武田信玄は過大評価されすぎ!!at SENGOKU
武田信玄は過大評価されすぎ!! - 暇つぶし2ch2:人間七七四年
10/10/01 15:14:15 bw315yRD
信玄の倒してきた勢力と言えば村上氏や長野氏、
今川などですが村上氏も長野氏も豪族、今川は義元亡き後に
家康との共同です。
父、信虎が勢力基盤を作っていてくれたため近隣国を最初から上回る国力でしたし、
強国の今川とはこれも信虎の
外交政策で同盟を組んだ状態で非常に有利だったと思えます。
有名な戦いでは川中島や三方ヶ原ですがどちらも武田側の戦力が2倍近くあります。
同盟を破棄ばかりして外交が上手いとも思えません、
その辺は北条氏康などの方が上手と見えます。
小国から身を起し大敵を倒して大勢力を築いた織田信長や毛利元就こそが
戦国最強と言えるのではないしょうか?
信玄も謙信も地方の雄の域を出ることはないと思えます。伊達政宗や北条氏康、長宗我部元親らと同等です。


3:人間七七四年
10/10/01 15:16:58 bw315yRD
その通りです。武田は、甲斐、信濃、駿河の3か国しか領国化していません。
ほかは一部をかすめただけです。80万石程度です。
今川義元と大して変わりません。しかも、義元を倒したのは、信長です。
今川領に攻め込んだのも、徳川家康の密約で、共同出兵と大久保の三河物語にあります。
今川氏を滅ぼしたのは、三国同盟していた武田信玄です。家康ではありません。
三方原で、家康を破ったとはいえ、大軍であり、家康や四天王は討たれていませんし、
岡崎城、吉田城、浜松城など、主要な城は、落ちていません。
平原での決戦は兵力差が出るため、常に山間部の出入り口付近に留まっているのも問題ですね。
長宗我部元親は、四国全域で、4か国を制圧しているので、
国の数は信玄を上回っています、ただ四国勢は軍事力が弱いため、
評価が低い。結局、家康のおかげでしょう、武田マンセーは。
武田は、長篠で大敗し、裏切り続出で滅亡してますんで、
武田24将とか、知略のない人物ばかりですね。
甲陽軍鑑は、偽書と平戸藩の松浦氏に暴露されています、軍師山本勘助もいません、捏造です。



4:人間七七四年
10/10/01 15:41:55 BnCf+GCu
真の名将とは

信長のように革新的で
氏康のように民政家で
義元のように外交がうまくて
幸村のように少数の兵で大軍を破ることができて
元就のように大勢力に囲まれながらも自家の勢力を伸ばすことができて
政宗のように20代前半までに100万石を超える勢力を築くことができて
秀吉のように天下を手中に収めることができて
信玄のように最初から独立勢力で
謙信のように伝統礼節を重んじ
経久のようにどんぞこの時期は身一つまで落ちぶれてて
義弘のように外国勢からも恐れられて
天庵様のように家臣万民に慕われていて
家康のように最後は天下を末永く安定させることができなければ名将とは認定されない。


というか重複

スレリンク(sengoku板)

5:人間七七四年
10/10/01 16:01:35 AbjqX4Ej
誰の評価を見て過大なんて言ってんの
世間一般軍記が史実な世の中と家康を大軍で蹴散らしてるんだから仕方ないでしょ

6:人間七七四年
10/10/01 16:06:44 8giSETB6
>>5
兵力が2.5倍違うから勝手当たり前

7:人間七七四年
10/10/01 16:08:54 OCZc+Zs2
武田信玄は上野三河遠江飛騨東美濃を取り
対武田以外は圧倒的強さを見せ、この時期でも姉川や対今川で圧倒的強さの徳川家康を
けちょんけちょんに倒し滅亡寸前に追い込んだ。
さらに東美濃攻防戦や上村合戦では寡兵で圧倒的大軍の織田軍を蹴散らし織田方を恐怖に貶めた。
長篠以降ですら武田の強さは日本一という評判は敵国織田の領国内にすら残っている。
日本で最高の地理的条件と運と富裕国に生まれながら圧倒的大軍で寡兵の敵に大苦戦や大敗を繰り返し
織田家を滅亡させた領土拡張率0の信長と三増峠、薩田峠、小田井原、上村、東美濃攻防、塩尻峠
と寡兵で大軍を破り続け貧国甲斐を大膨張させた信玄では比較にすらなるまい
三方ヶ原で戦死したのはこの時期の徳川としては高い身分や主だった物がほとんどで
この時期4天皇が戦死してたら後世に『徳川四天王』として残らなかっただけだろ
織田四天王が美濃戦線で戦死してたら残らなかったのと同じ

武田信玄が基地外のように貶められ、勝頼が持ち上げられるのは勝頼が招いた滅亡を
信玄に押し付けようとする織田厨の謀略だろう。武田が強いのは対織田徳川北条などで証明されている


8:人間七七四年
10/10/01 16:11:04 OCZc+Zs2
ランチェスターの法則でいえば2.5倍の兵力比なら被害比も2.5倍ほどになるはずだが
信玄の天才的用兵により徳川は城からまんまと釣り出され10倍の被害を被る。
北条も同様に蹴散らされている。こんな巧みな用兵できる奴なんて他にそうそういない

9:人間七七四年
10/10/01 16:17:48 OCZc+Zs2

徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達だからな。
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでる

徳川もまだこの時はそれほど有名な武将が少ない。
4天王など徳川で有名になる武将達の活躍はこれ以降のものが多い。
それでも遠江の重要拠点二俣を任せられていた中根をはじめとし、
メンツには結構城持ちや奉行といった面々が入っている。
織田の援軍の一将である平手も死んでるし、織田方の被害も軽くみれない。

10:人間七七四年
10/10/01 16:28:06 8giSETB6
基地外じみた武田持ち上げはやめな
事実は小笠原村上長野上杉北条徳川にフルボッコされているw

11:人間七七四年
10/10/01 16:55:15 YK30Berb
>>6
川中島の時も上杉を上回る兵力だったしな。
同数だったらどうなってたか・・・・・・

>>7
正式な後継者でなくあくまで陣代という立場とされ、古参の家臣に対する権威や信頼が薄い身で
(これは信玄が今川家との同盟を破って嫡男・義信を死に追い込んだから)
周辺が敵ばかりという拡大された戦線・国内における今や乏しい金の産出量という状況に置かれた勝頼の身になれば、武田の滅亡に関して
信玄に責任がないなんてとても言えないな

12:人間七七四年
10/10/01 18:17:50 AbjqX4Ej
>>6
相手より兵力を多く揃えてその優位をいかすのは基本だけどそれが出来る大名がどれほどいたよ

だから過大って誰の評価なんだよ>>1
評価というにはその対象があるんだろ?言ってみろよ

13:人間七七四年
10/10/01 18:23:52 qgMudDlG
戦場に相手より、より多くの兵を連れてこれる大将こそ優れた武将なのだよ
                           BY 孫子

14:人間七七四年
10/10/01 18:33:24 bw315yRD
>>12
実際その動因した兵力も大げさに書いてあったりで信憑性は無いんだよ


15:人間七七四年
10/10/01 18:36:20 bw315yRD
>>12
僕の中で最強だと思うのが里見義堯です

16:人間七七四年
10/10/01 18:53:53 uqE3GHeW
>>10
小笠原⇒村上他信濃豪族と共同戦線はるも塩尻峠で瞬殺
村上⇒2戦以外では全敗。飯富虎政にけちょんけちょんに蹴散らされる
越後から援軍貰って信濃に戻ってきた時は一日に20もの城を一蹴
上杉⇒上野も信濃も取られる
北条⇒三益峠 薩田峠始め駿河戦線で大敗し武蔵も上野も切り取られる
徳川⇒国力差をさしひいても圧倒的スピードで侵略されまくり滅亡寸前
三方ヶ原では死の恐怖を与えられる
織田⇒上村合戦、東美濃攻防戦で寡兵の武田に大敗し美濃口に足がかりを与える

>>11
金は勝頼が無理な外征や敗戦後の戦力回復に当てたからなくなっただけでしょ
多方面云々は勝頼自ら敵に回して自爆しただけだしそれに最近の研究だと勝頼の権力基盤は結構大きな
物だったとされてるし
>>12
信長なんかと違って大きな兵力をうまく運用する力がある点が優れている所だろうね
対家康織田北条戦などみれば一目瞭然
>>13
圧倒的大軍で寡兵の敵相手に醜態さらず糞武将と違って信玄は兵数をうまく生かした戦術で
軽微な被害で勝ったり圧倒的侵略スピードを見せたりしてるからすごいんだろうね

17:人間七七四年
10/10/01 18:59:22 bw315yRD
>>16
多くの兵力を動因出来るかは石高によりものが多い
兵農分離もしていない武田は農民を兵に駆り立ててたから
兵が死ぬと百姓もいなくなるし、畑を耕す季節は退却しなければいけなかったし
実際の動員数は少ないよ

18:人間七七四年
10/10/01 19:03:07 5MFcH/aE
なら、少ない動員数で勝ちまくり貧国甲斐から大勢力と戦いながら大拡張した信玄最強でFA

19:人間七七四年
10/10/01 19:04:41 bw315yRD
>>18
甲陽軍艦に書いてある事は嘘ばかりだからw
実際勝ちまくったなんて事無いよw
信玄を評価するなら普通の大名だよw

20:人間七七四年
10/10/01 19:05:57 /NCrvw2r
兵農分離wwwwwwww

はい、馬鹿はいりましたー

21:人間七七四年
10/10/01 19:06:22 5MFcH/aE
軍艦によらなくても信玄の勝ちなんて書いてるだろ

まさか村上や家康や小笠原や北条や徳川や織田に勝ったのも嘘とか言い出すのかね

22:人間七七四年
10/10/01 19:06:34 8giSETB6
武田は兵農分離に完全に失敗してたからなw
信玄が部下に農民は戦に出すなと書状を出したが
部下にそれじゃ兵が集まりませんて言われた書状が残ってる

23:人間七七四年
10/10/01 19:08:06 bw315yRD
兵農分離に失敗したから不満がたまって武田が滅びたんだよw

24:人間七七四年
10/10/01 19:09:42 EVMZZ+p7
兵農分離に成功し、プロの戦闘集団で持って各所でアマチュア部隊に敗戦や大苦戦を繰り返す
織田信長(笑)

25:人間七七四年
10/10/01 19:10:06 /NCrvw2r
頼むから兵農分離とか馬鹿丸出しの書き込みはやめてくれよ
織田ファンのレベルが低いと思われるから

26:人間七七四年
10/10/01 19:10:07 bw315yRD
>>21
村上や小笠原は自分より兵力の劣るは豪族だし勝てて当たり前w
家康はまだ未熟な時に破ったりとか運が良かっただけ
北条や織田には勝ってないしw


27:人間七七四年
10/10/01 19:11:21 bw315yRD
>>25
俺織田ファンじゃないけど?www

28:人間七七四年
10/10/01 19:13:18 EVMZZ+p7
村上小笠原など信濃豪族は共同戦線張って武田と戦い特に上田原後は
笠にのるような勢いで諏訪佐久方面を侵略
これを覆したのが塩尻峠
家康はこの時期でも大軍朝倉相手に奮戦し大軍今川や一向宗に勝利するなど
強さは歴然としている
織田は上村合戦や東美濃攻防で蹴散らされてる
北条は薩多峠、三増峠で負け北武蔵や駿河を取られた

29:人間七七四年
10/10/01 19:13:47 bw315yRD
信長の野望でも信玄の能力高すぎ!!

30:人間七七四年
10/10/01 19:15:17 bw315yRD
>>28
実際一時的に戦に勝っても滅ぼさなきゃ勝った事にならないからwww

31:人間七七四年
10/10/01 19:17:00 bw315yRD
だいいち信濃を平定するのに時間がかかりすぎなんだよw

32:人間七七四年
10/10/01 19:21:51 /7xTh0WC
滅ぼすには一定期間の全面交戦とその方面に攻撃に必要な兵力や貼り付けられる兵站を
確保できる国力がある事が前提条件 信玄には多方面での国力に勝る敵との戦線を抱えていた事等から
それを行う体力がなかっただけの事

信濃には割拠的地形で小豪族が分布するという特質があり、これには本能寺後の家康も散々手を焼いた。
信玄の信濃攻めにおいては長尾や上杉の介入もあったしな

なんか100回も見たような流れだが飽きないかね

33:人間七七四年
10/10/01 19:22:05 bw315yRD
信濃に、二十年も掛かっているようでは天下統一なんて無理www

34:人間七七四年
10/10/01 19:24:02 bw315yRD
>>32
信濃は小豪族ばかりで大名が居なかった訳だから
大名の武田なら普通は簡単に平定できるはずw
小豪族相手に梃子摺り過ぎだろw

35:人間七七四年
10/10/01 19:28:04 bw315yRD
>>32
家康が手を焼いたのは武田の落ち武者がたくさんいたからだよw

36:人間七七四年
10/10/01 19:29:53 bw315yRD
信濃平定に20年はいくらなんでもかかりすぎw

37:人間七七四年
10/10/01 19:30:48 /7xTh0WC
小豪族がそれぞれの地形に割拠的に存在しているというのは多方面から侵略があった時
地元武士が自治権益を守るため地理などを生かして交戦する特質がある
本能寺後の家康の信濃攻略を見てもわかるように小笠原を府中に送り込んだり
空手形の領土宛がいを出しまくったり間接統治によらざるを得ない環境という事で
その状況ですら大久保や鳥居など徳川方は真田や木曽などに敗戦し信濃はわずか3郡しか確保できなかった。
まして直接切り取るとなると多大なエネルギーが必要な事は明白だろう。

38:人間七七四年
10/10/01 19:32:21 bw315yRD
>>37
でも結局は徳川は天下とったじゃんw

39:人間七七四年
10/10/01 19:35:27 bw315yRD
信濃平定に20年もかかってるようじゃ天下取るのに100年あったって足りないよw
ましてや武田は兵農分離出来てないし秋には引き返して畑を耕さないといけないからなw
時間がかかりスギwww

40:人間七七四年
10/10/01 19:35:46 /7xTh0WC
>>36
落ち武者?旧武田諸将は家康に匿われて天正壬午の時に大活躍し甲斐平定がスムーズにいった
直接的な要因となった。徳川を恨むどうこうといった話はあまり聞かない所かむしろ命の恩人のような…
>>38
天下をとった、しかも当時甲斐駿河遠江三河を領有する環境にあった徳川ですら
間接統治によらざるを得ず、散々手を焼いたんだからいかに信濃攻略が難しいかは
自明の事

41:人間七七四年
10/10/01 19:38:18 bw315yRD
>>40
信長は豪族のいなくなった安定した統治の武田の信濃あっさり落としてるけど?w

42:人間七七四年
10/10/01 19:39:48 bw315yRD
>>40
結局は徳川も信濃平定してただろw

43:人間七七四年
10/10/01 19:40:28 bw315yRD
>>42
信玄みたいに20年はかかってないぞw

44:人間七七四年
10/10/01 19:40:49 65aV9O2y
>>41
そりゃ単にそれまでの北条や徳川との攻防で疲弊しきってただけの事で
知久、下条、松尾小笠原など戦わずして降伏し一門の仁科くらいしかまともに戦わなかったんだから。
そういう思考でいえば信長は美濃や畿内攻略は手こずりまくったけど家康は瞬殺したねって話でもするか?

45:人間七七四年
10/10/01 19:42:07 bw315yRD
>>44
兵農分離がうまく出てないから疲弊しまくったんじゃんw

46:人間七七四年
10/10/01 19:43:17 bw315yRD
>>44
結局最後に勝ったのが一番強いんだよw

47:人間七七四年
10/10/01 19:43:48 65aV9O2y
>>42
徳川の信濃平定は単に豪族連中に領土安堵状出したり
間接的統治しいてるだけ
木曽が84年春に離反し夏に徳川が敗戦
小笠原・真田が85年に離反し85年春・秋と敗戦
徳川の信濃支配はこれで佐久諏訪伊那のわずか3郡となっている

48:人間七七四年
10/10/01 19:44:07 bw315yRD
>>44
その裏切られまくる基盤を作ったのが信玄のミスだよ

49:人間七七四年
10/10/01 19:45:09 65aV9O2y
>>45
兵農分離のできたプロ戦士を持ってして負けまくり家を滅ぼした凡将もいたがな
>>46
なら家康が断トツ最強で他はカスね

50:人間七七四年
10/10/01 19:45:41 bw315yRD
>>47
領土安堵状出したりする間接統治する事で平定した徳川はうまいよ
そうやって天下を統一したんじゃんw

51:人間七七四年
10/10/01 19:46:59 bw315yRD
>>49
間接統治しなきゃ天下統一なんて出来なかったでしょw

52:人間七七四年
10/10/01 19:48:32 bw315yRD
結局外様大名にも領地をあげて
徳川の家臣だけ領国経営を治めるって事が出来なかった訳なんだからw
でも徳川の天下は300年続いた訳だしこのやり方が一番正しいw

53:人間七七四年
10/10/01 19:51:33 65aV9O2y
だから信玄は直接的にせめて切り取ってるから
間接統治ですら苦戦すんだからまともに切り取ってそうそう簡単にうまくいくかって話してんのに
信玄の国力、信濃の地勢、長尾や上杉の介入。これ鑑みりゃ苦戦して当然

54:人間七七四年
10/10/01 19:51:53 bw315yRD
信長は降伏したやつはみんな殺してたからw
やっぱり一番戦略がうまいのは徳川だなw

55:人間七七四年
10/10/01 19:53:21 bw315yRD
>>53
20年も時間かかり過ぎw
それなら北信濃は諦めて駿河とか相模に攻めた方がよっぽど良かったよw

56:人間七七四年
10/10/01 19:56:04 bw315yRD
武田家が滅びることになった原因の多くは信玄にある

57:人間七七四年
10/10/01 19:59:54 bw315yRD
後継者をきちんと決めなかったりとか
金山を掘り過ぎて財政を圧迫させていた

58:人間七七四年
10/10/01 20:00:04 65aV9O2y
甲斐22万石 信濃39万石
各上の国力なんだから時間かかって当然
これに長尾、山之内上杉が敵対なんだから。

59:人間七七四年
10/10/01 20:00:50 bw315yRD
>>58
信長はもっと早く美濃を平定してますがw

60:人間七七四年
10/10/01 20:02:00 bw315yRD
>>58
そもそも信濃平定にそこまで拘る必要はあったのか?w

61:人間七七四年
10/10/01 20:03:10 YK30Berb
>>49
おいおい、傭兵つったって信長が雇ったそれは現代で言われるような戦闘のスペシャリストや、
三十年戦争でヴァレンシュタインが率いたような精鋭とは訳が違うぞ?

寄せ集めの雑兵ばかりでも、とにかく無期限で働いてくれる常備軍というのが大事だったんだ。


62:人間七七四年
10/10/01 20:04:27 bw315yRD
>>61
その雑兵を使ってでも鉄砲等の近代兵器を用いて
勝てる戦法を考えた信長は凄いw

63:人間七七四年
10/10/01 20:04:45 65aV9O2y
信長の美濃攻略は義龍時代手も足も出ず龍興の代に浅井に手伝って貰って
家中統制ガタガタでクーデター起こるほどだったのを大軍で襲って敗戦重ねて
調略で切り崩して勝っただけ。
領土面積による移動の手間でいっても甲斐~信濃>>>尾張~美濃なんだし

64:人間七七四年
10/10/01 20:05:25 bw315yRD
>>63
美濃は大名だったが信濃は小豪族だろw

65:人間七七四年
10/10/01 20:07:25 AbjqX4Ej
まさかの義清最強説

66:人間七七四年
10/10/01 20:08:00 65aV9O2y
常備軍としての戦歴を誇る戦闘のスペシャリストを使って、

斉藤、本願寺、浅井、武田、伊勢長島と大敗や大苦戦

織田信長はよぇぇぇなー。

67:人間七七四年
10/10/01 20:08:25 bw315yRD
結局信玄は時間かかり過ぎて寿命で死んで
自分が死んだ後の事は考えてなかったから
勝頼りが尻拭いをする羽目になったw

68:人間七七四年
10/10/01 20:09:25 bw315yRD
>>66
戦に負けても滅びなければ負けた事にならないんだよw

69:人間七七四年
10/10/01 20:11:19 65aV9O2y
織田家は滅びましたが

70:人間七七四年
10/10/01 20:12:59 AbjqX4Ej
久しぶりの武田厨と織田厨のぶつかるスレ
正確には信玄厨と信長厨

71:人間七七四年
10/10/01 20:13:26 bw315yRD
諸葛亮孔明だってわざと15回負けて16回目に勝つって策略使ってるんだがw
結局最後にかったやつが一番強いんだよw

72:人間七七四年
10/10/01 20:14:12 bw315yRD
>>69
武田よりは後に滅びたから織田の勝ち!!

73:人間七七四年
10/10/01 20:15:11 65aV9O2y
信長はそんな策略なんぞつかっとらん
圧倒的大軍で攻めて倒そうと思ったらいっつも敵に妨害されて敗走。
最後には寡兵の光秀に奇襲されてお陀仏

74:人間七七四年
10/10/01 20:16:14 AbjqX4Ej
>>73
寡兵じゃないじゃん

75:人間七七四年
10/10/01 20:17:19 bw315yRD
>>73
>>13

76:人間七七四年
10/10/01 20:17:31 65aV9O2y
織田厨論理だと最後に笑えばいいんだろ?なら家康のみ勝者で他はカスだからどっこいだろ

光秀は信長よりずっと寡兵だろ。動員できる兵でいや信長のが多かったけど油断して奇襲されて戦死した。

77:人間七七四年
10/10/01 20:18:43 65aV9O2y
>>75
>>16

78:人間七七四年
10/10/01 20:19:10 bw315yRD
>>76
俺は織田厨じゃ無いけど最後に勝ったのが勝者だよw
だから家康が勝者で正しいw

79:人間七七四年
10/10/01 20:20:13 bw315yRD
>>77
>>17

80:人間七七四年
10/10/01 20:23:35 bw315yRD
武田は滅びてるから負け組み!
その原因を作ったのも信玄自身にも責任がある

81:人間七七四年
10/10/01 20:41:01 bw315yRD
はい論破!!www

82:人間七七四年
10/10/01 20:50:31 4CjGJsfH
甲斐の虎って信玄よりノブトラのほうが似合ってるよな

83:人間七七四年
10/10/01 20:51:34 bw315yRD
信虎が追放されない方が面白かったかもなw
信玄は過大評価されすぎなんだよw

84:人間七七四年
10/10/01 21:01:46 8giSETB6
そろそろだがが来るから論破の準備しときなw

85:人間七七四年
10/10/01 21:16:25 bw315yRD
>>84
だがって誰だよ?www

86:人間七七四年
10/10/01 21:26:36 7sErlBzL
だが知らないのかよww
さてはこの板来たの初めてだろ?w

87:人間七七四年
10/10/01 21:28:27 k8kE1poy
武田家が過大評価されるのは地図上の面積がやたら大きいから
実際に国力で言えば織田家の10分の1もなかったろう

88:人間七七四年
10/10/01 21:29:46 bw315yRD
>>86
初めてでは無いが普段は狼板にいるw

89:人間七七四年
10/10/01 21:30:47 bw315yRD
>>87
だから武田信玄は普通の大名だよw
みんなが過大評価し過ぎるんだよw

90:人間七七四年
10/10/01 21:35:07 7sErlBzL
俺も信玄嫌いだからよく信玄ばかにしてるんだが
そうするといつも絡んでくるやつがいてねw
そいつがだがってやつw
かなりしつこいから気をつけろよwww

91:人間七七四年
10/10/01 21:37:13 mhZBwD7a
信玄謙信のせいで信長の野望のパワーバランスが崩れてんだよ

マンセーはいい加減にしろ

92:人間七七四年
10/10/01 21:38:17 bw315yRD
>>90
そういう馬鹿がいるから歴史の捏造がおきるんだよw
正当な評価が出来ないと偏った評価しか出来ないからなw
もっと客観的に見て正しい歴史を残さないと駄目だなw

93:人間七七四年
10/10/01 21:39:15 bw315yRD
>>91
そうそうwそもそも人一人の能力でそんなに歴史は変わらないってw
余りにも能力がかけ離れすぎてるのはおかしいってw

94:人間七七四年
10/10/01 23:52:58 AbjqX4Ej
何だ、ただのゲーム脳か
こりゃアホなわけだ

95:人間七七四年
10/10/01 23:56:19 AbjqX4Ej
この基地外ならだがと釣り合いが取れそうだな
お互い訳の分からない事をわめきあって存分に踊ってくれ
どうせお互い何一つソースも出せないゲームや漫画がソースの妄想をぶちまけあうんだろうなw楽しみだ

96:人間七七四年
10/10/02 00:39:22 DMOc7zVi
>>94
ゲーム脳じゃないからゲームの信玄の評価を苦言してるんだろw

97:人間七七四年
10/10/02 00:40:03 DMOc7zVi
>>95
ソースって甲陽軍艦ですか?w

98:人間七七四年
10/10/02 00:49:42 DMOc7zVi
歴史上の人物を評価する場合、その人物の持つ地理的条件や社会的な背景など、様々な観点から総合的に判断しなければならない。
「たら・れば」で論ずるのは適切ではない。
例えばこの板で散々叩かれている伊達政宗ですが、彼の「あと20年早く生まれていれば・・・」などというのは、
本人が負け惜しみで言った時こそ可愛げがあるのであって、周りがそれを本気で捉えて論ずるのはナンセンスだと思います。


99:人間七七四年
10/10/02 00:51:27 DMOc7zVi
歴史は「原因と結果」の積み重ねであり、「無かった」歴史は何の経験にも手本にもなりません。
歴史学でも、仮想思考するときもありますが、状況証拠を精密に積み上げ、
可能性をギリギリまで煮詰めて論じてこそ、意味があります。
それでも「思考実験」の域を超えませんけれど。

残念ながら、学校教育では「歴史事項」は覚えさせられても、
学問としての「歴史学」は教えてくれません。
歴史を客観的に研究する上での、ノウハウをみんな知らないんです。
史料の見方・扱い方も、思考としての考え方も知りません。
私は大学で初めて、そういったメソッドを学びました。
それでも多くの歴史に関する本を読んだ人は、自然にそういうノウハウを身につけられます。
その域に達しない人は、言うまでも無く「歴史思考」としては大変未熟。
ベテランとビギナーでは対等に話をしてもかみ合いません。

こちらはまじめに歴史を論じているのに、歴史をただの趣味ツールとしか受け取れない人たちは、
住む世界が違う、ということです。
ですから、馬鹿げた仮定や空想は、私は無視しています。
未熟同士で、勝手に楽しめばいい。
ただ、無知なくせに専門的な話し合いに、割り込んでくるのには閉口させられますけどね。

言論・思想は自由ですが、馬鹿げたことを言うと、自分の値打ちが下がるということも認識してくれたら、
もうちょっと世の中も上品になると思います。
羞恥心の問題ですね。
羞恥心のかけらも無い連中が、「武士道」とか「義」とか言うのを見ると、正直情けないです。


100:人間七七四年
10/10/02 02:31:39 DMOc7zVi
はい!論破!!wwww

101:人間七七四年
10/10/02 02:51:18 GSB0R8Nb
こんな時間まで起きてたのかw
だがは今日は来ないみたいだから寝ときなww

102:人間七七四年
10/10/02 03:32:13 DMOc7zVi
仕方ない今日は寝るかw

103:人間七七四年
10/10/02 11:55:23 gMKWEdvA
うわぁ・・・真性のキチ印かコイツ
だがやSubよりキモさだけなら勝ってるぞ

104:人間七七四年
10/10/02 12:00:47 gMKWEdvA
>>96
マジレスしてやるとゲームの評価を気にしてる時点でゲーム脳
ゲームで過大過小は当たり前だし歴史ゲーム板にそういうスレがあるんだから板違いにも程がある
歴史を研究してる奴の見解に評価をくだすならともかくゲームをここで語られても困るわw

105:人間七七四年
10/10/02 13:00:54 DMOc7zVi
>>104
だからゲームだけじゃなくて総合的評価を分析して語ってるんだがw


106:人間七七四年
10/10/02 13:01:44 DMOc7zVi
>>103
まともに論理的に反論できないのか?www

107:人間七七四年
10/10/02 13:25:57 DMOc7zVi
信玄や謙信は戦術に秀でていますが長期的なビジョンを持って戦っていたとは思えません。

ただ合戦に強いというだけでは天下統一など出来もしないのですが、
「彼らが生きていたら信長は・・・」などとまるで信長と対等かそれ以上に語られる事が多い所ではないでしょうか。

「戦国最強」とはどう言う意味か?彼らならどんな日本を作り上げられたのか-と問いたいですね。

108:人間七七四年
10/10/02 13:28:31 DMOc7zVi
>>107
信玄の場合は善政をひいたとされるうそ。
実際は「民政において」大身の戦国大名の中で最も悪辣といって良いくらいの暴君だった。

両者の共通するのは、「天下を獲れた」という過大評価ですね。



109:人間七七四年
10/10/02 13:37:28 DMOc7zVi
武田の崩壊は、信玄にあったと言うのが最近の研究ですか。
歴史研究の分野において、武田家の崩壊について信玄に
原因があったと言われる最大の理由は、
「武田家を近世大名化できなかった」からだと言われています。

大半の日本人が理解していませんが
「戦国大名」とは家臣団が構成する連合国家のまとめ役に
過ぎず、家臣に対する権限は非常に限定的なのです。
「御恩と奉公」で中央集権体制が確立した江戸時代の
大名とは根本から違うのです。

信玄ほど実力のあるカリスマがまとめ役の間は起こらなかった
問題が、必然的に次代当主が後を継ぐと噴出します。
これは信玄が信長がしたように、中央集権化を怠ったからと
言えるかもしれません。

よって、信玄本人の実力の有無が武田滅亡の
原因ではないでしょう。



110:人間七七四年
10/10/02 13:39:51 DMOc7zVi
まず義信を殺してしまい勝頼を信勝までの繋ぎにした事で勝頼引き立て衆と譜代衆に確執が生まれ親類衆では小山田、穴山、木曽らが独立の動きをとりはじめた!
信玄の指示で諏訪を継ぎ高遠城代に過ぎなかった勝頼は当主として必要な帝王学を教えられてなかったんでまとめる為には軍功しかないと考えた!
海をとるために今川派だった義信を殺してのはまずかったですね!
義信は信玄に勝とも劣らない器と24将から評されしっかり帝王学も学んでましたから


111:人間七七四年
10/10/02 13:52:18 DMOc7zVi
結局、武田が滅亡した原因は専任の戦闘者を設けず、昔ながらの半農半戦闘者だったところが原因でしょう。
システムの敗北です。統治者の能力も要因としてはあるでしょうが、システムを変更できなかったことが最大の原因だと思います。

人間性はともかく、外交面での失敗は小さくありませんが、織田や徳川が無謬のように見えるのは結果論でしかありません。
システムが古びて、機能しないのにそれを変更できない会社は今も昔も淘汰されるものです。



112:人間七七四年
10/10/02 15:30:06 GSB0R8Nb
スレ主はコテつけてくれw

113:人間七七四年
10/10/02 15:35:46 DMOc7zVi
コテなんてつけなくても良くない?別に自己主張して目立ちたいわけではないのでwww
客観的に歴史の人物の評価を分析したいだけだからwww

114:人間七七四年
10/10/02 15:48:39 WHBay5hA
あの家康を会戦で散々に打ち払ったんだから仕方が無い

115:人間七七四年
10/10/02 15:53:51 DMOc7zVi
>>114
>>3

116:人間七七四年
10/10/02 15:56:47 DMOc7zVi
>>114
天下を取った徳川が惨敗した数少ない敵だったので、徳川家が自身の評価を上げるため過大評価しただけでしょ。

117:人間七七四年
10/10/02 16:01:26 DMOc7zVi
武田信玄は立派なことをしたわけでもないし、天下をとったわけでもないし、単なる戦国時代に生きた地方の一大名

118:人間七七四年
10/10/02 16:36:39 gMKWEdvA
>>105
だから総合って何?ゲーム以外のもの挙げられるものなら挙げてみろよw
ある程度歴史を研究すりゃ信玄に限らずボロなんかどの大名でも大量に出てくるし自分の家の軍記を捏造マンセーは当たり前なんだが
まさか戦国板で軍記について批判しに来たわけじゃないだろ?一次史料と照らし合わせてどうぞ

119:人間七七四年
10/10/02 17:23:26 GSB0R8Nb
スレ主敗走した?w

120:人間七七四年
10/10/02 18:17:34 BHYAkgIb
>>118
ゲームの話なんかしてないじゃんw

121:人間七七四年
10/10/02 18:21:50 BHYAkgIb
>>118
>>107-111

122:人間七七四年
10/10/02 18:33:32 UAV8TDbs
>>118
軍記を批判する訳じゃ無いが軍記に書いてある事全てを鵜呑みにするな!



123:人間七七四年
10/10/02 19:41:11 DMOc7zVi
織田信長が存命中に信玄と謙信に対してどのように振舞ったか?
考えたことはありますか?

貢物、同盟などでひたすら時間を稼いでいました。
中央方面でも多くの敵を抱えていた信長にとっては、この2人の
上洛を少しでも遅らせ、自力をつける時間が欲しかったのでは
ないでしょうか。

戦国、下克上という時代の本質を理解していた信長が優秀で
あり、権威などにとらわれていた上杉、武田では狡猾さにおいて
信長に遅れをとっただけでしょう。

仮に優秀な2人が隣国同士で、性格は水と油です。
お互いを認めず、牽制しあっていましたので、結局は時間切れ、
その間に力を蓄えた信長、秀吉、家康の勝ちです。

もっとも他に評価の高い島津にいたっても
薩摩、大隈、日向程度でしかなく、地理的にも温暖で
雪深くない地域の割りに九州すら統一できませんでしたし。

関ヶ原の突破も、徳川軍の隙をついて一点突破しただけで
何も東軍全軍を相手にしたわけじゃありませんしね。
なにより、1500人で数万が展開した戦場を左右できるような
豪傑を家康が放置するわけはありません。見逃してもたいした
事がないから見逃した。ただそれだけ。

優劣にしても、見る目が変われば評価も変わる、その程度の
ものです。「強い」とされる意見と同じだけ、その反対の見方や
意見もあるものです。

124:人間七七四年
10/10/02 19:48:07 DMOc7zVi
>>118
武田最強は捏造。信長に勝てません。家康の領土も攻略できてない。甲陽軍鑑の影響力甚大。



125:人間七七四年
10/10/02 20:08:36 gMKWEdvA
>>124
だから捏造なんてのはわかってんだよ 軍記なんて捏造マンセーの為のものだし
戦国板にわざわざ出張してきて信玄は過大評価!軍記は捏造(キリッとか言いに来たわけじゃないだろ?
三傑と比べれば劣ってるのは当たり前だしそれでも他の大名と比べれば抜きん出た存在に違いない
息子が人望を集めていただのなんだのソースも出さないで何を根拠に書いてるのかしら 根拠ないなら軍記以下だべ
自分の発言に責任を持って根拠にたる史料を是非とも提示して欲しいもんだ
軍記は捏造なのを理解しながら誰の評価を過大と言ってるのか知らんが批評をくだすなら当然一次史料は知ってるよな?

126:人間七七四年
10/10/02 20:52:01 DMOc7zVi
>>125
歴史に「・・・たられば」はありません。武田が滅亡したのは信玄にも原因があったのは事実です。次に武田義信が生きていたら・・・・
では武田義信の死亡原因は何であったか考えてみてください。
妻の実家の今川家との策略で信玄をお館様から引きづり下ろす行動に出て信玄にとがめられています。
自分を排除しようとした者を自分の跡目にすることが考えられますか。
本家の血筋がなければ信玄が諏訪姫に産ませた勝頼が跡目になるのは自然の道理ではないでしょうか。
また、国と国の同盟は未来永劫つづくものではありらません。その時その時を生き残るための手段にすぎません。
都合が悪くなれば同盟を破棄して戦が繰り返されたことは、多くの史実が残されています。
今川家の滅亡は、天下を目指して上京する途中、桶狭間で織田信長に討たれています。
少なくともこの時点では三国同盟は維持されていました。三国同盟も義元というトップリーダーが亡くなった時点で同盟関係の形がもろくも崩れています。
偉大なリーダーの死とともに国体が弱体化して国が滅んでいくことは国内外問わず歴史の史実として残されています。
いつの時代も新しい強いリーダーを求めています。武田家も織田徳川連合軍に挑んで敗北し衰退した一族の結末であります。武田信玄は戦国時代の名称であったあったことは多くの人が認めています。歴史を推測すること楽しいですね、大いに推測してください。


参考

生涯 [編集]
天文7年(1538年)、甲斐の戦国大名である武田信玄(信玄)の嫡男として生まれる[1]。
晴信は天文5年に公家の三条公頼の娘(三条夫人)を正室に迎えており、
『甲陽軍鑑』によればこれには武田氏と同盟関係にあった駿河国の今川氏の斡旋があったという。
天文19年(1550年)に13歳で元服し、4月8日には駿河の今川義元の娘(従姉妹)を正室に迎えている[2]。
傅役は飯富虎昌(『甲陽軍鑑』)。天文21年(1552年)8月には具足始が行われる(「高白斎記」)。

翌天文22年12月29日には、武田氏歴代の中ではじめて室町幕府将軍の足利義輝より足利将軍家の通字である「義」の偏諱を受けて義信と名乗り、
甲府館内には居所として西曲輪が増設されている(「高白斎記」)。

初陣は天文23年(1554年)の信濃国佐久郡の知久氏攻め[3]。
永禄元年(1558年)に晴信が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けており、
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄4年(1561年)の第4回川中島の戦いにおいても出陣して武功を挙げたという。

永禄8年(1565年)10月には信玄暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉され(『甲陽軍鑑』)、
永禄10年(1567年)10月19日には東光寺で死去、享年30[4]。同年11月に義信正室は駿河へ帰国している(『上越市史』)。

義信事件 [編集]
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄7年(1564年)7月に義信の傅役である飯富虎昌、側近の長坂源五郎(昌国)、曽根周防守らが信玄暗殺の密談をしていたが、
計画は事前に虎昌の実弟である山県昌景の密書により露見し、永禄8年(1565年)1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となったという。
さらに、義信も同年10月に甲府の東光寺に幽閉され、義元の娘と強制的に離縁の上、後継者としての地位を失い、同年11月13日には諏訪勝頼に信長の養女遠山夫人を迎えて誼を通じたという。
また、『甲陽軍鑑』では事件の背景を第4回川中島の戦いの顛末や、異母弟の諏訪勝頼(武田勝頼)が高遠城主となったことに対する不満にあるとしている。

義信事件について詳しい経緯は不明であるが、永禄3年の桶狭間の戦いにおける今川義元の戦死、永禄4年の第四次川中島合戦後の北信地域の安定を契機に、武田氏は対外方針を転換し、
義信事件後には今川氏との関係が悪化し永禄11年には今川領国への駿河侵攻が開始されているが、主要な武田氏研究者の間では事件の背景に親今川派の立場にある義信と今川領国への侵攻を志向する信玄の間に派閥抗争が存在していたことを想定する見解で一致している[5]。

事件後の永禄10年(1567年)8月7日には小県郡の生島足島神社において、領国内の家臣団に信玄への忠誠を誓わせた起請文が奉納されているが(『戦武』1099ー1186号)、これは事件後に生じた家臣団の動揺を鎮める意図であったとする見解がある[6]



127:人間七七四年
10/10/02 20:56:35 DMOc7zVi
>>125
ちなみに正式に武田本家の後継者に指名されたのは、勝頼の子・信勝です。やっぱり、四男で、諏訪氏の子というのが都合悪かったようですね。勝頼は「後見役」でした。信玄のこの中途半端な措置が、武田滅亡につながった、といわれています。
 正式後継者じゃなく、ただの後見ですから、部下がいうことを聞かないんですよ。

128:人間七七四年
10/10/02 21:03:14 DMOc7zVi
「武田家をつぶしたのは信玄の継承策の失敗」
「事業継承は、継ぐ側よりも、継がせる側の方に問題がある場合が多い」


129:人間七七四年
10/10/02 21:19:42 DMOc7zVi
義信の死から信玄の死まで5年あったのに勝頼に跡を継がせるための
下準備が全く出来てなかったのが一番大きいな。 生前に家督を譲って形式でも当主として活動させていれば
信玄死後もスムーズに勝頼を当主とする体制に移行できたと思う。


130:人間七七四年
10/10/02 21:22:47 DMOc7zVi
ちなみに、信玄が生きてた頃の織田と武田の関係は 織田が必死に懐柔工作をして武田家といい関係を築き 武田に西上させないようにしていました。
娘を武田家に嫁がせて、事あるごとに高価な貢物を送っていました。 ただ単純に高価なのではなく、桐の箱に武田の家紋を入れさせたりして
贈り物だけでなくそれを入れる箱さえもかなり凝った物を送っていたようです。 信長の信玄に対する念の入れようは相当なもんです。
それもこれも、信玄の時代の織田家は領土が急激に拡大して兵力が分散している上に 領土内では本願寺、一向宗、長嶋、雑賀などの一揆が盛んに起こり、
領土の周囲は敵に囲まれていたからです。 織田と武田が全面戦争をすれば兵力では織田が圧勝するはずだけど、 織田は兵力を一方面に集中出来ない状況にありました。
その証拠に織田は三方ヶ原では佐久間の手勢を援軍に送っただけで徳川を見捨てざるを得ませんでした。 とりあえず京都から岐阜までは戻ったけど何も手が出せないで動けませんでした。
というか、わざと手を出さなかったのかも。 美濃あたりまで攻め込ませて武田軍を消耗させておいて叩く作戦だったかも。 いずれにしても武田は織田領内に深入りすれば確実に負けます。
西上作戦開始前の時点で武田には3つの選択肢がありました。 西上して織田を潰すか、西上せずに今までどおり織田とは表面上仲良くしつつ深慮遠謀で苦しめるか、 完全に織田と仲良くするか。
信玄の西上作戦はかなり無理がありました。 実は武田家の国力はそれほど高くはないから、 順調に行ってもせいぜい美濃ぐらいまでしか到達できない、
あとの兵糧は敵地で奪うみたいな無茶な作戦でした。 (実は上洛しようとまでは思ってなかったのかも、という珍説もあるくらい)
そんな無茶な作戦を敢行してでも上洛しようとしたのは、信玄の健康上の問題があったからです。 しかし無茶な作戦を敢行するからには、絶対に成功しなければなりませんでした。
多大な出費をして、出費しただけでそのまま国に帰れば、国の経営は破綻します。 それほど無理して行なわれた作戦だったのです。。 まさに信玄が財政面で国家滅亡のトドメをさしたのが「無茶な西上作戦」でしたね。
結果として信玄が死んだおかげで反織田の勢力は衰え、逆に織田は息を吹き返し、 織田は悠々とひとつづつ潰して行きました。 3年後の長篠の合戦では、武田には最早なすすべがありませんでした。
兵農分離も出来ない貧しい山国の農民兵や、 唯一の自慢である時代遅れの騎馬軍団は最新鋭の鉄砲隊の前に壊滅しました。

131:人間七七四年
10/10/02 21:40:35 gMKWEdvA
なんか妄想相当垂れ流してるようで悪いがそんな訳の分からん理論、いちいち突っ込む気も起きん
徳川を見捨てたとか上洛スレの最初の頃のような話じゃないか 懐かしいな
講談の脚色をくわえた話を真に受けてるようだし自分に都合良く話を解釈するのは皆やる事
甲陽軍艦は捏造とか言ったじゃないかw自分に都合のいい記述だけは採用か
とりあえず上洛スレの過去ログ漁ってこいよ その程度しか知識ないんじゃだがにさえ負けるぞwww

132:人間七七四年
10/10/02 21:42:48 DMOc7zVi
>>131
>>122

133:人間七七四年
10/10/02 21:46:36 gMKWEdvA
>>132
いやお前が提示したのが捏造軍記だけじゃん
一次史料提示してみろよ
流石武田アンチは捏造大好きだな

134:人間七七四年
10/10/02 21:48:43 GSB0R8Nb
マジでだがクラスだなw
この二人の対決が見たいw

135:人間七七四年
10/10/02 21:50:56 DMOc7zVi
>>133
>>126は捏造じゃないからwww

136:人間七七四年
10/10/02 21:54:44 DMOc7zVi
今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。

義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。

四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。

本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。

四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。

武田が滅びたのはどう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。

137:人間七七四年
10/10/02 22:09:59 JsrZwBYt
>>116
実際徳川家康は武田以外には圧倒的強さだからな。今川北条豊臣一向宗朝倉。
武田は対織田戦(上村、東美濃、岩村攻囲戦、高遠等)対北条戦でも強かったし

>>124
信長の大軍にわずか5000程度で蹴散らした東美濃攻防戦や上村合戦もあったしな
長篠だって『陣城にこもってる大軍の敵』にぬかるんだ地面の中発狂して突撃した勝頼の自爆が原因だし
逆にその状況で柵が到る所で破られ織田方にも損害でてるし
高遠攻防でも何十倍もの敵に野外戦で多くの損害与えて織田一門の一人を討ち取る奮戦ぶり。
どう考えても織田より強いな
家康も滅亡寸前の所だったし


138:人間七七四年
10/10/02 22:17:07 DMOc7zVi
信玄最大の失敗は跡継ぎを誤まったことで、長男の武田義信を殺して、孫の信勝を後継者に指名したため、義信と親しかった穴山信君が離反しましたし、
代行を務めた勝頼は武田家最大領土を獲得したにも関わらず正統後継者ではないとの事で評価は低く、
家臣の信望も今一のまま滅亡します。
義信を殺さなければ甲斐はまとまったかも知れませんし、せめて勝頼を後継者に指名すればもう少し滅亡を遅らすことも可能だったかも知れません。
それぞれ理由はあったので、今となってはですけど。
ただ、信玄の世代では、天下を握ると言うビジョンが無く、せいぜい領国を大きくすると言う考えしかありませんから、已む得ない面はあります。
織田信長のように、今川家を破りながら領土を奪わず、三河と言う干渉帯を作って西に全力を注ぐとか、兵農を分離して常備軍を創設するなどは天才だからの発想で、
彼以前の数多の大名は考えもしなかった発想ですから、信玄は天才と言うレベルではないことははっきりしています
まあ信玄はそこそこ優秀な普通の大名です。

139:人間七七四年
10/10/02 22:19:55 JsrZwBYt
>>111
武田の滅亡は基地外勝頼の発狂のせいでしょ。信玄は半農状態なのに
兵農分離の完了した(笑)織田軍をびびらせ現に蹴散らしてるけど
勝頼の長篠の敗戦や御館の乱の失敗、無理な中央集権化や新府築城で台無しになった。
>>125
>三傑と比べれば劣ってるのは当たり前
戦闘では、信玄>>家康>信長>>>>>>秀吉
総合では 信玄≒信長>家康>>>>>>秀吉

こんなもんでしょ。家康が信長より強いのは戦績から一目瞭然だし
秀吉みたいに圧倒的大軍で寡兵の敵に醜態さらすような事はしてないし

>>130
信玄時代既に財政がパンクしてたら長篠敗戦後徳川相手に後詰で出兵したり関東出兵なんてできるわけないって。
基地外勝頼が『まるで城攻め』と称される堅固な陣地に寡兵でぬかるんだ地面、大量の鉄砲の迎撃の中無茶して
突っ込んだから負けただけだし御館の乱で葦名北条伊達と協力せず景勝に買収されただけでなく
北条相手に駿河伊豆国境や上野で公然と敵対行動取る愚を犯したしたから滅んだだけ

140:人間七七四年
10/10/02 22:26:08 DMOc7zVi
>>137
結局武田家は滅びてるじゃんwww

天下を取った徳川が惨敗した数少ない敵だったので、徳川家が自身の評価を上げるため過大評価しただけでしょ。


141:人間七七四年
10/10/02 22:28:01 JsrZwBYt
>>140
天下取った徳川家が唯一やられまくったって事は強い証拠でしょ。
現に織田や北条もけちょんけちょんに蹴散らされてるし
滅んだのは基地外勝頼の発狂のせいだし他の武田武将や信玄に押し付けるのは酷だろう

142:人間七七四年
10/10/02 22:28:24 DMOc7zVi
>>137
>>107

143:人間七七四年
10/10/02 22:34:04 JsrZwBYt
武田が滅んだのは95%勝頼のせいだろ。

長篠では雨でぬかるんだ地面で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に突撃

御館の乱では北条・伊達・葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する

新府城もあの状況でやるのは…としか。

能力どうこうを超えて基地外すぎるな。

144:人間七七四年
10/10/02 22:35:35 DMOc7zVi
>>141
家康としては人生最大の敗戦と言えるでしょう。

しかし江戸時代家康は「神君」として絶対的な存在になります。
その家康の痛恨の出来事を脚色するためには
必要以上に武田信玄を持ち上げなければなりません。

また家康が信玄を尊敬したことも考慮されます。
その結果信玄と互角に渡り合った謙信の評価も上がることになり
両者はかなり高く評価されることになりました。

両者については秀吉が川中島を見て
「儚き戦をしたものよ。」の述べたことがすべてです。

二人とも「戦国大名」としては戦は強くても
「天下人」としては最低ランクだっただけです。



145:人間七七四年
10/10/02 22:37:50 DMOc7zVi
正直信玄や謙信を擁護する方、あまり戦国時代をご存じでない?
と思わざるを得ないと思います。
信長が信玄謙信を恐れた、とか
謙信は生涯負けなし、とか大真面目に言う人がいまだにいるというのは
やはりメディアの影響なんでしょうね。

146:人間七七四年
10/10/02 22:39:24 DMOc7zVi
信玄の過大評価は甲陽軍鑑や北越軍記など江戸時代に編纂されフィクションをいれた軍記物や軍学書の影響で、神格化が図られた部分も大きいです
主なフィクションとして取り上げられるのが、信玄と謙信の一騎打ち、車懸かりの陣、山本勘助の策などが挙げられます
現代のメディアでも、話を面白おかしくするためにこういったフィクションは積極的に取り上げられます
武田の旧臣が家康やその配下に多く召し抱えられたのも手伝っています


147:人間七七四年
10/10/02 22:40:34 JsrZwBYt
>>144
それならなぜ敗戦の事実自体捏造せずまた真田の講談や長野の講談や糞もらしや
家康を神君どころか貶める逸話が紛れ込んでるんでしょうかね。
尊敬どうこうや持ち上げどうこうは所詮妄想の域を出ないだろう。
事実として家康は武田以外には圧倒的に強く天下を取ったが武田にはやられまくった
んだから武田は強いとしかいいようがない。北条や織田との戦いでも明白

148:人間七七四年
10/10/02 22:40:58 DMOc7zVi
>>143

武田家において勝頼の能力が劣っていたという訳ではなく、人望も厚かった義信を信玄が死に追いやった事が家中に亀裂を生じさせたものと考えます。

勝頼には武田家の通字「信」が使われておらず、諏訪家の通字「頼」が使われている事から、信玄は勝頼には諏訪家を継承させるつもりであったようです。因みに勝頼嫡男(信玄の孫)は、信勝。



149:人間七七四年
10/10/02 22:44:11 JsrZwBYt
むしろ甲陽軍艦や北越軍記なんて現代であまり評価されてないじゃん。
信長公記ばかりが狂信的に信じ込まされてるし君の論理だと信長の方が圧倒的に過大評価されてると思うがな。
織田旧臣系だって結構生き残ってるぞ。細川藤堂金森稲葉丹羽前田ら。

150:人間七七四年
10/10/02 22:45:05 DMOc7zVi
>>143
武田勝頼。
彼の戦場指揮官としての勇猛さ・優秀さは多くの方が持っているイメージの通りかと思われます。
また、長々書いても周知の事実なのではぶきますが、武田家の当主としての不安定さ、金山の枯渇・・・などの諸問題が勝頼にあったということも事実です。
それはおいといて。
勝頼は武田氏最大の版図を実現させましたが、そのこと自体は大きく評価するほどのことでもありません。
信玄死亡時の武田家は隆盛を極めており、その勢いをして信玄時代より少し領土を広げただけであるため、
「勝頼は信玄を越える武将だった」などと大袈裟に評価できたものではない。
まあ、広げたのは事実ですし、その軍事行動を決断したのも勝頼なのですがね。
長篠の戦い前後のネタは置いておいて、その後勝頼は、信玄以来の老臣の死を利用して自らの体制強化に励む。
勝頼はその象徴となる新府城を築城するのですが、それは結局、財政・領民に大きな負担をかけるだけの役割しか果たさなかった。
大軍を率いての軍事行動を頻繁に起こすが成果が上がらず、これも大きく財政を傾けた(まあ、状況からして仕方がないのですが)。
そのほか、御館の乱で北条家との同盟を潰してしまう、高天神城を見捨てる・・・などの失策は多いのですが、当時の武田家の状況はとにかく厳しく、
勝頼がいかほど思案しても打開できるものではなく、織田政権がある限り勝頼の滅亡は免れなかったでしょう。
その厳しい状況の中で、色々と頑張った勝頼ですが、それが実を結ぶことはなく、結果的に評価されるようなことをなすことができなかった。
世間で言われるとおり「悲劇の武将」と言う言葉が、一番よく勝頼を形容しています。

おまけとしてまとめると、
勝頼は「滅亡を免れない中で尽力した」


151:人間七七四年
10/10/02 22:46:44 JsrZwBYt
>>148
よくわからんが>>143の失敗は家中の亀裂によって生まれたといいたいの?
でも最終的判断下すのは勝頼だし亀裂によって誤判断が生まれた史料も特にないし。


152:人間七七四年
10/10/02 22:48:17 DMOc7zVi
武田信玄は戦術家としては優秀かもしれないけど、戦略家としてはさほど優れていたとは思えません。
一方、織田信長は戦略家として優秀だと思います。

信長は確実に勝てる見込のある相手にしか攻めて行かない。
強い相手に勝つことが目的ではないからです。

信玄は上杉謙信の強さを分かっていながら、戦いました。
そういう面では戦略家としては失格でしょう。
今川義元が死んだ後も、激戦だった第4次川中島の戦いの後になっても、まだ謙信と戦おうとしましたからね(実際に戦ったし)。
北方進出、あるいは上杉謙信対策にこだわりすぎでした。

ずばり、もっと早く南下すべきでした。
つまり、北陸への進出はあきらめて駿河に進行するか、あるいは三国同盟を大事にするなら「今川と共同で」三河に攻めて行けば良かったはず。
今川と共同ならそれほど前線に兵力を差し向けなくて済むので、謙信への備えとしてある程度の兵力を信濃に残せたはずです。

153:人間七七四年
10/10/02 22:50:04 JsrZwBYt
尽力といっても>>143に書いたように明らかに誤判断といえるものを、
繰り返し行うのは冷静さに欠けた猪武者と呼ぶ以外ない
彼の失態がなければ武田家の状況は史実より遥かにマシになってただろう

154:人間七七四年
10/10/02 22:54:50 DMOc7zVi
>>149
まず、信玄が過大評価されている理由についてですが、
徳川と江戸期における風潮が密接にかかわっています。
まず、徳川の陣立てですが、これが武田流なのはよく知られています。
最初のころは三河系の陣立てだったのですが、
後に改革をおこなって武田系の陣立てに変えています。
そして江戸期になると、甲陽軍艦は軍学書の最高峰的な扱いを受けます。
甲州流も同様です。
大河ドラマの新撰組に武田観柳斎なる甲州流軍学術の使い手がでてきましたね。
つまり、徳川が天下を取ってから200年以上甲州流は
軍学の最高峰であり続けたのです。
西洋式にくらべればはるかに古臭い戦術論ではありますが、
200年以上も幅を利かせていたというのは大きいです。

信長が勢力を伸ばせた理由は、いろいろあります。
都から遠からず近からずの土地(これはかなり重要)であり、
国力もそれなりに高い。
尾張が守護の地位陥落によって小勢力(といってもほとんど織田一門)が
乱立している状態だったのも大きいです。
対して信玄は、都からは遠すぎ、国力は最低ランク。起伏が大きい上に、
山間部はいまでもそうですが集落点在型の構造をしていますから寡兵が困難、
さらには塩といった必需品を交易に頼っていたという経済的な面も大です。
逆に回りは高い国力を誇る国が多くあります。

私としては信玄は「戦略的勝利の達人」であったと見ています。
戦では五分でも戦略的な勝利が多いのが彼の特徴です(代表的なのは川中島)。
負けを負けとも思わせない収集力、丹念な人材登用などが大きいですね。

なお、勝頼の信用については、資料的な裏がないものの、
その後の彼と重臣の軋轢を考えれば、
関係は甲陽軍艦に近いものであったというのもうなずけるかと思います。

なお、官位と官職は別物です。名前で名乗るのは官職。官位は正六位とかのことで、
厳密には尉といったものは官職にあたります。
さらに戦国時代において官職は、勝手に名乗っている人はゴマンといますし、
正式任官している人のほうが少ないです。
というかほとんどの人は正式任官していません(官職を名乗っていても正式任官を断るケースもありました)。さすがに大名クラスならば任官していることも多いのですが・・・

また、確実な資料というのは実際には本当にごく一部であり、
第1級資料とされている信長公記であっても、
怪しい部分はあります(これは日記からの転載という点から、
第1級よりも少し落ちるという説を出す人もいます)。第1級資料を無視するのは
論外ですが、2級3級4級であるからといって、内容をすべて嘘と捉えるのは明らかに問題があり、
また1級を1級たらしめているのはBC級の資料による裏づけであることも忘れてはなりません。そのため第1級といっても内容がすべて正しいわけではないです。
もっとも、甲陽軍艦はかなり怪しい資料ではありますが・・・

155:人間七七四年
10/10/02 22:58:49 JsrZwBYt
>>154
>まず、徳川の陣立てですが、これが武田流なのはよく知られています。
>最初のころは三河系の陣立てだったのですが、
>後に改革をおこなって武田系の陣立てに変えています。
>そして江戸期になると、甲陽軍艦は軍学書の最高峰的な扱いを受けます。
>甲州流も同様です。
>大河ドラマの新撰組に武田観柳斎なる甲州流軍学術の使い手がでてきましたね。
>つまり、徳川が天下を取ってから200年以上甲州流は
>軍学の最高峰であり続けたのです。
>西洋式にくらべればはるかに古臭い戦術論ではありますが、
>200年以上も幅を利かせていたというのは大きいです。
むしろ強大な同盟者としてビビっていた織田軍学を学ばず滅亡した武田から
吸収しようとした点でいかに武田が強かったか理解できる材料でしかない


156:人間七七四年
10/10/02 23:01:50 NUYc4rl2
>>153
勝頼を考える際に家康の存在は欠かせません。
長篠の戦いの前に三方原の戦いがあり、家康は信玄に散々な敗戦をしています。
家康はこのときから短気を抑え、策略家になったと言われています。
長篠の戦いでは信長の援助を受け鉄砲隊で勝利を収め、
その後の勝頼との戦いでは調略を繰り返しながら領土を奪っていきます。
領地支配に関しては基本的に信玄と同じような形態を取ったのではないでしょうか。
そのことは「人は石垣、人は城」と表現した信玄と同じカラーを見て取れます。
ここで組織論になりますが、現代のオーナー社長から次の息子に移行する会社を思い浮かべると比較し易いと思います。
父親が社長の時には能力主義で1億円以上の売上を管理する幹部が5人いたとします。
その5人は父親社長と同年代、一緒に苦労した仲でお互いのことをよく知っています。
その父親が病気で急死し、息子が社長を継ぎました。これからはITの時代ということで色々チャレンジしたいのですが、
幹部のうち4人まではIT投資に反対します。そこへ業界に大資本が参入し、先にIT戦略を展開して会社の売上は減少します。
息子は反対する幹部よりも自分と同年代の成長株な社員を優遇し、新しい事業を起こそうとします。4人の幹部は退職したり、
転職したりします。こういうことはよく起こります。オーナー社長の会社で代替わりがうまく行かないことが多いのはこういうことです。
外的な要因が小さければうまく行くこともありますが、勝頼の場合にも信長という大きな要因があり、リベンジを誓う家康という存在があったからこそ、
能力が少々あったくらいでも生き残ることができなかったのではないでしょう

157:人間七七四年
10/10/02 23:07:22 JsrZwBYt
>>156
武田の滅亡の主要因は国人連中の離反の連鎖、元を正せば軍役過多による疲弊だろう
なぜこれを招いたかといえば>>143の要因にいきつくのは明白。
もう少し武将として冷静さがあれば滅亡は免れただろう。
>家康はこのときから短気を抑え、策略家になったと言われています
悪いけどソースよろしく。
その例示と勝頼の例がどう直結するの?勝頼は正確な判断力を持ってたという根拠は?


158:人間七七四年
10/10/02 23:07:29 DMOc7zVi
武田信玄は戦術的にはあまり優れてはいませんが、戦略的にはそれなりだったのではないでしょうか。
上杉謙信との北信濃の争奪でも戦闘は上杉方が勝っても、そのあといつの間にか上杉方のほうが後退しているという例が多いようです。
勢力が飛躍的に大きくなれなかったのは、信玄の本領である甲斐がもともと生産力は高くなく、それほど大きな兵力を養えなかったこともあります。

159:人間七七四年
10/10/02 23:13:04 DMOc7zVi
>>157
長篠の合戦についてですが、戦場とされる現場に行った人(例:紀行作家の宮脇俊三氏)の多くが
「非常に狭い場所で、ここで武田と織田・徳川合わせて数万の兵が戦ったなど到底信じられない」
と言っています。数万人の兵が入ったら、ラッシュ時の駅のような状況になりそうな山間の狭い平地であるようです。

なお、現在の歴史学界の定説としては
「織田側の三千の火縄銃による一斉射撃で、武田の兵がバタバタと撃ち倒された」
事実はなかった、とされています。

根拠は
1. 「三千丁の火縄銃」の一番古い根拠とされる史料で、「三千」の数字が後から書き加えられたものであり、筆跡が異なる。
本当は「千丁」であったようです。

2. 火縄銃というのは、一発撃つと周りに火花が飛び散り、黒色火薬ですから大量の煙が出るものです。
上述したような狭い場所で、仮に「三千丁を千丁ずつに分けての三段撃ち」をやろうとしても不可能です。隣の火縄銃の火花による暴発、濛々たる煙により視界ゼロ、といったことが起きます。
「三段撃ちは、物理的に有り得ない」ということです。

3. 武田軍の侍大将で討ち取られた者が多くいるのは事実ですが、退却戦の過程で討ち取られた者が多いとされています。いわゆる「設楽川を挟んだ『長篠の合戦の戦場』」で死んだと言われるのは、山縣昌景、真田兄弟など僅かとされています。

なお、「馬上で槍を振り回すことが出来たか否か」についてですが、現存する戦国時代の合戦屏風などの画像史料で、「馬上で刀や槍を振り回している」様子を描写しているものはありません。

一定以上の身分の武士が馬に乗っていたのは確かですが、それは
「戦場までの移動手段」
「指揮するときに、視線が高くなって遠くまで見えて指揮しやすい」
という理由によるものです。

江戸時代の早い時期までに描かれた合戦屏風の類で
「馬上の侍が槍を振り回している」
事例があれば教えて欲しいものですが、そのような例はないはずです。

160:人間七七四年
10/10/02 23:23:40 DMOc7zVi
>>157
勝頼が御館の乱でどちらについても結果はあまり変わらなかったかもしれません。
そもそも景虎側が勝つということは実質北条が越後、越中を手に入れ巨大化することを意味します。
先立つ金が必要だったこともありますが、武田は既に長篠の惨敗と経済的困窮で弱体化しており、
同盟相手であった北条氏政も機会あらば、織田徳川方に付こうという魂胆があったと思われます。
つまり同盟相手とはいえ、信用の置けない北条が巨大化して自領を取り囲むような事態を避け、
上杉景勝に北条に対する牽制役をお願いするしかなかったとも言えます。
御館の乱で景虎側が勝っていてもその後に氏政に裏切られ、四方から攻め込まれていたでしょう。
勝頼が死期を早めた原因はもっと前の段階で長篠の惨敗、ご親類衆との不和、有効な経済政策を立案できなかった、
といった点につきると思います。

161:人間七七四年
10/10/02 23:33:48 DMOc7zVi
>>143
新府城を造ったのは、織田の大軍に備えるためです。
甲信にはいくつも城がありましたが、
殆どが戦国前期~中期にかけての城であり、
対数千の敵勢を想定して縄張りが作られています。(戦国時代後期まで、数万の敵に攻め込まれるということは有り得なかった為)
これが織田軍となると、対数万の縄張りが必要になり、
それが新府城でした。その証拠に、あの山本勘助と秋山信友が大改築した高遠城も僅か二日で落城しています。

ちなみに信長の築城は、ちゃんと領民に賃金を払って造っているので、造れば造るほど領民が潤うものであり、
歓迎されています。よって一揆が起こることはありません。それだけ、織田家と武田家の国力が違うということです。


勝頼が築いた新府城のそもそもの目的は、籠城して相手が疲れて撤退するのを待つためでも援軍を待つためでもありません。
新府城に来る前に、兵力を前線で消耗するはずの織田軍を待ち構えて決戦をするため。

決戦で織田軍を撃滅するのに都合がいい場所に、前もって城を築いただけです。
もちろん、新府城とそれに付属する支城で少しでも織田軍の戦力を消耗させる目的もありましたが。

当時の武田家の状況では、ただ単に籠城しても他国からの援軍は来ないし、織田家との経済力の差を考えれば、ただ籠城するだけではいずれは落ちるでしょう。

直接の原因は織田軍の侵攻があまりにも速かったために家臣の謀反が相次ぎ(もう武田は駄目だと見限られた)、勝頼の主力となる決戦部隊を用意できなかったから。

勝頼は城を造るよりよりどうすればよかったかは、私には分りません。いちばんの理想は織田家が勝頼には手に負えないくらい強大な勢力になる前に叩くことでしょうけど、そう簡単に出来るかどうか・・。


162:人間七七四年
10/10/02 23:35:57 DMOc7zVi
はい!!論破!!www

163:人間七七四年
10/10/02 23:59:12 DMOc7zVi
勝頼は 信玄と信長が対戦している将棋の試合を
詰む7手くらい前で信玄から引き継いだようなもんだよ

164:人間七七四年
10/10/03 00:00:24 gn0hzI6p
勝頼が有能であろうと無能であろうと
武田家が滅びる原因の全ては信玄の時代に構築されています

165:人間七七四年
10/10/03 00:07:48 gn0hzI6p
>>161
結局信玄の代のツケが勝頼に回ってきたって事

166:人間七七四年
10/10/03 00:14:01 gn0hzI6p
金の切れ目が縁の切れ目。

戦が強い国はそもそも経済力が強い。信長は港湾利権や楽市楽座による商業利権という近代的な領国経営で莫大な軍資金を調達していたが、
武田家や上杉家の場合は金山だった。
特に甲州金は有名で、信玄の父である信虎の時代には金の採掘が始まっていたことが分かっている。

信玄の時代には金山の採掘が最盛期を迎えているが、どうも勝頼の頃にはあまり取れなくなってきたらしい。
それに、信玄が死亡したときの信長は、依然として四方を敵に囲まれて大変だったが、武田軍の撤退で一息つくと、次々に四囲の敵を個別撃破してしまった。

そうなってからでは信玄だろうと勝頼だろうと関係ないだろう。
強力になる一方の信長に対して、金欠が進む一方の武田では基礎体力の差が開く一方だ。

金欠が進んでいたが、敵は強くなる一方なので、城を築くなど防備を固めるためにやむなく増税したわけだが、それでは下は付いてこない。
税金を大将に差し出しても、後で見返りがあるのなら喜んで増税にも応じようが、城を築くなど守るためだけの増税では見返りなんてあるはずがない。
「金を毟り取られるだけの大将なんていらない」というのが武田滅亡時の家臣達の思いだろう。


167:人間七七四年
10/10/03 00:16:50 gn0hzI6p
>>164
信玄が長生きしたとしても信長に勝つのは無理です。信玄が晩年に上洛戦を起こした時点でも
すでに信長と信玄の実力差は3倍近くありました。ですから信玄は信長包囲網を利用してでしか
戦うことはできなかったのです。さらに武田家の兵士は農民が主体であったので
いずれ4月になれば帰国せざるを得ませんでした。その後武田家の経済を支えた金山の収穫量は減少するので
さらに信長との実力差は開く一方です。ですからいずれは滅亡しかなかったでしょう。
ですから武田家の運命は滅亡しかなかったでしょう。

168:人間七七四年
10/10/03 00:19:05 gn0hzI6p
勢力や国が滅亡する原因は最後の当主が無能だからではありません。それよりむしろ以前の当主が最も多く滅亡の原因をつくっていることの方が多いでしょう。
フランス・ブルボン王朝の様にその勢力の最盛期を現出した当主(国王)が同時に衰亡の最大の原因をつくっていることも多々あります。武田家もこの類で、
武田滅亡の最大の原因をつくったのは勝頼への権力移譲を全く怠り、四方に敵を作って国力を疲弊させた信玄であることは明白です。
勝頼がどんな人物であれ、重臣達が自分を武田家当主として認めてくれてすらいない状況で日の出の勢いにある信長に勝てるはずがありません。

169:人間七七四年
10/10/03 00:49:42 SL/PLVGG
>>159
君が書いてるのはwikiからの転載かね?
定説どおりかそうじゃないか知らないが現在と500年前じゃ地形や地勢が微妙に違うのかもしれんよ

>>160
北条家当主氏政は武田勝頼と縁戚関係もあるし理由もなく積極的に敵対しようとは思わないでしょ
実際氏政の一番の目標は関東制覇なんだから信玄時代も苦戦を強いられた武田を敵に回そうなんて思わんよ
事実勝頼の方から積極的に上野や駿河伊豆国境で敵対行動を取ってるし
それから長篠敗戦直後はともかくそれ以降は徳川の侵攻を阻んでるし
北条の要請に応じて関東(上野)に出兵したり、御館以降北条相手には優勢に戦ってるし
まだ経済的困窮とまではいえないよ。北条相手に侵略戦争するエネルギー
徳川や織田への防戦や侵略に使えばまだ大分マシだったと思われる
>>161
>新府城を造ったのは、織田の大軍に備えるためです。
>甲信にはいくつも城がありましたが、
>殆どが戦国前期~中期にかけての城であり、
>対数千の敵勢を想定して縄張りが作られています。(戦国時代後期まで、数万の敵に攻め込まれるということは有り得なかった為)
>これが織田軍となると、対数万の縄張りが必要になり、
>それが新府城でした。
ソースよろしく。
>あの山本勘助と秋山信友が大改築した高遠城も僅か二日で落城しています。
何十倍もの兵力比で野外戦挑めば必然的にそうなると思われ。

>ちなみに信長の築城は、ちゃんと領民に賃金を払って造っているので、造れば造るほど領民が潤うものであり、
>歓迎されています。よって一揆が起こることはありません。それだけ、織田家と武田家の国力が違うということです。
何か笑い話のようなレスだけど正気かね?

>勝頼が築いた新府城のそもそもの目的は、籠城して相手が疲れて撤退するのを待つためでも援軍を待つためでもありません。
>新府城に来る前に、兵力を前線で消耗するはずの織田軍を待ち構えて決戦をするため。
>決戦で織田軍を撃滅するのに都合がいい場所に、前もって城を築いただけです。
>もちろん、新府城とそれに付属する支城で少しでも織田軍の戦力を消耗させる目的もありましたが。
>当時の武田家の状況では、ただ単に籠城しても他国からの援軍は来ないし、織田家との経済力の差を考えれば、ただ籠城するだけではいずれは落ちるでしょう。
決戦どうこうよりも財政的に逼迫させた政策として挙げられる

>直接の原因は織田軍の侵攻があまりにも速かったために家臣の謀反が相次ぎ(もう武田は駄目だと見限られた)、勝頼の主力となる決戦部隊を用意できなかったから。
…何か武田攻めまでの状況を無視するにも程があるけど。
君の脳内だと勝頼が長篠で大損害うけようが受けまいが、経済的困窮には直接的関連性がないといいたいの?
御館で失敗して北条を敵に回そうが、新府築城しようが、経済の逼迫に影響してないといいたいの?
大きな失敗を失敗として捕らえず意味のわからない論理で信玄が悪い信玄が悪いと言われても??としか。

170:人間七七四年
10/10/03 00:56:39 FEOwoF2z
>>169
最近では長篠はどちらも通説より兵力は少なかったことが分かっている

171:人間七七四年
10/10/03 01:00:24 gn0hzI6p
>>170
両軍の兵士数ですが、通説では織田・徳川連合軍3万8000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万5000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3000)となっています。
これには異説があり、織田1万2000-1万3000、徳川4000-5000とし、武田8000-1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000-7000という説があります。
設楽ヶ原の狭さから、この数字は支持されています。また武田軍の損害を1万-1万2000、連合軍6000とするよりも、
武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的と言われています。

小規模な戦とまでは言えませんが、通説よりは小規模でしょう。


172:人間七七四年
10/10/03 01:09:37 gn0hzI6p
>>169
武田勝頼が上杉景勝に味方し景虎を見捨てたのは北条氏の勢力伸張を恐れたからです。
景虎は氏康の息子で北条氏政の弟で仮に上杉の当主になった場合は実家の力をバックにした可能性があります。
地図を見ればわかるように武田の領国は北陸から関東まで北条の勢力圏に覆われる形になります。
こうなれば北条から妻を向え縁戚関係に成ったとはいえ逆に勝頼は北条に取り込まれて属国化されると考えたことも頷けます。
北条との関係は悪化しましたが上杉景勝からは北信濃や上野の一部の領土に多額の軍資金も譲渡されたため一概に無益な選択とも言えない面があります

173:人間七七四年
10/10/03 01:09:42 FEOwoF2z
>>171
これ全部wikiから持ってきたやろwww
スレ主の底が割れたなwww

174:人間七七四年
10/10/03 01:11:29 gn0hzI6p
>>172
勝頼は北条氏政がグズグズして出陣しないのに、不信感を持ったのでしょう。自分は北条の為に兵を損失するのはバカバカしいと思っていたところに、
景勝から同盟の申し出があり、条件として上野沼田、厩橋領と信濃飯山領、黄金の譲渡との事だったので、武田としては有益と考え景勝との同盟に踏み切ったのでしょう。
仮に景虎を助けていたとしていても、北条は織田信長と共に勝頼を攻めたでしょう。北条氏政の行動を見ているとよくわかります。



175:人間七七四年
10/10/03 01:13:01 gn0hzI6p
>>173
wiki?違うけど?

176:人間七七四年
10/10/03 01:15:44 gn0hzI6p
どちらにしても勝頼には道はなかったのでしょう。
私個人としては武田家滅亡の原因は何割かは
信玄にもあったと思います。
真実かはわかりませんが遺言で『武田の御旗を京都に立てよ』
つまりは天下を取れと言ってなくなりました。
結局はそれが織田家に徹底抗戦をするはめになり
滅亡への一歩を踏み出したのでしょう。

177:人間七七四年
10/10/03 01:18:37 gn0hzI6p
勝頼は結局は家臣団の心は完全に離れており、もはや組織として崩壊していたのではないでしょうか。


178:人間七七四年
10/10/03 01:35:57 gn0hzI6p

武田家が領していた甲信は、実は基本的に赤字財政の国でした。だからこそ外征を繰り返して新領地で補填する必要があったのです。
現代で例えれば、既存店の赤字売上を新店舗拡大で補填するようなものです。(勝頼は外征を頻繁に行ったと言われるが、それは信玄も同じ)

しかし、いつかは無理が来ます。武田家も来ました。

金山の枯渇が想定済みだったのか、信玄は自領の拡大を最優先して上杉と和睦をすぐに破り、縁戚関係のある今川を裏切り、北条も敵にしました。
さらに同盟関係にあった織田家をも敵に回し、今川攻めで同盟した徳川とも敵対します。最終的に北条とは同盟を復活させますが、一時は周辺国全てを敵に回しています。
これは明らかな戦略ミスであり、愚将と捉えかねられない失態です。

そして信玄が失った信頼は、すぐに回復しません。

信玄は同盟を全て自分から破りました。よって勝頼は周辺国と和睦することも出来ず、広がりすぎた戦線を維持するに莫大な戦費を注ぎ込まざるを得なくなっていました。
これが家中の反発を招き、頼っていた金山の生産量も年々落ち込む始末。それでも領地を拡大したのは勝頼の器量が優れていたからでしょう。
しかし、結局自分は「陣代」という立場であり、家臣を統制するには弱い立場にありました。これも信玄が今川家との同盟を破って嫡男・義信を死に追い込んだからです。
また長篠合戦ですら、強大化する織田家に対抗する最後のチャンスであり、あれがなくても武田家は史実通り滅んだでしょう。まず間違いなく。

これらが全て先代の信玄に起因します。よって武田家滅亡は勝頼よりも信玄に責任があるのは明白です。


179:人間七七四年
10/10/03 17:37:12 Kr8i3+5k
スレ主よくそんな恥ずかし気もなく書けるな
小学生の国語の教科書音読して楽しい?

180:人間七七四年
10/10/03 17:40:58 Kr8i3+5k
あのさスレ主
みんな優しいから黙ってるけどIDがあるから自分の疑問に自分で答えても虚しいだけだよ
自分の知識をひけらかしたいのか長々と書いて連投してバレてないとか思ってるのかもしれないけど
自作自演して恥ずかしくない?一応スレの私物化はマナー違反だから通報しとくよ

181:人間七七四年
10/10/04 03:42:57 XqpEgmCJ
信玄は父親を追放しているがこれは下克上なんですか?

182:人間七七四年
10/10/04 04:43:42 1lMQsyW1
まあ確かに武田信玄は過大評価されすぎだね
田舎の方で勢いに乗って勢力を拡げたけど結局長持ちせずに滅亡しちゃいました、なんて話は戦国時代にはよくあったことで
単に武田もそのなかの1例に過ぎない
ただ、他の例と違ったのは日本史の主流となる織田-豊臣-徳川あたりのラインとの絡みがあったから、それで採り上げられることが多いのと
滅亡後の家臣で徳川に仕えたのが多数いて後の江戸時代に幕閣の要職に就く者とかを輩出したから
それで後世に武田だけやたら持ち上げられたってだけ

他の似たような例を挙げると、例えば尼子経久なんかも田舎で勢力を拡げて一時期は相当な隆盛を誇ったが結局武田と同じように長続きせず滅亡した
こっちはむしろ武田より凄いくらいで一時は11ヶ国の太守とまで言われたけど
こういったケースは徳川の隣に領地があった武田とは違って後の天下人との絡み全くがないから語られることはほとんどないわけで
まあ実際はそんな戦国大名には数多ある例の中の1つに過ぎないんだよ

183:人間七七四年
10/10/04 13:55:13 fhhW5tBS
評価の大きさより、評価される箇所が戦に大きく取られているのが違うという
感じがする。確かに信玄は戦が強い印象があるが、あくまで準備段階が巧みな
のであって、それはむしろ政治力ということが言えるのでは無いでしょうか。
謙信に対しては北条と共闘する、信長に対しては包囲網でがんじがらめにして
から動く等。
また、個々の戦では相手よりも多い兵力で戦うようにしています。これらから
用意周到さが伺え、そこが本来信玄の評価されるべきポイントだと思います。
孫子曰く「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め・・・」を体現している感じ。

184:人間七七四年
10/10/04 18:31:25 xdGw9Z96
尼子じゃ武田の相手は無理
戦の強さが違いすぎる

185:人間七七四年
10/10/04 18:50:05 XdPT3ReZ
武田は戦はたいしたことない
兵力で有利だからいつも勝てるだけ

186:人間七七四年
10/10/04 20:02:36 AJAKBl5I
>>185
それ孫子の教えにケチつけてるじゃん
お前如きが異を唱えるとはどんだけ偉いんだ
むしろ多いのに義清に負けた事や謙信に弟を討ち取られた事だろ

187:人間七七四年
10/10/04 21:27:21 uza+wFGZ
孫子の兵法書とか古いだろw

188:人間七七四年
10/10/04 23:10:55 AJAKBl5I
>>187
なんてマヌケなレスだ
孫子ってのは兵法の基礎中の基礎 それとも孫子より良い基礎的な兵法書でもあるのか?
基礎を踏まえた方が勝率は高いのは当たり前

189:人間七七四年
10/10/05 00:22:43 MsNg+zIz
>>188
>>188
兵法を知らぬやつめwww

190:人間七七四年
10/10/05 02:07:40 MsNg+zIz
>>188
>>188
生兵法とはまさにそなたの為に有る言葉だ

191:人間七七四年
10/10/05 02:20:54 loSA/FHN
兵力で優位な状況を作ることが大変なのだがね
そこが兵法

192:人間七七四年
10/10/05 02:43:59 MsNg+zIz
>>191
なんたる愚!もう一度兵法を読み直せw

193:人間七七四年
10/10/05 07:45:30 +THA92ft
>>189>>190
連投してpgrして余程悔しいのかwww
ID出てるから丸わかりwその兵法書教えてくれよwww
無知な癖に知ったかぶりすると余計にアホに見えるのに気づかないとは恐ろしいもんだ

194:人間七七四年
10/10/05 11:58:54 EbSaSuSz
戦も内政も上手いけど、目先の利益につられて領土周辺を蚕食しまくって
せっかく結んだ同盟を反故にして結局周りを敵だらけにしてしまうのはどうなんだろう。
氏康も信玄は信用できないみたいなこと言ってるよね。

195:人間七七四年
10/10/05 15:32:31 Ggw0IErA
歴史オタクさんたちは「軍略」というものを小説やゲームの影響で大分誤った捉え方をしています。
仮にあなたがたかが百人の人たちを指揮して何かをしようとすれば、その難しさ、できる事の狭小さを
理解できることができるでしょう。まして万の軍勢を率いた状態で「変幻自在の軍略」などというものが
いかに絵空事か。

ナポレオンは敵中央への砲兵による集中砲火→騎兵での突撃というたったひとつの
戦術をもって生涯戦い抜き、実際その戦術を破れるものはほとんど存在しませんんでした。
そしてそれを破ったプロイセンのクリューパーも、指揮系統をアメーバ型にし
小隊へ行動の自由を与えたという軍制改革を行っただけで、「用兵」などと言う概念とは程遠いものです。

つまり戦に強いということはいかに外交によって有利な状況を作り出すか
いかに訓練された兵で軍を構成し、指揮系統をどう明確化するか。
いかに相手よりも大量の兵器、兵員を準備するかの経済的手腕。
そして地形の利用や相手方の切り崩し工作など・・・・
全て「政治力」の範疇に含まれています。戦と内政をわけて考えるなど馬鹿げていますよ?

196:人間七七四年
10/10/05 15:50:59 MsNg+zIz
>>194
まさに其の通り!信玄は戦略が一環してないんだよ
今川北条と同盟したと思ったら同盟破棄したり
上杉と戦ったと思ったら徳川と戦ったり
結局戦った相手を滅ぼさなきゃ勝った事にならないんだよw

197:人間七七四年
10/10/05 15:59:37 MsNg+zIz
>>193
「孫子」「呉子」「尉繚子」「六韜」「三略」「司馬法」「李衛公問対」

198:人間七七四年
10/10/05 16:04:10 MsNg+zIz
>>193
プロシア流兵学

199:人間七七四年
10/10/05 16:14:25 MsNg+zIz
>>195
生兵法は怪我のもと

200:人間七七四年
10/10/05 20:08:04 +THA92ft
>>197
孫子あるじゃん
塚その兵法書の基本全部孫子と一緒じゃん
バカなの?内容読んだ事ないの?

201:人間七七四年
10/10/05 20:13:11 MsNg+zIz
>>200
もう一度兵法を読み直せw

202:人間七七四年
10/10/05 20:24:40 +THA92ft
>>201
無知なお前に教えてやると何故孫子が人気かと言えば最も上手く纏まってるからだよ
まあ具体的な反論も出せない知識不足じゃ論ずるに値しないなw読んだ事ある奴なら簡単に反論出来るレスなんだが
読んでないのバレて恥ずかしくないか?wwwどうせ同じレスか知識不足丸わかりのレス返ってくるんだろうがなw
まあまともな反論も出来ないんじゃSub以下の泥頭だな たまに相手してやるから有り難く思えよ

203:人間七七四年
10/10/05 20:27:14 MsNg+zIz
>>202
お前の頭じゃ孫子しか理解できなかったって事だろw

204:人間七七四年
10/10/05 20:34:34 MsNg+zIz
>>202
プロシア流兵学も知らないだろw

205:人間七七四年
10/10/05 22:38:10 +THA92ft
>>203>>204
ID出てるのに連投するとは余程悔しいの?w
じゃあ内容の違い言ってみろよwww基礎的な箇所でいいからさw
所詮読んでない奴は具体的な反論なんかできないよねぇ

206:人間七七四年
10/10/05 22:44:19 MsNg+zIz
>>205
自分で読めw

207:人間七七四年
10/10/05 22:48:00 MsNg+zIz
第一兵法って置くが深いから一言で説明出来るようなもんじゃないんだよw
理解できない奴に説明しても時間の無駄www

208:人間七七四年
10/10/05 23:01:43 +THA92ft
>>206>>207
奥もクソも一番基礎的な、誰もが守ってるような事でいいから挙げてみろよw
どうせ読んでないから一つも挙げられないんだろうが
というか軽く挙げてみろ、でその返しは自分が何一つ知りませんと言ってるようなものwww
よくそんなからっぽの頭でここに来たな 知ったかぶりがバレて今どんな気分?ねえどんな気分?w

209:人間七七四年
10/10/05 23:07:50 7qQuFRk2
このスレおもろいなwww

210:人間七七四年
10/10/05 23:11:35 MsNg+zIz
>>208
全部読んで理解してるから言ってるんだろwww
お前プロシア流兵学も知らないだろw


211:人間七七四年
10/10/05 23:13:50 MsNg+zIz
>>208
兵法を知らぬやつめwww
生兵法とはまさにそなたの為に有る言葉だ

212:人間七七四年
10/10/06 00:12:52 gdRYo1+N
武田信玄って信長や元就みたいに少数の兵で
大軍を打ち破ったり大将首とったりしたことないの?

213:名無し募集中。。。
10/10/06 02:16:44 IxBH3sN3
>>200
全部兵法が一緒と思っている時点で兵法を理解してない証拠!!


214:名無し募集中。。。
10/10/06 02:17:49 IxBH3sN3
>>212
ないよ



215:名無し募集中。。。
10/10/06 02:26:39 IxBH3sN3
孫子の兵法書を少しかじった程度で兵法を理解したと思ってるようじゃみんな天才軍師になってるよwww


216:人間七七四年
10/10/06 02:34:30 +rouV3G4
>>1に聞きたい、いや小一時間問い詰めたい
>武田信玄が過大評価されてるのは甲州軍艦とか歴史の資料が多く残ってただけで

甲州軍鑑ってなんですか?

217:名無し募集中。。。
10/10/06 02:38:28 IxBH3sN3
幼少の頃から兵法を学び天才と言われた
馬謖でさえ己の才能に溺れてしまい
兵法を謝った解釈をしてミスをおかしてしまったからな
普通の人がちょと呼んだ位で兵法を全て理解できるわけがない!!
それだけ兵法は奥が深いんだよ!!!


218:名無し募集中。。。
10/10/06 02:46:02 IxBH3sN3
>>216
1じゃないけど甲陽軍艦のことだろ?


219:人間七七四年
10/10/06 03:31:59 Q16OUF7B
>>218
小一時間問い詰められるぞ

220:人間七七四年
10/10/06 04:18:07 OTeetawd
中世最強の戦国大名が武田信玄
近世最強の戦国大名が織田信長

結局中世の古い考えを脱する事が出来なかった武田が滅びて
中世の秩序を崩し、新時代を切り開いた織田信長が天下をとったんじゃんw


221:人間七七四年
10/10/06 04:24:26 OTeetawd
俺は信玄の代で武田は積んでたと思う。
中世代表の信玄は自分とは違う近代的な方法で
急速的に勢力を拡大した信長に焦ってたんだと思う


222:人間七七四年
10/10/06 04:26:04 OTeetawd
俺はやはり信玄の行った領国経営では百万石が限界だったと思う
中世から近世に移り変わると同時に武田家の政策も変わるべきだった



223:人間七七四年
10/10/06 05:02:20 TSxsrKjl
俺のじーちゃん、80歳で少しボケてるけど、たまに、
「信玄公は、お優しい方じゃった・・・・・」、と言ってるけど

224:人間七七四年
10/10/06 08:02:12 51x/AD1m
>>220
盗ってねーよ。

225:人間七七四年
10/10/06 11:12:17 SCLPktjc
孫子?プロシア流兵学?そんなもんただの「読み物」だろ。
甲陽軍鑑と同レベル。
ランチェスター理論最強。てか唯一絶対の戦争哲学。

226:人間七七四年
10/10/06 14:36:33 OTeetawd
>>224
信長の家臣秀吉が天下取ったんだから信長も天下を取ったようなもん!!

227:人間七七四年
10/10/06 14:38:06 OTeetawd
>>225
禿同!!

228:人間七七四年
10/10/06 18:15:30 SHlnPy1E
>>226
じゃあ今川義元も天下取ったんだな

229:人間七七四年
10/10/06 19:36:20 FuYckHXC
>>228 そういのを屁理屈ってんだよ。秀吉は織田家を乗っ取って
信長の事業を引き継いだが家康は義元の事業を引き継いだのか?

230:人間七七四年
10/10/06 19:50:35 SHlnPy1E
>>229
屁理屈じゃないよ
信長の事業と言われましても何じゃそら 義元の上洛事業なら家康はちゃんと果たしてるよ
秀吉は信長の領土を取り込んで主君の息子を殺し所領を取り上げた
家康も義元の領土を取り込んで主君の息子を無力にした
そっくりじゃないか

231:人間七七四年
10/10/06 19:56:06 OTeetawd
>>230
その義元に勝った信長の勝ち!


232:人間七七四年
10/10/06 20:01:29 SHlnPy1E
>>231
>>226の理屈だと義元も天下取ったねw
ただ息子の氏真が家康と一緒に上洛した際信長に蹴鞠披露した時信長を天下人と認めちゃってる
ついでに義元が出来なかった上洛をはたしたとかほざいてる
そう考えると一応家康は事業を果たしたじゃないかwアホくさすぎるけどw

233:人間七七四年
10/10/06 20:14:03 OTeetawd
>>232
意味不明w

234:人間七七四年
10/10/06 20:15:18 SHlnPy1E
>>233
どの辺が?

235:人間七七四年
10/10/06 20:21:12 SHlnPy1E
秀吉→信長が死んだらほぼ独立、信長の旧領全て併呑、後は実力で天下、信長の息子には何も与えず
家康→義元が死んだらほぼ独立、義元の旧領全て併呑、後は実力で天下、義元の息子には何も与えず
一緒じゃないか ね?

236:人間七七四年
10/10/06 20:23:18 OTeetawd
>>235
義元と信長じゃレベルが違うんだよwww
義元が天下を取ったって言ってる時点でキチガイ確定!!

237:人間七七四年
10/10/06 20:28:44 SHlnPy1E
>>236
え、何で?信長も義元も天下取ってないよ
レベルってなに?何万石やどれくらいの官位ならいいの?
義元も将軍継ぐ資格のある名門だから充分天下も狙えるよ

238:人間七七四年
10/10/06 20:36:13 OTeetawd
>>237
信長が天下統一の基礎を作ったけど義元は信長に負けてるだろ!!
お前レベル低すぎるからもうここのスレに来るな!!
スレが荒れる!!

239:人間七七四年
10/10/06 20:48:12 SHlnPy1E
>>238
碁盤は秀吉自身が作ったんだけど
信長の配下で実力のあった奴(明智柴田滝川)ほぼ全員敵に回してんじゃん
そりゃ最初は三法師という大義名分のため信長の碁盤を利用しなきゃいけなかったけど
信長の跡を継ぐなら毛利や上杉をあんなデカく残さないよ
スレが荒れるも何も史実参照に正しく突っ込んだだけだが
少し見返す限りスレ主はあんまり戦国時代を知らないみたいだね
まあよく知らない人用スレが戦国板にあってもいいかもね 勉強頑張ってな

240:人間七七四年
10/10/06 21:16:30 OTeetawd
>>239
信長がいなきゃ秀吉なんて天下取れなかっただろ?
お前もうこのスレ来るな!!レベル低すぎ!

241:人間七七四年
10/10/06 21:21:36 5juAcDDP
スレ主応援してるぞ!

242:人間七七四年
10/10/06 22:03:17 OTeetawd
信玄厨って基地外が多くて困るなw

歴史上の人物を評価する場合、その人物の持つ地理的条件や社会的な背景など、様々な観点から総合的に判断しなければならない。
「たら・れば」で論ずるのは適切ではない。
例えばこの板で散々叩かれている伊達政宗ですが、彼の「あと20年早く生まれていれば・・・」などというのは、
本人が負け惜しみで言った時こそ可愛げがあるのであって、周りがそれを本気で捉えて論ずるのはナンセンスだと思います。


243:人間七七四年
10/10/06 22:04:04 OTeetawd
歴史は「原因と結果」の積み重ねであり、「無かった」歴史は何の経験にも手本にもなりません。
歴史学でも、仮想思考するときもありますが、状況証拠を精密に積み上げ、
可能性をギリギリまで煮詰めて論じてこそ、意味があります。
それでも「思考実験」の域を超えませんけれど。

残念ながら、学校教育では「歴史事項」は覚えさせられても、
学問としての「歴史学」は教えてくれません。
歴史を客観的に研究する上での、ノウハウをみんな知らないんです。
史料の見方・扱い方も、思考としての考え方も知りません。
私は大学で初めて、そういったメソッドを学びました。
それでも多くの歴史に関する本を読んだ人は、自然にそういうノウハウを身につけられます。
その域に達しない人は、言うまでも無く「歴史思考」としては大変未熟。
ベテランとビギナーでは対等に話をしてもかみ合いません。

こちらはまじめに歴史を論じているのに、歴史をただの趣味ツールとしか受け取れない人たちは、
住む世界が違う、ということです。
ですから、馬鹿げた仮定や空想は、私は無視しています。
未熟同士で、勝手に楽しめばいい。
ただ、無知なくせに専門的な話し合いに、割り込んでくるのには閉口させられますけどね。

言論・思想は自由ですが、馬鹿げたことを言うと、自分の値打ちが下がるということも認識してくれたら、
もうちょっと世の中も上品になると思います。
羞恥心の問題ですね。
羞恥心のかけらも無い連中が、「武士道」とか「義」とか言うのを見ると、正直情けないです。


244:人間七七四年
10/10/07 09:23:22 AdI9E7ks
いや、自分哲学を書くスレじゃないから・・・。

245:人間七七四年
10/10/07 11:06:50 Fn8AualW
真性の基地外みたいだからほっとけ
アホな分だがより質が悪い

246:人間七七四年
10/10/07 12:52:14 pJMVfo4t
10行以上書くヤツはスルーで

247:人間七七四年
10/10/07 14:34:11 mnnZb9To
>>239
秀吉が囲碁の道具を作る職人だったとは初めて知ったw

おまえも国語の勉強頑張ったほうがいいと思・・・いやいいんだ忘れてくれ。

248:人間七七四年
10/10/07 14:39:00 AFjGmWc3
アンチ信玄の人って明らかにもう10年くらい戦国板ストーカー引きこもりしてるだろ…

249:人間七七四年
10/10/07 14:39:39 Qi1HHnDT
早くスレ主とだがの戦いが見たいw

250:人間七七四年
10/10/07 16:07:25 p0twKpNC
だがって普段はどこのスレにいるの?

251:人間七七四年
10/10/07 16:24:59 Lv9YnOoc
誰かが天下盗ったじゃなくてこれは壮大なリレー大会だったんだよ。
最終走者徳川秀忠。

252:人間七七四年
10/10/07 17:22:55 im2qG/FA
戦国興味もって少し調べてたらこの子モーホーだったんだね
さめたわー

253:人間七七四年
10/10/07 17:57:15 Qi1HHnDT
>>251
禿同
そのレース(1800m)の半分近く(800m)を走り区間新記録を打ち立てたのが信長

254:人間七七四年
10/10/07 18:49:14 wJpMY0IM
こういうスレ見てみると戦国ゲーやりたくなってくる
対抗立志電ぐらいしかないが

255:人間七七四年
10/10/08 09:34:16 Am8vb3QF
甲州軍艦:領内に海を持たない武田家が駿河侵攻前から来るべき水軍戦のために
密かに建造を進めていた当時としては最大最強の規模と装備をもった軍船。
しかし駿河侵攻直前、本国甲斐からの移送が不可能というお粗末な事実が発覚し
製造責任者の嫡子義信と奉行の飯富某が責を問われ処分された。

もちろん江戸初期に甲州流軍学の嚆矢として著された「甲陽軍鑑」とは全くの無関係。

256:人間七七四年
10/10/08 16:53:43 CM7hOhuE
>>255
お粗末だなw

257:人間七七四年
10/10/09 11:12:45 XkTk3rqh
海上知明 信玄の戦争

戦国期ファンは、一度読むことをお薦めします。
鉄砲や農繁期の不利とか調査もせずに武田家を貶めていたデータが専門家の調査によってひっくり返ります。
武田信玄・上杉謙信が信長ともし戦わば・・が愚問と言い切る事ができる一書。
   ※ 信長が信玄・謙信に直接的な戦争で勝てることはありえない
※ 武田信玄の限界は孫子の体現者であったこと(孫子思想の限界)

258:人間七七四年
10/10/09 13:54:53 ChmKwppA
孫子の兵法書は古いんだよ
信玄は中世の枠を抜け出す事が出来なかった
近代兵器を用い常識の範囲を超えた信長の勝ち

259:人間七七四年
10/10/09 14:18:30 G4aVMnlQ
クソスレageんなks

260:人間七七四年
10/10/09 15:35:12 J7Jxl9PA
>>251
何故秀忠かwww低脳めwwww
そこは家康だろ。

261:人間七七四年
10/10/09 23:37:17 75y1kZ6c
>258
古くはない。
今でも十分応用できる。
そもそも孫子は小さい国が決して負けないためにできた戦術書である。
つまり、戦わずにして勝つのが基本であるから、事前準備に時間を要し領土拡大には時間がかかる。
そして信玄をバカにした信長は結局、部下をきちんと掌握できずに謀反に合って死んでいる。
そして家康が学んだのは信長ではなく信玄(孫子)だった。

近代兵器というのは鉄砲の事かな?
あれは信長の兵が弱かったから仕方なく弱兵でも使える火器を増やし、戦争の決定をきめる突撃等を諦めた結果。
実際に大阪の陣で6割近い鉄砲を用意した家康が真田に押し捲られて家康さえも討ち取られたという説もあるほど。
検証すると鉄砲なんて大したもんじゃないよ。
戦国期を通じて長篠の戦でしか有効だった試しがない。それも嘘っぱちだと最近は言われてるけどね。




262:人間七七四年
10/10/09 23:40:28 75y1kZ6c
信玄は鉄砲は雨でも使える防御(城)戦で有効だと認め、それなりに増やしていたよ。
野戦では鉄砲なんかより石部隊を使用していた。
鉄砲なんか狙撃にはむかないし、相手を怯ませて騎馬・歩兵で突撃する事位だったので、石で十分だったんだよ。
鉄砲は高いし、それなら同じくらい有効な石部隊を編成し、他に金使ったほうが全然良い。


263:人間七七四年
10/10/10 00:09:56 xf09spTC
>>261
信長の凄いとこは家臣(柴田・羽柴)に沢山の兵を預け全国を統一したとこ
信玄は結局豪族の集まりじゃん、戦に勝てば自分の土地が潤うって古い体質から抜け出せなかた


264:人間七七四年
10/10/10 00:12:36 xf09spTC
>>261
決まり決まった事しか出来ない古い考えの信玄と
斬新な確信的なアイデアで天下を統一した信長

265:人間七七四年
10/10/10 00:17:11 xf09spTC
中世から近世の扉を開けた信長


266:人間七七四年
10/10/10 00:19:30 xf09spTC
>>258


267:人間七七四年
10/10/10 00:20:25 xf09spTC
>>261
>>222
>>220

268:人間七七四年
10/10/10 00:57:31 xf09spTC
>>262
お前の考えも中世じゃんw

269:人間七七四年
10/10/10 01:07:07 xf09spTC
最新の織田信長と武田信玄の評価は

中世の壁を突破できなかった「武田信玄」
中世の壁を打ち破った天才「織田信長」


270:人間七七四年
10/10/10 03:55:54 6Lhv0U9X
信玄が信長以上とは全く思わんが、だからといって過大評価とも思わんな
要は保守的であったってだけで謙信北条織田徳川に囲まれてる中で
謙信以外は正面衝突出来ない軍団を築いたのはやっぱ凄いわ
保守的なのも当時の信長以外は皆そうなんだし

271:人間七七四年
10/10/10 04:09:43 xf09spTC
>>270
謙信以外は正面衝突出来ない軍団を築いたってのが過大評価なんだがw

272:人間七七四年
10/10/10 04:30:25 6IQUuuEv
実際武田騎馬軍団て言うほど強くねーよ
武田家は騎馬率10%ほどで以外にも鉄砲の割合が高いことがわかっている
つまり他の大名とたいして変わらないということ

273:人間七七四年
10/10/10 04:36:01 xf09spTC
実際騎馬率は北条の方が高かった件w

274:人間七七四年
10/10/10 11:21:17 xf09spTC
信長が義元を討ち取ったために、信玄の今川領侵攻が可能になったんだよな

275:人間七七四年
10/10/10 11:48:57 RtZpTNRQ
と、講談資料を語るスレ主

276:人間七七四年
10/10/10 13:20:12 gnmv0ikP
272みたいに短絡な話ではない。
武田軍が群を抜いて強かったのは事実。
それは甲州という土地や農民兵だったこと。
また、武田信玄がコミュニティを強固にする政策をとったこと。
等、色々な工夫がある。
そして、最も重要なのは戦う前に用意周到に工作(孫子)を行った事。
 戦わずして勝つ → 戦うときには勝敗は決しているように準備をする
  例  同盟者を離反 家来を裏切らせる 等等様々な工作を行う
  弊害 準備に時間を要するため、信長のような急拡大ができない(孫子の限界)


277:人間七七四年
10/10/10 13:29:31 gnmv0ikP
逆に信長の兵が弱かったのは事実。
 ・土地から離れた外人部隊
 ・当時から甲州兵1人で近畿・東海兵4人分と言われている
 ・弱いから弱兵でもそれなりに威力を発揮できる非経済な鉄砲を集めた
 


278:人間七七四年
10/10/10 13:32:10 gnmv0ikP
信長はマキャベリが賞賛するようなマキャベリスト。
君主論は早急に統一するための哲学で、孫子は小さい国が負けないための哲学
孫子の体現者である武田信玄は死ぬ時まで孫子であり、上洛する時でさえ孫子(侵攻速度が遅い)であり、孫子の限界すら具現してしまった。
上洛で侵攻初めて2ヶ月経っても40キロ程度しか進んでいない遅さには足利義昭も朝倉もさぞや辟易したと思われる。
また、上杉謙信にコテンパンにやられてからは謙信が出てくると徹底的に逃げ、その結果、古今東西世界最高指揮官と自衛隊戦争研究者も認める謙信ですら信玄を討つ事はできなかった。
信玄の性格は信虎の轍を踏まないという生い立ちからも来ているのだろうと思う。

逆に信長は哲学的には君主論の体現者であり、侵攻速度は速いがコミュニティを作ることが出来ず、その結果、兵も弱いし求心力もつくれなかったので反乱が多く、最後は謀反で殺されてしまった。
信長は孫子の体現者である信玄を笑い、信玄はマキャベリスト信長を批判したが、結局はどちらも最後まで自らの哲学の限界を体現してしまった。



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