14/05/15 09:54:32.58 gKiocUlK.net
慶長20年(1615)5月8日豊臣秀頼切腹。大阪夏の陣が終わる。
当時未だ7歳であった豊臣秀頼の子国松は、大阪城より脱出し伏見の町家に潜伏していたが、幕府の探索により程なく捕縛され、二条城に連行された。
そして「未だ幼児であり、今回の戦争に対して何を知るというわけもないが、大敵の子であり、また男子である以上、助けおけば将来の患ともなるだろう。」と、処刑されることに決まり、その身柄は京都所司代・板倉勝重の屋敷に移された。
勝重は国松を風呂に入れ衣服を与えるなど丁重に扱う。そしてこの少年に話しかけた
「お名前はなんと言われるのですか?」
国松はこの問に不思議そうに
「名前…?私に名前はありません。」
「お名前が無い?それは…」
「はい。皆は私のことを、殿様とばかり呼びます。」
これを聞いた人々は皆、思わず涙したという。そして5月23日、国松は市中引き回しの上、京都六条河原で斬首された。