10/05/26 23:26:17 xknEAvLW
好きな女の子のタイプは何?
3:人間七七四年
10/05/27 07:03:11 U4H+i6Is
>>2
愛季ちゃん
4:人間七七四年
10/05/27 11:28:08 vFehtK0w
卒爾ながら>>1乙致し申候段御容赦願上奉候
5:人間七七四年
10/05/28 00:29:01 9aKcpJau
>>2
姫若子ちゃんだな
6:人間七七四年
10/05/28 00:55:41 gq8WhfRM
牧野 成里という人物について。
wikiだと1614年死去、とあるのですが
他のサイトで島原の乱で「戦死」という記述もあるのですが
どちらが正しいのでしょうか?
年代的には島原の乱(1637~1638)に彼が生きていたとも思えず
同名の人物、あるいは子息などに島原で死んだ人物がいて混同されているのかな?と思ったのですが
そうすると島原で戦死した方の牧野某は誰だったのか?というのが気になりまして。
できれば詳しいかたの教授をお願いします。
7:人間七七四年
10/05/29 11:48:17 dAIdWW58
早くも保守
>>6
わからん
8:人間七七四年
10/05/29 17:07:35 djwaJuT9
>>6
推測だけど島原の乱で戦死した牧野某は成里と同じ「いろはにほへと」の指物を使っていたと言うことなので、
成里の子か孫だろうね。
9:人間七七四年
10/05/30 16:26:55 mzKDQ4Yl
武将の名前について詳しく知りたいです。
信長は織田上総介三郎信長、という名前だったそうですが、
上総介や三郎は、それぞれどういう意味を持つのですか?
あと武将が神職や僧侶を兼業している場合、特別な通称を持ったりするのでしょうか。
10:人間七七四年
10/05/30 17:15:17 uG5/qDzS
>>9
上総は国名。今の千葉県中央部。で、上総は親王が国司を務める親王任国なので次官である
「介」が実務を行う。現代的な意味合いで言えば「千葉県副知事(ただし知事は皇族の名誉職)」
だと考えるといい。
> あと武将が神職や僧侶を兼業している場合、特別な通称を持ったりするのでしょうか。
どういうものをイメージしているのかが分からない。信玄の「大僧正」みたいなやつか?
11:人間七七四年
10/05/30 17:23:44 TTXZq+1a
>>9
「上総介」は上総の国の副長官という官職だが信長のは自称。「三郎」は三男という意味だが、ご先祖様が
三男でそれ以来代々名乗ってる場合もある。「四郎次郎」みたいのは親父が四男で自分が次男らしい。
特別な通称は知らないけど、出家すれば法名を名乗る。上杉景虎が謙信だったり武田晴信が信玄だったり
するのは法名。
12:人間七七四年
10/05/30 17:49:14 mzKDQ4Yl
>>9-10
ありがとうございます。上総介というのは実質的な職業ではなかったんですね。
なぜ信長は岐阜や尾張に所領を構えていながら上総国の次官を名乗っていたのですか?
自称ということは、他にも、弱小武家の人間がそのような身に余る役職を名乗ったりする事もあるのですか?
それから信長次男説があるそうですが、三郎という名前と矛盾したりしないんでしょうか。
>信玄の「大僧正」みたいなやつか?
ありがとうございます。まさに、そういう役職を名乗るかを知りたかったんです。
武田大僧正太郎信玄、みたいに名乗ったりするのでしょうか。
13:人間七七四年
10/05/30 18:23:51 TTXZq+1a
>>12
「織田上総介三郎信長」や「武田大僧正太郎信玄」には違和感がある。上総介と三郎は一緒に使わ
ないイメージ。もし使うとしたら「源九郎判官義経」のように三郎とか太郎の方が前じゃないのかなぁ。
何故自称するかというとカッコいいから。他にも信玄の家来に美濃守が何人か居たりする。
信長の三郎は代々の名乗りみたいよ。wikipediaで信長の親父、さらにその親父とたどっていくと代々「三郎」と
「弾正忠」を名乗っている。
14:人間七七四年
10/05/30 18:29:27 jGzRz3FT
「武田甲斐入道信玄」とか
15:人間七七四年
10/05/30 19:23:25 mzKDQ4Yl
>>13-14
ありがとうございます。
言われてみると織田三郎上総介信長と言う方が立場が分かりやすいですね。
それから、何度も質問してしまい恐縮ですが、
大僧正などの宗教系の職業は名前とは別で名乗るものなのですか?
顕如のように代々僧職の人でも入道だったりするのでしょうか。
そもそも顕如の本名は、どのように表記されるのでしょうか。
16:人間七七四年
10/05/30 20:16:42 TTXZq+1a
>>15
難しいね。
>大僧正などの宗教系の職業は名前とは別で名乗るものなのですか?
職業は僧侶。「大僧正」とかは朝廷から与えられる官位みたいなモノ。名前とは別で名乗るってどういう事?
17:人間七七四年
10/05/30 20:45:32 mzKDQ4Yl
>>16
度々ありがとうございます。
>名前とは別で名乗るってどういう事?
うまく説明ができなくて申し訳ないです。
武田大僧正信玄、と名前の中に入れて良いのか、
大僧正の武田甲斐入道信玄、のように名前と切り離して名乗るものなのか、という事です。
官位みたいなものということは、前者で問題無いのでしょうか。
18:人間七七四年
10/05/30 21:39:07 TTXZq+1a
>>17
職業的坊さんは出家して家を出てるんで名字は使わない。天海大僧正みたいな感じで良いんじゃないのかなぁ。
19:人間七七四年
10/05/30 22:15:21 mzKDQ4Yl
>>17
重ね重ね恐縮です。
ということは顕如は僧侶の子なので初めから名字が無いんですね。
質問が多くて申し訳ないです。次で最後にしたいと思います。
武田信玄や上杉謙信が出家しながら名字も名乗ったのはどうしてなのでしょうか。
20:人間七七四年
10/05/30 22:16:49 mzKDQ4Yl
間違えましたごめんなさい
>>17じゃなくて>>18でした
21:人間七七四年
10/05/31 04:30:13 XMFkb0kR
古河公方と山内・扇谷両上杉が河越夜戦で動員した兵数は8万とも言われています。
この時代に関東地方で権勢を誇っていた古河公方や関東管領の実力は
畿内を掌握できていない本物の将軍家や三管領家よりも強大であると思います。
昔は鎌倉公方や関東管領は関東でくすぶっていた存在だったのに
いつのころから本物の将軍や管領をしのぐ力を持ったのでしょうか?
22:人間七七四年
10/05/31 04:56:48 1/0AEPPE
>川越夜戦で8万
これはかなり誇張が入った数字。北条の勝ち戦を過大に宣伝する為。
また旧勢力(古河公方・山内、扇谷の両上杉氏)は
それ自体に力があるというよりも、周辺諸勢力が御輿として担ぐのに
名分が立つので、利用されていた名目上の盟主に過ぎなかったと思う。
要するに中央の将軍家と細川氏や三好氏との関係みたいなもん。
23:人間七七四年
10/05/31 05:05:14 UqTTrU2L
秀吉の九州、関東征伐以前に八万もの軍勢を動員した戦などあるんでしょうか
24:人間七七四年
10/05/31 07:00:08 mPW8kPYV
>>21
河越夜戦に限らず、その手の数的表現は
誇張というか、多いにせよ少ないにせよおもしろおかしくするために
サバ読みされることが多いです
25:人間七七四年
10/05/31 07:19:43 mPW8kPYV
>>23
上杉謙信の関東征伐
上杉謙信が越後から連れてきた直下の手勢は8千くらいで
10万越えていたという上杉謙信の関東連合軍の中身は
河越野戦での対北条連合軍と似たような面子なわけだけど
26:人間七七四年
10/05/31 16:28:59 Ges0jfPh
>>19
その辺も考えて「職業的」って付けておいたんだけど、信玄や謙信は本気で仏道修行するつもりで
出家した訳じゃない。信仰心の表現またはそう見せかけるパフォーマンスであって、基本的に武士で
ある事には変わりない。だから坊主の成りはしていても家を出た訳ではないでしょ。
27:19
10/05/31 20:25:43 K3eR8kHU
>>26
何度もありがとうございました。
武士としての立場の方が優先度が高かったのですね。
28:人間七七四年
10/05/31 23:34:22 +PYdd9Mm
6月から職場が全面禁煙だ
そこで、ヘビースモーカーだった人と嫌煙化だった武将って居ませんでしょうか?
29:人間七七四年
10/06/01 04:07:38 hdzrMzdw
煙草は戦国末期~江戸初期の伝来。詳しい時期は諸説あり。いずれにせよ
戦国武将が煙草を吸ったという話はあまり聞かない。
30:人間七七四年
10/06/01 07:10:10 hdzrMzdw
和漢三才図会には天正年間の渡来とある。戦国武将が吸うにはぎりぎりだな。
31:人間七七四年
10/06/01 08:29:37 pIfbuUoa
>>28
織田信雄家臣の土方雄久って人が過度な喫煙で死んだってのがある
32:人間七七四年
10/06/01 10:42:22 WRInOZIW
タバコを送って殺す烈風伝
33:人間七七四年
10/06/01 13:56:32 rJPPV+ZU
すいません、ちょいちょい別の板などでも聞く「竜造寺四天王は五人いた」
という話なのですが、それはどのような事情でそうなったのでしょうか?
春秋の五覇のように諸説あって、はっきりと四人が断定できないからとかそんな理由でしょうか。
34:人間七七四年
10/06/01 14:55:07 pIfbuUoa
基本的に四天王とされるのは
百武賢兼
成松信勝
江里口信常
木下昌直
これに加えて、円城寺信胤が入る場合がある。
基本的に全員、龍造寺隆信が戦死した沖田畷の戦いで戦死しているので
この際の武勲を以って四天王とか言われてるんだと思う。
(木下のみ生存したとの説もあり)
他の人物は沖田畷の戦い以外にも戦功が残ってるんだけど
円城寺と木下に関しては沖田畷以外の武勲はあまり無かったような。
たぶん「四天王」の方がゴロがいいから百武・成松・江里口に次いで、誰かあと1人・・・みたいな感じで
木下とか円城寺が後付けで入ったんじゃなかろうか
35:人間七七四年
10/06/01 23:37:25 E7MiIATx
>>28
豊臣秀吉と側室の淀殿はヘビースモーカーだったらしい。
特に淀殿は、文献上最も古い日本の女性喫煙者だと思う。
あと伊達政宗も物好きが高じて喫煙していた。
薬だと思ってたらしく、朝昼晩と規則正しく吸っていたらしい。
36:人間七七四年
10/06/02 00:04:52 iQ3v9O9R
ヘビースモーカーと言えば柳生宗矩だろう
嫌煙家と言えば徳川秀忠だな
37:人間七七四年
10/06/02 11:11:36 b77QkEF9
本願寺って北陸・東海・畿内で大規模な活動をして織田を苦しめていますが
東北や関東や中国や四国や九州ではあまり聞きません。
一向宗はそれら地域には浸透されていなかったのでしょうか?
38:人間七七四年
10/06/02 12:20:36 57GwDZ9Z
>>37
弾圧が徹底的に行われた。
キリシタン大名
好戦的指導者がいない
地下にもぐった(隠れ念仏)
役人が来る前に村を棄てて他国へ逃げた(逃散) こんなとこか
39:人間七七四年
10/06/02 12:31:46 IJ/+T6No
うちら房総だと日蓮とか妙見とかあるからなあ
一向はどうだったかなあ
40:人間七七四年
10/06/02 14:50:18 W5XUvMgM
東日本で門徒はあまり見かけないよなぁ
41:人間七七四年
10/06/02 17:38:04 h2m0uJ+u
>>37
衰退していた本願寺の中興の祖蓮如が活動の拠点としたのが越前で、晩年に京都経由で大阪石山に
移っている。だから北陸、畿内はまさに活動の中心になる。東海はどうなんだろ?
42:人間七七四年
10/06/02 18:45:32 SXSLbwaW
>>36
この分野に関してあなたは部外者です
「門外漢」ではありません「部外者」です
違いが分かりますか?
この世界で食っている「大人」であれば誰もが知っていて当然の、
学生さんが学校で習う程度の常識も知らない
あなたはこの世界では「学生さん」以下の子どもです
基礎的な常識を身に付けようとする努力もなく専門知識の事ばかり質問しても
せっかく説明してくれている事を全く理解できなくて当然なんです
専門知識というものは美味しい所だけ都合よくつまみ食いできるほど甘いものではありません
質問者のそのような態度・姿勢は、答える側の人間に対して失礼です
43:人間七七四年
10/06/03 01:03:24 7fKwOLCZ
九州地方は本願寺は島津により猛弾圧されているのでそれなりの信徒はいたと思う。
中国地方は大内が寺社を庇護・復興しており、本願寺から瑪瑙を献上されるほど懇意にされている。
尼子も毛利も他地方の一揆を見て慎重に対応し、弾圧ではなく懐柔して友好関係を維持していた。
44:人間七七四年
10/06/03 02:59:37 Hcx6dmWz
>>42
いきなり怒りだして何があったんだ?
45:人間七七四年
10/06/03 17:53:55 KBiMzyFn
この時代はどうやって火をおこしていたのでしょうか?
どのような方法がメジャーだったのですかね。
子供に聞かれて答えられなかった……。
46:人間七七四年
10/06/03 17:56:58 O6GryjuD
>>44
多分誤爆
下3行が文脈に合わない
47:人間七七四年
10/06/03 18:10:46 CumSRmFR
>>45
日本武尊の昔から火打石で良いみたいですよ。
48:人間七七四年
10/06/03 18:40:46 8uNAuQwc
いちいち火打ち石で火を起こすのは面倒なので、夜は火種を竈の灰に埋めて保存
した。しかし消えてしまうことも多々あって、隣家に貰い火をしたりした。
江戸時代の江戸だと火種屋という商売があったそうだが、戦国の頃にはさすがに
ないだろう。つまり、火打ち石で火を起こすのは難しいし、昔の人もそう簡単に
火を起こせた訳じゃない、という話。
49:人間七七四年
10/06/04 11:21:49 cmOKps2B
スマップのくさなぎが戦国体験する番組見なかったか?
はじめは30分かかったが10秒で点くまで熟練したぞ。
50:人間七七四年
10/06/04 12:42:58 AqywvEA5
武将や有力国人は住んでいる土地名を苗字にしましたが、
源頼朝も 「鎌倉頼朝」 と名乗った事はあるの?
「鎌倉殿」 というのは聞いた事あるけど。
51:人間七七四年
10/06/04 13:52:22 BQ/M+Mzt
土地名を名乗るのって分家じゃないのかな
52:人間七七四年
10/06/04 13:57:40 cPltg12W
桶狭間で信長は勝利しましたが、合戦後に今川から土地や金品等を得たのでしょうか? 家臣達に褒美を与えてますが信長の自腹ですか?
53:人間七七四年
10/06/04 16:46:50 Z3WWcAIU
尾張東部の今川支配地を奪回したんじゃなかったか?
第二次小豆坂の合戦で信秀が負けて取られた土地だっけ?適当でスマソ
54:人間七七四年
10/06/05 00:58:15 RCrpM02d
>>53
ありがとうございます。
いろいろと調べていたのですがわかりませんでした。
55:人間七七四年
10/06/05 11:38:46 qetOe/uH
具体的な話はわからないけど
今川方に占領されてた砦を1つか2つ奪回したのと
大将が討ち死にするくらいの乱戦だから、相当数の略奪品や、今川軍が置いてった食料などはあったんじゃ?
それがなくとも尾張は流通経済発展地だから家臣に褒美やるくらいの金には困ってなかったはず。
56:人間七七四年
10/06/05 12:49:32 1fdqPcom
戦勝記念に熱田宮に土塀の寄進とかしてるしなあ
57:人間七七四年
10/06/06 06:03:21 El0ktubP
少なくとも天下刀はゲットしたな
58:人間七七四年
10/06/06 12:00:04 A3eVyy7G
有名大名に埋もれたまま、散って行った
たくさんの小大名達にロマンを感じるなら、、、
もしも小大名だったら、、、【和気藹々1】
スレリンク(sengoku板)l50
59:人間七七四年
10/06/06 13:59:34 kQNAzzqM
質問です
織田信孝のように特定の相手を意識して作られた辞世の句は他にありますか
本物でも後世の創作と疑われているものでも構いません
60:人間七七四年
10/06/06 14:36:41 R2621kY9
>>59
大内義隆(討人=陶隆房)
討人も討るゝ人も諸共に 如露亦如電応作如是観
三浦義同(討つ者=伊勢宗瑞)
討つ者も討たるる者も土器よ くだけて後はもとの塊(つちくれ)
61:人間七七四年
10/06/06 14:51:22 iLRjRQx9
>>59
人生七十 力囲希咄
吾這寶剣 祖佛共殺
ひっさぐる我が得具足の一つ太刀
今此時ぞ天に抛つ
利休の辞世。
信長と秀吉にあてたものという解釈がある。
62:人間七七四年
10/06/06 16:58:56 kQNAzzqM
>>60-61
ありがとうございます
やっぱり恨み…というか無念さがあるものばかりですね
63:人間七七四年
10/06/07 08:36:53 Xc+G3178
所謂、「清洲会議」の内容について川角太閤記以外にその会議の中身を記した書物ってありますか?
64:人間七七四年
10/06/07 12:45:32 ADrqbNso
その手の物なら「佐久間軍記」とか
65:人間七七四年
10/06/07 12:50:04 ADrqbNso
他には「賤ヶ岳合戦記」「柴田合戦記」あたりか
66:人間七七四年
10/06/07 13:35:36 Xc+G3178
>>64-65
ありがとうございます。
太閤記も佐久間軍記も江戸時代以降に成立した、ちょっと怪しい軍記物、というのは承知しているんですが
>「賤ヶ岳合戦記」「柴田合戦記」
これらはいつ頃成立したものなのでしょうか?また史料価値としてはどうなのでしょう?
以外と清洲会議について言及した良質な資料って無いものだなーと個人的に思ったので
67:人間七七四年
10/06/07 23:25:54 zMK4ZyTG
戦国時代に、国境って守られていたのですか? 敵国と明確な国境ラインの取り決め等あったのですか?
68:人間七七四年
10/06/07 23:32:54 Ay/ox4zK
あったりなかったり
69:人間七七四年
10/06/07 23:33:00 ADrqbNso
>>67
基本的には川とか山とか、そう言う解りやすいところを境界にした。
わかりにくく勢力の混在している場所はあえて境界を定めず「半済」と言って、
二つの勢力に半分ずつ年貢をはらうという場合もあった。
70:仙台藩百姓
10/06/07 23:59:40 klztcYEn
今だって曖昧じゃんお( ^ω^)
完璧な境界など存在しないお( ^ω^)
71:人間七七四年
10/06/08 00:03:57 worosbbN
>>68 >>69 >>70
ありがとうございます。明確でないことが争いの種になったりするんですね。
72:人間七七四年
10/06/08 00:08:50 lvQtal+a
>>71
それも場合によりけり。明確にしようとすると逆にそれが争いの種にもなる。
73:人間七七四年
10/06/08 02:06:38 2UN5neBz
喋り言葉って今の日本語とそんなに変わらないんですか?
400年前の日本人と現代の日本人ですぐに会話はできるんですか?
74:人間七七四年
10/06/08 02:39:08 3+qrmqZg
その質問はなかなか難しい。江戸時代以前は今よりもずっと方言がきつかったから、同時代人であっても
違う地方の人とは会話が成立しない可能性が高い。
その一方400年よりもっと前の室町時代の言葉が狂言などの形で現代に伝わっているが、聞けばそれなりに
理解できる。
標準語を作るときには東京の山の手言葉を元にしたそうなので、江戸の人とは会話できる可能性が高いかもね。
75:人間七七四年
10/06/08 05:48:57 SVm7iw1s
戦国時代には、は行はF音で発音した。H音になったのは元禄以降。奈良時代には
P音だったらしい。また日葡辞書を見ると「を」をwoと表記している。
だから言葉が通じるかと言われると。通じますとは即答しかねる。
76:人間七七四年
10/06/08 06:00:35 SVm7iw1s
関係ないが、戦国という時代はさまざまな中世(平安末期以降)の要素が残っている。
今の日本人が日本的と考える風俗が成立したのは元禄以降だと思う。
77:人間七七四年
10/06/08 11:20:41 lvQtal+a
まあ今の日本的風俗の始まりが、応仁の乱の頃の東山文化からだしな。
78:人間七七四年
10/06/08 11:54:00 SVm7iw1s
まあ戦国という時代そのものが中世秩序の崩壊過程だしな。
79:人間七七四年
10/06/11 23:59:06 8Rb/38pL
中間ってなんて読むのでしょうか?
80:人間七七四年
10/06/12 00:16:45 c5+912rl
ちゅうげん
81:人間七七四年
10/06/12 03:41:39 M29FQgDW
戦国時代には戦いの前に「これこれこういう理由であいつを倒します」
というような宣戦布告を敵国にしたり、その周辺国に喧伝したりすることはあったのでしょうか?
それとも奇襲などが当たり前で、そういった風習はそもそもなかったのでしょうか。
82:人間七七四年
10/06/12 07:50:34 G8cs4LcF
>周辺国に喧伝したり
これはあったんではないでしょうか
普通は自前の兵だけでなく、従えている周辺の国人衆なども一緒に戦に向かいますから
勝ちに行くからには要請を出すでしょう
83:人間七七四年
10/06/12 10:12:05 r2Ge7bM4
ダジャレ好きだった武将とか
実はこの人こんなダジャレを言った記録が残ってますとか
そう言うのないでしょうか?
84:人間七七四年
10/06/13 02:02:06 lSY9tqmv
縁起担ぎとか和歌の掛け言葉でならけっこう言ってる人いるんじゃないかな?
具体的には分からんけど。
85:人間七七四年
10/06/13 07:04:33 w48KxVfG
難しいな。狂言が爆笑コントだった時代だからな。
駄洒落は江戸時代には「地口」と言ったが戦国時代はどうだろう。
86:人間七七四年
10/06/13 12:21:00 w48KxVfG
・江戸時代の地口の例
「どうだった?」
「ヘェ、提灯に色々文句を書いてるんですが、それが皆間違っておりまして…
『鼻高きが上にとんび烏』などと。お父っつぁんあれは実語経の『山高きが故に
尊からず』でございましょう」
「それが地口というもんだ。お前さんにゃ、まだその味わいはわかるまい」
87:人間七七四年
10/06/13 14:02:22 DB6KDsWx
>>83
「醒睡笑」でも読むといい
88:人間七七四年
10/06/13 16:07:13 NytvmM/J
北条高広が来たじょー。
89:人間七七四年
10/06/14 14:55:13 NCClSg+H
不真面目だと感じる方もいらっしゃると思いますが、
どうしても知りたいのでお願いします。
戦国時代の男色は武士の嗜みのひとつと言われていますが、
これって性欲的に最後にたどり着くのはア○ルセッ○スだと思いますが、
その当時からペペロー○ョンみたいな物があったのですか?
先日、女房にお願いして初めてしてみたのですが(自分も女房も初体験)
うまくいかないのでオロ○インを塗ってやっと成功しました。
戦場で鍛えた武者が、何も知らない少年とうまく合体できるの?
90:人間七七四年
10/06/14 16:18:30 PHXqEyz2
挿入はしなかったんじゃないですか?
ペッティングどまりで。
91:人間七七四年
10/06/14 16:28:18 zYdB0GWB
>>89
現代の話だと、アナルセックスの時はゴムをつけるのが普通。
衛生面的にも安全だし、ゴムに潤滑油が付いてるので
事前に指とかでほぐしてあれば(今まで何も入れた事がないとかであれば痛いのはまんまんと同じ)
普通にできる。
戦国時代の話であれば、最後までやった人もいるんじゃないのかなー
誰だか忘れたけど、小姓上がりの武将で
痔による出血があったにも関わらず馬に乗って戦に出撃して
それが原因で死んだ人がいた気がする。
92:人間七七四年
10/06/14 17:09:15 BPnWB6VB
江戸時代だと通和散っていうトロロアオイから作ったローションの素がある。
戦国時代はフノリ使っていたってどっかのサイトにあったけど典拠は不明。
あとむかーし時代忘れたけど、っお寺の稚児がお相手前に
お湯で清めて自分でほぐして前準備していたことに関するエピソード読んだ。
93:人間七七四年
10/06/14 17:13:17 BPnWB6VB
あ、今思い出したけど
武田信玄が高坂弾正に浮気してゴメンな手紙に
「相手がお腹下してるからダメって言われたから、しなかったんだよ」
って言い訳があるくらいだから。
さらに武士じゃないけど、藤原の氏長者にケツ狙われて
警戒してたけど結局やられちゃってケツ痛ーいな日記残していた人がいるはず。
94:人間七七四年
10/06/14 17:59:38 bn/ckDff
つまり、物の素材や質は進化したけどやってることは昔と変わってないっこと?
95:人間七七四年
10/06/14 18:44:17 94jZAwrc
>>89
『稚児之草子』読めばわかる
96:人間七七四年
10/06/14 18:55:05 sTomGeso
ちなみに『稚児之草紙』はこの本に収録されてる
肉筆春画
URLリンク(www.heibonsha.co.jp)
97:人間七七四年
10/06/14 21:37:46 nxe8hqkq
>>93
それって藤原頼長に・・・って話だっけ?頼長の日記「台記」を読めば、
大体当時(頼長周辺)の男色事情がどんな感じかわかるんじゃないかな
98:人間七七四年
10/06/14 21:59:29 BfPUY3DD
島津家久(悪)ってありますがどういう意味なんでしょうか?
なんか汚い事でもしたのですか?
99:人間七七四年
10/06/14 23:06:12 sTomGeso
>>98
これ読め。アンサイクロペディアだけどほぼ史実だ
URLリンク(ja.uncyclopedia.info)
100:人間七七四年
10/06/15 10:09:11 ++T1sSUO
まあ、叔父さんの家久も、「島津家」から見たら
早々に秀吉と単独講和して中央に所領もらう約束してるような(悪)の人かもしれないけどね。
101:人間七七四年
10/06/15 10:41:14 tF3/BwUg
>>99
ひでえwww
102:人間七七四年
10/06/18 20:21:30 GKPZ8xiI
由良成繁が死んだ頃の由良氏って何万石ぐらいの大名だったんでしょう?
10万石はありそうな感じですが
103:人間七七四年
10/06/20 01:22:55 uugtqC9X
>>97
これだな
920 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/04/19(水) 00:09:03
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。
孝標日記(仮)
1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
つーか俺には愛する妻もいるし。
2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。
3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
これはかなり断り辛い。最悪。
4.しかたなく1回だけ会ってやる。会うだけだ。
それに忠雅さんも同席してもらって3人で。妙なことにはなるまい。
5.忠雅さんが頼長と別れたらしい。なんかかなり嫌な予感がする。
6.頼長のやつ調子にのって、今度は陰陽師に祈祷させてるらしい。テラキモス。
つーかストーカーだろ完全に。
1度会うだけの約束だったじゃねーかよ。祈祷のせいか最近夢見が悪い
104:人間七七四年
10/06/20 01:23:53 uugtqC9X
921 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2006/04/19(水) 00:09:45
7.久しぶりに忠雅さんから呼び出されたので、
何の用かとおもって家まで行ったら、ニヤニヤした顔の頼長がいた。
畜生、ハメられた。
って言うかこの日は忠雅さんの手前、断りきれずに
とうとう実際に「ハメ」られてしまった。ケツが痛ぇ……。痛ぇよ…。
8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
馬に乗って駆けつけてきたらしいが「空気読め」と百万回言いたい。
なんでこんな奴が藤原氏の氏長者なんだクソが。
馬より鼻息荒らそうで想像するだけでキモい。顔も見たくない。
もちろん追い返すように従者に言った。はぁー。
8.妻が死んでからは頼長も言い寄ってこなくなった。
さすがに俺の胸中を察してくれたのかな。
噂では今は年上の男と乳繰り合ってるらしいがもうどうでもいい。
9.と思っていたが妻の四十九日が終わった直後、
忠雅とさん一緒に頼長がうちまで押しかけてきた。
思わず警戒したけど普通に2人してお悔やみを言って帰って行った。
ホッっとした。意外と常識はわきまえてるんだな。
10.俺が甘かった。2日後にまた、頼長が今度は1人でうちまで来やがった。
もちろんまた俺のケツを掘ろうと必死に迫ってきたよ……。
開き直って交換条件を出したらOKしてくれた。
クソーこうなったらとことんコイツを利用して出世してやるしかねぇ。
ヤケクソだ。
なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。
105:人間七七四年
10/06/20 20:49:20 V07fFSYJ
三国志のアニメ(ガンダムの方じゃないよ)を見ていてふと思ったのですが
張飛とかいつも敵の将軍と一騎打ちしていますよね?
日本の戦国時代でも上の方と上の方が一騎打ちをするような燃える展開はあったのでしょうか?
日本の将軍って雑魚に戦わせるだけで
いつも軍配持ってテントみたいなところで座っているイメージなのですが。
106:人間七七四年
10/06/20 21:16:37 wclWi4ve
当然一騎打ちなんてしません。大将が死んだら負けなんだから、大将は死なずに生き残る事が
最大の仕事です。大将が手柄を焦って前に出て、討ち取られた日には笑い者です。
三国志の方だって一騎打ちなんてしてるのは大衆娯楽の「演義」だけ。
107:人間七七四年
10/06/20 21:26:24 bXwDEVmF
鎌倉時代とかならやってたんじゃないの?
108:人間七七四年
10/06/20 21:33:11 V07fFSYJ
ありがとうございます。
呂布とかが後方にいるとイメージが変わりますね。
109:人間七七四年
10/06/20 22:20:25 gXBxoiNw
>>107
やってない。鎌倉時代の戦闘の基本は弓兵で相手を取り囲んで遠くからハリネズミにする方法。
110:人間七七四年
10/06/21 04:50:14 nXwdmZ/4
武芸を「弓馬の道」と言ったりな。平家物語には弓の達人の那須与一とか、
源氏が勝ったのは坂東武者が西国武者より馬術で優っていたからなんて話が
出てくるが、剣や槍の達人は出て来ないよね。
111:人間七七四年
10/06/21 12:45:35 s76c9VdC
そもそも槍の発生が南北朝の頃。
ちなみに平安~鎌倉の武士は「弓での近接攻撃」という戦術もよくやってた。
で、刀はそれへの対処として発達していったらしい。
112:人間七七四年
10/06/21 12:53:27 nXwdmZ/4
でも薙刀は出てくるよね。槍の発達と並行して薙刀が廃れるのかな。
113:人間七七四年
10/06/23 12:41:19 DM5U2AVk
wikiだが薙刀事態は廃れてないぞ
URLリンク(ja.wikipedia.org)
114:人間七七四年
10/06/23 13:01:02 mSoLWr18
そのWikiに「やがて槍に取って代わられていった」って書いてあるけど?
115:人間七七四年
10/06/23 13:43:19 DM5U2AVk
>>114
書いてあるな・・・
116:人間七七四年
10/06/23 14:40:40 mSoLWr18
正直な人だ
117:人間七七四年
10/06/23 15:45:09 DM5U2AVk
>>112さんが言われてるのは主戦場から消えた意味だろうから
実際、そうなんだから認めないとね
118:人間七七四年
10/06/23 16:39:18 mSoLWr18
武士が習得すべき武芸十八般は弓術、馬術、水術、薙刀、槍術、剣術、小具足、
棒術、杖術、鎖鎌術、分銅鎖、手裏剣、含針術、十手・鉄扇術、居合抜刀術、
柔術、捕手術、もじり術、しのび(隠形)術、砲術その他だそうだが、大半は
廃れているよね戦場では。
119:人間七七四年
10/06/23 20:53:37 DM5U2AVk
>>118
戯言に付き合ってくれてありがとう
ところで質問スレなのでちょっと質問してみる
薙刀を扱う性別が男性から女性に移ったんだろう?
槍の発達したからって槍衾で相手を叩くんだったら刃があった方がいいはずなんだがな?
現役で使えなかったんだろうか?
120:人間七七四年
10/06/23 21:19:00 t3fP5xJI
>>119
wikipediaの薙刀から引用。
『応仁の乱の頃より戦闘の主流が足軽による集団戦に変わると、”振り回す”形で使う武器は密集した
隊列を組んで行う戦闘において不便であり、やがて槍に取って代わられていった。』
振り回せないから刺突兵器に移行した訳だ。
121:人間七七四年
10/06/23 21:20:24 DjEoIVR/
>>119
「女性も使っていた」ってだけで、女性がその主体だったわけじゃないぞ。>薙刀
あと槍衾のようなことをするには、薙刀は刃が重過ぎる。
122:人間七七四年
10/06/23 21:27:07 DM5U2AVk
>>120-121
ありがと
ちょっと、ググってみたら片刃槍ってのもあるのね
123:人間七七四年
10/06/24 10:47:42 /PguvnW1
そういえば坂本龍馬の免許皆伝ってのは、刀ではなく薙刀のものだったらしいな。
124:人間七七四年
10/06/26 12:10:10 /HueWJJa
ちょっと質問なのですが、「谷口克広」って人は
この板的にどんな評価を受けている人なのでしょうか?
この人の書いた本の信憑性とか正確性ってどんな感じですか?
125:人間七七四年
10/06/26 12:14:35 55XHXEAE
>>124
この板的とか言われても困るが、谷口氏は基本的には、一次資料に真摯にあたる
非常に良心的な研究者の一人だと思うが。
126:人間七七四年
10/06/26 12:23:06 mv6+zRkk
その主張に対しては人それぞれだろうけど、研究者としては誠実な人だと思う。
ただ昔の著作、例えば織田信長家臣人名辞典なんかは、武功夜話が無批判に
取り入れられていたりするので注意。
今はかなり排除されているようだが。
127:人間七七四年
10/06/26 12:47:13 /HueWJJa
>>125-126
ありがとうございました。氏が編集に関わっている2009年発刊の書籍の織田氏の項目で
ちょっと「?」と思う部分があったので、織田氏の研究について、この方は専門なのかな?と思ったので
128:人間七七四年
10/06/26 12:51:53 55XHXEAE
>>127
戦国関係のものは書籍によっては、特に俗書は普通に名前貸しがある世界だし、
「編集」というだけならそんなに深くは関わっていないと考えたほうがいいよ。
129:人間七七四年
10/06/26 13:44:59 /HueWJJa
>>128
どうもです。
読んでたのは戦国人名事典みたいなやつなんですが
各大名ごとに著名な人物が「~編集」とあったのですが
名義貸しとかもあるんですね・・・なるほど参考になりました。
130:人間七七四年
10/06/26 18:13:11 xTkL9C2S
谷口は信長好き過ぎて、筆が滑る時もあるね
131:人間七七四年
10/06/26 18:45:02 55XHXEAE
そういう特定の人物、組織に対する依怙贔屓はどんな研究者にも多かれ少なかれ存在するので、
読者の方にそれを取捨する能力を求められるね。
132:人間七七四年
10/06/27 00:57:13 xqs+kiym
東京から50~200km圏内で、
霊的で風情のある戦国スポットって、どこかありませんか?
133:人間七七四年
10/06/27 10:56:51 mYbQWrB2
>>132
八王子城跡とかじゃね?あとは甲州田野とか
134:人間七七四年
10/06/27 13:44:25 cETv7P+I
>>133
八王子城は霊的というより心霊スポットだけどね
イベントのある日はうじてるくんとかいう謎のキャラクターがお出迎えしてくれるよ
135:人間七七四年
10/06/27 13:58:20 mcNwg04t
落城した城はいくらもあるのに、何で八王子城は心霊スポットになってんでしょ?
136:人間七七四年
10/06/27 14:32:42 FOSTjSa8
>>135
主力が小田原に詰めちゃって、守備が手薄な状態で北陸勢の大軍に囲まれ
見せしめの為に撫で斬りにされたからだって。(実際には結構逃げた人が多かったらしいけど)
城兵が全員玉砕したとか、近隣住民も含めて逃亡・降伏を許さず殲滅戦になった城とかは
その手の話が多いんじゃないだろうか
137:人間七七四年
10/06/27 15:45:34 ipg6QudH
上記の歴史的経緯と共に
東京近郊にあるのでテレビ局で取材されやすく
テレビ番組によって心霊スポットとして有名になってしまった
138:仙台藩百姓
10/06/27 15:48:52 ACe2tzPK
どう考えても理屈に合わないお( ^ω^)
こんな事を言い出した人間は相当に頭が悪いお( ^ω^)
139:人間七七四年
10/06/27 15:52:11 H93roS0H
人気武将に縁があるわけでもなし、
人と金を呼ぶには心霊スポットなんて言う
話題でもつけなきゃやってられないからな
140:人間七七四年
10/06/27 16:19:38 NLGsah/M
九戸くん
141:人間七七四年
10/06/27 16:22:29 ipg6QudH
近所の人にとっては
DQNが深夜肝試しに来て迷惑なだけだと思うけど
142:人間七七四年
10/06/27 23:44:40 FOSTjSa8
高橋紹運の没年についてなんですが
通説では39歳って事になってるらしいですが
これの裏付け資料とかって何かあるのでしょうか?
最近読んだ本で「享年は39歳とされるが一次資料などの裏付けは無い」とあったので
143:人間七七四年
10/06/29 21:05:09 ZJyW6RSB
真田家の六文銭についての質問。
六文銭は、星座のスバルに由来しているという説を
知ったのですが本当ですか?
144:人間七七四年
10/06/29 21:09:43 g0stDxlz
>>142
じゃあ裏付けのない[通説」なんでしょ
>>143
関係ないと思うよ。
145:人間七七四年
10/06/29 21:24:08 aV5LEAWb
>>144
具体的論拠がないのに
「そうだと思うよ」「違うと思うよ」とか言うだけなら答えるなよカス
146:人間七七四年
10/06/29 21:41:02 g0stDxlz
>>145
具体的に関連をうかがわせる論拠を提出してから言ってね。
147:人間七七四年
10/06/30 00:53:39 b9B9Qjgp
>>143
そんな珍説何処で見つけたの?
148:人間七七四年
10/06/30 07:08:51 WEekfpoS
確かに逆にそっちが聞きたいわなw
星由来なら家紋名も~星となるべきで
六文銭とはならんだろ
149:人間七七四年
10/07/01 09:14:17 W4D4aAfk
>>147 >>148 さん。
星座で波乗りしてて偶然寄港しました。
URLリンク(kimotodental.blog92.fc2.com)
よく読んだら小説のなかの説でした。
お手数掛けました。
150:人間七七四年
10/07/01 10:22:23 yB0Yjulm
そういえば毛利の「一文字三星紋」が、オリオン座から来ているって説はどこから出てきたんだ?
よく聞く説だが出典が全然解らない。
151:人間七七四年
10/07/01 10:28:09 pwUFo7lk
>>149
しかも何、去年の大河「天地人」の火坂雅志じゃん。
大河の出来の悪さは脚本の責任かもしれないけど。
152:人間七七四年
10/07/01 11:23:54 qQq1bi7R
>>150
URLリンク(kirisai.hp.infoseek.co.jp)
これかな?
153:人間七七四年
10/07/01 13:57:31 mGLEX1Yz
戦国時代の武将の嫁さんとか本名不明の人が時々いますが(元就の正妻とか)
何か慣習か決まり事のようなのがあってわざと名前を残さないようにしてたと聞きました
具体的にはどういう理由だったのでしょうか
154:人間七七四年
10/07/01 14:37:55 qCGx5R1J
古代から「女性の名前はむやみに人に教えるものではない」という
風習があったというだけの話。
155:人間七七四年
10/07/01 15:28:20 mGLEX1Yz
>>154
ありがとう
そういうもんだと理解しておきます
156:人間七七四年
10/07/01 16:03:46 bOrNdB4U
んじゃ、名前が残ってる姫はどういう具合で残ったんだ?
後付け?
157:人間七七四年
10/07/01 16:20:52 iy54kEc+
>>153
ときどきっつーか基本、本名わかってない
渾名や通り名くらいで
知られているほうが稀だよな
それなり名の知られている武将の妻とか
名前どころか、どこの家の人か判らんとかザラだし
158:人間七七四年
10/07/01 16:42:00 R6xm9ygt
事件に巻き込まれれば記録として残るかもしんないくらい
159:人間七七四年
10/07/01 17:38:07 qCGx5R1J
つか日本で女性の名前が表沙汰にされたのは明治の戸籍制度以後だろう?
江戸時代の寺の過去帳を見ても、女性は「吾兵衛妻」とか「定吉母」としか
書いてない。もっとも明治以前にも女性の名前がわかる時代がある。それは
奈良時代だ。公地公民制で戸籍が作成されたからな。奈良時代の戸籍を見ると
女性の名前はクマとかハチとか鍋とか釜とか、森羅万象あらゆるものの名前を
付けていた。しかし平安時代に入る頃に律令制は崩壊し戸籍も作られなくなった。
それ以後明治まで女性の名前の付け方は謎になった訳だ。
160:人間七七四年
10/07/01 21:26:07 yB0Yjulm
つーか、戦国時代は日本の歴史上女性の名前が最も記録されなかった時代。
記録者にとってそれを記録するほどの価値を感じられなかった、ということだ。
ごく一部を除いてその程度の地位だったんだよ、戦国期の女性は。
161:人間七七四年
10/07/01 21:27:18 yB0Yjulm
>>159
どこでそんなおかしな知識を得たのか知らんが、江戸期の戸籍というべき
宗門帳に全部出てるぞ女性の名前。
162:人間七七四年
10/07/02 07:00:56 6+vbLAxQ
痛い子やのう
163:人間七七四年
10/07/02 22:55:14 YwzqnMZy
だから小説とかでは姫の名前がパクりパクられるのか。
大河ドラマ『武田信玄』以降、諏訪御領人が湖衣と表記されるの見かけるしね。
164:仙台藩百姓
10/07/04 10:49:38 tRw107jf
武士ですら諱が曖昧な記録しかない場合が多々あるのだから不思議な事ではないお( ^ω^)
戸籍なんてないのだから何かしら必要がない限り記録に残らないのは当然だお( ^ω^)
165:人間七七四年
10/07/04 11:41:38 AydsjArK
おまいらみたいな雑魚の名前が歴史に残らんのと同じだなw
166:人間七七四年
10/07/04 12:46:07 7evvJKP2
^^
167:人間七七四年
10/07/04 21:08:55 Kk7TwDej
「犯罪史」ってカテゴリなら名前を残すのは簡単かもしれんがなw
168:人間七七四年
10/07/06 12:58:47 u1xGF46o
幻に終わった織田信長の四国征伐軍の編成についての質問です。
先鋒が三好康長で、大将が織田信孝というのは1次史料で確認できますが、大身の寄騎
として、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の3名の名前を概説書でよく目にします。
この3名が信孝に従軍予定したことは1次史料で証明できないと思うのですが、何を根拠に
この3名の名前が挙げられているのでしょうか?
169:人間七七四年
10/07/06 16:32:20 FQ1P4KP8
丹羽家譜
170:人間七七四年
10/07/06 16:46:55 Qj8iDyy/
必見そうか自民日本壊滅テロ組織の悪行を知って下さい。
↓のレス内にて「そうか」で検索お願いします。
● レス禁止 吐き捨てスレ 19 ●
スレリンク(ms板)
171:仙台藩百姓
10/07/06 17:04:55 uw/tIlgd
軍記類(明智、細川)や日記類(宗及、イエズス会)
それに変後の禁制や書状から丹羽らが信孝と行動を共にしていた事は間違いないから
そういう話しになったんじゃないかお( ^ω^)
172:人間七七四年
10/07/10 01:41:40 Espha1rV
合戦前に代表が問答すると言う話を聞いたのですが、何か礼儀的なことですか?
またどういった問答をしたのか記録とかがあれば知りたいのですが。
どこか詳しいサイトなり本なりあるでしょうか。
お願いします。
173:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 21:10:09 LDyiy/VR
戦国時代の公共事業、おもに土建関係について興味を持ったので質問します。
検索すると武田信玄の信玄堤・棒道や鉱山開発ばかりヒットしますが、
これらは信虎の代から行われているものが誇張されているので参考にできません。
江戸時代になると普請で各地に干拓や街道整備が活発になっているようですが
戦国時代の間に築城以外で農地開発や治水や街道整備など行われた事例は
どのようなものがあるのでしょうか?
また、少し前の室町前期に大内弘世が京都を模した町づくりを行っているようですが
この時の土木事業の規模は町割りをした程度なのか、
それともかつての平安京のように本格的に河川を整備したのでしょうか?
174:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 21:22:35 e0HS1ZYI
>>173
記録がないのでよく解らない、としか言い用がない。
北條や武田などで、治水も含めた干拓事業などが行われていたらしい伝承はあるが、
史料として残っているわけではない。
ちなみにこの時代街道整備は周辺住民の軍役、使役の一つとして義務化されていた。
まあ何はともあれその手の公共事業が本格的に行われるようになったのは
江戸期に入ってからだろうね。
175:人間七七四年
10/07/13 12:21:17 RCCij7cR
>>172
源平合戦のころは、細かい儀式的なものがあった、
・各使者同士で合戦の場所日時を決める。
・それぞれの陣から一騎が出て口上を述べる。
・口上は最後まで聞かなければならない。
・一騎打ちが終わったら矢を放つことから戦を始める。
・白兵戦になっても武者が口上を始めたら聞かなければならない。
・退却を追い討ちしてはならない。
等々だが、元寇以来次第に無くなっていく。
戦国では城攻めの際に降伏条件の話し合いはあった、
野戦では相手を挑発する行為くらいしかなかった・・・と
176:人間七七四年
10/07/13 12:32:21 rdLzAceW
>>175
源平合戦より前の保元の乱で源義朝が夜討ちを進言してるのはどういう訳よ?
『ただし奇襲戦はこの限りではない』ってこと?
177:人間七七四年
10/07/13 20:08:39 yRyntpwr
城郭を建てる際に、居住区でない建物に人名がついている場合(たとえば伊衛門矢倉とか)って、基本的に建造責任者の名前でいいかな?
それと、鬼門封じに銃弾ぶち込むのって普通なの?
178:人間七七四年
10/07/13 20:11:43 3jGFqAC9
>>176
>>175に書いてあるようなのは源平の頃でもごく一部の例外的な戦の場合のみで、
通常、合戦において口上とか一騎打ちとか戦の順番とかは存在しなかった。
179:人間七七四年
10/07/13 23:19:13 c6bgt8ON
>>177
守備時の責任者だと思うけど
180:人間七七四年
10/07/14 12:12:13 HqahJhd0
>>175>>176>>178
「矢合わせ」という言葉が開戦を意味することとして今に残っている。
戦の儀式進め方は、その戦さが「乱の平定戦」か「お互いの意地のぶつかり合い」かで違った。
前者の場合は夜襲、奇襲はアリだが後者の場合はなかったようだ。
義経の「鵯越」なんかは奇襲で勝ったが、当時の義経に対する武士達の評価は???だね。
江戸時代以降、軍略の天才、悲劇のヒーローに祭り上げられてはいるが、勝つためには何でもアリの危険人物とされたんじゃないか?
181:人間七七四年
10/07/14 12:25:56 tlJf5afE
>>180
お互いの距離がまだ接近しない間、遠距離兵器である矢で戦が始まるのは当然のことで、
それは儀式でも何でもない。
戦国期も矢合わせ、後期には鉄砲の打ち合いから合戦は始まった。
ついでに言うと義経が軍略の天才とされたのは、江戸期ではなく、鎌倉後期に既にそうなっている。
南北朝から室町にかけては、義経は前漢の高祖を助けた軍師、張良の生まれ変わりであったとされ
信仰の対象にすらなっていた。
源平期においても、名乗りや儀式などがあったのは、そう言う政治的、もしくは個人的
パフォーマンスが必要だったごくごく例外的な状況においてのみ。例外的だからこそ記録された。
182:人間七七四年
10/07/14 14:18:35 syLYjtlp
>>180
保元の乱における源義朝は生き馬の目を抜く関東で経験を積んだ武者として夜討ちを進言している。
しかし「天皇の軍勢は奇襲なんてしないで正面から戦うものだ」として却下されている。義朝が「甘いなぁ、
正義は勝った方に有るんだぜ」と思っていると逆に敵が奇襲をかけてくる。
お説と逆の様ですが?
183:人間七七四年
10/07/14 22:40:44 3n0E/54/
>>182
上皇方の鎮西八郎為朝が夜討を進言したところ、悪左府こと藤原頼長が却下。
そうこうしてるうちに、義朝が夜討をかけてきて・・・という流れじゃなかったっけ?
184:人間七七四年
10/07/15 00:54:50 rmmOO+na
>>183
あら!?その通りです。お恥ずかしい・・・。
185:人間七七四年
10/07/15 16:18:24 qwej1Opl
刀は目釘固定じゃなく、フルタングナイフのように中子を(もう少し長くして)グリップ素材で挟む構造ではいけないのでしょうか?
ねじがない時代だと固定してしまうと外せなくなり、湿気の多い日本には不適…というような事も考えましたが。
恩賞としての価値があるような刀ならともかく、数打ちの実用品はそんな感じでもよかったんじゃないかと思います。
あるいは単純に革巻きとか。
186:人間七七四年
10/07/15 18:40:38 ZcDtTMh9
>>185
あの方法がベストだから後世までこれで残った。以上。
187:人間七七四年
10/07/16 22:05:18 8dtTXIdx
群書類従に信長が岐阜と名付けたのは嘘で昔から岐阜という地名はあった
というようなことが書いてあったのですが本当でしょうか?
188:人間七七四年
10/07/16 22:33:30 Gx/9XZvj
>>187
本当ですよ。
189:人間七七四年
10/07/17 03:31:52 DuIkVqSD
今川家の将、福島正成が上条河原合戦で荻原常陸介に討たれたというのは本当ですか?
190:人間七七四年
10/07/17 03:35:34 JzzgTHR6
>>183
頼長は軍隊で威圧行為を行った後に政治的駆け引きをやる予定で本気で開戦する気がなかったのでは? という見方もあった筈。
191:人間七七四年
10/07/19 15:57:44 lxOzsayr
荻原昌勝は指揮をとっていたが、直接大将同士の戦いなんてのはない。
武田の圧勝の戦いだからなおさらありえない。
192:人間七七四年
10/07/21 07:25:32 r0N7OK8K
真田信之は無敗の将らしいですが、本当のことですか?
193:人間七七四年
10/07/21 21:18:25 wPoOObNn
まともに関わった戦が上田合戦、小田原役、関ヶ原だけだしな。
194:人間七七四年
10/07/25 10:15:44 FGCJEsf7
>>192
お前も生涯無敗だろ?
195:人間七七四年
10/07/25 23:23:11 lu+CidN5
武家の娘は、12~15歳くらいで嫁ぐのが一般的で、20歳の独身女は行き遅れ。
というイメージがあるわけですけど、これは庶民についても同様だったのでしょうか?
196:仙台藩百姓
10/07/26 08:50:14 UGg+TLtZ
少なくとも正室で15歳以下の輿入れはレアケースではないかお( ^ω^)
著名な大名の例で見ると17~20歳ぐらいが多いお
10歳にも満たない場合の婚約や婚姻もあるけれど実際の輿入れは一定年齢に達してからだお( ^ω^)
庶民については資料がないから不明としかいいようがないお( ^ω^)
197:人間七七四年
10/07/26 11:54:22 lLZwP5Mi
江戸期になると徐々に晩婚化の傾向が見られる。
あと、初婚が若くても離婚も多く、20代、30代での結婚も珍しくなかった。
これは戦国期もそんなには変わらなかったと推測できる。
戦国期の著名な大名の結婚といえば、武田信玄の最初の結婚は12歳の時で、
相手の上杉朝興娘の年齢はわからないが、おそらくは同年代だったと考えられる。
しかもその年のうちに妊娠させている(出産の再母子ともに死亡)
198:人間七七四年
10/07/26 19:04:35 PwdS9sS7
レアか?
信長の嫁13歳
秀吉の嫁14歳
家康の嫁15歳
政宗の嫁12歳
利家の嫁12歳
秀頼の嫁7歳
秀忠の嫁6歳
八丈島の嫁15歳
199:人間七七四年
10/07/26 20:03:17 lLZwP5Mi
>>198
子供まで産ませたのは信玄と利家くらいだろ
200:人間七七四年
10/07/26 20:41:13 PwdS9sS7
正室として嫁いだ年齢の話してんのに孕む孕まないは関係ないんだが
201:人間七七四年
10/07/28 05:50:09 FsU3KuGM
利家とまつってひとまわり以上離れてるんだっけか
202:人間七七四年
10/07/28 12:50:41 nApKwByj
信玄の場合、嫁ではなく信玄の方に、12歳で性衝動があったことの方がすごいな。
203:人間七七四年
10/07/28 16:17:22 e8FcrV3d
質問です
戦国時代に双子の大名とか武将はいなかったのでしょうか?
それとも間引かれたり双子とかまれだったのでしょうか?
204:人間七七四年
10/07/28 17:14:05 zbj3iDE5
あくまでも予想の域を出ないが
家康と恵最・・正室の子と側室の子で同日生まれとされているが、双子だったと言われている。
結城秀康と永見貞愛は信憑性が高い。
205:人間七七四年
10/07/28 17:15:22 rMPjYouh
918 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 21:59:36 ID:ty0ZkTvA
双子の記録って全く見ないんですが
双子だった・双子の可能性のある戦国時代の人物って記録ないのでしょうか?
919 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 22:11:01 ID:3mPlvQ20
>>918
戦国期双子は畜生腹として忌まれ、双子の片割れは殺されたり里子に出されたりした。
有名なところだと結城秀康(徳川家康次男)と、永見貞愛(知立神社神職)が双子であった、
と言う説があるらしい。実際はわからないが。
920 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 22:11:52 ID:OoqArQxs
徳川家康が竹千代と二郎三郎の双子説じゃないかな一応
923 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 23:47:15 ID:7DCPS+c3
宇喜多忠家と春家は同一人物説と双子説あった気がする
924 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2010/05/19(水) 23:56:51 ID:c+kfAEYE
真田んとこも双子説あった気がする
206:人間七七四年
10/07/28 20:59:03 e8FcrV3d
>>204
>>205
ありがとうございます!
説が多種で実在というのは難しいのですね
歴史の教師がはぐらかしているのに
ここは本当に凄いですね
高校の自由研究にしようと思いましたが
ちょっと断念します
ありがとうございました
207:人間七七四年
10/07/30 18:20:50 QNDzHghx
関ヶ原の時に山形城に対上杉に備えて
東北諸勢力が収集されているのですが、その中に「小笠原勝俊」という人がいて
兵を500程率いているんですが、この人は誰なんでしょう?検索しても全然ヒットしなかったので
よろしくお願いします。
208:人間七七四年
10/07/30 19:06:21 eO+sp0dZ
>>207
推測だが、あの地域で東軍方で、小笠原って言うことは、
出羽戸田氏の家臣で小笠原庶流を名乗っていた樽崎氏の縁者ではないだろうか?
209:人間七七四年
10/07/30 19:08:03 eO+sp0dZ
間違えた
×樽崎氏
○楢岡氏
210:人間七七四年
10/07/30 19:50:49 1LZjGkqh
>>207
津軽家の重臣に小笠原信浄って人物が居るけど、その家系の人かもしれない
その息子の名前を検索してもHITしないのが気になるが…
211:人間七七四年
10/07/30 20:38:44 QNDzHghx
>>208-210
ありがとう。>>208の線で調べてみます
212:人間七七四年
10/07/31 03:19:44 TB5E0ErK
戦国時代に行われた僭称についてですが
土地の実効支配者も、僭称者を役職名通りに呼ぶんでしょうか
仮に現地支配者の伊東義祐が明智光秀を論う場合でも「明智日向守」と?
213:人間七七四年
10/07/31 13:06:12 tmKB7t2n
>>212
光秀の日向守は僭称じゃないし。
つーか君は先ず、官位というものをきちんと勉強したほうがいいと思うぞ?
日本全国どこであっても誰が相手であっても、日向守は日向守だ。
214:仙台藩百姓
10/07/31 16:25:12 Y2SoGSyF
いやいや、明智の例えが悪かっただけで良い質問ではないかお( ^ω^)
例えば上総介を自称していた織田信長に対して、上総を実効支配していた里見氏などが書状を送る場合
織田上総介殿と書くのだろうかと言う事だおね( ^ω^)
まあ、当時織田氏と里見氏などは接触がなかったからお互いどうでもよかったろうけど
小田原北条氏なんかが上総介を自称したら洒落にならないお( ^ω^)
実際、各勢力が実効支配又は侵略を目論む場合
その地の国司系官位の争奪に躍起になっていたのは事実だお( ^ω^)
つまり大義を官位に求めていたのは間違いなく
敵対勢力などは僭称された官位をわざわざ呼んであげる事は有り得ないはずだお( ^ω^)
漏れの地方では大名の僭称があまりないから詳しくないけど
実例などを挙げてみると面白いと思うお( ^ω^)
215:人間七七四年
10/07/31 17:16:59 16amabj/
百姓が言わなければ似たような返答を書こうかと思っていたわ。
自分たちも各地方の受領名を使ってるんだから、よその武士が何を名乗ろうが、
ある程度は許容するのが常識。
216:人間七七四年
10/07/31 21:06:15 JOGD4KBH
大内が少弐に対抗するため太宰少弐をわざわざ朝廷からもらったな
僭称は…挙げたらきりがないな
217:人間七七四年
10/07/31 21:20:17 yn7PZPNi
大内氏は受領名ではなく家臣団にも正式な官位を授けていたと聞きます。
長門守護代の内藤興盛は従五位下、下野守を賜っていますが
この場合、代々下野守を世襲していた宇都宮尚綱は官職を去るのでしょうか?
218:人間七七四年
10/07/31 21:57:27 SsjWq97G
昔は一生懸命ではなく一所懸命と言って一つのこと一つの場所に根ざして頑張ったそうですが
それにもかかわらず戦国時代から江戸時代初期にかけて、一代で最も転封を繰り返した大名って誰ですか?
江戸時代の大名家では前橋松平家が有名ですが・・・
219:人間七七四年
10/07/31 23:38:00 yn7PZPNi
中位の位階で中位の官職の足利義晴と高位の位階で低位の官職の大内義隆
朝廷での序列はどちらが上だったのでしょうか?
足利義晴
位階・・従三位
官職・・権大納言(正三位相当)、右近衛大将(従三位相当)
備考:信長の野望天道では1546年時点で義輝が大名になっており存在抹消。
大内義隆
位階・・従二位(1546年時点は正三位)
官職・・兵部卿(正四位下相当)、大宰大弐(従四位下相当)、侍従(従五位下相当)
備考:信長の野望天道では兵部卿(ゲーム内では一つ下の従四位上扱い)のみで兼任していない。
よってゲーム内では参議(正四位下)の北畠晴具、足利義輝より低い扱い。
220:人間七七四年
10/08/01 14:30:35 wKQ3wo6b
大名がわりと簡単に家臣や他大名の子女を養子にするのは何故?
たとえば「○○と繋がりを持ちたいが適当な女子がいない」は理解できるが、
上杉謙信の「女を紹介しよう。子供のほうはオレが引き取っておく」は理解できん。
すでに景虎、景勝が成人していたとはいえ(手取川直後くらい)担がれて謀反をおこされる危険は?
江戸時代になっても将軍の養子は多いし人質兼箔付けなのか?
221:人間七七四年
10/08/03 17:56:21 tW2Uv+44
その子供を他の家臣の家に押し込む時用の箔付けじゃね?
どっかの家臣の子供を貰ったというより、主君の養子を貰ったという方が
断りづらいし、大事にもされるだろ。
謙信は自分に子供がいないせいか、ある程度以上の家の子なら
片っ端から養子にしてるから、ちょっと特殊だとも思うが。
222:人間七七四年
10/08/04 00:46:55 Tj4nGPVp
戸次川の合戦にて
仙石秀久の無謀な作戦に対し、長宗我部親子、十河存保は反対したそうですが
別の資料で十河は仙石に加担してるって記述があるらしいんです。
どちらが本当なのでしょうか?
十河は軍略もあり、無謀な作戦に賛成するような人物ではないと見ているのですが…
223:人間七七四年
10/08/04 11:39:30 BiqNctoQ
その資料の質、信憑度から判断するしか無いわな
224:人間七七四年
10/08/05 15:56:30 V0S+F5gp
どなたか、鬼庭綱元の
「朝鮮出兵の時、独自の平坦ルートを確保したため、伊達勢に餓死者が出なかった」
という逸話の出典をご存知ありませんか?
何処かで目にして凄く印象的だったのですが、出典がわからないので信用していいものか悩んでいます
また、何処で読んだかもわからないので参考文献をあたることも出来ず、困っています
ご存知の方がいらっしゃいましたら、どうぞよろしくお願いいたします
225:人間七七四年
10/08/05 17:10:45 1okJifNm
>>224
綱元の話ではないが、政宗が朝鮮から義姫宛に送った手紙に
そんな内容の事を自慢していたような…
自分もうろ覚えですまん
洋泉社MC新書から「伊達政宗の手紙」という本が出ているので
当たってみるといいかも知んない
226:人間七七四年
10/08/05 17:15:48 JVLKRBBw
人を攫う→調理する→うまぁ
だな
227:人間七七四年
10/08/05 18:04:04 Q4AQNEZb
これか
母保春院宛 文禄2年7月24日伊達政宗書簡より
『又、上様より御扶持方下され候へ共、高麗にて御兵糧かつかつつき申し候を存じ候間、
いろいろの方便にて、今日までは一粒も申し受けず相つづき候。存じより候へば、なるものかと見え
申し候。かくは仕り候へ共、万々御すもじなされべく候。細かに申されず候。』
訳
「それから、上様(秀吉)から兵糧の援助を言ってくれたのですが、高麗において日本軍はどこも、
兵糧がかつかつの状況であることを知っておりますゆえ、いろいろと理由をつけて断り、
今日まで一粒ももらってはおりません。その気になれば何とか成るものです。
そうは言っても、どうか私の心中をお察しください。詳細に説明することは出来ません。」
228:224 鬼庭綱元朝鮮出兵時の兵站
10/08/05 20:02:03 V0S+F5gp
>>225さん、>>227さん、御二方とも早速の情報提供をありがとうございます
「伊達政宗の手紙」は所持していたのであたってみましたが、
朝鮮出兵に関する書簡は>>227さんがあげてくださったもののみのようです
この書簡ではこの時点で餓死者が出ていないということは推測できますが、
当時の兵站担当者が誰なのかがわからないので、私が探している情報とは少々ずれてしまっています
ちなみに同書で鬼庭綱元に関して書かれた部分がございましたが、
主に仙台に移ってからの内政についての記述で、兵站に関わるものではありませんでした
なので、引き続きご存知の方がいらっしゃいましたらどうぞよろしくお願いいたします
229:人間七七四年
10/08/08 00:35:56 ovMHGfbE
軍事版から誘導されてきました。
今小説を書いているのですが困っています。
ご教授願えないでしょうか?
戦国時代を想定しています。私の質問で不足部分は戦国時代の一般的なものだと考えていただけると嬉しいです。
本能寺の変で信長を救出させたいです。
こちらの兵は500人を想定しています。
京に500人の兵力を行軍ではなく、潜伏させて送り込むことは可能なのでしょうか?
可能でないなら、最大どれぐらいまでの兵力なら送り込めるのでしょうか?
明智光秀は大体1万程度の軍勢を率いています。
さらにその1万を2部隊に分けました。
1つは三千、1つは千です。そして光秀率いる主力部隊が6千います。
市街地戦で信長救出までの時間を稼ぐことは五百の兵力でできるでしょうか?
できれば、できると答えていただき、それに必要とする作戦をお教え願えないでしょうか?
ある程度ご都合主義で結構です
お願いします
230:人間七七四年
10/08/08 03:14:00 sEP7UHGD
>>229
とっさの知恵で馬借など民間の武装勢力を利用してはいかがでしょう?陸運では山賊対策として武装していましたし。
また、不足戦力は懇意の寺院からかき集めたことにしてもう少し補えるかもしれません。
長州藩の大村益次郎は長州征伐の石州口において
圧倒的兵力差にもかかわらず浜田城攻防戦で幕府軍を撃破しています。
城壁の上からクロスファイアするなど軽装兵の機動力を生かして寡兵で
重装の大軍を包囲する見事な戦術は市街戦の参考になるかと思います。
もちろん大村益次郎を取り扱った司馬遼太郎の花神はかなり創作入っていますが参考になります。
231:人間七七四年
10/08/08 11:58:53 ovMHGfbE
>>230
ありがとうございます
馬借ですか、全く考えていませんでした。
ぜひ使わせていただきます。
各個撃破に、3方向からの一斉射撃、すばらしい作戦ですね。
これもいただきます。
たいへん役に立つアドバイスありがとうございました
232:人間七七四年
10/08/08 17:05:47 jBpz1bPB
>>229
京に兵の潜伏は無理でしょうな。500の兵を集めるなら京周辺の惣村の一揆が駆けつける、
と言うのがリアルといえばリアルかも。信長は朝倉や義昭との戦いの中で京洛周辺の
惣村一揆を、年貢放免などを条件に味方につけたりしているので、その筋で上手くつながりを
作れそう。
ちなみに当時京の市民からは、信長は猛烈に恐れられていたが、同時に猛烈に嫌われてもいました。
本能寺の時点では京の市民も信長の敵だったと考えていいでしょう。
233:人間七七四年
10/08/08 17:48:48 HKyTkyax
普通にばらばらに滞在してた馬廻り達じゃ駄目なの?
信忠と合流できてたらとか
234:人間七七四年
10/08/08 18:05:23 jBpz1bPB
>>233
バラバラじゃ突破力にならない。明智の兵に多少なりとも対向するためなら
最初からある程度の数を揃えた組織的な軍事力じゃないと。
235:人間七七四年
10/08/08 18:14:08 ceKcZRmu
まず、どの時点で信長を逃がすかだろ。本能寺完全包囲以降ならそれこそ大軍が必要だし
包囲前なら信長の身代わりになれる程度の人数でいいし
光秀が洛中に入る前なら信長が信用しうる伝令一人で十分だ
潜伏は織田と無関係な勢力の完全装備の兵だとしたら無理だが
たとえば光秀に気がついた家康が中国戦線への押しかけ援軍を口実に京に兵を置いていた
みたいな設定にすればそれほど不自然ではない
まぁ散在していた馬廻りを史実より早く集結できていたってのが手っとり早いような
つか創作スレってないのか
236:人間七七四年
10/08/08 20:33:50 ovMHGfbE
>>232
ありがとうございます。
やっぱり無理ですか。惣村ですか。リアルではあるけど小説の主人公がそれでは面白くないきもしますね
京の市民から嫌われていたのなら、惣村から徴収も大変でしょうし
>>233
返答ありがとうございます
馬廻りにある程度顔が利けないといけませんので後付けで申し訳ありませんが無理のようです
>>235
包囲前で信長の身代わりになるのがよさそうですね
花があるので楽しんで書けそうです
スレ違いですかね、スレ違いでしたら申し訳ありません
皆さん親切にありがとうございます。ここでの答えを参考にさせていただきます。
だいぶ妄想が固まってきました
237:人間七七四年
10/08/12 17:08:38 /W2SlNvU
>>1
テンプレートへ追加してください。
Category:戦国時代 (日本)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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日本の戦国時代に関するカテゴリ。
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238:人間七七四年
10/08/17 03:32:18 jx1ipIg8
戦国時代の手柄について3点ほど教えてください。
1
ある合戦で十人討ち取って云々という猛将武将の逸話がありますが
十人を討ち取るようなら負傷させた敵兵はその何倍もいることになりありえない戦果になってしまいます。
これはその武将の戦闘ユニット全員で挙げた手柄、
つまり下っ端が敵兵を討ち取った首を隊長の手柄としてカウントしているのでしょうか?
2
敵兵を負傷させたのは確認する証拠が残りませんがこういったものも手柄に入るのでしょうか?
3
首を回収するのは時間がかかり戦闘中に行うと隙ができて危険です。
特に敵を追撃している最中だと倒した敵の首など取っている暇はありません。
だからといって後回しにすると関係ない他人に手柄の証拠を横取りされてしまいます。
首の回収はどのように行われていたのでしょうか?
239:人間七七四年
10/08/17 14:06:08 P8pSt1Ph
2
一番槍、二番槍なら手柄。
単に負傷させたというだけなら、負わせた傷が重症か軽症かは
戦闘の真っ只中にいる当人には解らない訳で、
(戦争というのは双方の資料を突き合わせて知ることが出来る後世の人間の方が詳しい)
賞することは不可能。
手柄=首と思われがちだけど、最高の手柄は一番槍だよ。
首ってのは相手が敗走し始めて初めて獲れるものだから。
一番槍は物証が残らないので、各部隊には軍監とか目付とか大名から派遣された査定係がいる。
手柄を上げたい侍はそのために派手な兜を被った。
3
そのために従者や同僚がいて周囲を守ったり、首を運んだりしてる。
組討で相手の首を獲ろうとしたら、相手の同僚に突き殺されたなんて話もある。
首ってのはただ持っていけば手柄になるんじゃなくて、
どういう状況でどう討ち取ったのか大将に説明する必要があるし、
場合によっては証人も出して初めて手柄になる。
証人もいない拾い首は何の手柄にもならない。
とはいえURLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
みたいな話もあるので、やはり横取りは横行していたようだ。
240:人間七七四年
10/08/17 20:37:32 SSznzkq0
>>238
それじゃ1に関して
「武士の手柄」というのは、当然その武士が引き連れた、数名方十数名の
先頭ユニットによる手柄です。
10人討ち取って云々というのも当然、その戦闘ユニットによってあげられた戦果です。
武士の手柄とは全て、そういうものです。
241:人間七七四年
10/08/18 10:19:41 h0vqFAAh
戦国武将の書状の原文をそのまま載せている本などがあるので
それを自分なりに訳してみたいのですが、
漢字だけで書かれた漢文は漢文辞典、
平仮名混じりの文は古語辞典を使うという解釈でいいのでしょうか
242:人間七七四年
10/08/18 10:55:24 sPLJLF2C
>>239-240
くわしいご回答ありがとうございました。
手柄を立てるには戦果が一番かと思っていましたが一番槍が最も名誉とは。
目立つ姿にもそういう理由があったとは納得です。
そしてやはりあの数十人というのはユニットごとの戦果でしたか。
戦場で活躍する武将は個人の武勇の高さだけでなく、日頃の部隊の鍛錬などの準備、
多くの首の確保する部隊の指揮の上手さも必要なようですね。
宮本武蔵のように個人戦で強くても集団戦ではあまり目立てなかった理由が
なんとなくわかりました。
243:人間七七四年
10/08/18 14:38:28 LiUAICQ0
URLリンク(rocky96.blog10.fc2.com)
上記のサイトのように、信長は兵農分離をして傭兵を雇ったといわれますが、それを裏付ける一級史料は存在しますか?
その他の有力大名で傭兵(常備兵)の話はほとんど聞きませんので(雑賀衆など特別なものを除いて)
織田家が「傭兵を雇って常備兵とした」と、ここまで特出して語られる現状において
何らかしらの明確な根拠があるはずなのですが、まったく探し当てることが出来ません。
居城を移せた→武士と土地(農業)が切り離されていた→これは兵農分離→
つまり常備兵がいた→証拠に農繁期も出陣してる→他大名も出陣してるって?→
織田家はお金で雇った傭兵、次男三男の動員は兵農一致なので兵農分離されていると言えない→
尾張は商業地区なので莫大な利益があった、他の大名は資金がなかったので傭兵が雇えなかった→
青苧、鉱山、勘合貿易?資金があっても尾張のような人口がなければ雇うのは不可能→
他の大名家が傭兵をやとって兵農分離したとの話は聞かないので人口が足りなかったに違いない→
つまり兵農未分離→だから農繁期には動員できない→
結果、農繁期にも出陣できた信長だけが勢力を大きく伸ばせた→つまり織田家は兵農分離されていた。
しかも信長は楽市楽座の利益が莫大!
楽市楽座はそんなに儲かるんだから、信長は楽地楽座を沢山したに間違いない
(つまり実施割合や相対的な利益を調べたり言及する必要性は感じない キリッ)→
信長がそんなに率先して行った楽市楽座はざぞ儲かったに違いない→
天才で革新的な信長公だからできた発想、他の大名は楽市楽座の発想が無かったに違いない→
楽市楽座は天才にして革新的であられる信長公の発想じゃない?→しかし鉄砲3段撃ち、鉄鋼船、桶狭間の奇襲、
三間半の長槍、兵農分離、政教分離あらゆる事象が信長公の天才的な発想を裏付けている!
まさに当時から第六天魔王と恐れられた世界的に類を見ない稀代の英雄にして天才!!!
しかし傭兵はすぐ逃げるので弱い→織田軍は弱いに違いない→織田軍は尾張兵だけで構成されていると思う→
つまり尾張兵は弱い→なぜなら尾張兵は商業地区出身だから弱い→つまり田舎の三河兵は強い→
司馬先生が書くくらいだからそれなりの根拠があるはず→同じく田舎な越後、甲斐、薩摩、土佐の兵質は強い→
他の地域も大概田舎だが、大大名が生まれていないので考慮や言及の必要性は感じないキリッ
兵が弱いと数を揃えるしかなかった→数に頼るのは弱虫→
弱虫の外交は土下座外交→つまり信玄公の最強騎馬軍団や義将の軍神謙信公を強烈なまでに恐れていた→
あの信長が恐れるほどの謙信公、まともにぶつかれば織田家などひとたまりも無いに違いない→
しかじ謙信公は私利私欲に走らず義に生きたため信長は運がよかった→
その軍神謙信さえいなければ、謙信と対等に渡り合った信玄公の最強騎馬軍団が天下を統一できたに違いない→
証拠に当時から武田軍は戦国最強と謳われていた→しかし病死したので信玄公は運が無かった→信長は運がいい→
しかし光秀に謀反される→それは自業自得
全体的にこんな感じで
死体のそばに謎の封書→書いてある事が難解だけど遺書っぽい→遺書だとすると自殺と断定できる→
つまり自殺らしい→本当に自殺なの?→遺書があったから自殺で間違いない→本当に遺書なの?→
実際に自殺してるし確実→本当に遺(ry みたいな堂々巡りしてる感があります。
実際に農繁期における他家と織田家の、余剰労働力と思われる兵数割合と相対的な比較。
例えば長尾上杉家だと農繁期の動員は何月が多く、農閑期の何%の兵数なのか?
それに比べ織田家は時期に関わらず一定数を安定して動員できていた、みたいな数値を、
または当時(16世紀)の書状など一級史料の記述を根拠とした考察を行っているサイトはありませんか?
244:人間七七四年
10/08/18 16:29:45 fV80YbK2
>>243
信長が兵農分離をやったという証拠は一切ない。
と言うか信長は、城下への旗本の集中という、ごく初期的な集権政策すら
その晩年になってようやく行った程度。
信長の軍制は近世基準で見ると相当遅れている。室町守護大名と大差ない。
傭兵的足軽集団に関しては畿内の合戦に置いて、それこそ応仁の乱の頃から存在しているので、
畿内で戦っている以上信長もそれを使っただけのこと。
特別でも新しいわけでもない。
と言うか、信長、秀吉の時代は兵農分離というよりむしろ、兵濃一致が
進んだ時代だと考えたほうがいい。
例えばこの時代傭兵雇って兵だけ揃えても、農村から軍役で集めた軍夫がいなければ
軍隊なんて一歩も動けない。
兵農分離は江戸期に入って、軍夫まで含めて城下町で一括して用意できるようになって、
ようやく成立した状態だよ。
あと信長は現状維持の政治家で、既に楽市に成っていたところはそのままに、
座があるところはそのままに、としている。とても積極的な政策ではない。
> 実際に農繁期における他家と織田家の、余剰労働力と思われる兵数割合と相対的な比較。
> 例えば長尾上杉家だと農繁期の動員は何月が多く、農閑期の何%の兵数なのか?
> それに比べ織田家は時期に関わらず一定数を安定して動員できていた、みたいな数値を、
> または当時(16世紀)の書状など一級史料の記述を根拠とした考察を行っているサイトはありませんか?
そんな都合の良いサイトはない。図書館とか行って自分で調べろ。
245:人間七七四年
10/08/19 07:12:08 e6NaREAh
>>244
長すぎる!
何を持って兵農分離と呼ぶかが、まちまちだったりするのが最大の問題で。
傭兵を雇ったという意味なら
応仁の乱で既に行われているので先進的ではない。
しかし、織田家は港を勢力下に置くことで力を得た大名で
商人からもそれなりに動員をかけていたという話は聞いたことがある。
商人が経済規模に合った人夫を出すとなれば、
必然的に傭兵を雇わざるを得なかったと思われる。
なので、商人に賦役を課した資料があれば、それが一応証拠になると思われる。
246:人間七七四年
10/08/19 07:14:26 e6NaREAh
ただし、信長は傭兵を雇ったから農村から動員しないなんて
バカなマネはしないと思われる。
少しでも兵の数を集めていたことは事実で
ならば、傭兵+農兵の方がはるかに兵力が上がるわけだから。
兵農分離は、一般的に見れば軍縮を意味する。
平時は職業軍人のみ、非常時になれば国民皆兵てのは
高度な技術と装備が必要な現代戦までは、
わりとよくある話だと思う。
247:人間七七四年
10/08/19 07:18:38 e6NaREAh
ついでに言えば、
軍を常時動かせた理由が経済力にあったこと自体は事実であった可能性はかなりあり、
例えば毛利家が銀山の経済力を背景に月山富田城を3年包囲した話がある。
248:人間七七四年
10/08/19 07:18:46 CBF3A00D
しょっちゅう戦やってるような戦国時代に兵農分離とか
非効率の極みだよね
249:人間七七四年
10/08/19 07:44:51 pxb/Of54
>>248
じゃぁどういう状況でなら効率的なんだ?しょっちゅう戦やってない平安時代の将門は農作業の為に
兵を里に返した為に寡兵で負けた訳だが?
250:人間七七四年
10/08/19 09:52:44 4anaXHxj
> 将門は農作業の為に
> 兵を里に返した為に寡兵で負けた訳だが?
それは逸話的伝承にすぎん。実際は在地の豪族連中に見放されただけだよ。
251:人間七七四年
10/08/19 13:27:02 pxb/Of54
根拠有るのかよ?
252:人間七七四年
10/08/20 03:47:31 GULHOJYc
質問です。
前に源氏と平氏が順番に天下を取るという思想が戦国時代頃に存在し、
信長や家康もそれを利用していたという話を何かの本で読んだのですが、
当時にそういう思想が書かれた本や思想を具体的に語った人物はいるのでしょうか?
よく本などで見るのですが根拠がよく分からなかったので気になりました。
253:人間七七四年
10/08/20 07:11:25 FTliTtNb
>>241
他の質問で流れたけど誰か>>241よろしく
254:人間七七四年
10/08/20 13:47:29 /PiLARdK
>>241>>253
基本はそれでいいんだけど、
当時の書き手読み手が文脈の下で常識と考えられていることはかなり省かれているものが多い。
書き手の人物像や、書かれている事件等の知識がないと省かれている部分の補填ができない恐れがある。
255:人間七七四年
10/08/20 20:41:49 LpY1Fzg1
>>254
ありがとう
そればっかりはこれから学んでいくしかないから
とりあえずその二つの辞書で訳してみるよ
256:人間七七四年
10/08/28 13:10:00 h9GNL4k6
戦国物の映画で能を見てもまったく面白くないのですが
何で能なんかが流行ったの
257:人間七七四年
10/08/28 13:18:57 EYyAo2pJ
>>256
ドラマや映画の一部分だけ2,30秒見せられてもまったく面白く無いだろ。
それと一緒だ。
258:人間七七四年
10/08/29 09:37:41 vyE3f4J0
>>256
一通り流れを覚えて、それをうまく表現するっていう(当時の)演劇的な要素、
教養があまりない武家の知的な嗜みとして流行ったのでは。
面白い面白くないではなく。茶道とかと一緒で。
それができる事がステータスみたいな。
現代でもそういうのあるだろ、興味ない連中からしたら
「それができたからなんだってんだ」って芸だけど
それが好きな連中には驚嘆されるって類のものがさ
259:人間七七四年
10/08/29 10:40:20 aKLR2lm7
端的に言えば>>256に能の良し悪しを判断する素養がないってことだ。
世間ではそう言う人間を『無教養』と呼ぶ。
そういう事はないと思うが、インテリジェンスな場に出たときは口を利かないようにしておけよ。
軽蔑されるから。
260:人間七七四年
10/08/29 10:41:10 tZF58rjq
w
261:人間七七四年
10/08/29 14:20:10 Tw+PDuV0
そんなに能が世の中で尊ばれるもんなら
日本中の学校に能部があったっておかしくねえだろ
お前みてえな気取ったインテリぶった馬鹿は大抵変わりもんで笑われてるよ
こんな板で無理にかっこつけてる奴の方がよっぽど軽蔑されるっつうの
俺は能なんかよりよっぽどストリップとかプロレスとかのほうが価値があると思うよ
262:人間七七四年
10/08/29 15:07:56 vyE3f4J0
>>261
少なくとも俺の行ってた学校にはプロレス部もストリップ部もなかったなあ
大学とかならプロレスはサークルとかならあるかもしれんが
まあ、繰り返しになるけど、好きな奴には面白いってだけのものだよ
落語でも歴史でも何でも一緒。
知ってると面白いけど、別に知らなくても生きていける
ただ、知ってる引き出しが多い方が、何かと要領よく生きていけるし
交友の幅も広がるってだけのこと。
それが当時は能であり、茶道であり、蹴鞠であり、和歌であったということ。
263:人間七七四年
10/08/29 15:22:22 7YIoQ4RB
能も猿楽と呼ばれた時代はコミカルな大衆芸能だったらしいがな
権力に保護されるうちに解りやすい下世話な部分が削がれて
能と呼ばれる頃には芸術的、抽象的な見てもよくわからんものになっていったんだろう
264:人間七七四年
10/08/29 16:59:57 ASvEoKLE
能とか歌舞伎ってあれ踊りを見た後にセックスしてたんだっけ?
それを含めて娯楽だったんじゃね?
265:人間七七四年
10/08/29 21:43:55 Dkf/yuNE
>>264
それはお祭りで演じられてた時代だろう。初期の歌舞伎踊りはエロっぽかった様だが。
>>263
俺もそう思ってたがwikipediaによれば違うらしい。江戸時代もずっと猿楽で、能楽と呼び換えられるのは
明治時代だそうだ。そして猿楽は能・式三番・狂言に分類されるそうだ。つまり能は猿楽(能楽)の一部。
>能と呼ばれる頃には芸術的、抽象的な見てもよくわからんものになっていったんだろう
それは観阿弥・世阿弥の頃だな。この親子が足利義満の庇護を受けた事で当時の貴族・武家の好む
幽玄な芸風になっていった様だ。つまり>>258が書いてるのとは逆で、武家の教養が高かったからだな。
>>256
今の萌えアニメが俺みたいなずっと萌えないアニメ見て来たおっさんには理解しがたい特殊なものに
なってるのと同様に、特殊化した結果それに馴染んでない人には理解しがたいものになった。
266:人間七七四年
10/08/30 14:54:00 cN7tj8WL
戦国時代に限らないことかもしれませんが、
当時の人々は戦場での火薬の管理はどのように行っていたのでしょうか?
雨が降れば湿気ってしまったり、間違って引火して爆発してりまったりなど、
扱いが難しいイメージがあるのですが。
267:人間七七四年
10/08/30 18:28:46 3rWGOd6u
戦場においての運用法なのか
城などの備蓄用なのかでも違うんだろうけど
一応、専門の奉行がいたみたい。
でも大坂の陣とか秀吉の紀州攻めとかで
戦中に火薬庫に火矢とかが飛び込んで引火して大爆発・・・なんて記録も結構あるので
意外と杜撰だったもかもね
268:人間七七四年
10/09/03 19:37:57 6ppZC2MY
仙台藩は最大250万石だったのが飢饉で100万石まで減ったと聞きます。
戦国時代でもこのように飢饉や戦乱で領内の石高が大きく減っていたのでしょうか?
269:人間七七四年
10/09/03 19:54:29 gPoX34j/
>>268
表高62万石に対してじつだか100万石とは言うが、250万石ってのは何処で見た数字だ?
戦国時代は天災は普通に有る上に人災も有る。敵に攻め込まれて田畑を荒らされれば
収穫は激減するか悪くすれば0だろう。
270:人間七七四年
10/09/03 20:10:58 6ppZC2MY
帆足万里の東潜夫論だと250万石、安井息軒の読書余滴にも200万石という記述があります。
271:人間七七四年
10/09/03 20:23:16 y008qv+E
> 帆足万里の東潜夫論だと250万石、安井息軒の読書余滴にも200万石
その人達は仙台藩の関係者でも何でも無く、その数字も実際に統計をとったものでは無い、
ただの印象論のようなものに過ぎんだろ。
その数字を元に議論を構築するのはムリだよ。
272:人間七七四年
10/09/03 22:29:36 D3WmGJ8W
いつの時代の話か知らないけど、米が東北とか寒冷地でも
大量に収穫できるように品種改良されたのはだいぶ後だから
200万石とかはトンデモ数字だと思う
273:人間七七四年
10/09/04 00:53:23 K9bB3s1c
>>268
内乱もそうだが、大名の領地替えで荒廃したケースもある。
越後の場合、上杉家が会津に移った際に、(建前上は駄目って事になってたんだが)
百姓もかなりの数が土地を離れており、中越では3割ほどが荒地になり、魚沼郡では全住民が
移動してしまったというケースもあるとのこと(今福匡『直江兼続』)
274:人間七七四年
10/09/04 08:56:53 Lbw+tywT
質問です
戦国時代、現代の様な図面での軍事訓練演習は行われていたのでしょうか?
もし有ったとするならそれはどの様に呼ばれていたのでしょうか?
教えてください
275:人間七七四年
10/09/08 01:26:03 nn7jTCsY
そもそも軍事訓練なんてやっていたのか?
戦国時代の兵士って半農半武だったんしょ
276:人間七七四年
10/09/08 01:37:30 vm0ucO1Q
>>275
やってた。ただ軍全体の演習はおそらく存在せず、鉄砲隊、槍隊などのカテゴリーごとの
訓練だが。
あと軍隊運用の指揮命令に関する訓練は、大規模な鷹狩や巻狩りで行っていた。
277:人間七七四年
10/09/08 01:41:15 GXnzT8NC
質問です。
『浅井一政自記』は何処に載っている史料なのでしょうか?
278:人間七七四年
10/09/08 02:00:45 vm0ucO1Q
>>277
浅井一政は加賀藩の侍だから、加賀藩関連の史料じゃね?
279:人間七七四年
10/09/08 09:14:01 jBMPtJCq
初めて彼氏の家でお泊りするときのウンコどうすんの?
271:Miss名無しさん 2010/08/28(土) 09:55:43 ID:HsmL4gKv
うんこもそうだけど
私はオナラを我慢するのが辛いです。
我慢してるとお腹にガスがたまってきて…
隠れてオナラをすることもできないし
この苦痛を解消するにはどうすればいいんでしょうか?
280:人間七七四年
10/09/08 18:40:02 9+oIRTWg
薩摩の教えに対して会津とか徴収はどう思っていたでしょうか。
281:人間七七四年
10/09/08 19:33:11 GXnzT8NC
>>278
ありがとうございます。
加賀藩関連の史料ですか、『大日本史料』とかには載ってないんでしょうかね?
282:人間七七四年
10/09/08 21:49:53 kc74ZS8D
徳川秀忠の嫁「お江」は身分が高く気位が高かったと言われていますが、
血筋の浅井氏は京極家臣の成り上がりで守護大名や公家ら名門の血筋から見れば
曾祖父の浅井亮政の成り上がりで、下野守も朝廷からもらえていない僭称ですし
はっきりいって有名戦国大名の中ではかなり下の方に思えます。
それなのに威張っていたのは
当時は浅井を滅ぼした織田の家系(これも血統的には成り上がりですが)
というのが評価されていたのでしょうか?
283:人間七七四年
10/09/08 22:02:19 vm0ucO1Q
>>282
天下人たる豊臣秀吉養女にて征夷大将軍正室。身分が高いのは当然だし
気位が高くても問題があるとは思わんが。
284:人間七七四年
10/09/09 01:43:39 1qmnAdqg
徳川秀忠って2代目に徹した実はすごい人だからなあ
恐妻家ってのも何らかのプロパガンダ的な意味があったりして
285:人間七七四年
10/09/09 08:07:02 Zb/EWet+
そもそも松平の血筋だってそんなに大したことないしなあ
お似合いじゃね?
286:人間七七四年
10/09/09 16:34:39 05kMoxvt
ここ質問専用スレですよね雑談は三戦の雑談スレですよね?
287:人間七七四年
10/09/10 20:59:39 e1qKajWk
すみません 質問です。
漫画などで、ある隊を率いる部将が討死すると
「○○様がやられた!ヒィ~」と兵達が武器を放り投げて
逃げて行く場面を見るのですがこれは本当ですか?
誰かその部将の代わりになったり、他の隊に吸収されたりしないのですか?
また、大名が討死した場合も家臣も兵もそれが分かった時点で
みんな逃げ出すのでしょうか?
何分初心者なので変な質問かもしれませんが、宜しくお願いします。
288:人間七七四年
10/09/10 21:14:19 xeuXm/j1
>>287
そもそも部隊を率いる部将が討ち取られるような戦況は、味方にとって既に敗勢になっている。
基本的に退却は、物頭クラスがある程度の兵をまとめて侍大将、足軽大将などの
上の指示を受け行う。
上の指示が得られない状況なら独自判断。
物頭すら大半が討たれている、というのならそれはもう壊乱状態と言うべきだろう。
軍隊として崩壊している。
289:レキ ◆uELV/9JEPlbQ
10/09/10 21:24:48 rH8GJQQN
>>287
漫画を読んでないのでどんな場面か分からないけど逃げ出すことはあると思う。
指揮する大将がいなくなっては働きようがないかな。
>誰かその部将の代わりになったり
総崩れの場合もあると思うし、生き残っている侍大将が兵をまとめて撤退する場合もあると思う。
>他の隊に吸収されたり
これは難しいかな?
敗残兵が入り込むと自分の軍勢に混乱が起きやすくなると思う。
敗残兵はそこからまた逃げ出す可能性もある。
訓練を受けている軍勢だと一斉行動が取れない。
関ヶ原合戦では自軍に入りこもうとした友軍敗残兵を鉄砲で追い払った話もあった気がする。
>大名が討死した場合も家臣も兵もそれが分かった時点でみんな逃げ出すのでしょうか?
基本は逃げ出すと思う。
でも主人の首級を取り返すために逆に敵を討ち取る話もある。
>変な質問かもしれませんが、宜しくお願いします。
そんなことないと思うよ。
290:人間七七四年
10/09/10 21:52:00 BB4KuW8t
>>287
wikipedia「岡部元信」から引用。
「永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは鳴海城を拠点に織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が
織田信長に討たれた後も抵抗し続けるが、主君の首と引き換えに開城。駿府へ帰還する途次、戦功の
無いまま帰るを良しとせず刈谷城を攻撃、水野信近を討ち取り城を焼き払った。」
敵の勢力圏内に取り残されるのは死を意味するので普通は逃げるけどこういう例もあるという事で。
同じく桶狭間の際には松平元康(徳川家康)の岡崎城を預かる今川家の城代が逃げたので、元康が
取り戻す事が出来た。
291:人間七七四年
10/09/10 23:07:11 YmdJATay
URLリンク(ja.wikipedia.org)
鉄砲で即死した浅利信種の部隊を
軍監(査定・監査)の曽根昌世が指揮した例
292:人間七七四年
10/09/10 23:27:10 EmFbM5xO
群衆が指揮官なしに軍事行動を取ることは基本的には不可能。
誰でも指揮官になれるなら、ハイジャックとか起きない。
みんな戦う。
293:人間七七四年
10/09/10 23:31:25 e1qKajWk
>>288 >>289 >>290 >>291
どうも有難うございます
ホントに初心者なもんで「物頭」とか「足軽大将」とかも
知らなかったので検索して調べるきっかけにもなりました。
この漫画というのは横山光輝の作品で「よく見るなぁ」という
ものなので特定の作品、場面ではありません。
大名や部将が討死した場合「基本は逃げる」とのことですが、
例えば、川中島での武田信繁討死後、彼の隊はどうなったので
しょうか? やはり「逃げた」のでしょうか?
>>291の例のように誰か指揮代行したのでしょうか?
おしえて君ですみません
294:人間七七四年
10/09/10 23:54:27 xeuXm/j1
>>293
川中島に関しては軍記物以外にきちんとした史料は存在せず、信繁が一体どんな状況で
死んだかすら、実はよくわかっていない。
なので「わからない」というのが一番正直な答えだな。
295:人間七七四年
10/09/11 04:15:00 +s3WJnzv
劣勢という程でもない合戦の最中に
流れ弾や流れ矢で指揮官が倒れた場合はどうなんだろね
総大将が討たれるようなケースはもう負け戦確定の最中だろうけど
乱戦状態なら小隊の指揮官が討ち取られる事は結構ありそうだが
296:人間七七四年
10/09/11 10:30:31 S2nBwFXf
自分とこの旗が向かってるほうに行くのが基本
297:人間七七四年
10/09/11 20:14:07 P+c3nWBI
長篠・設楽ヶ原の戦いについて、
織田側の鉄砲が活躍した、少なくとも大量に鉄砲を用い、勝利を収めた
という旨の文章をよく見かけるのですが、
鉄砲を敵が大量に動員している、という報告を耳にしていたであろう勝頼は、
なぜ雨を待たなかったのでしょうか
開戦の日付を見るに梅雨の季節で、土地も雨が極端に少ない土地ではないようです
何か時間的な、もしくは他の制約があって、晴れのときに戦わざるを得なかったのでしょうか
よろしくお願いします
298:人間七七四年
10/09/11 22:52:49 ZCjUF+G3
>鉄砲を敵が大量に動員している、という報告を耳にしていたであろう勝頼は、
そんな文献あったっけ?
299:人間七七四年
10/09/12 00:13:10 O63dT8eT
そもそも雨だと鉄砲は撃てない、と言うことも嘘。昔の人も馬鹿じゃないんだから雨対策くらいする。
300:人間七七四年
10/09/12 02:19:40 L2mBVTEp
>>298
その部分は完全に自分の妄想です 文献はありません
数の多い鉄砲の動きを諜報することは難しくないのではないかと妄想しました
紛らわしくてすいません 不適切なら無視してください
>>299
発射せずに持ち運ぶときは火縄・火薬周りを雨から守る工夫がされていても、
射撃し続けるとどうしても火薬周りが濡れて発射不可能になるため、
雨天時の鉄砲の運用は不利である、という記憶があったので
なぜ雨を待たなかったのかという疑問に至った次第です
これも不明瞭な記憶からの質問でした すいません
301:人間七七四年
10/09/12 03:03:22 T3d4pVfB
半ば揚げ足取りなレスにずいぶん丁寧だなオイ
302:人間七七四年
10/09/12 03:52:15 0SjyhusK
勝頼も長篠城攻めでかなり鉄砲を使っていたという話だ
待てなかった理由は後ろから挟撃されたから
第一、織田側は陣地をしっかり張ってたわけで
雨対策だってよりよくできてただろう
武田一門衆の大量ボイコットが負けを決定付けた点も忘れてはならないと思う
303:人間七七四年
10/09/12 04:21:15 xXzxo4Qc
勝頼がわがままなんじゃなくて家臣がワガママだっただけと言うのがいるが、違うと思う
そりゃ一癖も二癖もあったろうが、単に使いこなせなかっただけ
304:人間七七四年
10/09/12 09:01:29 pJ5FUXEv
とりあえず勝頼がワガママだったわけじゃないんだろ?
305:人間七七四年
10/09/12 09:42:05 7SFaPM86
>>300
戦局的に勝頼の方が早く決戦を挑まざるを得ない状況だったから。
織田・徳川は時間が経てば経つだけ援軍増えるし
武田勢は長篠城にも兵割いてるわけで、ここである程度負ける(一時撤退)するにしても
織田・徳川をある程度叩いて打撃を与えておかないといけなかった。
雨が降るの待ってる余裕なんてない。
仮に雨が降って、相手が大量の鉄砲揃えてるって知ってたとしても
数の上で相手の方が多いわけで、一か八かの野戦に打って出るしかなく
雨中で合戦なんか仕掛けたら足軽・騎馬隊だって士気上がらんがな
306:人間七七四年
10/09/12 11:31:58 O63dT8eT
そもそも長篠で重要なのは織田徳川軍が武田軍を精緻な野戦築城の中に誘い込んだこと。
仮に雨で鉄砲の使用が制限されても弓隊によって武田軍は同じ目にあっただろう。
307:人間七七四年
10/09/12 12:56:46 lUWPiY3u
長篠の勝因は鉄砲じゃなくて野戦築城だって言う人が結構いるけど
信憑性はどれくらいあるの
308:人間七七四年
10/09/12 13:33:09 BWtKiu2L
信玄も死期の迫ってたのに征西しなければならなかったように
武田はどうしても早い時期に、織田に強烈な一撃を加えなくてはならなかったからな
309:人間七七四年
10/09/12 14:16:58 z1+qDJPI
みなさんレスありがとうございます
織田側の勝因は鉄砲だけではなく、陣の設営も挙げられるということでしょうか
と、なると武田側が動かないと、織田側はどうしようもなかったのですが、
この戦法が目新しかったため勝頼は気づかなかった、
もしくは開戦せざるを得ない戦局だった、戦局にされたということでしょうか
回答ありがとうございました
310:人間七七四年
10/09/12 15:59:03 7SFaPM86
基本的に織田徳川連合の方が鉄砲うんぬん抜きにしても兵力の総数が多いし
他の人が書いてるけど、信玄が死に際に西征したように
勝頼も家中をまとめる為に積極的な軍事行動=与える恩賞・領土が必要だった。
だから長篠を攻めた。
ここで兵力で劣ってるからって、長篠の包囲を放棄して逃げ帰ったのでは
諸将の不満は募るだけ。
なので、一か八かでも決戦を挑む必要があったし
他の大名(小田原征伐前の北条や小牧・長久手の徳川)のように
ある程度の痛手を相手に与える事で、戦を終わらせる条件を有利にする必要があったって事。
真珠湾攻撃した日本と同じ理屈。
黙って待ち構えているだけじゃジリ貧になるのが目に見えてるから
311:人間七七四年
10/09/12 16:59:34 O63dT8eT
つーか武田は動かなきゃジリジリと攻囲陣を縮められて袋の鼠に成るだけだぞ。
「負けない」という意味でなら武田は間者に織田軍の動向をびっちり張り付かせて探らせ、
信長の軍が岐阜から動いたというのを察知した瞬間、直ぐに長篠の囲みを解いて撤退。
これしかない。
312:人間七七四年
10/09/12 21:57:17 eDzaaHin
厳島神社の神主家について教えて
桜尾城という居城があり、神領団と呼ばれる家臣団がいたらしいけど、
動員兵力とかどんぐらいだったんだろう
313:人間七七四年
10/09/13 19:02:18 48vp5jAY
wikiとか色々調べると結構凄い人物だと感じるのが信長の親父の織田信秀なんだけど、
彼が主役の小説ってあります?
314:人間七七四年
10/09/13 19:48:11 D3W03bew
あ
315:人間七七四年
10/09/14 12:40:37 a0SaxFiX
>>313
URLリンク(www.php.co.jp)
これくらいしかないが、現在無し。廃版ではないからPHPにせっせと懇願する。
来年の大河がまた戦国だから、願いが通じればもしかしたら再販されるかもね。
316:人間七七四年
10/09/14 18:38:50 aHESUZ9V
百武賢兼の妻の法名「円久尼」なんですが
これなんて読むんでしょうか?
317:人間七七四年
10/09/14 18:40:56 nlIkNcto
>>316
「えんきゅうに」でいいんじゃない?
318:人間七七四年
10/09/14 23:51:32 UB8Toykc
川中島とか朝の8時頃から延々と何時間もやる戦って
現場の人達どうなってんの?
319:人間七七四年
10/09/15 13:29:54 JY6n3Xlp
>>217
京職は左京太夫のように重複任官はありえたが
守・介など国司職は定員1なので新しく叙任されたものがいればそれまでの国司は任を解かれる。
朝廷は財政難であり、何代世襲していても献金が少なければ任を解かれ、献金の多い功労者にその任を与えた。
320:人間七七四年
10/09/15 13:52:20 1VRgqCyO
>>318
全員が入り乱れてなんてやったら30分で決着がつく。
双方共、いくつかの500~1000人単位の部隊が交代で前線に行く。
押されぎみの所には新手が援軍として前線に行き、退いた部隊は休憩をとりながら態勢を立て直す。
これを繰り返して少しずつ前線を押し上げていく。
まあ、あたりまえのやりかた。
321:人間七七四年
10/09/15 21:58:56 ruAyHQgG
なにそのショボイ戦い
322:人間七七四年
10/09/16 01:37:54 X0824n1N
つーか、今の時代の市街戦もそんなもんだろ
いくつかの小隊が入れ替わり立ち代りで拠点を少しずつ制圧して移動するっていう。
最初っから全員で全面衝突して何時間も戦い合うとでも思ってんのか
323:人間七七四年
10/09/16 07:25:29 zWCqGkCM
戦争映画でもだいたいそうだよな
324:人間七七四年
10/09/16 14:33:50 wV7/IMlp
九州福岡 調党 黒木家末裔 谷川姓って実際どうなの?
子孫だとしたら誇れるの?詳しい人教えてください
あと 谷川大膳は黒木家系になるんですか?
325:人間七七四年
10/09/16 15:41:59 VAePkQH2
石を遠方から投げあって
石が無くなった方が負け
326:人間七七四年
10/09/16 20:17:29 +3WfPskn
戦国時代(には限らないけど)の女性は名前が余り残っていませんが
女性の名付けに流行とか定番とか決まりってあったんでしょうか?
やっぱり資料が少なくて検証できない状態でしょうか?
327:人間七七四年
10/09/16 20:20:02 kzOxco7a
>>326
戦国時代は日本史の中でも特に女性の名前が記録されなかった特異な時代。
ここから日本史上最も女性の地位が落ちた時代だとも考えられている。
328:人間七七四年
10/09/16 21:42:53 IyvAB9Ln
>>326
高貴な身分は別として、女の扱いなんて生活用品と同レベルだったからね。
中世から江戸時代までは「とら」「かめ」とか適当に2文字でつけられた。
男と違ってその程度の存在だった。
戸籍がなかった時代もあるし・・・
329:人間七七四年
10/09/17 19:54:57 E43dBY3+
というわけで、戦の前に女と交わるのはゲンが悪いとして
小姓が夜のお相手をしたわけです。
330:人間七七四年
10/09/17 22:48:32 0rV7Esl7
本を読んでいて思ったのですが、
関ヶ原の戦いの時、政宗が南部領に色気を出して百万石がダメになったという感じで、
失策みたいに書いているものが多いと思います。
当時から家康が勝って当たり前みたいな雰囲気ってあったのでしょうか?
『百万石のお墨付き』が空手形だとか、関ヶ原が長引いたり、家康が負けたりして
上杉が伊達領に攻め込む可能性は皆無ですか?
九州での如水の動きなども無意味だったのでしょうか
331:人間七七四年
10/09/17 22:57:39 0rV7Esl7
連投すみません
政宗、如水の行動が無駄だった場合、西軍に参加した大大名らの
参加理由も教えていただけると嬉しいです
332:人間七七四年
10/09/17 23:43:37 TQn5WYJB
そんな雰囲気は無かったろうし、家康自身もっと長引くと思っていたんじゃなかろうか。
上杉が伊達領に攻め込む可能性は低い。旧領の越後を確保するか、南下して江戸を脅かすのが妥当。
大大名ってどの辺の事?島津とか長宗我部は上杉討伐軍に参加するつもりだったが、まだ上方に居るうち
に西軍が挙兵したので流れで参加せざるを得なかった。
333:人間七七四年
10/09/17 23:59:30 E43dBY3+
まあ、大方そうだよね
家康に従軍して関東行ってた連中は流れで家康に付かなきゃならないし
上杉攻めで上方に集められてたり人質がいた連中は西軍に流れで属さなきゃならないし
それ以外(関東・大坂周辺以外)の連中は
混乱に乗じて勢力を伸ばそうとか、御家再興を狙おうとした改易組とか
そんなのばっかりで、明確に東とか西とか意識してなかったと思う。