11/12/21 20:10:54.91 YR0O3gnH0
衰に代表されるようなタイプの台詞を書く脚本家の良識というのを疑わずにはいられない。こうした台詞というのは大体において脚本家の才能ではなく、手抜きから派生するからだ。
更に演出家が手抜きをするものだから、台詞は結局そのまま声優のところに回ってくる。
さあ、大変な事になった。
台詞は変えられない。でも、馬鹿馬鹿しくてまともに言えるような台詞じゃない。割り切って勢いで言うか?でも、それじゃ型通りでインパクトは無い。
せっかくのプリキュア出演だ。ここでいいとこ見せとかないとマズい。困った。テイクを重ねる時間の余裕も無い。さあ、どうする?
意識が高く良い演技を心がける声優ほど、こうした局面は辛いはずだ。
方法は無い事も無い。
まず、台詞の必然性については割り切る事。そうしなければ台詞を言う事が不可能になる。
次に決められた台詞の感情を、自分が適切だと思う台詞の感情と置き換えて言う事。つまり、気持ちの上では別のことを言っているというわけだ。
こういう局面では不本意な意味で声優の「想像力」と「遊び心」という物が試されてしまう。だから、手抜き芝居に慣れた声優、演技を即物的にしか考えられない声優というのはエンドクレジットと共に忘れ去られる運命にある。
但し、これは最悪の形で台詞を言わない為の、言わば防御的演技というものだ。演技上のトリックといっても良い。だから、こうした演技によってある程度のインパクトを残す事は出来ても、名演技する事は不可能だ。
破綻した台詞や脚本で名演技まで持って行こうとすると声優は発狂するしかない。整合性が全くつかない事を強引にやろうとすれば、自分の精神に破綻をきたすのは当然なのである。
「役の気持ちになって台詞を言う」という言葉を聞いた事の無い声優はいないだろう。だが、まともじゃない脚本でそれをやるのは不可能というものだ。