08/04/17 12:47:05 SQnfPtvW
>>89
甲斐への帰還途中で諏訪神社を壊すってどんなルートで撤退だよw
お前嘘言うならもっとましな嘘いえよww
91:人間七七四年
08/04/18 02:48:51 qSco5g6s
>>90
信玄のことを知りたければ諏訪信仰ぐらい勉強しなさい、恥ずかしい。
92:人間七七四年
08/04/18 03:24:03 H520p1Lq
>>91
あのな、ルートの指摘してるのに信玄のこと知りたければとか
まったく見当違いなこといってんなよ
日本語分からないなら恥さらすだけだからレスすんなよw
93:人間七七四年
08/04/18 20:44:04 KcJIuwV/
甲斐にも諏訪神社くらいあるよ。諏訪大社と勘違いしてない?
94:人間七七四年
08/04/19 00:37:16 hvUn56Ij
>>65
んなわけないだろ。
この時の武田の目的は北条へのけん制、越相同盟への楔、反北条勢力への宣伝と
いった事柄。ちゃんとレス見てる?それらはちゃんと達成してるだろ。
>>66
客観的な証拠といわれてもね。北条自身が追しなだれてきたといってるのに。
つか実際の所北条方の書状でも浅利討ち取ったとかいってなかっただろ。
本来なら具体名挙げて大いに喧伝しそうなもんだが。
軍鑑では浅利は流れ弾で死んでるけど案外これは正鵠を得てるんじゃないのか。
しかも曽根がその後指揮を引き継いで戦い抜いてるし。
乱戦の中でその討ち取った相手さえ把握してないような戦死を客観的な証拠とかいわれてもな。
>>69>>74
お前時々思うんだが相手を一人だと思ってないか?
RLWzceg5と俺は別人だから。煽りばっかいってないで多少は中身ある事書け。
95:人間七七四年
08/04/19 00:38:18 hvUn56Ij
あげちまった。悪い。
96:人間七七四年
08/04/19 01:41:48 RgYR6xYt
このスレまだあったのね
メガ豚も草葉の陰で喜んでいる事でしょう
97:人間七七四年
08/04/19 02:13:01 2pBkpQfC
>>94
浅利は死んでるし、津久井郡は北条領のまま武田軍は撤退した
客観的な戦果であることは疑い無いように思うが。
そして武田軍は結局、損害は出たが滝山城で籠城戦を続けていた上に
外様の津久井衆を率いていた氏照が倍以上の兵力を壊滅させられるはずも無く、
甲斐に逃げる事は出来た。北条側の損害は不明。
上記の戦果を見ても普通に北条は勝利側・防衛成功側なので無理に虚勢を張る必要がない。
浅利の事までいちいち書く必要性がない。
そもそも「三増峠合戦」なんて大袈裟なものとすら捉えてはいないのではなかろうか。
小田原戦の中の単なる、衝突の一つ。
それに比べて武田側は結局敗北したからこそ捏造を重ねた書状を書いて
負けてない事を主張する必要があったために、氏規・氏邦殺したなどというどうしようもない嘘を書いてるわけで。
討ち取った武将の名前を捏造するとか戦果の誇張のレベルじゃない、が、そこに信玄の必死さが見えてしまうわけで。
98:人間七七四年
08/04/19 02:26:52 hlTOBI5c
そう考えると北条側の書状は内容的には
もう少しで武田に大打撃を与えられたのに逃げられてしまって悔しいみたいな感じだから
自分たちが勝ったこと前提の書状ってことか?
またそんなことを前提に出来るってことは広く宣伝しなくても北条の勝利だって周りには
思われていたってことになるのか?
99:人間七七四年
08/04/19 02:40:11 2pBkpQfC
>>98
さぁ?周りの考えなど論拠なしにはどうとも言えない。
ただ北条側はそう考えていたのではなかろうか、ということ。
今のところはっきりしている事を比較しても、北条側が負けを意識する要素は全く無い。
100:人間七七四年
08/04/19 04:29:03 RPHyohuA
>>99
君は凄いね
101:人間七七四年
08/04/19 10:31:37 hvUn56Ij
>>97
だから津久井郡なんかそもそも武田は狙ってなかっただろ。
武田が帰る途中で追跡してきた北条勢と戦ったのが三増峠。
それで客観的な戦果なんていわれてもな。
なんで三増峠が北条の防衛戦になってるんだ?追跡戦だろ。
実際虚勢はりまくりだろ。北条が書状で述べてるだけの被害がでたとするなら
その後の武田軍の行動が元気すぎるし、宗の者だって多数も討ち取られてないだろ。
捏造したのは北条も同じ。というか浅利以外に宗の者討ち取ってないのに
その具体名挙げてないのはどうなんだ。
敗北したから捏造を重ねてるなんていうのはそっちの主観だろう。
前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?
北条自身が敵が押しなだれてきたといってるのに。
外部に戦果を見せる上で誇張をするのはよくある話だろ。
つーか諏訪大社にあてた信玄の書状ではこの勝利は神のおかげです、とかいって
喜んでるけど。
102:人間七七四年
08/04/19 12:37:58 meAgq8Nm
軍鑑の上田原の品で
当時の慣習だと先に戦場から引き上げた方が負けとされるってあるから・・・
103:人間七七四年
08/04/19 13:00:06 2pBkpQfC
>>101
>>前半で浅利が討ち死にしたら後半で追い返しても関係ないと?
北条勢は三増峠から撤退してない。追い返したというのは何を根拠に述べてるのか?
押しなだれてきたってのはそのまま逃げたって事でしょ?
それを追う事が出来なかったら負けだと主張したいの?被害もはっきりしてないのに。
それじゃ長谷堂合戦で直江が勝ちと言うようなもん。
関ヶ原で島津が徳川に勝ったというようなもん。
上記二つも直江や島津が勝ったと思えるんなら俺はもう何も言わない。
104:人間七七四年
08/04/19 13:54:50 hvUn56Ij
>>103
三増峠は北条勢が甲斐に引き上げる武田勢を追跡しておこった戦いだろう。
軍鑑では最初から北条勢が待ち伏せしてそれを武田が突破したように書いてあるが
信玄の書状でも北条の書状でも、北条が後方から追跡して武田勢に挑んだように
書いてある。これは北条5代記でも北条記でも同じだけど。
この状況では武田は追跡してくる北条勢を追い返して甲斐に引き上げればいい。
北条の書状では当方に押しなだれてきたとあるのだから、追跡している北条のほうに
押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
実際北条遺臣の残した北条5代記でも北条記でもそんな流れだろ。
後方から武田勢を追跡して最初は押したけど最後は逆襲されて追い立てられたと。
そして武田勢は深追いせずに(もともと帰るつもりだったのだし)そのまま帰ったと。
氏康達は間に合わなかったと。(これは氏康書状とも符号。)
上記2つとは状況が違うのでなんともいえん。
105:人間七七四年
08/04/19 14:17:57 2pBkpQfC
>>104
>>押しなだれているのだから、逃げたという意味じゃなくて武田が逆襲して押したという事だろう。
ここに根拠が無いから、説得力がない。
講談の解説をされても困るし、北条五代記がどういうものなのかは過去レスにあっただろ。
106:人間七七四年
08/04/19 14:23:53 hvUn56Ij
>>105
だから根拠あるって。
北条の書状も信玄の書状も北条側が武田を後方から追跡して戦ったように書いてある。
それで「押しなだれてきた」といってるのだから武田が逃げたんじゃなくて
北条側のほうに押しなだれてるっていう事だろう。
むしろそっちのそのまま逃げたというほうが説得力ない。進行方向逆だろう。
北条5代記がこの戦いにおいて本来の史実にもない北条側が追撃して千余討ち取りを捏造し
武田の逆襲による被害を30人にしてるという事も過去レスに書いたでしょ。
それでも最終的に追い払われた事をかかざるをえなかったと。
107:人間七七四年
08/04/19 14:51:46 2pBkpQfC
>>106
小田原から甲斐に向かって進んでいる武田軍に滝山城から向かった氏照が三増峠でぶつかっているのに
後ろから追ったというのは位置関係的に意味不明なんだが。
北条の書状のどの部分で追撃したなんて書いてあった?
氏照の書状であれば自身の滝山籠城戦の話とごっちゃになっててわかりにくかった気はするが。
108:人間七七四年
08/04/19 15:02:28 hvUn56Ij
>>107
氏照書状では相模で武田が働いた(小田原焼かれた事はかかず)、
と書いてその後で津久井に向かって退散した事を書いてたろ。そこで戦ったと。
氏康書状では退く武田勢を攻撃するために三増山まで進んだけど敵がすばやく
去ってしまい、自分達は遅れたと書いてる。
信玄の書状では帰国の時北条勢6、7千の人数が慕ってきた(追跡してきたの言い回し)
ので一戦に及んだと書いてる。
いずれも甲斐に向かう武田勢を北条勢が後方から追っている事をあらわしていると思うが。
109:人間七七四年
08/04/19 15:08:05 2pBkpQfC
>>108
滝山城ってどこにあるのかわかってて言ってるの?
110:人間七七四年
08/04/19 15:43:45 hvUn56Ij
三増峠の北だな。滝山城は。
三増峠を通って移動中の武田勢を氏照勢が南下して捕捉、
後方より攻撃って所だろ。
111:人間七七四年
08/04/19 16:28:01 2pBkpQfC
>>110
←甲斐
■滝山
■津久井
氏照軍
↓
三増峠 相模川
↑
武田軍
■小田原
大雑把な位置関係だがどう考えても氏照軍は前方にいると思うんだが。
また三増峠は現在でもあまり広い場所ではなく、また相模川もあるため、
2万はいたであろう武田軍を後ろから衝くために迂回できる場所があったとも思えない。
112:人間七七四年
08/04/20 09:54:30 Xg3epNcM
規制中につき代行レスを依頼中
>>111
どの時点で北条勢が接近したかによるよ。
武田勢がすでに三増峠を移動中でしっぽを見せている時に北条勢が到着して
後備から襲い掛かったならおかしくない。
つーかでないと後方にあるはずの殿軍の浅利が戦って死んでいる事が説明がつかん。
それから返レスは例によってかなり遅くなるのでよろしく。
113:人間七七四年
08/04/20 14:47:57 JmiIXrHO
>>112
左右に山があって相模川もある場所なので、
数百人レベルの小競り合いならともかくこの規模の衝突であるならば
津久井の方から向かう時点でお互いの存在はわかってしまうと思われる。
ここまで見ておいて初めて氏照の書状を考えてみる必要が出てくる
彼の書状を見てみると敵兵を崩し云々やら荷駄隊やら言ってるのは5日から6日朝にかけてであって
三増峠合戦自体10月6日のはずなので、武田の本隊はまだ到着していないはず。講談等にも出てきた様子がない。
書状でも先衆と言ってるので、武田軍・北条軍どちらも本隊ではなく先行させている部隊同士の事だと思われる。
この状況では寡兵の氏照軍ではこれ以上の深追いは出来るはずもなく、
ここで挟撃するために小田原からの本軍を待つ事になったと考えるべきではなかろうか。
さてその次に武田軍が山に陣を張ったとある、この時点で場面が切り替わっている。
というより時間軸的にも10月6日なのでここからが初めて世間で言う三増峠合戦の話になるのだろう、
武田側は氏照・氏邦の兵力よりまだまだ上で更に山に陣を張ったとあれば攻めることはもう出来ない。
ただ武田側もここで停滞してしまうと小田原の本軍が来てしまうため速く動く必要が出てくる。
そこで書状では武田軍の兵がこちらへ押しなだれてきたとある、これこそが殿軍の浅利信種隊であろう。
その後の合戦の経過はわからないが、浅利信種は戦死し、武田隊は甲斐へ撤退した。
これが普通に考えられる状況ではなかろうか?
114:人間七七四年
08/04/23 11:00:48 X2xD+2Qu
浅利監物のような親族衆・地方支配任された大物が殿軍勤めるものなの?
戸石崩れの横田備中のように、下っ端とはいえないが撃たれても中枢には響かない程度の武将が勤める役じゃないこれって?
115:人間七七四年
08/04/26 15:50:10 qjVOcr4z
>>113
そう解釈するのは難しいな。
氏照書状で北条側の記述が輝いているのは足軽やら荷駄やら宗の者やら討ち取ったという
前半部分。そして後半敵が押しなだれてきた時のコメントは「こちらに落ち度はない。」だけ。
もし後半のおしなだれてきた時の戦いを浅利が死んだ戦いとし、北条の勝利とするなら
ここにこそ意気揚々とした記述があってしかるべきだろう。
北条側の軍記である北条記では浅利は前哨戦で討ち死にした事が述べられている。
氏照書状の記述の面から見て北条にとって優位といえた場面は前半と見るべきだろう。
そして北条5代記でも北条記でも共通しているのは前半に北条勢は武田勢を後方から襲い
前半は被害を与えたが深追いするうちに後半、山上にいた武田勢の反撃によって追い払われたという事。
この流れは氏照書状における前半襲いかかり後半山の上の敵が押しなだれてきたという流れと符合を見せる。
また北条勢は武田と滝山で戦い消耗した氏照勢が主力であり、体制を立て直し兵を集めるにも時間がかかったと
思われる。武田勢にしても背後で氏照勢が蠢動していようとも退路を確保する為には先に進む事を
優先するだろう。そして背後からくる北条勢に対して浅利が殿軍を勤めた。
状況の流れとしては、①武田勢、三増峠から甲斐へ帰ろうとする。氏照勢、この情報をつかみやや時間をかけて6、7千の兵を集める。
②氏照勢、三増峠に到着。既に移動中の武田勢の後方から襲いかかる。氏照勢の先衆が武田勢殿軍の浅利隊を攻撃。
③氏照書状にあるように、北条勢は優位に戦闘を進め、武田殿軍損害を受ける。浅利はここで討ち死に。
④この間に武田軍主力は峠道を越えて山上にたどり着き体勢を整える。
⑤武田勢主力による逆襲。北条勢のほうに押しなだれる。北条勢は武田主力の約3分の一、
さらに浅利隊との戦いでも疲弊しており勝てるわけもなく追い払われる。氏照もそれほど無理はしなかったと思われる。
(あるいは落ち度はない、といっているから武田勢が迫ってきた時点で無理せずさっさと退いたのか?)
⑥武田勢はもともと帰還中であり、まだ到着していない氏康勢への警戒もあって甲斐への帰還を優先し、
氏照勢が退いた後さっさと兵をまとめて甲斐への帰路を急ぐ。北条記にも敵は深追いしてこなかったとある。
こんな所だと思うが。
116:人間七七四年
08/04/26 15:56:33 qjVOcr4z
>>114
殿軍は重要な役目だよ。
長谷堂では直江が殿軍を勤めたとされるし、
伊勢長島では織田家の一の長である林が殿軍を勤めている。
後背からくる北条勢を抑えるのはこの作戦において重要だし。
117:人間七七四年
08/04/26 17:32:00 5hg9k5xQ
>>115
まず①やや時間をかけての意味もわからんし、何を根拠にしているのかもわからん。
②に関しては前にも書いたが地理的に無理がある。
三増峠をお互いに普通に行軍してれば正面からぶつかる他ない。
左右に山と川もあるため簡単に迂回できる場所でもないしまた迂回したと言う記録もない、
移動中だろうがなんだろうが迂回もせずに正面にいる2万の相手の後方を突くことなどできようはずもない
また挟み撃ちを狙っている北条軍がそれを行う意味もない、
別に講談にもこの時点で後ろから襲ったなどという記述は存在しない。
そして③、④で決定的な矛盾がある。
④でこの時点で山上へ・・・とあるがあなたが根拠にしている甲陽軍鑑や北条記などでも、
浅利が討ち取られる描写より前に、信玄が山上にいると言う描写が存在する。
つまり浅利が討ち取られる前に武田勢が山上に陣を張ったと言うのは書状だけでなく講談でも設定されている。
この時点で氏照書状の初めで優勢に進めている状況で浅利が討ち取られたはずはない事が確定する。
後は前レスと同様。小田原本軍を待つ氏照軍に対し浅利隊が殿軍として進軍
浅利信種はここで戦死、しかし時間は稼げたのであろう、武田軍はそのまま撤退、
氏康・氏政がまだ来ない氏照も深追いはできず合戦は終了。
信玄に逃げられて残念と書状でもあるとおり、氏照にとってはここで殿軍を討っても名誉とは思わなかったのだろう。
甲陽軍鑑だけその深追いはできず終了の部分に尾ひれをつけて勝ちにしているがその記録が一切ない。
118:人間七七四年
08/04/26 23:22:31 qjVOcr4z
>>117
そっちのほうが根拠不明でわけわからん。
①に関しては書いてあるとおり、氏照勢の兵力と消耗の度合いから。
氏照勢は滝山で武田と戦い消耗した後、6、7千もいるわけがない。
周囲の兵力を集めてそれだけの兵力にするには時間がかかる。
②に関しては上に書いたとおり。氏照達はある程度の兵力を集めなければそもそも
戦いにならないため、兵力を集める時間が必要だった。甲斐に戻るために直進して
急行している武田勢のほうが三増峠に入るのは早いだろう。
挟み撃ちを狙いたくてもその前提である兵力の集結に氏照は手間取っただろう。
講談では甲陽軍鑑は北条が前に布陣するが、北条5代記や北条記では後方から北条が
追跡する形だが。
その割にはそちらが浅利を討ち取った時と設定している後半戦で全然描写がなく、
前半では意気揚々と戦果を書いているのは不自然に過ぎる。宗の者数多討ち取ったと
言っているのも前半だ。実際は浅利くらいしか討ち取ってないし名前もあげてないが。
北条がそうしたと誇張できるだけの下地があったのはこの場面と考えるべきだろう。
小田原本軍を待ち前面に展開するという氏照勢に対して浅利だけぶつけてそれよりはるかに多い
信玄本隊はどうやってどこから逃げられる。無理があるな。
殿軍討ち取って名誉じゃないから詳細書かないというなら、そちらが言う所の先衆同士のぶつかりあいである前半あれだけ意気揚々と書き、
敵が押しなだれてきたというそちらの言う所の殿軍討ち取った後半では口を閉ざしているのは不自然に過ぎる。
それから武田の勝ちとしているのは甲陽軍鑑だけではなく、北条5代記も北条記もそう。
甲陽軍鑑と北条側の軍記では武田の勝ち方はまるで違う。
甲陽軍鑑では深追いできず終了に尾ひれをつけたわけではなく、山上の北条勢を突破して撃破している。
仮に前にいる北条勢に対して3倍の武田勢が押しなだれたとし、突破されているならそれこそ北条側としては突き崩されている
状況だとしかいいようがないと思うが。
119:人間七七四年
08/04/27 00:12:12 bCFJthOx
>>118
まずあなたの>>115のレスに対して③、④で決定的に矛盾があるとした部分を答えてもらえないだろうか?
甲陽軍鑑で有名なシーンに大石遠江を山上から見て信玄が戦いぶりを賞賛したという逸話があって、
この人物こそ後の忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖先であると言うものなんだが、
この逸話が入るのは浅利を討ち取る前。
まぁこの逸話自体は眉唾だが有名で武田軍が山上にいることがわかりやすいので引用する。
しかしこの部分を取るならば
>>③氏照書状にあるように、北条勢は優位に戦闘を進め、武田殿軍損害を受ける。浅利はここで討ち死に。
>>④この間に武田軍主力は峠道を越えて山上にたどり着き体勢を整える。
この展開では矛盾が生じる。その反論が無い。
120:人間七七四年
08/04/27 00:35:21 1o4HXMJK
>>119
わざわざアゲる意味がわからないがまあいい。
そっちがいうようにその手の逸話は眉唾ものが多い。
ただまあ甲陽軍鑑、北条5代記、北条記、でいづれも山の上にあるとしているのは考慮すべきか。
正直いうと主力が山の上にあったのを確認し忘れていた。
氏照書状でいうなら5日夜に津久井筋でまず敵の人数を除いたとある。そして6日朝には敵に襲い掛かったとある。
いづれも武田軍の後方から襲いかかったのでなければおかしい動きだが。前方なら主力からの反撃がある。
北条5代記でも北条記でも共通するのは後方から武田勢に攻撃し、勢いに乗ってそのまま進軍する北条勢が
山に伏せられていた武田勢から反撃され追い散らされている事。
これなら書状と符合してもおかしな所はないな。
121:人間七七四年
08/04/27 03:49:08 bCFJthOx
上げた理由は特にない、気に障ったら許してほしい。
>>120
了解、武田軍が山上にいたことに疑いがないのであれば、
いずれによ序盤の戦闘の後に山上に陣を張っていることが明確になっているため、
ここは疑う余地がなく、その前の記述は本戦とは別であろうと思われる。
講談をもう少し見ていくと荷駄隊等が兵を連れて先行している記述もあるのでそれが相手かもしれない。
どちらも先行した部隊同士の合戦であれば別に後方から戦ったかどうかも問題ではない。
その後、殿軍との合戦になった上で浅利が討ち取られたと言うことだろう、そこももう議論の余地はない。
さて、具体的になってきたのでもうちょっと詰めてみたい。
北条記はそもそも北条五代記なども参考にされてる部分が多い上に
成立年不明で類書まで存在する正直信憑性においては五代記や甲陽軍鑑より酷いと思うが、
とりあえずそれらの元になっている甲陽軍鑑の記述から見れば(北条五代記には甲陽軍鑑を参考にした跡がある)
その山に伏せられていた山県らが北条勢を蹴散らしたとある。
だが逆にこの山県が通ったとされる志田峠に参陣していたらしい
内藤氏の家臣、小川某が戦功抜群として北条家から加増を受けている事がわかっている。
この内藤氏は三増峠に近い所領をもっているため、信憑性は高く、
書状で戦果を捏造するのはどこでもありうることだが
実際に金や領地が動いている家臣の褒美にまで捏造を加えることはなかなかできないだろう。
反面、伏兵を使い、蹴散らしたはずの信玄からそれを評価された書状・感状・褒美などはなく、
北条側の損害も全く不明。
そもそもこの伏兵云々のくだり自体が講談以外に出てこないので評価のしようがないのが現状。
122:人間七七四年
08/04/27 11:53:13 1o4HXMJK
>>121
いや、勝手に議論の余地なしとしないでほしい。
信玄本隊が山の上にいたという事と前半戦が三増峠と関係ないというのは
まるで別の問題だ。
甲陽軍鑑、北条5代記、北条記、でいづれも武田が前半において苦戦したのは
描かれている。氏照書状の前半部分をそれと考えればすっきりする話だ。
北条側があれだけ意気揚々と書いている部分がまるで関係ないなど普通はない。
そして後半において戦果で口をつぐんでいるのもそちらの言うとおりなら不可思議にすぎる。
先行した部隊同士かどうかも怪しい。というかあなたは>>118であげたこちらの言葉に
ほとんど答えていないではないか。こちらには答えさせておいて。
北条5代記は甲陽軍鑑を参照した形跡が確かにある。第4回川中島について触れた所だ。
しかし三増峠での描き方は甲陽軍鑑とはまるで異なる。戦いの経過も位置取りも。
北条記も甲陽軍鑑とは違う書き方だ。一部に参照した後があるからといってすべてが元にされているとは
考えにくいだろう。
何度もいうが甲陽軍鑑と北条側の軍記では武田の勝ち方は異なる。
というより山県は軍鑑では敵の後方に迂回して山上に上って北条に襲い掛かるが
北条側の軍記では山にいて、迫ってきた北条勢を攻撃して追い払っている。
最終的に追い払われようともそれまでの戦いで奮闘した家臣に対して褒賞を出すのはおかしくない。
というより北条としてはこの戦いを自分達の勝ちだとして主張したかったはずだし。
川中島で前半有利に進めながらも後半川中島から撤収した謙信も家臣達に感状を出し褒賞している。
それでも敵が押しなだれてきたという他ならぬ氏照のコメントと前半あれだけ意気揚々と書きながら
後半口をつぐんでいるという不可思議な事実がある。武田が勝利を主張している事実も。
武田にしてみればこの戦いはあくまでも追い払えばよかったので深くも追撃しなかったし
北条側も前半の疲労から無理をせずに引いたのだろう。なにせ5日の夜から6日の朝、そして日中と
戦い続けて疲労がないはずもなく、そこを3倍の敵に押しなだれてこられては引くの当然。
それから信玄のほうも古屋氏に対して感状を出していたはずでは。
まずそちらは>>118でこちらが聞いていることの質問にまず答えてほしい。
それから返レスは例によってかなりおそくなるのでよろしく。
123:人間七七四年
08/04/27 22:37:30 bCFJthOx
>>122
いや悪いが、下の要素だけははっきりしてくれないと他の話に付き合う気になれない。
まるで別の問題でもなんでもない。
氏照書状(簡易)
5日 ①荷駄隊相手に勝利したらしい
6日 ②朝そのまま先行してた足軽らを倒したらしい。
③武田軍山上へ
④兵が押しなだれてきたとする記述。
⑤信玄に逃げられて残念
・三種の講談全てに武田軍が山上にいることが描かれている。
・そしてその後に浅利が討ち取られる場面が出てくる。
↓
「そのため三増峠合戦は③以降の話であることは間違いない。」
「②の時点で浅利を討ち取ることは不可能である。」
これはまず客観的に考えて当然の流れだよね?
これを覆すなり同意するなりしてくれないと、他の話をされても矛盾を抱えたままなので意味がわからない。
124:人間七七四年
08/05/01 23:23:58 Crex7nb1
一説によると浅利を撃ち取ったのは綱成指揮下の玉縄衆か小机衆の鉄砲隊だったらしいね。
125:人間七七四年
08/05/02 08:11:52 My34Q5e3
北条涙目やなw
126:人間七七四年
08/05/03 00:39:00 nandsITX
>>123
いちいちなぜにあげるのか本当に不思議なんだけど。
>>118でこちらが事実を挙げているのだからそっちもこちらに答えさせた以上
答えるべきだろう。
ならこちらも事実をあげてみようか。
①三増峠の戦いは武田北条の軍記ではすべからく前半と後半があった事になっている。
前半北条優勢、後半武田逆襲して北条撤退。これも共通した流れ。
②武田の軍鑑では小荷駄は内藤に引率されて後方から進軍。浅利は殿を務める。
③軍鑑では三増峠で戦った北条勢の周囲は切所であったとされている。
これは氏照文書前半の小荷駄を崩し足軽倒して宗の者を多数倒した所が切所であったというのに一致する。
この時点でそちらのいうように前半の戦いを切り離して考える事は困難。
④浅利の死亡が戦闘終盤であるとは武田北条の軍記双方共にしていない。
軍鑑では中盤、北条記にいたっては前哨戦で死んだとはっきり言っている。
いずれも武田の逆襲前。ちなみに軍鑑では浅利は鉄砲で死に、曽根が指揮を引き継いで戦い抜いてる。
⑤そして氏照書状では後半山にいた武田が押しなだれてきたという事に対して、前半あれだけ意気揚々と書いていた氏照文書が
口をつぐんで「こっちに落ち度はない」だけ。
⑥そもそもこの氏照の書状は上杉に虚勢を張った書状で小田原焼かれた事は隠している。
これらの事から見てもそちらの言うように終盤に武田の殿だけが突っ込んできてそれを討ち取ったけど
名誉じゃないから書かなかった、というのは無理がある事がわかる。それならその書状前半で意気揚々と
戦果を書いているのはなんなんだという事になる。宗の者を多数討ち取ったといっているのも前半。多数も討ち取ってないけど。
そして>>118でも書いたけど、そっちの論では氏照勢は小田原勢と挟撃する為に武田の前面に展開しているんだろう?
それで殿の浅利だけぶつけてその他の武田軍主力はどこをどうやって逃げたんだ。無理だろう。
仮に前面に北条勢が展開していたとして、3倍以上の武田勢が押しなだれて突破したというなら
それは北条が突き崩されている状況だとしかいいようがないだろうと聞いている。
ここら辺はどうなのよ。
127:人間七七四年
08/05/03 00:56:42 jWRe1Auy
あんたは根拠挙げて論理的な見解述べてるけど、絡んで来てる奴は根拠無い妄言連ねてるだけで言ってるレベルが低すぎる。
かなり知能が低いことは明白だし、どう見てもバカが事実に関係無く単に武田が負けたと言いたいだけ。
いつまでも絡む意味無いと思うが。
128:人間七七四年
08/05/03 04:53:15 aY4S/pKx
>>126
とりあえずまた上げてしまったことは本当に申し訳ない専ブラが何かおかしかったらしい。
さて一つ一つ答えていこうと思う
①に関しては講談で前半は北条軍が優勢、後半は武田軍が優勢という流れになっている。これは文字通り。
ただし前半で優勢という部分が氏照書状における前半の部分と一致する根拠は一切無い。
逆に氏照書状でははっきりとその優勢だった「後に」武田軍が山上に陣を張ったという描写が存在する以上、
北条記でも甲陽軍鑑でも浅利を討ち取ったときには武田軍が「既に」山上にいるという描写とはっきり矛盾する。
前レス・前々レスから俺はこの一点を問い続けている。
③は山上にいる武田側の一部(殿軍)が三増峠側に居る氏照軍に襲い掛かってきたのであれば切所で矛盾は無い。
④は①と同様、前半で優勢という部分が氏照書状における前半の部分と一致する根拠は一切無い。
⑤はそのまま、信玄に逃げられた以上、
他の連番はあえて言及する必要性があるようには思えない。
>>殿の浅利だけぶつけてその他の武田軍主力はどこをどうやって逃げたんだ。無理だろう。
一本道の三増峠をずっと通っていたのであれば中央突破以外不可能だが、
武田軍は途中で山に陣を張ったのだから、殿軍が一方から三増に向かって下山して氏照にぶつかり、
もう一方の本軍は山の反対側から志田峠の方面に抜ければ問題ない。
実際に講談ではその後、志田峠に別働隊がいて・・・という展開になっていくが、
これはまぁ講談以外に論拠が無いのではっきりしてるとは言いがたい。
しかしあなたの疑問自体はそもそも講談の中で語られていることであるとも言える。
押しなだれてきたのは浅利の殿軍であろう。
そして武田軍は志田峠方面に撤退したが浅利は討ち取られて死亡。
129:人間七七四年
08/05/03 08:10:02 Y8uxaxEk
その後の展開を見てみれば駿河は武田に奪われ
氏康が死んで人質差し出してまで同盟結んでもらい
なおかつ武田上洛に援軍をよこすんだから
北条がいかに涙目だったかわかる
130:人間七七四年
08/05/03 11:05:05 nandsITX
>>128
いや、あるだろ。浅利が死んだのも小荷駄が危なくなったのも
戦闘開始以後武田逆襲前。他ならぬ氏照の書状に小荷駄を崩して宗の者を多数~と
あるのだからそれでぴったり一致するだろう。
ぶっちゃけた話、峠道を移動しながら戦っているんだから山と山を移動してるなんて
普通にあるだろう。氏照勢先衆が戦っている間も山にいたっておかしくない。
その突っ込んだのが一部でしかないという根拠がまるでない。山上にいる敵が押しなだれてきた
といっているのだからその山上の主力が突っ込んできたと考えるのが自然。
むしろそっちの言っている前半が一致しない、後半は浅利が突っ込んできただけ、というのが
そもそも一切根拠がない。前半部分を北条優勢場面と捉えれば押しなだれてきたのが武田の逆襲となり
すっきりするのに。北条が口をつぐんでいる事実と武田が勝利を主張してる事実とあわせて。
信玄に逃げられた以上、だけですませないでほしい。信玄逃がして悔しい、とわざわざ後に書いてるくせに
浅利隊相手に戦い勝利した戦果は述べないとかありえない。勝ったならば。
勝ったなら意気揚々と前半部分のようにいかに敵を崩したかを書き連ね、その上で信玄を逃がしてしまったと
書くべきだろう。いきなりここで口をつぐんでいる事の不自然さが残りすぎる。
一部隊でなく武田軍主力が本道ではなく、志田峠のほうに迂回して抜けるのか?凄くシュールな光景だな。
というかそれは軍鑑における山県勢の背面迂回コースじゃないか。
2万近い武田主力が北条の背面に回ったなら北条にすれば全軍崩壊の危機だぞ。武田はその状況でも北条に何も
しないのか?ありえないだろう。
だからその押しなだれたのが浅利だけという根拠が一切ない。志田に本軍が進んだという根拠も。
131:人間七七四年
08/05/03 18:32:11 2ioy1rR0
>>130
>>戦闘開始以後武田逆襲前。他ならぬ氏照の書状に小荷駄を崩して宗の者を多数~と
あるのだからそれでぴったり一致するだろう。
北条記でも甲陽軍鑑でもこれらの流れが一日以上経っている描写は無いが
氏照の書状では押しなだれて~とやらのくだりの前日からの事項であることがわかる。
そこも一致していない。
>>ぶっちゃけた話、峠道を移動しながら戦っているんだから山と山を移動してるなんて
ずっと山を移動していたのであれば書状の中であえて「山に陣を張った」というような事を書く意味が無い。
>>山上にいる敵が押しなだれてきた
>>といっているのだからその山上の主力が突っ込んできたと考えるのが自然。
いや書状で山に陣を張るときに敵の人数がこちらの方へ来たとか言ってたはず、
と言うことは主力は山に陣を張ったままじゃないとありえない描写だろう。
というか山に陣を張り始めたのに、終わらないうちに全軍こっちに流れてきたんじゃ
なんのために山に登りかけたのか意味わからん。
>>前半部分を北条優勢場面と捉えれば押しなだれてきたのが武田の逆襲となり
>>すっきりするのに。北条が口をつぐんでいる事実と武田が勝利を主張してる事実とあわせて。
>>信玄に逃げられた以上、だけですませないでほしい
武田側はその部分で勝利を主張などしていない、あなたが甲陽軍鑑の内容から主張してるだけでしょう。
武田の勝利の主張は2000人と氏邦・氏規を討ち取ったぜ俺の勝ちだぜっていう
もう考察のしようがないあの信玄の書状でしょ。
>>信玄逃がして悔しい、とわざわざ後に書いてるくせに
>>浅利隊相手に戦い勝利した戦果は述べないとかありえない。勝ったならば。
>>勝ったなら意気揚々と前半部分のようにいかに敵を崩したかを書き連ね、その上で信玄を逃がしてしまったと
>>書くべきだろう。いきなりここで口をつぐんでいる事の不自然さが残りすぎる。
浅利隊相手に勝利したと言っても所詮は殿軍、信玄を逃してしまったことの方が口惜しかったと言うことだろう。
そもそもその言い方であれば前半部分で浅利を討ち取ったと言うことに触れないのもおかしいと言うことになるだろう
最初から氏照の書状では人物の内容にはあまり触れていない。それが不自然だと主張したところで
そんなものは書き手の自由だろう。
志田峠は講談の内容以外に出てこないからあまり考察しても意味無いが
ここを抜けても三増峠に出るだけで信玄が甲斐の方へ逃げていて氏照が追っている状況でもなければ
後ろはつけない。甲陽軍鑑の作者はその状況を想定したのだろう、
実際には書状でもわかるように氏照がそこまで深追いしたようには思えないのだが。
またこの道は現在の宮ヶ瀬ダムの方へ抜ける道で整備される前だとしても
三増峠とさほど変わらない道に思える、まぁ山上に陣を張った時点で津久井の方へもいけるわけだし。
正面突破しなきゃいけないわけではない。
132:人間七七四年
08/05/03 18:36:25 6TVnTJ1Z
武田の壮大な釣りの伏せにまんまとかかり北条涙目
133:人間七七四年
08/05/03 19:19:25 nandsITX
>>131
書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと
見ればいいだけの話。むしろ明らかに小荷駄を破り、足軽も崩されて宗の者も討ち取ったという
武田・北条の軍記双方が主張する事項が起きているのにそれを丸無視する姿勢が理解できない。
山を移動してたけどある地点で立ち止まって体勢を整え反撃に転じただけだろう。
何もおかしくはないだろう。
本陣が司令部として山に座し、残りの部隊が攻勢に転じるのは戦闘の形として普通の事だろう。
つーかそっちの主張してる浅利だけ突出して武田軍撤退なら山に陣をしいてる場合じゃないだろう。
浅利突出させてさっさと逃げないといけない。陣を構えている時点でそっちの主張とずれが生じている。
その部分で、とかいう以前に武田が勝利を主張してる事実に述べたまで。
考察のしようがないとなぜいえる。書状に誇張が入るなんてよくある話で
実際北条自身がこの書状で宗の者を多数討ち取ったとか小田原やかれたのを隠したりとかして
誇張してるだろうといっている。双方に勝利を主張できる下地があったと考えれば自然な話。
めちゃくちゃ矛盾してるぞ。そっちの主張では前半の記述部分は双方の先発隊同士による小規模なものなんだろう?
それは意気揚々と書いて、後半に殿軍を討ち取り浅利も倒したのにその事は名誉じゃないから書かなくて、
その理由が書き手の勝手?ありえないだろう。
浅利を討ち取ったかどうかなんて軍記によれば鉄砲なんだし、そもそも北条が認識していたのかという問題もある。
だが氏照は書状の前半部分ではっきりと宗の者を多数討ち取ったと述べている。
無論誇張が入っているが北条にもそう誇張できるだけの下地があったと考えられる部分だ。
先発隊同士の小規模なぶつかり合いじゃこんな事ありえない。
北条が前面に展開していて三増峠に陣している状況なら、志田峠から抜けられたら背面につかれる事になる。
そっちのいう展開なら前面に浅利がつき、後方には2万に近い武田主力がつく事になる。
全軍壊走したっておかしくない包囲殲滅の危機だぞ、これは。
なんでいきなり回り込んでも何もしないで帰るんだよ。
なんかそっちの主張を検証すると武田が大勝でないとおかしい状況になるんだが。
俺はほどほどに追っ払ってさっさと帰った程度にとらえているのだが。
2万近い大軍を本道を進ませずに前面に敵を控えたまま離脱するとかまずありえない。
軍鑑では武田はわざわざ部隊を複数にわけ複数のルートから進撃させている。
大軍勢の移動にはそれだけの手間がかかる。志田峠一本でいけるものではなかろう。
第一そっちの言い分だとこの戦いが三増峠で行われたという事自体が覆る事になるだろう。
志田峠で武田本軍が移動したなんていう根拠は一切ない。
134:人間七七四年
08/05/04 00:23:36 twpwYDGf
>>書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと 見ればいいだけの話
135:人間七七四年
08/05/04 01:06:43 twpwYDGf
>>書状では前日からの事項であっても、講談にした時に流れが簡略化されたと 見ればいいだけの話。
書状の方で簡略化されたものとして、講談でその部分を引き伸ばしたというのであればわかるが、
講談の方で作者が勝手に簡略したと言うのであれば、それはただの創作ではないか。
書状で前日であると書かれていることを無視する理由になるはずがない。
>>むしろ明らかに小荷駄を破り、足軽も崩されて宗の者も討ち取ったという
>>武田・北条の軍記双方が主張する事項が起きているのにそれを丸無視する姿勢が理解できない。
それが前日に起こったというだけのこと、書状でそう書いてあるのだから。
荷駄を破ったことも講談では一致してないぞ。
甲陽軍鑑でも荷駄が重要だ~云々と内藤を信玄がなだめている場面が出てくるのが合戦の前日で
氏照書状の前日の場面の勝利と時間的には一致する、まぁ甲陽軍鑑で氏照の活躍など書くわけないので
一致するのはここまでだが、そもそもその翌日の戦いで
浅利が討ち取られる場面はあるが荷駄隊が崩される場面は出てこない
にもかかわらず信玄が荷駄隊を気にしている場面が唐突に出てきているのは
よく考えてみれば奇妙ではある。
>>山を移動してたけどある地点で立ち止まって体勢を整え反撃に転じただけだろう。
>>何もおかしくはないだろう。
講談では途中で山に登った事が書かれてるじゃないか。
甲陽軍鑑では馬場らが攻撃部隊を務めて、2番手に勝頼その殿軍を浅利がつとめていて
残りのものらは夜のうちに山上へと向かったことが書かれている。
しつこいようだがこの辺の編成は講談だから信用してないがね。
だが書状でも山についたことは書かれている、講談・書状に書かれている場面なのであれば
やはり信憑性は格段に上がる。
>>北条が前面に展開していて三増峠に陣している状況なら、志田峠から抜けられたら背面につかれる事になる。
>>そっちのいう展開なら前面に浅利がつき、後方には2万に近い武田主力がつく事になる。
位置関係がよくわからない。志田峠からどこを抜けて三増峠にいる氏照の背面をつくのだろうか?
前のレスでも書いたが、氏照らが撤退する武田本軍を深追いするならば起こりうるが
それ以外には位置的に奇妙すぎる、
北にある滝山や津久井方面から南下して三増峠に向かった氏照の後ろを
三増峠よりずっと南にある志田峠を抜けてどうやって後ろをつくのか。
まぁこれは講談の山県らにもそのまま言えることだが。
136:人間七七四年
08/05/04 08:07:47 Qu5zAPK6
浅利浅利うるせーやつだな
小田原焼かれ 駿河奪われ 涙目なのは北条だろうが
137:人間七七四年
08/05/04 13:11:24 Thxhlcp7
>>135
創作じゃないだろう。
実際書状に書いてある事項と軍記に記された事項が一致しているのだから。
北条の軍記は北条遺臣として参戦者もしくは口伝を聞き、それを参考にしてまとめあげたが
その過程で日付に混同が起きたか、もしくは簡略化されたか。
どっちにしろ内容が一致しているのに日付だけでつついてそれを全部無視する方が異常だろう。
だから、前日に北条は優勢で押したけど次の日に武田に逆襲されただけの話だろう。
なぜここでこじれる。
軍鑑では内藤はよい小荷駄をえりすぐって進撃に専念させていたはずだ。
戦闘において小荷駄の運搬が苦しくなったという傍証にはなるだろう。
前日の氏照の活躍を軍鑑が~というなら、そもそもそんなものは北条側の軍記にも
書かれていないではないか。
だから峠道を移動しながら戦っているのだから複数の山を移動しているはずだろう。
山を移動し峠道に下って移動し、また先に進んだ所に山があっただけの話だろう。
峠道なんだからひとつしか山や隆起がないわけじゃないだろう。
山県隊は志田沢上の山を伝って沼へ向かいにろねを目指したとされる。
このにろねが韮尾根なら三増峠に陣している氏照勢の後方に回り込める。
文字通り絶好の体勢で後方につける形になるな。山県5千どころか2万の武田主力にこれをやられたら
悲惨な事になるはずだが。
138:人間七七四年
08/05/05 03:38:01 YXq+MZ0l
>>137
>>その過程で日付に混同が起きたか、もしくは簡略化されたか。
では当時の本人の書状を優先すべきだろう、物語を基本に考察する意味など全くない。
>>どっちにしろ内容が一致しているのに日付だけでつついてそれを全部無視する方が異常だろう。
書状で言うように小荷駄隊やらを打ち破ったんだろうが、それ以上のことは書いていない。
全部無視などはじめからしていない、書状に書いてあるとおり荷駄隊や兵を討ち取ったというところだろう
ついでに言うと一致していると言うが講談で荷駄隊らを討ち取った描写ってどれにあったっけ?
少し忘れてしまった。
>>だから、前日に北条は優勢で押したけど次の日に武田に逆襲されただけの話だろう。
逆襲されたとする講談までの間が足りない、
前日の北条優勢だった部分で荷駄隊やらは倒したのだろう(氏照書状のみ)
武田軍は山に陣を張り(氏照書状・甲陽軍鑑・北条五代記・北条記は既に陣を張っていたような描写)
その一部が襲い掛かってきた、(氏照書状・甲陽軍鑑)甲陽軍鑑ではそれが馬場や浅利らなわけだが
その戦いで浅利や浦野などが死んだのであろうということ。
(軍鑑・五代記・直後の武田側の編成・新編会津風土記)
この後に山県らが志田峠を抜けて北条軍を破ったと言う流れになる(甲陽軍鑑)
でもこれはやはり位置的に不自然と思ったのか北条記などでは、
追ってきた氏照らが待ち伏せされていると言うような記述になっている。(五代記・北条記)
いずれにせよ氏照らは半原の方へ撤退したらしい(甲陽軍鑑・五代記・北条記)
ちなみに山県らのくだり以降が講談以外にあるのか俺は知らない。
ついでに甲陽軍鑑と五代記などで設定戦場も状況も全然違うのに、
最後は甲陽軍鑑に揃えて半原に逃げたことになっているあたりやはり不自然さが残る。
単に甲陽軍鑑を参考にした可能性が高いように見える。
>>だから峠道を移動しながら戦っているのだから複数の山を移動しているはずだろう。
>>山を移動し峠道に下って移動し、また先に進んだ所に山があっただけの話だろう。
>>峠道なんだからひとつしか山や隆起がないわけじゃないだろう。
降りて上ったなどという事はどの講談にも書状にも記録にも残ってない。
書状にまず記述があり、講談でも山にあがった描写があって、
客観的に考えてもまずは通りやすい道を進んでいって
前方の氏照軍を察知したことで避けるように初めて山に布陣するという事に不自然な点はない。
そしてその前の行軍中に登って降りてを繰り返していたような描写はない。
>>文字通り絶好の体勢で後方につける形になるな。山県5千どころか2万の武田主力にこれをやられたら
>>悲惨な事になるはずだが。
この辺のくだりは上でも言ったが甲陽軍鑑にしか出てこない。
その甲陽軍鑑ですら、山県らが峰伝いに登っているのを北条軍がはっきりと見ている描写がなんと存在する。
しかし、北条軍が舐めてかかっていたため(笑)撤退中なのだと放置したと言っている。
なんともはや考えられない非常識な状況だが、それでも北条軍が油断したからこそ
ありえる状況だと言う事を記載しているあたり、軍鑑はやはり他の講談より設定は重視しているのかも、とも言える
まぁどっちにしろこの状況でその見えた相手が信玄の本軍そのものだったら後ろに回られるまで放置とか
確実にありえない・・・っていうか山県ら5000でも普通ありえない。
講談ならではの活劇と言う感じで場面はカッコよさげなので、小説の作者として実力あるなとは思うが。
139:人間七七四年
08/05/05 06:01:36 LlocksCD
自分に都合が悪くなるとなんでも講談だから~か
いいかげん飽きた
140:人間七七四年
08/05/05 10:26:43 W/L+d3jn
>>138
当時の本人の書状をもとに考察するなら前半は意気揚々と書いてるけど
後半武田勢が押しなだれてきた、という所には口をつぐんでいて、武田が勝利を
主張していて、そもそも氏照の書状は上杉に虚勢を張った書状だという事実が残るだけなんだが。
荷駄隊については内藤がよい小荷駄をえりすぐって進撃させている事が軍鑑にある。小荷駄の進撃が苦しくなった傍証にはなるだろう。
というかそちらは小荷駄の事は主張するが、宗の者の事は主張しないのか。
そちらは後半に浅利達が突貫して死んだと主張してるくせに、後半の氏照がその事には一切触れないどころか
口をつぐみ、さらには前半の記述で宗の者を討ち取ったと主張しているのが矛盾しているだろうが。
だから、その部分に関しては悪いが無理があると述べているだろう。>>133の時点ですでに。
まず浅利の部隊だけが突貫したなんていう根拠は一切ない。軍鑑でも5代記でも浅利だけが突貫したなんて
記述は一切ないぞ。武田側の編成って何を元にしている。
そちらの主張どおり浅利の部隊だけ突貫させて本隊が逃げたというなら山の上に陣を敷いている場合じゃないだろうと
言っている。むしろ本陣が山に座し他の部隊が攻勢に出ていると考えれば普通の戦闘行動としておかしくない。
まずはこれに答えてみてくれ。
山県の背面迂回がルート上は無理でない事は後半に記した。韮尾根から三増峠の後方に回り込めば可能だ。
位置的に不自然とかいう問題ではなく、北条側に伝承されていた三増峠のあらましがそうだっただけの事だろう。
俺は北条勢が後方から追跡してきたのを武田が追っ払ったという考えなのでね。
氏照が半原に逃げたという点で敵味方の記述が一致している所は興味深い符合だと思うがね。
そっちは戦場も状況も違うといいながらこの点だけは符合しているのが参考にしてるだけとかおかしいだろう。
山県らの攻勢は軍鑑の背面迂回ルートならともかく、氏照の書状には武田が押しなだれてきたとあるのだから
北条記・北条5代記には一致している。これは無視できまい。
三増峠近辺は山や隆起がいくつも存在している地点だ。ここを敵を警戒しながら進んでいけば自然に
上り下りを繰り返す事になるはずだが。そして敵を察知して敵との戦闘を決意し手ごろな山に陣を構えるというのも。
軍鑑では山県勢の機動を見て逃げようと勘違いしていた北条勢は前面の武田勢に向かって攻勢に出るはずだが。
綱成も小田原に向けて好機だと急使を走らせるはずだが。
油断ではなく、前面の武田勢本隊への攻撃を優先しただけという感じだが。
いっとくが韮尾根から三増峠に回りこむまでは途中に介在する山がカモフラージュの役目を果たす。
途中までは見えたかもだが韮尾根に達した時点で氏照勢には山県勢の動きは見えなくなるはずだが。
そこから山際を回りこんで機動すれば三増峠の後背に余裕で到達できるが。
何度もいうがそっちの言うとおり志田峠に武田本隊が進んだという根拠は一切ない。
浅利のような宗の者が終盤に討ち取られたという根拠も一切ない。
そっちの言うとおり浅利だけ突貫させて本隊が逃げたなら山に陣を敷いている場合じゃない。
そっちの言うとおり前半が先発隊だけ進ませた小規模な戦いなら小荷駄が崩されたり宗の者が死んだりするのは
おかしい。
>>133からのこれらの疑問にまずは答えてもらえないか?
141:人間七七四年
08/05/06 17:12:41 lPsL6A73
>>140の者だが、GW明けは予定が立て込むので次にレスが出来るのは
相当後だと思われる。返レスあったら書いといて。
142:人間七七四年
08/05/06 23:42:39 fYHMed+l
>>140
>>書状について
押しなだれてきたというのは武田軍が攻めてきたという事以上の何物をも示していない。
この氏照の書状が上杉家に対するものである以上、場面の違う先衆同士の戦いで勝利を主張するまでは良いが
その後の結果を語る部分でまで勝利を主張してしまった場合、兵を出さなかった上杉家を容認してしまうことになる。
そして信玄に逃げられてしまったという事に対しても、その事において北条家には落ち度がなく、
上杉家が兵を出さなかったためということにしなければ氏照の外交官としての責務は果たせない。
ただ書状に関する考え方はそこがスタートでいい。
信玄の書状がその中で信憑性に著しくかけるほどに矛盾があるゆえ除外されるというだけで、
講談はあくまで参考資料の域を出ない。
>>宗の者の事は主張しないのか。
これだけでは特定のしようがないゆえ、そのままでは言葉以上の意味はなく無理にこじつけるつもりもない。
浦野氏など、この合戦で死んでいる人物は浅利信種だけというわけでもないわけだし。
>>だから、その部分に関しては悪いが無理があると述べているだろう。>>133の時点ですでに。
>>まず浅利の部隊だけが突貫したなんていう根拠は一切ない。軍鑑でも5代記でも浅利だけが突貫したなんて
>>記述は一切ないぞ。武田側の編成って何を元にしている。
誤解があるようだが浅利隊だけが突撃したとは思っていないし、一言も言っていない。
過去レスを見たがあなたの>>118で初めて「浅利隊だけ」と言いはじめ、以後そのまま話を続けているようだが、
あくまで書状における「押しなだれてきた」という攻撃部隊の中で殿軍を務めて、戦死したのだろうというだけ。
編成については甲陽軍鑑になるが
山県・小幡らが志田峠へ、馬場・勝頼・浅利らが攻撃に参加。
残る部隊は山上へ布陣という流れになっている。だから
>>むしろ本陣が山に座し他の部隊が攻勢に出ていると考えれば普通の戦闘行動としておかしくない。
これに対して否定する意味もなければ問題もない。
その攻勢に出た部隊の一人が浅利隊であり、その時に戦死したのだろうということ。
>>北条記・北条5代記には一致している。これは無視できまい。
この講談は氏康世代の賛美が強すぎて全く参考にならない。
例えばこの合戦で言えばまず日数からして大きく誤記がある。
信玄が甲斐を出てから4~5日でこの三増峠合戦までの話につなげているが、
その前に信玄は滝山や鉢形を攻めているのでこんなに短いはずはない。
しかし作者にとっては氏康が三増峠に遅れた理由をもっともらしくすることの方が重要であって氏照らの活躍などまるで眼中にないのだ。
そもそも汁かけの話やら麦の話やら悪意に満ちてる講談なので、参考にすらしにくい。北条贔屓といってもそれは氏康の活躍まで。
それこそ氏照自身が書状で勝利を主張している部分は完全無視しているのに
氏康に関しては武田軍を1000人討ち取ったなどといっている、
追撃できるなら本戦に遅れるなよ!と突っ込みたくなる。
まぁ甲陽軍鑑でも跡部らの評価は酷いし、氏政や勝頼の世代は直接、徳川家康に関係のある世代ゆえに
時代背景柄仕方ないことではあるのだが。ここは今回一番わかってもらわなくては困る部分。
>>三増峠近辺は山や隆起がいくつも存在している地点だ。ここを敵を警戒しながら進んでいけば自然に
>>上り下りを繰り返す事になるはずだが。そして敵を察知して敵との戦闘を決意し手ごろな山に陣を構えるというのも。
別にそれで良い、その手ごろな山に陣を張ったというのが
書状にも講談にも記されている時点で十分すぎる。
①先衆やら荷駄隊やらを倒したらしい。
②山上に陣を張ったらしい
③攻撃隊の中にいた浅利信種が戦死したらしい
書状では①、②の順番で③ははっきりしないが
講談では②、③の順番になっているので矛盾しない。
>>何度もいうがそっちの言うとおり志田峠に武田本隊が進んだという根拠は一切ない。
山の上に陣を張ったのであれば津久井筋に逃げるなり志田峠を抜けるなり
いくらでも撤退できる一つの例以外のものではない。
143:人間七七四年
08/05/11 12:43:03 yLgUbRl/
>>142
上杉家を容認する事になんか全然ならんと思うが。
そんなに上杉家を非難したいなら小田原焼かれた事をしっかり書けばいい。
本拠を焼かれるなんて北条にしてみれば上杉のせいにするには格好の材料だ。
後の部分でも「勝ったなら」意気揚々と勝利を述べて主張して後一歩だったのに
信玄を取り逃がしてしまった、お前が助けなかったからだ。といえばいいだけの話。
後半のあんたいわく浅利だけ突貫したのを撃破した部分の詳細を書かない理由にはならない。
信玄も北条も戦果を誇張している。ただそれだけの話。双方が勝利を主張しているのは
双方が勝利を主張できる下地があったと見るのが自然。北条が後半で口をつぐんでいるならなおさら。
宗の者を討ち取ったという大きな戦果を書状前半、しかもあんたいわく小競り合いでは
意気揚々と書きながら後半のあんたいわく浅利を討ち取ったところでは一切書かないのが
おかしいといっているんだよ。
あんたは確かに突貫してきたのは浅利だけといっている。
>>113のレスをあげてみれば
>>そこで書状では武田軍の兵がこちらへ押しなだれてきたとある、これこそが殿軍の浅利信種隊であろう。
>>その後の合戦の経過はわからないが、浅利信種は戦死し、武田隊は甲斐へ撤退した。
こういっているのにいきなりこちらに責任を押し付けるような言い方はずるい。
攻撃部隊の中で殿なんて言い方もあなたは>>113では一切使っていない。
>>117でもそうだ。あんたは氏照勢に対し浅利は殿軍としてそのまま進軍とはっきり言っている。
他の部隊の事なんか一切触れてなかったのに今になっていきなり主張を変えるのはひどい。
氏康賛美があるからこそ、この戦いではわざわざ史実にすらない追撃して千余り討ち取りを主張した。
そして氏照達の活躍を書かないならその被害を過小化したり、敗走したことを仕方がなかったと
書く理由なんかない。この北条記でも氏照達がちゃんと前哨戦では浅利を討ち取っている事を記し
北条勢として活躍した事を述べているのに、参考にすらしないとか一方的に切って捨てる姿勢には
賛同できない。
だから、もともと移動を繰り返している時点で山を移動し続ける事になる。
だったらその二つの場面において違う山にいてもおかしくないというか自然だ。
いきなり攻撃隊の中に浅利がいて死んだ事にしないでほしい。
上であげたがあんたは最初に浅利だけ進軍したという風に言っている。
そして浅利が時間を稼いでいる間に本隊は逃げたと。
それなのになんなんだこの書き方は。
どっちにしろ浅利が武田逆襲の時に死んでいるなんていうのは軍記でも書状ですら
確認できないんだよ。書状で宗の者を討ち取ったといっているのは何度もいうが前半だ。
だからその理屈ではこの戦いが三増峠の戦いだという事自体が覆るといっている。
武田も北条側もこの戦いが三増峠で行われたという点では一致しているというのに。
後、>>140の行末の他の3つの質問には答えてもらっていないよ。まずそこに答えてもらいたい。
一週間後にまた来るからよろしく。
144:人間七七四年
08/05/11 12:49:23 yLgUbRl/
>>143に追記しておく。
>>142ではあなたがスルーしている武田勢本隊が志田峠に移動したなら
三増峠にて武田軍の前方に位置する北条勢の後背に回りこめる、
これをやられたら北条勢が悲惨な事になるという事実をどう思っているのか。
これにも答えてほしい。
145:人間七七四年
08/05/11 21:11:06 +l4dIlSE
>>144
目の前の本体が山に向かっていったら追いかけるんじゃね?
146:人間七七四年
08/05/12 02:31:30 AGUZR+pX
>>143
>>そんなに上杉家を非難したいなら小田原焼かれた事をしっかり書けばいい。
この書状は滝山で篭城していた氏照の書状であって
小田原の状況はまだはっきりとはわからない。
>>意気揚々と勝利を述べて主張して後一歩だったのに
>>信玄を取り逃がしてしまった、お前が助けなかったからだ。といえばいいだけの話。
言ってるじゃないか、書状でそうはっきりと。
さて浅利隊だけが突貫したと勘違いさせたのであれば訂正する。
ただ論点がずれるのは嫌なのと甲陽軍鑑の引用が多いので馬場らの話をわざわざしたくないと言うのはある。
誤解をさせたのであれば改めて言う、浅利隊だけがと主張したつもりもないし主張する意味もない。
>>どっちにしろ浅利が武田逆襲の時に死んでいるなんていうのは軍記でも書状ですら
>>確認できないんだよ。書状で宗の者を討ち取ったといっているのは何度もいうが前半だ。
書状では浅利の事自体が記載されていないので当たり前、もちろん宗の者というのが浅利だとする論拠もない。
五代記では浅利の事自体記載が微妙。北条記は突っ込みどころが多すぎて参考にしようがないが
武田に逆襲される前の項で浅利らの項が出ると言う流れは同じだ・・・・が
北条家が襲った事になっていてこれは書状と大きく矛盾する。ルートも矛盾する
時間も矛盾する。位置も適当。はっきり言って北条記は矛盾が多すぎて考察に値しない。
甲陽軍鑑では馬場や勝頼が攻撃するのと同じ場面で浅利が討たれる描写があって
その前日に馬場らと浅利らが同じ部隊である事が示されている。
書状でももちろんそれと矛盾する記述などない、むしろその宗の者が浅利であるとする論拠こそない。
そこをふまえて>>140 行末三行に関して言えば
・浅利がいつ死んだかなど最初からわからない。だが前日に死んでいるとすると矛盾する場面はある。
・浅利だけ突貫したなどとは考えていないので、誤解させたのであれば謝罪する。
・宗の者と言う言葉が具体的に浅利を示す論拠を教えてほしい。
>>だから、もともと移動を繰り返している時点で山を移動し続ける事になる。
>>だったらその二つの場面において違う山にいてもおかしくないというか自然だ。
その山に陣を張ったというのが
書状にも講談にも記されている時点で十分すぎる。 違う場面であるとする根拠がない。
「山に陣を張った後に攻撃部隊が北条軍へと攻撃」という流れが全く同じである以上分けて考える理由がない。
①先衆やら荷駄隊やらを倒したらしい。
②山上に陣を張ったらしい
③攻撃隊の中にいた浅利信種が戦死したらしい
書状では①、②の順番で③ははっきりしないが
講談では②、③の順番になっているので矛盾しない。
また甲陽軍鑑で山県らが志田峠に向かうのを氏照が見て「逃げている」と勘違いした理由に
それまで弱い相手と戦っていたからだと言うようなくだりがある。これは①を示しているとも言える。
少なくとも本戦前に北条家が優勢に合戦していたらしき事があって、
その時点では当然、浅利は亡くなっていない事が示されているということ。
147:人間七七四年
08/05/17 15:55:02 Wp8HnyZQ
>>146
まずひとつずつ行こうか。
氏照達が氏康達との挟撃を狙っていたのなら当然小田原方面における情報は
持っていたはずだし、武田軍の帰還コースを知って追跡している事からも
小田原方面での行動をまるで知らない事はまずありえない。
二つ目の段だが、あなたは意図的にニュアンスを混同させようとしているのだろうか?と
疑わざるを得ない。あなたは書状後半で北条側が戦果を一切書かずに口をつぐんで
いる事に関して上杉を非難するためといっている。それに対しこちらは勝ったなら戦果をしっかり書いて
その上で後一歩だったのに信玄を逃がしてしまった、お前のせいだと書けばいいと書いた。
勝ったならちゃんと戦果を書いてこそ後一歩だった事をしっかり伝えられるのにそれで口をつぐんでいる事の
不自然さがここで浮き彫りになる。実際前半ではしっかり戦果を意気揚々と書いているのだから。
こちらも論点がずれるのは好みではない。というか私がこの浅利についてあなたの解釈に過去レスを引用してまで
述べているのはあなたの主張が変質しているように思えてならないからだ。
あなたと随分ここで議論をしてきたがあなたは明らかにこれまでは浅利隊の行動を本隊を逃がす為の時間稼ぎ、殿とし
攻撃隊という表現をしていない。過去レスをあげてみようか。
>>後は前レスと同様。小田原本軍を待つ氏照軍に対し浅利隊が殿軍として進軍
>>浅利信種はここで戦死、しかし時間は稼げたのであろう、武田軍はそのまま撤退
これが>>117のレスだ。
>>押しなだれてきたのは浅利の殿軍であろう。
>>そして武田軍は志田峠方面に撤退したが浅利は討ち取られて死亡
これが>>128のレス。両方とも明らかに浅利を殿のための捨て駒のようにあなたが表現している事がわかる。
これが変質するのは>>133でこちらが
>>本陣が司令部として山に座し、残りの部隊が攻勢に転じるのは戦闘の形として普通の事だろう。
>>つーかそっちの主張してる浅利だけ突出して武田軍撤退なら山に陣をしいてる場合じゃないだろう。
>>浅利突出させてさっさと逃げないといけない。陣を構えている時点でそっちの主張とずれが生じている
と述べた後だ。その後の>>135のレスであなたはこの問題を一回スルーしてる。
そして>>140においてこちらが武田軍が志田峠から三増峠の後背につける事を説明し
本陣が山の上に座し攻撃してるなら普通の戦闘行動としておかしくない、これに答えてくれとたずねた後で
>>142においていきなり攻撃隊という言葉が出てきて、攻撃隊の中での殿軍という非常に奇妙な言葉を使っている。
これはどうみてもあなたのレスが変質してるようにしか思えない。
こちらがあなたのレスを今のところまで見て非常に奇妙に思うのは、>>146のレスぶりから見ると浅利だけでなく馬場とかもいると
考えているみたいだが、そういった武田軍のかなりの部隊が北条軍を前面から圧迫し、武田本軍が志田峠を抜けていき
三増峠の後方につけてしまえば文字通り北条は殲滅されるとしか思えない状況なのだが。
さらに本陣が山に座して攻撃隊だしているというのと、部隊をぶつけてその間に本隊が志田峠を抜けて逃げるというのは
矛盾してるし、志田峠からわざわざ後背につける好機を逃すのも不自然。
正直あなたの主張してる情景が矛盾しててうまく想像できないのだが。
まずこれらの矛盾に答えてほしい。
(続く)
148:人間七七四年
08/05/17 15:56:24 Wp8HnyZQ
(>>147続き)
前半に宗の者を倒したという表現があり、後半にそういった表現がなく、そして武田の宗の者が死んでいるなら
順当に考えれば前半に死んだとなるはずだろう。
いきなり考察に値せずとされてもこまるのだが。北条が後方から襲いかかる流れが不自然だとなぜいえる。
君もそこまで軍鑑信者というわけでもあるまい。書状では前半で普通に北条先衆が襲いかかり、さらには宗の者を討ち取ったと
言っているのだから全然矛盾しない。北条が一切口をつぐんでいる後半部分に無理やり当てはめようとするから
矛盾になるだけ。浅利が後半に死んだという根拠自体が一切書状にはない。
前半にしっかり宗の者を討ち取ったといっているのだから素直にそれを見ればいいだけだろう。
書状でそれと矛盾する記述が一切ないというが、書状には武田軍の編成について一切述べていないではないか。
肯定する根拠が一切ないよ。むしろ何故前半に宗の者を討ち取ったとしっかり言っているのに
後半に一切記述がないのに浅利が死んだ事にするのかね。講談でも書状でも一切ないよそんなの。
全然十分ではないよ。あなたは自分に都合が悪いと講談にも書状にもなくても浅利が後半に死んだとするくせに
その言い方は不可思議で仕方ないよ。だから日付が異なっていて武田軍が移動を続けている記述があるのだから
必然的に山と山を移動する事になるだけではないか。
先衆と戦うのと山の上からの攻撃は一日後だという事を考えれば移動してると考えるのが自然。
そして三増峠はあちこちに山や隆起が存在してる地点だとも述べた。ここを戦いながら移動すれば必然的に
上り下りを繰り返す事になる。無理やり混同させようというのが無理ありすぎる。
全然①を示してはいないよ。その事に一切触れていないんだから。
軍鑑ではそんな事をいってないでしょ。無理に切り離そうとするから無理がでる。
前半でしっかり宗の者が死んでいて後半に死んだ根拠が一切ないのなら状況証拠として
浅利の死は前半で十分だろう。
とりあえず>>147にあげたあなたの論旨の矛盾点の説明を求めたい。
149:人間七七四年
08/05/18 02:15:03 lGATO3ch
>>148
>>小田原方面での行動をまるで知らない事はまずありえない。
「小田原の状況はまだはっきりとはわからない。 」
としか書いていない、まるで知らないなどとは一言も言ってない。
あなたが「書状に小田原の事を書いていないのはおかしい」と言うからその反論として
少なくとも自分で見ていない事を書状に書いていないのは何も不思議ではないと言っている。
結局、浅利だけが云々の部分も今回のようにその場で訂正しなかったから誤解が生まれただけのように思う。
上記の事も訂正せずに適当に「とりあえず当事者じゃないんだから書状に書かなくても不思議はない」
だけで済ませていたとしたら、あなたは俺が「氏照は小田原の事を”全く”知らないもの」と認識していると
誤解を続けて議論を進める事になる。
2chのレスでこちらの言いたい事が全て伝わるわけもない。
主張する事以外でいい加減長文が拡がるのは本意じゃないのでここらで一回話を整理したいんだが。
とりあえず
俺も言いたいことは多いがあえてここは一つの主張に絞る
わかっているだろうが、書状における時間経過についてのみだ。
あなたもとりあえずどの部分が主張したいのか一つに絞ってもらえないだろうか?
そうでないと上記のような誤解が誤解を生んでいくだけで全く議論の意味がない。
150:人間七七四年
08/05/18 02:21:15 lGATO3ch
ぶしつけな要望なのはわかっている。だが
>>あなたのレスが変質してるようにしか思えない。
これは俺もあなたに何度も感じてしまった事だ、
パッと見てもとりあえずレス100番台辺りのレスからは相当変わってしまっている
・・・がこれはお互いに誤解が存在するからそうなのだろう。
だからこそ一度整理していかないと意味のない長文が続くだけになると思っての提案。
とりあえず返答が欲しい。受け入れていただけないのであれば改めてレスを返す。
151:人間七七四年
08/05/18 11:41:46 1GU3XSct
>>149>>150
レスをどうもありがとう。
こちらも整理したほうがいいという考えに賛同はできる。
ただそちらのいう書状の時間経過やこちらが一つの主張に絞るとは
どういう感じでレスをする事になるんだろうか?
一応こちらは一つの主張に絞って進めてきたつもりなんだが。
こちらの考えは基本的に後方から追跡してきた北条勢に対し武田が逆襲して追っ払った小勝or中勝の
認識。あなたが主張している前面に北条勢が展開し、浅利隊だか馬場隊だかをぶつけて
その間に本軍が志田峠から逃げるという案だと逆に武田本軍が北条勢の後方に回りこめてしまうため
大勝になってしまうはずではないか、といったような事を主張している。他にもいろいろあるが。
多分誤解したというのはここら辺だろう。
とりあえずそちらのいうお互いが一つの主張に絞った議論というのがどんな形式になるのかわからない。
相互混乱してしまわないだろうか。他の主張はどうなってしまうのだろうか。
どんな感じになるのかとりあえず示してもらいたい。
一週間後にまた来ると思うのでそちらの示したやり方を見てから検討したい。
152:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/08 05:18:37 hvTWL+0K
俺、三増の住人だけど畑仕事なんかしてるといまだに骨出てくるよ・・・・。土質のせいか四百年経っても溶けないんだよね・・・・。ホントに参る。
153:人間七七四年
08/06/09 18:48:24 6NzDVzX/
武具は出てこないのか?
154:人間七七四年
08/06/10 09:42:27 7BobjJB/
鎧ってあまり出ないみたいだよ。
たいていが戦場荒らしに盗られているw
155:人間七七四年
08/06/10 21:56:36 rpK22Ls4
この合戦以外でも基本的に北条・武田との国境ラインだから戦の堪えない場所だったろうしね。
156:三増峠ってどお?
08/07/09 13:10:49 K8qkUsoa
お久しぶりです。第二幕の「第一次駿河侵攻」が仲々完成できないので取りあえず3つに分けようと思います。
第二幕第一場「第一次薩垂峠の戦い」→これだけ掲載。
第二幕第二場「第二次薩垂峠の戦い」→以降は、次回へ。
第二幕第三場「駿河・伊豆侵攻」
「三増峠の戦い」第二幕「第一次駿河侵攻」
(永禄十一年(1568)12月6日から永禄十二年(1569)4月24日まで)
1.リード
(1).第一次薩垂峠の戦い。
信玄の目的…駿遠支配⇒失敗。
信玄の目標…氏真(の身体確保orクビ)⇒失敗。
信玄の重心…今川家臣・被官(の忠誠心)⇒成功・失敗半々。
(2).第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)。
信玄の目的…駿河支配⇒失敗。
信玄の目標…北条軍を駿河から駆逐⇒失敗。
信玄の重心…北条・今川同盟の打破⇒家康もこれに加わったため大失敗。
結論。第一次駿河侵攻で
得をしたのは…○北条・家康。
損をしたのは…●氏真・信玄。
結果
北条は信玄が(軍事)占領した以外の駿河(の形式的な支配権)を獲得。
家康は、遠江の大半を獲得。氏真は国土を失い、信玄は静岡市一帯・北遠江を獲得。
2.本文
(1).第一次薩垂山の戦い(永禄十一年(1568)12月12日)。○信玄vs.●氏真。
①直前までの両軍の動き。
信玄率いる武田軍は、12月6日甲府を出発し、富士川沿いの駿州往還道を南下して駿河に侵入、
一部の兵は富士信忠・信通父子が拠る大宮城(富士宮市)を攻め(12月9日、第一次富士城攻防戦。武田軍敗退)、
主力軍は北松野(富士川町)から現、県道76号線を通って、薩垂峠・八幡平に陣する今川軍(後述します)を右手に見つつ、
同月12日、東海道の宿場町由比に達した。
対する氏真は、15000を率いて駿府の今川館を出発し、
庵原安房守率いる1500は薩垂峠に、
岡部忠兵衛(のちの武田水軍の大将となる土屋貞綱)・小倉勝久(掛川開城後、家康に仕える)を、その北の八幡平に、氏真自身は興津の清見寺に本陣を置き、主力軍を薩垂峠と清見寺の間に配置した。
②氏真の戦略。
武田軍が東海道(由比~興津)を行軍中、縦長の陣形になった所を…
氏真本隊が、興津にて武田軍先陣を拘束、
薩垂山(由比~興津の間にある山)の庵原隊が、武田軍中央を攻撃して分断し、
八幡平の岡部・小倉隊が、武田軍の後方(つまり駿河往還)を襲って連絡路を発ち信玄を駿河に封じ込める
(さらに北条の援軍を要請し、謙信には甲信を突いてもらう)という、壮大かつ積極的なものだったと思われる。
③経過
しかし信玄は、北条軍が到着する前に事を済まそうと、今川一門の瀬名信輝、駿河衆の重臣で庵原城主朝比奈信置、
同じく駿東郡の領主葛山氏元、信玄の弟で氏真に仕えていた武田信友(信虎の十一男。駿河で誕生)などをあらかじめ内応させていた。
彼らは武田軍が薩垂山に近づいた12日、手はず通りに(清水と静岡の間にある)瀬名へ退いてしまったのである。
この「裏崩れ」のため氏真は作戦を変更し、本格的な戦闘を交えずに残兵を率いて今川館へ帰陣するが、
信玄が前もって今川館の詰城である賎機山(しずはたやま、浅間山とも言う。静岡市街北方にある山)城を攻め落していたらしく、
13日未明、駿河を捨てて15日遠江掛川城に逃げ込んだ。この時よほど慌てていたのか、氏真室(氏康娘)が腰を使えずに、はだしで夫に付き従った。
13日正午、駿府に入った武田軍は、氏真をいぶりだすために今川館に火をかけた。
将軍家から拝領した先祖伝来の家宝、蓄えた金銀財宝や兵糧、今川領統治に必要な公文書の一部が、全て燃えた。
火は瞬く間に駿府市街に広がり、とみに応仁の乱以降、
一流の文化人(連歌師宗長)・公家(歌道や有職故実の大家、冷泉為和・為益父子は今川家の食客になっていた)・商人が盛んに往来して、山口の大内文化・一乗谷の朝倉文化と並び称されるほど大繁栄し、栄華を誇った「今川の首府」は灰燼に帰した。
(駿府は江戸時代前期になるまで完全に再興できなかったらしい。)
捕捉説明
なぜ氏真は掛川城に逃げたのか?理由は3つ。
1.あらかじめ氏真が、掛川城に兵糧・鉄砲・玉薬・矢などを3~5年分蓄えるよう命じていた。
2.掛川城主朝比奈氏は代々遠江衆の重臣であり、かつ現城主泰朝の父泰能の正妻は中御門宣秀娘で、寿桂尼の姪。義元の従姉妹に当たる人物であった。(ひょっとしたら、泰朝の母は中御門氏?)
3.泰能は、かつて大原崇斎とともに三河支配を任せられるほど義元から信頼されており、かつ泰朝は永禄六年(1563)の遠州惣劇でも一貫して氏真に味方していた。
次回「第二次薩垂峠の戦い」へ続く。
157:三増峠ってどお?
08/07/09 13:32:48 K8qkUsoa
>>38さんへ。決して田舎大名の戦いではありません。理由1つ。
外交
薩垂山の戦線の膠着化(興津川の対陣)は、劇的に武田・北条両者の外交活動を活発化させた。
両者は、近隣の戦国大名達を味方に引き入れよう試みた結果、
西は将軍義昭から東は伊達輝宗まで巻き込まれた。
(ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい)
彼らは、両者と遣り取りしつつ薩垂山の戦況をかたずを呑んで見守っていた。(だから書状がたくさんある。)三増峠もこの戦役の継続性であるから決して田舎大名の戦いではありません。
具体的には
(1).信玄は反北条の関東諸将、簗田・里見・太田三楽斎父子・佐竹・茂木などに(北条の)背後を突いてくれと頼みつつ、
信長・義昭に甲越和与を持ちかけ、
家康には掛川城を攻略して欲しい。と催促する。
(2).北条は、永禄八~九年の義昭による甲相越三国和与を了承する形式で(だから細川藤孝に越相和与の報告をしている)、
実交渉では氏真が開拓した駿越交渉ルートを使って、信玄の背後を突いて欲しいと謙信に頼み、
かつ佐竹を牽制するため伊達と組む。しかし里見との和睦交渉は失敗。
ついでに
(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。かつ本庄繁長の処遇を巡って、葦名・伊達の東北二大大名と意見交換。
158:人間七七四年
08/07/09 19:06:10 h4o5mBMU
>>ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい
そうでもないよ。
例えば長尾景虎の関東出陣は芦品、関東全体、武田、本願寺、越中、幕府を動かしている。
でも今川の壮大な外交戦略は確かにすごいね。
159:人間七七四年
08/07/09 23:43:07 N7Gd+u3R
武田もすごい。
それまで北条と同盟者だったのに関東の反北条勢力を糾合し
徳川・織田・足利まで動かして戦略を構築している。
160:三増峠ってどお?
08/07/17 17:14:30 /+u/Q/1g
>>158-159さんへ。長文で読みずらいのに、レスありがとうございます。
>>158さんへ。
①景虎の第二次越山(永禄三年~四年)は、準備に約10年費やしてますよね。
書き忘れたけど…、謙信は三木もしくは姉小路とも書状の遣り取りをしていたらしく、
「最近、越中金山が不審の動きをしている」と注進してるいるよ。
永禄十二年2月27日付 三木良頼・姉小路自綱父子→謙信宛書状「上杉家文書」より
②あと、北条は江戸氏を動かして、義重の不審な動きの真意を探っています。
>>159さんへ。
簗田を通して足利藤政を鎌倉に帰還させるという名目で、反北条を糾合させたらしいね。
「第二次薩垂峠の戦い」もしくは、三増峠関連の書状をとことん解読するまで、楽しみにしててくださいね。恐々謹言
161:人間七七四年
08/07/18 00:19:16 ARhJNfx0
>>160
長文でも面白ければ大歓迎です。
あなたの書くことはいつもためになります。
三増峠を軸にした北条やその周辺の動きは
今個人的に興味がある課題のひとつなので楽しいです。
162:人間七七四年
08/07/19 18:11:57 RGIwAcDK
中央の軍事介入の証明がない為、“田舎大名の戦いである”の反論になってない
>外交
蛇足を中略
>彼らは、両者と遣り取りしつつ薩垂山の戦況をかたずを呑んで見守っていた。
要約すると、そろばん弾きながら田舎大名の戦いを見守った
>具体的には
>(1).信玄は反北条の関東諸将、簗田・里見・太田三楽斎父子・佐竹・茂木などに(北条の)背後を突いてくれと頼みつつ、
田舎大名が田舎大名に頼み
>信長・義昭に甲越和与を持ちかけ、
>家康には掛川城を攻略して欲しい。と催促する。
田舎大名が政権中枢に調停を持ち掛け、田舎大名を煽っただけ
>(2).北条は、永禄八~九年の義昭による甲相越三国和与を了承する形式で(だから細川藤孝に越相和与の報告をしている)、
>実交渉では氏真が開拓した駿越交渉ルートを使って、信玄の背後を突いて欲しいと謙信に頼み、
>かつ佐竹を牽制するため伊達と組む。しかし里見との和睦交渉は失敗。
田舎大名が田舎大名と交渉
>(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。
田舎大名同士で争うのはおやめなさい
>かつ本庄繁長の処遇を巡って、葦名・伊達の東北二大大名と意見交換。
東北の田舎大名と意見交換
戦国時代の本質は田舎大名の私戦なんだから無理に反論することないのに
163:人間七七四年
08/07/19 18:26:02 t0hiK5uV
>>162
なんか無理に田舎大名田舎大名と言い過ぎでしょ。
信玄は中央に外交活動を行った結果、中央勢力もこれに対して干渉している。
そしてその規模からみればこれは非常に巨大な勢力間の錯綜が見られる舞台だ。
そもそも君は>>38で不毛な争いと言っていたがこれだけ巨大な場面で行われた戦いが
不毛であるはずがないだろう。お互いの勢力の存亡をかけた意義ある戦いだ。
>(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。
>田舎大名同士で争うのはおやめなさい
第一これ何?将軍家・信長の申し入れは信玄から働きかけた結果なんだけど。
無理に中央とやらを高く見過ぎだろ。
あと君の理屈でいうなら織田の京都侵攻までの戦いも西国の厳島や耳川の大戦も
その他ほぼすべての大名の戦いが不毛な戦いなわけ?
こういった各地方の戦いの影響が中央も含めた日本の戦国時代を形どった事を考えると
君の理屈は暴論だろう。
164:人間七七四年
08/07/19 19:23:28 t0hiK5uV
>>162
ID:RGIwAcDK
連休中は家を空けるからなんかあったら書いといて。
165:人間七七四年
08/07/19 23:53:02 TpCZ1vtu
室町幕府自体風前の灯になってる上に、
各地で中央をはるかに凌ぐ軍事力を持った大名が多数居るこの時代で京なんぞ本質的には飾りに過ぎない。
>>162が言ってる理屈は要するに戦国時代の公家と同じ、それも本当に京に居る公家じゃなくて
地方に逃げた公家崩れが地方で実力を持ってる大名に虚勢張ってるのと同じ。
実際は田舎大名などと言う言葉に定義はないので、
>>38のレスは「僕の理屈は正しいんだよバーカバーカ」って言ってるのと同じ、
こんなもん反論もクソも無いのにわざわざ史料つきで説明してくれてるんだから感謝すべき。
166:三増峠ってどお?
08/07/30 09:59:27 YIlUBULl
>>162さんへ。
返礼傷み入る。私は集めた資料の中から、面白く、かつ疑問をなるべく解答しようというスタンスで書いています。
外交は「間接的アプローチ」の一貫であるし、(byリデル・ハート)
かつ(外交は戦争の)一貫である事。(byクラウゼヴィッツ)という考え方なのですが…
あなたは違うのでしょうか?
私というか…、大抵の人はそうですよね?
それを否定したら、話が先に進まないよ。
というわけで、あなたが思う「外交」とは何か?述べてくださいね。
>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
>>165さんへ。フォロー、サンクス。(多分いつもの人?)
>>150-151さんへ。割り込み失礼つかまつる。調べて分かった事を箇条書きにします。
1.北条は、古河公方重臣豊前山城守が討死している。
氏康・氏政父子それぞれが豊前山城守の後室に宛てた書状があるから確実。
だから、氏照勢(豊前山城守などの栗橋衆)と浅利勢(浦野民部右(左)衛門尉などの箕輪衆)は、相当のダメージを負ったのでは?
永禄十二年12月5日付 氏康→豊前山城守後室宛書状。
永禄十二年12月21日付 豊前山城守後室宛北条家朱印状。
どちらも「神奈川県立文化資料館所蔵豊前氏古文書」
写真も載ってるよ。ココ見てね↓
神奈川県立文化資料館のHP。
URLリンク(www.pref.kanagawa.jp)
2.みんながもめてる「新太郎・助五郎已下之兇徒二千余人」についての解釈だけど…
「已下=以下」について『新明解漢和辞典』で調べたら、昔は「それ(ここでは氏邦・氏規)を含まない数字」という意味もあった。
だから素直に訳せば「(氏邦・氏規本人を含まない)氏邦勢・氏規勢二千余人」となるのではないか?
以上、恐々謹言。
167:三増峠ってどお?
08/07/30 10:03:36 YIlUBULl
スミマセン。>>166の訂正。神奈川県立文化資料館のHPのアドレス。
×URLリンク(www.pref.kanagawa.jp)
○URLリンク(www.pref.kanagawa.jp)
168:三増峠ってどお?
08/07/30 15:23:20 YIlUBULl
スミマセン。>>166の訂正その2。
×>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
○>>161さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
169:人間七七四年
08/07/31 00:16:00 ckUiN0O7
名スレの予感・・・
170:人間七七四年
08/08/01 20:00:25 mAypRZQ/
今は亡きメガ豚君が立てたスレ
171:人間七七四年
08/08/06 12:42:04 sWKo/48z
北条ヲタ涙目やなぁw
172:人間七七四年
08/08/09 17:19:00 21m/pCwi
氏康本人が現場(主戦場)に到着してからの合戦だったら
武田もかなり損害でたと思う。
173:人間七七四年
08/08/09 17:26:50 5jt9BYVK
北条氏康がもっと早く小田原から討って出てたら
家康よろしく粉砕されて糞漏らす間もなくそのままご臨終です
174:人間七七四年
08/08/12 18:09:17 ATqpXmfS
>>173
正解
175:人間七七四年
08/08/14 08:36:50 mUhsY0eA
挟撃されて武田は全滅だろうね
176:人間七七四年
08/08/14 08:51:55 RB0GX4pq
北条氏康は名将だが
野戦よりも篭城戦に強い印象がある。
「負けないイクサ」「ドローでOK」ってのは日本人ウケしないんだろうな。
177:人間七七四年
08/08/14 12:44:50 qLboyfkt
>>175
どうした?涙目だぞ?w
178:人間七七四年
08/09/16 01:12:03 ++6d7P9n
保守。
179:長尾忠景ってどお?
08/09/17 10:26:58 78Aw6xBg
>>334さんへ。私は、定正の乱はやはり、山内側に鎮圧されたと思いますよ。
(1).山内家と扇谷家は「20万と100騎」(大森教訓状)あるいは「鵬(大きい鳥)と鸚(オウム)」(定正状)ぐらいの戦力差がある。
禅秀の乱に勝利した関東管領山内家は反乱者の土地を没収し、それを武蔵・上野・相模の国人達に分配して主従関係を結び、国人達を味方に付けた。
一方、扇谷家は「天運と道潅の器量によ」り、「関東の諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。」のに「その道潅を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい行為である。」
(「 」内は、扇谷三将(道潅・大森・三浦時高)の1人である、大森寄栖庵氏頼が明応元年~2年(1492~1493)の2月に定正に宛てて書いた「大森教訓状」からの引用です。)
(2).かつ扇谷家は、山内家家宰白井長尾氏(武蔵・上野・相模に分散)よりも勢力が小さい。その景春が失敗したのだから、定正が武相上を征服するのは到底難しい。
(3).定正は故意に上野・越後に攻め入っていない。
これは定正が山内家の主戦力である越後勢の介入を恐れたためと思われる。
ということは、いくら定正が武蔵鉢形周辺で勝っても、敵の主戦力にダメージを与えない限り目的を達成するのは非常に難しい。これは戦略の常道ですよね?
(4).明応三年(1493)8月26日には大森寄栖庵氏頼、9月23日には三浦時高と次々と重臣を失い戦力ががた落ちしているのにも関わらず、
定正は、早雲・氏親の外部勢力と手を組んでまでして山内家と戦う。これは無謀ではなかろうか?
180:長尾忠景ってどお?
08/09/17 10:53:00 78Aw6xBg
みんなスマン!!
>>179は間違って書いてしまいました。一応、削除以来板に出しました。
>>161さんへ。
第二幕第二場の「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。永禄十二年(1569)1月26日~4月24日。
は、8割完成しました。あとは、「年表の推敲」と「北条と里見の政治的(外交・戦争)関係」を調査するのみです。
遅くなってスミマセン。恐々謹言。
181:人間七七四年
08/09/17 12:50:49 zlrFvN6U
削除理由は削除ガイドラインから
削除人さんは消しゴムじゃありません
そんな理由で一々消せるとでも?
sengoku:戦国時代[レス削除]
スレリンク(saku板:112番)
112:長尾忠景ってどお? 08/09/17 10:40 HOST:KD125054189174.ppp-bb.dion.ne.jp<8080><3128><8000><1080> [@nifty.com]
削除対象アドレス: スレリンク(sengoku板:179番)n-
削除理由・詳細・その他: スレッドを間違えて、レスを書いたため
182:人間七七四年
08/09/17 13:54:58 y6EN15lL
>>181
あんたなんでそんなにイライラしてるのw
183:人間七七四年
08/10/04 15:08:32 Cfn4FnJr
三増における両軍の相対的な位置関係がいまいち理解できない。
1. 凸
三増峠
北条 北条 北条
VS
武田 武田 武田
~~中津川~~
半原山 なのかそれとも、
2. 凸
三増峠
武田 武田 武田
VS
北条 北条 北条
~~中津川~~
半原山 なのだろうか。
Wikiを読む限りでは開戦時の状況は1と理解していたんだけど、このスレを読み進めるに
つれ、2の布陣だったのかなと疑問に思った訳でありまして。
誰か戦況の推移と整合した両軍の布陣状況を教えてくれ。
184:183
08/10/04 15:32:51 Cfn4FnJr
書き忘れたけど甲陽軍艦の記述からだと
>>183の1の後に、
凸
三増峠
武田 武田 武田
~~中津川~~
北条
北条 半原山 北条
と北条は部隊を峠に位置する陣屋?から一旦移動させ(武田と真正面から当たるのを避けた?)、その後>>183の2のように布陣し合戦に至ると読めるんだが、この認識も間違ってる?
185:183
08/10/04 17:30:02 Cfn4FnJr
武田侵攻軍を挟撃するまたとないチャンスだったのに・・・
滝山から南下してきた氏照・氏邦勢が津久井城守備隊と連携を保って三増峠付近の山に
陣取れば、地形的には北条勢が大変有利であり、小田原本隊も追撃するとなれば、武田勢に
とっては前門の虎後門の狼であり、北条としては武田を包囲殲滅することも夢ではなかったの
ではないかと。
ところが、史実は武田を挟撃するどころか逆に、北条が手痛いしっぺ返しを食らってしまったと。
これは何故なのかと考えると、どうしても北条側の戦術的な機動がまずかったとしか考えられな
かった。(氏照・氏邦・綱成・関東衆がうまく連携出来ず、各個突撃してしまい逆襲にあったのかと)
そこまで考えて、さてそもそも三増合戦における両者の布陣はどうだったのか。
戦況の推移と両軍の各部隊行動はどうだったのか。
さらに遡って、合戦場に至る迄の各北条勢の進軍速度・経路はどうだったのか。
186:人間七七四年
08/10/04 18:07:35 W1PrXL7V
>>183から>>185
とりあえず当時の北条方の書状や軍記を見ると
これは一貫して氏照達が武田を後方から追跡した形になっている。
以下その点について簡略した概要
氏康書状
三増山まで武田を追っかけたけど一日の遅れで間に合わなかったよ!
氏照書状
武田は相模から津久井のほうに退散してったのでそこの切所で戦ったよ!
前半は敵の小荷駄とか宗の者とか倒したけど後半山の上にいた武田勢が押し雪崩れてきたよ!
北条5代記
小田原から引いた武田を追撃したら信玄が三増の所に人数おいてたので
知らずに突っ込んだ北条勢は反撃くらって追い払われちゃったよ!
北条記
小田原から引いた武田を追ってきたら三増峠を信玄が人数を置いて固めてて、
それを攻撃したら信玄が山の上に隠していた山県とか内藤が両側から不意に攻撃してきたので
敗走させられちゃったよ!
そして信玄の書状でも
小田原焼いて帰る途中で6、7千の北条勢が追跡してきたから三増峠で一戦して
追い払ったよ!
とあるから普通に帰国途中の武田を北条が追跡して起こった戦いだと思う。
187:人間七七四年
08/10/05 00:45:58 wlNJADyO
>>185
>武田勢にとっては前門の虎後門の狼であり ×
武田勢にとっては前門のヌコ後門の羊 ○
188:人間七七四年
08/10/05 01:29:15 F0qg8FfB
そこまで弱くないだろ
浅利とか死んでるし
189:人間七七四年
08/10/05 01:34:04 F0qg8FfB
包囲する側と包囲される側では包囲する側が有利なように思えるけど、
無線が実用化されるまでは伝令ではタイムラグがありすぎて部隊間の統率が取れず、
包囲されている内線側に各個撃破されることも多い
190:人間七七四年
08/10/05 09:22:37 B5PMKTsh
>>188
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ
191:人間七七四年
08/10/05 12:59:07 gzUhbCUU
>>185
参考になるかも
81 名前: ◆dJMAP/7XmM [age] 投稿日:2006/12/08(金) 02:20:06 ID:oc1adxOh
三増峠の戦いです。最近、この付近の解像度が上がったので作ってみました。三増峠の戦いはわかっていないことが多いらしく、
個人的な妄想を含めて、つくりました。志田山塊と半原台地、中津川の織りなす渓谷など地形の高低を妄想としてお楽しみ下さい。
URLリンク(virtual.haru.gs)
1569年8月24日、信玄甲府を出発。北上して碓氷峠から上野に入る。
9月10日、鉢形城を包囲。軽く攻めた後に、牽制しつつ、松山、川越を経て滝山へ向かう。
9月20日、小山田勢が岩殿山城を出発。当時の街道筋(古甲州街道)であった上野原-浅間峠-檜原城-戸倉城のルートを通らず
9月26日に小仏峠から武蔵に侵入。廿里にて滝山勢を破る(廿里の戦い)。滝山城を攻撃。
9月27日、信玄本隊も滝山城に到着、攻撃する。
9月28日早朝、滝山城から撤退。横山-杉山峠-相原-みぞ-当麻-座間と進軍する。
9月29日、相模川を渡河。厚木、妻田、金田などに着陣する。
9月30日、前川、国府津、酒匂まで進軍する。
10月1日、小田原城包囲。信玄は東海道を西進して風祭に本陣を置く。
10月4日、兵糧の不足を考慮して小田原城から撤退。
10月6日、田村、大神に着陣。これを聞いた氏康は武田勢が三増峠越えで撤退すると予想。氏照、氏邦、綱成らを三増宿に布陣させ、
挟撃するために自身は氏政と共に小田原城を出陣。
10月7日、信玄、内藤昌豊を小荷駄奉行に任じ、小荷駄が戦闘に巻き込まれるのを防ぐため妻田-金田-中依知-箕輪-三増の道をとらす。
本隊は妻田から荻野へと進軍。本隊が三増峠越えではなく荻野-平山-田代-真名倉へと抜けると予想した北条勢は
三増から半原台地の上に陣を移す(打越峠-海底-志田峠の道が使われるようになるのは江戸時代中期以降である)。
平山坂を下り、中津川を渡河した武田勢は、田代城、細野城を落とすものの、台地の上に布陣する北条勢を避けて田代から桶尻へと登る。
信玄は、ます小幡重貞率いる1200を中峠越えで先発させ、長竹で津久井勢を牽制させる。続いて山県昌景率いる5000を中峠越えさせるが、
長竹には進軍させず韮尾根に遊軍として配置する。さらに諸将を3隊にわけ、志田峠、中峠、三増峠越えで甲斐に撤退するふりをして、志田山塊を登り始める。
これを見た北条勢は、武田勢には戦意がないと見て取り、半原から進軍、中津川を渡河して台地に登り武田勢を追撃にかかる。
予定通り武田勢は軍をかえして桶尻に布陣。戦闘に突入する。武田方の浅利信種が戦死するなど北条勢有利で戦闘は展開するが、
山県昌景が韮尾根から志田峠を越えて下志田へとまわり、北条勢を後背から衝くと北条勢はたちまち乱れ武田方の勝利に終わる。
このとき、志田沢、深堀沢、栗沢の沢筋が深くえぐれており、逃走がままならず多数の死者を出したとされる。
氏康親子は荻原まで出陣していたが、味方の敗報を聞くと小田原へと引き上げた。
武田勢は長竹、三ヶ木へと進軍。道志川を渡河して反畑で首実検をおこない死者を弔った。
192:人間七七四年
08/10/05 13:15:51 gzUhbCUU
>>191
Google Earthで古城・古戦場めぐりスレより
スレリンク(sengoku板:81番)
193:人間七七四年
08/10/26 01:49:59 BeObvf/N
保守。
194:人間七七四年
08/11/04 22:35:33 9LIRBHYl
>>191-192
乙
195:三増峠ってどお?
08/11/05 11:07:08 AOXlis5T
>>161さん&皆様へ。大変長らくお待たせしましたが、出来ました。
「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。
永禄十二年(1569)1月26日~4月24日。○氏政vs.●信玄
北条の勝因3つ。
①早期に介入して信玄のお家芸である機動力を封じ、先制主導権を取らせなかった。
②連絡路を断って補給を脅かすと同時に謙信と組んだ事で、信玄を悩まし、将兵を不安に陥れた事。
③一方、北条軍は補給に悩まされなかった。
その理由は今川の援軍で来ている事、かつ太平洋(駿河湾)の制海権を握っていたから、掛川までも自由に移動できた。(信玄、水軍の重要性に痛感する。)
1.この戦いの珍しい特徴2つ。
(1).第三国(今川領)での長陣&外交戦。
当主同士が本拠を離れて第三者(今川)の領地内で約3カ月間対陣した(弘治元年(1555)7月~閏10月の第二次川中島に匹敵する)非常にまれな戦いで、
地勢的要因により直接アプローチよりも互いの後方を撹乱する活発な外交戦が展開し(詳細は>>157)、書状の数が優に50点以上確認できる。
※地勢的要因とは?
北条軍は薩垂山に陣地を築いて兵を配置した。確かに(平野の)興津にいる武田軍は見下ろせるのだが、
いざ決戦となると一旦、細い山道を下りて平地(興津、つまり敵の目の前)で再集結してからでないと戦えず、準備に時間がかかる。
一方、武田軍は興津に集結していて、速やかに出陣する事は可能だが、敵の陣地を潰すには、莫大な時間・人・金・物を浪費しなければならない。
ましてや補給不足だから、横山城で北条軍の西上を防ぐのが精一杯。
(2).信玄、最大のピンチ!!
敵(氏真・北条)がそろって「信玄敗北」と書く一方で…
信玄が信長に弱音を吐いている点も珍しい。
「信長の外には味方がおらず、少しでも信玄を粗略に扱うならば、信玄滅亡疑い無き候」(古今消息集)
結論1
(1).川中島の戦い+(2).上田原・砥石崩れ以上に信玄は窮地に陥ったのである。
2.なぜ北条は信玄に敵対し今川に味方したのか?理由は3つ。
(1).早雲以来、当主同士が通婚しているだけでなく、今川一門・重臣とも血縁関係あり。
当主…北川殿=今川義忠、北条氏康=氏親娘、早河殿=今川氏真
一門・重臣
①早雲=今川重臣葛山氏の娘、早雲三男氏広は葛山氏の養子。
早雲娘=今川重臣の三浦氏員。駿越同盟の交渉人となる三浦氏満の母
(「今川仮名目録」第37条によると三浦氏満は朝比奈又太郎(泰能?)と並び、今川家中No.2の地位にあった。)
②氏綱娘=葛山氏元、氏綱娘=今川一門の掘越六郎(氏延)。(あと綱成も追加。)
(2).領地拡大。
この機に北条は、甲相駿三国同盟成立(1554年)で放棄した早雲本貫の地である駿河駿東郡・富士郡の回復を狙っていた。いや、それどころか駿河全土を奪おうと考え、氏直を氏真の養子にした。
(3).西上野の土地争い?
信玄と北条は…西上野の多胡郡・緑野郡、(現在の群馬県多野郡鬼石町・同郡吉井町・藤岡市一帯)の所有争いをしていたらしい。
この地は憲政→氏康→景虎(永禄3~4年)→後北条と所有を転々とし、永禄九年(1566)3月10日の義秋の越相和与に抗議する形で、
信玄は永禄十年正月~4月頃ここを占領したが、北条が信玄に譲歩することで一時的に解決したらしい。(以降、勝頼死まで武田領。)
永禄十年1月28日付、輝虎→義重宛書状写(編年文書)に出てくる「南甲手切有」(北条と武田が手切れした)はこの出来事を指すらしい。
ちなみにこの土地は、永禄十二年8月26日付 氏政→由良成繁父子宛書状写(集古文書)に出てくる「烏川南藤田以北」を差す。
(つまり、氏政は由良父子にこの地を与える空手形を振ったのである。)
196:三増峠ってどお?
08/11/05 11:11:17 AOXlis5T
続き
3.直前の動き
(1).北条側の動き(永禄十一年(1568)12月12日~十二年(1569)1月26日まで)
12月12日、北条は直ちに援軍を差し向けた。それも当主氏政自らが出陣し、かつ豆相・武蔵(氏邦・成田)・下総(原・栗橋衆)の兵まで動員するという本格的なものである。
(ただし氏照&滝山衆は関宿攻め。氏康は本城または鉢形城?)
氏政は(謙信・里見の攻撃に備えて)本陣を沼津に置き、
諸軍勢は(武田に内通した葛山領の)駿東郡、(武田に抵抗する)富士郡など富士川以東を瞬く間に抑え、
幻庵の長男氏信が率いる先陣は、武田軍より一日遅れて、13日蒲原城(庵原郡蒲原町)に入った。
信玄は同城を攻撃せずに駿府占領・氏真の身体確保を優先させたため、同城は未だ今川の手中にあった。
さらに先陣の一部はそのまま興津に進み、武田軍と交戦して、404人討ち捕らえたという(13日)。
その後、氏邦が駿河に出陣して興津の対岸にある薩垂山に陣を敷き(23日)、24日には城普請の材料を吉原(富士市吉原)の土豪矢部将監に命じた。
a.薩垂山の陣場・陣城について
薩垂山の陣場は、未完成ながらも南北3.5kmの広い空間に築かれた山城で、幅20~30m、長さ500mの北条系城郭の空堀があり、眼下に興津(の武田軍)を見渡せる場所であった。
b.北条の戦略
①政略的には謙信・里見と同盟し、駿河・関宿攻略に集中する。
・具体的には未だ武田に抵抗する大宮城ー蒲原城ー薩垂山という防衛ラインを(短期間に)築いて信玄の退路を断ち、
機動戦が得意な信玄を駿河に封じ込める、と同時に氏真同様、謙信に働きかけて信濃を突くもの。
(永禄十一年12月19日付、氏照書状「志賀槙太郎氏所蔵文書」から始まり信玄が帰国する前後の4月27日まで平均すると、
129日÷18通=7.166日、つまり約1週間に1度のペースで、北条(&由良)は謙信に対してしきりに「信州出張」を求めている。)
・里見とは「駿河を仲介に共に甲斐に攻めよう」と持ちかけるも、条件が合わず、まもなく破談。
②さらに18日には、(陸軍は)諸足軽衆筆頭の大藤式部丞・(水軍は)伊豆衆筆頭の清水康英の子新七郎、
(検使に評定衆の)布施康能からなる300の援軍を海路で掛川に送り、氏真の籠城をできる限り長引かせる。
(大藤隊は、北条軍の特殊部隊、コマンドーやチンデットのような少数精鋭と考えて下さい。
他に第一次国府台合戦(1538)、海老ケ島の戦い(1556)、景虎越山(1560~61)、三方ヶ原の戦い(1572)などで活躍している。)
(2).武田軍の動き
信玄は当初、掛川攻撃まで考えていたが、北条軍の早期介入&連絡路遮断により、駿府の西の宇津峠越えを断念した。
この作戦計画放棄により西駿河や北駿河(安倍金山)の一帯は未だ氏真の支配下にあり、
かつすでに遠江に侵入していた秋山隊が徳川軍と衝突、信玄が家康に遠江を明け渡す事で解決し、家康に掛川城攻撃を要請した。
1月27日、氏政本隊が工事中の薩垂山に出張る(合計45000)と、信玄はようやく重い腰を上げ全軍18000を率いて、氏真同様に興津清見寺に本陣を置き、
先陣の武田信豊が興津川の河原に布陣。興津川を挟んで、東北の薩垂山に氏政、西南の興津に武田軍が対峙した。
197:三増峠ってどお?
08/11/05 11:20:09 AOXlis5T
4.経過
(1).1月27日~2月1日まで。
信玄の動き
1月27日、武田の全軍が興津に移動すると、
安倍衆の海野宗定(安倍元真の娘婿)らが駿府のすぐ北の津渡野(つどの)までゲリラ戦を展開し、
武田方の今川旧臣ら10余人を討ち取り、氏真家臣伊丹康直に「駿府を奪回できるこの機会を逃してはならない」と報告する。
※安倍衆…安倍金山周辺の土豪達。氏真に味方して武田と戦っていた。
現、静岡市北部にある梅ヶ島・井川・大河内・湯ノ森など。
戦国時代の金山採掘は、農民が強制徴用されて御代官の家来にビシバシ叩かれる時代劇のイメージと違い、専門的な職人衆が掘っていた。
かつ彼らは有名な寄親に被官として取り立てられ、様々な特権や高条件の待遇を得ていたようだ。
安倍衆の寄親は最後まで氏真に従って信玄と戦った三浦一族だったらしい。
これに対し信玄は、3000の兵(山県隊?)をさいて安倍衆討伐に向かわせる。信玄は彼らに対し和戦併用策をもって臨む。
2月1日、連絡路確保のため、穴山・葛山1000は富士城を攻撃するが失敗。第二次富士城攻防戦。
ここは駿州往還道、身延道(だいたい現在の国道52号線と考えて下さい)沿いにある城下町なので、
甲斐に帰るもしくは補給上どうしても確保しなければならない。
(2).2月2日~2月25日まで。
①信玄の動き
富士城攻撃の失敗でますます本国から補給困難になり、身延道の西を通る山道を切り開き、かろうじて補給が届くも、兵は難儀している状態。
北条軍の西上を防ぐため、横山城を修築した。横山城(静岡市清水区谷津2丁目字城山)は、国道52号線(駿州往還・身延道)と興津川沿いの台地に築かれた。
目的は甲斐⇔駿河ルートを抑え、かつ興津川を挟んで対岸の薩垂山にいる北条軍の西上を抑えるためである。
②信玄と家康、さらに不仲に…
この頃、信玄は家康と交わした「氏真・氏康父子と勝手に和睦してはならない」という誓詞を破って、安倍衆との人質交換を行ったため家康は「信玄不信」をさらに深めた。(でも信長の手前、断交はしないが…)
(3).2月26日~4月24日まで。
①直接アプローチ
2月26日、氏邦勢は興津河原に伏兵し、武田小荷駄隊20余人討ち取る。
2月28日、氏邦勢・玉縄衆、薩垂山中に伏兵していた武田軍の大将、本郷八郎右(左)衛門(箕輪衆。上杉憲政の一族で、信玄の使者である長延寺実了の弟または甥。)を始め10余人を討ち取る。
3月13日夜、23時~0時頃、信玄は氏邦・大道寺資親(政繁の父)・左翼の先頭の番所の3カ所を同時に奇襲するも敗北する。
②家康の3つの疑心。
a.秋山事件 b.安倍衆との人質交換 c.「信玄は敗北」し自分も遠江を失うのでは?→その前に遠江だけは確保したい。
だから、家康も3月8日から、信玄に内緒で氏真・北条と和睦交渉を行うようになった。(でも信玄には、ばれていたようだ。)
③越相和融成立。
3月14日、越相和融半ばまとまる。
この前後の信玄・北条+関東・謙信の情勢については「越相同盟について」スレにて書く予定です。
スレリンク(sengoku板)l50
④信玄、戦略を転換。
3月23日、信玄、信長に再度、甲越和与の仲介を頼む。(この書状にあの「信玄滅亡疑い無き候」が出てくる。)
この頃の信玄の書状を一括すると、小田原侵攻(つまり三増峠)が具体的になる。
(ここで、ようやく三増峠の戦いの信玄の目的・目標・重心が分かる。)
a.謙信信州出張に自ら備えるため雪解け前に一旦帰国し、仕切り直す。
b.越相同盟成立させなくするためには、(かつ駿河を支配するためには、在駿河北条軍の守備を手薄にしなければならないからこそ)、武蔵・小田原に向かって深く侵攻すべき。
c.そのためには反北条の諸将の支援がどうしても必要だから、もっと親交すべき。(親交を深める一番の方法は、武蔵・小田原侵攻しかない。)
⑤信玄、帰国準備。
4月19日、信玄は駿河代官兼横山城主穴山信君、久能山城主板垣信頼に細かな城中掟書を書いて与える。
「城の守りを厳重に。敵が攻めてきたら絶対城外で戦ってはならない。」など
久能山城(静岡市根古屋)は天然の要害、北に静岡市と南と西に太平洋を見渡せる場所にあった。
横山城は前述。
⑥信玄敗北。
4月24日午前3~5時頃、信玄敗退。氏政追撃して数百人討ち取るという。ルートは、興津→国道52号線(身延道)の西側を走る県道374号線→高根山の山道→県道195号線→樽峠→山梨県富沢町徳間らしい。