10/12/19 13:20:34 発信元:219.127.209.82
ふと思ったんだが、
誰が天才で、何が傑作であるかを判断する「基準」がないと
普遍的な「天才」「傑作」は存在しえない
その基準が存在しない限り、所詮は天才・傑作を見極めるものは
主観的な判断から生じる個人的な物差しにすぎない
つまり、誰が天才で何が傑作であるかは個人個人によってそれぞれ違うことになる
だからそれらが理解できないからと言ってその個人が劣っているわけではなく、
その個人が持っている物差しが製作者の物差しとは違っているだけなんだな
で、今回の水島の小説の物差しは小さすぎたのか大きすぎたのか知らんがとにかくサイズが一般的でなかった
だから一般的な物差しに近似したサイズを持つ多数の人間には理解できなかった
それを理解できるのは同じサイズの物差しを持った人間だけ(この少数の人間が天才かどうかの判断はできない)
ちなみに水島の小説の物差しとモーツァルトの楽曲の物差しとが同サイズかと言うとそうではないだろうな