12/02/19 04:11:08.15
『大東亜補給戦―わが戦力と国力の実態』(中原茂著)読了。
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タイトルにある補給に関して、単に部隊への輸送のみならず、その後方の生産力、基礎工業力を含む国力全般についても焦点を当て、太平洋戦争を中心に概説した本。
1981年発行と意外に新しい。ちなみに著者はこの後にもう一冊同じような本を書いている。
著者は大阪陸軍幼年学校を出たあと陸士を39期で卒業、その後砲工学校高等科へ進んだのち東大工学部電気工学科を卒業し、陸軍造兵廠で勤務した。
その後1939年に陸軍省軍務局軍事課資材班に所属、以降1945年まで大本営兵站総監部参謀・第14課員、陸大兵学教官、企画院調査官を兼任した。1945年、第15方面軍参謀として終戦。終戦時大佐。
著者としては大正デモクラシーや諸外国に言いたいこともたくさんあるようだが、日中戦争期の日本の引き際の見誤りと、太平洋戦争開戦前からの陸海軍(特に作戦系)のグダグダには言いたいことが腐るほどあるらしい。
数多くのグラフや図表を使いながら、大日本帝国の国力・兵力の趨勢を追っていく。
大正期の不況と軍事予算圧縮時代が終わり、満州事変が勃発して以降、日本の国力は次第に成長していった。
しかし日中戦争期に入ると、整備途上の国力・兵備で長期戦争に突入したため、兵器生産のための動員が鉄鋼を含む基礎工業生産を圧迫し始め、早くも1938年を境に総合的な工業力は減少に入る。
これが太平洋戦争期に顕在化し、後述する輸送の問題と合わせて民需のみならず兵器生産にも影響が生じるようになった。この指摘は興味深い。
また大正期に陸軍予算を圧縮していたためその期間の装備更新が滞ったのみならず弾薬備蓄も少なく、日中戦争開戦後の1937年度の兵器費のうち56パーセント、
翌38年度の兵器費の76パーセントが弾薬に充てられ、火砲・戦車・航空機といったその他の兵器生産を圧迫していた。
1937年、企画院が誕生すると、軍需と民需に物資を振り分ける物資動員と、民需の資材を最大限活用し基礎国力を拡大する生産力拡充という二つの計画を企画したが、経済も戦況も変動するため計画作りは当然難航、改定が頻繁に行われた。
さらに後になると各国の経済制裁や陸海軍の軍備計画の都合に振り回されて、おもに民需がガリガリと予定から削られていく。