武田信玄は過大評価されすぎ!!at SENGOKU
武田信玄は過大評価されすぎ!! - 暇つぶし2ch164:人間七七四年
10/10/03 00:00:24 gn0hzI6p
勝頼が有能であろうと無能であろうと
武田家が滅びる原因の全ては信玄の時代に構築されています

165:人間七七四年
10/10/03 00:07:48 gn0hzI6p
>>161
結局信玄の代のツケが勝頼に回ってきたって事

166:人間七七四年
10/10/03 00:14:01 gn0hzI6p
金の切れ目が縁の切れ目。

戦が強い国はそもそも経済力が強い。信長は港湾利権や楽市楽座による商業利権という近代的な領国経営で莫大な軍資金を調達していたが、
武田家や上杉家の場合は金山だった。
特に甲州金は有名で、信玄の父である信虎の時代には金の採掘が始まっていたことが分かっている。

信玄の時代には金山の採掘が最盛期を迎えているが、どうも勝頼の頃にはあまり取れなくなってきたらしい。
それに、信玄が死亡したときの信長は、依然として四方を敵に囲まれて大変だったが、武田軍の撤退で一息つくと、次々に四囲の敵を個別撃破してしまった。

そうなってからでは信玄だろうと勝頼だろうと関係ないだろう。
強力になる一方の信長に対して、金欠が進む一方の武田では基礎体力の差が開く一方だ。

金欠が進んでいたが、敵は強くなる一方なので、城を築くなど防備を固めるためにやむなく増税したわけだが、それでは下は付いてこない。
税金を大将に差し出しても、後で見返りがあるのなら喜んで増税にも応じようが、城を築くなど守るためだけの増税では見返りなんてあるはずがない。
「金を毟り取られるだけの大将なんていらない」というのが武田滅亡時の家臣達の思いだろう。


167:人間七七四年
10/10/03 00:16:50 gn0hzI6p
>>164
信玄が長生きしたとしても信長に勝つのは無理です。信玄が晩年に上洛戦を起こした時点でも
すでに信長と信玄の実力差は3倍近くありました。ですから信玄は信長包囲網を利用してでしか
戦うことはできなかったのです。さらに武田家の兵士は農民が主体であったので
いずれ4月になれば帰国せざるを得ませんでした。その後武田家の経済を支えた金山の収穫量は減少するので
さらに信長との実力差は開く一方です。ですからいずれは滅亡しかなかったでしょう。
ですから武田家の運命は滅亡しかなかったでしょう。

168:人間七七四年
10/10/03 00:19:05 gn0hzI6p
勢力や国が滅亡する原因は最後の当主が無能だからではありません。それよりむしろ以前の当主が最も多く滅亡の原因をつくっていることの方が多いでしょう。
フランス・ブルボン王朝の様にその勢力の最盛期を現出した当主(国王)が同時に衰亡の最大の原因をつくっていることも多々あります。武田家もこの類で、
武田滅亡の最大の原因をつくったのは勝頼への権力移譲を全く怠り、四方に敵を作って国力を疲弊させた信玄であることは明白です。
勝頼がどんな人物であれ、重臣達が自分を武田家当主として認めてくれてすらいない状況で日の出の勢いにある信長に勝てるはずがありません。

169:人間七七四年
10/10/03 00:49:42 SL/PLVGG
>>159
君が書いてるのはwikiからの転載かね?
定説どおりかそうじゃないか知らないが現在と500年前じゃ地形や地勢が微妙に違うのかもしれんよ

>>160
北条家当主氏政は武田勝頼と縁戚関係もあるし理由もなく積極的に敵対しようとは思わないでしょ
実際氏政の一番の目標は関東制覇なんだから信玄時代も苦戦を強いられた武田を敵に回そうなんて思わんよ
事実勝頼の方から積極的に上野や駿河伊豆国境で敵対行動を取ってるし
それから長篠敗戦直後はともかくそれ以降は徳川の侵攻を阻んでるし
北条の要請に応じて関東(上野)に出兵したり、御館以降北条相手には優勢に戦ってるし
まだ経済的困窮とまではいえないよ。北条相手に侵略戦争するエネルギー
徳川や織田への防戦や侵略に使えばまだ大分マシだったと思われる
>>161
>新府城を造ったのは、織田の大軍に備えるためです。
>甲信にはいくつも城がありましたが、
>殆どが戦国前期~中期にかけての城であり、
>対数千の敵勢を想定して縄張りが作られています。(戦国時代後期まで、数万の敵に攻め込まれるということは有り得なかった為)
>これが織田軍となると、対数万の縄張りが必要になり、
>それが新府城でした。
ソースよろしく。
>あの山本勘助と秋山信友が大改築した高遠城も僅か二日で落城しています。
何十倍もの兵力比で野外戦挑めば必然的にそうなると思われ。

>ちなみに信長の築城は、ちゃんと領民に賃金を払って造っているので、造れば造るほど領民が潤うものであり、
>歓迎されています。よって一揆が起こることはありません。それだけ、織田家と武田家の国力が違うということです。
何か笑い話のようなレスだけど正気かね?

>勝頼が築いた新府城のそもそもの目的は、籠城して相手が疲れて撤退するのを待つためでも援軍を待つためでもありません。
>新府城に来る前に、兵力を前線で消耗するはずの織田軍を待ち構えて決戦をするため。
>決戦で織田軍を撃滅するのに都合がいい場所に、前もって城を築いただけです。
>もちろん、新府城とそれに付属する支城で少しでも織田軍の戦力を消耗させる目的もありましたが。
>当時の武田家の状況では、ただ単に籠城しても他国からの援軍は来ないし、織田家との経済力の差を考えれば、ただ籠城するだけではいずれは落ちるでしょう。
決戦どうこうよりも財政的に逼迫させた政策として挙げられる

>直接の原因は織田軍の侵攻があまりにも速かったために家臣の謀反が相次ぎ(もう武田は駄目だと見限られた)、勝頼の主力となる決戦部隊を用意できなかったから。
…何か武田攻めまでの状況を無視するにも程があるけど。
君の脳内だと勝頼が長篠で大損害うけようが受けまいが、経済的困窮には直接的関連性がないといいたいの?
御館で失敗して北条を敵に回そうが、新府築城しようが、経済の逼迫に影響してないといいたいの?
大きな失敗を失敗として捕らえず意味のわからない論理で信玄が悪い信玄が悪いと言われても??としか。

170:人間七七四年
10/10/03 00:56:39 FEOwoF2z
>>169
最近では長篠はどちらも通説より兵力は少なかったことが分かっている

171:人間七七四年
10/10/03 01:00:24 gn0hzI6p
>>170
両軍の兵士数ですが、通説では織田・徳川連合軍3万8000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万5000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3000)となっています。
これには異説があり、織田1万2000-1万3000、徳川4000-5000とし、武田8000-1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000-7000という説があります。
設楽ヶ原の狭さから、この数字は支持されています。また武田軍の損害を1万-1万2000、連合軍6000とするよりも、
武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的と言われています。

小規模な戦とまでは言えませんが、通説よりは小規模でしょう。


172:人間七七四年
10/10/03 01:09:37 gn0hzI6p
>>169
武田勝頼が上杉景勝に味方し景虎を見捨てたのは北条氏の勢力伸張を恐れたからです。
景虎は氏康の息子で北条氏政の弟で仮に上杉の当主になった場合は実家の力をバックにした可能性があります。
地図を見ればわかるように武田の領国は北陸から関東まで北条の勢力圏に覆われる形になります。
こうなれば北条から妻を向え縁戚関係に成ったとはいえ逆に勝頼は北条に取り込まれて属国化されると考えたことも頷けます。
北条との関係は悪化しましたが上杉景勝からは北信濃や上野の一部の領土に多額の軍資金も譲渡されたため一概に無益な選択とも言えない面があります

173:人間七七四年
10/10/03 01:09:42 FEOwoF2z
>>171
これ全部wikiから持ってきたやろwww
スレ主の底が割れたなwww

174:人間七七四年
10/10/03 01:11:29 gn0hzI6p
>>172
勝頼は北条氏政がグズグズして出陣しないのに、不信感を持ったのでしょう。自分は北条の為に兵を損失するのはバカバカしいと思っていたところに、
景勝から同盟の申し出があり、条件として上野沼田、厩橋領と信濃飯山領、黄金の譲渡との事だったので、武田としては有益と考え景勝との同盟に踏み切ったのでしょう。
仮に景虎を助けていたとしていても、北条は織田信長と共に勝頼を攻めたでしょう。北条氏政の行動を見ているとよくわかります。



175:人間七七四年
10/10/03 01:13:01 gn0hzI6p
>>173
wiki?違うけど?

176:人間七七四年
10/10/03 01:15:44 gn0hzI6p
どちらにしても勝頼には道はなかったのでしょう。
私個人としては武田家滅亡の原因は何割かは
信玄にもあったと思います。
真実かはわかりませんが遺言で『武田の御旗を京都に立てよ』
つまりは天下を取れと言ってなくなりました。
結局はそれが織田家に徹底抗戦をするはめになり
滅亡への一歩を踏み出したのでしょう。

177:人間七七四年
10/10/03 01:18:37 gn0hzI6p
勝頼は結局は家臣団の心は完全に離れており、もはや組織として崩壊していたのではないでしょうか。


178:人間七七四年
10/10/03 01:35:57 gn0hzI6p

武田家が領していた甲信は、実は基本的に赤字財政の国でした。だからこそ外征を繰り返して新領地で補填する必要があったのです。
現代で例えれば、既存店の赤字売上を新店舗拡大で補填するようなものです。(勝頼は外征を頻繁に行ったと言われるが、それは信玄も同じ)

しかし、いつかは無理が来ます。武田家も来ました。

金山の枯渇が想定済みだったのか、信玄は自領の拡大を最優先して上杉と和睦をすぐに破り、縁戚関係のある今川を裏切り、北条も敵にしました。
さらに同盟関係にあった織田家をも敵に回し、今川攻めで同盟した徳川とも敵対します。最終的に北条とは同盟を復活させますが、一時は周辺国全てを敵に回しています。
これは明らかな戦略ミスであり、愚将と捉えかねられない失態です。

そして信玄が失った信頼は、すぐに回復しません。

信玄は同盟を全て自分から破りました。よって勝頼は周辺国と和睦することも出来ず、広がりすぎた戦線を維持するに莫大な戦費を注ぎ込まざるを得なくなっていました。
これが家中の反発を招き、頼っていた金山の生産量も年々落ち込む始末。それでも領地を拡大したのは勝頼の器量が優れていたからでしょう。
しかし、結局自分は「陣代」という立場であり、家臣を統制するには弱い立場にありました。これも信玄が今川家との同盟を破って嫡男・義信を死に追い込んだからです。
また長篠合戦ですら、強大化する織田家に対抗する最後のチャンスであり、あれがなくても武田家は史実通り滅んだでしょう。まず間違いなく。

これらが全て先代の信玄に起因します。よって武田家滅亡は勝頼よりも信玄に責任があるのは明白です。


179:人間七七四年
10/10/03 17:37:12 Kr8i3+5k
スレ主よくそんな恥ずかし気もなく書けるな
小学生の国語の教科書音読して楽しい?

180:人間七七四年
10/10/03 17:40:58 Kr8i3+5k
あのさスレ主
みんな優しいから黙ってるけどIDがあるから自分の疑問に自分で答えても虚しいだけだよ
自分の知識をひけらかしたいのか長々と書いて連投してバレてないとか思ってるのかもしれないけど
自作自演して恥ずかしくない?一応スレの私物化はマナー違反だから通報しとくよ

181:人間七七四年
10/10/04 03:42:57 XqpEgmCJ
信玄は父親を追放しているがこれは下克上なんですか?

182:人間七七四年
10/10/04 04:43:42 1lMQsyW1
まあ確かに武田信玄は過大評価されすぎだね
田舎の方で勢いに乗って勢力を拡げたけど結局長持ちせずに滅亡しちゃいました、なんて話は戦国時代にはよくあったことで
単に武田もそのなかの1例に過ぎない
ただ、他の例と違ったのは日本史の主流となる織田-豊臣-徳川あたりのラインとの絡みがあったから、それで採り上げられることが多いのと
滅亡後の家臣で徳川に仕えたのが多数いて後の江戸時代に幕閣の要職に就く者とかを輩出したから
それで後世に武田だけやたら持ち上げられたってだけ

他の似たような例を挙げると、例えば尼子経久なんかも田舎で勢力を拡げて一時期は相当な隆盛を誇ったが結局武田と同じように長続きせず滅亡した
こっちはむしろ武田より凄いくらいで一時は11ヶ国の太守とまで言われたけど
こういったケースは徳川の隣に領地があった武田とは違って後の天下人との絡み全くがないから語られることはほとんどないわけで
まあ実際はそんな戦国大名には数多ある例の中の1つに過ぎないんだよ

183:人間七七四年
10/10/04 13:55:13 fhhW5tBS
評価の大きさより、評価される箇所が戦に大きく取られているのが違うという
感じがする。確かに信玄は戦が強い印象があるが、あくまで準備段階が巧みな
のであって、それはむしろ政治力ということが言えるのでは無いでしょうか。
謙信に対しては北条と共闘する、信長に対しては包囲網でがんじがらめにして
から動く等。
また、個々の戦では相手よりも多い兵力で戦うようにしています。これらから
用意周到さが伺え、そこが本来信玄の評価されるべきポイントだと思います。
孫子曰く「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め・・・」を体現している感じ。

184:人間七七四年
10/10/04 18:31:25 xdGw9Z96
尼子じゃ武田の相手は無理
戦の強さが違いすぎる

185:人間七七四年
10/10/04 18:50:05 XdPT3ReZ
武田は戦はたいしたことない
兵力で有利だからいつも勝てるだけ

186:人間七七四年
10/10/04 20:02:36 AJAKBl5I
>>185
それ孫子の教えにケチつけてるじゃん
お前如きが異を唱えるとはどんだけ偉いんだ
むしろ多いのに義清に負けた事や謙信に弟を討ち取られた事だろ

187:人間七七四年
10/10/04 21:27:21 uza+wFGZ
孫子の兵法書とか古いだろw

188:人間七七四年
10/10/04 23:10:55 AJAKBl5I
>>187
なんてマヌケなレスだ
孫子ってのは兵法の基礎中の基礎 それとも孫子より良い基礎的な兵法書でもあるのか?
基礎を踏まえた方が勝率は高いのは当たり前

189:人間七七四年
10/10/05 00:22:43 MsNg+zIz
>>188
>>188
兵法を知らぬやつめwww

190:人間七七四年
10/10/05 02:07:40 MsNg+zIz
>>188
>>188
生兵法とはまさにそなたの為に有る言葉だ

191:人間七七四年
10/10/05 02:20:54 loSA/FHN
兵力で優位な状況を作ることが大変なのだがね
そこが兵法

192:人間七七四年
10/10/05 02:43:59 MsNg+zIz
>>191
なんたる愚!もう一度兵法を読み直せw

193:人間七七四年
10/10/05 07:45:30 +THA92ft
>>189>>190
連投してpgrして余程悔しいのかwww
ID出てるから丸わかりwその兵法書教えてくれよwww
無知な癖に知ったかぶりすると余計にアホに見えるのに気づかないとは恐ろしいもんだ

194:人間七七四年
10/10/05 11:58:54 EbSaSuSz
戦も内政も上手いけど、目先の利益につられて領土周辺を蚕食しまくって
せっかく結んだ同盟を反故にして結局周りを敵だらけにしてしまうのはどうなんだろう。
氏康も信玄は信用できないみたいなこと言ってるよね。

195:人間七七四年
10/10/05 15:32:31 Ggw0IErA
歴史オタクさんたちは「軍略」というものを小説やゲームの影響で大分誤った捉え方をしています。
仮にあなたがたかが百人の人たちを指揮して何かをしようとすれば、その難しさ、できる事の狭小さを
理解できることができるでしょう。まして万の軍勢を率いた状態で「変幻自在の軍略」などというものが
いかに絵空事か。

ナポレオンは敵中央への砲兵による集中砲火→騎兵での突撃というたったひとつの
戦術をもって生涯戦い抜き、実際その戦術を破れるものはほとんど存在しませんんでした。
そしてそれを破ったプロイセンのクリューパーも、指揮系統をアメーバ型にし
小隊へ行動の自由を与えたという軍制改革を行っただけで、「用兵」などと言う概念とは程遠いものです。

つまり戦に強いということはいかに外交によって有利な状況を作り出すか
いかに訓練された兵で軍を構成し、指揮系統をどう明確化するか。
いかに相手よりも大量の兵器、兵員を準備するかの経済的手腕。
そして地形の利用や相手方の切り崩し工作など・・・・
全て「政治力」の範疇に含まれています。戦と内政をわけて考えるなど馬鹿げていますよ?

196:人間七七四年
10/10/05 15:50:59 MsNg+zIz
>>194
まさに其の通り!信玄は戦略が一環してないんだよ
今川北条と同盟したと思ったら同盟破棄したり
上杉と戦ったと思ったら徳川と戦ったり
結局戦った相手を滅ぼさなきゃ勝った事にならないんだよw

197:人間七七四年
10/10/05 15:59:37 MsNg+zIz
>>193
「孫子」「呉子」「尉繚子」「六韜」「三略」「司馬法」「李衛公問対」

198:人間七七四年
10/10/05 16:04:10 MsNg+zIz
>>193
プロシア流兵学

199:人間七七四年
10/10/05 16:14:25 MsNg+zIz
>>195
生兵法は怪我のもと

200:人間七七四年
10/10/05 20:08:04 +THA92ft
>>197
孫子あるじゃん
塚その兵法書の基本全部孫子と一緒じゃん
バカなの?内容読んだ事ないの?

201:人間七七四年
10/10/05 20:13:11 MsNg+zIz
>>200
もう一度兵法を読み直せw

202:人間七七四年
10/10/05 20:24:40 +THA92ft
>>201
無知なお前に教えてやると何故孫子が人気かと言えば最も上手く纏まってるからだよ
まあ具体的な反論も出せない知識不足じゃ論ずるに値しないなw読んだ事ある奴なら簡単に反論出来るレスなんだが
読んでないのバレて恥ずかしくないか?wwwどうせ同じレスか知識不足丸わかりのレス返ってくるんだろうがなw
まあまともな反論も出来ないんじゃSub以下の泥頭だな たまに相手してやるから有り難く思えよ

203:人間七七四年
10/10/05 20:27:14 MsNg+zIz
>>202
お前の頭じゃ孫子しか理解できなかったって事だろw

204:人間七七四年
10/10/05 20:34:34 MsNg+zIz
>>202
プロシア流兵学も知らないだろw

205:人間七七四年
10/10/05 22:38:10 +THA92ft
>>203>>204
ID出てるのに連投するとは余程悔しいの?w
じゃあ内容の違い言ってみろよwww基礎的な箇所でいいからさw
所詮読んでない奴は具体的な反論なんかできないよねぇ

206:人間七七四年
10/10/05 22:44:19 MsNg+zIz
>>205
自分で読めw

207:人間七七四年
10/10/05 22:48:00 MsNg+zIz
第一兵法って置くが深いから一言で説明出来るようなもんじゃないんだよw
理解できない奴に説明しても時間の無駄www

208:人間七七四年
10/10/05 23:01:43 +THA92ft
>>206>>207
奥もクソも一番基礎的な、誰もが守ってるような事でいいから挙げてみろよw
どうせ読んでないから一つも挙げられないんだろうが
というか軽く挙げてみろ、でその返しは自分が何一つ知りませんと言ってるようなものwww
よくそんなからっぽの頭でここに来たな 知ったかぶりがバレて今どんな気分?ねえどんな気分?w

209:人間七七四年
10/10/05 23:07:50 7qQuFRk2
このスレおもろいなwww

210:人間七七四年
10/10/05 23:11:35 MsNg+zIz
>>208
全部読んで理解してるから言ってるんだろwww
お前プロシア流兵学も知らないだろw


211:人間七七四年
10/10/05 23:13:50 MsNg+zIz
>>208
兵法を知らぬやつめwww
生兵法とはまさにそなたの為に有る言葉だ

212:人間七七四年
10/10/06 00:12:52 gdRYo1+N
武田信玄って信長や元就みたいに少数の兵で
大軍を打ち破ったり大将首とったりしたことないの?

213:名無し募集中。。。
10/10/06 02:16:44 IxBH3sN3
>>200
全部兵法が一緒と思っている時点で兵法を理解してない証拠!!


214:名無し募集中。。。
10/10/06 02:17:49 IxBH3sN3
>>212
ないよ



215:名無し募集中。。。
10/10/06 02:26:39 IxBH3sN3
孫子の兵法書を少しかじった程度で兵法を理解したと思ってるようじゃみんな天才軍師になってるよwww


216:人間七七四年
10/10/06 02:34:30 +rouV3G4
>>1に聞きたい、いや小一時間問い詰めたい
>武田信玄が過大評価されてるのは甲州軍艦とか歴史の資料が多く残ってただけで

甲州軍鑑ってなんですか?

217:名無し募集中。。。
10/10/06 02:38:28 IxBH3sN3
幼少の頃から兵法を学び天才と言われた
馬謖でさえ己の才能に溺れてしまい
兵法を謝った解釈をしてミスをおかしてしまったからな
普通の人がちょと呼んだ位で兵法を全て理解できるわけがない!!
それだけ兵法は奥が深いんだよ!!!


218:名無し募集中。。。
10/10/06 02:46:02 IxBH3sN3
>>216
1じゃないけど甲陽軍艦のことだろ?


219:人間七七四年
10/10/06 03:31:59 Q16OUF7B
>>218
小一時間問い詰められるぞ

220:人間七七四年
10/10/06 04:18:07 OTeetawd
中世最強の戦国大名が武田信玄
近世最強の戦国大名が織田信長

結局中世の古い考えを脱する事が出来なかった武田が滅びて
中世の秩序を崩し、新時代を切り開いた織田信長が天下をとったんじゃんw


221:人間七七四年
10/10/06 04:24:26 OTeetawd
俺は信玄の代で武田は積んでたと思う。
中世代表の信玄は自分とは違う近代的な方法で
急速的に勢力を拡大した信長に焦ってたんだと思う


222:人間七七四年
10/10/06 04:26:04 OTeetawd
俺はやはり信玄の行った領国経営では百万石が限界だったと思う
中世から近世に移り変わると同時に武田家の政策も変わるべきだった



223:人間七七四年
10/10/06 05:02:20 TSxsrKjl
俺のじーちゃん、80歳で少しボケてるけど、たまに、
「信玄公は、お優しい方じゃった・・・・・」、と言ってるけど

224:人間七七四年
10/10/06 08:02:12 51x/AD1m
>>220
盗ってねーよ。

225:人間七七四年
10/10/06 11:12:17 SCLPktjc
孫子?プロシア流兵学?そんなもんただの「読み物」だろ。
甲陽軍鑑と同レベル。
ランチェスター理論最強。てか唯一絶対の戦争哲学。

226:人間七七四年
10/10/06 14:36:33 OTeetawd
>>224
信長の家臣秀吉が天下取ったんだから信長も天下を取ったようなもん!!

227:人間七七四年
10/10/06 14:38:06 OTeetawd
>>225
禿同!!

228:人間七七四年
10/10/06 18:15:30 SHlnPy1E
>>226
じゃあ今川義元も天下取ったんだな

229:人間七七四年
10/10/06 19:36:20 FuYckHXC
>>228 そういのを屁理屈ってんだよ。秀吉は織田家を乗っ取って
信長の事業を引き継いだが家康は義元の事業を引き継いだのか?

230:人間七七四年
10/10/06 19:50:35 SHlnPy1E
>>229
屁理屈じゃないよ
信長の事業と言われましても何じゃそら 義元の上洛事業なら家康はちゃんと果たしてるよ
秀吉は信長の領土を取り込んで主君の息子を殺し所領を取り上げた
家康も義元の領土を取り込んで主君の息子を無力にした
そっくりじゃないか

231:人間七七四年
10/10/06 19:56:06 OTeetawd
>>230
その義元に勝った信長の勝ち!


232:人間七七四年
10/10/06 20:01:29 SHlnPy1E
>>231
>>226の理屈だと義元も天下取ったねw
ただ息子の氏真が家康と一緒に上洛した際信長に蹴鞠披露した時信長を天下人と認めちゃってる
ついでに義元が出来なかった上洛をはたしたとかほざいてる
そう考えると一応家康は事業を果たしたじゃないかwアホくさすぎるけどw

233:人間七七四年
10/10/06 20:14:03 OTeetawd
>>232
意味不明w

234:人間七七四年
10/10/06 20:15:18 SHlnPy1E
>>233
どの辺が?

235:人間七七四年
10/10/06 20:21:12 SHlnPy1E
秀吉→信長が死んだらほぼ独立、信長の旧領全て併呑、後は実力で天下、信長の息子には何も与えず
家康→義元が死んだらほぼ独立、義元の旧領全て併呑、後は実力で天下、義元の息子には何も与えず
一緒じゃないか ね?

236:人間七七四年
10/10/06 20:23:18 OTeetawd
>>235
義元と信長じゃレベルが違うんだよwww
義元が天下を取ったって言ってる時点でキチガイ確定!!

237:人間七七四年
10/10/06 20:28:44 SHlnPy1E
>>236
え、何で?信長も義元も天下取ってないよ
レベルってなに?何万石やどれくらいの官位ならいいの?
義元も将軍継ぐ資格のある名門だから充分天下も狙えるよ

238:人間七七四年
10/10/06 20:36:13 OTeetawd
>>237
信長が天下統一の基礎を作ったけど義元は信長に負けてるだろ!!
お前レベル低すぎるからもうここのスレに来るな!!
スレが荒れる!!

239:人間七七四年
10/10/06 20:48:12 SHlnPy1E
>>238
碁盤は秀吉自身が作ったんだけど
信長の配下で実力のあった奴(明智柴田滝川)ほぼ全員敵に回してんじゃん
そりゃ最初は三法師という大義名分のため信長の碁盤を利用しなきゃいけなかったけど
信長の跡を継ぐなら毛利や上杉をあんなデカく残さないよ
スレが荒れるも何も史実参照に正しく突っ込んだだけだが
少し見返す限りスレ主はあんまり戦国時代を知らないみたいだね
まあよく知らない人用スレが戦国板にあってもいいかもね 勉強頑張ってな

240:人間七七四年
10/10/06 21:16:30 OTeetawd
>>239
信長がいなきゃ秀吉なんて天下取れなかっただろ?
お前もうこのスレ来るな!!レベル低すぎ!

241:人間七七四年
10/10/06 21:21:36 5juAcDDP
スレ主応援してるぞ!

242:人間七七四年
10/10/06 22:03:17 OTeetawd
信玄厨って基地外が多くて困るなw

歴史上の人物を評価する場合、その人物の持つ地理的条件や社会的な背景など、様々な観点から総合的に判断しなければならない。
「たら・れば」で論ずるのは適切ではない。
例えばこの板で散々叩かれている伊達政宗ですが、彼の「あと20年早く生まれていれば・・・」などというのは、
本人が負け惜しみで言った時こそ可愛げがあるのであって、周りがそれを本気で捉えて論ずるのはナンセンスだと思います。


243:人間七七四年
10/10/06 22:04:04 OTeetawd
歴史は「原因と結果」の積み重ねであり、「無かった」歴史は何の経験にも手本にもなりません。
歴史学でも、仮想思考するときもありますが、状況証拠を精密に積み上げ、
可能性をギリギリまで煮詰めて論じてこそ、意味があります。
それでも「思考実験」の域を超えませんけれど。

残念ながら、学校教育では「歴史事項」は覚えさせられても、
学問としての「歴史学」は教えてくれません。
歴史を客観的に研究する上での、ノウハウをみんな知らないんです。
史料の見方・扱い方も、思考としての考え方も知りません。
私は大学で初めて、そういったメソッドを学びました。
それでも多くの歴史に関する本を読んだ人は、自然にそういうノウハウを身につけられます。
その域に達しない人は、言うまでも無く「歴史思考」としては大変未熟。
ベテランとビギナーでは対等に話をしてもかみ合いません。

こちらはまじめに歴史を論じているのに、歴史をただの趣味ツールとしか受け取れない人たちは、
住む世界が違う、ということです。
ですから、馬鹿げた仮定や空想は、私は無視しています。
未熟同士で、勝手に楽しめばいい。
ただ、無知なくせに専門的な話し合いに、割り込んでくるのには閉口させられますけどね。

言論・思想は自由ですが、馬鹿げたことを言うと、自分の値打ちが下がるということも認識してくれたら、
もうちょっと世の中も上品になると思います。
羞恥心の問題ですね。
羞恥心のかけらも無い連中が、「武士道」とか「義」とか言うのを見ると、正直情けないです。


244:人間七七四年
10/10/07 09:23:22 AdI9E7ks
いや、自分哲学を書くスレじゃないから・・・。

245:人間七七四年
10/10/07 11:06:50 Fn8AualW
真性の基地外みたいだからほっとけ
アホな分だがより質が悪い

246:人間七七四年
10/10/07 12:52:14 pJMVfo4t
10行以上書くヤツはスルーで

247:人間七七四年
10/10/07 14:34:11 mnnZb9To
>>239
秀吉が囲碁の道具を作る職人だったとは初めて知ったw

おまえも国語の勉強頑張ったほうがいいと思・・・いやいいんだ忘れてくれ。

248:人間七七四年
10/10/07 14:39:00 AFjGmWc3
アンチ信玄の人って明らかにもう10年くらい戦国板ストーカー引きこもりしてるだろ…

249:人間七七四年
10/10/07 14:39:39 Qi1HHnDT
早くスレ主とだがの戦いが見たいw

250:人間七七四年
10/10/07 16:07:25 p0twKpNC
だがって普段はどこのスレにいるの?

251:人間七七四年
10/10/07 16:24:59 Lv9YnOoc
誰かが天下盗ったじゃなくてこれは壮大なリレー大会だったんだよ。
最終走者徳川秀忠。

252:人間七七四年
10/10/07 17:22:55 im2qG/FA
戦国興味もって少し調べてたらこの子モーホーだったんだね
さめたわー

253:人間七七四年
10/10/07 17:57:15 Qi1HHnDT
>>251
禿同
そのレース(1800m)の半分近く(800m)を走り区間新記録を打ち立てたのが信長

254:人間七七四年
10/10/07 18:49:14 wJpMY0IM
こういうスレ見てみると戦国ゲーやりたくなってくる
対抗立志電ぐらいしかないが

255:人間七七四年
10/10/08 09:34:16 Am8vb3QF
甲州軍艦:領内に海を持たない武田家が駿河侵攻前から来るべき水軍戦のために
密かに建造を進めていた当時としては最大最強の規模と装備をもった軍船。
しかし駿河侵攻直前、本国甲斐からの移送が不可能というお粗末な事実が発覚し
製造責任者の嫡子義信と奉行の飯富某が責を問われ処分された。

もちろん江戸初期に甲州流軍学の嚆矢として著された「甲陽軍鑑」とは全くの無関係。

256:人間七七四年
10/10/08 16:53:43 CM7hOhuE
>>255
お粗末だなw

257:人間七七四年
10/10/09 11:12:45 XkTk3rqh
海上知明 信玄の戦争

戦国期ファンは、一度読むことをお薦めします。
鉄砲や農繁期の不利とか調査もせずに武田家を貶めていたデータが専門家の調査によってひっくり返ります。
武田信玄・上杉謙信が信長ともし戦わば・・が愚問と言い切る事ができる一書。
   ※ 信長が信玄・謙信に直接的な戦争で勝てることはありえない
※ 武田信玄の限界は孫子の体現者であったこと(孫子思想の限界)

258:人間七七四年
10/10/09 13:54:53 ChmKwppA
孫子の兵法書は古いんだよ
信玄は中世の枠を抜け出す事が出来なかった
近代兵器を用い常識の範囲を超えた信長の勝ち

259:人間七七四年
10/10/09 14:18:30 G4aVMnlQ
クソスレageんなks

260:人間七七四年
10/10/09 15:35:12 J7Jxl9PA
>>251
何故秀忠かwww低脳めwwww
そこは家康だろ。

261:人間七七四年
10/10/09 23:37:17 75y1kZ6c
>258
古くはない。
今でも十分応用できる。
そもそも孫子は小さい国が決して負けないためにできた戦術書である。
つまり、戦わずにして勝つのが基本であるから、事前準備に時間を要し領土拡大には時間がかかる。
そして信玄をバカにした信長は結局、部下をきちんと掌握できずに謀反に合って死んでいる。
そして家康が学んだのは信長ではなく信玄(孫子)だった。

近代兵器というのは鉄砲の事かな?
あれは信長の兵が弱かったから仕方なく弱兵でも使える火器を増やし、戦争の決定をきめる突撃等を諦めた結果。
実際に大阪の陣で6割近い鉄砲を用意した家康が真田に押し捲られて家康さえも討ち取られたという説もあるほど。
検証すると鉄砲なんて大したもんじゃないよ。
戦国期を通じて長篠の戦でしか有効だった試しがない。それも嘘っぱちだと最近は言われてるけどね。




262:人間七七四年
10/10/09 23:40:28 75y1kZ6c
信玄は鉄砲は雨でも使える防御(城)戦で有効だと認め、それなりに増やしていたよ。
野戦では鉄砲なんかより石部隊を使用していた。
鉄砲なんか狙撃にはむかないし、相手を怯ませて騎馬・歩兵で突撃する事位だったので、石で十分だったんだよ。
鉄砲は高いし、それなら同じくらい有効な石部隊を編成し、他に金使ったほうが全然良い。


263:人間七七四年
10/10/10 00:09:56 xf09spTC
>>261
信長の凄いとこは家臣(柴田・羽柴)に沢山の兵を預け全国を統一したとこ
信玄は結局豪族の集まりじゃん、戦に勝てば自分の土地が潤うって古い体質から抜け出せなかた


264:人間七七四年
10/10/10 00:12:36 xf09spTC
>>261
決まり決まった事しか出来ない古い考えの信玄と
斬新な確信的なアイデアで天下を統一した信長

265:人間七七四年
10/10/10 00:17:11 xf09spTC
中世から近世の扉を開けた信長


266:人間七七四年
10/10/10 00:19:30 xf09spTC
>>258


267:人間七七四年
10/10/10 00:20:25 xf09spTC
>>261
>>222
>>220

268:人間七七四年
10/10/10 00:57:31 xf09spTC
>>262
お前の考えも中世じゃんw

269:人間七七四年
10/10/10 01:07:07 xf09spTC
最新の織田信長と武田信玄の評価は

中世の壁を突破できなかった「武田信玄」
中世の壁を打ち破った天才「織田信長」


270:人間七七四年
10/10/10 03:55:54 6Lhv0U9X
信玄が信長以上とは全く思わんが、だからといって過大評価とも思わんな
要は保守的であったってだけで謙信北条織田徳川に囲まれてる中で
謙信以外は正面衝突出来ない軍団を築いたのはやっぱ凄いわ
保守的なのも当時の信長以外は皆そうなんだし

271:人間七七四年
10/10/10 04:09:43 xf09spTC
>>270
謙信以外は正面衝突出来ない軍団を築いたってのが過大評価なんだがw

272:人間七七四年
10/10/10 04:30:25 6IQUuuEv
実際武田騎馬軍団て言うほど強くねーよ
武田家は騎馬率10%ほどで以外にも鉄砲の割合が高いことがわかっている
つまり他の大名とたいして変わらないということ

273:人間七七四年
10/10/10 04:36:01 xf09spTC
実際騎馬率は北条の方が高かった件w

274:人間七七四年
10/10/10 11:21:17 xf09spTC
信長が義元を討ち取ったために、信玄の今川領侵攻が可能になったんだよな

275:人間七七四年
10/10/10 11:48:57 RtZpTNRQ
と、講談資料を語るスレ主

276:人間七七四年
10/10/10 13:20:12 gnmv0ikP
272みたいに短絡な話ではない。
武田軍が群を抜いて強かったのは事実。
それは甲州という土地や農民兵だったこと。
また、武田信玄がコミュニティを強固にする政策をとったこと。
等、色々な工夫がある。
そして、最も重要なのは戦う前に用意周到に工作(孫子)を行った事。
 戦わずして勝つ → 戦うときには勝敗は決しているように準備をする
  例  同盟者を離反 家来を裏切らせる 等等様々な工作を行う
  弊害 準備に時間を要するため、信長のような急拡大ができない(孫子の限界)


277:人間七七四年
10/10/10 13:29:31 gnmv0ikP
逆に信長の兵が弱かったのは事実。
 ・土地から離れた外人部隊
 ・当時から甲州兵1人で近畿・東海兵4人分と言われている
 ・弱いから弱兵でもそれなりに威力を発揮できる非経済な鉄砲を集めた
 


278:人間七七四年
10/10/10 13:32:10 gnmv0ikP
信長はマキャベリが賞賛するようなマキャベリスト。
君主論は早急に統一するための哲学で、孫子は小さい国が負けないための哲学
孫子の体現者である武田信玄は死ぬ時まで孫子であり、上洛する時でさえ孫子(侵攻速度が遅い)であり、孫子の限界すら具現してしまった。
上洛で侵攻初めて2ヶ月経っても40キロ程度しか進んでいない遅さには足利義昭も朝倉もさぞや辟易したと思われる。
また、上杉謙信にコテンパンにやられてからは謙信が出てくると徹底的に逃げ、その結果、古今東西世界最高指揮官と自衛隊戦争研究者も認める謙信ですら信玄を討つ事はできなかった。
信玄の性格は信虎の轍を踏まないという生い立ちからも来ているのだろうと思う。

逆に信長は哲学的には君主論の体現者であり、侵攻速度は速いがコミュニティを作ることが出来ず、その結果、兵も弱いし求心力もつくれなかったので反乱が多く、最後は謀反で殺されてしまった。
信長は孫子の体現者である信玄を笑い、信玄はマキャベリスト信長を批判したが、結局はどちらも最後まで自らの哲学の限界を体現してしまった。


279:人間七七四年
10/10/10 13:42:35 gnmv0ikP
× 中世の壁を突破できなかった「武田信玄」 中世の壁を打ち破った天才「織田信長」
    このように言われるが、その根拠をきちんと調査しているとはいない。
    例えば武田信玄の軍は農民兵が多いが、農繁期に長期の戦争を出来る体制だったし、行ったこともある。
    実際に、農繁期農閑期で戦争をしていたのではなく、孫子的な準備・工作が完了した時が戦争開始の時だった。

○ 信玄は孫子の体現者      石橋叩き、準備に時間がかかるから遅い 戦うときには凄く強い
                 信玄が天下統一するのは、あと100年寿命を延ばさないと無理
  信長はマキャベリスト     拡大速度は速いが多くの問題が発生

信長も信玄も相手の短所を批判したが、両者を見た家康が選択したのは信長(君主論)ではなく信玄(孫子)だった。
また、織田信長が信玄や謙信と戦ったら云々という疑問は愚問である。
世界の戦史を研究している人によれば、「信長は信玄・謙信には勝てない。」との事である。





280:人間七七四年
10/10/10 15:11:16 4WlncJiv
とりあえず今じゃ懐疑的な
冷戦脳が作り出した妄言たる
西洋史観を参考に日本史に照らして考察するバカげた論は止めろ。
西洋史観に無理やり当てはめて信長マンセーする愚か者はコーエー武将ファイル厨にしか見えない。

281:人間七七四年
10/10/10 15:59:20 xf09spTC
>>279
兵農分離をした信長は天才

282:人間七七四年
10/10/10 16:04:00 nG43dE4r
>>281
信長公がやった政策はぜんぶ今川義元がやってたこと 鉄砲も義元のマネ
信長公は天才というより反対派をねじ伏せて大きな改革を断行した剛腕

283:人間七七四年
10/10/10 16:09:29 xf09spTC
武田軍3万が仮に上洛を目指したとして兵糧を計算すると1人×(1日)3合×遠征日数×3万となります。
信長に篭城戦に持ち込まれると(事実家康に命令していた)遠州、三河、だけでも相当な日数を要したことです。仮に1年として、
上の表に当てはめると約3万石が必要となり、これに汁等の味噌や塩等も同様に必要になります。
米に換算するのは難しいですが1年分で約2万石と仮定します。併せて5万石とします。
主食の米だけで3万石を重量に換算すると930トンとなり輸送だけでも相当なコストになります。
更に必要経費も加算されますから、実際はもっと遥かに出費があったものと考えられます。

次に武田家の版図です。最大で甲斐、信濃(北信を除く)、東美濃(一部)、駿河、遠州(一部)、
西上野から計算できる石高は120万~160万石と推測されます。この内税収入は約半分です。
つまり西向き遠征として歳入の6~8%が最低でも必要になります。
これに対して織田家は尾張、伊勢(除く長島)、美濃(大半)を本拠地としておりこの3カ国の石高だけで約170万石と推定されます。
これに一部を除く畿内5カ国、近江(浅井領を除く)、志摩、伊賀(一部)、飛騨を領して合計約300万石以上と推測されます。
つまり武田家は信長+家康の半分以下の資本で対抗することとなり、本願寺+足利の連帯が怪しい同盟に乗らざる得なかったというところでしょう。
更に東国は兵農分離が遅れていた為、戦の最中であれ田植え、稲刈りの季節は大半の“武士”は帰郷しました。
戦の時期も限定せざるえなかったのです。これに対して織田家は多くは職業軍人。何時でも動因できたわけで、この点も東国大名たちに先んじた結果です。
最後に決定打は織田家と武田家の経済政策の差です。金山の在る場所を目指して動いた武田家。物流経済の中心を開発(フロンティア)した織田家。
長期で判断すればどちらが優位か一目瞭然でしょう。

全国的観点からすれば川中島の狭い土地を巡って人生の大事な時期を10年に渡って費やしてしまった2人に天下人の資質が問われると思います。



284:人間七七四年
10/10/10 16:14:16 xf09spTC
もしも信玄と信長が戦ったら

1560年の「桶狭間の戦い」の当時では信長は武田信玄に
とても太刀打ちできなかったでしょう。眼中にも入らなかったと思います。

しかし、1570~1573年の「元亀の擾乱」以後、
周辺の反対勢力を抑えこんだ信長の躍進を考えれば、話は別です。
信玄病死後の1575年の「長篠の戦い」において
武田軍を一網打尽にしたように、信長が勝つでしょう。
たとえ信玄がもう少し長く生きていたとしても、その可能性が高いと思います。

当時、用いられた新戦法の鉄砲隊の効力は疑問ですが
やはり、徳川家康との連合軍という切り札を持っていたことがポイントです。
つまり、数的兵力を確保・動員できる「政治力」を身につけたため、
信玄に優っていたと結論できます。



285:人間七七四年
10/10/10 16:25:30 xf09spTC
武田軍が強いと言う話は後に浪人となった武田武士が士官するために作り上げた作り話です。
信長は兵や物資の移動がめんどくさい上、見るべき産業もない甲斐を相手にしていなかったのです。



286:人間七七四年
10/10/10 16:30:10 nG43dE4r
戦国覇王徳川家にもっとも勝った家だからな 家康なんかなんべんもボコボコにしてやったとか言えるし

287:人間七七四年
10/10/10 16:30:41 xf09spTC
もし武田信玄が長生きしてたとしても信長の経済力にはかなわないので
最終的には敗北しかなかったでしょう。

三方が原の戦い時ですら信長と信玄の
勢力格差は3倍以上ありました。
その後武田家の経済を支えた金山の収穫量が
落ちるのでその差はさらに拡大したでしょう。
(滅亡時には10倍以上ありました。)

上杉でも同じくことです。

ですから両者は逆立ちしても信長に勝つことはできません。

288:人間七七四年
10/10/10 16:33:00 xf09spTC
玄が「戦国最強」と言われているのは
後世の都合に過ぎません。

信玄は家康を「三方が原の戦い」で一蹴しているので
信玄が「最強」でなければ家康の戦歴に傷つきます。

さらに徳川家家臣には武田旧家臣が多くいたので
それらに拍車をかけることになりました。

事実例え信玄が長寿を保ったところで
最終的には信長の大兵力に蹂躙されたでしょう。
当時でさえ信長と信玄の格差は倍以上ありました。
どう足掻いても信玄が勝てる可能性は少ないです

289:人間七七四年
10/10/10 16:35:48 xf09spTC
「武田最強説」は家康が「三方が原の戦い」で敗れたことから
家康の「汚点」を注ぐために作られたに過ぎません。

当時でも織田家との実力差は2倍以上はありました。
(信玄は信長に単独で対抗できないから「信長包囲網」を利用したのです。)


290:人間七七四年
10/10/10 17:25:48 xf09spTC
>>279
上杉茂憲が、上杉謙信伝説を捏造したのを知ってますか?手取川で信長に勝った逸話の捏造もこいつの仕業です。巧妙なウソがばれるのを恐れて幕府存命時代ではなく、明治以降に主張を始めた!!


補足 上杉家御年譜や歴代古案は、後世に創作された偽書です。

291:人間七七四年
10/10/10 17:33:31 RtZpTNRQ
ソースも無しに捏造と言い張るとは流石捏造大好きスレ主

292:人間七七四年
10/10/10 17:44:20 xf09spTC
>>291
俺スレ主じゃないよwww

293:人間七七四年
10/10/10 19:09:29 vStUDrOU
>更に東国は兵農分離が遅れていた為、戦の最中であれ田植え、稲刈りの季節は大半の“武士”は帰郷しました。
これは神話。きちんと検証されておらず、小説家が言い出して誰も検証せずに一人歩きしている。
武田信玄は農繁期農閑期の区別なく出兵できる体制を整えていた。
>つまり武田家は信長+家康の半分以下の資本で対抗することとなり、
経済力は信長の半分。しかし、武田信玄の作った体制なら実際の兵動員は6万を超える事ができる。兵站のために抑える必要があるが。
そして甲州兵は心身共に精強。心の部分は信玄のコミュニティ政策等からつくりだされている。一人で近畿の兵4,5人分と言われていた。
>(信玄は信長に単独で対抗できないから「信長包囲網」を利用したのです。)
光栄のゲームと違い、信玄で最も怖いのは諜報や様々な工作。単独で勝てても勝てなくても包囲網は当然作る。
信玄を全く理解していない発言と思われる。
>武田軍が強いと言う話は後に浪人となった武田武士が士官するために作り上げた作り話です。
凄い発想ですね。ビックリ。
>信長は兵や物資の移動がめんどくさい上、見るべき産業もない甲斐を相手にしていなかったのです。
信玄の領土は守りやすく、兵は強い。実際問題信玄に挑んでも勝てないでしょう。
また、関東は強国ばかりで信長では勝てない。当然弱小ばかりの空白地帯に侵攻するのは当然。

※ID:xf09spTCさんは、データはともかく戦略や政治について調べてみるべき。
一例として信長(佐久間)の命で篭城している家康を野戦に引っ張り出した信玄の神業等は全く感じる事が出来ていない。
つまり、計略だとか戦略や生き様、生い立ち、求心力等は全く考慮されていない。
それだけデータを集める事ができるのなら、兵法について学んでから戦史を調べるともっと面白くなりますよ。
つまり、野球の投手をID:xf09spTCさんは「玉のスピード、球種」でしか見ていない。
駆け引きとかまで観る目を養いましょう。

294:人間七七四年
10/10/10 19:14:26 vStUDrOU
信玄は6手先まで読める戦いの天才
しかし、謙信は10手先まで読める神才
信長が勝てる要素はない。
ただ、信玄は孫子の体現者であり拡大速度が遅いので、始皇帝型の統一を目指すとなると100年近くかかるでしょうね。

また、信玄軍と信長軍は、大東亜戦争時の日本軍(信玄)と中国軍(信長)みたいなものです。
なぜ明治政府が農民を大切に保護したか等、大切な視点が抜けている。
ちょっと※ID:xf09spTCさんは視野がせまい気がします。

295:人間七七四年
10/10/10 19:16:16 xf09spTC
信玄vs信長

(1)戦闘指揮
これは、無条件に信玄。若い頃、失敗したこともありますが、戦術的な能力はやはり山国で戦闘を数こなすと上昇するようです。まだ若かったとはいえ、
平地戰の得意な家康とあの三河軍団を三方原で赤子の手をひねるように打ち負かしていますので、反論はないでしょう。


(2)戦略
これは、信長でしょう。早い段階で天下を視野にいれ、明確なビジョンをもって行動しています。信玄はどちらかといえば、行き当たりばったり的なところが見られます。
特に、信長はそのイメージとは反して、我慢するときは徹底的に我慢します。その反動で我慢しなくてよくなると魔王のようにやりたい放題になりますが^^
ただ、少し減点なのは、えらい緻密なときとえらく認識の甘いときの落差があることですね。越前攻めなんかが典型でしょう。

(3)政治業績
これも信長ですね。信玄も信玄堤や棒道、鉱山開発など良き領主であるのは間違いがありませんが、信長は楽市楽座、地名の変更、兵農分離、計画的城下町建設、
朝廷の政治利用等あげればきりがなく、現代に影響をおよぼすものさえあります。特に、私が評価するのは、宗教勢力の政治からの駆逐は現代人が感謝してもいいように思います。

(4)外交
これは、いい勝負でしょうか。両者、さすがに食えません
ただ、信長は武力征伐一辺倒のような印象を受けますが、意外に調略も積極的です。政略婚姻はじめ、えさで寝返りさせるのを主に、勝てる段取りをして最後に力を使うという感じで、外交力は高いと思います。

総合では、やはり信長ですかね。





296:人間七七四年
10/10/10 19:19:09 xf09spTC
歴史的に見てあまり脚光を浴びませんが、織田信長の子飼いの馬回り直轄部隊は強いですよ。

 桶狭間の合戦では、谷間に陣を置いて山の上から攻撃されたというのは本当ではないようです。近年は奇襲効果をあまり大きく評価しない考えが主流となってきています。
 桶狭間山と言う山の上に今川本陣5000名が陣を構えている状態で、雨の中を2000名が突撃して突破したというのが本当らしく、今川義元も決して油断していたわけではなかったようです。

 大阪の天王寺砦の戦いでも、兵力不足の中、援軍を待てなかった信長は、直轄部隊を率いて一向一揆を蹴散らしています。

 織田軍は金で掻き集めた人間を諸将に率いさせていましたが、自分の率いる直轄部隊には子飼いの忠誠心のあるものや、戦いで目覚ましい働きをしたものを集めていました。

 姉川の戦いでも、浅井勢に突き抜かれたのは、金でかき集めた部隊で、浅井勢を疲れさせれば目的は達したと言え、最後の二段は、浅井勢と同等以上の戦闘力を持っていたはずです。

 信玄が最晩年の三方ゲ原の戦いの頃は、銃の数・経済力から考えて、武田信玄VS織田信長では、武田勢に勝ち目はなかったでしょう。
 後の江戸幕府の成立とその長い統治によって、家康に都合の悪い情報の多くが消え失せてしまったことを考えると、武田信玄は徳川家康を取り込んで、
織田信長VS武田信玄+徳川家康という図式を狙って、謀略・調略を行っていたと思います。(資料としては聞きませんが。)

 常識的に考えても、織田信長+徳川家康VS武田信玄では、勝負にならないが、織田信長VS武田信玄+徳川家康ならば、勝負になりますからね。

297:人間七七四年
10/10/10 19:21:50 RtZpTNRQ
と、ソースも無しに自分の講談で得た知識を得意げに披露するスレ主

298:人間七七四年
10/10/10 19:23:45 xf09spTC
>>293
私の解釈では・・・
個人戦や名乗りあっての旧来の戦闘<野戦や攻城戦>では武田信玄なり騎馬軍団が勝つと思うが、
時代の進展や現実の戦いでは→織田信長の天下布武の旗印の下に結集・増大した信長・家康とその家臣団は小さな戦闘&戦場の局地戦に仮に破れても、
農民兵の農繁期の徴発・出稼ぎ的な武田軍は大規模&長期戦では兵力・兵站が維持出来ず、ジリ貧の様相が強くなり、他方、織田軍には時間を味方に、
必要と有れば外国勢力の助勢も得て、局地で負けても大局的に、一進一退の末、結果的には信長の勝利に終わると思います。

299:人間七七四年
10/10/10 19:24:54 xf09spTC
>>297
俺スレ主じゃないからwww

300:人間七七四年
10/10/10 19:26:20 xf09spTC
武田信玄はあくまで中世の人間であり、織田信長は、近世の扉を開いた人間と思います。武田軍は兵農未分離の農兵が主体であり、
信長は傭兵による専用の軍隊を持ち、最新兵器である鉄砲を活用しました。
長篠の戦いは、信玄がもし存命であっても、同じ結果になったと思います。

301:人間七七四年
10/10/10 19:27:49 xf09spTC
農閑期しか戦ができない体制であった
兵站に関する認識が無いため、食料は無償現地調達(略奪)で長期間にわたる戦線の展開などできる状態ではない

要するに、戦略的な構想が無いから、局地戦では勝利できても、それが体力を消耗する結果にしかならない(恩賞を与える原資が確保できない)

真田幸村と同じです、局地戦で戦果を挙げてもそれを活用する戦略が伴わないから、あだ花に終わるだけです

信玄は信長負けなかったかも知れませんが、絶対に勝てません
ある時期を過ぎればたいした脅威にはなりませんから、相手にしなければ良いだけです

302:人間七七四年
10/10/10 19:31:25 RtZpTNRQ
と、2chで長文連投はマナー違反なのも知らず資料元も明らかにしないで得意満面に新しく得た知識を書き込むスレ主
天地人の脚本家と同程度のレベルと推測される

303:人間七七四年
10/10/10 19:33:30 xf09spTC
>>302
スレ主じゃないからww

304:人間七七四年
10/10/10 19:38:12 RtZpTNRQ
どうやらスルースキルもないようです
口調も書き込み方も同じな癖に必死に否定するあたりかなりのマヌケと思われます

305:人間七七四年
10/10/10 19:40:50 xf09spTC
>>302

ソース


桶狭間は言うまでもなく、若年の信長は鬼気迫っていた…と、思わず唸ってしまいます。

◆村木砦の戦い:小河(緒川)水野氏居城の近くに今川勢が村木に砦を構え、小河を封鎖してしまいました。那古屋の信長は清洲からの襲撃を懸念し、斉藤道三に援軍を頼み、安藤伊賀を派遣してもらいました。
千の安藤軍が那古屋に到着、安藤軍に那古屋近くに陣を敷いてもらい、信長は林ら重臣の異議を退け翌日出陣します。出陣の翌日、大風が吹き荒れ、水主らが反対する中、無理矢理渡海し、
翌日には水野氏と面会を果たします。出陣四日目、遂に村木の砦を攻め込みます。信長は最も守備の堅い南側を受け持ち、自ら鉄炮を放ち、小姓衆に怪我や死人が数多く出てしまうほど攻め込みます。
約八時間の激戦を経て砦を落去させました。二日後に那古屋に帰陣し、その翌日に安藤伊賀に美濃へ帰ってもらいました。この様子を聞いた斉藤道三は「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」と言いました。(『信長公記』より)

◆稲生の戦い:弟織田信勝(信行で流布。稲生の戦い当時は織田弾正忠達成と名乗っていた)謀反のときの戦いです。七百の信長に対して、東に千の柴田勝家、南に七百の林美作が陣を敷いていました。
信長はまず東の勝家に挑み、佐々孫介ら屈強のものたちが討ち取られ、次第に劣勢になっていたところ、味方同士が敵将の首を奪い合っているのを見た信長は、怒り狂い大音声を上げました。この姿を見た柴田勢が恐れをなし、崩れていきました。
次いで信長は南に向かい、林美作の頸を自ら討ち取って、遂に勝利を得ました。(『信長公記』より)

若年の頃の信長の戦いで、この二つが特に印象的です。若かりし信長はキレまくっています。

306:人間七七四年
10/10/10 19:45:19 RtZpTNRQ
信長公記=武田の甲陽軍艦同様たいしてアテにならないもの
大概自分の家のものは都合良く書くのが鉄則である

307:人間七七四年
10/10/10 19:47:56 vStUDrOU
信玄になるとなぜか農繁期発言が出てくる。
かつて大内や三好等、長期間大軍率いて上洛した人達の軍も農民兵だった。
当時の信玄軍についても勿論だが、当時の家について調べると農繁期は戦えないなんてのは神話だとわかる。

308:人間七七四年
10/10/10 19:53:36 xf09spTC
>>307
仮にそうだとしても国力の違いで信玄が信長に勝つのは不可能

309:人間七七四年
10/10/10 19:57:25 RtZpTNRQ
上洛スレでとうに結論の出てる事をさも自分が初めて思いついたかのように書くスレ主

310:人間七七四年
10/10/10 19:57:40 vStUDrOU
経済力は信長が信玄の倍ですが、信長軍は一握の砂。




311:人間七七四年
10/10/10 19:58:12 xf09spTC
「信長からすれば、信玄の「裏切り」ともいえるその行動が、後の武田氏に対する執拗な敵対意識となり、武田氏滅亡の原因となったと思うのですが」

「武田信玄と勝頼-文書にみる戦国大名の実像-」 岩波新書
鴨川達夫著
URLリンク(www.iwanami.co.jp)

という本に答えがあります。

1) 永禄11年 (1568年) の信玄の駿河侵攻の前後に信玄が信長に宛てた書状で
「信長に見放されたら自分は滅亡してしまう」
と述べた書状がある。

2) 信長は、信玄の同盟を求める姿勢に応じて、信玄と同盟を結んだ。信長は、永禄11年7月29日付の第三者への書状で「信玄と盟約が成った」と述べている。
この後、信玄は駿河に侵攻し、北条氏との数度の戦いを経て駿河を領土化した。

3) 信玄と信長は、その後は元亀3年 (1572年) の冬に徳川家康の領国である遠江に大軍で攻め込み、同時に美濃に秋山信友の軍勢を侵攻させて岩村城などを攻め取るまでの間、
緊密な同盟関係を結んだ。

4) 信玄に関する本にたいてい書いてある
「元亀2年 武田信玄は徳川家康の領国に侵入して足助城、吉田城を攻撃」
というのは、従来の研究者が、武田勝頼が天正3年に長篠の合戦に先立って三河の足助城、吉田城を攻めたことを書いた書状を『元亀2年に書かれた書状』と誤認したことによるものであり、
史実ではない。信玄と信長の同盟関係は、永禄11年から元亀3年 (信玄が死の直前に徳川家康の領国である遠江に侵入し、二俣城を攻略、
三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を粉砕した時) まで継続していた。
《この本で明らかにされた「歴史の訂正」です》

5) (3)のように、信玄が信長に敵対するに至ったのは、信長が足利義昭の構築した「信長包囲網」に取り囲まれていた最も苦しい状況の時であった。
信長は、自分が一番苦しい時に同盟を破った信玄を深く恨んだ。
元亀3年11月20日付で、信長が上杉謙信に宛てた書状で
「信玄の行いは前代未聞のひどいもので、侍の義理を知らず、日本中の嘲笑を顧みないものだ。信玄に対する遺恨は幾重にも重なり尽きることがない。信玄とは二度と再び付き合わない」
と、激しい怒りをぶちまけている。

6) その3年後、長篠の戦いで信玄の息子の武田勝頼の軍に大勝したことを報じた書状 (宛先は本に書いていない) では、
信玄が元亀3年に「(駿河侵攻を同盟者として手助けした) 恩を忘れて勝手な真似をした」ことに言及した上で、
『今回、その鬱憤を晴らした』と述べている。なお、この手紙を書いた時点では、信長は勝頼が討ち死にしたと認識していたらしい。

7) 天正7年 (1579年) の末以降、武田勝頼は織田信長との和睦を模索して盛んに信長に使者を送った。これは、同年に勝頼が上杉景勝と同盟して北条氏政と断交し、
西の織田・徳川、東の北条に挟撃される形になったことによる。
しかし、信長は勝頼の打診を全て門前払いし、和睦どころか「降伏」も受け付けない姿勢を崩さなかった。
例えば、勝頼が常陸の佐竹義重 (信長と友好関係あり、勝頼の敵である北条氏と敵対関係にあり) を介して信長と交渉したケースで、
天正7年の年末に安土に到着した勝頼の使者を、天正8年になっても相手にせず、無視していたという。

8) 天正10年(1582年)の正月、武田家の有力武将で武田領国と織田領国の接点に位置する木曽義昌が信長に通じた時、信長は武田家への総攻撃に踏み切り、
3月には武田勝頼とその家族が天目山で討ち取られて武田家は滅亡した。
信長は、木曽義昌と、従来から徳川家康を介して信長に寝返る姿勢を伝えていた穴山信君以外は、武田家の一族・家臣の降伏を許さず、
討ち取った武田勝頼と嫡子の信勝の首は京に送って晒し首とした。
この極めて厳しい姿勢は、(5)で紹介した、元亀3年の上杉謙信への書状に書いたことの通りである。

上記の本 「武田信玄と勝頼」 は武田が滅亡した原因が多く書いてあると思いますので、ぜひお読み下さい。



312:人間七七四年
10/10/10 19:59:12 vStUDrOU
>309
見えるデータに縛られているのは感じますね。


313:人間七七四年
10/10/10 20:03:35 vStUDrOU
武田信玄は孫子の具現者。
表裏比興の者
海千山千です。
若い頃に孫子を外れた行動すると竹箆返しが起こったせいか、中年以降は完全に孫子に沿っています。
今川攻めに北条を巻き込もうとしたりする等、上杉謙信みたいな善い人間ではないですよ。

314:人間七七四年
10/10/10 20:06:36 xf09spTC
信玄は家督を継いでより裏切りの連続です。嫡男を殺してまで三国同盟を破綻させて今川領を狙ったのは有名な話です。
また今川領に侵攻する際に駿河は武田、遠江は徳川という大井川同盟を交わしますが、自分がさっさと駿河を手にしてしまうと遠江も欲しくなって攻め込み、
徳川は条約違反を理由に北条と同盟を結ぶに至っています。さらに上杉に対しても信濃守護職を条件に将軍・義輝の調停で和睦したが、守護職に任じられた直後に破っています。(要は守護職が欲しかっただけ)

そして信長に対しても同じです。信長は信玄に対し、常に下手に出ています。嫡男の正室に信玄の娘を迎えることまで決め、
家康と信玄の仲が悪くなっても「家康を叱りますから」とまで言っている。ですが、信玄は織田領へ侵攻します。

このように信玄は同盟や条約など約束を常に自分から破っています。その所為で信用を失った武田家は、次代の勝頼が苦労する破目になります。
もし信玄が信義を大切にする人物であれば、嫡流(義信の家系)が今の時代まで存続していた可能性があります。

逆に信長の場合、苛烈なイメージはあれど約束を自分から破っていません。信玄とは正反対の人物です。浅井の裏切りも信長はあくまでも将軍の代理として朝倉攻めを行っており
織田浅井の同盟条約違反を理由にするには無理がありますし、延暦寺へも事前勧告を行っており、それも中立になれというだけのまともなもの。
石山本願寺に対しても相手から攻められたから戦っただけであり、長島一揆も先に条約違反をしたのは一向一揆側です。

ちなみに信長は乱取り(略奪)や人身売買を禁止したり、街道を整備して関所を廃したりしています。歴史的事実だけを考えれば、
織田信長という人物は上杉謙信以上に信義を大切にし、民に優しい人物と言えます。(謙信や氏康も略奪行為は促進している)


315:人間七七四年
10/10/10 20:15:22 xf09spTC
はい!!論破!!www

316:人間七七四年
10/10/10 20:32:27 RtZpTNRQ
と、結局ロクに信憑性のあるソースも出さず講談社の本を読んで得た知識をわざわざ御披露するスレ主
おまけに同じ口調で同じ締め方までして自分はスレ主でないと主張する頭の悪さまで皆に知らしめたのである
おそらく実齢か精神年齢が小学生なのろうが他の住人は気づかないフリをしてくれている

317:人間七七四年
10/10/10 20:33:51 xf09spTC
ID:RtZpTNRQ

このキチガイはNG推奨だなw

318:人間七七四年
10/10/10 20:35:56 RtZpTNRQ
と、反論しきれず皆を必死に扇動するスレ主
ここまで耐性が低いマヌケも珍しいものである

319:人間七七四年
10/10/10 21:31:39 ml058OZ8
>>318
あぼーんだから見えないw

320:人間七七四年
10/10/10 21:54:38 vStUDrOU
信長は謀反で死にましたね。
信長が安定した時はないでしょう。
それがマキャベリストの宿命なんですよ。
織田家の末路も悲惨なものでした。」

321:人間七七四年
10/10/10 22:25:50 hiZsa8J4
>>320
武田家の方が裏切りの連続で最後は惨めでした
これは信玄時代のツケといえるでしょう

322:人間七七四年
10/10/10 23:02:39 vStUDrOU
>321
何言ってるんだかわからない。
信玄存命時は、その手腕でまとまっていたでしょう。
織田信長はマキャベリストなので、常に不安定。
信長存命時は勿論の事、子供は子飼いの部下に・・。

323:人間七七四年
10/10/10 23:27:23 xf09spTC
武田勝頼は、自らの世代で武田家が滅びる事になったので後世の評価は低いです。
しかし私が最近聞いた話では、信玄は結んだ同盟を何度も自分から破棄していたために周囲の国からの評判も悪く、勝頼の世代でも武田家の悪評は変わらないため上杉と同盟を組む時にそれを指摘されたというものがあります。
信玄が義元の死後になって三国同盟を破り、駿河に侵攻をしてきた所からして同盟破棄を繰り返したために武田家の評判が悪くなったというのもあり得ない話ではないと思うのです。このツケが勝頼に回ってきたとしてもおかしくありません。

324:人間七七四年
10/10/10 23:29:50 xf09spTC
もし信玄が天下を取ったとしても天下は信玄の代で政権は終わるでしょう。つまり1~2年しか持ちません。

下記の方も仰っていますが、信玄の天下構想は大内義興タイプです。この時には細川管領家も没落していますので、信玄は管領か副将軍の座について幕政を牛耳り、天下に号令したことでしょう。

ただ何故、信玄の代で政権が終わるかというと...

戦国時代、ほぼ全ての武将(大名)が本貫(本拠地:武田の場合は甲斐)を大事にするからです。あの義興も11年間在京して政務を執りましたが、結局は本貫がピンチになって帰国していますし、
上杉謙信は関東管領に就いても関東へ拠点を移すことはありませんでした。つまり大名は版図を拡大しても本貫から動かない...というのが当時の常識でした。

故に信玄が上洛して天下を獲った場合、甲斐には勝頼が残ることになるはずです。そして信玄が死ねば上方で政局は必ず混乱します。何せ足利義昭と信玄が歩調を合わせられるわけがなく、
信長包囲網に代わって信玄包囲網が形成されるでしょうからね。そうなると当時の常識から考えて、勝頼は京の確保より甲斐の安全を優先します。つまり京は捨てられるのです。これにより武田の天下は失われます。

尚、織田信長の場合は意図も簡単に本拠地を他国へ移していますし、包囲網時は岐阜より京を保つことを優先させていますので、こういう二人の考え方の違いが天下を獲れるか獲れないかの差に繋がったと思います。

ちなみに信玄が裏切りを繰り返したことにより勝頼が苦労したのは本当です。信玄は上杉を裏切り、北条・今川を裏切り、徳川と織田を裏切っています。これにより一時期は大勢力全てを敵に回しています。
勝頼が戦ばかりしていたと言われるのは、こういう事情があったからに他ならず、勝頼が無能だったわけではありません。信玄の所為です。しかも信玄の晩年から甲州金山の産出量が減り始めており、勝頼の悩みは尽きなかったことでしょう。



325:人間七七四年
10/10/10 23:31:08 xf09spTC
信玄は甲斐の黒川金山を主な財源としていますが、その金山が発見されたとき、その埋蔵量は今後100年は武田家の財政をまかなえると予想されましたが、
結果は20年ほどで使い切ってしまいました。信長のようにいわゆる経済政策をほとんどしていない信玄が、天下を維持できるとは思えません。

結論から言えば、信玄では天下を取れないし、天下を維持することもできない。というのが、私の感想です


326:人間七七四年
10/10/10 23:52:33 zGYdEeeU
同盟国の今川領を攻め取り、安倍金山をゲットしたでしょ

327:人間七七四年
10/10/10 23:54:04 RtZpTNRQ
最近聞いた話=根拠のない妄想

328:人間七七四年
10/10/10 23:59:32 xf09spTC
>>327が見えない

329:人間七七四年
10/10/11 00:04:18 ZBF0CUq9
URLリンク(c.2ch.net)

ここへどうぞ
如何に信玄が上洛無理かを語っている

330:人間七七四年
10/10/11 00:09:33 ueOygVaP
>>329
お前がそっち行けよw

331:人間七七四年
10/10/11 00:11:06 s6tyt/1k
324については概ね正しい理解だと思います。
信玄の戦い方では全国統一するのは一代限りでは無理。
これは孫子の体現者の宿命です。

332:人間七七四年
10/10/11 00:14:18 ueOygVaP
>>331
一代限りでは無理なのに跡継ぎや自分が死んだ後の政策に際しては無計画すぎw

333:人間七七四年
10/10/11 00:15:25 s6tyt/1k
その点、信長は下準備が出来ていました。
ただ、信玄がもう少し長生きすれば、信長は滅亡していたのは間違いありません。
信玄による詰め将棋は成っていました


334:人間七七四年
10/10/11 00:18:56 ueOygVaP
>>333
無理じゃないでしょうか。 他の能力で勝っていても、信玄には信長ほどの革新性はなかったでしょうから。 歴史は信玄の能力よりも信長の革新性を必要としていたんだと思います。
もしかしたら信玄自身もその事を無意識にわかっていたのかもしれません。

335:人間七七四年
10/10/11 00:19:04 s6tyt/1k
>332
あの時点で信玄は死ぬつもりじゃなかったですから。
歴史上、実に多くの人が同じ失敗をしています。
歴史を知っている我々が言って良い問題ではありませんね。


336:人間七七四年
10/10/11 00:20:25 ZBF0CUq9
>>333
信玄が徳川家を滅ぼしていたならまだ説得力はあるけど滅ぼせてないじゃん
三河尾張の城一つ一つ潰していくなんて時間かかりすぎて浅井朝倉が潰れる
信長がデカくなりすぎてるから包囲網の連中が一致団結して且つ信玄が同数以上の織田軍を撃破しない限り無理
そして信玄は大規模な合戦だと互角以下の戦歴しかない
信玄が天下統一とか80まで生きてても無理

337:人間七七四年
10/10/11 00:21:21 ueOygVaP
>>333
武田信玄が病死しなくても織田信長に負けていたでしょう。
まず徳川家康は掛川・浜松・吉田・岡崎といった主要な城を維持しているため滅ぼすなり寝返らすなどして徳川領国を解体する必要がありそれから織田の領国を攻めねばなりません。
しかも三方が原の戦いでわずかな援軍しか送らなかったように織田信長は岐阜で美濃・尾張の軍勢を動員できる情勢にあります。
尾張にも清洲以下織田の城はあります。
それらを攻略しながら信長との合戦までもっていけるかといった問題があります。
上杉謙信の動向もありますし武田軍が長期の軍事行動に耐えられるかといった問題もあります。
上洛に成功したら結局、足利将軍家は傀儡のままで適切な時期に武田家が取って代り将軍家になっていたことでしょう。
確かに細川家や大内家など将軍を支え執政を行なうことで満足した大名もいましたが戦国時代も末期になるとそのような中途半端な体制は無くなり領国を完全に統治する戦国大名の権力構造が進展します。
織田信長のように征服した土地を完全に支配下に置かないかぎり勝ち残れないのです。

338:人間七七四年
10/10/11 00:22:02 s6tyt/1k
信長の革新性は認めますが、あの時点では信玄により、信長は詰んでいましたよ。
信玄の死により信長は命拾いしたのです。



339:人間七七四年
10/10/11 00:23:04 ueOygVaP
>>338
武田軍は農繁期までには、帰国しなければ
ならない軍隊でした。

季節限定の軍隊が信長に勝てるわけがありませんし
奇跡的に勝てたとしても
兵站もなにもなく、京に常駐できません。
(武田軍は基本的に略奪する軍隊です。)


340:人間七七四年
10/10/11 00:25:00 ueOygVaP
>>338
私は「上洛否定説」ではなくて、「上洛不可能説」です。

その根拠は、「外線作戦の困難さ」です。
武田や朝倉などの包囲網側は、典型的な外線作戦です。その成否は、外線側の各軍の連携に依ることが大です。しかし、この時の外線側は、
1、武田信玄と朝倉や浅井に、信頼関係どころか面識すら無い。
2、総司令部が存在しない。
3、武田にも浅井・朝倉にも、織田信長以外の敵がいる。
4、武田と浅井・朝倉の連絡手段が乏しい。

この状況で、武田信玄は、「浅井・朝倉が織田軍の大軍を引きつけてくれている。決して、勝手に和睦したり戦線離脱したりしない。例え、一向一揆に府中を攻撃されても朝倉義景は帰らない。」と信じ込まねば、外線作戦は成功しません。
あなたなら、信じ込めますか?私が信玄なら、そこまで朝倉を信頼はしません。
もし、単独で信玄が信長と対戦するようなハメに陥れば、スケールメリットで、織田信長の勝利の確率が高いでしょう。

私が信玄なら、三方原の戦勝を宣伝材料にして、徳川方の国人領主の寝返りを促します。信長が武田勝頼や朝倉や斉藤を滅ぼした時のように。そしてこのような手段の方が、戦国時代では正攻法ですし。
なお、この寝返り工作が事前に成功していないことから考えて、この時の武田信玄は、準備が不十分だったことが伺えます。この寝返り工作の準備不十分なまま、浜松城を強襲したり、尾張への侵攻を企てるのは、ゲーム的、小説的であります。


341:人間七七四年
10/10/11 00:28:14 ZBF0CUq9
自演臭すぎワロタ 一人でやって楽しいかいw
まあ信玄が上洛とか無理なのは同意
最も上洛する気があったのかは知らんがね

342:人間七七四年
10/10/11 00:31:21 ueOygVaP
両者の経済力は比べ物になりません。
戦争とは最終的には経済力のある者が勝ちます。
日本の中枢部を押さえている信長と
甲斐や信濃のような山国しか持っていない信玄とでは
メガバンクと地方銀行が競争するようなものです。

局地戦では信玄が勝つこともあるでしょうが
最終的には負けます。

なぜなら武田軍は大半(90%以上)が農民を徴兵した者ですから
農繁期には戦えません。
川中島の戦いも全て農閑期に行われています。
さらに最後の上洛戦でも10月に出陣し
三方が原の戦いは12月に行われています。
あのまま武田軍が進軍していても4月前には
帰国せざるをえません。
でないと国内経済を支える農作物に大打撃を受けるからです。
それに比べて織田軍は豊富な軍資金で雇われた傭兵であるため
1年中戦うことが出来ます。
そのため農繁期に攻撃し続ければいずれジリ貧状態に陥ったでしょう。
これは他の大名にもいえたことです。
だからこそ信長は天下を制することが出来ました。


343:人間七七四年
10/10/11 00:38:24 ZBF0CUq9
別に農繁期でも農兵は戦えるが 大内義隆上洛然りその他諸々の例があるし
傭兵なんてのは織田軍の1~2割程度 織田とて農兵で構成されてる
いくら何でも特徴を過剰に取りすぎ

344:人間七七四年
10/10/11 00:44:10 ueOygVaP
>>343
無理です。

まず信玄最後の遠征を「天下取りに動いた」という認識から違います。
本拠地を甲斐から動かさないまま、家康を破り、信長を破って京に旗を押し立てるような事が可能と思われますか?

長い長い兵站を織田徳川の残党、一揆などに襲われたら信玄は京に孤立、自滅するしかありません。

ここからIFの話になりますが。
家康を完全に滅ぼした信玄は、三河に有能な部下を配置して堅めさせ一旦甲斐に帰国するはずです。
それで、本拠地を駿河に移します。
(国人衆の連合体である甲斐武田軍にそれは大変難しい問題ですが)
で、早くて翌年大軍を率いて今度は本当に京を目指します。
ここでおそらく尾張三河の国境で信長と対決をする事になるでしょう。

しかし信長には勝てないと思います。
信玄は戦術に優れていますが戦略では信長の方が一枚上です。
お互いが数万の規模でぶつかり合う大会戦では戦術よりも戦略が重要です。
信長が北条を動かすという事も考えられますし、信長の戦い方は「決して大負けしない」というものですから、あの手この手で信玄を翻弄するはずです。



345:人間七七四年
10/10/11 00:58:14 ZBF0CUq9
>>344
安価と内容ぐらいあわせろよ精神障害者
残党ってなんだよw信玄は帰依してんのに何で一揆に襲われるんだよwww
信玄は統治してた土地で残党に襲われた経歴なんか一回もないのによく言えるな
信玄が信長と大軍でわざわざ争う意味がわからん 引きつけられるなら背後で越中のように扇動すりゃいいだろ
信玄が上洛出来ないのは同意だがせめてもう少しまともな事言ってくれよ いくら何でも無茶苦茶すぎ

346:人間七七四年
10/10/11 01:01:00 ueOygVaP
>>345
勝頼が滅んだために、信玄の寿命が延びたら、倒せたは、ただの妄想です。

家康は、寿命が尽きる前に、幕府開設、将軍を2代目に譲位、豊臣の大坂を破却できています。

武田信玄最後の抵抗でも、家康すら倒せなかった、ただそれだけ。。。。。

信長と決戦にすらなっていないので、ダメでしょう。本願寺や朝倉のほうが、よっぽど脅威でしょう。



347:人間七七四年
10/10/11 01:03:41 ueOygVaP
>>345
外線作戦はゲームなら簡単です。なぜなら、ゲームなら、駒どうしが疑い合う事などなく、連携が確実に行えますから。
しかし、実戦では、そんな簡単にはいきません。人間は、疑うし、裏切るし。そのために、大切なのは、連絡と信頼。

武田信玄が実際に外線作戦を行う場合、連絡も満足にできない、合った事も無い、本願寺の指導部や、朝倉義景や、浅井長政を信頼せねば、成功しません。
武田信玄だけでは、全織田軍を相手に戦えません。だから、本願寺の指導部や、朝倉義景や、浅井長政が、織田信長と「単独講和」などせずに、織田軍の多くを引きつけ続けてくれなければ、武田軍は進撃できないのです。

「本願寺も朝倉殿も浅井殿も、決して裏切らずに、織田の大軍を引きつけ続けてくれている。織田軍が引けば追いかけてくれる。」
と、武田信玄が堅く信じられ続けられるか?

結局は武田は滅びる運命だったのです

348:人間七七四年
10/10/11 01:07:00 ueOygVaP
いくら信玄が長生きしていても信長に勝てない。

兵農分離が完成、常時戦うことの出来る織田軍と農民を徴発しているため農閑期にしか戦えない武田軍ではシステムが違うのです。このシステムの違いが信長が天下統一に向けて驀進できた理由です。

謙信も信玄も良いときに死んだと思います。

長生きしていたら勝頼と同じ運命をだどったでしょう。



349:人間七七四年
10/10/11 01:10:42 ueOygVaP
結局信玄や謙信を過大評価してる人はゲーム脳に過ぎなかったのです

350:人間七七四年
10/10/11 01:46:42 ueOygVaP
はい!!論破!!w

351:人間七七四年
10/10/11 02:48:26 ueOygVaP
>>338
信長が詰んでたというならどのようにして信玄は信長を攻略したのか聞きたいですね

352:人間七七四年
10/10/11 02:59:55 ueOygVaP

結局信玄の天下とりは大内義隆と同程度。
あるいは、上杉謙信の1553年の上洛程度。

日本を変える事は出来ない

父信虎を追放した晴信が採用した体制は、甲斐の権力者の連合体制であった。
これ以後、甲斐国では、勝頼が1582年に信長・家康に滅ぼされる直前まで、甲府盆地(国中)を支配する武田氏、
富士川流域(河内)を支配する穴山氏、都留郡(郡内)を支配する小山田氏三者による連合支配が続くことになる。「日本歴史館」(小学館)

以上の、支配方法をみても、武田信玄が天下をとっても群雄割拠が解消されるわけでもなさそうで、戦がなくなるという時代の夜明けを感じることができません。


353:人間七七四年
10/10/11 03:01:55 ueOygVaP
武田信玄が天下を取るべく出発したというのは、信長が成し遂げた結果からみた結論で、実際は京都見物程度の感覚で出発したと考えざるをえないでしょうね。
もし京を制したとしても、すぐに甲斐に戻ってしまうでしょう。
もともと信長が天下を制したのは兵農分離と政教分離を成し遂げた背景がありますが、信玄はそれができていないために川中島で何回も戦う羽目になるし、
京都に出ても農繁期には兵隊を戻さざるを得ませんから。

信玄はあくまでも天皇を中心とした旧体制派の名門ですから、日本を造るのではなく、平安時代に戻すくらいしかできないでしょうね。

354:人間七七四年
10/10/11 03:03:21 ueOygVaP
連軍体制ということは地盤が不安定ということを意味しますので、現実に勝頼の代になると分裂してしまいます。
 甲府にいてさえ駄目なのに、中央へ出るのは無理です。
京に進出しても、見物が終われば帰郷していたことは十分考えられます。

355:人間七七四年
10/10/11 03:05:53 ueOygVaP
武田信玄は日本をどういう国にしようというビジョンはなかったのではないでしょうか。
彼の言動からはそれを窺い知ることはできません。
それに諏訪氏をだまし討ちで滅ぼすようなことをしては天下を取ることはできませんよ。
ですから信州の半分以上を領有できただけで死ぬことになるのです。
本来なら駿河・遠江は武田が取れた筈です。それができなかったのはやはり恐れられはしたけれども人望はなかったのでしょう。
変に中央政界に出ると、一年中戦争してしなければならず、そんな戦争ができる軍制をしいていないので、崩壊が早まっただけのような気がします。

356:人間七七四年
10/10/11 03:09:48 RuZ8f7Q7
一般人が武田信玄て何した人?って聞かれたら、「川中島で上杉謙信と戦った人」とだけ答えるだろう。
それ以上のことは一般人はほとんど知らないだろう。

しかし信玄の生涯を総括すると、結局「謙信と戦った」という事績しか残らないんだよな。
辛うじて次点の功績に「家康に勝った」というのが来るだけ。
後は信濃の豪族を倒したっていうのはマニアック過ぎるし、今川滅ぼしたといってもすでに弱ってた氏真だし、
それ以外にこれぞ信玄の功績!というのは、ないんだよなあ。

357:人間七七四年
10/10/11 03:10:59 ueOygVaP
京に上洛できても雪の降らない土地で、商業が盛んな土地での支配経験がないので、一貫した政策を打ち出せないようにおもいます。
 天皇から官位をもらって、うまく丸め込まれるのでしょうね。

358:人間七七四年
10/10/11 03:14:50 ueOygVaP
>>356
禿同!

359:人間七七四年
10/10/11 03:38:35 ueOygVaP
>>356
武田信玄は立派なことをしたわけでもないし、天下をとったわけでもないし、
単なる戦国時代に生きた地方の一大名です。
地方の一大名という立場をこえて、必要以上に過大評価されすぎてるような気がします

360:人間七七四年
10/10/11 06:38:44 ueOygVaP
結局信玄や謙信が最強とか言う人はゲームの能力に騙されてるwww

361:人間七七四年
10/10/11 06:46:51 ueOygVaP
上杉謙信はやはり生涯で一度も負けたことがないって事が最大の看板なんでしょう。
また武田信玄は徳川家康が生涯唯一の敗北をきしたことで、家康よりも戦上手と定説化したのでしょう。



362:人間七七四年
10/10/11 07:34:56 ueOygVaP
孫子の教えに忠実だった信玄は、孫子いう「出来る大将は努めて敵に食む」遂行してます。

簡単に言えば、敵からの略奪ですね。

戦国初期においては食料、物資、金銭、労働力の不足から、「他国から奪ってくる」というのが半ば当然
のように「美徳」とされても居ました(甲陽軍鑑にも、各地で略奪しまくって国を豊かにした武田信玄を大変な名君と崇めている)

自国の民衆の飢えを満たすために他国から奪うのは(当時の常識では)当たり前のことで
あり、他国の略奪から自国の民を守るのも当たり前のことだったのです


戦国時代、他家の領地に踏み入って略奪の限りを尽くす...というのは常識です。人身売買まで行いました。しかし、信長は厳しい軍規により、それらを取り締まっています。

有名なのは上洛した際、一文でも盗んだ(略奪)者は処罰されたことです。京の民衆は、乱暴狼藉をしない織田軍を歓迎したと云われています。また統治政策も優れており、

織田領内の人間は他国に比べて裕福な生活をしていたようです。

また兵農分離も進められており、戦に駆り出される農民も減少していました。さらに信長は自国内で戦を殆どしないので、領地が荒れることもなく、領民は信長を慕ったそうです。

弱者である領民を味方に付けたことにより、信長は領地を増やすことが出来たのだと思います。




363:人間七七四年
10/10/11 08:35:46 ueOygVaP
孫子の兵法書って略奪を進めてたんだよなw
これじゃあ民衆がついて来ないのは当たり前でしょw

364:人間七七四年
10/10/11 08:41:59 4J1tL4nu
上洛 天下取り 天下統一
はイコールではありません。
また、信玄が人望ないとかいっている人は、もう少し調査してください。完全に間違ってます。
信長は実際に詰んでいました。
信長は防御を考えず、力の空白地帯にどんどん侵攻したため、ひじょうに守りにくい領土になっていた。
また、四面楚歌状態+国内のあちこちで大反乱。
一向宗や六角、三好もゲリラ戦を展開。
信玄を抜いても総勢10万以上を相手にしていました。
信長が詰んでいないと言うほうが通常に考えて難しいでしょう。


365:人間七七四年
10/10/11 08:48:00 ueOygVaP
>>364
美濃尾張で信長と決戦し例え勝利したとしても長駆機動軍としての性質を持たない武田農耕兵団ではいずれ本拠が経済破綻を起こしてしまいます。
勝ったら帰還、また出撃して帰還のピストン運動では近江平野制圧、京奪還は非常に難しいでしょう。

366:人間七七四年
10/10/11 08:49:13 ueOygVaP
信玄の最大の失敗は謙信と川中島で5度も戦った事だと思います。特に4度目の戦いでは実弟の信繁や軍師の山本勘助などの有能な武将を失いました。
その間に織田信長が力をつけたのだから信玄がもう少し長生きしていても天下統一はできなかったと思います。



367:人間七七四年
10/10/11 08:49:54 ueOygVaP
兵農分離が出来てないし、甲斐の経済力では絶対に織田信長には勝てない。

368:人間七七四年
10/10/11 08:57:37 ueOygVaP
>>364
>>337

369:人間七七四年
10/10/11 09:01:22 4J1tL4nu
兵農分離・農繁期については小説家が始めた神話が検証も去れずにまかり通ってます。
信長の支配携帯が土地に密着できないのも一族・黒人領主の統合に失敗した結果です。
兵農分離は軍事力強化のためではなく、政治的支配の強化と都市経済発達の目的が強い。
火力重視も弱兵だったから精兵主義を取れなかった結果。
最後まで弱かったし、戦闘を左右する機動力や突撃力は信長軍には備わらなかった。
また、信玄や謙信のように人々を精神的にも支配することに成功しているのに対し、信長への家来の忠誠は低いから拠り所としての土地と切り離す手法になった。
信長が大政治家で革命家なのはそのとおりだが、どうも事実を無視しているというか・・。
兵農分離は軍事的にはマイナスという基本を忘れてませんか?
結局人望のない信長は反乱ばかり起こって安定した時がなかったし、その弱点により天下統一はできなかった。
そもそも「本能寺の変」など、家臣団や領国を掌握し領民の信服を受けていた武田信玄・上杉謙信のもとでは起こりようがない。
信長の死後、天下を取った家康は信長をあまり参考にせず、信玄の模倣に努めたこともある。

信玄が死亡したときに、信長は詰んでいた
これは実際に大政治家で革命家だった信長の価値を落とす物ではありませんよ。

370:人間七七四年
10/10/11 09:03:55 ueOygVaP
詰んでいようが結局包囲網を打ち破って天下を取った信長の勝ち!!

371:人間七七四年
10/10/11 09:04:00 4J1tL4nu
>兵農分離が出来てないし、甲斐の経済力では絶対に織田信長には勝てない。
これは兵法を全く顧慮せず真正面からヨーイドンで戦う発想ですよ。
兵農分離だの農繁期だの農民兵は不便だのって神話はもう勘弁してください。

372:人間七七四年
10/10/11 09:08:23 ueOygVaP
>>369
確かに徳川家はいわゆる武田家の「甲州流軍学」をもとに幕府運営をしていたと言われますが…はたして「信玄の模倣に努めたん」でしょうか?
三方ヶ原での敗戦を教訓にしたから?確かに神君おしかみの像を書かせて気を引き締めたそうですが、“学ぶ”というレベルではなく武将なら敗戦の分析は当然するでしょう。
「よく耐え」たのでしょうか?一般的に家康は幼少時人質の期間が長く、辛抱強くなったとイメージされますけど、何かに耐えて大成したとは思えません。妻と嫡男を信長に殺された事を我慢した?
史料には信長に殺されたとは書かれていません。信頼性のない軍記に書かれているだけです。「努力し」たでしょうか?信長・秀吉とは違い、家康の場合、信長と秀吉のお陰で天下が転がりこんできたと言う方が的を射ている気がするんですか…。



373:人間七七四年
10/10/11 09:10:39 4J1tL4nu
>370
それは正解

信長は死ぬ時を除いて運が良い
金ヶ崎撤退だとか、死んでも変ではない環境におかれた大失敗を何度かあるが、全て脱している。
あの時点で完全に詰んでいるのも信玄の死により脱した。


374:人間七七四年
10/10/11 09:13:21 ueOygVaP
信玄が10年長生きしたとしても、そのときの織田信長は更に強大になっていたので武田軍は問題外だったはずです。
早い時期から織田信長は武田軍より強い戦力を持っていました。ただ、山岳地帯で戦うのを嫌っていたのと、武田軍が山から下りてくるはずがないと考えていて相手にしていなかったのです。それに甲斐のような田舎を手に入れるメリットもありませんんでしたから。


375:人間七七四年
10/10/11 09:16:02 ueOygVaP
第一次織田信長包囲網で語られるのは、武田信玄・浅井長政・朝倉義景・比叡山・本願寺・紀伊鉄砲衆って事になるのでありましょう。

織田信長の弱点は兵糧及び兵員の基本的な補給源が美濃・尾張であるという事と、彼が据えた政権の中心となるべき足利義昭の居場所が京であり、この間に確固とした補給路が確立しきれていなかった事が挙げられます。
それゆえにその分段線を浅井朝倉が琵琶湖の西岸だったり東岸だったりで確保しようとし、実際二度三度と分断された辺りが包囲網最大の危機でありました。

しかしそこで決定的な破綻に陥らなかったのは、3つあります。

1つめは分断された西の領域への本願寺の攻勢がなかった事(逆に本願寺に攻勢をかけていた)
西は警戒線を張って対処し、押しこまれてはいなかった。
2つめは中央の楔役である朝倉の本拠地帰陣
最重要な役目である分断&織田主力引き付け作戦を放棄したに等しい。
3つめは武田信玄の動きが三方が原以降停滞した事にあります。
信玄は三河野田の地にて明らかに意図不明な長滞陣を続けており、これが全体の戦略性に大きく作用しています。


武田信玄が病魔に侵されていなければおそらく西三河にまで武田に侵攻され、信長は武田家との決戦に対し主力を東に集めねばならなかったでしょう。
ただし信長は分断が緩くなったことで武田との決戦に十分な力を結集でき、武田信玄に敗北するとは思えませんけどね。


包囲網の危機を脱したのは朝倉義景の帰陣が最も大きな役割を担っていたでしょう。
そして信玄の病死と武田軍の撤退によって東の圧力が減少することでそれが決定的となった、という事だと思われます。

376:人間七七四年
10/10/11 09:18:27 ueOygVaP
包囲網はできていましたがそれが必ずしも連携できていたわけではありません。
元々が一番厄介な敵を倒すために他勢力を利用しようという腹ですから誰しも貧乏くじを引くのは嫌なわけです。
信長はそこを衝いて離間し各個に対処しています。
その為に朝廷でも将軍でも、あるいは直接利害関係のない勢力でも、利用できるものはあらゆるものを利用しています。
その観点では京(朝廷と将軍)を押さえていたのも大きな理由のひとつです。
また、信長は支配地域の拡大にともない本拠地を戦略上最適と思われる場所に次々に移しています。
安土も京への交通の便、東西南北の各戦線への交通の便を考えてのことで、
つまり戦略的な機動力を重視して選定されています。
この機動力も一因と思います。



377:人間七七四年
10/10/11 09:20:12 ueOygVaP
今も昔も同じですが包囲網において
最も重要なことは「連絡手段」です。

当時は電話もFAXもEメールも無い時代ですから
連絡手段は「文書」しかありませんでした。

つまり信長が連絡網を絶ったことにより
各個撃破する体制が整えることができたからでしょう。

さらに単純な物量においても
織田氏は他氏の連合を上回るほどでした。
戦争において重要な物量で上回る以上は
最初から有利に戦うことができました。



378:人間七七四年
10/10/11 09:24:35 ueOygVaP
私は個人的に、武田信玄はそもそも西上作戦と考えていなかったと思っています。

あれは複数の進撃路により相手に揺さぶりをかけ、信長と主力決戦を行う目的だったと思っています。
家康の浜松城を放っておいたのもそのため。
最終的には清州、または岐阜城をターゲットにして後詰決戦を行うつもりだったのでは。
以前対北条の小田原攻めで複数進撃の外線作戦を使用した実績があり、これをより大規模に行うことで三増峠の合戦を再現する構想だった、なんてのは言い過ぎですかね。
でも遠山氏の岩村城を秋山信友率いる別働隊で攻め落としたのは、退却路確保のためもあったという気がします。

それはそれとして、そもそも上洛などできる計画も、能力も武田軍にはなかったと考えられます。

信玄は旧タイプの戦国武将。信長のような一足飛びの上洛作戦など想定の範疇外です。
また、上杉謙信のような権威に対する忠誠心などはなく、信長包囲網も、自分の野心の方便と割り切っていたと思います。



379:人間七七四年
10/10/11 09:32:18 ueOygVaP
信長は積んでたといいますが。どう足掻いても。織田家滅亡には至らない」と思います。


まず、1.朝倉が踏ん張る」から考えてみます。
ここでの論点は、「そもそも朝倉は義景の意思次第で踏ん張れたか?」ではないかと思います。
つまり、朝倉・浅井にそれだけの国力や兵力が残っていたかという点です。

大体、国境での小競り合いに徹していた武田と違い、朝倉も浅井も織田と足かけ3年戦っています。しかも小谷城の後詰めだの比叡山での籠城だの、長期の対陣も何度か行っています。
しかし当時の戦国大名でも兵農分離された常備軍を持っていた大名なんて信長ぐらいのもので、
大概の大名は農民に負担のかかる長陣を嫌います。(当時の動員力は1万石あたり300人前後のようですが、物資の輸送や国内の治安維持などを考えると就労人口の1~2割は何かしら動員されると考えるべきかと)
領土の大半が戦場になった浅井はもちろん、長陣を強いられた朝倉も国内の農業に負担がかかり、作付面積が減る・除草や施肥が不充分・裏作ができないなど生産力が落ち込んでいたのではないでしょうか。
しかも畿内からの物の流通もストップしている。これ以上無理な遠征をしたら、兵士や国人が怠戦や離反を起こしていたかも知れない。

もう一つ、信長最大の危機と言われる三方ヶ原の戦いは真冬に行われた物です。つまり、北陸は雪の中です。
現代の、しかも太平洋側の人には実感しづらいでしょうが、身の丈以上の積雪で道が埋まるというのは切実です。現代より寒く、しかも除雪車なんて無い時代ですから、
無理に越前・近江間の雪道を押し通ろうとすれば凍死者や遭難者がどれだけ出るか想像がつきません。もちろん、荷車で大量の物資を輸送するなんて無謀でしょう。
朝倉にせよ上杉や伊達にせよ、日本海側の大名には「もし大雪が降って敵地に孤立したら…」という恐怖感が必ずあったと思います。だから、三方ヶ原で武田が勝ったからと言って朝倉はすぐには動けない。
つまり「1」の結論、朝倉には武田に呼応して踏ん張れるだけの余力は無かったと推測します。

続いて「2.信玄が長生きする」ですが、これもどれだけ効果があったか。
「1」でも述べましたが、農民兵主体の武田軍は長期の遠征が難しかったはずです。つまり信長は、武田に長期戦を仕掛ければいいと言うことになります。
具体的には、時代も地域も違いますが、第2次ポエニ戦争でハンニバルに攻め込まれた際のローマの対応に近い戦略を採ったことでしょう。つまり、

・武田軍と正面決戦は行わない。
・武田軍の攻撃には籠城戦で対応し、後詰軍でその動きを牽制する。
・武田軍のいない地域を攻略する。(例:農繁期になって武田軍が軍を引けば城を奪い返す)
・武田に呼応する勢力を攻略する。(例:朝倉、浅井、三好、本願寺、そして足利)
・織田方から武田に寝返る勢力を極力出さない。(特に徳川脱落という事態は避けなければならなかったでしょう)

といった戦略を採用することでしょう。織田家の強みは、岐阜・京・堺・大津といった当時の大都市を抑え、傭兵主体の常備軍を編成しやすいことです。
農民兵が積極的に動ける時期は正面決戦を避け、動けない時期に失地を回復すればいずれ武田が根負けすると信長は読んでいたのではないでしょうか。

この1573年初頭、織田も苦しいが信長包囲網の諸勢力もそれ以上に苦しかったと見ることができます。信長がよほどの失策をしない限り、「1」にしろ「2」にしろ織田が完全に敗北するとは考えにくいです。


380:人間七七四年
10/10/11 09:35:16 4J1tL4nu
>374
信長に限定するなら、あと1年生きていれば信長は滅亡していました。
信玄死後ならともかく、生前は信長は詰んでいたんですから。

信玄の失敗は村上を取り逃がしたこと。
越後に逃亡したことから、戦国時代最強の狂人、上杉謙信を引っ張り出してしまった。
謙信は正義のために戦っているから、信濃をあきらめる事はなく、決して妥協しない。
信玄が見返りだそうが何しようが敵対を止めない
信玄のように謀略は行わないが、直接的なケンカはアホみたいに強い。
戦史研究家が古代から現在に至るまでで世界最強の指揮官という人もいる。
結局は、村上を取り逃がした事が最大の分岐点ですね。
信長は敦盛を頻繁に歌って早く拡大しないと人生終わると自らを追い立てていた。
逆に孫子は負けないための兵法で、時間の概念がない。
その両者のカラーの違いを云々言っても仕方がない。
どちらも天才。しかし、信玄死亡前は信長は詰んでいた。
実際そうなのだから、それでいいじゃないですか。


381:人間七七四年
10/10/11 09:42:01 pAyYkF+K
領土広げられない強さは・・・

382:人間七七四年
10/10/11 09:47:42 ueOygVaP
>>380
僕は武田家は信玄の代で詰んでたと思います。

信玄が敵を作り過ぎたのが要因ですね。

武田信玄は外交では大きな失敗をしています。

まず信玄は信濃守護職欲しさに上杉との講和を破っています。その後、駿河欲しさに三国同盟を一方的に破棄して北条を敵に回しています。
この時、嫡男まで切腹させたのは痛恨の失敗でしょう。そして今川攻めに至っては徳川を味方に付けたものの遠江欲しさに約束を破り
結果として徳川と北条が結びついてしまっている。そして徳川を蔑ろにした所為で、嫡男の正室に信玄の娘を迎えたいという非常に好意的だった織田まで敵に成っています。

1570年時、武田信玄の周囲の勢力は全て敵に成りました。これは大きな失敗です。これも全て信玄の領土欲が引き起こしています。
後に勝頼の代で北条・上杉と同盟をしますが、根本的な信頼は回復されていません。勝頼は信玄の所為でかなり苦労したと思います。

もし嫡男・義信の進言を受け入れて今川攻めを行わずにいたら、織田・徳川との関係も悪化しておらず、勝頼が陣代という不安定な立場で家臣団を率いることもなかったでしょう。
トップの言葉が絶対ではない...という背景が、長篠での無断撤退など引き起こしていると思われます。義信が武田の家督にあれば、こういうことは防げたと思います。

そして結果的に織田家の力が強くなって敵対したところで、信濃や駿河の割譲で甲斐一国の大名として生き残るという和睦の道もあったかと思います。
毛利はそうやって生き残っていますし、信長は長宗我部にも領地割譲付き降伏勧告を行っていますが、武田は問答無用で滅ぼしています。
それだけ武田に裏切られたという恨みが深かったのでしょう。(有力国人による連合政権は戦国大名に珍しいことではないので、武田が滅びた理由には相当しないと思われます)

ちなみに度重なる出兵は信玄の代から始まっており、勝頼だけが行ったわけではありません。その背景にあるのは敵対国家が多いことと金山の産出量減少で止むなく...という事情からです。
敵さえ作らなければ金も蓄えれたと思います。


383:人間七七四年
10/10/11 09:52:21 ueOygVaP
>>382
実際は詰んでなかったよ

一番の要因の朝倉が本国に撤退した原因ですが国内の疲弊が進んでいたからではないでしょうか?

朝倉軍の行動を簡単な年表にするとこんな感じになります
1570年4月、織田軍が領内に侵攻、敦賀陥落も奪回
1570年5月、朝倉軍・近江に進出
1570年6月、姉川の戦い
1570年9月、朝倉軍・近江に再び進出、大津攻撃
1570年10-12月、比叡山に籠城・織田軍を釘付けに
1571年8月、朝倉軍・近江に進出するも敗退
1572年7-12月、近江に駐留

織田信長が攻めてきて以来、朝倉軍は一年の半分を遠征して戦いに明け暮れていたことになります。近江を地元とする浅井、同じく南近江を手中に収めている織田とは、近江で戦うことの意味が異なりますから、
三年間も近江戦線に釘付けとはいきません。おおよそ夏から秋にかけて近江に進出するというだけでも、朝倉家にとっては相当な負担だったはずです。
72年の撤退のタイミングは最悪だったと思いますが、「冬には帰る」というのは財政上の理由からも仕方がなかったのではないでしょうか。

この3年間、織田-朝倉の戦いは勝ったり負けたりを繰り返していましたから、義景はこの状況が長く続くと考えていた可能性もあります。未来から見れば「ここぞのタイミングで帰ってどうする!」となりますが、
当時の義景としては「ここで無理したら来年戦えないよ」ということだったのかもしれません。

実際、翌年の出兵では家臣の多くが「もう無理、勘弁して」と出兵を拒否しています。
純粋に財政上の理由だけから拒否したのかどうか定かではありませんが、越前の国力が限界に近付いていたことは間違いなさそうです。(じゃあ長期化させちゃ駄目じゃんって話ですが……)



384:人間七七四年
10/10/11 09:56:57 y1wTuWSZ
>>382
信長包囲網の連合軍というと強そうに聞こえますが、実際は大して機能しません。

関ヶ原は東西連合軍の対決ですが、東軍には家康という強大な大将がいたから勝てたのです。
一方西軍の大将は誰か?
事実上の大将石田三成は貫禄不足。名目上の大将毛利輝元はやる気が無い。つまり大将不在なんです。
これでは連合軍も機能しません。

信長包囲網もこれに似たもので、北方の朝倉は優柔不断。西の三好も信長に「時勢を読めぬ輩」と呼ばれる烏合の衆。武田軍は強いが甲斐と京都は離れており長期遠征は不可能。
そして何より呼掛け人である足利義昭は実質的な力はなく、しかも京にあり信長の手中にある。

つまり信長包囲網はリーダー不在のバラバラ軍団であり、おそらく信長は困難は感じても滅亡の危機だなどは一度も思わなかったと思います。



385:人間七七四年
10/10/11 10:01:03 ueOygVaP
このときの反信長包囲網とは戦略的な意味であり,関ヶ原のような戦術的なものとは根本的に意味が違います。

包囲網に加わる諸将は,基本的に共同で何らかの作戦をするつもりはありません。信長軍を各地に分散させることで,個々の戦いを進めやすくする程度に過ぎません。
つまり朝倉が戦いを挑んでくる「可能性」があれば,信長は武田との戦いに全軍を投入することはできない=武田は戦いやすくなるというものです。

もちろん,それがもっとも効率的になるのは,同時期に一斉に信長領に攻め込むことですが,それはマクロ的にみただけで個別にみれば,
朝倉のように決して強くない武将は個別撃破されるリスクも大きかったわけです。おそらくそれは武田にしても十分わかっていたと思いますから,
一応手紙を送って檄を飛ばし,動いてくれればラッキー,それが駄目でも国境に兵力を増強してくれるだけもいいよ,という感じだったのではないでしょうか。

基本的に共同作戦というのは、狭い範囲でしか機能しません。関ヶ原でも,関ヶ原という局地戦では共同作戦が実現しましたが,
石田と上杉,徳川と伊達といった大きな範囲では,まったく作戦上の連携はなかったわけです(それぞれがそれぞれの思惑で戦っていた)。



386:人間七七四年
10/10/11 10:15:51 ueOygVaP
>>380
上杉は義がある。

正義の為と、よく言われておりますが、理解できません。
謙信時代・・・北条領に攻め入り、関東の各地に放火and略奪
信濃、越中、能登にも同様の惨劇をもたらす。
大義名分は、「頼まれたから」らしいですが、
能登に関しては誰からも頼まれていません。

また、1人の人間に頼まれて出兵→各地の民を苦しめた。

それが、景勝の関ヶ原の頃になると・・・
西軍敗戦後、主家の豊臣家を見捨てて、
「民を守るため」云々で情けなく降伏。

結局、『義』というものは、戦などの大義名分に過ぎないと思うのですが。
石田三成や宇喜多秀家の方が、『本当の義』があるように思えます。
上杉も他の諸大名と変わらないと思います。


387:人間七七四年
10/10/11 10:20:41 ueOygVaP
上杉謙信の関東攻めが毎年冬に行われていたのは

敵の領地の田畑を刈ったり、住人の逃げ出したあとの空き家に押し入って残っているものを略奪したり、
捕虜を奴隷として売ったりしていたようですから。しかも、食事はタダで与えてもらえるのですから、
居食いするしかないのに比べると、農民の中には非常にメリットを感じている人もいたのではないかという推測がなりたちます。

もっとも、負け戦になってしまってはこうはいかないわけですが、謙信についていくとそういう心配はあまりない。だからこそ人気があったのではないでしょうかねえ。
このため、謙信の関東出兵を「公共事業として行われていた」という方もいらっしゃいます。


388:人間七七四年
10/10/11 10:41:45 0D62Y15h
883 :人間七七四年:2010/10/03(日) 18:21:23 ID:Se+uhh+T
>>848
藤木久志は著書である『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社・1995年刊)で
「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言う
ベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、
襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、
通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしたが、
市村高男は『東国の戦国合戦』(吉川弘文館・2009年刊)で
「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」、
「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」、
「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、
それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など、
数々の疑問を呈している。

389:人間七七四年
10/10/11 11:01:08 ueOygVaP
謙信は不思議な人である。戦国最強の武将と多くの人から評価される一方で、領土欲が薄く義理堅いとの評価も根強くある。
では一体、謙信は何のために戦っていたのだろうか。果たして従来の謙信評は妥当なものなのだろうか。色々と疑問が湧いてくる。
領土欲が薄いとの指摘は、半ば当たっているようにも思われる。越後を領国化し、更には越中・能登・信濃と加賀と上野の一部を領有した謙信に領土欲がなかったとは思われないが、
関東管領に就任してから10回以上に及ぶ関東出兵では、上野の一部を領有できたくらいで大した成果はない。無論、謙信の不手際ということも考えられるが、
武田信玄や北条氏康のような名将も一目置いた戦国最強の武将である謙信がこのような無駄をしたわけだから、謙信は関東管領という旧秩序や人間関係を重んずる義将で、
領土欲はなかったとの評価があるのも分からないではない。


だが、視点を変えてみると、また別の解釈も可能となる。謙信は、北条と武田が武田の駿河侵攻を機に対立した際には北条と手を組んでいるが、その時北条に上野の「返還」を要求しているから、
関東でも領土欲が皆無だったとは言い切れないが、北陸と比較して領国化には熱心ではなく、やはり関東での領土欲は薄かったように思われる。では、何が目的で謙信は10回以上も関東に出兵したのかというと、
端境期における口減らしと物品の略奪と奴隷狩りだったと思われる。これは、謙信の関東への出兵時期から推測されることで、秋冬から春夏にかけての長期越冬型が多いのである。
二毛作のできない越後においては、冬場の口減らしは切実な問題であった
そうすると、謙信の関東出兵は、関東管領という地位を大義名分にした略奪行為であり、領土獲得はあまり視野にはなかったということになる。端境期に口減らしをして新たな「雇用」を創出してくれる謙信は、
越後人にとっては救世主的存在だったのではなかろうか。現在でも越後で謙信の人気が高いのは、一つにはこうした遠因もあるだろうし、また謙信軍の強さの一因は、無論謙信自身の優れた才能もあるだろうが、
略奪行為の機会が多く与えられていることによる兵の戦意の高さにもあると思う。無論、戦国大名による略奪は珍しくはなかったが、領国化を考慮して、村や町での略奪を禁止し安全を保障することも多かった。
だが謙信の場合、関東の領国化についてはあまり真剣に考えていないか、略奪よりも優先順位を低く置いていたと推測される。


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