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長崎事件は全く知られていないが、1886年(明治19)その当時、清帝国と呼ばれた中国の北洋艦隊が突如長崎に来襲し、
水兵の大集団が大暴動を起こした侵略事件だ。
長崎事件(長崎清国水兵事件)
1886年8月1日、北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が、日本政府には何ら予告なく、
無許可で修理のためと称して突然、長崎に入港しました。要するに、弱小国、日本を舐め切っていたのです。
艦名の「遠」は外国を意味し、特に日本を指していました。「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味です。
この僚艦はドイツ・フルカン社製で、排水量7,400t、主砲は30cm×4、当時世界第一の大戦艦でした。
その頃、日本海軍は英国アームストロング社製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけでした。
当時の日本海軍は、時の清国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、
戦争など思いもよらないことでした。
8月13日には清国水兵が勝手に上陸を開始しました。兵力は500人以上。長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪しました。
酒を探して飲み、市民の女性を追いかけるなど、散々に暴れ狂いました。
結局、清国水兵は警察官と衝突。死者10人、重軽傷者70人以上という大暴動に発展しました。
この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、清国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がりました。
この事件の背景には、朝鮮問題を巡る日清両国の紛争がありました。そこで日本を脅かすため、清国海軍が計画的に
長崎に殴り込みをかけたのです。当時の弱小国、日本は歯噛みしながら、なす術もなかったのです。
この長崎事件を契機として、日本人の防衛思想の根底に、大陸を国防の第一線とする考え方が生まれたのです。