11/04/20 20:43:41.05
3月11日の大震災の直後に、阪神淡路の被災者のコメントとして、次のような内容の文書がネットを駆け巡りました。
「千羽鶴はゴミであり不要」
「自分探しのボランティアは迷惑」
「古着の山は屈辱」
また、震災から1カ月弱が経過した時点で、津波の被災者をその妹が紹介するというスタイルで、次のようなコメント(長文からの
抜粋です)がやはりネットで出回りました。
「正直、復興なんてクソ喰らえだと思うよ。」
「俺たちを幸せになんてふざけたこと思わないで、俺たちの分、そっちもみんな不幸になってくれたらなー」
「俺たちを想って歌とか作られても今は不愉快だから、東京も全部流されて、それでも『頑張ろう』って言われたら、頑張るよ。
その人の歌なら聴く。」
今回の震災では。ツィッターやブログなどのインターネットを通じたコミュニケーションが大きな役割を果たしたのは間違いありません。
消息情報や救急搬送のニーズなどを伝える役割や、被災地へ激励を届けるなどの効果を発揮したのは事実です。ですが、同時に
このような「どす黒い言葉」がネットを通じて拡散してゆくという現象も生みました。では、このような「どす黒い言葉」を私たちはどうやって
受け止めれば良いのでしょうか?
1つは、ストレートに受け止めるという態度です。こうした大規模な災害の場合は、被災した地域に対して、被災しなかった地域では
「助かって申し訳ない」という罪の意識を抱きがちです。こうした心理に対して、こうした「どす黒い言葉」はそのままストンとはまって
しまいます。ある意味で、それは仕方がないことだとも言えるでしょう。言葉の持っている辛さが被害の大きさのリアリティになるということ
だと思います。
ただ、こうした心理は、被災地とその他の地域の距離感を増大させるだけとも言えます。人々の心を萎縮させ、具体的な支援活動
を躊躇させたり、過剰な自粛の元凶になったりするわけです。ストレートに受け止めるだけではいけないという感覚はそこから来ています。
第2の態度は、否定するという姿勢です。平時においては、社会に対して愚痴や攻撃的な言葉をまき散らす人に対しては「華麗に
スルー」という態度があります。これと同じように、いちいち言葉を受け止めて怒ったり傷ついてみたりする必要はないという考えです。
また、日本の場合は等質社会だからネガティブな表現が許されているとか、匿名での発言はそもそも甘えだとかいう論評をする人も
いるかもしれません。
(中略)
第3は、少し距離を置くという姿勢です。例えば、阪神淡路の被災者による「千羽鶴はゴミ」という発言は、恐らく避難所生活が
安定し、衣食住と安全が確保された後に、自尊心やプライバシー、娯楽などのニーズへ移行した「後期の段階」の感想ではないかと
いうことが言えます。ですから、震災の直後の恐怖と緊張感の中で、少しの激励でも勇気づけられるという状態を前にした場合、
こうしたコメントは「フェーズがずれた話だから真に受ける必要はない」という考え方は可能だったはずです。
更に言えば「ボランティアが嫌がられる状態」というのは、有償の労働力ニーズが生まれて地元の雇用への期待が出てきたからだ、
と見ることが可能です。正に「後期の段階」です。ということは「ボランティアが嫌がられるのは、地域が再生へと踏み出した」証拠であり、
「ボランティアとしては成果として誇りに思うべきだ」だという「大人の見方」をすることも可能だというのです。ネットではそんな議論も目に
しました。
津波被災者の「復興なんてクソ喰らえ」というのも、距離を置いてみれば「この人は助かったんだな。生命の危険は去ったという
シグナルとして受け止めればいいんだな」という見方も可能は可能でしょう。
(以下略。全文はソース元でどうぞ)
ソース(ニューズウィーク日本版、「プリンストン発 新潮流アメリカ」 冷泉彰彦氏)
URLリンク(www.newsweekjapan.jp)