12/04/25 20:46:52.42 c8qMU3AI
新羅は663年に正式に滅亡した。百済、日本、高句麗連合軍の攻撃に遂に耐えかねたのだ。
唐は660年、新羅救援のために13万と称される大軍を海路で派兵した。
これがうまくたどりつけば、新羅は救われたろう。しかし、天は無慈悲だった。
旧唐書によると、「帰来するもの十のうち一に満たない」。
新唐書によると、「帰る者、わずかに3名」という結末が待っていた。
悪天候に伴う海上遭難、何とか、朝鮮半島沿岸部に漂着した唐水軍の将兵は離散しており、
百済軍に各個撃破されていき、何とか半難破船で海に脱出した将兵も、唐に多くは帰りつけなかったのだ。
そして、これは百済の危機意識を高め、日本に対する救援要請、日本軍の本格派兵を招いた。
一方、唐はこの大敗により、新羅救援の手段を失った。13万の将兵を失ったと言えど、唐の国力をもってすれば、
10年後には派兵は可能である。だが、その10年を新羅は持ちこたえられなかった。
唐との外交は、新羅国内の国粋派からは国辱極まりない、と極めて評判が悪く、百済に屈服するほうがまし、
という声さえある始末で、唐の救援がしばらく望めず、日本軍の本格派兵があり、国内の分裂も加わっては、
新羅は滅ぶしかなかったのだ。
こうして朝鮮半島を南北に分断した高句麗、百済が成立した。
という仮想戦記は無理がありすぎるでしょうか。