11/03/29 07:45:28.59 qQUOoXUD
信玄が死去して畿内情勢が好転したからか?って書いたのは
これが1573年12月12日の書状であり、4月12日に信玄は甲斐に引き返す三河街道上で死去したという
世間の情勢を書いた方が立体的に理解しやすいから。
信長は信玄の侵攻による東部戦線が気がかりで岐阜城から動けずにいたが、
やっと来年から中国戦線での軍事行動を再開することを安国寺が伝えてる。
そのために毛利としては義尋へ(義昭には正室がいなかったので嫡子とされていた)
来春に挨拶の使者を出しつつも義昭を中国領へ招き入れることで
織田との全面戦争になるのを回避しつつその裏では宇喜多に
浦上宗景の播磨広瀬城攻め(姫路の北)をさせる大国同士の代理戦争をさせようとしていた。
※1568年上洛戦を開始し徳川家康や浅井長政と合流し9月観音寺城の戦で火蓋を切って以来
1569年内までに将軍の権威のおかげで信長は赤松政秀を擁立し秀吉・池田・別所を播磨や但馬に派兵し平定。
一色義道・赤井直正・波多野秀治も帰属し丹波丹後も平定。さらに山名豊国を擁立して因幡も織田領国に組み込んでいた。
しかし将軍義昭と信長の関係が崩壊し本願寺が挙兵するや周囲との関係が一変し
将軍権威のない急拡大した織田版図が砂上の楼閣でしかなかったのが露呈(信長は美濃平定に11年を要した)
武田の西上への備えから信長は中国戦線を完全に見捨ててる状況だったために
吉川による但馬攻略が成功しており丹波の赤井直正と連絡線が成立し反織田で協調関係だった。
(直正は丹波波多野元秀の娘と婚姻している。波多野秀治は元秀の養子で秀治の妹が播磨別所長治の妻)
また別所や小寺らは同じ守護赤松氏の元で同輩だった浦上氏の下につくことを不満に思っていた。
これは後年において波多野が赤井に呼応して丹波で光秀を大敗させ謙信が手取川で織田勢力を排除したのちに
赤井・波多野に呼応して別所が小寺と共に織田を離反し摂津池田勝正が領民から追放され
荒木村重が擁立され織田へ謀反する一連の流れに繋がり秀吉が播磨に完全孤立する
信長最大の危機を生んだ禍根の元になっている。
この時も謙信が死去したので中国方面への兵力集中が可能になり北陸戦線から兵力抽出をして
姫路城へ信忠の大軍を派兵可能になり播磨西部の山中鹿介を見捨てたものの
毛利を牽制し別所攻略へ力を注ぎ播磨戦線の崩壊が阻止できた。
ところで安国寺はなかなか先が読める人間で1584年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。