織田信長に天下統一ができるの?at SENGOKU
織田信長に天下統一ができるの? - 暇つぶし2ch574:人間七七四年
11/02/17 19:43:16 +Hb54VgJ
答えなんぞ存在しないんだから、答えようがない。
分かりきったことだ。

>>572
ちなみに遠く関東に飛ばされたこと自体転封。
既存領安堵云々なんぞ関係ない。
羽柴も明智も同様。

575:人間七七四年
11/02/17 21:00:43 +Hb54VgJ
>>549
なら具体的事例挙げて説明してくれ。
これであっさり陥落。
固有名詞や具体例避けて抽象的一般論ですり替えの歴史歪曲だけが唯一の取り得。

576:人間七七四年
11/02/17 21:28:52 quJifIVB
どうも、556、557、559です。

だが無双スレで『40過ぎたオッサンが初めてアスペルガーという言葉を
覚えた』というのは私です。
少しだけ気を付けてレスすれば大丈夫だろうぐらいにしか考えてなかった


577:人間七七四年
11/02/17 21:49:08 dlODZRnL
>>574
ひどすぎるwww

578:戦国板の新参者
11/02/17 21:56:28 quJifIVB
連投ごめんなさい。576です。私はエリートではないし、インテリでも
ない。ましてやセレブでもなければ、職業は銀行員じゃないんですけどね。
それでも噛み付かれるとは私の認識が『大甘』でしたね。私の書き込みが
呼び水になっちゃってどうも申し訳ありません。

それから、 >>564=551かな?(だが氏とは別人だろうけど)

東南アジア自体に支配する価値があるか微妙なのは私も同意です。ただし
明を征服するのに何年掛かります?その結果、明が荒廃して焼け野原に
なりませんか?さらにその焼け野原を『経営』しなきゃいけないでしょ。
『金のなる木燃やしに行く』とはそういう意味。
私は貴方の意見を『全否定』などしてません。むしろ『肯定』した上で、
明からの実入りを独占する=交易ルートを独占するために東南アジアに
進出して、『明とスペイン・ポルトガルが直接交易できない状況にする』
方が『美味しい』と言ったんです。
征服後の経営も考えたらどっちが良いとお考えですか?ご意見を伺いたいです。

579:人間七七四年
11/02/17 22:01:03 +Hb54VgJ
>>577
反論できず、中身ゼロの駄文しか書き込めず


580:人間七七四年
11/02/18 13:58:06 SUoHoNWl
転封の意味わかってないバカがいるwww
それに明智が丹波や坂本を没収されたのは史実じゃねぇし。
秀吉の領地で安堵とかなんでわざわざ限定してんだw
小谷城落城で浅井滅亡の時に殉じたやつらがいたトコじゃん。
周囲を含めたら阿閉や宮部や新庄や小川や磯野や片桐や藤堂らが在地領主として解体されずに安堵されさっそく軍役かけられてんじゃん。

581:人間七七四年
11/02/18 14:55:43 hJytenVh
URLリンク(www.gamecity.ne.jp)

みんなでこれやろうぜ。




582:人間七七四年
11/02/19 18:01:45 kl6wlDGb
ぬこー!!!

583:人間七七四年
11/03/06 05:35:13.36 I/Ul7/cg
~1568年-1569年将軍の権威で信長棚からぼた餅状態時代~
1568年将軍を上洛させるため岐阜城出立し徳川家康や浅井長政と合流し9月観音寺城の戦
河内三好義継・松永久秀(大和一国切り取り次第と言われる)・細川氏綱・河内畠山高政・若狭武田氏ら信長を支持する。
支持を失った三好三人衆は戦わずして阿波へ撤収したので摂津池田勝正も降伏。
1569年1月三好三人衆が京を奇襲するも池田・浅井・明智に撃退される。8月北畠氏と和睦し信雄が養子になる。
赤松政秀の支持を得て9月にかけて義昭・信長が浦上宗景討伐に池田勝正・別所安治を派遣し圧勝。
池田や秀吉はさらに北上し此隅山城を落とされた山名惣領家の但馬守護山名祐豊は逃走し、
まもなく京で信長に一千貫の礼銭で但馬復帰を許されてる。但し竹田城主の太田垣氏の生野銀山は織田直轄。
毛利方の武田高信に因幡を奪われ但馬に逃げた山名豊国は尼子と織田に擁立され因幡守護の家督を継いだ。
山名豊国を後援する織田方の但馬芦屋城の塩治高清を毛利方の高信が攻撃するも撃退。
細川信良に続いて一色義道も信長を支持する。赤井直正に丹波奥三郡の安堵を以って丹波平定完了。
~1570年-1573年第一次将軍激怒時代~
1570年4月姉川の戦い。明確に将軍が決起し8月織田包囲網が成立し野田城・福島城の戦い石山合戦などで
本願寺・比叡山なども挙兵。長島一向一揆発生。12月信長が義昭・朝倉・浅井らに屈服(志賀の陣)
義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」
1571年に織田方の山名祐豊が丹波国氷上郡の山垣城を攻撃したので赤井直正と対立し
祐豊は竹田城や此隅山城を直正に奪われたので有子山城に居城を移す。
(信長と義昭の関係の破綻が本願寺や丹波国人の離反につながっていたと言う)
10月北条氏康死去により甲相同盟復活と北条の援軍を加えての信玄の西上作戦開始。
1572年毛利方の高信は尼子党と山名祐豊に大敗し鳥取城を山名豊国に奪われる。
11月東美濃の岩村城落城。12月三方ヶ原の戦い。
1573年足利義昭が三好義継・松永久秀が挙兵。3月信長が家康を見捨てて美濃を出撃し京で義昭らと対陣。
4月打開策の無い信長が正親町天皇に頼んで義昭と和睦。信玄が陣中で死去し武田軍甲斐へ帰国。
~1573年-1575年信玄死んで助かった時代~
7月義尋を手に入れた信長は義昭を追放。朝廷に元亀から天正へ改暦させる。
8月刀根坂の戦いで朝倉軍を破り義景自刃。9月浅井長政自刃。
10月長島で信長撤退中に襲われ大敗。11月松永と抗争していた筒井順慶が信長に臣従。信長が義昭に帰京交渉する。
12月浦上宗景が信長から備前・播磨・美作3カ国の朱印状を与えられる。浦上配下になった小寺や別所が織田に反感。
この間元春が但馬南部の灰吹法導入し始めた生野銀山を狙って親将軍義昭の反織田派を糾合しつつ東進を続けており
山名祐豊は対赤井対毛利で信長に支援を求めたが義昭や本願寺らの織田包囲網の影響で支援できず
太田垣輝延が吉川に降伏したこともあり但馬守護の山名祐豊も降伏し吉川が1575年5月まだには但馬平定。
(因幡山名豊国と但馬山名祐豊が毛利が高信を切る条件で尼子と織田から離反しには毛利に付き高信不審死。
こういうことを普通にやる毛利に三村や南条や宇喜多らが毛利への不信の元になった)
1574年1月越前で一向衆蜂起し守護代の前波吉継が殺害され越前が一向衆のものになる。
東美濃の明知城が勝頼により落城。10月苦戦の末に長島攻略に成功。
1575年4月本願寺攻略に苦戦を続けており武田迎撃を優先し撤退。5月長篠の戦。8月越前一向一揆平定し明智を丹波征討へ。
丹波赤井直正から吉川へ太刀や馬が贈られ救援依頼が来ていたが明智の丹波攻略軍にビビって援軍に行かなかったw
6月に毛利は三村を切り捨てる条件を呑み浦上に謀反した宇喜多と組んで三村元親を攻め滅ぼす。
1575年末になり支援に来ない吉川への不信感から山名氏が織田との接触を始め芸但和睦破綻。 12月信長が本願寺と和睦。

584:人間七七四年
11/03/06 05:37:25.49 I/Ul7/cg
~1576年-1578年不屈の将軍再挙兵~
1576年義昭が毛利を頼る。信長が信忠に家督譲渡。
1月丹波の赤鬼の渾名ある赤井直正は波多野秀治の明智への謀反もあり大勝利を得ることで山名も毛利に再接近。
5月天王寺の戦い。7月毛利の本願寺支援の第一次木津川口の戦い。
7月吉川元春の命を受け山田重直が山中幸盛&羽柴秀吉との内通疑惑のある
福山茲正を羽衣石城下で暗殺したことを契機に伯耆南条元続が毛利を離反。
(山田が1582年羽衣石城を落城させた際の毛利の恩賞は恩賞の先行給付の濫発で土地が無く久米郡内僅か28石w)
1577年3月信忠ら本願寺後援する雑賀攻め失敗で妥協的和睦。8月謙信上洛の期待から松永久秀謀反し信忠が討伐へ。
能登七尾救援に信忠軍を分割し柴田を総大将に派遣し11月手取川の戦
1578年3月播磨東部の三木城でも毛利に期待し別所長治が織田を離反し背後を閉じられた秀吉が播磨で孤立。謙信死去。
~1578年-1582年謙信死んで助かった時代~
7月信長が別所攻略を優先し上月城放棄命令をするが山中らは死守を決意。
毛利は上月城の戦いで山中幸盛を処刑するも姫路にやってきた信忠軍を恐れ撤退し別所救援に行かず見捨てる。
10月摂津有岡城にて本願寺との内通を疑われた荒木村重が織田に謀反し同調した播磨中部の小寺政職らも相次いで織田を離反。
11月第二次木津川口の戦いで毛利大敗。丹後国の一色義道も織田を離反したので光秀や細川の攻撃を受ける。
1579年天正伊賀の乱で織田大敗。3月には毛利から見捨てられた八上城と黒井城が明智により分断され
6月八上城の波多野兄弟が毛利に見捨てられ落城。8月には赤井の黒井城落城し織田の丹波平定がやっと成功。
一色義道も但馬へ逃走中に謀反で自刃。子の義定が弓木城でなおも抵抗。10月宇喜多直家が秀吉に付く。
1580年2月毛利が見捨てた三木城が落城し別所自刃。5月秀吉の大軍勢が居城である但馬有子山城を包囲する中で
毛利の援軍を待ちながら山名祐豊死去し子の山名堯熙が有子山城を棄て因幡へ逃走。
7月毛利に見捨てられた荒木村重が花隈城から逃走。8月毛利から見捨てられた本願寺が織田と和睦し石山退去。
9月毛利に見捨てられた因幡の鳥取城も豊国が秀吉に降伏落城し秀吉は去る。
1581年第二次天正伊賀の乱。3月鳥取城は吉川経家を迎えるが秀吉の鳥取再包囲に
元春は南条の攻略を口実に見捨てた為10/25経家自刃。
秀吉が急速南下し一気に渡海し11月17日には淡路国を従え長宗我部の攻撃に苦戦中の阿波の三好支援も開始。
1582年早々直家死去が明らかに。3月信忠軍により武田滅亡。4月備中高松城の戦い開始。高野山攻め敗北・本能寺の変で信長自滅。
~織田家瓦解と秀吉の乗っ取り時代~

585:人間七七四年
11/03/07 01:19:16.02 8wXhm24i
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美濃攻略に11年もかけてるあまりのgdgdぶりに対して、
将軍の権威の光背を受けてからの別人のような版図の急拡大ぶり。
いかに将軍を擁立し京を押さえて公家や朝廷を敬うことが統治の正当性という巨大なパワーを生むかが理解できる。
義昭を擁立して上洛するチャンスをむざむざ棒に振った朝倉義景は愚かとしか言えない。
そして増長してその力の源泉を自らの神性に由来するのではないかと誤解するや高転びに転落し織田自滅・・・

安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」

586:人間七七四年
11/03/07 01:33:42.12 mzFJRxys
まぁ車輪は転がし始めるのに力がいるってこったね

587:人間七七四年
11/03/07 13:45:50.15 PswEvpXb
幼少の家康が織田家の人質にやってくる伏線と言い
信長は恵まれまくってるよな。
戦国屈指の才覚を持つ家康が東方を守ってくれたどころか全力で大軍の援軍を派遣してくれたんだから。
絶対裏切らない家康が味方になって無かったら朝倉に勝てないどころか、斎藤すら滅ぼせなかったのは間違いない。
清洲同盟以前の信長は美濃攻略でボロ負けしまくってたからな。

588:人間七七四年
11/03/08 14:15:14.85 Bu6/rrfb
戦国時代でいちばん過大評価なのは家康だよ
いつの時代もどこでも天下とった権力者が過大評価されるのは当たり前だけどさ
逸話とかで三河武士はめんどくさい性格とか言われるじゃん
でもあの時代はあのめんどくさいのが美徳だったんだよね
だから天下とった三河武士の作り話はみんなめんどくさくなるんだよな

589:人間七七四年
11/03/09 04:39:16.51 H91nlb40

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590:人間七七四年
11/03/09 21:24:37.40 v5G0hY8s
織田が丹波攻略成功した1579年になると、
もはや毛利の権威が失墜しての衰退が激しいよなあ。
5月に但馬から羽柴秀長、摂津播磨から丹羽長秀、山城から明智光秀が大軍で三方同時侵略を開始したから王手になっちまった。
6月に入って播磨方面に危機が迫って秀長と長秀は後は光秀に任せて撤退していったが、
軍事バランスが完全崩壊してしまって丹波丹後若狭が失陥。
翌年には別所降伏し播磨平定→山名逃走で但馬平定→荒木逃走と石山本願寺が和睦で摂津平定とドミノ倒しになっちまった…
はっきり言って毛利には反織田勢力を糾合し信長を打倒するチャンスは何回もあった。
しかし再三のチャンスを見事にぶち壊してきた毛利のヘタレぶりには目を覆うばかりだ。

591:人間七七四年
11/03/09 23:47:57.04 vunRDCLf
チャンスっていつよ?

592:人間七七四年
11/03/10 04:46:49.76 Z1ZCdtlU
>>591
>>583>>584を読めば分かるよね。

593:人間七七四年
11/03/19 18:31:34.56 SxfGnRtq
>>583-584
内容がスレチだな
ID:I/Ul7/cg氏は頭悪いことがよく分かる


594:人間七七四年
11/03/19 23:00:04.35 6wlP5/Em
戦国好きとしてvs信玄とvs三好四兄弟は見てみたかった。

595:人間七七四年
11/03/22 23:58:52.01 wEee0aG3
武田との戦いは信玄の方が攻め込むから信玄が不利だろう
三好との戦いは信長の方が攻め込むことになるだろうから信長が不利になるだろう

攻める方が不利で守る方が有利


596:人間七七四年
11/03/23 04:52:24.82 8BamesrP
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

597:人間七七四年
11/03/23 05:56:23.93 8BamesrP
そもそも鉄砲を豊後の猟師が使用してるのを見て
それを学んだ薩摩商人の岸和田が創始した岸和田流の炮術があってだな、それを関東に広めていったと言われている。
また根来衆の杉房や二王坊という者もおそらく同時期くらいに関東に広めてると思われる。
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。

598:人間七七四年
11/03/23 07:25:49.62 4OyIF1b2
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

599:人間七七四年
11/03/23 10:15:37.31 9nfRbovS
正当性持ってるだけでうまくいくなら竹島はなんなんだ

600:人間七七四年
11/03/23 10:20:01.95 4OyIF1b2
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

601:人間七七四年
11/03/24 04:01:32.45 bLN38icH
>>585
細川晴元なんて山科本願寺を法華宗を利用して叩き潰し
さらに法華宗を比叡山を利用して叩き潰してるし
対宗教では自分に従ううちはさんざん利用して、
従わなくなったら潰すとかまさに畿内支配についての信長の教科書だよな。

信長は義昭追放後に山城守護に細川晴元の子の昭元(信長妹と婚姻)、
細川高国養子で死去した氏綱の弟の藤賢を近江坂本城に配置して管領家の義兄として義昭の子の義尋を擁立してる。
しかも義昭追放後間もなく秀吉経由で義昭の帰京交渉までやってるし。
さらに信長は毛利にこれからは義尋を将軍のごとく扱わねばならないと言ってるし。
ちなみに信長は管領家の畠山高政・昭高(信長妹と婚姻)兄弟とも婚姻し
義兄の立場を得てるなどガチガチに旧権力依存し自立できてない。
ちなみに三管領の斯波氏については義昭を擁立して上洛した時に
京の斯波の邸宅に配置するなど信長は斯波の既得権益を継承をしてる。
そして信長も栄華を極め尽くした畿内支配者の大半が
家臣の裏切りで権力者の座から一瞬で高転びに堕ちていく絶対法則から逃れられなかった。


602:人間七七四年
11/03/24 08:35:02.08 XQL4M2u4
毛利ら反織田連合の旗印の義昭は生きており信長は家臣に暗殺された。
結局、反織田連合の義昭が勝ったと言える。
信長の死後には朝廷から義昭は准三后に任じられ公家の頂点に準ずる出世を遂げた。

603:人間七七四年
11/03/24 09:23:23.53 ZRCe9dDR
天運地運はあったが人運はなかった信長の人柄では人運は呼び寄せられなかった

604:人間七七四年
11/03/24 21:27:47.78 KK0nR/yY
かなりリアルな考察ができていると思った。
URLリンク(yaplog.jp)

605:人間七七四年
11/03/24 23:12:29.90 xB/9KcvH
>>604
長曾我部、上杉、北条が滅亡している一方で毛利と島津が生き残っている時点で全くもってリアルではない
その人の毛利と島津に生き残ってもらいたい願望が痛い

伊達政宗は無名のままその生涯を終える
その人がアンチ伊達だということだけはよく分かったw


606:人間七七四年
11/03/25 01:05:53.62 ozuDfljc
いや、無名で終わるでしょ

有名になる要素ないじゃん

607:人間七七四年
11/03/25 01:23:39.82 6nc4W73P
政宗はダークホースだよ
東北、北関東を制覇したあとは北条氏政か上杉景勝か
どちらにしても政宗が勝つな

608:人間七七四年
11/03/25 04:35:58.35 Rp6ODWxr
いまだに織田は兵農分離とか言ってるバカいるしな。
さらにアホなのは兵農分離と徴兵制を混同してるやつも多い。
安堵を乱発し国人や地侍の解体さえ為されてなかったのに。
身分が固定されたのは強力な権威を背景に全国で不完全ながら
刀狩りと検地を組織的に施行した豊臣政権から始まって身分固定がなされた江戸時代なのに。
論拠にしても織田以外は農繁期は出兵しなかったとか主張するが、
そもそも一番人手が必要な時期に刈田もせずに出兵していくなんて普通にやってたし、
次いで農閑期に出兵するからと主張するが冬季に入るや撤兵して帰国したなんてのも普通にある。
そういう都合の悪いことは黙殺するんだよな。

そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。

信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。

デタラメばっかり吐く自演基地害の織田厨の言ってることは
もともと完全なウソなんだからデータなんて絶対に出せないでしょ。

>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。
国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。
謙信の抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。

609:人間七七四年
11/03/25 04:36:43.85 VxRj0CBM
>>601
信長の上洛開始は義昭を岐阜に招き入れて僅か二ヶ月かそこら。
上洛してすぐ義昭を第十五代将軍に。
だが義尋の場合、何一つ信長が彼を擁立した形跡が見当たらないんだが。
基本的質問だが、信長の義尋擁立を立証する政治工作や軍事行動って何?
具体的に例示してくれないか。天正の何年かも明確にしてな。宜しく頼むよ。

610:人間七七四年
11/03/25 05:06:48.45 VxRj0CBM
>>601
ところで、当然三好義継知ってるよね。彼がなぜ信長に攻撃されたかご存知?
京を追われた義昭をかくまったからなんだが。
義昭の帰京交渉していた信長が、何ゆえ義昭を保護した義継を攻撃したのか、
馬鹿でも分かるように説明してくれないかな。
宜しく頼むよ。

611:人間七七四年
11/03/25 07:53:45.78 HjXwUhn9
>>609
たしか京都大学名誉教授の文学博士朝尾直弘の大系日本の歴史天下一統とかにも書いてあったよ。
古今東西において身分の上で自分より上の子を手元において保護者と称するのは当たり前じゃないかな。
秀吉だって信長の嫡孫を利用してたし将軍義昭・関白秀吉の時代すらあった。
義昭が将軍職を手放し関白を超える准三后の公家最高位に付き位人身を極めたので室町幕府がやっと終了したわけだし。
>>610
信玄上洛を聞き信長の妹婿の畠山昭高や細川昭元を河内国で破るなど三好義継は暴れてたからそもそも攻撃対象になってた。
そこで本願寺の口利きで秀吉が護衛して義兄義昭を迎えいれることで和睦することになった。
追放と言っても信長は義昭と和解して戻ってきて欲しい下心があったからね。
しかし義継と信長の間が雲行きが怪しくなったから戦火にかぶらぬよう義昭は堺に移動した。
秀吉が堺に義昭の帰京の説得に来たが義昭が信長から人質を出せと言うから破談になったが
信長は将軍拉致や殺害の汚名もかぶりたくないし、
立場悪くなりたくないからどうすることもできなかった。
そして義昭はまた反織田連合を呼びかけた。


612:人間七七四年
11/03/25 21:18:34.04 HjXwUhn9
義尋と同じような前例として足利義政もまだ幼く2歳だったので管領が政治をしていて将軍不在のまま。
6年後に8歳に成長したのを期に将軍になってるし。
秀吉が将軍でなく関白になったのも義昭が将軍に在位していたから将軍位が手に入れられないからとも言われてる。

613:人間七七四年
11/03/25 21:53:50.95 KolokiVt
>>611
秀吉にとって三法師の政治的利用価値は、
織田家当主に祭り上げ、その権威で反秀吉勢力を討つ大義名分にすること。

だが信長は義尋を征夷大将軍に就けてもいないし、
敵を討つ口実に彼の名も全く利用していない。

そんな馬鹿馬鹿しい論理が通用するなら、関ヶ原の勝者家康は敗者三成の子を擁立している。
斬首刑に処せられる三成の子に何の政治的価値もなく、それは義昭の子も同様。

足利将軍職はとっくの昔に有名無実化した空名。流れ公方にさえ宣下された准三后も同様。
かつて隆盛を誇ったが今は倒産して跡形も無い倒産会社の株券みたいなもん。
そんな紙屑を後生大事にするのは個人の自由だが、そんな人間に世間の目は冷たいことくらいは理解しような。

三好義継が信長に攻撃されたのは義昭を匿ったから。単純な理由だ。もっと勉強しような。
信長にとって義昭在京が必須なら、そもそも戦にはならないし追放もない。
子供でも分かる論理なんだがな。四月からもう一度小学生やり直そうな。

秀吉は義昭の立場をわきまえない言動に立腹し席を立ち、毛利も義昭受け入れを拒否。
その為義昭は紀州に逃れるしかない無様さ。
毛利にさえ相手にされてない義昭を、信長が必要としないのは幼児でも分かる。
もう一度園児達と幼稚園に通おうな。

614:人間七七四年
11/03/25 22:38:05.95 HjXwUhn9
義昭は和睦の条件に義尋を差し出し
信長が義尋を手に入れた上で秀吉が警護して義昭を義継に引き取らせたんであって匿ったわけではないよ。

615:人間七七四年
11/03/25 23:09:04.14 HjXwUhn9
つーかそもそも将軍や将軍の子に価値がないなら
信長はさっさと2人とも殺害して足利将軍家の血を絶やせばいいじゃんw
信長にそんな度胸は全く無い。

616:人間七七四年
11/03/25 23:41:30.64 Sw9Q67Qg
時間がいる

617:人間七七四年
11/03/25 23:45:39.01 qaNl/wM1
>>615
何でそんなに馬鹿なの?


618:人間七七四年
11/03/26 04:05:42.07 gRCL2QT1
>>613
現代人のお前の妄想からくる感覚とは違い当時の感覚では空名ではない。
ちゃんと将軍による幕職任命権も生きていたし、そもそも朝廷の公卿補任において
天正16年(1588年)に西国平定し豊臣政権が樹立され京都で源義昭が
准三后に任命され出家するまでは将軍職にあって幕府が存続していたと記録されてるし
足利将軍家が持つ京都五山の住持任命権とその任命による礼金収入もちゃんと得ていた。

だいたい三成がいつ将軍職を継いだんだよ?三成の子が将軍職を継ぐわけねーだろ。
織田信長は日本最高の過大評価スレにも登場して
キチガイぶりを発揮してるようだが・・・おまえガチに頭おかしいだろ。

619:人間七七四年
11/03/28 12:05:30.71 7soLujQT
>>613
横からスマンが、お前の言ってる事は無茶苦茶だなw
お前の言ってる通り大義名分ってのは当時重要だった
有名無実化したと言うが大義名分は立つし行動の正当性を失う
信長も先代も朝廷への援助に力入れたりとか官位や職とか大事にしてた印象があるなぁ

620:人間七七四年
11/03/28 12:59:49.89 uhq0JwTu
>>613
お前まじでデタラメ書いてるよな。
さっき別スレで書いた安国寺の書状内容を転記してやるよw

それはない。つかお前原文を読んだことないだろ・・・織田厨ってマジで糞だな。
もともとこの書状はむちゃくちゃ長いもので
リアルタイムに各地の多くの情勢を述べている超一級史料。
基本的には岡山まで帰ってきたことを輝元へ報じ、
秀吉・日乗・安国寺が信長に派遣され義昭の帰京交渉が開始されたが
人質を要求され秀吉はそれを信長へ申し上げられないと答えたが
一日、お互いで話を支えて秀吉も御分別したので
このことは一大事でもあるのでどこかなりともお忍びすること。
さりとて中国にきたら憂うる状態になるが紀州へ行くようだとか
義昭の息子が信長の宿にいるので来春の御礼の使者を出すように伝えてたり
秀吉と一緒に信長から遣わされた旧尼子家臣の子の朝山日乗が
秀吉と義昭と安国寺の間をいろいろと調整してくれて、
周公旦や太公望の如き才覚で芸州の安泰の重責を担う人材だとベタ褒めしてる。
しかしこの朝山日乗はキリシタンを陥れようとしてたようで
この後、まもなく信長の寵を失うなど安国寺の予想は外れている。
また浦上宗景に信長が備美播の朱印を与え対芸州に進むのをことの他の事態だと驚き
別所もまかり出てきており宗景と間について両者の前で言い渡され、宗景が武井夕庵(信長右筆)に礼を述べた。
本日はこれから直家と面談し来春に播磨広瀬を攻める話をするが直家も内心で同意しているとも書いており
但馬に来2月に秀吉が進軍することについて半国でもとわび事を申しあげたが許されなかったとも。
柴田勝家を通じて山中鹿介がいろいろ申し上げたが許されなかったとも書いてる。
(山中がいた山名氏が織田から毛利へ寝返ったことと関係あり?援軍要請却下か?)
三好義継の切腹を報じ信長は阿波の三好も許さないと書いてるなど
信玄が死去して畿内情勢が好転したからか?
機嫌が良い信長がいろんな問題でほとんど許さない態度であったと記述している。

その上でこの将軍義昭が紀伊へ行く事と信長の間を調整する秀吉の思考や行動を分析し
公家勢力と寺社勢力からの情報ルートもある外交僧の安国寺が出したものだろう。

621:人間七七四年
11/03/29 07:45:28.59 qQUOoXUD
信玄が死去して畿内情勢が好転したからか?って書いたのは
これが1573年12月12日の書状であり、4月12日に信玄は甲斐に引き返す三河街道上で死去したという
世間の情勢を書いた方が立体的に理解しやすいから。
信長は信玄の侵攻による東部戦線が気がかりで岐阜城から動けずにいたが、
やっと来年から中国戦線での軍事行動を再開することを安国寺が伝えてる。
そのために毛利としては義尋へ(義昭には正室がいなかったので嫡子とされていた)
来春に挨拶の使者を出しつつも義昭を中国領へ招き入れることで
織田との全面戦争になるのを回避しつつその裏では宇喜多に
浦上宗景の播磨広瀬城攻め(姫路の北)をさせる大国同士の代理戦争をさせようとしていた。
※1568年上洛戦を開始し徳川家康や浅井長政と合流し9月観音寺城の戦で火蓋を切って以来
1569年内までに将軍の権威のおかげで信長は赤松政秀を擁立し秀吉・池田・別所を播磨や但馬に派兵し平定。
一色義道・赤井直正・波多野秀治も帰属し丹波丹後も平定。さらに山名豊国を擁立して因幡も織田領国に組み込んでいた。
しかし将軍義昭と信長の関係が崩壊し本願寺が挙兵するや周囲との関係が一変し
将軍権威のない急拡大した織田版図が砂上の楼閣でしかなかったのが露呈(信長は美濃平定に11年を要した)
武田の西上への備えから信長は中国戦線を完全に見捨ててる状況だったために
吉川による但馬攻略が成功しており丹波の赤井直正と連絡線が成立し反織田で協調関係だった。
(直正は丹波波多野元秀の娘と婚姻している。波多野秀治は元秀の養子で秀治の妹が播磨別所長治の妻)
また別所や小寺らは同じ守護赤松氏の元で同輩だった浦上氏の下につくことを不満に思っていた。
これは後年において波多野が赤井に呼応して丹波で光秀を大敗させ謙信が手取川で織田勢力を排除したのちに
赤井・波多野に呼応して別所が小寺と共に織田を離反し摂津池田勝正が領民から追放され
荒木村重が擁立され織田へ謀反する一連の流れに繋がり秀吉が播磨に完全孤立する
信長最大の危機を生んだ禍根の元になっている。
この時も謙信が死去したので中国方面への兵力集中が可能になり北陸戦線から兵力抽出をして
姫路城へ信忠の大軍を派兵可能になり播磨西部の山中鹿介を見捨てたものの
毛利を牽制し別所攻略へ力を注ぎ播磨戦線の崩壊が阻止できた。
ところで安国寺はなかなか先が読める人間で1584年正月11日の書状でも秀吉を褒めまくっている。
(秀吉は信雄に年賀の礼に来るように命令し信雄が拒否し秀吉と険悪な状況になっていた)
安国寺はさかんに秀吉と毛利の領地の堺について大きく譲歩してでもはやく和睦締結するように主張してる。
近年において信長がいた時も羽柴羽柴と騒がれ戦をすれば羽柴、城を攻めるも秀吉と盛んに評判になっていたが
いまでは日本を手の内にしており名人であり明日の不慮も考えられないと書いている。
これにより毛利と秀吉の正式な和睦が成立し、3月に入り秀吉は安心して家康信雄と激突する選択ができた。

622:人間七七四年
11/03/29 07:56:50.77 qQUOoXUD
織田信長亡き後、織田家の家臣達はあまり織田家を大事にしていないというか守ろうとしていないような感じがします。
織田宗家の遺領を家臣達が分配した事に関しても当時の僧が書かれた「多門寺日記(?)」にも痛切に皮肉られているし。
信長と幼馴染と言われていた丹羽長秀、前田利家、池田恒興等も秀吉の織田家簒奪に早い時期から手を貸しています。
その理由は信長が恐怖で支配していたせいで人望が無かったせいなのでしょうか?
162 :人間七七四年:2011/03/25(金) 20:24:16.40 ID:D3qnQPAP
>>161
簡単にいえばそうするしか無かったため。
そもそも信長の体制は組織や仕組みが殆ど未整備で、よくも悪くもその地域を任された人間が
個人的技量で統治する、というものだった。
信長が生きていたときはそれらを信長が統帥していたのだが、信長という核がなくなった以上、
個人的技量による統治を拡大せざるを得ない。そのため、無論諸将の欲得の面もあるが、
現実問題としても織田家勢力圏を保持したいのなら、その分割という手段を取らざるを得なかった、
と考えていいかと。


623:人間七七四年
11/03/29 16:54:47.30 lE8NuzYH
信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?

謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、
彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し、蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。

624:人間七七四年
11/03/29 17:02:14.09 lE8NuzYH
>>621
いきなりそれをコピペしてもわからないだろ?取り合えずその前の文章も転記しとく。

とりあえず認識不足が明らかだから権門体制論や東国国家論とか読んで勉強した方がいい。
それと足利幕府は皇族や公家の所有する権利や荘園を保護しないと山城周辺を統治することすら不可能だったんだぞ。
だから武家が横領した荘園も返却させたりして不満を買っていた。
公武が協力し合う関係であり足利義教に至っては天皇から治罰綸旨を出してもらって朝敵討伐してる。
皇族を無力化して~足利家を珠玉とした時代なんて無いから。
天皇も家格だけで生きていたのではなく官位任命権なども保持していた。
それに奉公衆は義輝により再建整備され始めていて
伊勢氏や高氏や一色氏や上野氏や大館氏や松田氏や飯尾氏などなどがいて、さらに宗氏や島津氏らも
財政支援しておりそう簡単に将軍の首をすげ替えるのが難しくなっていたから三好&松永は暗殺の暴挙に出たわけだ。
君の言ってることの大半は間違えてる。そもそも君は鎌倉府を知らない時点でアウト
室町幕府は鎌倉幕府よりも東国西国での二元政治が顕著だよ。
義満が陸奥と出羽の統治権を鎌倉府に与えざる負えなかったのが致命的。
そのために義教が挙兵した鎌倉府を討つ時に朝廷の権威にすがって
朝敵にしてもらい幕府の正統性を付与してもらうハメになる。
有名無実どころか朝廷権威は根強いもので、鎌倉府が朝廷に錦御旗でも下されたら大乱ものなのは明らかだった。
しかも鎌倉府を滅ぼしたものの結局は関東が静謐にならないために
持氏の子の成氏を擁立して鎌倉府を再興させなければならず
しまいにはまた鎌倉府は挙兵してしまうなど足利幕府は常に不安定で
公家勢力&寺社勢力との調整で山城国周囲を保持していた。
義晴とは違い義輝が英明かつ武勇に優れていたために他国大名への御教書や外交を通じてかなりの支持を得ており、
さらに整備した奉公衆を元にかなり将軍権威を復興させてきており
その奉公衆の支持を受けたからこそ義昭は後継者として内外に認知されており、
この武力があったからこそ信長に対して蜂起して籠城することが可能だった。
役に立たないならそもそも籠城なんてやらないで脱走する。

625:人間七七四年
11/03/29 17:04:12.38 lE8NuzYH
つまり戦国時代の公家達は六角氏などに横領された京洛の自らの荘園を取り返してくれたから
足利将軍を支持してきた共存共栄の存在で、だからこそ将軍と横領を支持した管領が対立せざる負えない関係なわけ。
また京の五山の任命権や将軍庶子の権門寺社への出家を通じて畿内における隠然たる影響力の後援も受けていたし、
これは天皇の祭祀的権威の協力も必要な共存共栄の関係だった。
だから東国武家政権とはまったく異なり、山城周辺はただ単に武力のみに依存して支配はできないわけ。
だからこそ信長も邪魔な義昭を殺すことなど出来ないし帰京交渉もしたし義尋も手のうちにおいていた。
だから別に皇族も公家も信忠が逃げようがどうなろうがぶっちゃけどうでもいい。
信忠はとにかく逃げのびるべきでその後に公家勢力や寺社勢力を安心させるべく大義名分として
義尋でも担いでまた入京を狙えばいいだけの話。そしたら誰も信忠が逃げ出したことを批判するやつはいない。
安国寺がそのうち信長は高転びに落ちるだろうと予言できたのも
畿内において隠然たる影響力を持っていた公家勢力や寺社勢力が
信長に対してどういう内心を抱いていたかを察していたからだろうね。
朝廷や幕府との折衝窓口だった光秀も公家勢力のそういう空気を察していたのは間違いない。
ただ光秀は比叡山焼き討ちを積極的に行いその功績で比叡山門前町ともされる
坂本の地を与えられるなど寺社勢力からの人気を失ってしまったのだろう。
同時に一方で安国寺は秀吉を高く買っている予言をしているわけだがやはり秀吉が公家や寺社から人気があったからだろう。
のちに秀吉が関白になるや彼らへの厚遇ぶりが顕著になるのも頷ける。
力を権威にしただけの信長が死んでしまえば信忠はただの人になってしまうわけで
人気があった秀吉に畿内において信忠ではとてもかなうまい。
いつの時代も力で押さえつけるのではうわべだけの面従腹背でしか無く広範に支持を得ることが必要であろうね。
天正元年(1573年)12月12日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
と書いており織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し結果的にそれが的中したこと
信長の治世はとうぶん持つだろうと思う。来年あたりは公家になされるように思われる。
そうやって持ち上げられたのちに一気に落ちるように見えます。それと引き換え秀吉はさりとて覇の者だろう。
公家勢力や寺社勢力との接点がある外交僧ならではの情報力の分析結果
五年、三年はの逆表記の解釈はよくわかっておらず三年、五年ならすぐわかる。
当時の慣用表現として「とうぶんの間」の意味ではと言われてる。
それに予言というよりは見通しであり、外交僧ならではの情報力の分析結果。
実際、本能寺までは信長と信忠を一緒に葬り去るタイミングが訪れなかったのでは?

626:人間七七四年
11/03/29 17:07:45.70 lE8NuzYH
>>徒手空拳の秀吉や光秀が手柄を挙げて異例の出世ができた。
国人連合体の他の大名組織では絶対に有り得ない出世と抜擢。

そもそも秀吉は前半生が不明だけど
明智光秀って無名なのに信長から抜擢されたわけじゃねーじゃん。
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を妻にしてたし、
信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され
朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。
信長の抜擢もクソもねーじゃん。

統治体制と軍制の改革に乗り出した謙信による抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、
謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。
他国出の者を抜擢した謙信が反発を覚悟して
無理やり越後国内の有力領主の跡を継がせたりしてるのに連絡役なわけないだろ…。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
白紙委任状でナニができるかを考えれば、どれほどの権限、信頼かわかろう
有力な織田直参の柴田や丹羽や池田の跡に世襲を認めず
秀吉や光秀ら他国者に継がせるようなもんだな。
土着国人領主の影響力を排除し謙信側近官僚による直轄化への動き。
謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが
中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。
まったくお前の言ってることはデタラメ。

627:人間七七四年
11/03/29 17:09:19.84 lE8NuzYH
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。
他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
しかも河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してない。
それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。
それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。
ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。
武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松 美濃出身の多田満頼 下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱も大抜擢したよな。


628:人間七七四年
11/03/29 17:40:57.02 wSCPD/0e
一見しただけで読む気がうせる文章だ

629:人間七七四年
11/03/31 12:15:51.64 91hMD7zZ
>>626
訂正 若狭守護武田義統の妹は光秀の妻ではなく母のお牧の方。
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
美濃攻略に不可欠な人材として信長から採用され奉行や調略をやってた。
その背景には川並衆の蜂須賀正勝や前野長康や美濃の竹中重治らを家臣にして
秀吉が独自勢力を作っていったわけで兵力などを信長から貸し与えられていたわけじゃない。
それらの配下を使って調略をして斉藤氏を切り崩した。
そしてその功績をもって姉川の戦いのあとに近江横山城代に任じられ
やっと3000の兵を率いられる身分になった。

>>598>>600
信秀が信長に残したのは外交では美濃の義父道三の後ろ盾と三河の家康母の水野との同盟
尾張一国と大垣城を引き継がせている。
尾張が混乱してきたのは道三が家督を息子義龍に譲ったことで後ろ盾が消え
それまでの信長の遊興放蕩の行状に憤りを感じていた柴田と林のたった2家が弟信勝を擁立し義龍の後ろ盾にクーデターを起こそうとしたから。
そして義龍の介入前に信長が柴田を破っただけ。
ちゃんと家督を相続させたのに信長は尾張一国を満足に治められず失敗しそうになって混乱したに過ぎない。
兵力に関してもこの柴田戦や義元戦の信長の兵力は明らかに過小に書かれている。


630:人間七七四年
11/03/31 14:32:18.96 91hMD7zZ
それにしても滝山城を落とす落とせないとかアホな論議だな。
鉢形城も攻めたことも知らないらしい。
信玄の目的は西進であり滝山城を手に入れるつもりはない。
関東へ2ヶ月近くにわたり出陣していたのは
駿河方面を固めていた北条兵を関東の守備のために兵力移動するのを待って時を費やしていたから。
その為に信玄は御嶽や鉢形城の氏邦や滝山城の氏照を攻め荒らして威圧し、
小田原城まで南下し武田の恐ろしさを北条首脳陣に見せつけただけで
あくまで駿河攻略の意図を隠蔽した関東縦断であり武蔵国の城を奪うことが目的じゃない。
双方が大兵力を集中して全力で正面から殴り合う後詰決戦なんてのは
バカみたいに被害ばかりが増えるだけなのでそんなの北条も武田もやる気もない。
そんなことになったら川を挟んで長対陣から和睦の流れになるだけ。
そんなのやりたがるのは調略による城攻めが苦手だが野戦に異常に強い越軍だけ。
背後を見せて移動する敵軍の尻を噛みつくことが軍事的チャンスと狙う北条と
それを予見して備えている武田と言う様式美は三増峠の後に三方が原でも再現されている。
>>戦費浪費?
そもそも信玄は里見や佐竹まで呼応させてリスクが少ない状況を対北条包囲同盟を成立させておいてから戦ってた。
のちの対織田包囲同盟といい信玄は相手を外交力で囲み兵力分散させて敵を疲れさせて背後を襲う戦略が常套手段だ。
さらにこの軍事的作戦による北条兵の関東への兵力移動を利用して駿河を電撃侵略してる戦費回収してんじゃん。
そして三増峠で敗北し九死に一生を得た氏邦や氏照は完全にビビり氏政と共に甲相同盟へ動いて信玄の背後は固まった。
北条氏直と今川氏真を養子にしてまで今川の領地継承を主張してたのも完全に断念したどころか
北条軍も信玄の西上への援軍として参加させることに成功した。
こういう外交で敵を囲んで攻め込み敵が来たら引くを繰り返していつの間にか政治力で敵地を奪う芸当は信長にはできない。
氏康は将軍義昭が甲越和与を斡旋したことも知らなかったアホ。
そもそも越相同盟自体が義昭の斡旋からスタートしたもので
別に北条を助けるためのものではなく謙信と氏康の上洛を促すためのもの。
氏康には関東に固執して上洛する意思がないと義昭に判断され甲越和与の流れになっただけ。
しかも信玄は西上を前に保険をかけて越中一向宗を蜂起させて謙信が武田領を窺わないように外交を駆使していた。
信長のようにアチコチで同時に敵を作りまくって軍を分派するような迷走した破綻戦略は取らない。
戦略と外交の基本たる遠交近攻で敵を一つに絞って戦力集中をなるべく心がけるならば
尾張、美濃、南近江、山城の圧倒的国力と収入を背景にもっと早く統一を果たしていたわな。
どう考えても織田より圧倒的に国力が無い相手達に長期に渡り苦戦し過ぎ。

631:人間七七四年
11/03/31 14:33:52.67 91hMD7zZ
史料から判る氏康の不調は1570年の半ばからで、その頃は既に駿河の殆どが武田の占領下。
氏康が倒れたから武田が勝ったというより格下の武田に負けたショックで氏康が倒れたと観るべき。
嫁の実家で娘の嫁ぎ先だからな。 武田の嫁は突き返したし。 本気でブチ切れた漢字だよね。
氏政氏直親子にしてみれば 理解不可能な行動だったかもしれん
脳溢血後にボケた氏康が回復してきて 正気を取り戻してきたのを
武田と再同盟を図ろうとしてた氏政が困って暗殺したって説もあるからな…
実際、信玄が西上を始める辺りになると信長は岐阜から動けなくなって
三河の家康への派兵がお茶を濁すレベルの小部隊が限界で山陰山陽の中国戦線は完全に見捨てたからね。
信長を頼った山名を見捨てたことで吉川元春に但馬まで進出されたし、
信長を頼ってた浦上も見捨てたから毛利が後援してた宇喜多の播磨侵攻を防ぐことが不可能になっていた。
信玄が生きてたら北近江浅井や南近江六角や越前朝倉や河内三好や大和松永や山城義昭の滅亡もなく
摂津本願寺や北伊勢長島一向衆も落とせずおまけに丹波の赤鬼に光秀が大敗するなどフルボッコだろうね。
そういや朝倉軍には斎藤龍興が客将になって在陣してたから
信玄が尾張侵攻したら親武田の飛騨国人&加賀一向衆の助力を得て
美濃へ入国してゲリラ活動で武田別動隊の東美濃侵略に呼応するだろうね。

今川をあっという間に崩壊させたりと信玄は調略の名手だからね。特に謙信配下の本庄繁長に謀反を起こさせたのは神過ぎる。
義信を廃嫡し妻を今川へ返却して断交後わずか1年で…駿河侵攻してから今川家臣21人を寝返らせて
1週間で駿府入城する芸当をやってみせたんだからあっという間だろ。
ぶっちゃけ今川が謙信と結ぼうとしたのを察知したから信玄は駿河侵攻を決めただけの話だけどな。

信玄が生きてたら信長は中国戦線を捨てた状態が継続し信長が浦上の下に同じ赤松被官だった別所や小寺を位置付けたから
織田に対して別所や小寺は爆発寸前だったから毛利後援の宇喜多による播磨攻略は確実視されるところだし
元春が丹波国人に呼応したらそのまま上洛可能になっちゃうんだけど信長はどうやって毛利と本願寺を抑えこむ気だったの?
義昭によって甲越和与が成立しており謙信は武田領には攻めこまないが
それでも用心して越中一向衆に蜂起させて謙信を釘付けにしてたし西上する武田軍は北条からも援軍をもらってる。
対越後への備えの軍を東美濃攻撃に転用可能だし北条からのさらなる援軍も可能。
織田とは違い信玄の背後は安定してるから気兼ねなく進軍できるからね。
三河攻略が進み春過ぎになれば朝倉軍も2万以上もまたやってくるしな
これでも謙信が死なずに上洛戦を開始していたとする想定に比べれば信長を取り巻く情勢はまだまだマシだけどね。


632:人間七七四年
11/03/31 20:16:05.77 jEE3q+vF
>>631
なんでそんなに一生懸命コピペしているんだ?

633:人間七七四年
11/03/31 20:16:14.65 OfCmOhKm
久々にスレを覘いてみれば・・・なんかスレ違いな流れの論争のオンパレード
なんだけど、なんでこうなるの?

634:人間七七四年
11/03/31 23:35:27.47 oOCf+tCZ
何で武田厨はだがを筆頭にこの手の基地外が多いのかな?


635:人間七七四年
11/04/07 23:22:35.34 T/HRos8S
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。


636:人間七七四年
11/04/07 23:24:10.59 T/HRos8S
信長公記では北畠を速攻で壊滅させたと記してあるが
まったくのウソで
実際は大苦戦しまくりの三ヶ月間で
苦戦した末に信長の方から和睦を言い出してる。

5万対1万6000での伊勢平定戦で織田は大苦戦して和睦をした。
阿坂城では生涯唯一と言われる秀吉の怪我まであった(矢が左股に刺さった)
さらに大河内城でも織田軍は大苦戦しバタバタと将が討ち死にしまくり。
将来の織田幹部候補が大量に死んでる。
結局、和睦になり、北畠側が人質として茶箋丸を取ることになった。
そしてやってきた茶箋丸には警備として織田に寝返った者たちも含めた
尾張・伊勢500が駐屯するようにやってきた。
そして織田に内部から乗っ取りを謀られた。
北畠側はその時に和睦が罠だったと気づいた。


最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。

637:人間七七四年
11/04/07 23:52:41.01 186s8K5O
>>635-636
オマエ頭大丈夫か?


638:人間七七四年
11/04/08 06:39:06.89 w09XBXLG
織田厨のブザマな書き込みが笑える

639:人間七七四年
11/04/09 06:48:55.62 UyETQ/N8
>>623>>627
謙信は信玄による本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。

640:人間七七四年
11/04/09 07:24:20.37 Tug5M9ir
第四次川中島の戦いを推移を賢察すれば、謙信が信長に勝てないのは明白なんだが

641:人間七七四年
11/04/09 07:39:17.62 UyETQ/N8
>>640
意味不明

642:人間七七四年
11/04/09 07:57:20.66 Tug5M9ir
何で謙信が戦の真っ最中戦場から離脱したのも知らんか。
ならお勉強したまえ。


643:人間七七四年
11/04/09 08:06:51.99 UyETQ/N8
>>642
さらに意味不明

644:人間七七四年
11/04/09 08:14:39.76 Tug5M9ir
現実逃避の夢遊病者は現実に向き合おうとすると頭が混乱するらしい。


645:人間七七四年
11/04/09 08:18:09.21 UyETQ/N8
>>644
お前他スレでもくだらないレスしかしてないなアホだろ…

646:人間七七四年
11/04/09 08:30:18.39 Tug5M9ir
有名な川中島の戦いさえ知らない無知の戯言はレベルが低い

647:人間七七四年
11/04/09 11:44:33.08 UoY10C0Z
もういい加減恥ずかしいぞお前

648:人間七七四年
11/04/09 13:11:29.73 Tug5M9ir
有名な川中島の戦いさえ知らない無知は、レベルの低い戯言のオウム返しが関の山

649:人間七七四年
11/04/09 19:21:39.15 YyGSPfl4
川中島合戦が5回もあったのも知らないアホ織田厨Tug5M9ir


650:人間七七四年
11/04/10 02:06:30.09 GK8Zb55M
>>649
>>640に第四次って書いてあるが。
毎回の書き込みに第四次って書かなきゃいけないの?

651:人間七七四年
11/04/10 05:04:31.87 qBPAFGT9
第四次の話のわけねーじゃん
なんせ諸説ありまくりでわかることはと言えば戦死武将が誰々くらいで、双方が濃霧の中での意図しない遭遇戦であるのが濃厚だとされるくらいで
あとははっきりしたことがわからないんだから
とても論じれるようなもんじゃねぇ。
よほど織田厨は歴史に疎いらしい。

652:人間七七四年
11/04/10 10:32:08.94 HSQpv5Zj
アホ織田厨Tug5M9irが明智光秀スレで下記のように論破されてましたw


お前(Tug5M9ir)って本当に無知だよな。まじ笑えるわ。
今谷が妄言で名高い←そんな話は聞いたことないから具体的に教えろよw

義教の鎌倉府討伐は朝敵云々は関係ない←はいはい無知丸出し。
後南朝の正嫡である小倉宮が出奔し行方不明になり
鎌倉府と伊勢国司北畠満雅が同心しているとされ
しかも義教への将軍宣下が朝廷から出る気配がなく
鎌倉府の持氏に出されるのではないかと噂されている中で
日本開闢以来初の土民一揆が奈良・京都で発生していたわけだが。
だから義教が朝廷から正当性を認定してもらわないと
戦況がどう転ぶか分からず諸将も難色を示すのは当たり前。
だいたい室町殿の地位を継承してまだ九ヶ月の話であり
対比させるなら信長が織田の家督を継いだばかりの話を持ち出すのが筋だろアホが。

>>妄想だけは下痢のうんこのように垂れ流しか。
それはお前の頭の中だろw
室町幕府は国々の公田を管理しての段別賦課方式において
公田段銭賦課方式で全国一律に税をかけてたので富が集まり
京は一大消費地として物流が大量に流れ込んでた。
しかし義政時代に入り、これを守護に丸投げして一国百貫賦課方式にして
一国あたり百貫文の段銭を幕府へ届ければ何も介入しないことになった。
これで幕府財政が極度に弱体化する一方で
守護が一元的な一国支配権を始めて手に入れる可能性が生じたために
守護が京へ常駐せずに在国して税の収奪による一国支配力の深化を目指し
守護代の権益を侵していったために国人と守護代VS守護の下克上が開始されていった。

織田厨(Tug5M9ir)ってなんでこんなにバカなの???マジで知りたいわ。

653:人間七七四年
11/04/10 23:01:21.25 Eo6hogsk
長文レスを投下する奴は己の学力の低さを証明していることに気がつけよ!


654:人間七七四年
11/04/12 22:17:01.05 WZhnR46R
信長が志賀の陣で朝倉に土下座してから半年後に毛利元就が死去してて運が良いよな~。
もし元就が生きていて信玄の西上が開始されてたらフルボッコ瞬殺されてたな

655:人間七七四年
11/04/12 22:26:57.65 6wm83TWS
>>654
この時期の織田毛利は同盟中、
むしろ元就が死んで運が悪いともいうべき。

ちなみに敵対しだすのは長篠後。

656:人間七七四年
11/04/12 22:55:55.39 WZhnR46R
んなこたあない。
それは元就神格化した毛利捏造史だから。
実際は元就生存時にすでに織田は尼子残党や山名を後援し始めていて衝突してる。
それを止めたのは信玄西上によって信長が全面的に西部戦線を放棄したから。
その力の空白を突いて元春が丹波国人に呼応して但馬まで進出した。
毛利が後援した宇喜多も播磨へ進出した。

657:人間七七四年
11/04/12 23:58:57.24 Y5Ay+j9e
ID:WZhnR46R(在日朝鮮人)は意味不明な妄想を脳内で隔離させておけ。
それとスレ違いだから二度と書き込むな。

658:人間七七四年
11/04/13 00:25:20.31 K5D0eRf5
一次史料上は織田家が元亀に中国方面に進出したことは確認できず、
尼子残党や山名の支援も確認できない、逆に滅ぼすことを認めることは確認出来るが。

>その力の空白を突いて元春が丹波国人に呼応して但馬まで進出した。
これもない、1575年の時期では因幡と但馬で織田家と分けようと言ってるのは確認できるが。

659:人間七七四年
11/04/13 07:01:21.54 TZOudsDE
>>658
織田厨さすがキチガイ
お前のガセ自称一次史料は信長公記のことだろw
織田厨が一次史料をソースに出してきたことなんて過去に一度たりともねーだろ。
もしあるならここにリンク貼ってみろよ。

660:人間七七四年
11/04/13 20:28:59.59 ljqjn4nl
1571年4月11日小早川家文書
小早川宛信長書状と小早川宛秀吉武井書状で対尼子対中国で協力し合うこと
1575年3月4日吉川家文書で元春宛で、山中の処分に関して
1575年7月6日小早川家文書で小早川宛で対山名に関して但馬因幡で両家で分け合うことを確認している。

織田が尼子残党や山名を支援したという事実は何がソース?
元亀年間で毛利が但馬に進出していることを示すような文書なんてあるか?

661:人間七七四年
11/04/13 21:56:11.08 yp0rc8j5
>>659
>織田厨が一次史料をソースに出してきたことなんて過去に一度たりともねーだろ。

私が知る限りではアスペルガーだがだけがソースを出さずに質問返しやスレ荒らしで逃げている。
他の人はソースを提示しても馬鹿を見るだけで終わっているのが真実。
アスペルガーだががコテハンを使わないのは言い逃れをするための姑息な手段。


662:人間七七四年
11/04/14 00:25:01.47 eqMaKSw4
>>620に書かれたことは元亀4年=天正1年であり信玄死去後に
信長が一転して毛利に対して強気になっており毛利は安国寺を使者にして
これ以上の怒りを買わないように義昭が毛利領へ来ないように努力してる。
その一方で山中が柴田との交渉を持ってる事実もわかる。
そして毛利が但馬まで進出してる事実もわかる。
織田としては但馬が織田勢力圏回復のために再度、秀吉の派遣が決定済み。

太田垣輝延→吉川元春
天正3年1/24に山名豊国と太田垣輝延と元春の和睦

山名豊国→吉川元春 
天正3年2/20に芸但和睦までは山名は織田と尼子残党のバックアップを受けてたよ。
これにより尼子残党は山名から離反し浦上と織田のバックアップを受けてる。
実際には常に尼子には山名や浦上を通して織田が背後にいるんだよ。

織田は天正4年3/11
聖護院道澄を通じて因幡で山中を助けない旨を吉川元春に伝えてるのも元春が疑念に思ってるからで
再三にわたり毛利は尼子を織田が助けない約束を取り続けてる。


663:人間七七四年
11/04/14 02:29:30.10 aaB/+/QH
>>660>>662で結論が出たみたいだな
元亀では織田毛利は同盟関係で
敵対するのも両者が中国地方東部に進出するのも元亀の末年天正元年に入ってからのこと

664:人間七七四年
11/04/14 04:31:25.53 NCMqT5Fu
>>650-651
単に川中島の戦いって例示しても、全五回のうちのどれか分からない。
頭の血の巡りが悪すぎる。そんな愚問に返答したことに感謝してもらいたいくらいだ。

濃霧の中での意図しない遭遇戦だとさ。
夢遊病者の妄想の中ではな。
第四次川中島の戦いに諸説なんてない。
それがあるのも夢遊病者の妄想の中だけ。
あまりの愚劣な書き込みに一々レクチャーするのもバカらしい。
夢遊病者は議論を低級に落とし込む技法だけは素晴らしいな。





665:人間七七四年
11/04/14 04:46:05.80 NCMqT5Fu
>>652
毎度の見え透いた自演で、場違いな貼り付けして悦の醜態。
どんだけの底無しだ。

しかも尤もらしい単語を集めただけの意味不明・中身ゼロ・出鱈目の駄文で悦。

小学生でも分かる平易な文に書き直してみ。
無理か。
書き込んでる本人さえも意味分かってないんだからな。
どんだけの夢遊病者だ。

能書きは今谷の妄言を認知してからにしような。


666:人間七七四年
11/04/14 06:52:55.58 P5CoEOOS
>>663
すでに織田は1569年時点で
池田勝正ら摂津三人衆や秀吉に命じて赤松氏を後援して播磨を
さらに秀吉らを北上させ尼子を後援して毛利と敵対してた山名氏を降伏させて
但馬の生野銀山を押さえているわけだが。
その後に山名は上洛して織田に大金を払って許されてその年のうちに帰順復帰するや
織田配下となった山名は尼子を後援して毛利と敵対してる。


667:人間七七四年
11/04/15 07:20:28.59 Cg0DIfeQ
信長は織田配下になった浦上に播磨・美作・備前の領地を認めてたのに
毛利は裏で宇喜多支援して播磨浸食していったように
織田も山名や浦上を通じて尼子残党を支援してたしお互いさまの化かし合い。
そして毛利は気弱になったのを宇喜多に悟られないようにすることが肝心なんて言ってるそばから
宇喜多に悟られて毛利は見捨てられ信長配下に移り
尼子残党は姫路の直北に位置する生野銀山と播磨東部の別所氏の三木城攻略を優先した信長に切り捨てられた。
宇喜多と尼子残党の思考や思想がわかるな。

668:人間七七四年
11/04/16 20:00:39.14 PUHRMTad
>>666
>その後に山名は上洛して織田に大金を払って許されてその年のうちに帰順復帰するや
>織田配下となった山名は尼子を後援して毛利と敵対してる。
何で都合よく曲解するの?
山名と尼子は対武田戦線で共闘したわけで毛利と敵対するためではない。
鳥取城から武田を追い出すのは天正元年で毛利と敵対なんかできるわけがない。

時代背景を考えてからレスした方が無難だよ。




669:人間七七四年
11/04/16 23:29:48.44 K9eSCwiq
天下統一は出来たけど国内の失業対策の為に唐入りし
結局は秀吉と同じ運命を辿るだけかと。
ただ信長が唐入りするとなれば前田や徳川も徴兵されるだろうから
いい感じに展開を進めることは可能だと思う。


670:人間七七四年
11/04/17 09:14:31.08 6sbxvSPL
>>669
お前ほんとバカかデタラメ吐きのどちらかだな。
武田を毛利が後援して因幡山名を但馬に追い出して毛利勢力圏に編入したんじゃねーか。
それに対して織田が尼子残党と山名惣領の但馬山名に続いて因幡山名の鳥取復帰を狙って攻防開始した。
信玄西上戦で織田が山陰地方への連絡線たる山名と敵対してる丹波の赤鬼赤井直正にも手を焼きまくり派兵すら不可能。
その隙に元春が東進して因幡山名と但馬山名は「毛利が武田を見捨てることを条件に降伏」を申し出て了承された。
その際に塩治高清が毛利に武田の助命嘆願を執拗にしてるが両山名氏の版図を従える為に許さなかった。
毛利は三村などと同様に武田もさんざん利用した挙げ句に傲慢に扱ったことが国人たちの不信感につながり南条や宇喜多の織田への離反につながる。

671:人間七七四年
11/04/17 14:29:21.52 GE4sxBQc
織田厨は常に大うそつきだから無視推奨。

>>667
>>信長は織田配下になった浦上に播磨・美作・備前の領地を認めてたのに
毛利は裏で宇喜多支援して播磨浸食していったように

元亀3年9/12の時点で毛利は宇喜多を支援して、
美作の三星表に兵糧を送ったり、備前にも鉄砲衆だけでなく
弾や火薬もどんどん増援するって輝元が元春や隆景に言ってるところからも
信玄の西上作戦開始前は織田支援の浦上・尼子を相手に
美作や備前で一進一退の攻防している毛利・宇喜多は
信玄の死から数ヶ月で播磨での戦いにまで戦線を一気に前進させることに成功してる。

それに伴い三村への背反行為でもある宇喜多と毛利の連合えお容認させるべく
毛利派の三村親成による三村内での調整が、信玄死後の織田の西国への派兵による
軍事バランス変化が原因で破綻し三村が毛利を離反し織田と結ぶや
天正2年に備中兵乱が起き、毛利が三村を滅亡させ備中を支配すると

天正3年9/7に輝元への書状で秀吉が
「信長が義昭を上洛させるために義昭の側近の上野秀政らも異議はないから調えたい」と言ってきてるが、
天正3年5/13の時点で輝元が義昭を奉ずることに対する返書が義昭から出てるし,
翌年には義昭が備後の鞆にやってきてる。
織田と毛利は本音と建前がまったく違う反面で毛利と秀吉の間柄は親密になってきてる。
信長はおそろしい上司といった感じの秀吉だが中国大返しでの毛利の協力の下地が出来てきている。
6/7には織田へ転んだ山名に対して元春が因幡へ再出陣するのが確定しているようで
同陣を願っていた八木但馬守が許可され
11/24にはそれに伴い八木へ元春から誓詞が出されているようで返書を出してる
翌天正4年5/7の八木→元春書状によれば因幡の鬼城も開城され平定してる。
これは信玄死後に朝倉を滅ぼし越前一向一揆を鎮圧して帰ってきての
天正4年1月における丹波征討の光秀の大軍が
赤井直正への呼応による波多野秀治の裏切りによる大敗における
丹波攻略失敗による秀吉の孤立によるところが大きい。
越前一向一揆の壊滅は加賀越中一向一揆と謙信の協調体制につながり、
謙信による上洛作戦の開始に繋がり天正5年の手取川における謙信による織田の排除になる。
このことは信玄の上洛の時よりもさらに信長を窮地に追い詰めるも
翌年に謙信や赤井直正が相次いで死去した超ラッキーのおかげで最大の危機だった天正6年を乗り切ることができた。

672:人間七七四年
11/04/17 15:08:31.29 6sbxvSPL
たしかに織田軍を引きつけていた信玄が死ななきゃ三村が織田を頼って毛利を離反することは無かっただろうな。
2万を率いる信玄が生きてたら春になればまた朝倉が2万5000を率いて浅井に合流すべく近江にやってくるわけだし、
織田は当分の間は西国戦線放棄だろうし、
そうすれば備中兵乱で時間浪費せずに播磨も平定できて本願寺との陸路での協調も夢では無くなってたな。
史実での毛利の後年における播磨での小寺や別所や摂津の荒木や本願寺らへの支援に苦労する事態が避けれたよな。
まあ三村を滅亡させ備中を毛利が支配できたから良しとするべきなのかも知れないが。

673:人間七七四年
11/04/17 19:11:54.89 GE4sxBQc
毛利は武田や三村を先兵として山名や宇喜多を攻めて
彼らが毛利に屈するやすでに殺戮合いで遺恨だらけの武田や三村を切り捨てるような真似をしてきてる。
だから毛利が織田に屈する和議を結んで宇喜多を捨てる機先を制して先に宇喜多が織田に降って毛利攻めをする。
あと但馬は毛利と織田の生野銀山争奪戦の戦場となってるからね。
織田も尼子残党を利用してでも保持したい。丹波の赤鬼によって但馬が封鎖されてしまったので
秀吉を姫路に配置してその真北の生野銀山への道を確保してる。

尼子は毛利打倒のためには悪く言えば誰からでも支援を受けて回っている。
1569年2月(6月?)毛利方により美作の要衝高田城落城、三浦貞盛自刃。
香川光景と牛尾・安達等元尼子家臣が入り、城兵五百程度。
隠岐から上陸し7月尼子勝久旗挙げにより尼子旧臣の多い城内は動揺。
8月10日毛利の九州遠征から香川春継百八十騎が帰国入城。
宇喜多加勢三千騎、三浦勢千余人が布陣。城内の尼子旧臣の一部が内応するが露見。
10月5日三浦勢が高田城下で合戦、玉串討死。後方の宇喜多勢は参戦せずそのまま引き揚げ。
宇喜多と呼応しての浦上挟撃で播磨の大半を平定した別所や池田や秀吉はさらに北上し但馬へ進撃し
此隅山城を落とされた山名惣領家の但馬守護山名祐豊は逃走し、
まもなく堺の豪商・今井宗久の仲介により京で信長に一千貫の礼銭で謝罪し但馬復帰を許されてる。
山名豊国を後援する織田方の但馬芦屋城の塩治高清を毛利方の高信が攻撃するも撃退。
播磨の織田軍は朝倉討伐のために近江へ移動するや浦上の反撃が開始される。
美作三浦氏は大友宗麟から鹿介経由で塩硝を援助してもらい(1569年11月19日の書状)
宗麟に使者を派遣して高田硯を贈っている(1570年)
大友も引き続き尼子残党を支援している。

1570年10月尼子加勢により美作の高田城奪還。
三浦貞広は出雲尼子氏の元で育った。三浦勢の主将は三浦重臣の牧尚春と美作中部の国人(田口氏一門、本来は
三浦家臣ではない)玉串昭則の二人で両人ともかつては尼子に従軍し各地の合戦に参加した経歴の持ち主で
千の軍勢も三浦単独と言うより周辺の尼子残党をかき集めた感じか。
その後も周辺大名が毛利や織田に飲み込まれて次々滅んで行く中、六年間抗戦し続け降伏後も貞広の命は助かった。

美作三浦氏と備前浦上宗景と尼子再興を目指す尼子勝久は大友の支援も受けていた。
これがじわじわと効果が現れ、1571年には尼子残党と浦上宗景が同盟を結んでいた
織田方の三好氏の重臣だった篠原長房と協力して備前児島で毛利氏に勝利。
同年秋以降、備中の佐井田城、松島城などで毛利・三村の軍勢を撃退して毛利を破り
大友側が北九州で孤立無援の龍造寺から今山の戦い後に和議の申し出を受けるなど
1580年の田原親貫が反乱での国東半島沖海戦まで毛利の介入を防止し
若林鎮興の大友水軍育成の時間を稼ぎ毛利水軍を大敗させるなど有利に戦を展開させるのに成功してる。

1570年 12月には志賀の陣で信長が朝倉に屈服
1571年 西伯耆の浄満原で毛利方の杉原盛重が尼子氏残党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦い敗れる。
    東伯耆の毛利方の南条宗元が孤立奮闘
    織田方の山名祐豊が丹波国氷上郡の山垣城を攻撃したので赤井直正と対立し
    祐豊は竹田城や此隅山城を直正に奪われたので新城の有子山城に居城を移す。
    6月元就死去
1572年 11月東美濃の岩村城落城。12月三方ヶ原の戦い(信長は岐阜城から動けず)


674:人間七七四年
11/04/17 19:32:23.61 X/mPBsNZ
なんかもう滅茶苦茶だな

675:人間七七四年
11/04/17 20:57:20.25 Vkj72/iS
>>673
主観に染まりきっててなんかもう…
結果ありきというかなんというか

676:人間七七四年
11/04/17 23:04:10.55 6sbxvSPL
元就が死んだ頃は美作や備中の大半も宇喜多らに支援された尼子残党に奪われるなど毛利版図は大縮小して追い込まれてたんだよな。
元春も元就の葬儀に参列せずに山中鹿介追討の遠征してたくらい危機的だった。
武田北条の和睦が成立以後の義昭による織田包囲によって
西国への支援不可能になった織田を離反した宇喜多が尼子残党支援を止めて毛利側に寝返ったりで戦線を播磨に前進させている1572年~1573年信玄死去までの期間の毛利の起死回生の急拡大ぶりは凄まじい。
この時期まで元就が生きて安芸から指令していたら元春らはより冒険的な進撃が可能になってただろう。
史実では信玄死去したことで反撃に転じて朝倉浅井を滅亡させるや
信長が安国寺へ浦上を支援し山陽、秀吉を山陰へ出兵宣言すると
義昭が中国にやって来ないように心を砕くなど毛利の織田に対して低姿勢の豹変ヘタレ外交ぶりは異常だからなあ。
そのヘタレ外交に変化が起きるのが丹波の赤鬼により光秀撃破。
毛利はやっぱり他力本願なんだよなあ。
元就が生きてたらもっと積極的に動けたかな。

677:人間七七四年
11/04/18 21:04:36.77 /KDbrktR
>>675
主観に染まりきって結果ありきなのは
信玄叩きに必死な天才革命家信長マンセー教徒だろw


678:人間七七四年
11/04/19 06:57:36.78 3/BUIa9W
はっきり言って信長公記に記される織田兵力はデタラメだよな。

679:人間七七四年
11/04/19 23:46:07.30 7EZJ9XPA
あんなの元々が創作6割以上だろ。
一次史料でもなんでもない。

680:人間七七四年
11/04/20 07:01:50.12 WC7f0fBs
信玄上洛時で満足に国人衆で動員できたのだって信仰に根ざした一向宗の影響もあって北伊勢なんかも難しいし
美濃も東部は武田や朝倉領にいた斎藤龍興の影響もあるし
近江は甲賀から北伊勢への六角影響圏どころか
若狭から朝倉が浅井領に入ってきてたりで
比叡山焼き討ちして琵琶湖西の坂本を光秀が支配するまで安定してないし
実質的には尾張、美濃平野部、近江や山城や摂津から少々くらいだろ。
その少々が各国戦線で小康状態を維持するために投入されてたわけだし。

681:人間七七四年
11/04/21 00:48:05.29 EErOmCE3
天寿をまっとうできなかったアホ信長

682:人間七七四年
11/04/21 08:39:31.47 cqMLmrRU
>>679
安土城完成辺りから一次史料との整合性が飛躍的にアップしてるとされてるから
それ以後ならある程度、歴史的事件の参考文献になりうるかも知れないがそれ以前はかなり怪しい。


683:人間七七四年
11/04/23 20:21:05.81 MSovTinh
>>1
三好長慶
斎藤義龍
毛利元就
武田信玄
上杉謙信
赤井直正
明智光秀
が信長より先に死んでたら天下が取れてたかも知れない。

684:人間七七四年
11/04/24 10:25:16.62 X25CcdD2
>>683
実際、彼らより信長の能力は格段に下なのは明らかだしな。
つうか浅井長政を離反させてなければとっくに天下平定できてた。
信長は家臣達に各地の平定仕事を丸投げして同時に四方八方に攻撃しまくり、
挙げ句に失敗したら塙直政や佐久間信盛みたいに罰を与えてただけだし
信長のミスを挽回してくれた柴田や佐久間や家康や秀吉や光秀ら前線責任者が優秀だったに過ぎない。

685:人間七七四年
11/04/24 18:14:02.54 3wlIL483
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を浅井に向かわせ協力を取り付けたおかげで
やっと近江からの軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は中濃・西美濃の調略に成功し
10年に美濃を奪うことができたくらいの下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど

永禄10年(1567年)8月滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが神戸氏への支援として関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒・伊勢水軍・志摩水軍に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反。
さらに北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局、戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝を与えて縁戚化させるしかなかった。
なんせ12年春には安濃津城前面まで来ながら信長は逃走してる。
そして織田方になった北伊勢の者どもを利用して調略や仲間割れを煽り
長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏の家中を疑心暗鬼にさせて暗殺や内紛を引き起こさせ
長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として渡し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して北畠は木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の関・神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
滝川三郎兵衛が九鬼を買収し志摩水軍を北伊勢反北畠連合側に寝返らせる。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)

686:人間七七四年
11/04/24 18:15:47.24 3wlIL483
この後、吉野・紀州に連なる三瀬谷城に具教が隠棲し
北畠の後継者のバカ殿の国司具房が織田に騙され北畠に仇なす謀反人として
忠臣天花寺と伊賀国人たちを討伐すると言う同士討ちを開始。
このために北畠を潰したのは暗愚な具房だとされる。
そこで心ある北畠旧臣たちは具教から許可されたを名目に四五百の森に防御施設を造り始める。
しかしこれも具房が攻めてきたので無血開城して涙ながらに撤退。
これに失望した榊原や服部の一族は北畠に未来はないと三河の家康の下へ走る。
多気御所(霧山城のことか)には北畠政成(5代政郷の弟政義の曾孫)が
紀州志摩熊野の国人達と割拠して反攻を試みており
信長はこれを危険視して天正4年(1576年)正月に
年賀の挨拶として具教の名代にきた鳥屋尾石見守を信玄との使いをしてるとして暗殺。
11月に信雄に買収された北畠の臣たちが具教に挨拶にきて暗殺。
信頼していた家臣達だったために太刀を近くに置かずにいたので
自慢の剣聖塚原の一の太刀の秘剣が発揮できず、小刀で19人死傷させるも刀が折れて討ち取られた。
信雄は妻が会いたがっていると騙して具教の次男・三男を朝食に招いて惨殺。
愚兄ゆえ具房は暗殺されずに幽閉された。
霧山城では北畠政成が南北朝以来の旧臣たちを集め、伊勢・伊賀・大和・紀州から参じるものたちと決戦準備。
12/2に先鋒に北伊勢の裏切り者たちに信雄15000が襲ってきて激しい戦いが開始された。
政成の妻の壱枚御前の縁故でやってきた松永久秀の兵は50騎で信雄本陣を切り崩し
旗本28人討ち取り信雄にも傷をつけたと言う。
しかし大兵の前についに力尽き最後の突撃を見ながら政成は自刃し、
妻の他に大宮景連の妻である水谷御前(松永久秀の娘)も自害し北畠は240年の歴史と共に滅亡してしまった。
これにてやっと天正4年末に伊勢国がなんとか平定され、
天正5年(1577年)2月、信長は紀州雑賀衆攻めを開始するも失敗し妥協的和睦。
10月には松永久秀を滅ぼし丹波守護代丹波亀山城の内藤定政病死をチャンスに丹波への入口を確保するが
11月に手取川で織田軍は謙信に排除される。天正7年伊賀攻めで大敗。
そして国司を辞退していた具房も天正8年34歳で突然死したと言う・・・天正9年伊賀平定。天正10年本能寺の変。
どんだけ戦が下手くそなんだよ信長・・・


687:人間七七四年
11/04/24 18:25:53.62 3wlIL483
訂正
>>鳥屋尾石見守を信玄との使いをしてるとして暗殺
鳥屋尾石見守を武田との使いをしてるとして暗殺
(北畠と武田は同じ割菱の家紋で織田を挟撃する戦略をかねがね立てていた)

688:人間七七四年
11/04/24 20:12:25.69 X25CcdD2
>>685>>686の間が伊勢長島一揆で織田軍フルボッコ状態の期間だもんなー。
しかも北畠の武人だけでなく雑賀衆も長島に水軍で物資を運び込みまくって永久要塞状態だったし。
信玄が死ななかったら美濃尾張近江と境を接する長島に武田が合流して信玄の根拠地化することになるよな。
尾張は平地で小牧長久手で家康が籠城した小牧山くらいしか要害は無いし。
木曽川以南は一向宗の力を借りれば楽に平定できるわな。
長島が健在なら木曽川渡川しなくても北伊勢から六角氏や甲賀衆の援助を得つつ美濃に入国できるし。

689:人間七七四年
11/04/25 02:14:32.20 88PXLBLW
越前若狭より朝倉2万5000が浅井とともに近江にいて織田軍を牽制
六角も近江東南から長島を支援してる中で三河を下した武田2万5000が長島に着陣
飛騨&美濃東部山岳地帯には朝倉にいる斎藤と対越後兵力を移動させた武田の合流による第三戦線が構築される。
本願寺包囲・京へのルート保持に兵力を分派しているため信長は4万しか手勢は無く岐阜城にいて身動きが取れない。
こりゃあ信長はどう考えても積んでるよな。

690:人間七七四年
11/04/25 10:54:18.05 rZWRymm4
と、対仏同盟の面々もおもったんだろうな

691:人間七七四年
11/04/25 11:04:05.04 88PXLBLW
>>690
そうだよね。
そして予想通りにナポレオンはロシアで敗走、スペインゲリラにフルボッコ
最後はイギリスに敗れて捕虜になったよな。
信長も最後は信玄の捕虜になる運命だわな。

692:人間七七四年
11/04/25 11:16:57.01 rZWRymm4
つまりあと六回は信長包囲網やらなきゃならんのか
信玄長生きだな

693:人間七七四年
11/04/25 11:57:11.01 pyCRv706
>>679
釣れないのおw

694:人間七七四年
11/04/25 12:16:58.81 88PXLBLW
>>692
織田厨ムチャクチャ見苦しいぞw
信玄の西上で手いっぱいの信長w
さらに但馬から丹波の赤鬼と合流すべく
吉川元春が突っ込んでくるのにどうやって防ぐんだよwww

また信長は義昭や朝廷に土下座して和睦斡旋でも頼むの?

695:人間七七四年
11/04/25 17:12:05.67 rZWRymm4
>>694
>>690

696:人間七七四年
11/04/25 17:21:26.73 3g7cmpj3
戦国最強の騎馬軍団を率い、生涯かけて130万石の信玄公。
信長が今川義元を討っていなければ、一生山猿で終わっていた信玄公。

697:人間七七四年
11/04/26 08:47:15.92 f5IaHhaH
伊勢の北畠氏とまで戦略外交してるなんて流石は信玄だな~。
甲相同盟で北条からも兵を出させての西上作戦だし
将軍に謙信は武田を攻めるなって指令出てるだけでなく越中一向宗に謙信牽制させてるし
武田の背後は盤石だし信長死亡確定だよな。
尾張さえ奪ってしまえば空中分解して尾張兵は四散するし。

698:人間七七四年
11/04/26 12:29:51.15 qdyRL4ZU
天下取れなかったのが事実なんだからイフは無意味

699:人間七七四年
11/04/26 12:58:13.67 4FO/LLoL
>697
ありえない仮定やら時系列無視していいならば信玄が上洛中に木曽やら穴山が
織田に寝返って信玄はどうにも立ち行かなくなって降伏するよw

700:人間七七四年
11/04/26 15:12:46.24 f5IaHhaH
>>699
負け犬織田厨涙目ワロタw

701:人間七七四年
11/04/26 15:48:50.01 7wyvaomg
信長にはインテル入ってる

702:人間七七四年
11/04/26 19:35:27.76 qdyRL4ZU
史実無視は信長厨のお家芸。
天下をとれなかったという事実を理解してる?

703:人間七七四年
11/04/26 20:23:15.80 byqnDRip
そもそも信玄は天下を語れる位置にも行っていないだろ。

704:人間七七四年
11/04/26 20:23:21.98 7wyvaomg
>>702
ifだから無視して予想してもいいのでは?
ifが無意味って言うならこのスレ見なければいいだけ

705:人間七七四年
11/04/26 21:07:55.48 qdyRL4ZU
信長が天下とれなかった事実を理解してる?

706:人間七七四年
11/04/26 21:10:37.10 qdyRL4ZU
武田しんげんについては703の言うとおりだな。
ただ、武田厨は天下をとれなかった事実を認識しているだけ信長厨よりまとも。

707:人間七七四年
11/04/26 21:27:08.48 ugQvQ5zn
目糞(武田厨)ハナくそ(織田厨)を笑うとはまさにこのこと

708:人間七七四年
11/04/26 22:31:41.74 7wyvaomg
事実は知ってるよ。実際天下とれていないからね。
俺が言いたいのは、ifなんだから信長でも武田でも「もし」あの時~していたら天下とれてたかもって言う、たられば予想してもいいんじゃない?


709:人間七七四年
11/04/26 23:40:24.84 +uNr/LEL
本能寺がなかったら、毛利、上杉、長宗我部は滅亡確実だろう。
そうなったら、もう日本の半分以上は制覇されてると。

で、ここで他所の大名の気分になって考えてみると、こういう勢力と戦おうと思うだろうか?
抵抗しても得にならないなら、取り引きで所領安堵してもらおうってならないだろうか?

そうなると次々と降伏してくると思うんだけどなあ。

710:人間七七四年
11/04/26 23:54:36.55 f5IaHhaH
本能寺が無くても結局は
安国寺が預言したように
信長は高転びに転落するだけだな。
危うい薄氷の権力、砂塵の楼閣でしか無いからあっと言う間に
安国寺が着目した秀吉と言う人傑によって織田は乗っ取られるだろうね。

711:人間七七四年
11/04/27 03:15:40.91 tLlxNk1j
たられば予想だから信長が早々と家臣に殺されたらってのもOK。
もし荒木に殺されたら本能寺以前に天下は無理だった。

712:人間七七四年
11/04/27 05:48:53.03 +FENfmDA
山梨人の信長憎しは異常
コワイコワイ

713:人間七七四年
11/04/27 05:53:44.13 x6KF/Tec
さんざん粘着して執拗に信玄を貶しまくっておいて
完全論破されるやその発言かw
織田厨アホすぎ

714:人間七七四年
11/04/27 05:59:56.07 +FENfmDA
分かったよ謝るよ
たった一度の栄光、それもほんの小さな栄光を叩き潰してしまってゴメンなさい

ア~コワイコワイ

715:人間七七四年
11/04/27 08:24:03.02 tLlxNk1j
スレタイは「出来るのか」だから「出来ない」で答えだろ。

716:人間七七四年
11/04/27 10:38:51.46 15+20429
436:人間七七四年 04/14(木) 09:42 P5CoEOOS [sage]
元就が生きてれば元春と隆景の戦略外交の対立を表面化させないで
指揮命令系統を元就に一本化できるし元就がいる限りは大友織田同盟があっても背後の安芸本国に不安はなく
元春も出雲に戻らず京へ行けるだろう。
大友が耳川で敗北してもその後に龍造寺と島津が肥後で対立し始め、
織田が島津と大友の和睦を斡旋してるし
筑後では道雪が龍造寺を柳川城へ追い込み圧倒してる。
441:人間七七四年 04/27(水) 10:32 15+20429 [sage]
>>436
それは同意。
実際、織田→大友→周防鴻峯(山口市内)を守っていた市川元教が天正6年3月に宗麟に通じて謀反したりして周防長門が大混乱になってる。
これに困った元春は8月に義昭に頼んで京を奪回するために島津は大友を牽制し、毛利が東上する援軍を出すように使者を出してもらってる。
この天正6年正月は輝元が栗屋元種を摂津に派遣し、高野山金剛峯寺も出兵し、
義昭の先鋒として阿波・淡路の三好軍を率いて六角義堯も堺へ上陸し大和多武峰の衆徒も動員してる。
さらに淡路の岩屋城に水軍を率いて児玉就英が入り、三木の別所支援を開始と毛利方が圧倒的に有利。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる情報が入る。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
三木城攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
信長は荒木を説得する時間を稼ぐために11月に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えるほど危機的状況に追い込まれていた。
すぐに義昭が元春に大出兵を勧めたが隆景との対立からかダラダラして時間を浪費しているうちに
信長は荒木配下の高山右近と中川清秀を降伏させて摂津を奪回して荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
元就が安芸にいて息子達に全指令を出してればうまくいっていた話だろう。
あと6/26に九鬼水軍が大筒で雑賀衆の船を撃破しているんだがこれ鉄鋼船の実戦試験だったっぽい。
毛利はこれの研究を怠って11/6に鉄鋼船の前に大敗し海路での本願寺支援ルートが途絶えてしまう。
天正7年に輝元は謙信に代わって武田勝頼に家康を攻撃して織田兵力を引き付けてくれるに要求するも
その毛利は1/16の出陣寸前に正月早々にまた宗麟の調略で毛利重臣の杉重良が謀反して田原宗亀が援助に来援してきたために出兵中止。
武田軍は遠江の国安へ出撃してきたので信長は摂津から安土へ急いで戻ったので、
本願寺や荒木や義昭が播磨へ侵攻するチャンスと毛利へ言ってきたが、大友の動きが気になり、動かないうちに淡路岩屋も織田に取られてしまった。
これを見た宇喜多は毛利を見切り6月になると叛旗を翻した。すると美作の草荊景継や南条元続も毛利を見切り
光秀や幽斎により丹波丹後の制圧にほぼメドがつき天正8年に別所が自決し播磨が織田に落ちる。
すると3月には本願寺も降伏し、秀吉は宇喜多に美作で隆景を攻めさせ、南条には伯耆で元春を足止めさせてる内に
秀長を先鋒に但馬・因幡を平定する。
天正6年中まで元就が生きてたら余裕で上洛できてたよ。

717:人間七七四年
11/04/27 14:56:33.37 x6KF/Tec
>>683
実は信長が六角攻めをし始めた時にすでに体調がムチャクチャ悪化していた三好が擁立していた将軍足利義栄が
信長が上洛前に死去した混乱で三好軍は浮き足立っていて京を放棄して摂津に退却していた超ラッキーがある。
足利義澄が死去したおかげで船岡山の戦いで逆転ホームランが撃てた大内義興並みの天運が信長にはあった。
この為に大義名分を失って降伏し易くなった為に三好義継や松永久秀や摂津の高槻城や茨木城や池田城などの諸将が相次いで義昭に降伏してる。
畠山高政の子を昭高として信長養女と婚姻させ河内飯盛城に配置し
細川信良は昭元として義昭妹を付けて摂津に配置
三好義継を河内高屋城に、松永久秀を多聞山城を拠点に大和一国、池田勝正や伊丹親興にも摂津旧領安堵。
これみんな義昭の権威で行われた。
将軍権威を利用してチート機能で信長はズルしており
将軍と信長が対立するやこの大半が義昭側に寝返って信長の畿内支配圏は完全崩壊してる。
そこに信玄や元春が畿内入りを目指して突っ込んで来る状況で信長破滅前夜になっていた。


718:人間七七四年
11/04/27 15:23:52.86 15+20429
なんかさ、負けても敗れても執拗に諦めずに
濃尾の国力を背景にして
攻めてくるあたり信長と
巨大伊達勢力を引き継いだ政宗って似てるよな。
もう粘着しまくって相手が嫌気をさしてレスするのを諦めるまでレスし続ける戦争マニアのぼっちゃん。
ピンチになると天皇に和睦斡旋頼みまくって時間を稼いでから
また攻めてくるのも、
ピンチになると惣無事令を利用して和睦しまくってまた執拗に攻めてくる政宗にそっくり。
ただ政宗が最後の最後で悪運が無かったのは義重や義光や秀吉がいきなり死んだりしないことだよな。
ただそれだけの超悪運を使えなかったから本能寺の変で帳尻合わせを迫られることもなく土下座王として生き残れたから良かったのかな。


719:人間七七四年
11/04/27 15:37:43.77 +FENfmDA
目標を定め、アンテナを張り、行動をおこしてるから得られるチャンスだよねそれって
野心家なら利用できるものは利用できる内に利用するよ
信玄にだってチャンスはあったでしょ
ただ、天下を見据えるビジョンと、謙信に頭ひとつ下げるだけの度量がないから逃したチャンスなわけで、おまけに本願寺や朝倉がきばってくれてるのにまだ行動を起こせないで、それで終わってるんだから仕方がないじゃないか
ただの嫉妬だよ

720:人間七七四年
11/04/27 16:35:48.99 15+20429
いやいや濃尾の国力を背景にゴリ押ししてた
難易度ベリーイージーのヌルゲーだろ。
四方八方に片っ端からケンカを売って歩いていただけでビジョンなんて持ってないから。

721:人間七七四年
11/04/27 17:35:28.64 9dq8/nYH
まあ大勢力には大勢力の戦力戦術があり、一度負けたら即滅亡な小勢力には小勢力の戦略戦術があるから、
それにあった行動を取ってるとも言えるな。
大勢力としては重要な戦いは別としてそれ以外の個々の小戦はそれほど重要でないから、
必死になる必要なんてないのに対し、小勢力は必死で、勝てる戦い以外するわけにはいかない、
大勢力なんて消耗戦とかしかけるなら勝敗よりもどれだけ戦闘を仕掛けられるかの方が重要だろうし。

722:人間七七四年
11/04/27 18:47:43.08 15+20429
信長ほどの大戦力があるなら軍隊の離合集散を活用しつつ遠交近攻策でもっと簡単に天下平定できたのに
戦略という概念がないタダの乱暴者だから
四方八方に敵を作り各戦線で破綻しまくってた。
が、運がよく邪魔な敵大名が死去したり、天皇の和議斡旋で虎口を脱出してきたに過ぎない。
そのやり方がついに破綻したのは本能寺による嫡子もろとも殺害され
秀吉に織田を乗っ取られた末路。
これは安国寺でも理解できた未来図。

723:人間七七四年
11/04/27 18:51:47.79 zbG9e+6K
↑ 他人に構ってもらいたいポチが必死の釣り狙い。
が、意図が見え見えなので痛々しいだけ。
可哀想。

724:人間七七四年
11/04/27 19:07:00.50 tLlxNk1j
信長が失敗したのは事実だからしかたない。
群雄の一人だが天下人の器ではなかったということ。

725:人間七七四年
11/04/27 19:40:32.85 x6KF/Tec
織田厨はバカ妄想電波キチガイ

726:人間七七四年
11/04/27 20:02:29.80 9dq8/nYH
1582年の6月1日の時点でここ100年ほどの間で最大勢力であり天下統一に一番近い位置にいたことは認めるにしても
失敗してるのは事実だからなー。

727:人間七七四年
11/04/27 20:06:12.27 zbG9e+6K
また構ってもらいたいポチが湧いて出た

728:人間七七四年
11/04/27 20:18:45.39 tLlxNk1j
本能寺の変を回避できなかったのが信長の限界だよな

729:人間七七四年
11/04/27 23:58:43.44 E2WQZAa0
家康以外みんな失敗じゃんw

730:人間七七四年
11/04/28 00:01:12.37 d1lwdvZI
秀吉は成功してるじゃないか

731:人間七七四年
11/04/28 00:04:02.17 SORHcqf/
>>730
一瞬の成功は失敗と同じだ
持続しないとダメ

732:人間七七四年
11/04/28 05:52:12.71 5Qz3cxeI
結論は、信長はダメだった。

733:人間七七四年
11/04/28 06:28:59.05 dtae5T5V
>728お前の言う通り
史実がその人の限界
上洛途中で死んだなら、それがその人の限界

734:人間七七四年
11/04/28 07:17:55.19 9wdQyX8x
織田軍10万で石山本願寺1万5000に10年以上に渡り苦戦を続けるもはや神並みの戦下手が信長。

735:人間七七四年
11/04/28 08:41:08.30 dtae5T5V
そうやって遠回しに戦が上手いのに100万石程度で終わってしまった人が凄く頭が悪いみたいな言い方をしてはいけないよ

736:人間七七四年
11/04/28 09:48:25.42 S6kAewqJ
謙信のことかー

737:人間七七四年
11/04/28 10:21:01.70 dbER3CO6
>>626>>627の続きか?

>>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww
そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。
ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。

天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。
(天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。

中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。

例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。

信長にはこんな制度もないだろうが。
それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。



738:人間七七四年
11/04/28 11:57:17.20 9wdQyX8x
信玄って地形で考えると紀伊半島山岳地帯で戦い続けたようなもんだよな。
やっぱり信玄は不利だよなあ。

739:人間七七四年
11/04/28 12:50:05.69 dtae5T5V
ゴメン時間ないからあんまり細かく読んでないけどたぶん、幕府に許可なく俺様法作っちゃったぜ、って事だと思う

で、信長は幕府側の人間な
少なくとも義昭追放するまでは
そんで信長が定めるべきは分国法じゃなくて、例えば武家諸法度みたいな法なんだけど、まだ有力大名がいくつか残ってて、それらを潰すか力を削ぐまではヘタに法を発するわけにはいかないわけ
従っちゃったら有力大名を有力大名のまま残すことになるからね
そういう事

740:人間七七四年
11/04/28 13:26:00.37 9wdQyX8x
>>739
妄想だろそれ

741:人間七七四年
11/04/28 15:03:52.85 5Qz3cxeI
世間が抱く信長のイメージそのものが妄想だからな

742:人間七七四年
11/04/29 07:57:03.53 GdR1TUZ/
その思い込みこそ妄想なんだがな

743:人間七七四年
11/04/29 08:21:11.76 gWumNjXj
コーエーが戦犯だな

744:人間七七四年
11/04/29 09:02:52.56 X4K67+Ad
そもそも信長は実在したのか?
それが最大の疑問だ

745:人間七七四年
11/04/29 09:33:29.93 o7hj7FD1
越前一向一揆制圧の際、殺されたもの以外に、生け捕りにされていったもの数知れず(『信長公記』)
諸大名が信長に報告せずに国元に連れ去ったものは2~3万人か。
波多野一族大虐殺や萱津合戦や越前、播磨などでは信長自身が乱取りを命じている。

松平記にも、京で略奪中に三河衆と織田信包衆が喧嘩し、尾張兵が鉄砲撃ち立てた、とある。
また上京焼討ちでは、戴恩記に信長が呼び寄せた近隣の土民達の略奪の凄まじさ
が書かれている。 また庶民が火事により大井川へ飛び込み溺死膨大(東寺光明講過去帳)
「京中辺土ニテ、乱妨ノ捕物共、宝ノ山ノ如シ」
(天正元年、織田軍上洛ノコト・「永禄年代記」「続群書類従」)
また信玄の西上作戦により織田の軍費がまったく足らず下京や寺社などに焼き討ちを免れるための条件に
大金を要求しまくって、それを軍費にする目的もあったので
(加茂野の地の寺社だけで銀棒300、各43匁の重量とフロイスは書いている)
天皇の御所まで延焼するのもまったく気にせず信長は「御所に類火が及べば遷幸するように!」と命じたので
困った天皇は信長の目論見通りに将軍義昭に信長との和睦を勧めて延焼がこれ以上に広がる前に調停させた。
こういうこともあり本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
義昭は天皇の命令で旧幕臣光秀に大逆無道の暴虐者信長殺害を命じたのだろう。

三河物語によると織田軍と少数ながら同盟軍として上洛に参加していた徳川軍(家康不在)、
彼らは京に近づくと付近の村落に猛烈な略奪を始めた。これを信長は制止出来ず、略奪の規模は拡大
しまいには略奪品の分配をめぐって、織田、徳川両軍による戦闘まで始まってしまった(しかもどうも、織田軍側が負けたらしい)
洛中に入った信長の行った、有名な『一銭斬り』
この強硬な措置は、洛中で織田軍への信頼を得るる云々以前に、
自分の軍隊の統率を取り戻すための措置であった、と考えたほうがいいようだ。
信長公記より比叡山焼き討ち  
鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、
信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、
御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、
信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。 
焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、
この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった。 ※婦女子大量(数千人)虐殺・この世とも思えぬ風景


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