【歴史】植民地時代に韓国をこよなく愛した日本人・浅川巧…朝鮮のはげ山へ植樹を続け、「韓国の人工林の37%は、浅川先生が手掛けた」at WILDPLUS
【歴史】植民地時代に韓国をこよなく愛した日本人・浅川巧…朝鮮のはげ山へ植樹を続け、「韓国の人工林の37%は、浅川先生が手掛けた」 - 暇つぶし2ch1:もろきみφ ★
11/09/01 12:21:16.20
 ソウル市中浪区忘憂里にある共同墓地「思索の道」は、詩集『あなたの沈黙』の詩人・韓竜雲(ハン・ヨンウン、1879‐1944)、
絵画『雄牛』の画家・李仲燮(イ・ジュンソプ、1916‐1956)など著名人の墓があることで有名だ。だが、その中でも特に目を引く
墓がある。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」。この墓碑銘の主は浅川巧
(1891‐1931)だ。墓を管理している韓国林業研究院の責任者は「唯一、韓国人の手で保存されている日本人の墓」と話す。

 浅川巧をたたえる学術大会が9月5日、ソウル・プレスセンターで開催される。テーマは「時代の国境を超えた愛:浅川巧の林業
と韓国民俗工芸に関する研究」。ソウル国際親善協会主催、日本国際交流基金・森林文化財団協賛、文化体育観光部
(省に相当)後援で、李御寧(イ・オリョン)元文化部長官が祝辞を述べる。日本による植民地支配時代に韓半島(朝鮮半島)
の木材を奪う手助けをしていた朝鮮総督府農商工務部山林課の職員が、なぜこのように手厚く扱われているのだろうか。

 1914年に23歳で朝鮮へ赴任したとき、浅川巧は「朝鮮の人々に申し訳ない気がして、何度も故郷に帰ろうと思った」という。
「私が朝鮮にいることが、いつかは何かの役に立つようにしてください」。神に祈り気持ちを落ち着け「朝鮮に住む朝鮮人と同じものを
飲み、食べ、同じ服を着て、同じ言葉を使わなければ」と決心した。朝鮮人の町でオンドル(床暖房)部屋に住み、韓服(韓国の
民族衣装)を着て朝鮮人と同じように髪を結い外出した。浅川巧の評伝『浅川巧 日記と書簡―朝鮮の土になる』(ヒョヒョン出版)
の著者・高崎宗司氏は「日本人警察官たちはバスの中で韓服を着て座っている者を発見すると『ヨボ(韓国語の呼び掛けの言葉
『ヨボ=もしもし』を見下した言い方)』とからかい、座席から立たせた。それでも浅川巧は韓服を着続けた」と書いている。

 浅川巧は朝鮮のはげ山を緑で覆うことを使命だと思っていた。全国を巡り木の種類を選び、植樹を続けた。また、自然な状態の
土の力を生かす「露天埋蔵発芽促進法」でチョウセンゴヨウマツ(朝鮮五葉松)の種子を芽吹かせる方法を開発した。チョ・ジェミョン
元林業研究院長は生前「チョウセンゴヨウマツは当時、2年間かけて苗木を育てていたが、浅川先生が考案した方法のおかげで
1年に短縮できた。今、韓国の人工林の37%は、浅川先生が手掛けたもの」と話す。

 浅川巧はとりわけ朝鮮の工芸を愛した。実兄は「朝鮮古陶磁の神様」と称された浅川伯教(1884‐1964)だ。各地の窯跡で
陶磁器や破片を集め兄に渡す一方で、自らも朝鮮の膳文化を研究した。「朝鮮の文化は中国の亜流」という日本人の主張に
反論し、朝鮮の食卓を取り上げ、朝鮮文化の独自性を訴えた。生前に出した本『朝鮮の膳』にはこう書いてある。「疲れに疲れて
いる朝鮮よ、他人のまねををするよりも、今ある大切なことを失わなければ、近く自信に満ちた日が来るだろう。これは、工芸に
限ったことではない」。死後も朝鮮陶磁器の研究書『朝鮮陶磁名考』が出版された。鄭良謨(チョン・ヤンモ)元国立中央博物館長は
「韓国の工芸品や陶磁器の歴史を研究する人々にとって宝物のような本」と評している。

 1931年4月2日に40歳の若さでこの世を去った浅川巧の葬儀は林業試験場の広場で行われた。葬式では土砂降りの雨にも
かかわらず、大勢の朝鮮人たちがひつぎの載せられたこしを担ぐことを志願、交代で担いだという。遺言に基づき白い韓服を着て
朝鮮人共同墓地に埋葬されたが、今は忘憂里共同墓地に移された。京畿道抱川市光陵の国立林業研究所(旧林業試験場)
には、浅川巧が植えたチョウセンゴヨウマツが今も立っている。

(以下略)

ソース(朝鮮日報)
URLリンク(www.chosunonline.com)
URLリンク(www.chosunonline.com)
写真=日本による植民地時代に韓国人と韓国の伝統工芸を愛した朝鮮総督府山林課の日本人職員・浅川巧(当時27歳)。
URLリンク(file.chosunonline.com)


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