該当部分が八幡の蒙古記の記述だというなら
八幡の蒙古記は記述は本戦ではなく、局地戦だったというこだな。なら「諸軍与戦、及暮乃解」で元軍の苦戦が
スッポリ抜け落ちている理由がわかるな。




138:名無し三等兵
12/09/24 12:08:05.12
>また劉は蒙漢軍を率いる副元帥だが、八幡ノ蒙古記の「一方の大将」という表現もそれにふさわしい。


これに対する反論をよろしくな。あえて無視しているのかどうか知らんが。
八幡ノ蒙古記は「流将公」なる人物は、「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」を連れ
「おくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」というほど
壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。
しかし、劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。
「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の少人数を連れて、突出するようなことが
あるだろうか。あまりにも非現実的で、なおかつ流なる人物を射落とす際に
「せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、
弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、
逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」
と八幡大菩薩の威光を匂わせつつ、あまりにもリアルすぎる軍記物語のような描写に
なっている。
ここで面白いのが少弐家伝で少弐景資が百道原で蒙古軍大将を射倒したという記録があることだ。
面白いことに、福田兼重の文書にも百道原一帯で武士と元軍との間で激しい矢戦があり、福田兼重が
負傷したという記録がある。「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時」
万戸の劉復亨が疲れきった蒙古兵たちを掻い潜って、少人数で追撃してきたという八幡の蒙古記よりよっぽど
現実的だ。この際に高麗史の「(劉復)亨、中流矢、先登舟」という状況が生まれたのだろう。

八幡の蒙古記のいうように追撃をしてきた流を射倒したなら、高麗史にいう「(劉復)亨、中流矢、先登舟」
も甚だおかしい。なぜなら八幡の蒙古記のいうように日本側を追い払い、撤退はまだ決まっていないにもかかわらず
劉を船に乗せるはずがあろうはずがない。ひとまず、占拠したであろう博多で安静にしても良かったはずだ。



139:名無し三等兵
12/09/24 12:08:35.13
>これに対して少貳家伝は射られた大将の名前がない。また弘安の役のこととなっているのが致命的である。
大将の名前は確かに無いが、重要なのが「百道原」という地名がでていることだ。福田文書でこのあたりで激戦が
あったこと、負傷した蒙古軍大将が劉しかいないことなどから劉復亨であっても不自然ではない。
「百道原」など辺鄙な地名がでていることも信憑性を高めている。
少なくとも、大身の劉が、疲れきって全く動けないでいる蒙古兵たちを掻い潜って「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」
で追撃してきたという八幡の蒙古記より遥かに現実味がある。
ちなみに元号のミスは資料によくあることだ。

>いいかげんなことを言ってはいけない。戦闘の記録がないことと敵が撤退したことはイクオルではない。

確かに言い方がいい加減だったな。敵が撤退した資料なら何点もある。
どれも二十日で一致している。
『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」
『五檀法日記』「仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。」
『帝王編年記』「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々

>そこで「先登舟」の「先」が効いてくる。「先」とは他の人たちより先に、という意味だ。
つまりは他の人たちもその後に乗船したということになる。

アホなのか。劉が船に運ばれた後、議論があり撤退が決定して元軍がみな乗船したから「先に」
となってるだけで、劉が「百道原で負傷して船に運ばれても」意味は変わらないんだが。

140:名無し三等兵
12/09/24 12:10:32.93
訂正
負傷した蒙古軍大将が劉しかいないことなどから劉復亨であっても不自然ではない。

負傷した蒙古軍大将が劉しか記録にないことなどから劉復亨であっても不自然ではない。


141:名無し三等兵
12/09/25 14:06:37.67 lhV3Y2p6
大量な「反論」が出ているが、これにいちいちコメントを書くと収拾つかなくなるから、ここで
もういちど整理して置こう。
私は5項目にわたって八幡ノ蒙古記(以下「八」)と高麗史金方慶伝(以下「高」)とが一致す
る点を挙げて、互いに参考にできない二つの資料における一致が信憑性をたかめること、および
一部の項目が日本側資料のなかで「八」のみに記録があることが「八」の史料価値であることを
主張した。

それに対する君の「反論」を項目を追って整理してみよう。

1)日没まで戦闘が行われたこと。
 これは夕暮れの戦闘の記述が存在すればよく、その内容は問題ではない、というか別問題である。
これに対する君の「反論」は記述の存在を否定するものでなく、記述の内容に関するものである。
よって君は、この項目については私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。

1’)戦闘の終わり方は自然休戦であったこと。
 これに対して君は「反論」していないが、これまでの書き込みから同意見であると思われる。
(ことわって置くが、自然休戦の内容はここでは問題ではない。とにかくどちらか一方の潰滅、
潰乱、潰走ではなかったということだ。)
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。

2)日本軍の損害が大きかったこと。
 これに対する君の反論は、「八」が前哨戦(君の言う局地戦)の戦闘様相を本戦のそれに用いて
いる、あるいは「八」において本戦の戦闘様相が欠落している、ということにあるようだ。
 しかし「高」の述べる「伏屍如麻」は前哨戦の描写であることは君も認めているのだから、結果
として「高」「八」とも前哨戦の様相ということになり、したがって比較することができる。
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。

142:名無し三等兵
12/09/25 14:10:58.90 lhV3Y2p6
3)劉復亨が射落とされたこと。
 これについても1)と同様に、言及があることが重要であって、その内容は二の次の問題である。
「八」の言う負傷者の名前は流将公であるから、音において一致している。
君の「反論」は流将公が射落とされた「八」の記述が君のイメージに合わないということであって、
名前の音が一致する大将の負傷への言及があることについては反対していない。
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。

4)元軍が当夜に撤退したこと。
 「八」の記述は直接的、「高」の記述は劉の乗船に関連して間接的であるが、君の「反論」は
劉の乗船の状況に関するものであって、「高」の記述を当夜の撤退として読むことは私と同様と
思われる。そうであれば、劉の乗船状況に拘わらず撤退の時点に関して「八」「高」は一致する。
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。

ただし二十日の撤退について「八」以外に二、三の記録があることについて私は知らなかった。
これは君の言う通り、確かに存在するので、「八」の価値はそのぶん減殺される。

君の大量の書き込みは私の主張への反論というよりはむしろ新しい問題提起であって、それなりに
面白い問題を含んでいる。これについては、この後一つづつ取り上げて私の意見を書くことにする。
乞ご期待。

143:名無し三等兵
12/09/25 21:28:47.38 lhV3Y2p6
まず、講談的、紙芝居的な興味のある劉復亨射落とし事件から行こう。

>壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。 (中略)
>劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の
>少人数を連れて、突出するようなことがあるだろうか。あまりにも非現実的で

私には極めて現実的に思えるね。
まず、日本軍は君の言うように壊滅状態ではない。損害は大きかったが、生き残ったものは日暮れと
ともに一族単位の小集団ごとに集まって、とぼとぼと、もとい粛々と、水城めざして引き揚げた。

これは総大将の少貳が命じたのでなく自発的な撤退であるから、少貳はその立場上、引き揚げは
最後になった。意図せずして総大将の司令部集団が殿軍となった。
元軍は疲労のあまり引き揚げる日本軍を追うこともなく、無感動にそれを眺めていた。これが戦いの
こうすい状態であり、自然休戦の姿だ。

劉復亨はこのとき蒙漢軍の司令部とともに赤坂松原の元軍本陣にいた。眼下の水城街道を引き揚げて
行く少貳の小部隊がよく見えた。劉は血の気の多い人であったのだろう。遠目にも高位の武士とわかる
少貳を生け捕ってじぶんの手柄にしたいと思った。

元軍が疲労の極にあったと言っても一人残らず疲労していたわけではない。劉のそばには親衛隊がいた。
親衛隊の役目は副元帥の防衛であるから、あまり戦闘はやっていない。彼らにも活躍の場を与えてやろう。
劉はまだまだ元気な親衛隊の兵士たちを率いて少貳の小部隊を追った。

これならやれる・・そこに彼の油断があった。一人の若い日本武士が少貳の小部隊から駆け戻って来て、
やおらターンすると同時に見返り打ちの矢を放った。これが不運にも劉の革鎧を射通した。

客観的に見れば劉の行動は副元帥としては軽率であった。自らが傷を負ったばかりでなく、元軍の指揮
系統に穴を開けて、元軍撤退の一因となってしまった。このことを責められて、彼は帰国後に降格処分と
なった。

これが私の考える劉復亨射落とし事件のいちぶしじゅうだ。

144:名無し三等兵
12/09/26 09:04:11.53 t4QAPbVu
これと比較して、少貳が弘安の役の時に百道原で蒙古大将を射止めたという少貳家家伝はどうか。

これを文永の役のこととするならば、まず百道原という現場が問題である。
文永の役の百道原は非常に危険な戦場であった。一つにははじめから元軍に占領されていたこと。
だから日本軍はいきなり敵軍のなかに突入する戦いとなった。福田文書が「大勢の中に突入して
珍しくも命永らえた、危うく首を取られるところだった」と言っている通りである。

もう一つは百道原の地勢である。干潮時は赤坂半島の先端から、鳥飼潟の狭い口を徒渉して
百道原の砂洲に行けるが、ぐずぐずしていると満潮になって退路がなくなる。そうなると祖原
半島を通って陸路で赤坂・博多へ帰るしかないが、その場合は敵に占領されている祖原山の傍を
通ることになって、側撃される危険がある。

こんなところへ、少貳の司令部が前進するだろうか。考えて見ればわかることである。
少貳の司令部が沖の浜から移動したのは、恐らく博多・箱崎放棄のときである。

しかも少貳みずから弓の射程内で元軍の副司令官の劉とまみえるのである。そのためには劉も
またこの危険な場所に上陸して乱戦に身を投じなければならない。非現実性はダブルである。

少貳がみずから射止めたというのは、恐らく八幡ノ蒙古記を後世において脚色した八幡愚童記
が出所であろう。八幡ノ蒙古記では少貳はみずから射止めたのではなく、弓の名手である部下
に命じて射させたのである。より現実的である。

百道原は少貳家家伝が言う通り、弘安の役に関係しているであろう。百道原は水際防衛の最重要
地点であることが文永の役でわかったから、弘安の役の時に少貳の司令部が置かれた可能性は高い
のである。あるいは少貳がみずからこの地域の防衛を受け持ったかも知れない。

少貳家家伝はこの二つの言い伝え(弘安の役の百道原防衛戦と八幡愚童記の少貳勲功説話)が
合体して、後世になって生じたものであろう。

145:名無し三等兵
12/09/27 11:45:46.03 Ulwlzky6
さて次は劉復亨の乗船の事情である。

劉は水城街道で負傷して、とりあえず部下に運ばれて赤坂松原の本陣に帰り、そこで手当を受けて
寝かされていただろう。君が>>138で:

>撤退はまだ決まっていないにもかかわらず劉を船に乗せるはずがあろうはずがない。
>ひとまず、占拠したであろう博多で安静にしても良かったはずだ。

と言っているが、その通りだと思う。ただし撤退が決まっていないのに博多までは運ばないのでは
ないか。赤坂ならば水城街道の起点だから近い。まあどちらでもいいけどね。

さて高麗史によれば「及暮乃解」で戦闘が終わった後に軍議があった。その軍議には金方慶、忽敦、
洪茶丘の名前があるのに劉復亨の名前はない。彼は負傷のため欠席したのだろう。劉が軍議以前に
負傷していた証拠である。

さて劉の乗船の事情は:
「不若回軍(で軍議が決し、)復亨中流矢、先登舟、遂引兵還」
となっている。軍議一決の後に劉の負傷が述べられているが、これは時系列ではなく、劉が他の将兵
に先だって乗船した事情を述べているのだろう。

つまり「劉復亨は流れ矢に当たって負傷していたので先に船に乗った。(その後)撤兵が完了して
(全軍が)帰還した」ということだろう。

文章の流れから、「先登舟」から「遂引兵還」までの間に日にちを夾んだとは受け取れない。
そうであればこれは一日の中の出来事であり、それは劉が負傷した20日のことである。
高麗史もまた当日の撤退を記録しているというゆえんである。

146:名無し三等兵
12/09/27 11:50:10.09
中国人民解放軍系の学者らが中国メディアを通じ、25日に海軍への配備が発表された空母「遼寧」は
沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐり対立が激化している日本への圧力になるとの発言を続けている。
中国は公式には「空母を保有しても、防御的な国防政策を堅持することに変わりはない」
(軍機関紙、解放軍報)との立場を取るが、本音では日本への威嚇効果を期待しているようだ。
中国メディアによると、国防大教員の李大光氏は
「この時期に空母を見せつけることは、釣魚島を防衛する中国の強い決意を表明することになる」と指摘。
「過ちを認めなければ自業自得になると日本政府に告げる」意味があると訴えた。
また国家安全政策研究委員会副秘書長の喬良少将や、中国軍事科学学会副秘書長の羅援少将も空母の「威嚇効果」を強調している。

147:名無し三等兵
12/09/27 16:48:39.02
洗衣院っていやらしい話だよね

148:名無し三等兵
12/09/28 12:17:51.64
>>146
そんな効果はないね。

149:名無し三等兵
12/09/28 13:13:10.50 UNhAi4d4
劉はどこから乗船したか。
それは全軍がどこから乗船したか、という問題と重なる。

私は以前、元軍は西部海岸に上陸して博多に到達し、博多で乗船して還った、という説を主張
したことがある。船は西部海岸から回航したという考え方だ。

しかし現在はこの考え方を改めた。その理由は当時の博多が古代的な港湾設備しか持たなかった
ことを知ったからだ。つまり本船を横付けできる埠頭があるわけではなく、積み卸しは小舟に
積み替えて行った、ということだ。

それならば西部海岸でも同じことだ。むしろ沖の浜より広い砂浜がある西部海岸の方が大軍の
乗船に向いている。博多一カ所に集中したのではかえって混乱する。

元軍は基本的に上陸した海岸から乗船して帰ったたのではないか。百道原から上陸した部隊は
百道原から、博多に上陸した別動隊は博多から、ということだ。この点に限って、私は元軍が
百道原から帰ったという「元軍そのまま撤退説」に同意する。

このように考えるもう一つの理由は、船の使用方法だ。船は、自分が上陸させた部隊に対して、
浮かぶ補給基地の役割を果たしたのではないか。そのためには上陸部隊と常に連絡を保った
のではないか。連絡を保つためには船はなるべく動かないほうがよい。動くのは上陸部隊が
大きく移動したときだけだ。(例えば今津浜→百道原)

このように考えれば当日夜の撤退がスムースに行えた理由も分かる。上陸部隊はじぶんの乗る
船の位置が常に頭にあったのだ。だから乗れと言われれば上陸と逆の動作で素早く乗れたのだ。

そこで元に戻って、劉はどこから乗船したか。私はやっぱり博多だと思う。赤坂から百道までは
道が悪い。鳥飼潟は午後6時頃、つまり撤退が始まったころには再び干潮になっていたが、怪我
人を担いでいくのは大変だ。かと言って祖原半島廻りでは遠い。

劉は博多に運ばれてここから乗船しただろう。劉一人の問題だからどの船でもよい。最も手近で
堅固な船を選んで乗っただろう。

150:名無し三等兵
12/09/28 17:56:17.48 Xw3mcO+c
 
第二次世界大戦全体が蒙古襲来のパロディ

URLリンク(ichiba.geocities.jp)

真珠湾攻撃だけではなかった。

151:名無し三等兵
12/09/28 17:59:38.12
現代の元寇が中韓の侵略か
台風も良いタイミングで来るよなw

152:名無し三等兵
12/09/29 02:35:17.80
今度の台風はほんとにナイスタイミングで来たよ。毎日尖閣ニュースとかうんざりするぜ。

153:名無し三等兵
12/09/29 14:16:18.23
誰か前半戦後半戦で揉めてる問題の日のタイムスケジュールをわかりやくまとめてくれ

154:名無し三等兵
12/09/30 06:46:11.95
元寇を調べていたら洗衣院のエピソードを知ってすごく興奮しています。

155:名無し三等兵
12/09/30 09:46:21.90 dIv7FUEk
いそがしかったので間が空いた。続けよう。

次は戦闘様相、ないし君の言う「局地戦と本戦」の問題だ。これに関して君は>>130で次のように
書いている。

>「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
>した小規模な戦闘だったってことがわかる。
>では、大規模な本戦はというと「倭兵大敗、伏屍如麻」の後に続く「諸軍与戦、及暮乃解」 の戦闘だ。

これを読んで私は一驚した。これは100%私の考え方と同じだ。嘘だと思ったら日本史板の元寇スレの
#322~#324を読んでもらえばわかる。

それでは君の説と私の説では何が違うかと言うと、本戦の結果だ。君はそれについて次のように書いて
いる。

>八幡ノ蒙古記の記述はどうか?高麗史「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を「(武士が)おくひやう神に
>さそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」と日暮れ頃には、日本軍が壊滅状態
>だったとしている。

それほどの戦勝を高麗史が書かないわけがない、「及暮乃解」で片付けたのは本戦では元軍が苦戦した、
逆に言えば日本軍が善戦したからだ、日本軍が潰滅したという八幡ノ蒙古記は嘘だ、というわけだ。

156:名無し三等兵
12/09/30 09:46:55.92 dIv7FUEk
しかし私は君の言うように日本軍が潰滅状態にあったとは読みとれない。「一人も戦はんとおもふ者
こそ、たえにけれ」というのは戦闘可能な無傷のものが一人もいなくなった、という意味ではない。
文字の通り、戦闘意欲を残しているものが一人もいなくなったという意味だ。

戦闘意欲を失ったから武士たちは自発的に撤退した。元軍もまた疲労のためにそれを追撃して決定的な
勝利をおさめることができなかった。これが「及暮乃解」の状況だ。このような泥沼的、あるいは引き
分け的な戦闘では大して華々しいこともないから「諸軍與戦、及暮乃解」で片付けた、と考えてもよい。

あるいはまた、高麗軍は徹夜で上陸し、朝方からの前哨戦(君の言う局地戦)で働いた。そして敵に
損害を強いつつ本隊上陸の時間を稼ぐという、先遣隊の任務を果たした。ごくろうさん、ということで
本戦ではあまり前面に出なかったかも知れない。高麗史の、本戦の記述が簡単な理由はそんなところだろう。

157:名無し三等兵
12/09/30 10:07:06.55
つまり武士は弱い

158:名無し三等兵
12/09/30 11:16:07.65
そして、元軍は武士よりも弱い

159:名無し三等兵
12/09/30 12:09:42.32
この人の主張の行き着く先は日本弱いじゃなくて八幡ノ蒙古記は正しい

160:名無し三等兵
12/09/30 14:38:43.97
将来司馬遼太郎の小説も一次資料として使われる時代が来そうだな

161:名無し三等兵
12/09/30 16:09:45.23
八幡ノ蒙古記のうち自分に都合がいいところだけは正しい
神の力の顕現は嘘

162:名無し三等兵
12/09/30 19:37:45.85 Fgrlp9kG
端的に言って、神風が吹かなくとも、結果はさして差はなかっただろう。
モンゴル軍が強いと言っても、陸戦でのこと
海を超えての戦いとなればそれほどでもないし
鎌倉の残存兵力だけでモンゴル軍の倍は存在した。
充分にたたきつぶせたものね

163:名無し三等兵
12/09/30 20:59:48.30 I0f1KK0n
>>159
>この人の主張の行き着く先は日本弱いじゃなくて八幡ノ蒙古記は正しい

そうとも言えない。
私が目の敵にしているのは、最近の流行りと言うかむしろ標準になってしまった
「水城へ撤退なかった説」「元軍そのまま撤退説」だ。
八幡ノ蒙古記はそのための手段の一つに過ぎない。
それしか通観した記録はないからね。

164:名無し三等兵
12/10/01 09:23:17.00 FTtUP1Ab
>>137~>>139への答えも一段落したので先に進もう。

最近読んだのだが、鳥飼潟は塩田であった。博多は塩の生産地だったのである。

URLリンク(qir.kyushu-u.ac.jp)

塩田の条件は干満の差がある、遠浅の砂地であることだ。有明海のような泥の干潟ではいけない。
きれいな塩を採るには、ぜひともきれいな砂がなくてはならない。
潮が引くと現れる海底は湿った砂地である。湿った砂地は固いから、歩いたり騎馬で通れる。

博多湾の干満差は、「文永十一年冬の嵐」によれば1.5mだと言う。と言っても海底には高低がある
から、全部についてそれだけの差があるわけではない。塩田に相当する部分は、潮が満ちて来ても
かなりの時間は露出していて、満潮のピーク時にのみ、ひたひたの海水に覆われたであろう。それ
でなければ乾燥時間も欲しい塩田としては使えない。

ということで、鳥飼潟のかなりの部分は満潮のピーク時を除いて騎馬戦の好適地であった。ここが
前哨戦の舞台となったゆえんである。

蒙古襲来絵詞にも出てくる「塩屋」とは、製塩の最終段階で海水を煮詰めたり焼いたりするための
作業小屋である。赤坂半島から祖原半島に向かって海岸を進むと、まず「別府の塚原」があり、
次いで「鳥飼の塩屋」があった。

165:名無し三等兵
12/10/01 12:49:02.12
陸続きなのに元軍を撃退したベトナムとマムルークはすげえな

166:名無し三等兵
12/10/01 13:05:47.74
幼女「やあ諸君」

幼女「イキナリだが、ここに幼女で萌えたい変態はいるか?」

幼女「もしいるなら、是非我が家においでいただきたい」

幼女「人もロクにいないし、勢いも全くもってないが」

幼女「幼女と変態のほのぼのとした日常の妄想を垂れ流していってくれれば嬉しい」

幼女「これが招待状だ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
幼女「おい変態ちょっとこっちこい」@制作速報vip
URLリンク(ex14.vip2ch.com)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
幼女「変態紳士諸君のお越しをおまちしt」

幼女「ちょっと変態、待ってよ今まじめな話してるんだから」

幼女「えっ?!そ、そんなことないぞ!わたしは変態一筋だって・・・ぁっ、ちっ違っ・・・!/////」

幼女「あっ?!ま、まて変態!み、皆見てるから!皆見てるから!」

幼女「こんなトコでちゅーとかはずかs・・・んっ」チュー

幼女「バカぁ・・・/////」


167:名無し三等兵
12/10/01 13:21:29.05
>>165
ベトナムはわずか3千のモンゴル兵に首都を征服されていたし
3度目のベトナム侵攻でも元軍の兵力は9万。
元寇とは比べ物にならん。
マムルークに至ってはモンゴル軍は2万程度。



168:名無し三等兵
12/10/01 14:04:30.36 FTtUP1Ab
現場の状況がわかったところで、福田兼重の戦闘を再現して見よう。

私は以前に、福田が赤坂半島から鳥飼潟の入り江の口を徒渉して百道原へ行っただろうと書いたが、
これは考え過ぎだった。福田文書に「鳥飼塩浜で防戦した」と地名入りで書いてあるのを忘れていた。
塩浜とは製塩場のことであろう。彼は鳥飼の入り江の南岸でまず敵と会ったのである。

そして上に書いたように、塩田に使われる鳥飼の干潟は干潮のピーク(午前6時ごろ)をかなり
過ぎても騎馬で通過可能であった。百道原へ行くのに、わざわざ入り江の口へ廻る必要はなかった。

さて福田は菊池、竹崎、白石らより遅れて戦場に到着し、鳥飼塩浜で会敵した。竹崎がこの近くで
戦った相手は歩兵であったことが絵詞でわかるが、福田が会った敵は恐らく騎兵であろう。
というのは福田勢を百道原へ誘引するおとり部隊の役割をしたらしいからである。

入り江の南岸から百道原の砂洲までは、干潟を突っ切って1~1.5kmの距離がある。この距離を通して
騎馬の福田勢を誘引するのは、歩兵部隊には無理であろう。

高麗軍の騎馬隊は福田勢と形ばかりの矢戦を行った後に逃げた。逃げた方向は祖原半島沿いではなく、
近道をして鳥飼の干潟を北へ突っ切ったであろう。福田勢もまた同じルートを取ってこれを追いかけた。
祖原山はバイパスしたのである。

百道原まで来ると、そこには歩兵の大部隊が待っていて、福田勢を包囲して矢を射かけた。福田は
矢を三本射立てられて負傷した。彼は味方から多くの犠牲者を出しながら自らは「希有に存命し」、
やっとの思いで脱出した。

日田の戦闘も同じようなものであったろうが、彼は福田よりは善戦して、二回目の突入では西隣の
姪浜に達した。姪浜と百道原との間には鳥飼潟と同じような入り江があり、これも塩田に使われていた。
百道原から姪浜へは、干潟を通過して直接行けたのである。

朝方の戦闘はだいたいこのような様相だったのではなかろうか。

169:名無し三等兵
12/10/01 14:22:55.71 FTtUP1Ab
>>165 >>167
マムルーク朝は、キプチャク系騎馬戦士の傭兵部隊が簒奪した王朝だった。
それと戦った「モンゴル」軍もまた、すでにトルコ化していた。
マムルークとモンゴルの戦いは似たもの同士の戦いだった。
以上、「モンゴル帝国の興亡」からの受け売り。

170:名無し三等兵
12/10/01 14:30:47.58
>>167
でも元寇は海を渡ってきた元軍の船を奇襲しただけでしょ?
あとは海岸での小競り合いと台風

171:名無し三等兵
12/10/01 14:35:22.65
4万程度じゃ小競り合いだな

172:名無し三等兵
12/10/01 14:41:26.43
>>171
小競り合いというか一方的な虐殺だな
上陸してきた元軍の数に比べて
鎌倉武士の数が多すぎる

173:名無し三等兵
12/10/01 15:12:46.47
陸から叩き出されて2ヶ月も海上にいれば台風の1つや2つ来て当たり前。
橋頭保の確保を巡る戦闘で元軍が敗北したのが最大の敗退要因。

174:名無し三等兵
12/10/02 05:32:46.86
>>160
俺の記憶が確かならこの人、以前坂の上の雲を日露戦争の史料として信用できるみたいなこと言ってたわw

175:名無し三等兵
12/10/03 19:55:43.45 F4hQspoE
菊池、竹崎、白石、福田、日田らの武士達の戦闘記録には、ある共通点がある。それは日本軍が攻勢、元軍(総称)
が守勢にあったということである。これらの記録において、元軍ははじめから赤坂、祖原山、百道原などの場所に
いるが、そこから前進しつつあったという様子が記録から感じられない。

これはなぜか。元軍が武士を恐れたからだと言うのは簡単だ。しかし兵力2万数千の侵攻軍が、数千騎の守備軍に
対して行う戦闘としてはおかしい。

これは>>130も言っているように、本戦ではなく前哨戦(>>130の言う局地戦)だったのだ。そして、これも>>130
言っているように、この戦闘における元軍は高麗軍であった。降伏軍や植民地軍を先頭に立てて戦うのはモンゴルの
常套手段である。また高麗史の対馬・壱岐の戦闘記録には、高麗軍が先鋒を勤めたように読み取れる箇所がある。

高麗史金方慶伝によれば、高麗軍は左軍、中軍、右軍の三軍編成で、金方慶は総大将であると同時に中軍を自ら
指揮した。同伝が「三郎浦に舟を捨て、道を分って進む」と述べているのは、この三軍が早良郡に上陸して、
それぞれの目標を目指して進んだことを言うのであろう。そして金方慶の中軍は祖原山を占領してここを司令部とし、
別の軍が赤坂山を占領した。

しかし占領してそこに留まったのである。その目的は当然予想される日本軍の攻撃に対応してこれに出血を強いる
と同時に、より後方(西方)の姪浜、今津浜に上陸中の本隊、すなわち蒙漢軍を安全に上陸させるための時間を
稼ぐことであろう。

176:名無し三等兵
12/10/03 19:57:35.80
本隊との戦いを記録してない武家はアホだな

177:名無し三等兵
12/10/04 06:58:59.06
>>172
文永の役では総勢で倍以上、騎馬兵だけとっても明らかに元軍のほうが多かったのに?

178:名無し三等兵
12/10/08 08:59:16.64
素人の感想

鎌倉武士=自衛隊 練度の高い職業軍人

元軍=中・韓連合軍 徴兵主体の半民間人。アイヤー&アイゴー

元軍て負けるべくして負けたんじゃないの。

179:名無し三等兵
12/10/08 11:14:10.30
中韓だから弱い、ゆえに日本軍が勝ったという発想はしないほうがよい。
蒙漢軍は当時の東アジア世界では最強。問題はそれを迎え撃った日本が中世世界屈指の軍事大国だったことにある。
元軍が負けるべくして負けたのではなく、日本軍が勝つべくして勝った。

180:名無し三等兵
12/10/08 18:06:51.98
文永の役の後、鎌倉幕府は大陸出兵計画を考えていたらしいけど
鎌倉幕府としては南宋とモンゴル帝国を挟撃するつもりだったん
じゃないかな。

費用がかさんだというより、頼りにしていた南宋が大陸の情報で
防戦一方であることを確認して中止したような気がする。

ひょっとすると極秘で南宋に使者を派遣してたりしたんじゃないかな。
南宋が滅亡してそういった日本側の動きに関する資料は大陸で途絶えてしまった。
出兵準備をあんなに整えていたのに急に中止になったのは
大陸情勢の不安定化を受けてなんだろうか。

研究者はなぜか鎌倉幕府の大陸出兵計画はほとんど意に介さない
姿勢の者ばかりだが、詳しい研究が進む事を望む。


181:名無し三等兵
12/10/08 18:26:06.69
実際のところ鎌倉幕府が大陸に渡洋侵攻するのは能力的に難しいんじゃないだろうか
史実の元寇は国内での地上戦だから勝てたけど

182:名無し三等兵
12/10/08 20:44:51.13
幕府内部の政争が絡んでいた可能性も指摘されている。

183:名無し三等兵
12/10/09 09:05:29.68 Vomu/S3M
>>179
分けて言わないとね。
文永の役は辛うじて引き分け、弘安の役は日本軍の勝ち。

文永の役で楽勝したら国を傾けて防塁を築くはずがない。

184:名無し三等兵
12/10/09 09:25:46.63
おいおい、寸土の土地も得られなかった元軍が引き分けなわけがないだろう。
防塁で国が傾いたってのも根拠が無いし、文永の役よりさらに大軍で攻めよせてくるのは
想定できるのに、武家政権である鎌倉幕府が何の対策もしない方が異常。

185:名無し三等兵
12/10/09 09:39:43.48
文永の役が辛うじて引き分けと言えるなら
秀吉の唐入りは日本軍の大勝利だなw

186:名無し三等兵
12/10/09 12:32:14.13
対馬や壱岐がぼこられてるから日本の負け

187:名無し三等兵
12/10/09 13:06:17.23
>>184
まあその人、戦略と戦術の区別も付かないような軍事オンチだからw

188:名無し三等兵
12/10/09 13:07:07.16
>>186
ハワイがぼこられてるから太平洋戦争はアメリカの負けだな、そうだろ?

189:名無し三等兵
12/10/09 16:08:56.35
>>186
対馬壱岐で住民が玉砕なみの激しい抵抗を示したことが蒙古軍に少なからず打撃を与え、
かりに戦況不利なら即日撤退と言う雰囲気が指揮官レベルに醸成されていた可能性もある

190:名無し三等兵
12/10/09 20:52:18.64
即日撤退って判断はなかなか下せるものじゃないしね
激闘で大部分の兵を失ったとかならともかく、
初日は日本勢は寡兵で決定的打撃までは行かないのに夜半引き揚げ決定

やはり完全に想定外の苦戦と言う雰囲気だったかもね

191:名無し三等兵
12/10/09 21:45:20.46 Vomu/S3M
>>184
>寸土の土地も得られなかった元軍が引き分けなわけがないだろう。

土地が得られなければ負けとはまた、ずいぶんハードルを上げたもんだな。

じゃ、日本軍を全滅させたのに占領しなかった対馬、壱岐も元軍の負けか?

192:名無し三等兵
12/10/09 21:56:12.77
>>191
別に土地を得たかどうかだけが戦争の勝敗ではないが、元寇で元軍が他に達成した戦略目的があったか?

193:名無し三等兵
12/10/09 22:01:00.63
なんか元寇は元の負けではなかったとか言ってる人って、大東亜戦争はアジア諸国を欧米の植民地支配から解放できたから実質日本の勝ちとか言ってるクソウヨと変わらんなw

194:名無し三等兵
12/10/10 00:53:46.03
その論調なら文禄・慶長の役も日中戦争も日本の勝利になるなw

195:名無し三等兵
12/10/10 01:04:24.40
>>194
それらの戦争では一度は首都まで占領してるからねぇ
ナポレオンのロシア遠征しかり

196:名無し三等兵
12/10/10 04:48:26.69
文永の役は引き分けとか言ってる奴はキチガイだな。

元は戦略目標を何一つ達成していないだろうが。

>じゃ、日本軍を全滅させたのに占領しなかった対馬、壱岐も元軍の負けか?

放棄して逃げ出してるのだから、負けで違いないが?

197:名無し三等兵
12/10/10 06:25:30.20
なんか日本軍だと違和感が

198:名無し三等兵
12/10/10 09:48:27.96 HoDjjKCX
>>196
>じゃ、日本軍を全滅させたのに占領しなかった対馬、壱岐も元軍の負けか?

>放棄して逃げ出してるのだから、負けで違いないが?

なるほどなるほど。
その伝で言えば相手の騎士団を殲滅したがその場所に留まらなかった、カルカ川や
リーグニッツのモンゴル軍も「負けで違いない」な?

199:名無し三等兵
12/10/10 10:24:37.45
カルカ河もワールシュタットも前後の軍事行動を日本の状況に置き換えるなら
「九州全土を蹂躙した後、本州へ上陸して東進してきたが京都を目前にして引き返した」レベルだからな。
しかもワールシュタットの時はオゴタイさんが死んじゃったっていう政治的事情があるし。

200:名無し三等兵
12/10/10 10:51:47.33 HoDjjKCX
>>199
>前後の軍事行動を日本の状況に置き換えるなら「九州全土を蹂躙した後、本州へ上陸して

カルカ川、リーグニッツで戦場までの経路がぜんぶロシヤやドイツだったわけじゃないから、
その言い訳はなりたたない。

戦場までの経路が陸か海かの違いだけ。

201:名無し三等兵
12/10/10 13:27:09.20
秀吉が死んじゃった唐入は負け
オゴタイが死んだから帰ったワールシュタット勝ち

202:名無し三等兵
12/10/10 13:50:17.24
元軍の目的は最低でも九州に拠点を築くこと
日本軍の目的は元軍を追い返す事
どっちが勝ったかは子供でも分かるな

203:名無し三等兵
12/10/10 15:39:23.25
勝ち負け付けるのは会戦単位の話なのか、戦争全体なのか

204:名無し三等兵
12/10/10 17:35:11.83
戦闘でも戦争でも勝ってるよ。

205:名無し三等兵
12/10/10 18:06:38.70
馬鹿な奴がいるなぁ。リーグニッツのような戦いは日本との戦いにはなかったし
ヨーロッパのように皇帝が死んだから元軍が撤退したわけじゃないし。

普通に武士に苦戦したから元軍は撤退した。撤退要因が「武士団」であるのに
元軍が勝利とか頭に蛆が湧いてるとしか思えん。

206:名無し三等兵
12/10/10 18:08:43.94
対外戦争の勝利って戦略目標を達成したか否かじゃないかい

207:名無し三等兵
12/10/10 18:56:18.83 /h1Epxuj
>>202
戦闘員2万数千でまったく補給を持たない遠征軍が九州に拠点を築くなど、軍事板とも思えないな。

208:名無し三等兵
12/10/10 18:57:25.86
北九州をテキトーに蹂躙すればそれで日本の方から頭下げてなびいてくると思ってたんじゃねーの

209:名無し三等兵
12/10/10 19:58:44.36
>>207
乗せてきた軍を完全に揚陸してしまえば空いた船を補給に回せる
北部九州を制圧して日本水軍の出撃拠点を奪ってしまえば当時はまず妨害できないし

210:名無し三等兵
12/10/10 20:03:41.59
戦闘員2万数千とか大軍だろうに。

マムルークに攻め込んだモンゴル軍も2万。
第一次ベトナム侵攻ではわずか3千だ。

島の樺太に攻め込んだ元軍は文永より少ない一万だったのにも関わらず
骨嵬を降伏させている。

単に日本侵攻では元軍の実力が足らなかった。それだけ。

211:名無し三等兵
12/10/10 20:17:31.25
当時の補給の概念て現地調達の略奪じゃなかったっけか

212:名無し三等兵
12/10/10 20:18:31.09
さすがに海超えで全部掠奪でってのは現場が納得しないんじゃね


213:名無し三等兵
12/10/10 20:20:09.74
ロクに補給持たずに総員四万近い軍勢送ってただ荒らし回って
戦略目標達成したから勝ちですとか元軍は脳に蛆が湧いてるのか?w

214:名無し三等兵
12/10/10 20:21:37.58
元軍人の安田さん

215:名無し三等兵
12/10/10 20:35:20.21
対馬海峡の制海権と北九州沿岸の橋頭堡を確保すればあとは乗ってきた軍船のピストン輸送で補給できると思ってたんじゃね?

216:名無し三等兵
12/10/10 21:43:07.20
日本人襲って焼いて食えばいいやん。

217:名無し三等兵
12/10/11 00:25:07.21
元寇船の底板、二重構造…粗製乱造でなかった?
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)


サボタージュ説、士気が低かった説、棄民説とは一体何だったのか

218:名無し三等兵
12/10/11 04:55:35.86
アジアの方々が日本人が勝ったら申し訳ないと思う人達がいたからな

219:名無し三等兵
12/10/11 06:52:19.76
>>216
よい子のみんなー、日本は弱かったんだよ!愛国心を持ったらダメだからね!派の妄言。

220:名無し三等兵
12/10/11 10:19:32.67 jLfND9ga
>>215
>橋頭堡を確保すればあとは乗ってきた軍船のピストン輸送で補給できる

じゃなんで弘安の役の東路軍はそれをやらなかったんだ?
三ヶ月分持って来た食糧が残り少ないがどうしようって軍議やってるじゃないか。

鷹島には橋頭堡確保してるのに。

221:名無し三等兵
12/10/11 18:36:42.47
>>220
弘安前半に志賀島に拠点作ったつもりが総攻撃されて
命からがらやっと船に逃げ帰ったことがあるから
その程度ではとても船を手放すことなどできない


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