【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】at SENGOKU
【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】 - 暇つぶし2ch2:人間七七四年
11/02/01 18:47:37 W2amA0hM
>>1
おつ

3:人間七七四年
11/02/01 21:08:56 BWQ+Kla3
CSで大河の徳川慶喜観てたら、慶喜の台詞に、徳川は400万石と言われていますが実は200万石程です というのがあったんですが本当ですか?


4:人間七七四年
11/02/01 22:35:24 wlQ4e7q9
日本史板で聞きなよ、ここは戦国時代の疑問だよ

5:人間七七四年
11/02/02 00:45:33 8f6AXqus
戦国期っていつまで?1615年まで?

6:人間七七四年
11/02/02 01:04:59 tKaF4vUN
学問的には明応の政変(1494)から信長の足利義昭追放(1573)まで
広義でとると応仁の乱(1467)から大阪夏の陣(1615)まで
統一という概念でとると小田原の陣(1590)まで
近世に対する中世末という意味でとると関ヶ原(1600)まで
国内内戦の終結、という意味で島原の乱(1638)まで取る見方もある。



7:人間七七四年
11/02/02 08:09:05 ZVvoUxsG
へ~、秀吉の刀狩で終結は?
自分は家康将軍宣下がしっくりくるな。

8:人間七七四年
11/02/02 11:43:44 oyY957j0
>>7
刀狩りはあくまで大規模一揆などに対する対処法であり、全国で行われたわけでもなく
また実地も不十分で、これを時代の分岐点と観るのは無理がある。
そもそも「刀狩り」は秀吉以前から、戦国大名が一揆を平定した場所で行われていた
ごく普通の政策

刀狩りや太閤検地、もしくは兵農分離などというものをあまり大きく捉えないほうがいい

9:人間七七四年
11/02/02 11:51:06 qENLAr1/
>>8
柴田豊臣以前の刀狩りの例をご教授してもらっていいですか?

10:人間七七四年
11/02/02 16:01:51 +HxDmzX8
この場合「刀狩り」なんて言うから何だかわからなくなる。
ため込んでいた武器を没収した、程度に考えよう。
「法」として出したのが、柴田勝家であり次が秀吉だった。

11:人間七七四年
11/02/02 16:35:53 TZTXqmEo
>>8
なるほどなぁ。
刀狩りというか、総無事令は一応天下人が全国に戦闘終結
宣言をした、という感じで評価してるのを見たことあるもんで。
山本じゃないけどね。

家康も将軍就任第一号令ぐらいでそういうのを出してたはずだが
それを近世の緒とするなら、秀吉の方に分岐を持ってくのもどうかなと
思ったんだ。

結果論かもしれないが家康の将軍宣下がとりあえず統一政権の
誕生とするならそれも明解にも思うし。

戦国の定義に寄るんだろけどね。

12:人間七七四年
11/02/02 16:45:21 jGjPKTZL
時代って序々に変っていくものだし、この日を境に、ってのは無理でしょ

13:人間七七四年
11/02/02 20:55:28 mBJoCfo4
1615年元和偃武の後は一揆を除いたそれなりの規模な戦いってこのくらいか?

1637年島原の乱
1837年大塩平八郎の乱
1863年天誅組の変、生野の変、薩英戦争、下関戦争、第一次長州征討
1864年天狗党の乱、禁門の変
1865年第二次長州征討
(1867年大政奉還)
1868年鳥羽・伏見の戦い

江戸幕府の安泰ぶりはすごいね

14:人間七七四年
11/02/03 09:56:26 qJ2Ck581
幕末50年を抜かせば平和すぎてビビる

15:人間七七四年
11/02/03 14:23:51 3LEQfAy8
1600後半にそば16文で200年後にやっと20文ということは
政治軍事のみならず経済的も安定してたということでしょう。
これはやっぱりすごいよね。

元禄のあの隆盛が関が原と同じ1600年代というのにもビビる。
普通は2~3代目はポシャるとしたものだが、そっから安定が確実に
なったということは、いかに家康当たりの初期設定が優れていたかと
いうことなんだろなあ。

16:人間七七四年
11/02/03 15:39:56 ZAjTOUER
不安定だと桂昌院あたりのバカ女のせいで破綻していただろうね

17:人間七七四年
11/02/13 21:47:46 LOwnHLE+
石山本願寺って10年持ちこたえたと言われていますが
休戦期間を考慮すると実際の戦闘期間は何年くらいだったのでしょうか?
あと鉄砲のイメージが強くなっていますが、
一揆の主体である国人や坊主や百姓が鉄砲や火薬を調達したり、取り扱ったりできたのは不自然に思えます。
石山や加賀の一揆連中には鉄砲に関する運用や調達に関する何らかの工夫があったのでしょうか?

18:人間七七四年
11/02/15 15:09:15 ldT9RDI+
第一次1570年9月~11月
第二次1573年4月~11月
第三次1574年4月~1575年10月
第四次1576年4月~1580年閏3月
細かく見ていけばこんな感じで6年ほど
一般にイメージされる籠城して強固に反抗したといわれるのは
ここでは仮に第四次としてる最後の4年間が実質当てはまる

鉄砲の扱いついては他の大名家でも主力は国人や半農半武士であり
本願寺勢のそれらが鉄砲を扱っていても何ら不思議はない。

調達に関してはもともと近畿は鉄砲の大産地であり又一向宗門徒も多い
たまたま鉄砲を多く持つ門徒に必死にお願いした系で工夫と言えるかどうか

19:人間七七四年
11/02/15 15:10:52 omyINWEN
>>17
簡単に書くとこんな感じ。

雑賀、根来は鉄砲傭兵として各地に転戦して莫大な金を得た。
その金はその後ひたすら鉄砲製造に使われた。
硝石は輸入以外になかったと言われたことがあったが、
国内(海に面した)大名や豪族は硝石を作ることができた。
輸入品は織田が押えていた部分が大きかったが、国内生産も大きくなっていった。

火薬(黒色火薬・硝石)の製造方法は大友宗麟が献上したものが残っている。

石山合戦の最初のころ(1570年)は、雑賀も根来も織田の援軍として参加している。
「信長公記」には「援軍2万、鉄砲3千丁」と書かれている。

あと詳しくは雑賀、鉄砲で調べて


20:人間七七四年
11/02/15 16:11:53 GJsMzNPH
火縄銃の弾丸はどのように製造するのですか?
西洋では高い塔の上から、溶融した鉛の液体を
ポトリポトリと下の水槽に落として造ってたと聞いたのですが・・・・

21:人間七七四年
11/02/15 16:30:25 STc4wb/o
鋳型を使う

22:人間七七四年
11/02/15 16:36:26 ldT9RDI+
玉型というペンチの先に半球状の凹みがある物を使います。
ペンチを閉じると半球の凹みが合わさって球体の空間ができる
溶かした鉛を小さな穴から流し込む、冷えたらペンチを開いて弾を取りだす
小さな穴やペンチの隙間からはみでた部分のバリを削り取る。弾完成


23:人間七七四年
11/02/15 16:37:02 omyINWEN
ごく普通に、たこ焼の鉄板みたいなのを重ねる(蓋になる方の上には穴が開いている)
そこに溶けた鉛を流し込み、固まったら蓋を外す。
バリを削って完成。


24:人間七七四年
11/02/15 17:30:11 GJsMzNPH
>>21 >>22 >>23 皆さんありがとうございます。
物凄く手間の掛かる作業だったんですね。

25:人間七七四年
11/02/15 17:52:27 2KVPjvMM
>>24
ただし戦陣で合戦の合間にもできるし、女子供でも容易に行える作業で、それなりの熟練と
技能が必要な矢の製造よりこの面でも楽だった。

26:人間七七四年
11/02/15 18:01:38 STc4wb/o
石ころとか陶磁器のかけらとか代用品もあるでよ

27:人間七七四年
11/02/15 23:05:03 t5r73+OV
戦国板は基本過疎っていますが、住人の数はどれくらいだと思いますか?

28:人間七七四年
11/02/16 05:50:09 bYH9EnJ8
八王子だったかでは土弾も出土してなかったっけ?

29:人間七七四年
11/02/16 14:34:27 Vxvyu2x5
>>27
だいたい1日500レスぐらいだしそれ以下の人数、多分200人以下で回してると思う。

30:人間七七四年
11/02/19 20:37:32.00 deL9bvDV
四国の知人から「山本勘助は四国の生まれ」と聞きました。
以前たしか山本勘助は三河の出身だとテレビで言っていたはずですが
最近は四国説になったのでしょうか?

31:人間七七四年
11/02/21 21:55:43.95 lEbvG9Pb
>>30
山本勘助が「参州」の出だ、というのが「参州=三河」ではなく「讃州=讃岐」の
書き間違いだ、という主張が江戸時代からあって、それが山本勘助四国出身説。

正直牽強付会の強い、言葉遊び以上の意味は殆ど無い説だと考える。

32:人間七七四年
11/02/21 22:03:00.18 E4/wU8nu
やっぱり水乞食の捏造でしたか
うどん喉につまらせて死ねばいいのに

33:人間七七四年
11/02/22 01:54:48.31 o7ij/NMw
ござ候を否定形にした場合はござそろわずでいいの?

34:人間七七四年
11/02/22 02:00:18.01 mzsiaKZS
>>32
全くの捏造ではない。毛利の「萩藩閥閲録」に讃岐出身の山本勘助が山口で
大内に仕え、その後武田信玄に仕えた、と言う山口の山本家に伝わる話が収録されてるの。

35:仙台藩百姓
11/02/22 08:19:45.98 5O48GOX7
典型的な捏造パターンじゃんお( ^ω^)
閥閲録は読んだ事ないけど恐らく山本氏は家系図のみだと思うお( ^ω^)
偽造書状が付けられていれば良い方だお( ^ω^)

36:人間七七四年
11/02/22 10:59:12.07 T1WsQSaH
同様な話で山県昌景も山口辺出身とかあるな
毛利は武田にあこがれでもあるのか

37:人間七七四年
11/02/22 13:38:26.57 QUoufZ3H
>>36
山県は山口じゃなくて安芸だw
安芸武田家はそれなりに甲斐の本家と交流があったらしいからな。
そこからそう言う伝承ができたんだろ。

38:人間七七四年
11/02/22 14:06:05.46 xyBoWi+t
>>35
そういえば捏造といえば
仙台藩の捏造・誇張話の類はすさまじいよなあ
見栄っ張りだからってどんどん尾ひれ付いているし・・

39:人間七七四年
11/02/22 15:16:51.14 mzsiaKZS
>>38
真田の捏造にはかなわない

40:人間七七四年
11/02/22 15:31:42.24 xyBoWi+t
>>39
仙台がマズイのは当人だけでなく子孫がどんどん話を膨らませているところ

41:人間七七四年
11/02/22 15:48:49.35 QUoufZ3H
>>40
そりゃ真田も一緒や。10万とか20万の敵と戦ってんだぞあの家の家譜w

42:人間七七四年
11/02/22 16:52:07.12 T1WsQSaH
どこも同じようなものだろ島津の明朝鮮20万とか

>>37
安芸だったね、ありがとう。


43:人間七七四年
11/02/22 21:07:34.48 ZrcSSIip
日本の歴史の場合は「捏造」っていう言葉はあまり当てはまらない気がするがな

44:人間七七四年
11/02/22 22:09:46.54 T1WsQSaH
大袈裟に言うのはもともとは中華の史書の影響だろ
自分や主君の御先祖様の実績を書くんだから盛るのが礼儀だろみたいな

45:人間七七四年
11/02/23 05:22:09.18 qlRH1x6N
東北民はいろいろ誇張したがる傾向が強いけど地元の会津(仙台も?)はとりわけ顕著で
地元でも誇張と知らずに真実だと信じきっている層も少なくない。
早川元市長とか天下り先が白虎隊関連ということもあり
創作の内容を真に受けて山口地方に大人げない誹謗を繰り返しているしなあ。

46:人間七七四年
11/02/23 08:07:38.65 nx6n+v06
真田幸村について
『真田信繁』が『真田幸村』にとなったのは17世紀中ごろに出版された
「浪速戦記(?)」が初だと思ったのですが、さらに元ネタはどこまでさかのぼりますか?
一説には兄の信之が幕府に憚って『真田幸村』という架空の先祖をでっちあげて
葬儀をおこなった、と聞くが?

それと仙台藩の伊達綱村はアニオタの走りで幸村から字をとった、というのは本当ですか?

47:人間七七四年
11/02/23 09:24:26.65 GxmhlQDB
難波戦記な

48:仙台藩百姓
11/02/23 10:15:34.70 1y/lzSpl
島津、上杉(長尾)、武田、後北条何かの捏造はファンタジーと化しているじゃんお( ^ω^)
妖怪が出て来たり生首が空飛んだりお笑いもいいところだお( ^ω^)
でも全国一は上杉(長尾)でしょお( ^ω^)
江戸時代の妄想小説真に受けて何がなんでも謙信が神の如き人物でないと気が済まず
上杉関連書籍は冷静さの欠片もなくひたすら謙信を持ち上げてて非常に気持ち悪いお( ^ω^)
米沢市などは全ての小中校に謙信と鷹山の肖像画飾っているぐらいで
この平成の世になっても上杉家を崇拝させようと必死で北朝鮮そのものだお( ^ω^)
だいたい鷹山はともかく謙信は米沢全く関係ないというのに┐ (´ω`) ┌

49:人間七七四年
11/02/23 15:57:51.56 KHK3KEpr
奇形児の伊達政宗はキモいですか?

50:人間七七四年
11/02/23 16:22:49.61 jrDx+YPk
恥ずかしながら会津藩兵が北越で略奪していた時の事だが
米沢藩は「旧領民を見捨てられない」と奥羽越列藩同盟の会津藩と交戦も辞さない覚悟で
救援に赴いて北越を救ったという。
越後時代への想いは何百年たってもかなり熱いものが残っていたようだね。

51:人間七七四年
11/02/23 18:41:43.07 vdPdQ0B1
>>50
> 米沢藩は「旧領民を見捨てられない」と奥羽越列藩同盟の会津藩と交戦も辞さない覚悟で
> 救援に赴いて北越を救ったという。

という名目で越後に介入しあわよくば越後回復を目論んでいたらしい。
幕末には色々なことがあったが、混乱に乗じた領土拡大を志向していたのは米沢藩だけだな。

52:仙台藩百姓
11/02/23 22:17:26.91 1y/lzSpl
しかも上杉家は降伏後、新政府軍に加わって旧幕軍や列藩同盟の残党を討伐すると言う
イタリア並に節操の無い事言い出し非難を浴びて慌てて取りやめるという恥の上塗りをしているお( ^ω^)

53:人間七七四年
11/02/23 22:40:09.56 Yi7RmoDT
>>52
吉良と秋月の末裔なんだからその程度のことは当たり前

54:人間七七四年
11/02/23 23:22:53.00 1Ayxh4NY
>>53
幕末は当主より家中だろ。
染み付いた上杉の体質。

55:人間七七四年
11/02/24 00:36:01.93 S7TMgBmT
        ____
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\
    /   ⌒(__人__)⌒ \   飢饉さえなければ200万石を超えていた
    |      |r┬-|    |    仙台は日本一の都になっていたはずだ
     \     `ー'´   /

56:人間七七四年
11/02/24 01:08:04.67 3wMCgDfq
太郎太刀についてた窓ってどんなもんなのよ
いまいちピンとこない

57:人間七七四年
11/02/24 01:39:27.39 8Fly0/Wg
>>56
そりゃ落語のネタだ

58:人間七七四年
11/02/24 18:13:36.67 XUFA4x80
天皇に男子が沢山産まれたと思いますが、跡継ぎに関係ない子供らはどこにいって何をしてたんですか?

59:人間七七四年
11/02/24 18:23:43.62 8Fly0/Wg
>>58
寺。

60:人間七七四年
11/02/24 18:46:51.08 8v72flGa
源氏

61:人間七七四年
11/02/24 19:07:55.83 fWu0rgyi
>>58
臣籍降下して賜姓皇族(源氏、平氏など)になる場合もある

62:人間七七四年
11/02/24 19:40:23.69 4Rh7VDEG
>>48>>52
百姓は上杉関連のコメントをもうちと感情剥き出しに語ることなく出来るようになれば、
この板での認知、理解度も上がると思うんだけどなあ
上杉伊達関連以外の薀蓄はわりかし面白くて良い

63:人間七七四年
11/02/25 05:30:34.29 Lh0P9qdg
>22
仙台藩もだろ

64:人間七七四年
11/02/25 05:38:32.57 YDWHFPQA
↑22× >52○
の間違い。

65:人間七七四年
11/02/25 06:37:08.09 QJxk8kb5
仙台藩って武士の数が最大とか威張ってた割に
半分くらいが武士と認められない水増しだったんだよな

虚仮威しというか竜頭蛇尾というか独眼竜w

66:人間七七四年
11/02/25 16:14:36.80 hR7+0HrV
んなこと言ってると糞コテ百姓が涌いてくるぞ

67:人間七七四年
11/02/25 17:14:08.73 B+BjYaNz
民主党の赤松議員 (口蹄疫問題で大臣クビ) は、戦国時代初期の
赤松氏と関係が有りますか?

68:人間七七四年
11/02/25 18:40:34.10 S4F2SHBo
>>67
どっかの流れで繋がりはあるんじゃない?播磨守護赤松家に繋がっているのかどうかはともかく。

69:人間七七四年
11/02/25 20:08:03.93 4XWzXjp+
>>67
旧社会党出身の左翼が名門武家の流れを汲むわけないだろw
帰化朝鮮人だろどうせ

70:人間七七四年
11/02/25 20:12:25.00 qPboOMYr
出ました朝鮮認定w


71:人間七七四年
11/02/25 20:33:27.66 4XWzXjp+
>>70
現実を見ようぜ
実際に旧社会党は在日の巣窟だっただろ
っていうか日本は今や単一民族国家ではない
身の回りに日本人しかいないと思ったら大間違い
俺の昔の家庭教師も日本名を名乗ってたが在日だったし
Wikipediaの日本の住民の欄にも【日本人、中国人、朝鮮人】と書かれてる
日本は日本人だけのものではなくなってる


72:人間七七四年
11/02/25 20:44:20.41 S4F2SHBo
>>71
解ったからお前は早く病院に行ってカウンセリングしてもらえ

73:人間七七四年
11/02/25 20:48:21.80 qPboOMYr
>>71
お前が現実みろや

74:人間七七四年
11/02/25 20:49:50.46 qPboOMYr
気に食わない日本人は何でも在日って
ちょっと活躍した日本人を何でもウリナラ同胞認定する朝鮮人と一緒だと解らんのか

75:人間七七四年
11/02/25 20:52:43.62 6OxbGprZ
URLリンク(kotobank.jp)

76:人間七七四年
11/02/25 21:38:50.01 4XWzXjp+
>>72
おいおいw
精一杯の反論がそれか?
何回も言う【日本は日本人だけのものじゃない】
与党だった時の自民党の中山大臣の「日本は単一民族国家」発言が波紋をよんで罷免にまで至ったのを覚えてないのか?
もし日本に少数の韓国人しかいないなら、そこまで一大事に至らなかったはず
今は国際社会の時代なのに・・・


77:人間七七四年
11/02/26 01:25:11.44 uRCyZ/oe
>>67
普通に明治新姓のような気がするな
この板に赤松氏のスレがあったからそれ読んでみれば?
確か赤松氏のこと研究してる人が子孫末裔について詳しく追ったレスをしてたはずだから

78:人間七七四年
11/02/27 09:30:30.16 li+FApXY
>>69
まぁ、後北条の子孫が公明党の書記長やっていたのだから、事実でも驚く水準じゃない。
それを言うなら、共産党の志位の祖父は帝国陸軍少将だし。

79:人間七七四年
11/02/27 14:08:33.58 CYl4+V7C
大友氏って九州一の大大名ですが
菊池をのっとったり大内や毛利から割譲されたいわば政治的な拡張ばかりで
軍事的に広げた版図ってどのくらいあるのでしょうか?
立花道雪や立花宗茂など猛将がいて国力も他大名を圧倒していたわりに
今山や耳川で敗戦していますしすごいのかすごくないのかよくわかりません。
政治的に割譲された土地>自力で広げた土地だと
ただの棚ぼた大名ではないでしょうか?

80:人間七七四年
11/02/27 16:16:31.59 Ymtb2BOA
軍事は政治の一部にすぎない
軍事力の裏付けがあるから政治力で圧力をかけれる
これは現代でも同じ

81:人間七七四年
11/02/27 19:58:42.75 qv8+zZ8f
戦国鍋を語るスレってないん?

82:人間七七四年
11/02/27 22:08:04.60 YTjmV3bA
割譲なんてされてねーし。
大内ってたぶん陶のことだろうが
陶が義隆を討った後も北九州を支配してるし
陶に謀反した毛利は一時的に大友と手を組んだフリをしたが陶を討った後にさっそく北九州に攻め込んでるし。
旧大内領の豊前筑前の国人たちはみんなガチガチの反大友の鬼ばかりだったといっていい。
博多を維持すべく西の大友と呼ばれた出先機関の立花城や隣の宝満城は陸の孤島状態。
それでも立花道雪死去寸前では筑前を安定させ筑後でも柳川城攻撃までやってる。
大友本隊も豊前をほぼ鎮定してるし。
ちなみに今山の戦いは局地戦であって龍造寺の戦略的不利は覆ってない。


83:人間七七四年
11/02/27 23:41:09.08 AAIskiqg
>>81 もう見つけてるかもしれないけどテレビ番組カテにあるよ
でも文末に顔文字つけるコテハンみたいな人がいて心底ウザイ

84:人間七七四年
11/02/28 02:05:58.19 L6V18igv
九州は武威を見せ付けて平伏させる感じで、
信長や信玄みたいにぶっ潰しての領土拡大をイメージするとちょっと違う感じになるな。
とりあえず強いものに付く、不利になったら降った振りをする、それで許される。
潰された訳じゃないから、隙あらば反抗し、もっと強いものが現れれば雪崩を打って臣従する。
そんな九州戦国時代。

85:人間七七四年
11/02/28 02:18:48.98 8p5mK6lm
>>83
おー、ありがと
ザッと見たけどNGIDにすればだいじょぶかと思う

86:人間七七四年
11/02/28 09:31:49.13 sVMfAV2w
大友ってガチンコでやって毛利に負けそうになって
大内や尼子残党を利用してなんとか追い払った無様な状態。
その後も龍造寺・島津に要所で敗北し、秋月(笑)ですら台頭できるほど九州には隙ができた。
東日本ではありえないな。

87:人間七七四年
11/02/28 18:51:26.76 0pUpnrMk
>>86
大友に毛利がボロ負けしただけ。
ナンデそんなに必死なの?
大内や尼子残党を使う以前に
立花道雪によって小早川隆景隊が大破され毛利勢はすでに追いつめられてたわけだが。

88:人間七七四年
11/03/01 00:32:03.82 QJ4yJBx0
門司城から負けまくって筑前まで押されていて
局地戦で勝ったことをほこられても・・・

89:人間七七四年
11/03/01 02:05:22.31 qvdN4o7e
局地戦なわけねーだろwww
大友と毛利が全軍をあげて決戦してただろ。
そもそも筑前&豊前の国人たちは旧大内配下で反大友なやつらばかり。
毛利はなんら苦労も努力もなく彼らの協力を得られている。
しかも毛利は制海権があり長門周防からの補給も簡単…つか目と鼻の先で対岸見えてるし。
逆に大友は豊後から豊前の敵地である山谷ばかりの地を抜けて長駆補給されてきていた。
結局、大友に撃破され毛利は戦略目標だった商都博多を手に入れることすらできず完全に大失敗。
しかも毛利はこれによる国人たち大動員の褒美や加増ができずに財政をさらに悪化させたまま元就は死去。

90:人間七七四年
11/03/01 06:31:32.01 RzNyh9pt
誘導

毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
スレリンク(sengoku板)l50
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
スレリンク(sengoku板)l50
【シッタカ虚言癖】戦国最強w毛利親子【軍記は史実】
スレリンク(sengoku板)l50
毛利元就って明らかに実力未知数だよね
スレリンク(sengoku板)l50
大友氏について語ろう2
スレリンク(sengoku板)l50

91:人間七七四年
11/03/01 10:28:01.59 cdeKKpvu
おつ

92:人間七七四年
11/03/01 12:52:47.17 ADQjCDor
本当に大友が強ければ毛利ごときに九州を上陸されることもないわけで・・・
そもそも後年になって織田と対峙して困窮していた毛利を後ろから挟撃している割に
長門周防を攻略できなかったのは情け無いにもほどがある。
西日本の大名は質が低すぎる。

93:人間七七四年
11/03/01 14:06:10.12 qvdN4o7e
>>92
当時はまだ毛利に制海権があったから上陸するのは自由だしw
後年の毛利の田原親貫支援の国東半島沖で大友水軍に毛利水軍が大敗した後は制海権も失われたが。
それと信長が島津と大友の和睦を斡旋してたし、挟撃する前に本能寺の変が起きたのも知らんとはバカ過ぎる。
そもそも焼け落ちた山口の都の再興に失敗した毛利が博多を手に入れたくて大友を攻めてきたが、
大友にしてみたら長門や周防に何の魅力も感じてない。

94:人間七七四年
11/03/02 00:26:10.40 74cYmbFG
>>92-93

>>90でやれ
ほんと大友厨も毛利厨もksばっかだな


95:人間七七四年
11/03/05 10:54:39.54 k56FlJuC
かなりの有名人だったはずだったんだけど松井友閑はどこに消えたの?

96:人間七七四年
11/03/05 12:49:03.22 /w5bRdoR
>>95
秀吉に闇に消された

97:人間七七四年
11/03/05 15:11:46.30 tRqiPi7Z
URLリンク(www.4gamer.net)
↑はコーエーが公開した1511年のシナリオですが
このころって蝦夷のアイヌと戦ってた頃ですよね?
蠣崎が安東から独立したのはいつごろなのでしょうか?

98:人間七七四年
11/03/05 15:14:22.60 tRqiPi7Z
あと秋月って少弐か大友かどこかの家臣でしたよね?

99:人間七七四年
11/03/05 15:21:13.90 vWdLUPRO
>>97
明確に独立したのは秀吉の奥州仕置き辺り
大名になったのは江戸中期

100:人間七七四年
11/03/05 15:23:19.46 tRqiPi7Z
>>99
ありがとうございます。津軽とおなじような境遇なんですね。

101:人間七七四年
11/03/05 16:27:37.04 cDQlARAJ
>>97
1511年ってまだ義興の時代だよな

102:人間七七四年
11/03/05 16:34:24.94 vWdLUPRO
仮想シナリオでその辺は全くの適当だそうだ

103:人間七七四年
11/03/05 16:54:00.92 /JfN4q6l
蒼天録の北条早雲シナリオは神過ぎる。


104:人間七七四年
11/03/06 16:09:28.64 Xot+VGf4
光秀=天海?



105:人間七七四年
11/03/06 16:58:16.94 wHsYteyK
違う

106:人間七七四年
11/03/07 03:24:35.93 8wXhm24i
>>97
なんだ1511年の船岡山合戦かよ。

蒼天録にあった下記のシナリオも入ってるなら購入確定なんだが。
1495年 駿河の梟雄 小田原城奪取した早雲
1507年 三人の養子 細川政元暗殺


個人的には1486年 当方滅亡!(道灌暗殺)なんてのを入れて欲しい。
 

107:人間七七四年
11/03/07 14:31:16.95 PswEvpXb
関東戦国乱世突入と言えば長尾景春謀反自立

108:人間七七四年
11/03/07 21:31:37.69 oqhOsmNs
戦国関連の本の人物紹介などで、○○藩主とかって書かれたりするんですけど、藩云々って江戸幕府が出来てからですよね??

109:人間七七四年
11/03/07 21:39:46.55 mANAbvO9
>>108
江戸時代まで生き残った人物なんじゃないの?
たとえば誰に書いてあるんだ?

110:人間七七四年
11/03/08 15:37:55.92 AChvKMWc
そもそも藩という言い方が一般化したのは明治になってからで、
坂本龍馬も「土佐藩士」ではなくて「山内土佐守家中(または家来)」と言われた。

と言っておこう。

111:人間七七四年
11/03/08 15:50:03.13 DY233kST
ただ自分が所属している大名家を「藩」と呼ぶのは江戸後期に漢学を学んだ若い学生や
インテリの間には広まっており、龍馬自身は「藩」と言っていた可能性は高い。

一人称としての「僕」の使用と似たような感じだな。

112:仙台藩百姓
11/03/08 17:55:47.77 fa1P9gAN
藩翰譜というものもあるものね( ^ω^)
大名を差す言葉としては古くからあるものだお( ^ω^)

113:人間七七四年
11/03/08 18:35:09.58 UlYaPVSI
古くって日本では何時からだよ。

114:人間七七四年
11/03/08 18:51:23.25 f/OsFQRc
少なくとも新井白石の頃にはあったわけだ

115:人間七七四年
11/03/08 21:26:06.62 ymsPAwBM
新人物往来社の事典だと、豊臣大名にも平気で「藩」を使っているな。

116:人間七七四年
11/03/08 22:10:03.64 UyAF+X7L
大便をした後に尻を紙で拭く習慣って戦国時代にはあったの?

117:人間七七四年
11/03/08 22:20:10.42 yT26CVFQ
あったが紙が高価だったので一般的ではない

118:人間七七四年
11/03/09 14:13:10.62 jbd1imxs
>>116
縄だよ縄。
前後にゴシゴシこするんだ。


119:人間七七四年
11/03/09 14:18:10.75 jbd1imxs
>>116
あ、追加で、スプーンみたいな木のヘラで糞を取るという方法もあった。
「そっぺら」と呼ばれていた(前田慶次の逸話の中にその話がある)

120:人間七七四年
11/03/09 23:46:20.13 HYtFrZE7
秀吉時代の大坂城内では、そこら中で立ち小便したり啖を吐いたり非常に汚かったと何かの本で読んだ事があるのですが本当でしょうか?
事実とすれば犯人は誰と思いますか?



121:人間七七四年
11/03/10 13:32:52.13 ufhgWC2N
さすがに大はほとんど無かったと思うよ。
人が大勢出入りする場所だから、小はかなりあったんだろうな。
江戸城では、そうならないように現在の金額で数十万円に相当する罰金を科していた。

大阪城の犯人は男も女も全員じゃねえの?
上方の女は立ちションをするといって江戸っ子が驚いたという話もある。

122:人間七七四年
11/03/10 15:16:41.69 AoYJ5krG
室町幕府で重きをなした名門といえば
三管領・・斯波氏、畠山氏、細川氏
七頭(四職)・・(山名氏、一色氏、京極氏、赤松氏)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏
武者頭・・吉良氏、今川氏、渋川氏
これらがあげられますが

六角氏や武田氏や佐竹氏などの源氏の名門や
地方の有力者である伊達氏や少弐氏や大内氏や大友氏などには
なにか呼称はないでしょうか?

123:人間七七四年
11/03/10 16:07:00.18 NjN3kGqd
>>122
> 七頭(四職)
七頭の存在は現在否定されています。室町幕府の序列は

三職・御相伴衆・国持衆・准国持両人

であったとされる。

で、御相伴衆が
山名・一色・阿波細川・能登畠山・赤松・京極・大内
の七家家督に限定。

六角は「国持衆」に含まれる。

甲斐武田や佐竹は鎌倉公方の管轄下の「国持衆」だな
少弐や大友は九州探題管轄。伊達は大永三年(1523)以降は陸奥国守護家、でいいと思う。

124:人間七七四年
11/03/10 16:12:25.92 ufhgWC2N
関東八屋形(御屋形様と言うのはここから)とか管領代とか、

125:人間七七四年
11/03/10 16:14:08.71 AoYJ5krG
ありがとうございます。
地方の有力者にも序列があったのですね。

126:人間七七四年
11/03/12 15:53:06.09 GWoWLBQf
おーい 仙台百姓 生きてるか?

127:人間七七四年
11/03/12 17:07:18.70 g0mSb/Jq
東北の人の無事を祈るのみです

128:人間七七四年
11/03/14 09:50:49.42 3QydruoC
質問いいでしょうか。風魔小太郎の伝承についてです。

小太郎の外見についてなんですが、昔どこかで女性の様な外見で老人の様な声だった
という伝承を見た記憶があるのですが、詳しいことは忘れてしまいました。

グーグルで調べてみても巨体だった等の伝説以外拾えずお手上げです。

誰か詳しい人がいるでしょうか。



129:人間七七四年
11/03/14 12:53:36.00 EJUvCXII
江戸時代に講談の中の一人物として書かれたものだよ。
受け狙いのためには、怪物にした方がいいから。
風間出羽の守という武将はいたのは当然承知と思うが、
服部半蔵と同じく忍者ではなく、忍者を率いた元締め。

講談「真田十勇士」で超人的忍者が持て囃されたこともあってこうなった。
当たり前のことしか書けない、あしからず。

130:128
11/03/14 13:20:54.36 3QydruoC
返答ありがとうございます。

妙齢の女性の外見で老人の声という伝承は他所物に姿を特定させない為の
工作に尾ひれがついた結果かな、と個人的に思っています。

知りたいのは私が昔聞いたその話の元ネタです。
多分光栄系のゲームの人名ファイルあたりだと思うのですが、
適当に書かれたものでなければ元になった資料なりがあると思います。
そのあたりご存知の方はいないでしょうか。

131:人間七七四年
11/03/14 13:46:20.76 EJUvCXII
5代目小太郎
『北條五代記』・「三十九 関東の乱波智路の事」

それ風摩は二百人の中に有てかくれなき大男、
長七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、こゝかしこに村こぶ有て、
眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。
かしらは福禄寿に似て、鼻たかし。
声を高く出せば、五十町聞え、ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり。

132:128
11/03/14 18:28:07.19 3QydruoC
>>131
重ね重ねレスサンクス

やはりそれしか伝承はないのか。
とすると何らかの思い違いだったのかな?

わざわざ答えてくれて有難う

133:人間七七四年
11/03/15 01:20:29.49 yEPea1lz
織田信長が上総介を僭称(追認されたけど)したのは有名ですが
どうせ畠山氏の世襲官位を僭称するなら尾張守を僭称したほうがいいとおもうのですが
なぜわざわざ尾張と関係ない上総介を僭称したのでしょうか?

134:人間七七四年
11/03/15 10:34:26.17 lwwF2jTP
上国の尾張に比べ大国で親王任国と格が高いからじゃねかに、

135:人間七七四年
11/03/15 13:55:16.13 xwk8d+RW
尾張守は義輝の時の最初の上洛で貰えたんじゃなかったか?
>>132
影武者徳川家康では小柄な優男だったね。
「ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり」
(老人が諭すような奥深い声で話す)からいろんな小太郎が生み出された、と

136:人間七七四年
11/03/15 14:51:20.47 Gcm1jiOY
信長が上総介を名乗ったのは元服直後の家督相続前からであり、
その時点で尾張守を名乗るのは流石に他の尾張国内の勢力に対し挑発的すぎるからかと

137:人間七七四年
11/03/15 16:04:20.30 64bNwiX6
>>136
上総守と名乗ってた辺りそこまで深く考えてない気がする

138:人間七七四年
11/03/20 00:32:03.72 C+FfimhF
正義の戦ってありますか? またはありましたか?

139:人間七七四年
11/03/20 07:35:15.90 sal0heWR
>>138
誰も皆自分の信じる正義の為に戦ってる。

140:人間七七四年
11/03/20 12:30:39.38 Pi/w1yaA
今織田信忠を調べているのですが
信忠を学問的に研究していて尚且つ手に入りやすい資料ってありますか?

141:人間七七四年
11/03/20 12:37:47.05 eDImjFgV
今は調べる=人に聞く
って構図なのかな?

142:人間七七四年
11/03/20 14:51:44.56 zpstknIl
秀吉はほんとは猿って渾名じゃなく禿鼠って呼ばれてた説が主流だけど、猿説はどっから出てきたの?
猿って書かれた当時の資料はほんとにないの?

143:人間七七四年
11/03/20 15:39:34.94 2p0uaeyg
資料と言わず「史料」と書いてくれ。
一次史料の手紙や貴族の日記には一件もない。
「信長公記」にも宣教師の記録にも載ってないね

144:人間七七四年
11/03/20 16:32:05.28 VceSdsiH
>>142
聚楽第に書かれた落書き

「まつせとは へちにはあらし木の下の さる関白を見るに付けても」

他にも日吉大社の神の使いは猿だからとも。

145:人間七七四年
11/03/20 16:46:43.26 lHL41evB
冠つけた猿の項羽の故事に重ねてる。

146:人間七七四年
11/03/20 17:47:48.62 FiDCeB1I
秀吉が猿というのは宣教師の記録に出てくる。
あとまだ織田と毛利が対立していない頃の、京に出張した毛利家の家臣の記録で、
秀吉の出陣風景を見て「話しに聞いてたけどたしかに猿そっくり」って書かれている。

147:人間七七四年
11/03/21 11:12:54.66 jSOWxYbm
>>142
そもそも禿鼠は世間からではなく信長からのあだ名である事に注意な。

148:人間七七四年
11/03/21 12:24:58.25 u/nQO53v
朝鮮出兵を聞いた蒲生氏郷

「猿め、死に場所を失うて狂うたか」




149:人間七七四年
11/03/21 22:55:30.53 wgzyXpan
江北に国友村という一大生産地があったにもかかわらず
浅井や近隣の朝倉、斎藤といった大名家の戦記もので
鉄砲隊を編成して戦闘を行った記述があまり見受けられないのですが
織田家の支配下に収まるまでは生産力はあまり無かったのでしょうか

150:人間七七四年
11/03/21 23:00:38.22 1Ly9naeR
滅んだ家の記録は残りにくい。
あと鉄砲を使うのがあまりに普通のことだったから記録されなかっただけです。

151:人間七七四年
11/03/21 23:13:44.68 wgzyXpan
>>150
なるほど、ありがとうございます
浅井や朝倉、斎藤家にも鉄砲の名手なんかがいたら記述も残ったのかもしれませんね

152:人間七七四年
11/03/22 14:02:44.77 Em/ZISRY
浅井、斉藤が健在のころの鉄砲は、戦いを始める合図のようなもので、
本格的に殺人兵器として活用されたのは信長台頭のころからだよ。
それまでは、鉄砲隊の指揮官にされたと言って恥じる武将が多かった。
記録に残っていないのはそんな理由も。

153:人間七七四年
11/03/22 14:14:25.70 vBQBXqLw
大谷吉継の幼名ってけいまつなんですか?のりのすけなんですか?

154:人間七七四年
11/03/22 15:01:56.30 FVw2YyFe
>>152
ないない。三好長慶の時代にはすでに大銃撃戦が繰り広げられておる。

155:人間七七四年
11/03/22 16:32:25.51 IcoXmZnZ
織田厨はデタラメはくから相手にしない方がいいよ。
信長云々以前から紀州の坊主どもが鉄砲の使い手として関東にまで技術を伝播させてたしな。

156:人間七七四年
11/03/22 16:42:45.38 jIBgJF++
信長が使い始めたと言うのならデタラメになるけど、
信長が台頭したころから各地で使われたというのならそれほど間違ってもいない

157:人間七七四年
11/03/22 16:54:35.69 +zQ8+Ds8
信長の台頭(時期)の定義による

158:人間七七四年
11/03/22 21:28:32.13 nycl53nE
安房里見氏は小田原の役で秀吉に与したのに、なぜ上総領を没収されたんですか?

159:人間七七四年
11/03/22 21:32:43.61 23FVCgio
小弓公方再興なんて余計なことをやってたから。

160:人間七七四年
11/03/23 05:46:10.82 8BamesrP
そもそも鉄砲を豊後の猟師が使用してるのを見て
それを学んだ薩摩商人の岸和田が創始した岸和田流の炮術があってだな、それを関東に広めていったと言われている。
また根来衆の杉房や二王坊という者もおそらく同時期くらいに関東に広めてると思われる。
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信長が道三との会見で鉄砲を大量所持していたとしても
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのか疑問。
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富はとてつもないものだったろう。

161:人間七七四年
11/03/25 20:05:57.14 tjtgJUiJ
織田信長亡き後、織田家の家臣達はあまり織田家を大事にしていないというか守ろうとしていないような感じがします。
織田宗家の遺領を家臣達が分配した事に関しても当時の僧が書かれた「多門寺日記(?)」にも痛切に皮肉られているし。
信長と幼馴染と言われていた丹羽長秀、前田利家、池田恒興等も秀吉の織田家簒奪に早い時期から手を貸しています。
その理由は信長が恐怖で支配していたせいで人望が無かったせいなのでしょうか?



162:人間七七四年
11/03/25 20:24:16.40 D3qnQPAP
>>161
簡単にいえばそうするしか無かったため。

そもそも信長の体制は組織や仕組みが殆ど未整備で、よくも悪くもその地域を任された人間が
個人的技量で統治する、というものだった。

信長が生きていたときはそれらを信長が統帥していたのだが、信長という核がなくなった以上、
個人的技量による統治を拡大せざるを得ない。そのため、無論諸将の欲得の面もあるが、
現実問題としても織田家勢力圏を保持したいのなら、その分割という手段を取らざるを得なかった、
と考えていいかと。

163:人間七七四年
11/03/26 00:49:18.24 QGQHEGxH
質問です。
戦国時代にはキリスト教が広がっていく中で国内に教会が存在したと聞くのですが、
それがどのようなデザインの建築だったのかわかる絵などは残っていないでしょうか?
西洋そのままのデザインだったのか日本風になっていたのか気になるのですが。

164:人間七七四年
11/03/26 01:05:58.52 L9tlkcyw
>>163
仏教の寺と同じ。なのでヨーロッパから来た宣教師の一部から現地化し過ぎだと
文句が出ておる。

165:人間七七四年
11/03/26 09:19:06.35 b8OUVB0W
>>163
最初の教会である山口の大道寺は廃寺を改築したものとか・・・

166:人間七七四年
11/03/26 10:16:23.72 QGQHEGxH
>>164
>>165
ありがとうございます。
では教会と言ってもせいぜい十字架がついてる程度の寺ってイメージでいいんですね。

167:人間七七四年
11/03/26 10:41:21.85 vtgtd3H4
>>163
ありがとうございます。勉強になります。

信長は絶大な権力を持っていたけど、実の所は彼のカリスマ性によって支えられて
いた脆さのある危ういものだったんですね(まあ独裁というのはそういうものでしょうし、
信長は軍事的勝利優先で内政までは手がまわらなかったのでしょうが)。

もう一つ伺いたいのですが、信雄が家康へ助力を求めた事によって小牧・長久手の戦いが起きますが
家康が信雄に手を貸したメリットは何なのでしょうか?
勿論家康も信雄を利用して権力拡大を狙っていたとは思うのですが、当時秀吉は光秀、勝家に勝利し日の出の勢いが有り、
信長から引き継いだ圧倒的な軍事力、兵力に経済力がありました。
信雄の単独講和という結果になりましたが、秀吉が全力で攻めれば負けていた可能性が高いと思います。
結果論秀吉は家康は自分を高く売る事が出来ましたが、下手したらヤバかったかもしれません。

168:人間七七四年
11/03/26 11:12:12.58 jOyJhmuJ
>>167
>秀吉が全力で攻めれば負けていた可能性が高いと思います。
秀吉はそうは思わなかったから信雄と単独講和に持ち込んだ訳ですが。家康にとってはむしろ
今秀吉を叩いておかないと手をつけられなくなる、という絶妙の機会だったと思います。
三方原の事を思えば一度も手合わせする事無く、秀吉に臣従するはめになるのはいやだった事でしょう。

169:人間七七四年
11/03/26 12:14:07.53 L9tlkcyw
>>167
家康側の理由としては、本能寺後の天正壬午の乱での甲信への介入も「織田政権」『公儀』の
意思として行っており、事実家康の軍事行動は「織田政権」、信雄、信孝、秀吉、柴田勝家、
丹羽長秀などの全面的な支持と援助のもと行われている。

家康の甲信進駐の名分がそうであった以上、その安定も「織田政権」の支持を必要とする。
特に真田、木曽、小笠原といった大名クラスの勢力が多い信州ではそうだった。

そしてこれは案外知られていないが、賤ヶ岳の過程で秀吉、丹羽長秀、池田恒興は
清洲体制の崩壊と共に三法師の擁立を断念。天正11年10月28日、新たに
織田信雄を織田家家督に据えた。
この事は秀吉から家康にもその同意を求める書状が送られている。

賤ヶ岳の結果信孝も滅亡し、公的にも事実上も織田家を代表するのは信雄となった。
つまりかつての織田徳川同盟の流れから言っても、また新領地の支配安定のためにも
家康に取っても、信雄との同盟は現実的に必要だった。

その証拠に小牧長久手の後秀吉と信雄との間に単独講和がなると、信州の小笠原、木曽、真田は
秀吉の側からの工作もあってすぐに家康から離反している。徳川の支配のための名分と
バックアップが崩れたためだ。

それでも秀吉への臣従まで甲信を保持し得たのは家康の器量だが、とにかく家康にとっても、
信雄を助けるのはその生存に関わる重要性を持っていた事は理解されていい。

170:人間七七四年
11/03/27 01:42:46.99 nl7jDLQN
気になったのですが、
例えば父親が源氏でも母親が平氏だからと平氏を名乗ったりなど、
母系を根拠に氏姓などを名乗ることはできたのでしょうか?
もちろん、名乗ることは自由だったでしょうがそれが文化的にある程度は
正当性があると受け入れられたのかという意味です。

171:人間七七四年
11/03/27 01:48:00.18 5bFMKcw+
母方の実家に養子に入るパターンとは別にってこと?

172:人間七七四年
11/03/27 02:44:48.63 kEHtfynE
家の血統は父系だからなあ
正直、通常はまずないと思う

173:人間七七四年
11/03/27 12:27:16.73 krstTaR/
>>168
169
 ありがとうございます。

174:人間七七四年
11/03/28 05:54:43.10 yckgLFyE
堀越公方や古河公方と仲が良い関係者がよくわかりません。
北条だけでなく幕府や両上杉や武田信虎とか周辺の大名だけでなく
遠方の大内もどちらかの派閥だったそうですね。
それぞれの派閥に与した勢力を教えてください。

175:人間七七四年
11/03/28 08:39:03.01 EJrOCVgE
>>174
時期によってずいぶん変わるが、堀越公方だと

・初期
堀越公方-山内・扇谷上杉-今川-幕府
・中期
堀越公方-扇谷上杉-甲斐武田
・末期
堀越公方-甲斐武田

古河公方だと

・初期
古河公方-結城-小山-宇都宮-那須-小田-千葉-真里谷武田-里見-長尾景春
・中期(河越夜戦以前)
古河公方-山内上杉-北条
・後期(河越夜戦以後)
古河公方-北条

176:人間七七四年
11/03/29 07:27:27.48 HvNNJ5gm
>>175
ありがとうございました
やはり情勢はめまぐるしく変わってますね

177:人間七七四年
11/03/29 16:43:28.25 C7A/BqTr
>>176
【安房・上総】里見氏を語るスレ2【関東副将軍】
スレリンク(sengoku板)

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/08(金) 20:20:54 ID:JogweBBA
古河公方の影響力がほとんどなくなるのは何年あたり?

そのあとは誰が和睦調停をやったの?
166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/25(木) 21:23:49 ID:p2nffH7V
>>102
調べた。
古典的な研究だが1986年の『古河公方の権力基盤と領域支配』市村高男 によると
天文末から永禄半ばまでは佐竹・結城・那須・小山・江戸らの年頭挨拶が確認できる。
しかし、天正二年の関宿陥落と、北条氏康による古河公方権力の吸収以降には
里見・佐竹・宇都宮・那須の出仕は確認できないとのこと。
これ以後は北条傘下の諸氏だけが出仕したそうな。
房総で言えば臼井・国分・千葉・高城・村上・大坪ね。

ただし、結城・山川・常陸行方衆に限っては、北条に対立する勢力にも関わらず
天正5,6年まで出仕が確認できるとのこと。
彼らは独自に古河公方と強力な結びつきを持っていたのがその理由。
いわゆる天正六年の佐竹=結城=宇都宮=那須の反北条同盟が契機になってるみたいだな。

178:人間七七四年
11/03/29 20:20:03.62 83LJXN1N
戦国時代の性生活について質問

・男女それぞれ何歳くらいで褥をともにしていたか? 特に前田利家は鬼畜と言われなかったのか?
・結婚できる続柄の限界は? 伯父姪、伯母甥で夫婦になったのもいるが?
・某小説で家康は早漏と描写されていたが当時はそれが普通だったのか?
・質問じゃないんですけど横山マンガで雑兵がレイプの順番をちゃんと守って
 行列してたのが可笑しかった。

179:人間七七四年
11/03/30 07:21:39.59 OQeVMWPf
新潟県の津川城は戦国・江戸時代は陸奥国所属と思ってたんですがこれは間違いですか?
ぐぐってみたら越後津川城って書いてる場合が一番多く、次が会津津川、陸奥津川
は0でした。




180:人間七七四年
11/03/30 13:47:14.36 OUkTet3U
>>179
ちゃんと調べた訳じゃないけど、会津領だから陸奥国になるって事じゃないでしょう。
国境と何処の支配なのかは全く無関係です。

181:人間七七四年
11/03/30 19:06:09.17 OQeVMWPf
>>180
レスありがとうです。津川城は蒲原郡なんで↓の説明から
URLリンク(ja.wikipedia.org)
津川城の場所は越後国が正しくて、陸奥国は自分の勘違いっぽいです('A`)

182:人間七七四年
11/03/31 16:50:34.96 1wKeE7UB
>>178
・当時結婚は女13歳が平均的な年齢だから、松が12歳というのはそう珍しいことじゃないだろ。
 初潮が始まるまで床入りは控えるという武将もいたようだが。
・太古の昔は兄妹もあったが、宗教や儒教の普及で伯父姪が限界。
・家康の側室は年増とロリの両極端がいて、年頃(10代後半)てのがいない。
 ロリが年頃になると興味を失いまた、若いのを求める(と想像する)。
 それが家康の興奮を高める女の条件、興奮度合いが高ければ早くイクわな。

183:人間七七四年
11/04/01 17:18:17.72 htBb5gn1
続柄に関しては宗教や倫理よりも
婚姻によって家同士を結びつけるのが最重要課題だから
近すぎる間柄と結んでも勿体無い、という面の方が大きかったんじゃなかろうか。

184:人間七七四年
11/04/02 07:33:00.96 aJyyvUBO
森成利(蘭丸)って講談やらのイメージが優先されてるだけで、特に優秀だった訳では無いとよく言われますが
嫡子でも無く、めちゃくちゃ名門という訳でもないのにあの歳で城主になり
かなりの領地を与えられたのは、やはりなかなか優秀だったからなんじゃないでしょうか
それとも、同じような例は他にいくつもあるのでしょうか

185:人間七七四年
11/04/02 09:29:30.15 MQ8PMRJe
>>184
取次役は色々な能力が要求されるから無能では務まらない。
だから相応の能力があったことは間違いない。
が、森家の場合は可成の討死までの一貫した忠義もあって特別扱いを受けている側面もある。

何より活動期間が短すぎて総合的な能力を評するにはデータが少なすぎるんだよな。

186:人間七七四年
11/04/02 13:27:29.63 ZcG8zz5e
信長の申次は何人もいるが、森乱丸は信長最末期には最重要地域である畿内関係を
一手に引き受けていた感がある。
信長による森家重用方針があったのは勿論だが、それを置いてもやはり優秀だったのだろう。

187:人間七七四年
11/04/02 17:42:42.97 aAyQqeEM
>>186
それは流石にソースを聞きたい。
谷口などは現存する史料からは大した事はしてないとしてるが

188:人間七七四年
11/04/02 17:51:51.38 HJPqIWrh
よく、信長がもし天下を取っていたら日本は朝鮮の一部まで領土にしていたはずとか、
日本ではこんな政治が行われていたといった内容が書かれている本がありますが、
ああいったものは何を根拠に書かれているのでしょうか?
生前に信長が天下を取ったら海外遠征したいとか、海外と貿易を活発化させたいなど
彼の政治の青写真のようなものが記された史料が存在するのでしょうか。

189:人間七七四年
11/04/02 18:02:29.03 piQ+elsC
>>188
ほとんど誇大妄想であり
はっきり言うと著者の願望でありデタラメ


190:人間七七四年
11/04/02 18:47:48.98 VCdIm5IM
もし~だったらっていうのだから妄想以外の何者でもないよなw

191:人間七七四年
11/04/02 18:51:30.69 HJPqIWrh
ありがとうございます。
信長が生きてた場合のシミュレートってほとんど妄想だったのですか…
信長がどんな形で日本を統治し政治をしたはずとか
一体どうやって分析してるのか気になってたのですが。

192:人間七七四年
11/04/02 19:56:56.27 1oo6Dm0e
>>188
フロイスの日本史で
「日本を制圧したら一大艦隊を率いて~」がある。
それしかない。

そもそも、信長の政治の実態も、軍の実態も、確実なことは何も分からないのが現状。

193:人間七七四年
11/04/03 06:53:17.06 8bYzQONm
大阪城の浪人衆で真田信繁だけが幸村として神格化され有名になったのは何故でしょう?
大阪の役での功績ならば毛利勝永や明石全登も劣らないはずでし、
キャラクター性というならば長宗我部盛親や後藤基次の方がキャラが立ってると思います。

194:人間七七四年
11/04/03 09:12:42.26 z95C7d5d
徳川軍を撃退した事がある真田昌幸の息子だからじゃないの

195:人間七七四年
11/04/03 10:47:41.42 JE/8rt2b
幕府軍を苦しめた大阪城の出丸が、信繁が作ったわけでも無いのに何故か「真田丸」と
呼ばれたためだろうな。はっきり言ってそれだけだと思う。

ちなみに「真田丸」の主力は長宗我部勢。

196:人間七七四年
11/04/03 10:55:54.94 ZOKqIO92
>>193
実際に徳川陣に最も深く侵入したのが真田だった事(ただし家康本陣は全くの無傷)と
冬の陣での真田丸での活躍もあり、まぐれでは無いとされた事
これらにより、もしかしたら、あと一歩進めたらと、
想像を膨らませるのに真田が最適だった訳やね

197:人間七七四年
11/04/03 11:31:03.99 9gUms4wk
ロマンとしては武田軍略の栄光の残照として
講談としては甲府や信濃や上野の山河を根城に活躍した忍軍の頭目として
滅びの美学を描くのに最大限の効果があったから。


198:人間七七四年
11/04/03 14:29:35.78 tmSPoxXn
子孫が生き残ったのも大きいな。
仙台藩に仕官し、のちにインダビューを受けてる。

199:人間七七四年
11/04/03 18:33:17.15 EspPTfbp
ほんとに片倉守信が信繁の血を引いてるのかねぇ?
すごい怪しいけど。

200:人間七七四年
11/04/04 22:06:22.76 q+I/C7KC
>>199
片倉重長の後室に真田信繁の息女が入っているし、その係累で召抱えられて片倉氏を称したというのも
そう不自然でもないし、信じていいんじゃないか?

201:人間七七四年
11/04/05 06:54:56.49 GqC8k9EV
その息女も充分怪しい
伊達の自称だし

202:人間七七四年
11/04/05 20:51:38.58 DfTN+Ncr
花押とは現代で言うと、印鑑みたいな物なんでしょうか?

203:人間七七四年
11/04/05 21:02:47.89 5BduoJx7
署名やね

204:人間七七四年
11/04/06 00:44:05.24 ER2OZLeh
武田家の家臣における城主と城代の違いは、重臣の格の違いだけですか?

205:人間七七四年
11/04/06 00:47:18.67 Gxi8CuwB
>>204
城主はその地域の領主でもあるが、城代は役人、軍務官僚だ。

206:人間七七四年
11/04/06 01:02:46.84 ER2OZLeh
>>205
それで高坂さんも最前線の城ということで城代なんですね。
ありがとうございました。


207:人間七七四年
11/04/06 17:40:18.22 F6hzjLnA
加藤清正が文禄の役の時に李臣舜が水軍で指揮を採っていて追い詰められた時に隙を見て水中から指揮を採り敵の李の船を撃沈させた話がありますが、加藤清正は今で言うウェットスーツみたいな物を着ていたのですか?
どうやって水中から指揮を採ったのですか?

208:人間七七四年
11/04/06 23:19:28.89 Gxi8CuwB
>>207
当時の「水中」は「水の中」という意味ではない。
水に浸かった状況で、とかその程度の意味だろう。

209:人間七七四年
11/04/06 23:23:44.19 tRWhGo/2
戦国時代の青銅製前装砲に触れた書籍はありますか

210:人間七七四年
11/04/07 19:14:58.53 2NU7wpkk
戦国時代に蠣崎氏がアイヌと何度か紛争を起こしていたと聞いたのですが
当時のアイヌ民族の武器というのはどういったものだったのでしょうか?
あまり銃や刀をなどを使ってそうなイメージはないですが。

211:人間七七四年
11/04/07 19:46:48.25 dN9l59Ec
>>210
毒を仕込んだ吹矢

212:人間七七四年
11/04/08 15:39:16.39 ceQjqxKT
>>211
ありがとうございます。
吹き矢ですか、確かにそう言われると使ってそうな雰囲気がしてきます。

213:人間七七四年
11/04/08 18:37:52.49 736FH7ov
主力はアイヌ短弓、槍類、アイヌ曲刀な

214:人間七七四年
11/04/09 20:31:54.81 DUkXCfM2
合戦で、「先に動けば不利」というのは、どういう状況なのでしょうか?

215:人間七七四年
11/04/09 21:16:48.89 HLEolBKd
>>214
「先に動けば不利な状況」としか言い様がない。
個々それぞれに様々、だよ

216:人間七七四年
11/04/10 05:15:04.86 qBPAFGT9
後出しジャンケンをすれば先出しに対して対策を立ててから行動できるから。
しかし先出し側が罠をはってる場合はその限りじゃない

217:人間七七四年
11/04/10 12:38:14.75 9CAyBMCj
夜になったらお家に帰れる状況

218:人間七七四年
11/04/10 12:42:14.88 3Hd5XTfb
夜襲ってたいてい仕掛けたほうが勝っているよな

219:人間七七四年
11/04/10 12:56:36.78 eJNZJ7yo
物語上ではね

220:人間七七四年
11/04/10 13:29:07.81 HSQpv5Zj
実際、真っ暗で目の前すら見えないので同士討ちをしたり
迷子になって敵にバレたり、
示し合わせた時間に到着できなかったりで
夜襲なんてやらない。
やるのは明け方の寝込みを襲撃だから。

221:人間七七四年
11/04/11 02:42:32.75 d8aAadya
勢力の大小によって、価値は変わるけど、敵の大将首って、実際はどれぐらいの価値だったんだろう?

下っ端の足軽でも、大将首取ったら、村や町が一つ二つ貰えたぐらい?

222:人間七七四年
11/04/11 08:37:36.75 lvNgAyPo
>>221
戦闘ユニットのボスの手柄になる

223:人間七七四年
11/04/11 21:46:30.43 d8aAadya
>>222レスどうも、じゃあ、下っ端はそのボスからどれぐらい貰えるんだろう?

224:人間七七四年
11/04/11 22:03:20.72 LuUInu8N
侍に取り立てられるくらいはするんじゃない

225:人間七七四年
11/04/11 22:36:24.72 AgdK8ivA
足軽でも直々に恩賞ぐらい与れないの?

226:人間七七四年
11/04/11 22:46:42.21 LNgFXJt+
具体例挙げた方がよくね?
大将首上げた実例がそもそも乏しいわけだし

227:人間七七四年
11/04/12 01:03:25.46 hcb0G+Yb
敵陣に突っ込むのは侍の役目。
落ち武者狩りはともかく足軽が大将首上げる事はまず無いんじゃ。

228:人間七七四年
11/04/12 14:24:58.92 PgE6i0J+
桶狭間のとき、毛利新助の身分はどのくらいだった?

229:人間七七四年
11/04/12 18:33:20.07 sD8G39HW
馬廻り。親衛隊士のひとり。

230:人間七七四年
11/04/12 19:38:05.76 9J7qTH/f
>>223だが、皆レスサンクス。

ふと『どれくらい褒美が貰えるのだろう?』と思って聞いてみたけど、やっぱ、下っ端の足軽が手柄立てるのは難しいんだな…


231:人間七七四年
11/04/12 19:54:12.64 sDxIXdnN
雑兵から出世するなら、先ず経理部門(奉行)から

232:人間七七四年
11/04/12 20:21:42.81 4nJDp+eN
じゃ、落ち武者(割と大物)を狩った百姓はどれぐらい恩賞にあずかれるのかな?

233:人間七七四年
11/04/12 20:38:27.91 LaKUvIAJ
どういう状況かにもよるが、基本落ち武者狩りは惣村の共同作業なので
落ち武者を殺したり捕らえたりした村には納税の免除など負担の軽減が与えられる場合が多い。

234:人間七七四年
11/04/13 05:07:09.32 szTwUTY2
明智光秀の水色桔梗の「水色」というのは現代人が想像する水色と同じものなのでしょうか?
ドラマやアニメなどを見ていると非常に鮮やかな色になっていますが。

235:人間七七四年
11/04/14 11:51:15.07 GdMpPXVG
徳川は関東では他所者にも関わらずなぜすんなり統治出来たの?
国人の反発とかなかったの?

236:人間七七四年
11/04/14 12:10:12.49 yEyey1wz
風魔の跳躍など一部北条旧臣の反抗はあった。しかし基本的には北条の支配機構を
そのまま組み入れたため大きな反発はなかった。

あと北条はプレ近世大名と言われるほど進んだ機構を要し、国人の家中への取り込み、つまり
国人の役人・官僚化が進んでいたため、徳川としてもむしろそれを積極的に取り込むことができた。

237:人間七七四年
11/04/14 12:14:35.56 GdMpPXVG
一応反発はあったけど小規模だったんだ
国人の役人・官僚化ってどういう状態からどういう状態になったの?

238:人間七七四年
11/04/14 15:41:28.75 IBC0OLpg
家康たんのケツ毛はどうしてあんなに瑞々しいの?
家康たんの菊門はどうしてあんなに締まりが良いの?

239:人間七七四年
11/04/14 18:24:23.67 1QlWxmfk
>>237
組合に所属する自営業から、会社に所属するサラリーマンへ
無理やり現代に当てはめればこの途中まで行ったという事

240:人間七七四年
11/04/14 18:36:58.11 I0Q0kNCW
>>237
端的に言えば北条は検知と貫高制の確立により、それまで武士とは領地という「空間」と
不可分だったものを、土地を生産性という「数値」に置き換えることで、武士それ自体も
その数値により管理される存在へと転化させた。

>>239が言っているように、「どこどこの〇〇商店」という屋号で把握されるのではなく、
その収入額によってのみ評価される存在になったわけね。

これにより武士の在地性は限りなく薄くなり、多くが家中に組織化された。

武士の近世化とはこの過程だが、それが最も早く進んでいたのが北条。

241:人間七七四年
11/04/14 19:03:35.86 GdMpPXVG
>>239-240
なるほど…
ありがとうございました
北条によって土豪の在地性が薄かったから徳川が入ってきてもすんなり行ったんですね

242:人間七七四年
11/04/14 19:28:59.30 tgULMNer
>>241
ちょっと違う。
もっと長いスパンで見る必要がある。
相模・武蔵は鎌倉時代に幕府の北条得宗家領として再編され、地生えの豪族が成田氏除いてほぼ壊滅した。
南北朝時代以降は鎌倉府と山内・扇谷上杉氏らによって、
領主が何度も入れ替わるサラリーマン的な土地が長年かけて形成されて来た。
後北条氏みたいな新参がすんなり相模武蔵を制圧できた理由はまさにそこにある。

上野は、微妙に違うのだが、謙信と氏康の長年の戦争の結果、
旧来の一揆・荘園体制が崩壊し、「領」に再編されて、相模・武蔵と同様、治めやすい土地に変わった。

そうやって鎌倉時代以来長年ローラーをかけられた土地に徳川が来たから、すんなり受け入れられたということ。

243:人間七七四年
11/04/14 19:31:00.07 GdMpPXVG
>>242
北条だけではなく鎌倉以来の蓄積の結果ということか…


244:人間七七四年
11/04/14 19:31:26.40 P5CoEOOS
で、ソース付きで具体例を箇条書きしてくれないか?
そんな空虚なデタラメ妄想は勝海舟だけにしてくれ。

245:人間七七四年
11/04/14 19:34:52.37 GdMpPXVG
野暮な事を言う
ソース付きの解答が聞きたいなら最初から書籍を紹介してもらうさ

246:人間七七四年
11/04/14 19:37:59.15 tgULMNer
>>244
とりあえず『「領」と戦国大名』則竹雄一でも読んで見たら?

247:人間七七四年
11/04/14 20:19:41.38 P5CoEOOS
いやだから転記してくれよ。
平気でデタラメのソースを出すやつがいるからな。特に北条厨が。

248:人間七七四年
11/04/14 20:27:46.27 tgULMNer
>>247
一体何が知りたいんだ?
「何が分からないのか分からないけど転記しろ」というのはよしてくれ。
おれも>>236>>240にソースがあるのかは知らんよ。

>>242の内容は峰岸純夫や池上裕子などが長年主張し続けてきたことだよ

249:人間七七四年
11/04/14 20:48:50.27 esssbQH8
>>247
横から入ってきて何抜かしてんだこいつ

250:人間七七四年
11/04/14 20:49:00.81 1QlWxmfk
subこそたまにはソース出してみろよw

251:人間七七四年
11/04/15 06:51:10.83 Cg0DIfeQ
なんだ転記できずににげるのか

252:人間七七四年
11/04/15 08:20:45.30 POuSQn0J
戦国時代末期に各地方は統一の兆しをみせていますが
東北のみ伊達ですら地方統一には遠く及ばない状態
いわば群雄割拠が残っていました。
これはせっかく戦力を動員できる農閑期になっても
冬に閉ざされる東北の環境が戦闘を困難にしているせいかと思います。

かつては奥州藤原氏という東北に覇を唱えた巨大勢力もいましたが
なぜ奥州藤原氏は厳冬という困難を克服して勢力を伸ばせたのでしょうか?
戦国時代と平安時代の違いなどがあればお教えください。

253:人間七七四年
11/04/15 10:27:36.88 Cg0DIfeQ
厳冬期でも必要とあらば戦闘してたし
例えば厳冬期に政宗が幼君の二本松城を攻めてるが輝宗が指摘していた通り堅城過ぎて失敗してる。
奥羽は親戚関係でなあなあだったから下克上がほどほど発生しない甘い地域。
小田原参陣に遅参したりで秀吉が改易しまくったのに政宗を始めとして驚いたのも奥羽の幼稚な精神からの甘い観測によるもの。
朝鮮出兵で名護屋にきた安東が
「上方の組織は縁故や家柄よりも、いかに主に役にたったかで引き立てられる」と驚き奥羽のやり方を廃れものと自嘲していたように思考が遅れていた。
成実曰わく「奥羽の流儀」である親類による和睦仲介の中人制度で
幼君を擁立していた諸将や佐竹や石川を始めとした親類たちがほどほどのところで和睦斡旋をしてあげるなど甥っ子に甘く接していた。

254:人間七七四年
11/04/16 17:22:26.72 pwDvMjiG
謙信と信玄、どっちが虎で どっちが龍?

255:人間七七四年
11/04/16 18:02:03.57 W2diQyFL
残念ながら二人とも人間です

256:人間七七四年
11/04/16 19:09:07.38 K9eSCwiq
>>252
戦国時代は国人の力が強まって来てたからじゃないかな。
例えば浪岡北畠氏なんかはそれ程広い版図を有してなかったにも関わらず
幕府を介さずに朝廷に出入りしてたし。

257:人間七七四年
11/04/16 19:39:53.98 bprr2Fvo
南部家って永く続いてるのに地元からは
あまり愛されてないのはなんででしょう?
津軽氏、佐竹氏、伊達氏、最上氏に比べるとなんだか可哀想。

258:人間七七四年
11/04/16 23:54:10.29 C/+2/zhk
>>253>>256
なるほど。
周囲がみんな婚姻関係で攻めにくいというのも変動しにくかったことや
かつての平安時代のような国司や地頭?の関係ではなく
国人という勢力があったこともも統一勢力が輩出しにくくなった要員として
納得できますね。

259:人間七七四年
11/04/17 00:10:29.11 RHNkqcDu
>>258
ただねぇ。中国地方の毛利はその国人から婚姻関係を利用して勢力を拡大して戦国大名化し、
ついには中国地方を制覇するに至る訳で。

260:人間七七四年
11/04/17 09:28:04.27 6sbxvSPL
>>259
元就の中国地方統合は輝宗の南奥羽統合と類似している。

261:人間七七四年
11/04/17 14:02:25.83 8n1JvVA1
家康は何故あれだけ清洲同盟を遵守したのでしょうか?
初期は対武田、今川等に対抗する為だとは思うのですが、後に信長包囲網が作られた
時ですら彼は律儀に信長に味方をしています。
信玄上洛の時は信長もある種覚悟を決めてたらしく、信玄が死ななかったら信長も家康も危なかったと思います。
援軍の要請も度々あってこき使われ、そのくせ家康が援軍を要請しても信長はあまりよこさない。
武田へと乗り換える手もあったと思うのですが(まあ信玄は有名な同盟破りなのでアレですが)。
家康がいかなる状況下でも信長に味方し続けたメリットは何なのでしょうか?


262:人間七七四年
11/04/17 19:58:30.13 SGH09vmX
>>261
清洲同盟ばかりに目が行きがちだが、家康は清洲同盟をてこに最初は対今川侵攻のための
武田との同盟、そして武田との抗争が始まると今度は対武田のための北条、上杉との同盟を
形成している。
これらは織田との同盟という基礎があってこそ強い意味を持ち、そのような外交的メリットを
享受している以上家康が清洲同盟を破棄する理由は、少なくとも信長の在世中は無かった。

263:人間七七四年
11/04/17 20:20:31.01 4TahnbNO
高野山に追放とか出奔とか、結構な大物がやってますけど、
彼らはそこでどんな生活をしていたんでしょうか?
お経を読み、托鉢とかしながら謹慎という感じなのでしょうか?

264:人間七七四年
11/04/17 23:05:08.14 66JuNrRW
>>260
この時代はどこも寄親寄子でしょ。
中央集権という支配方法を確立したのは秀吉が最初。

265:人間七七四年
11/04/18 00:36:51.38 loA50VQk
>>262
ナルホド、理解しました。ありがとうございます。
当然そういうメリットがあるから同盟維持したんですよね。
家康はマゾかと思ってました。

266:人間七七四年
11/04/18 01:25:29.41 vliX5u6C
>>263
高野山は、というかどこの大寺でもそうだがそれらは都市を形成しており
多くの俗人も住んでいた。なので女や酒などには一定の不自由があったものの、
金さえあればそれなりの都市生活を享受できた。

267:人間七七四年
11/04/18 01:33:02.63 X5ErnAA5
でも織田秀信、オメーは駄目だ

268:人間七七四年
11/04/18 09:50:14.46 s2tQiBJ5
戦国時代に限りませんが
けっこう大名が他の勢力に調子のいい時期に病死したり
争いに負けて隠居させられた人がすぐに病死したりすることがありますが
当時でもそういうのは暗殺されたのではという噂は流れたりしたのでしょうか?

269:人間七七四年
11/04/18 10:58:54.75 vtw19t/B
加藤清正や浅野幸長なんかは代表例かと

270:人間七七四年
11/04/18 17:24:50.72 4N3o/IRr
家康たんの一番の性感帯はどこだと思う?

271:人間七七四年
11/04/18 22:10:03.36 tkgONsEQ
>>268
付け加えるなら結城秀康にもそういう噂があった。

272:人間七七四年
11/04/18 22:13:16.52 /KDbrktR
ぶっちゃけ毒殺の可能性も50%はあると思う。


273:人間七七四年
11/04/18 22:18:09.07 zGastDzI
>>266
ありがとうございました

274:人間七七四年
11/04/18 22:19:02.34 vtw19t/B
ないない
朝鮮や名護屋在陣時に羅患した梅毒

275:人間七七四年
11/04/18 23:12:13.40 s2tQiBJ5
>>269
>>271
>>272
>>274
ありがとうございます。
真偽はさておき当時でもやっぱりそういう類の噂は流れたんですね。

276:人間七七四年
11/04/19 00:30:57.75 IvUUzrV3
そう簡単に毒で、しかも証拠も残さず大名が殺せるのなら誰も苦労せんわな。
あのへんの毒殺説は一種の陰謀論と一緒だな。

277:人間七七四年
11/04/19 01:07:16.99 2BIfx+gw
問題は本当かどうかではなく
同時代の史料に暗殺の噂が書かれているかどうかだろう

278:人間七七四年
11/04/19 06:52:54.37 3/BUIa9W
宣教師が吉川元春と島津家久を秀長が毒殺したと記してるよな。

279:人間七七四年
11/04/19 09:16:37.42 TuD0S3fA
家康だって暗殺の噂が流れている
外国人の記録は噂と前置きしてはいるが、そのまま記述しているからね

280:人間七七四年
11/04/19 17:58:59.05 Lv4/mDUP
質問です。
豊臣秀吉は中国や朝鮮では外交上ではどういう立場と記されていたのでしょうか。
天皇の臣下である秀吉という形式だったのでしょうか、
それとも日本の君主かのように形式的にもなっていたのでしょうか。

281:人間七七四年
11/04/19 18:42:51.20 IvUUzrV3
>>280
基本的には室町将軍がそうであったように「日本国王」
ただし当時の東アジア世界的には公認されていないので「事実上の日本国王」と言うべきか。


282:人間七七四年
11/04/19 21:13:18.67 P6nqVhBb
>>279
朝鮮の記録だが秀吉の死因は毒殺で朝鮮人医師が毒を盛った(薬だと偽り互いに毒薬を飲んだ)という。
しかもその医師を紹介したのは前田利家だというトンデモ展開。
動機は…思い当たるが吹っ飛びすぎかと。

283:人間七七四年
11/04/19 23:44:57.02 7EZJ9XPA
安土桃山時代は暗殺や毒殺が隠蔽されてると思うな
信長や秀吉や家康ってあまりにも良いタイミングで脅威になりかねない奴等が死にすぎ。

284:人間七七四年
11/04/19 23:59:50.25 IvUUzrV3
>>283
当時そんな簡単に人を毒殺できる毒薬はない。
そもそも毒殺できるほど対象者の近くに自分の操る人間がいるなら、
もっと効率的な殺し方が出来る。

285:人間七七四年
11/04/20 00:22:32.46 gCh2Sy2z
戦国から江戸にかけて大名が毒見にあれだけ気を使ったのは毒殺を恐れてた証拠だろ。
まあ、今も昔も、殺しを行うのは大抵身内だけどな。

286:人間七七四年
11/04/20 00:24:47.02 N6zpLPsG
>>285
毒見というのは毒薬の他に、食中毒への心配の面も大きい

287:人間七七四年
11/04/20 02:21:07.61 1fX9z5mY
織田信康の子で織田重長なる人物が居たらしいですが、詳細知ってる方いませんか?
長定と名乗っていた時期もあるそうで、幼名は小八郎。
左京亮とも呼ばれていたらしいです。

288:人間七七四年
11/04/20 06:39:31.47 WC7f0fBs
暗殺されたりしても公式発表は病死だろうしね

289:人間七七四年
11/04/20 07:41:38.13 mKz5u4lN
>>257
wiki見ればわかるような事を聞くなよ。
「盛岡藩」てググって見てみろ。

まあ、簡単に言えば酷い政治をしていたからだな。
それで、ずば抜けて一揆や飢饉が多い。
天命・天保の飢饉レベルの飢饉が南部領では恒常的に起きていた。
原因はいろいろある。
冷害が非常に起こりやすい土地柄で冷害に強い品種の米もなかった時代に
稲作を主要産業として奨励したため、数年に一度は飢饉に襲われたことや。
そういう状況なので人頭税のような年貢の安定かつ強制的な搾取が行われたため
領内は毎年のように死屍累々。
こんな状態で「かわいそう」もなにもないだろう。
まあ幕府が賦役を押し付けてくるというのもあったけどな。

290:人間七七四年
11/04/20 08:03:32.12 WC7f0fBs
>>289
それは仙台藩も同様。
やはり大河ドラマで渡辺謙の南部信直をやってもらうしかねーな。
派手な三日月鎧と眼帯のキャラ付けの信直とか演出すべき

291:人間七七四年
11/04/20 13:14:15.28 pXntqkmY
>>287、自己解決しました
犬山織田氏の柘植与一、織田大炊助という方だったみたいです

292:人間七七四年
11/04/20 20:16:58.00 jT8syV7f
気になったんだけど、伊達政宗に長く子供が出来なかったのは
徳川家光みたいに男色だったから?

293:人間七七四年
11/04/20 21:02:21.16 MiLU+Ag8
戦場での使番の扱いについて質問です。

「合戦中に使番は狙わないのが暗黙のルール」という話と、
「敵軍に情報が回らなくするため使番は始末するなり捕まえるなりする」
という話を聞いたのですが、どちらが正しいのでしょうか?
もしかして時代によって多少扱いが違ったり、
「ここにいる時は攻撃して構わないが、ここにいるときは駄目」
のような暗黙の了解があったのでしょうか?

294:人間七七四年
11/04/20 21:12:43.66 ioDcr9qR
>>293
両方正しいが基本攻撃してはいけないものとされる。上はフェアプレイの精神だけど、下はそれよりも優先することがある場合。
例えば、完全に決裂させることで兵達に腹を括らせる必要があるとか、とんでもない挑発でむしゃくしゃしてやったとか。

295:人間七七四年
11/04/20 22:10:40.35 +LIBJ7dX
>>290
今の大河よりはいいかもしれんwww

296:人間七七四年
11/04/21 00:33:46.06 x2gHniFJ
>>292
種が悪かっただけだろwwwww


297:人間七七四年
11/04/21 00:47:18.37 k3MxyiEg
歴史小説で、秀吉がお市の方に恋心を抱いていた、という話をよく見ます
これはそういう逸話が残っているのでしょうか?
それとも、後世の小説家のでっち上げ?

298:人間七七四年
11/04/21 00:56:24.37 J4vpITsk
>>297
後世の作り話

299:人間七七四年
11/04/21 01:07:23.48 k3MxyiEg
>>298
ありがとうございました
やっぱり作り話かあ
そのわりには、デファクトスタンダードのように浸透している気が…

300:人間七七四年
11/04/21 01:26:14.37 E4/W7KOE
>>299
その方が後の淀との関係が因縁めいて面白くなるからだ。

301:人間七七四年
11/04/21 13:45:13.68 YJ92nyO4
お武家さま、教えて下さいませ。

過去の人物が成した事に対し、他地方や当事者でも無い、関係無い方々が罵倒や卑下するのは何故でございましょうか?

また、そうする方々はどんな心持ちなのでしょう…。

私は知りとう存じます。


302:人間七七四年
11/04/21 15:48:26.23 AmOdyGW4
史料に比喩表現や皮肉の類ではなく怨霊や神の祟りで死んだ
と記述されている武将はいるでしょうか?
もちろん、史実でなくてかまいません。

303:人間七七四年
11/04/21 17:10:42.27 J4vpITsk
>>301
本来自分とは何の関わりもないスポーツ選手やタレント、あるいは実存しない創作上の人物でさえ
そこら辺中で罵倒や卑下している奴が居るだろう。本質的にはそれと一緒だ。


304:人間七七四年
11/04/21 19:12:01.11 tqnRlHFm
お市の方の話題が出たのでついでに聞きたいのですが。
お市の方と言えば「戦国一の美女」というフレーズがよく使われますが本当にそうだったんでしょうか?
織田一族は美形揃いだったので彼女も美人ではあったとは思うのですがそこまで凄い美女だったのだろうかと。
残された肖像画ではなく当時の文献なりにそういう記述があるのでしょうか?
「戦国一の美女」=「お市の方」という定説は織田信長の妹で浅井三姉妹の母であり二度の落城の上自らの命を絶つという
ドラマチックさが変な言い方ですが彼女の美貌を過大評価させたのではないかと思うのですが。


ついでですが織田信長が美形であったという記述は当時の宣教師の手紙なりその他の文献に残っているのでしょうか?


305:293
11/04/21 22:05:58.80 6o8vFy2+
>>294
ありがとうございました!
場合によってはむしろ積極的に狙われることもあるとは、
ただでさえ危険な役回りなのに、かなり大変だったんですね。

306:人間七七四年
11/04/21 23:31:30.41 x2gHniFJ
>>304
美醜に関しては個人の感性が大きいので何とも言えないかと・・・
ただフロイスの日本史では信長は筋肉質の痩身と書かれています。
お市の方は分りません。

307:人間七七四年
11/04/21 23:39:05.84 J4vpITsk
>>304
> お市の方と言えば「戦国一の美女」というフレーズがよく使われますが本当にそうだったんでしょうか?

後世の作り話です。美人にしたほうが大衆受けがいいから。「織田一族は美形揃い」ってのも
もちろん後世の作り話。多分司馬遼太郎当たりが発端。

信長もその死から近い時代に書かれた「リアル」な肖像だと
ひょろっとして顔の長い、あまりカリスマを感じないおっさんだよ。

308:292
11/04/21 23:45:13.67 mV88wyiN
やっぱり政宗の子供ができた時期ってのが腑に落ちないんですけど。
長い間子供が出来なかったのに急に歳を取ってから子供を量産するって、なにかあったんでしょうか。

309:人間七七四年
11/04/21 23:50:21.96 GOLMj26e
>>308
単純に運の問題だろ。
そう言う意外に君の疑問を完全に解決する答えはどこにもないよ。

310:人間七七四年
11/04/22 00:23:45.20 EMgsAqog
戦国大名が領土を拡大しようとしてたのは
やっぱり支配地からの朝貢のためだったのでしょうか?
というか寄親寄子制では朝貢は成立しにくいと思うのですが。
一方寄子が他勢力から攻められたら救援しないとならないし
考えれば考えるほどこんがらがってきた。

311:人間七七四年
11/04/22 00:33:19.51 4XA++rq6
そもそも朝貢って何だよ。戦国大名は中華帝国じゃねーぞ。

戦国大名の領土拡大はそもそも応仁の乱、明応の政変以降の惣村レベルでの自立化、自治化と
それに伴い政治状況や自然環境による高い流動性があって、在地勢力は当時の生産力
そのものである惣村の取り込み、定着のため安全保障の提供を必要とした。

つまり簡単にいえば戦国時代というのは戦国大名による「農民の奪い合い」という状況があり、
農民を自分の領地に定住、定着させるためには強力な権力にならざるを得ず、近隣地域を併合し
権力の拡大をはかり、またそういった目的の権力同士が接触すると戦争になったわけだ。

312:人間七七四年
11/04/22 00:51:48.03 S20EaFBQ
>>306 307
ありがとうございます。
小説家の影響力ってやっぱりデカイですね。

313:人間七七四年
11/04/22 00:54:45.31 Ie2aPNrt
絶世の美女が後世の小説家の作り話なら、逆もありうるな
つまり、吉川元春さんの奥さんも普通に美人だった可能性も…

314:人間七七四年
11/04/22 01:04:04.45 SdXJE/U6
前にテレビで一般的に教科書に載っているような信長の絵とは違う
西洋人が描いたらしい信長の肖像画というのをみたのですが、
これはどの程度に信頼がおけるものなのでしょうか?
信長の死後数百年後に描かれたとか全くの別人の絵ということはないのでしょうか。

315:人間七七四年
11/04/22 01:26:11.53 4XA++rq6
>>314
信雄の家に伝わったもの、と言われてはいるが、
信長の当時、生前に肖像を書くことは不吉極まりないことであり、当の信長の肖像画も
生前に書かれたものは一切存在しない。

しかもアレは明治になって突然現れたもので、幕末から明治にかけて捏造されたものと
考えていいだろうね。

316:人間七七四年
11/04/22 01:45:13.17 hq3QXbFe
すると家康の肖像として有名なしかみ像も偽物なのか?

317:人間七七四年
11/04/22 02:05:46.34 4XA++rq6
>>316
しかみ像は記録がちゃんと残ってる。
本当に例外的な、生前に書かせた肖像画。

318:人間七七四年
11/04/22 05:47:54.96 SdXJE/U6
>>315
ありがとうございます。
和同開珎より古いお金発見みたいな
歴史の新事実か何かかと思ったらかなり胡散臭いものだったんですね。

319:人間七七四年
11/04/22 06:47:01.67 eg5FQ8QS
>>308
政宗の場合は衆道に熱心だったからだろう。
愛姫とは不仲だったわけだし衆道に精進していた。
衆道のハマりっぷりは浮気を疑い嫉妬して激怒したり
片倉息子と衆道したい小早川秀秋の意を汲んで片倉父にお前からも説得しろと何ら抵抗なく命令の手紙を出してるくらいだし

320:人間七七四年
11/04/22 09:42:33.42 c9jBs9ax
>>316
当時の慣習で正面から写した肖像画などありえないと言ってる人もいる

321:人間七七四年
11/04/22 10:20:12.49 34j0Bu4g
>>320
誰よ?

322:人間七七四年
11/04/22 11:28:05.27 c9jBs9ax
>>321
本山一城というボンボンで「スーパーマリオ」の漫画書いてた人

323:人間七七四年
11/04/22 12:10:49.72 eg5FQ8QS
正面もなにも西洋人には関係ないべ

324:人間七七四年
11/04/22 23:56:50.18 Z9HIhfxk
アンチ政宗・アンチ伊達藩の妄想が酷すぎる。

325:人間七七四年
11/04/23 00:30:29.41 0TT4EGfa
>>324
チートと言っても過言じゃないくらい豊かな土地抱えていて
津軽南部と大差ない餓死者とか出してるし仕方ないだろ。

326:人間七七四年
11/04/23 00:35:59.30 WcPBv1xf
>>325
そうだったのか。島津や沼田真田とかは知ってたけど。
他にどういう大名が圧政してたか教えていただけるとありがたいです。

327:人間七七四年
11/04/23 00:36:16.08 QTs71zTs
他所でやれクズども

328:人間七七四年
11/04/23 16:07:49.95 3VpQoo+U
>>324
その伊達も妄想に近い妄言を残しているからなあ

329:人間七七四年
11/04/24 18:49:27.74 b+JF51gO
スレ違いだが快男児とか良い武将、いくさびと、爽やかな武将など
そのほか世間的に好意的に見られている大名・武将とかって、
案外、内政では農民の暮らしを圧迫するような酷い政治をしていたりする。
真田、伊達、福島、立花、毛利、上杉、佐竹、武田、豊臣などがそう。
逆に徳川とか最上とか池田とか嫌われる傾向のある大名、武将が逆に民に対して良い政治してたりする。

原因はおそらく、そういう武将は「家臣に対して厚く思いやりがある」だと思われ、
自分の配下の家臣や武士たちに愛情を持ち厚遇するあまりに、
さらにその下にいる農民から過剰な収奪を認めてしまうんだろうね。
つまり「配下の武士を厚遇する」と「領内の農民を厚遇する」ってのは対立する行為なんだよね。
武士を厚遇すれば収奪が酷くなった農民の暮らしが酷くなり、
農民を厚遇すれば農民からの租税が少なくなった武士が困窮する。
といった具合に武士への厚遇と農民への厚遇は対立構造で「あちらを立てればこちらが立たず」になりやすいんだよね。

330:人間七七四年
11/04/25 18:18:15.66 hktAnjnI
>>329
 ええと、質問ですが、立花宗茂が関ヶ原の後、柳川に篭城しますが、衆寡敵せず開城した際、地元の
農民たちが「一緒に戦いますから、開城しないでください」といった話や柳川が田中の領地になった時に
宗茂に米を援助してた名主が磔になった話とか、柳川に復帰したときに農民に歓迎された話とかは
すべて捏造ということでしょうか?
それと棚倉時代の立花の政治については、林業などの産業振興に尽くしたりして、虐政の半紙がないの
ですが、これも捏造なのでしょうか?


331:人間七七四年
11/04/25 18:20:17.55 hktAnjnI
半紙は話の間違いでした。申し訳ありません。

332:人間七七四年
11/04/25 22:39:29.92 D8zszO3l
>>330
武田氏の場合は、勝頼期の場合だけど、連年の軍事行動のために軍役などの領国内の
負担が重くなっており、武田家が滅亡した際には百姓たちが家を焼いて織田信忠のもとに
勝頼の悪政治を訴え、内心織田領になってほしいと思っていたので、この機会に
上下とも忠節をつくすべく参上した(=領民が勝頼を見限った)という話がある。
ただ、一方で勝頼は湯治へ出かけた先で押しかけたと思われる領民の求めに応じて山争論の裁決を行い、
家臣からの報告を受けた上で自身の親族(信豊の姪婿)を敗訴とする判決をくだしている(このへんの流れは
笹本正治『武田勝頼』に詳しい)。

大名の支配について一概に善政だの悪政だのとはなかなか言いづらいとは思うけど、ただ、いかに戦国大名と
いえど、求められれば(たとえ湯治中でも)裁決を下さなければならなかったし、強権を発動して恣意的な、百姓の
意向を無視するようなまねはできず、家臣だけでなく領民にも縛られている面も持っていたことは考慮に入れていいと思う。

よく統治手腕について語られる後北条氏も、城郭内に領民を避難させたり「目安箱」の設置などなどの政策を通じて
領民や村の存立(治安やインフラ、裁判等)を保障しているけど、一方でそれらの政策を通じて村を大名支配の末端に
組み込んでいったし、いざというときは後北条氏の支配する「国家」のためという名のもとで、領内への動員をかける
体制がつくられていったわけで、やっぱり一概に善悪政云々とはいいがたいし、領主層と被支配層が常に対立関係に
あったともいいにくいんじゃないかと。

333:人間七七四年
11/04/25 22:46:34.74 UI6JXi+n
>>332
いいこと書くね~

334:人間七七四年
11/04/25 23:15:51.62 itI1QL7/
>>330
なるほど、立花は農民には良くしてたのではないか?
しかしそれなりに忠誠を働こうとした名主が磔になったのだから、
どこかに皺寄せはあるだろう。ない袖はふれない。

>>332
そういう、どこかの村で公正な採決を下したとか、
貧しい村の年貢を免除したとかいう話しは気まぐれみたいなもんで蚊ならす゛しも全体とは関係ない。
あと、目安箱設置が善政の証明にはならない。
盛岡藩のように目安箱が反乱分子探しの証拠にされてたそうだし。
目安箱の周りにこっそりと監視者が隠れていて、誰が投書したかしっかり把握されてたわけだ。

当時の為政者とて偽善行為はするし、表向きの評判は気にしてたろう。表だって悪政はしにくい。
現代の話で申し訳ないが、みちのくプロレスのサスケが十年もマスク代金を滞納してる
震災者義援金とか震災者マッチをしてるのを見て債権者は偽善としか思えなかったのではなかろうか。

335:人間七七四年
11/04/25 23:27:19.69 itI1QL7/
単に百石取りの武士に「四公六民」を許可すれば武士の収入は四十石にしかならないが、
「六公四民」を許可すれば武士の収入は六十石になる。
武士の利益を取るか農民の利益を取るか難しいところだ。
しかも武士の多くはカツカツの生活をしている。

しかし、これは江戸時代の武士の話であって、
戦国時代には単純に武士の収入が多ければそれだけ戦力UPするわけで、
武士のやる気向上にも繋がるというだけでなく、
武士は収入で馬や鉄砲を買ったり、雑兵や小者を雇いいれることができるわけで、
戦国時代は戦のためにやや武士偏重であったことは容易に推測できる。

336:人間七七四年
11/04/26 00:55:58.46 UdadENcb
江戸時代の武士と農民のイメージを取り払うところから始めよう
戦国時代の大名と農村は規模の大小はあるが極めて近い存在の時代だと

337:人間七七四年
11/04/26 02:22:58.29 wt5KIiSr
>>334
戦国の目安箱って匿名のチクリ箱じゃなくて
実名入りの訴状受付箱だぞ

338:人間七七四年
11/04/28 12:58:10.32 9wdQyX8x
今でさえ無理なのに
戦国期の一番金がかかりまくる時代に
善政を期待するなんてそもそも無理だから
北条の善政なんて創作でしかない

339:人間七七四年
11/04/28 13:07:59.05 pMbM9yA4
段々sageの論理がお粗末な理屈になってきているな
元からか

340:人間七七四年
11/04/28 18:22:59.24 gLKQHk1u
いや、北条は少なくとも北条氏康まで善政だったよ。

北条氏康の逸話に
氏政がある日、食事中の氏康に検地が不十分で農民が多くの隠し田を持っていると思われるので
さらに徹底的な検地をするように氏康に盛んに換言した。
それを氏康は食事の中の煮魚を指してこう答えた。
煮魚は盛んに箸でつつき回していると壊れてしまう。
農民も同じで盛んにつつきまわして隠し田を出させると壊れてしまう恐れがある。
為政というのは煮魚と同じであまり執拗につつきまわさぬのが肝心なのだと。
氏康自身も何度か検地を実行したが
意図的に穴を作って農民に隠し田を一定量残しておいたようだ。

341:人間七七四年
11/04/28 18:28:35.75 dbER3CO6
逸話ばっかりで美化しまくるキチガイ超高利貸し北条893組

342:人間七七四年
11/04/28 18:36:54.99 oSW6eTyZ
>>341
お前が来るべきはここじゃなくてカウンセラーのところだ

343:人間七七四年
11/04/28 18:39:12.65 gLKQHk1u
>>341
氏康までは良い政治してたと言いたいだけだよ。
氏政以降は強引な検地や何かと賦役を要求したからよくなかった。
有名な「領内の14歳から70歳までの全男子」に動員令をかけた件もそうだろ。

344:人間七七四年
11/04/28 20:12:25.42 dbER3CO6
北条の悪事
スレリンク(sengoku板:41番)
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スレリンク(sengoku板:310番)

345:人間七七四年
11/04/28 20:14:16.10 w8lo1kGS
>>344
ここはお前の気持ち悪い書き込みを晒す場所じゃねえ


346:人間七七四年
11/04/28 20:17:37.95 9wdQyX8x
層化信者の北条厨は
気持ち悪いから出てってくれ

347:人間七七四年
11/04/28 20:22:55.27 qN7xnvWC
こんばんわ
甲越和与の甲は甲斐武田、越は越後上杉ですよね?
じゃあ甲江和与(武田・織田不戦協定)の江ってなんですか?

348:人間七七四年
11/04/28 20:32:48.22 9wdQyX8x
安土城のある近江

349:人間七七四年
11/04/28 20:34:36.81 qN7xnvWC
>>348
さっそくのお返事ありがとうございます!

350:人間七七四年
11/04/29 02:47:10.52 58NGBcTQ
質問させて下さい。
徳川家光は鬱病気味なタチで、昔自殺未遂まで起こしたという話をそこかしこで見るんですが、これって信憑性のある話なんでしょうか?

351:人間七七四年
11/04/29 03:51:23.12 obOgZBML
>>343
検地は領国体制や大名権力の強化なので、むしろやらないと生き残れない

あと動員令は非常時の特例であっていつもやっていることではない
例えば徳川家康も小牧の役の時には同じことやって逃亡者や自殺者を出している
が、この一例を取り上げて「徳川領国ではいつもいつも大量動員をかけていたのだ」
なんて言って悪政をしていた証拠にはならない

352:人間七七四年
11/04/29 08:05:43.67 gWumNjXj
>>344
すごい悪政やってたんだな北条。
武家の天下覇業の地たる大関東平野を本拠地にしながら天下も取れずに
ダラダラしてたのも民衆の支持が得られなかったからだろうな。
堀越公方が伊豆で金を採掘して幕府に献上してたのに
北条は技術集団金堀衆も持ってないから掘り出せないし、
永楽銭の大量偽造で経済崩壊させた疑いあるし
治水土木すらやってなかったとか信玄にすら及ばないな。

353:人間七七四年
11/04/29 09:32:41.06 xbITXqQX
subしつこいぞ

354:人間七七四年
11/04/29 10:08:50.46 o7hj7FD1
きめぇ伊達厨&北条厨
スレリンク(warhis板)l50
【そうか】北条伊達vs毛利島津【維新】
スレリンク(warhis板)l50

355:人間七七四年
11/04/29 19:37:22.13 B3VhSyy9
>>350
鬱気味だったというより、病弱だったから気鬱がちになってたと思うけど
自殺未遂は春日の狂言だからなあ

356:人間七七四年
11/04/29 19:52:26.39 LofaQbrm
>>352
永楽銭の大量偽造を克服できなかった江戸幕府も大概だけどな

357:人間七七四年
11/04/29 19:55:09.26 I92P4rqy
北条氏康の永禄三年の九箇条の徳政令について質問です。

URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

1.この年の年貢は半分だけを銭ではなく米で収めること
  (この頃年貢はほぼ銭だった)
2.御年貢銭の半分は精銭で、半分は他の質の劣る銭で収めてもよい
3.借りた銭や米などはリセットしちゃって良し
4.妻子、下人の年季売りは取り戻して良し
5.田畑の年季売りは契約年季の三分の二は無かったことにして良し
6.ただしこれまで未納の年貢のうち、代官・奉行が立て替えた分は百姓が払うこと  (利息分は返済を免除する)
7.ただし、うち(北条)の蔵銭から貸し付けた分は無かったことにしません
8.民間の無尽銭(寺社などが営む高利貸し)も徳政の対象にできません
9.田畑の永年売りは本来違法ですが、今回だけ見なかったことにします。
  なんかトラブルあったら氏康に手紙で相談してね


上記は天文十八年に起きた巨大地震の対策と
猛烈な飢饉・凶作にあえぐ百姓からの嘆願によるものとなっていますが
だとすると下記のような疑問があります。

1.
いつもは銭で納めてるのに凶作・飢饉の年に限って米で納めろはおかしいです。
米が無いからこその飢饉なのに・・・百姓に飢死しろと言ってるようなものです。
押し付けがましく半分でいいと言っていますが、飢饉・凶作なら米の相場は高騰してるはずです。
半分でも十分儲かるとの思惑が透けて見えます。
逆に言えば例年通りの銭納なら、僅かな米を売るだけで年貢が払えて百姓は大助かりだったのではないでしょうか?

3~8.
早い話が北条家と関係有る借金は取り立てますが、北条と無関係の借金はチャラにしますと言うことでしょうか?
これって北条(政府)の懐を痛めず、他人(民間)の財布で徳政しますと言うことですよね?

9.
「違法行為を働いてでも年貢を納めろ!文句を言う奴がいたら・・・」と言ってるようにしか見えません。

はっきり言って、とても善政には思えません。
氏康はこの徳政に自信を持っていたそうですが正気を疑います。
北条氏康という人は精神に深刻な障害を抱えていたのではないでしょうか?

358:人間七七四年
11/04/29 20:36:28.80 B3VhSyy9
北条アンチスレでやってくんないかな

359:人間七七四年
11/04/29 21:44:50.66 dKG3VviG
>>357
氏康自身は、別に善政とか一言も言っていません。
『善政』は後世の人が作った伝説に過ぎません。

360:人間七七四年
11/04/29 22:34:37.60 Gi/sO0RJ
>>357が頭脳または精神に障害を抱えているだけの話です

361:人間七七四年
11/04/29 23:05:37.62 gWumNjXj
いや坊主相手に氏康は善政を自慢して政治についてエラそうに語ってるだろw
たぶん高利貸しに対しての善政だと思うけど
そもそも氏綱も他人どころか敵側からも金を献金させまくって鶴岡八幡宮を再建させただけなのに俺が再建させたキリッ
などとふざけたことを宣言する搾取家。

362:人間七七四年
11/04/29 23:40:57.51 y9972JMs
飢饉になるとコメの価値が上がって相対的に銭の価値が下がるのはその通り
しかし飢饉は一時的なものなので、結果どうなるかというと精銭の流通量が著しく下がる
その状況で「年貢をいつも通り精銭で払え」ってのは無理があるからこの徳政になる訳で

363:人間七七四年
11/04/29 23:47:26.65 1ItE25mC
ええと、ここは質問スレなので、質問します。
大久保一族の没落の原因ですが、4万5000石もの高禄を得たのが原因だという説がありますが、どうなのでしょうか?
友人によると、関東移封時の徳川家臣団の最高禄高は4万石で鳥居元忠。
これ以上の禄高の者は、秀吉の指定によるもので三傑と大久保が該当する。三傑は家康子飼いだから問題ない。
これに対して、大久保は、大久保党ともいうべき氏族集団を形成しており、更には大久保長安という金蔵を持ち、要衝の小田原に
本居を構えている。さらに後継者の秀忠の後見役もしている。
いわば秀忠と大久保一族は、頼朝と北条家、北条得宗家と内管領、足利と高家、後漢と曹操、魏と司馬一族という関係である。
家康にしてみれば、自分の死後を想定した



364:人間七七四年
11/04/29 23:50:09.81 1ItE25mC
すみません。途中で投稿してしまいました。
家康の死後、秀忠を傀儡化して大久保執権(強化版酒井忠清)体制を築きかねないので
処分したというのが友人の主張ですが・・・・

365:人間七七四年
11/04/29 23:55:23.63 r8OidUp/
>>357
それほどの圧政を布いても民が逆らえない事に自信をもっていたのでしょう。
白頭山の輝ける星にして百戦百勝の鋼鉄の将軍・北条氏康公マンセーな感じです。

366:人間七七四年
11/04/30 00:23:42.97 FjcePvjQ
地上の楽園☆北条鮮

367:人間七七四年
11/04/30 00:30:32.97 jxxRZULE
>>358>>360
北条=層化信者きめぇ…

368:人間七七四年
11/04/30 00:30:51.91 j/lAM0+L
>>364
大久保一族の凋落は幕府内の権力闘争が
大きい要因だったと思います。
岡本大八事件や宇都宮吊り天井事件に代表されるように
この頃は徳川譜代間の権力闘争が激化してた時期でしたから。

369:人間七七四年
11/04/30 00:33:38.71 lGyfj7hG
>>367
お前みたいにID変えながら自作自演している人間のほうがよほど気持ち悪いのだが。

370:人間七七四年
11/04/30 00:39:47.66 FjcePvjQ
心の小田原城にカ・エ・レ

371:人間七七四年
11/04/30 04:32:38.96 gLiBBD7K
大久保忠隣と本多正信の権力闘争ですね
どっちも家康の大のお気に入りでしたが、3人集まれば権力抗争と言うぐらいで、
やはりどちらかが身を引かざるを得ない話なのでしょうか
でも正信は一度徳川家を出ており、帰参がかなったのは忠隣の父、
大久保忠世のおかげなんですよね 

372:人間七七四年
11/04/30 09:03:43.74 Q/0Ta5XC
>>363
額面の石高だけでなく寄騎衆の動向も見なければなりません
当時の大久保家は小田原のみならず、大久保長安以下の津金衆・武川衆といった
関東南西部の徳川直臣層を寄騎としていていました
この状況下では大久保と小身といってよい正信のどちらかを切る場合、残ったほう
の権勢が拡大するのは必然ですので、そうなると大久保を切った方が影響は最小限
で済みます

また忠隣と正信の争いは武功派と吏僚派と見るより、江戸政権と駿府政権の主導権
争いと見るべきとも言えます
もっともそれはあまり大げさなものではなかったでしょうが、家康としては豊臣家に
対し、最終的解決を考えていたのであえて大鉈を振ったといえます


373:人間七七四年
11/04/30 12:46:30.92 VLSkhtvG
政宗に関わったせいで大久保事件や本多正純事件に連座した大名は悲劇的ですね。
正純に対して百万石の約束をたびたび政宗が持ち出して陳情していたら正純事件が勃発ついでに最上も連座改易w
そのため政宗は今度は大久保に接近。
すると大久保が金山利益で財力あり、忠輝と政宗と組んでクーデター計画してると噂される。
政宗は正純にも百万石のお墨付きの陳情してたって言うし、政宗の動きが原因で長安と正純が失脚したんだよな。
ついでに大坂陣での政宗の失態により忠輝に戦功を奪われるのを嫌がって消極策を政宗が勧めたせいで
忠輝も失脚するハメになるし政宗と関わるとロクなことにならない

374:人間七七四年
11/04/30 16:07:22.15 vXHk5IPu
>>372 >>373
なるほど、大久保党だけではなく、その他の与力衆が大久保忠隣の配下にいたわけだから
排除するなら、腸腐れと憎まれている本多より、諸大名、旗本にも大人気の大久保を排除
したほうが、家康的には、秀忠への政権移譲を行う上でもプラスになると判断したわけですね。

こう考えると、関東移封時に引退した酒井忠次は利口だったな。
息子の家次は、幹部クラスの最高石高の3万石を貰えたし、政権中枢からうまく抜けたことで
派閥争いからも無縁でいられる立場に酒井家を置けたわけだし、大久保忠世も同じように隠居
して、忠隣に家督を譲れば、大久保党壊滅の事態は避けられたかもしれないな。


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