08/07/09 13:10:49 K8qkUsoa
お久しぶりです。第二幕の「第一次駿河侵攻」が仲々完成できないので取りあえず3つに分けようと思います。
第二幕第一場「第一次薩垂峠の戦い」→これだけ掲載。
第二幕第二場「第二次薩垂峠の戦い」→以降は、次回へ。
第二幕第三場「駿河・伊豆侵攻」
「三増峠の戦い」第二幕「第一次駿河侵攻」
(永禄十一年(1568)12月6日から永禄十二年(1569)4月24日まで)
1.リード
(1).第一次薩垂峠の戦い。
信玄の目的…駿遠支配⇒失敗。
信玄の目標…氏真(の身体確保orクビ)⇒失敗。
信玄の重心…今川家臣・被官(の忠誠心)⇒成功・失敗半々。
(2).第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)。
信玄の目的…駿河支配⇒失敗。
信玄の目標…北条軍を駿河から駆逐⇒失敗。
信玄の重心…北条・今川同盟の打破⇒家康もこれに加わったため大失敗。
結論。第一次駿河侵攻で
得をしたのは…○北条・家康。
損をしたのは…●氏真・信玄。
結果
北条は信玄が(軍事)占領した以外の駿河(の形式的な支配権)を獲得。
家康は、遠江の大半を獲得。氏真は国土を失い、信玄は静岡市一帯・北遠江を獲得。
2.本文
(1).第一次薩垂山の戦い(永禄十一年(1568)12月12日)。○信玄vs.●氏真。
①直前までの両軍の動き。
信玄率いる武田軍は、12月6日甲府を出発し、富士川沿いの駿州往還道を南下して駿河に侵入、
一部の兵は富士信忠・信通父子が拠る大宮城(富士宮市)を攻め(12月9日、第一次富士城攻防戦。武田軍敗退)、
主力軍は北松野(富士川町)から現、県道76号線を通って、薩垂峠・八幡平に陣する今川軍(後述します)を右手に見つつ、
同月12日、東海道の宿場町由比に達した。
対する氏真は、15000を率いて駿府の今川館を出発し、
庵原安房守率いる1500は薩垂峠に、
岡部忠兵衛(のちの武田水軍の大将となる土屋貞綱)・小倉勝久(掛川開城後、家康に仕える)を、その北の八幡平に、氏真自身は興津の清見寺に本陣を置き、主力軍を薩垂峠と清見寺の間に配置した。
②氏真の戦略。
武田軍が東海道(由比~興津)を行軍中、縦長の陣形になった所を…
氏真本隊が、興津にて武田軍先陣を拘束、
薩垂山(由比~興津の間にある山)の庵原隊が、武田軍中央を攻撃して分断し、
八幡平の岡部・小倉隊が、武田軍の後方(つまり駿河往還)を襲って連絡路を発ち信玄を駿河に封じ込める
(さらに北条の援軍を要請し、謙信には甲信を突いてもらう)という、壮大かつ積極的なものだったと思われる。
③経過
しかし信玄は、北条軍が到着する前に事を済まそうと、今川一門の瀬名信輝、駿河衆の重臣で庵原城主朝比奈信置、
同じく駿東郡の領主葛山氏元、信玄の弟で氏真に仕えていた武田信友(信虎の十一男。駿河で誕生)などをあらかじめ内応させていた。
彼らは武田軍が薩垂山に近づいた12日、手はず通りに(清水と静岡の間にある)瀬名へ退いてしまったのである。
この「裏崩れ」のため氏真は作戦を変更し、本格的な戦闘を交えずに残兵を率いて今川館へ帰陣するが、
信玄が前もって今川館の詰城である賎機山(しずはたやま、浅間山とも言う。静岡市街北方にある山)城を攻め落していたらしく、
13日未明、駿河を捨てて15日遠江掛川城に逃げ込んだ。この時よほど慌てていたのか、氏真室(氏康娘)が腰を使えずに、はだしで夫に付き従った。
13日正午、駿府に入った武田軍は、氏真をいぶりだすために今川館に火をかけた。
将軍家から拝領した先祖伝来の家宝、蓄えた金銀財宝や兵糧、今川領統治に必要な公文書の一部が、全て燃えた。
火は瞬く間に駿府市街に広がり、とみに応仁の乱以降、
一流の文化人(連歌師宗長)・公家(歌道や有職故実の大家、冷泉為和・為益父子は今川家の食客になっていた)・商人が盛んに往来して、山口の大内文化・一乗谷の朝倉文化と並び称されるほど大繁栄し、栄華を誇った「今川の首府」は灰燼に帰した。
(駿府は江戸時代前期になるまで完全に再興できなかったらしい。)
捕捉説明
なぜ氏真は掛川城に逃げたのか?理由は3つ。
1.あらかじめ氏真が、掛川城に兵糧・鉄砲・玉薬・矢などを3~5年分蓄えるよう命じていた。
2.掛川城主朝比奈氏は代々遠江衆の重臣であり、かつ現城主泰朝の父泰能の正妻は中御門宣秀娘で、寿桂尼の姪。義元の従姉妹に当たる人物であった。(ひょっとしたら、泰朝の母は中御門氏?)
3.泰能は、かつて大原崇斎とともに三河支配を任せられるほど義元から信頼されており、かつ泰朝は永禄六年(1563)の遠州惣劇でも一貫して氏真に味方していた。
次回「第二次薩垂峠の戦い」へ続く。
157:三増峠ってどお?
08/07/09 13:32:48 K8qkUsoa
>>38さんへ。決して田舎大名の戦いではありません。理由1つ。
外交
薩垂山の戦線の膠着化(興津川の対陣)は、劇的に武田・北条両者の外交活動を活発化させた。
両者は、近隣の戦国大名達を味方に引き入れよう試みた結果、
西は将軍義昭から東は伊達輝宗まで巻き込まれた。
(ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい)
彼らは、両者と遣り取りしつつ薩垂山の戦況をかたずを呑んで見守っていた。(だから書状がたくさんある。)三増峠もこの戦役の継続性であるから決して田舎大名の戦いではありません。
具体的には
(1).信玄は反北条の関東諸将、簗田・里見・太田三楽斎父子・佐竹・茂木などに(北条の)背後を突いてくれと頼みつつ、
信長・義昭に甲越和与を持ちかけ、
家康には掛川城を攻略して欲しい。と催促する。
(2).北条は、永禄八~九年の義昭による甲相越三国和与を了承する形式で(だから細川藤孝に越相和与の報告をしている)、
実交渉では氏真が開拓した駿越交渉ルートを使って、信玄の背後を突いて欲しいと謙信に頼み、
かつ佐竹を牽制するため伊達と組む。しかし里見との和睦交渉は失敗。
ついでに
(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。かつ本庄繁長の処遇を巡って、葦名・伊達の東北二大大名と意見交換。
158:人間七七四年
08/07/09 19:06:10 h4o5mBMU
>>ここまで大規模な外交戦は、秀吉の天下統一戦、関ヶ原、大坂の陣くらい
そうでもないよ。
例えば長尾景虎の関東出陣は芦品、関東全体、武田、本願寺、越中、幕府を動かしている。
でも今川の壮大な外交戦略は確かにすごいね。
159:人間七七四年
08/07/09 23:43:07 N7Gd+u3R
武田もすごい。
それまで北条と同盟者だったのに関東の反北条勢力を糾合し
徳川・織田・足利まで動かして戦略を構築している。
160:三増峠ってどお?
08/07/17 17:14:30 /+u/Q/1g
>>158-159さんへ。長文で読みずらいのに、レスありがとうございます。
>>158さんへ。
①景虎の第二次越山(永禄三年~四年)は、準備に約10年費やしてますよね。
書き忘れたけど…、謙信は三木もしくは姉小路とも書状の遣り取りをしていたらしく、
「最近、越中金山が不審の動きをしている」と注進してるいるよ。
永禄十二年2月27日付 三木良頼・姉小路自綱父子→謙信宛書状「上杉家文書」より
②あと、北条は江戸氏を動かして、義重の不審な動きの真意を探っています。
>>159さんへ。
簗田を通して足利藤政を鎌倉に帰還させるという名目で、反北条を糾合させたらしいね。
「第二次薩垂峠の戦い」もしくは、三増峠関連の書状をとことん解読するまで、楽しみにしててくださいね。恐々謹言
161:人間七七四年
08/07/18 00:19:16 ARhJNfx0
>>160
長文でも面白ければ大歓迎です。
あなたの書くことはいつもためになります。
三増峠を軸にした北条やその周辺の動きは
今個人的に興味がある課題のひとつなので楽しいです。
162:人間七七四年
08/07/19 18:11:57 RGIwAcDK
中央の軍事介入の証明がない為、“田舎大名の戦いである”の反論になってない
>外交
蛇足を中略
>彼らは、両者と遣り取りしつつ薩垂山の戦況をかたずを呑んで見守っていた。
要約すると、そろばん弾きながら田舎大名の戦いを見守った
>具体的には
>(1).信玄は反北条の関東諸将、簗田・里見・太田三楽斎父子・佐竹・茂木などに(北条の)背後を突いてくれと頼みつつ、
田舎大名が田舎大名に頼み
>信長・義昭に甲越和与を持ちかけ、
>家康には掛川城を攻略して欲しい。と催促する。
田舎大名が政権中枢に調停を持ち掛け、田舎大名を煽っただけ
>(2).北条は、永禄八~九年の義昭による甲相越三国和与を了承する形式で(だから細川藤孝に越相和与の報告をしている)、
>実交渉では氏真が開拓した駿越交渉ルートを使って、信玄の背後を突いて欲しいと謙信に頼み、
>かつ佐竹を牽制するため伊達と組む。しかし里見との和睦交渉は失敗。
田舎大名が田舎大名と交渉
>(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。
田舎大名同士で争うのはおやめなさい
>かつ本庄繁長の処遇を巡って、葦名・伊達の東北二大大名と意見交換。
東北の田舎大名と意見交換
戦国時代の本質は田舎大名の私戦なんだから無理に反論することないのに
163:人間七七四年
08/07/19 18:26:02 t0hiK5uV
>>162
なんか無理に田舎大名田舎大名と言い過ぎでしょ。
信玄は中央に外交活動を行った結果、中央勢力もこれに対して干渉している。
そしてその規模からみればこれは非常に巨大な勢力間の錯綜が見られる舞台だ。
そもそも君は>>38で不毛な争いと言っていたがこれだけ巨大な場面で行われた戦いが
不毛であるはずがないだろう。お互いの勢力の存亡をかけた意義ある戦いだ。
>(3).謙信は、北条との和睦交渉の話を進めつつ、将軍家・信長の申し入れ(甲越和与)を受けるか否か迷っていた。
>田舎大名同士で争うのはおやめなさい
第一これ何?将軍家・信長の申し入れは信玄から働きかけた結果なんだけど。
無理に中央とやらを高く見過ぎだろ。
あと君の理屈でいうなら織田の京都侵攻までの戦いも西国の厳島や耳川の大戦も
その他ほぼすべての大名の戦いが不毛な戦いなわけ?
こういった各地方の戦いの影響が中央も含めた日本の戦国時代を形どった事を考えると
君の理屈は暴論だろう。
164:人間七七四年
08/07/19 19:23:28 t0hiK5uV
>>162
ID:RGIwAcDK
連休中は家を空けるからなんかあったら書いといて。
165:人間七七四年
08/07/19 23:53:02 TpCZ1vtu
室町幕府自体風前の灯になってる上に、
各地で中央をはるかに凌ぐ軍事力を持った大名が多数居るこの時代で京なんぞ本質的には飾りに過ぎない。
>>162が言ってる理屈は要するに戦国時代の公家と同じ、それも本当に京に居る公家じゃなくて
地方に逃げた公家崩れが地方で実力を持ってる大名に虚勢張ってるのと同じ。
実際は田舎大名などと言う言葉に定義はないので、
>>38のレスは「僕の理屈は正しいんだよバーカバーカ」って言ってるのと同じ、
こんなもん反論もクソも無いのにわざわざ史料つきで説明してくれてるんだから感謝すべき。
166:三増峠ってどお?
08/07/30 09:59:27 YIlUBULl
>>162さんへ。
返礼傷み入る。私は集めた資料の中から、面白く、かつ疑問をなるべく解答しようというスタンスで書いています。
外交は「間接的アプローチ」の一貫であるし、(byリデル・ハート)
かつ(外交は戦争の)一貫である事。(byクラウゼヴィッツ)という考え方なのですが…
あなたは違うのでしょうか?
私というか…、大抵の人はそうですよね?
それを否定したら、話が先に進まないよ。
というわけで、あなたが思う「外交」とは何か?述べてくださいね。
>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
>>165さんへ。フォロー、サンクス。(多分いつもの人?)
>>150-151さんへ。割り込み失礼つかまつる。調べて分かった事を箇条書きにします。
1.北条は、古河公方重臣豊前山城守が討死している。
氏康・氏政父子それぞれが豊前山城守の後室に宛てた書状があるから確実。
だから、氏照勢(豊前山城守などの栗橋衆)と浅利勢(浦野民部右(左)衛門尉などの箕輪衆)は、相当のダメージを負ったのでは?
永禄十二年12月5日付 氏康→豊前山城守後室宛書状。
永禄十二年12月21日付 豊前山城守後室宛北条家朱印状。
どちらも「神奈川県立文化資料館所蔵豊前氏古文書」
写真も載ってるよ。ココ見てね↓
神奈川県立文化資料館のHP。
URLリンク(www.pref.kanagawa.jp)
2.みんながもめてる「新太郎・助五郎已下之兇徒二千余人」についての解釈だけど…
「已下=以下」について『新明解漢和辞典』で調べたら、昔は「それ(ここでは氏邦・氏規)を含まない数字」という意味もあった。
だから素直に訳せば「(氏邦・氏規本人を含まない)氏邦勢・氏規勢二千余人」となるのではないか?
以上、恐々謹言。
167:三増峠ってどお?
08/07/30 10:03:36 YIlUBULl
スミマセン。>>166の訂正。神奈川県立文化資料館のHPのアドレス。
×URLリンク(www.pref.kanagawa.jp)
○URLリンク(www.pref.kanagawa.jp)
168:三増峠ってどお?
08/07/30 15:23:20 YIlUBULl
スミマセン。>>166の訂正その2。
×>>162さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
○>>161さんへ。プレッシャー掛け過ぎです。でも期待を裏切らないようにしますよ。
169:人間七七四年
08/07/31 00:16:00 ckUiN0O7
名スレの予感・・・
170:人間七七四年
08/08/01 20:00:25 mAypRZQ/
今は亡きメガ豚君が立てたスレ
171:人間七七四年
08/08/06 12:42:04 sWKo/48z
北条ヲタ涙目やなぁw
172:人間七七四年
08/08/09 17:19:00 21m/pCwi
氏康本人が現場(主戦場)に到着してからの合戦だったら
武田もかなり損害でたと思う。
173:人間七七四年
08/08/09 17:26:50 5jt9BYVK
北条氏康がもっと早く小田原から討って出てたら
家康よろしく粉砕されて糞漏らす間もなくそのままご臨終です
174:人間七七四年
08/08/12 18:09:17 ATqpXmfS
>>173
正解
175:人間七七四年
08/08/14 08:36:50 mUhsY0eA
挟撃されて武田は全滅だろうね
176:人間七七四年
08/08/14 08:51:55 RB0GX4pq
北条氏康は名将だが
野戦よりも篭城戦に強い印象がある。
「負けないイクサ」「ドローでOK」ってのは日本人ウケしないんだろうな。
177:人間七七四年
08/08/14 12:44:50 qLboyfkt
>>175
どうした?涙目だぞ?w
178:人間七七四年
08/09/16 01:12:03 ++6d7P9n
保守。
179:長尾忠景ってどお?
08/09/17 10:26:58 78Aw6xBg
>>334さんへ。私は、定正の乱はやはり、山内側に鎮圧されたと思いますよ。
(1).山内家と扇谷家は「20万と100騎」(大森教訓状)あるいは「鵬(大きい鳥)と鸚(オウム)」(定正状)ぐらいの戦力差がある。
禅秀の乱に勝利した関東管領山内家は反乱者の土地を没収し、それを武蔵・上野・相模の国人達に分配して主従関係を結び、国人達を味方に付けた。
一方、扇谷家は「天運と道潅の器量によ」り、「関東の諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。」のに「その道潅を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい行為である。」
(「 」内は、扇谷三将(道潅・大森・三浦時高)の1人である、大森寄栖庵氏頼が明応元年~2年(1492~1493)の2月に定正に宛てて書いた「大森教訓状」からの引用です。)
(2).かつ扇谷家は、山内家家宰白井長尾氏(武蔵・上野・相模に分散)よりも勢力が小さい。その景春が失敗したのだから、定正が武相上を征服するのは到底難しい。
(3).定正は故意に上野・越後に攻め入っていない。
これは定正が山内家の主戦力である越後勢の介入を恐れたためと思われる。
ということは、いくら定正が武蔵鉢形周辺で勝っても、敵の主戦力にダメージを与えない限り目的を達成するのは非常に難しい。これは戦略の常道ですよね?
(4).明応三年(1493)8月26日には大森寄栖庵氏頼、9月23日には三浦時高と次々と重臣を失い戦力ががた落ちしているのにも関わらず、
定正は、早雲・氏親の外部勢力と手を組んでまでして山内家と戦う。これは無謀ではなかろうか?
180:長尾忠景ってどお?
08/09/17 10:53:00 78Aw6xBg
みんなスマン!!
>>179は間違って書いてしまいました。一応、削除以来板に出しました。
>>161さんへ。
第二幕第二場の「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。永禄十二年(1569)1月26日~4月24日。
は、8割完成しました。あとは、「年表の推敲」と「北条と里見の政治的(外交・戦争)関係」を調査するのみです。
遅くなってスミマセン。恐々謹言。
181:人間七七四年
08/09/17 12:50:49 zlrFvN6U
削除理由は削除ガイドラインから
削除人さんは消しゴムじゃありません
そんな理由で一々消せるとでも?
sengoku:戦国時代[レス削除]
スレリンク(saku板:112番)
112:長尾忠景ってどお? 08/09/17 10:40 HOST:KD125054189174.ppp-bb.dion.ne.jp<8080><3128><8000><1080> [@nifty.com]
削除対象アドレス: スレリンク(sengoku板:179番)n-
削除理由・詳細・その他: スレッドを間違えて、レスを書いたため
182:人間七七四年
08/09/17 13:54:58 y6EN15lL
>>181
あんたなんでそんなにイライラしてるのw
183:人間七七四年
08/10/04 15:08:32 Cfn4FnJr
三増における両軍の相対的な位置関係がいまいち理解できない。
1. 凸
三増峠
北条 北条 北条
VS
武田 武田 武田
~~中津川~~
半原山 なのかそれとも、
2. 凸
三増峠
武田 武田 武田
VS
北条 北条 北条
~~中津川~~
半原山 なのだろうか。
Wikiを読む限りでは開戦時の状況は1と理解していたんだけど、このスレを読み進めるに
つれ、2の布陣だったのかなと疑問に思った訳でありまして。
誰か戦況の推移と整合した両軍の布陣状況を教えてくれ。
184:183
08/10/04 15:32:51 Cfn4FnJr
書き忘れたけど甲陽軍艦の記述からだと
>>183の1の後に、
凸
三増峠
武田 武田 武田
~~中津川~~
北条
北条 半原山 北条
と北条は部隊を峠に位置する陣屋?から一旦移動させ(武田と真正面から当たるのを避けた?)、その後>>183の2のように布陣し合戦に至ると読めるんだが、この認識も間違ってる?
185:183
08/10/04 17:30:02 Cfn4FnJr
武田侵攻軍を挟撃するまたとないチャンスだったのに・・・
滝山から南下してきた氏照・氏邦勢が津久井城守備隊と連携を保って三増峠付近の山に
陣取れば、地形的には北条勢が大変有利であり、小田原本隊も追撃するとなれば、武田勢に
とっては前門の虎後門の狼であり、北条としては武田を包囲殲滅することも夢ではなかったの
ではないかと。
ところが、史実は武田を挟撃するどころか逆に、北条が手痛いしっぺ返しを食らってしまったと。
これは何故なのかと考えると、どうしても北条側の戦術的な機動がまずかったとしか考えられな
かった。(氏照・氏邦・綱成・関東衆がうまく連携出来ず、各個突撃してしまい逆襲にあったのかと)
そこまで考えて、さてそもそも三増合戦における両者の布陣はどうだったのか。
戦況の推移と両軍の各部隊行動はどうだったのか。
さらに遡って、合戦場に至る迄の各北条勢の進軍速度・経路はどうだったのか。
186:人間七七四年
08/10/04 18:07:35 W1PrXL7V
>>183から>>185
とりあえず当時の北条方の書状や軍記を見ると
これは一貫して氏照達が武田を後方から追跡した形になっている。
以下その点について簡略した概要
氏康書状
三増山まで武田を追っかけたけど一日の遅れで間に合わなかったよ!
氏照書状
武田は相模から津久井のほうに退散してったのでそこの切所で戦ったよ!
前半は敵の小荷駄とか宗の者とか倒したけど後半山の上にいた武田勢が押し雪崩れてきたよ!
北条5代記
小田原から引いた武田を追撃したら信玄が三増の所に人数おいてたので
知らずに突っ込んだ北条勢は反撃くらって追い払われちゃったよ!
北条記
小田原から引いた武田を追ってきたら三増峠を信玄が人数を置いて固めてて、
それを攻撃したら信玄が山の上に隠していた山県とか内藤が両側から不意に攻撃してきたので
敗走させられちゃったよ!
そして信玄の書状でも
小田原焼いて帰る途中で6、7千の北条勢が追跡してきたから三増峠で一戦して
追い払ったよ!
とあるから普通に帰国途中の武田を北条が追跡して起こった戦いだと思う。
187:人間七七四年
08/10/05 00:45:58 wlNJADyO
>>185
>武田勢にとっては前門の虎後門の狼であり ×
武田勢にとっては前門のヌコ後門の羊 ○
188:人間七七四年
08/10/05 01:29:15 F0qg8FfB
そこまで弱くないだろ
浅利とか死んでるし
189:人間七七四年
08/10/05 01:34:04 F0qg8FfB
包囲する側と包囲される側では包囲する側が有利なように思えるけど、
無線が実用化されるまでは伝令ではタイムラグがありすぎて部隊間の統率が取れず、
包囲されている内線側に各個撃破されることも多い
190:人間七七四年
08/10/05 09:22:37 B5PMKTsh
>>188
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ
191:人間七七四年
08/10/05 12:59:07 gzUhbCUU
>>185
参考になるかも
81 名前: ◆dJMAP/7XmM [age] 投稿日:2006/12/08(金) 02:20:06 ID:oc1adxOh
三増峠の戦いです。最近、この付近の解像度が上がったので作ってみました。三増峠の戦いはわかっていないことが多いらしく、
個人的な妄想を含めて、つくりました。志田山塊と半原台地、中津川の織りなす渓谷など地形の高低を妄想としてお楽しみ下さい。
URLリンク(virtual.haru.gs)
1569年8月24日、信玄甲府を出発。北上して碓氷峠から上野に入る。
9月10日、鉢形城を包囲。軽く攻めた後に、牽制しつつ、松山、川越を経て滝山へ向かう。
9月20日、小山田勢が岩殿山城を出発。当時の街道筋(古甲州街道)であった上野原-浅間峠-檜原城-戸倉城のルートを通らず
9月26日に小仏峠から武蔵に侵入。廿里にて滝山勢を破る(廿里の戦い)。滝山城を攻撃。
9月27日、信玄本隊も滝山城に到着、攻撃する。
9月28日早朝、滝山城から撤退。横山-杉山峠-相原-みぞ-当麻-座間と進軍する。
9月29日、相模川を渡河。厚木、妻田、金田などに着陣する。
9月30日、前川、国府津、酒匂まで進軍する。
10月1日、小田原城包囲。信玄は東海道を西進して風祭に本陣を置く。
10月4日、兵糧の不足を考慮して小田原城から撤退。
10月6日、田村、大神に着陣。これを聞いた氏康は武田勢が三増峠越えで撤退すると予想。氏照、氏邦、綱成らを三増宿に布陣させ、
挟撃するために自身は氏政と共に小田原城を出陣。
10月7日、信玄、内藤昌豊を小荷駄奉行に任じ、小荷駄が戦闘に巻き込まれるのを防ぐため妻田-金田-中依知-箕輪-三増の道をとらす。
本隊は妻田から荻野へと進軍。本隊が三増峠越えではなく荻野-平山-田代-真名倉へと抜けると予想した北条勢は
三増から半原台地の上に陣を移す(打越峠-海底-志田峠の道が使われるようになるのは江戸時代中期以降である)。
平山坂を下り、中津川を渡河した武田勢は、田代城、細野城を落とすものの、台地の上に布陣する北条勢を避けて田代から桶尻へと登る。
信玄は、ます小幡重貞率いる1200を中峠越えで先発させ、長竹で津久井勢を牽制させる。続いて山県昌景率いる5000を中峠越えさせるが、
長竹には進軍させず韮尾根に遊軍として配置する。さらに諸将を3隊にわけ、志田峠、中峠、三増峠越えで甲斐に撤退するふりをして、志田山塊を登り始める。
これを見た北条勢は、武田勢には戦意がないと見て取り、半原から進軍、中津川を渡河して台地に登り武田勢を追撃にかかる。
予定通り武田勢は軍をかえして桶尻に布陣。戦闘に突入する。武田方の浅利信種が戦死するなど北条勢有利で戦闘は展開するが、
山県昌景が韮尾根から志田峠を越えて下志田へとまわり、北条勢を後背から衝くと北条勢はたちまち乱れ武田方の勝利に終わる。
このとき、志田沢、深堀沢、栗沢の沢筋が深くえぐれており、逃走がままならず多数の死者を出したとされる。
氏康親子は荻原まで出陣していたが、味方の敗報を聞くと小田原へと引き上げた。
武田勢は長竹、三ヶ木へと進軍。道志川を渡河して反畑で首実検をおこない死者を弔った。
192:人間七七四年
08/10/05 13:15:51 gzUhbCUU
>>191
Google Earthで古城・古戦場めぐりスレより
スレリンク(sengoku板:81番)
193:人間七七四年
08/10/26 01:49:59 BeObvf/N
保守。
194:人間七七四年
08/11/04 22:35:33 9LIRBHYl
>>191-192
乙
195:三増峠ってどお?
08/11/05 11:07:08 AOXlis5T
>>161さん&皆様へ。大変長らくお待たせしましたが、出来ました。
「第二次薩垂峠の戦い(興津川の対陣)」。
永禄十二年(1569)1月26日~4月24日。○氏政vs.●信玄
北条の勝因3つ。
①早期に介入して信玄のお家芸である機動力を封じ、先制主導権を取らせなかった。
②連絡路を断って補給を脅かすと同時に謙信と組んだ事で、信玄を悩まし、将兵を不安に陥れた事。
③一方、北条軍は補給に悩まされなかった。
その理由は今川の援軍で来ている事、かつ太平洋(駿河湾)の制海権を握っていたから、掛川までも自由に移動できた。(信玄、水軍の重要性に痛感する。)
1.この戦いの珍しい特徴2つ。
(1).第三国(今川領)での長陣&外交戦。
当主同士が本拠を離れて第三者(今川)の領地内で約3カ月間対陣した(弘治元年(1555)7月~閏10月の第二次川中島に匹敵する)非常にまれな戦いで、
地勢的要因により直接アプローチよりも互いの後方を撹乱する活発な外交戦が展開し(詳細は>>157)、書状の数が優に50点以上確認できる。
※地勢的要因とは?
北条軍は薩垂山に陣地を築いて兵を配置した。確かに(平野の)興津にいる武田軍は見下ろせるのだが、
いざ決戦となると一旦、細い山道を下りて平地(興津、つまり敵の目の前)で再集結してからでないと戦えず、準備に時間がかかる。
一方、武田軍は興津に集結していて、速やかに出陣する事は可能だが、敵の陣地を潰すには、莫大な時間・人・金・物を浪費しなければならない。
ましてや補給不足だから、横山城で北条軍の西上を防ぐのが精一杯。
(2).信玄、最大のピンチ!!
敵(氏真・北条)がそろって「信玄敗北」と書く一方で…
信玄が信長に弱音を吐いている点も珍しい。
「信長の外には味方がおらず、少しでも信玄を粗略に扱うならば、信玄滅亡疑い無き候」(古今消息集)
結論1
(1).川中島の戦い+(2).上田原・砥石崩れ以上に信玄は窮地に陥ったのである。
2.なぜ北条は信玄に敵対し今川に味方したのか?理由は3つ。
(1).早雲以来、当主同士が通婚しているだけでなく、今川一門・重臣とも血縁関係あり。
当主…北川殿=今川義忠、北条氏康=氏親娘、早河殿=今川氏真
一門・重臣
①早雲=今川重臣葛山氏の娘、早雲三男氏広は葛山氏の養子。
早雲娘=今川重臣の三浦氏員。駿越同盟の交渉人となる三浦氏満の母
(「今川仮名目録」第37条によると三浦氏満は朝比奈又太郎(泰能?)と並び、今川家中No.2の地位にあった。)
②氏綱娘=葛山氏元、氏綱娘=今川一門の掘越六郎(氏延)。(あと綱成も追加。)
(2).領地拡大。
この機に北条は、甲相駿三国同盟成立(1554年)で放棄した早雲本貫の地である駿河駿東郡・富士郡の回復を狙っていた。いや、それどころか駿河全土を奪おうと考え、氏直を氏真の養子にした。
(3).西上野の土地争い?
信玄と北条は…西上野の多胡郡・緑野郡、(現在の群馬県多野郡鬼石町・同郡吉井町・藤岡市一帯)の所有争いをしていたらしい。
この地は憲政→氏康→景虎(永禄3~4年)→後北条と所有を転々とし、永禄九年(1566)3月10日の義秋の越相和与に抗議する形で、
信玄は永禄十年正月~4月頃ここを占領したが、北条が信玄に譲歩することで一時的に解決したらしい。(以降、勝頼死まで武田領。)
永禄十年1月28日付、輝虎→義重宛書状写(編年文書)に出てくる「南甲手切有」(北条と武田が手切れした)はこの出来事を指すらしい。
ちなみにこの土地は、永禄十二年8月26日付 氏政→由良成繁父子宛書状写(集古文書)に出てくる「烏川南藤田以北」を差す。
(つまり、氏政は由良父子にこの地を与える空手形を振ったのである。)
196:三増峠ってどお?
08/11/05 11:11:17 AOXlis5T
続き
3.直前の動き
(1).北条側の動き(永禄十一年(1568)12月12日~十二年(1569)1月26日まで)
12月12日、北条は直ちに援軍を差し向けた。それも当主氏政自らが出陣し、かつ豆相・武蔵(氏邦・成田)・下総(原・栗橋衆)の兵まで動員するという本格的なものである。
(ただし氏照&滝山衆は関宿攻め。氏康は本城または鉢形城?)
氏政は(謙信・里見の攻撃に備えて)本陣を沼津に置き、
諸軍勢は(武田に内通した葛山領の)駿東郡、(武田に抵抗する)富士郡など富士川以東を瞬く間に抑え、
幻庵の長男氏信が率いる先陣は、武田軍より一日遅れて、13日蒲原城(庵原郡蒲原町)に入った。
信玄は同城を攻撃せずに駿府占領・氏真の身体確保を優先させたため、同城は未だ今川の手中にあった。
さらに先陣の一部はそのまま興津に進み、武田軍と交戦して、404人討ち捕らえたという(13日)。
その後、氏邦が駿河に出陣して興津の対岸にある薩垂山に陣を敷き(23日)、24日には城普請の材料を吉原(富士市吉原)の土豪矢部将監に命じた。
a.薩垂山の陣場・陣城について
薩垂山の陣場は、未完成ながらも南北3.5kmの広い空間に築かれた山城で、幅20~30m、長さ500mの北条系城郭の空堀があり、眼下に興津(の武田軍)を見渡せる場所であった。
b.北条の戦略
①政略的には謙信・里見と同盟し、駿河・関宿攻略に集中する。
・具体的には未だ武田に抵抗する大宮城ー蒲原城ー薩垂山という防衛ラインを(短期間に)築いて信玄の退路を断ち、
機動戦が得意な信玄を駿河に封じ込める、と同時に氏真同様、謙信に働きかけて信濃を突くもの。
(永禄十一年12月19日付、氏照書状「志賀槙太郎氏所蔵文書」から始まり信玄が帰国する前後の4月27日まで平均すると、
129日÷18通=7.166日、つまり約1週間に1度のペースで、北条(&由良)は謙信に対してしきりに「信州出張」を求めている。)
・里見とは「駿河を仲介に共に甲斐に攻めよう」と持ちかけるも、条件が合わず、まもなく破談。
②さらに18日には、(陸軍は)諸足軽衆筆頭の大藤式部丞・(水軍は)伊豆衆筆頭の清水康英の子新七郎、
(検使に評定衆の)布施康能からなる300の援軍を海路で掛川に送り、氏真の籠城をできる限り長引かせる。
(大藤隊は、北条軍の特殊部隊、コマンドーやチンデットのような少数精鋭と考えて下さい。
他に第一次国府台合戦(1538)、海老ケ島の戦い(1556)、景虎越山(1560~61)、三方ヶ原の戦い(1572)などで活躍している。)
(2).武田軍の動き
信玄は当初、掛川攻撃まで考えていたが、北条軍の早期介入&連絡路遮断により、駿府の西の宇津峠越えを断念した。
この作戦計画放棄により西駿河や北駿河(安倍金山)の一帯は未だ氏真の支配下にあり、
かつすでに遠江に侵入していた秋山隊が徳川軍と衝突、信玄が家康に遠江を明け渡す事で解決し、家康に掛川城攻撃を要請した。
1月27日、氏政本隊が工事中の薩垂山に出張る(合計45000)と、信玄はようやく重い腰を上げ全軍18000を率いて、氏真同様に興津清見寺に本陣を置き、
先陣の武田信豊が興津川の河原に布陣。興津川を挟んで、東北の薩垂山に氏政、西南の興津に武田軍が対峙した。
197:三増峠ってどお?
08/11/05 11:20:09 AOXlis5T
4.経過
(1).1月27日~2月1日まで。
信玄の動き
1月27日、武田の全軍が興津に移動すると、
安倍衆の海野宗定(安倍元真の娘婿)らが駿府のすぐ北の津渡野(つどの)までゲリラ戦を展開し、
武田方の今川旧臣ら10余人を討ち取り、氏真家臣伊丹康直に「駿府を奪回できるこの機会を逃してはならない」と報告する。
※安倍衆…安倍金山周辺の土豪達。氏真に味方して武田と戦っていた。
現、静岡市北部にある梅ヶ島・井川・大河内・湯ノ森など。
戦国時代の金山採掘は、農民が強制徴用されて御代官の家来にビシバシ叩かれる時代劇のイメージと違い、専門的な職人衆が掘っていた。
かつ彼らは有名な寄親に被官として取り立てられ、様々な特権や高条件の待遇を得ていたようだ。
安倍衆の寄親は最後まで氏真に従って信玄と戦った三浦一族だったらしい。
これに対し信玄は、3000の兵(山県隊?)をさいて安倍衆討伐に向かわせる。信玄は彼らに対し和戦併用策をもって臨む。
2月1日、連絡路確保のため、穴山・葛山1000は富士城を攻撃するが失敗。第二次富士城攻防戦。
ここは駿州往還道、身延道(だいたい現在の国道52号線と考えて下さい)沿いにある城下町なので、
甲斐に帰るもしくは補給上どうしても確保しなければならない。
(2).2月2日~2月25日まで。
①信玄の動き
富士城攻撃の失敗でますます本国から補給困難になり、身延道の西を通る山道を切り開き、かろうじて補給が届くも、兵は難儀している状態。
北条軍の西上を防ぐため、横山城を修築した。横山城(静岡市清水区谷津2丁目字城山)は、国道52号線(駿州往還・身延道)と興津川沿いの台地に築かれた。
目的は甲斐⇔駿河ルートを抑え、かつ興津川を挟んで対岸の薩垂山にいる北条軍の西上を抑えるためである。
②信玄と家康、さらに不仲に…
この頃、信玄は家康と交わした「氏真・氏康父子と勝手に和睦してはならない」という誓詞を破って、安倍衆との人質交換を行ったため家康は「信玄不信」をさらに深めた。(でも信長の手前、断交はしないが…)
(3).2月26日~4月24日まで。
①直接アプローチ
2月26日、氏邦勢は興津河原に伏兵し、武田小荷駄隊20余人討ち取る。
2月28日、氏邦勢・玉縄衆、薩垂山中に伏兵していた武田軍の大将、本郷八郎右(左)衛門(箕輪衆。上杉憲政の一族で、信玄の使者である長延寺実了の弟または甥。)を始め10余人を討ち取る。
3月13日夜、23時~0時頃、信玄は氏邦・大道寺資親(政繁の父)・左翼の先頭の番所の3カ所を同時に奇襲するも敗北する。
②家康の3つの疑心。
a.秋山事件 b.安倍衆との人質交換 c.「信玄は敗北」し自分も遠江を失うのでは?→その前に遠江だけは確保したい。
だから、家康も3月8日から、信玄に内緒で氏真・北条と和睦交渉を行うようになった。(でも信玄には、ばれていたようだ。)
③越相和融成立。
3月14日、越相和融半ばまとまる。
この前後の信玄・北条+関東・謙信の情勢については「越相同盟について」スレにて書く予定です。
スレリンク(sengoku板)l50
④信玄、戦略を転換。
3月23日、信玄、信長に再度、甲越和与の仲介を頼む。(この書状にあの「信玄滅亡疑い無き候」が出てくる。)
この頃の信玄の書状を一括すると、小田原侵攻(つまり三増峠)が具体的になる。
(ここで、ようやく三増峠の戦いの信玄の目的・目標・重心が分かる。)
a.謙信信州出張に自ら備えるため雪解け前に一旦帰国し、仕切り直す。
b.越相同盟成立させなくするためには、(かつ駿河を支配するためには、在駿河北条軍の守備を手薄にしなければならないからこそ)、武蔵・小田原に向かって深く侵攻すべき。
c.そのためには反北条の諸将の支援がどうしても必要だから、もっと親交すべき。(親交を深める一番の方法は、武蔵・小田原侵攻しかない。)
⑤信玄、帰国準備。
4月19日、信玄は駿河代官兼横山城主穴山信君、久能山城主板垣信頼に細かな城中掟書を書いて与える。
「城の守りを厳重に。敵が攻めてきたら絶対城外で戦ってはならない。」など
久能山城(静岡市根古屋)は天然の要害、北に静岡市と南と西に太平洋を見渡せる場所にあった。
横山城は前述。
⑥信玄敗北。
4月24日午前3~5時頃、信玄敗退。氏政追撃して数百人討ち取るという。ルートは、興津→国道52号線(身延道)の西側を走る県道374号線→高根山の山道→県道195号線→樽峠→山梨県富沢町徳間らしい。
198:三増峠ってどお?
08/11/05 12:05:11 AOXlis5T
>>195-197の長文編は…
URLリンク(www7.uploader.jp)
にある
No.1 k1361_uljp00001.pdfというファイルをクリックしてみて下さい。
以上、長文でスミマセンでした。恐々謹言。
199:人間七七四年
08/11/05 12:21:52 POC5dteM
>>195-198
乙。
…よく読むと矛盾点があるような。
謙信の動向とか。
200:三増峠ってどお?
08/11/05 17:51:22 AOXlis5T
>>199さんへ。返レス有難う。
>謙信の動向とか。
謙信も含めて、信玄・里見+佐竹ら関東諸将、越相和与交渉については、
次回「越相同盟について」スレにて、まとめて書く予定です。
スレリンク(sengoku板)l50
>>161さんも、特に北条の動きが知りたそうなので…、チェックしてみてください。恐々謹言。
201:人間七七四年
08/11/05 18:03:02 CjkVYNBe
つまり三増峠の戦いの敗因は氏政が遅れたことでも何でもなく
最初から氏康自身の采配のミスによるものだったんだね?
それを後から、当時の体調が思わしくなかった、息子のミスだって
もしかして氏康って実際は相当、無能だったの?
202:人間七七四年
08/11/07 20:55:47 FX8C+lOB
>>198
すみません、ファイルがないみたいです
203:人間七七四年
08/11/08 01:08:35 JVghmrsL
三増峠を信玄の勝利って、金ヶ崎を信長の勝利と言ってるのと同じようなもんだね。
204:人間七七四年
08/11/08 01:26:52 yaGP1BEM
本拠地焼かれてそれはないだろ 蹂躙されまくってるじゃん
しかも小田原まで出向いてやったのにろくに決戦も挑んでこないヘタレ具合
205:人間七七四年
08/11/08 01:36:22 JVghmrsL
小田原城包囲と三増峠は別。
206:人間七七四年
08/11/08 02:06:28 yaGP1BEM
深沢城では三増でボコられた綱成が信玄公に脅され逃げ出す始末
どんだけ恐ろしい目にあったことやら トラウマになってたんだろうね
まあそんなみじめな綱成も信玄公に武勇を褒められて涙ぐんで感謝したんだから
戦国ちょっといい話だ
207:人間七七四年
08/11/08 05:21:13 JVghmrsL
その深沢も元々武田が占領してたのを落とされて必死こいて取り返そうとしたもの。
208:人間七七四年
08/11/08 05:40:09 yaGP1BEM
必死こいて屈辱同盟した上杉にはなんの援助もしてもらえず
結局駿河はめでたく武田家が獲得 一方北条は戦でボコられ涙目
何も得るものなく恥を上塗りし武田家に和を請う始末
209:人間七七四年
08/11/08 06:41:03 JVghmrsL
ところが興国寺城だけは最後まで落とせてないんだよな。
2度も攻めて失敗とかw
因みに北条が本気で守りに行ったのはこの興国寺と蒲原だけ。
やっとこさ蒲原落とした程度で北条に勝ったといえるのかなー?
210:人間七七四年
08/11/08 06:49:47 z0E0NI0F
三増でボコられ小田原焼かれ駿河奪われやっとこさ興国寺城恵んでもらって
涙目で武田家と再同盟 もともと涙目の北条には勝ち目はなかったねー残念ー
211:人間七七四年
08/11/08 07:03:26 JVghmrsL
北条領は1㍉も奪えず援軍に着た北条軍に手も足も出せずせっかく落とした駿府以下まとめて放棄して逃げ帰ったり
せいぜい追撃を撃退した程度で、
「あと少しで信玄を討ち取れるところだったんだが惜しかった」
くらいにしか北条側に思われてない三増峠(笑)ごときで一体武田のどの辺が北条に勝ったんかねえ?
212:人間七七四年
08/11/08 07:04:45 z0E0NI0F
勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながら駿河から逃げ出す北条サイコー
213:人間七七四年
08/11/08 07:06:25 JVghmrsL
勝った!勝った!と高らかに勝利宣言しながらこのスレから逃げ出すID:z0E0NI0F=ID:yaGP1BEMサイコー
214:人間七七四年
08/11/08 07:07:21 z0E0NI0F
どの面下げて上杉と同盟したんだろうねー
笑えるねー そんで都合が悪くなるとまた武田家に頭下げに来たんだよねー
笑えるよねー
215:人間七七四年
08/11/08 07:09:55 JVghmrsL
どの面下げて甲斐へ逃げ帰ったんだろうねえ。
緒戦で大勝して調子に乗って徳川にまで手を出したあの勢いはどこへ?
十分勝ちはよしとせず、五分勝ちこそ最良の勝利、って誰の言葉だっけ?
216:人間七七四年
08/11/08 07:10:40 z0E0NI0F
北条が本気を出せば駿河はおろか越後も伺えたよねー
最強だね 小田原城
217:人間七七四年
08/11/08 07:17:56 JVghmrsL
ID:z0E0NI0Fは小田原が氏康の時代から総構えだったと思ってそうだな。
218:人間七七四年
08/11/08 07:19:03 z0E0NI0F
小田原城が本気を出せば篭城パワーで天下も取れただろうねー
さすが土下座外交のホウジョー
219:人間七七四年
08/11/08 07:21:14 JVghmrsL
もはや脊髄反射で支離滅裂なレスしか出来なくなってきたようだな。
220:人間七七四年
08/11/08 07:23:28 z0E0NI0F
おやおや北条得意の勝利宣言ですかー?
とっとと小田原に篭城してたほうが身のためですよー
篭城しか取り柄のないヒキコモリ北条は
221:人間七七四年
08/11/08 15:52:31 zDiMkRPP
なんだこりゃ
222:人間七七四年
08/11/08 16:12:03 zDiMkRPP
>>209
蒲原で守ってた北条一門全滅してるし、
それが攻略された事で駿府は陥落。
駿河の中枢は武田の手に落ちる。
興国寺の時は3日しか攻めてないし
もともと駿河の外れ。
比較にならないと思うが。
つか深沢は綱成が必死に抵抗したんだから評価しなよ。
223:人間七七四年
08/11/09 00:45:12 N4jqSr6g
>>211
>>北条領は1㍉も奪えず
第一回駿河攻めなら駿河を一か月で攻略した後で北条が来たんだから仕方なくね?
それ以後なら武田の別動隊が北条領の武蔵御岳城を攻略してたんじゃね?
三増峠もその氏照書状は謙信相手の外交誇張入ってるし、
信玄が綱成相手に出した深沢書状では「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり、
諸軍の嘲りの的だった。」という参戦してたらしい綱成に言ってるくらいだし
古河公方の重臣とか死んでるし、結構やばかったんじゃね?
224:人間七七四年
08/11/10 23:11:12 8D693y2b
>>207
確かにそうじゃが、それをいうなら北条も綱成開城後に
必死で取り返そうとし3月末まで戦っていたはずじゃ。
そして結局奪還できずに深沢は武田の手に帰し、駿河の攻防は決着するわけじゃ。
武田もそうじゃが北条も十分深沢にこだわっていたといえるのう。
225:人間七七四年
08/11/12 11:43:18 ogdGFgOR
おいおいいつまで北条オタは見苦しい態度ばかりとってんの?
それとも本気で、武田側の資料が信憑性が無いとでも言いたいわけ?
北条側の資料の方が捏造だらけだと言うのは今や歴史家や学者などの
間でも有名だというのに、いまだに甲陽軍艦批判から頭が離れられない
んだねえw
今まで軍艦に信憑性が無いと言われてきたもんだから、逆に勝手に北条側の
資料を鵜呑みにしてきたんだろうけど、事実を知ってショッキングになってる
気持ちも理解出来るよ、てゆうか笑えるw
226:人間七七四年
08/11/12 11:48:09 ogdGFgOR
北条が武田に勝った事実はどこを探してもありませんww
・信玄の誘導作戦によって駿河から兵を撤収せざるをえなくなる
・外交戦略で信玄にボロ負け、謙信の援軍は無し、北関東の敵に
さらに脅かされる事にw
・三増峠で先鋒隊は壊滅w
227:人間七七四年
08/11/12 12:12:42 Hv85+yHD
三増峠の戦いって聞いたことある。武田軍が北条軍に圧勝した戦いでしょ?
北条って、ずっと武田と同盟結んでたから
上杉にも対抗できたし、武田にも滅ぼされなかったんだよね
でも、刺しで勝負したら上杉にも武田にも負けてるとこ見ると
本当は格下の大名だったのかも知れないね
228:人間七七四年
08/11/12 16:04:43 7FMMq9dr
なんだこのキチガイは。
229:甲斐の老鶴 ◆TSURUWK/W2
08/11/12 22:40:24 xM92vwib
御旗盾無御照覧あれ
230:人間七七四年
08/11/13 04:20:10 4TFhMMv5
甲斐犬かわいいよね!
231:人間七七四年
08/11/13 21:42:10 4DOFvBYR
よくわからんけど戦術も戦略も武田の勝利なの?
それとも戦闘では負けたけど戦略は北条の勝ち?
232:甲斐の老鶴 ◆TSURUWK/W2
08/11/13 22:19:07 okZc2u3g
>>230
キャンキャン
233:人間七七四年
08/11/14 17:51:35 HcSV3NtO
北条って、そもそも
戦だけなら里見や佐竹すらの豪族大名にも負けてない?
元から弱かっただけなんじゃ?
234:人間七七四年
08/11/14 18:15:55 nsMqKGWv
武田って、そもそも
戦だけなら村上や長野すらの豪族大名にも負けてない?
元から弱かっただけなんじゃ?
235:人間七七四年
08/11/14 19:48:55 pRMaT4NC
信玄て第一次駿河侵攻で氏康どころか氏政に負けたんだよな…。
236:人間七七四年
08/11/15 00:08:42 3/Wd8M92
>>234
長野には負けてない。これははっきり言える。
>>235
第一次駿河でもその後も戦略を描いたのは氏康。
駿河を最終的に取ったのは信玄。
237:人間七七四年
08/11/15 00:52:21 ajLAlSvO
現場で陣を張ったり補給路を押さえたりしたのは氏政でしょ。
苦し紛れに穴山と葛山に城攻めさせてるけどこれも失敗。
非の打ち所のない氏政の完全な勝利だと思う。
238:人間七七四年
08/11/15 01:18:17 3/Wd8M92
>>237
苦し紛れにというが一部隊千名あまりだしな。
これで城をとろうというものだろうかと。
つーか結局引いたのは今川残党ゲリラや謙信への対処が必要だったからだし。
239:人間七七四年
08/11/15 01:53:02 ajLAlSvO
>>238
そりゃいつ本隊が襲ってくるか分からん状態で大軍は裂けんだろ。
落とした城の大半を放棄して退却とあっては惨敗もいいところだろう。
240:人間七七四年
08/11/15 03:48:41 BPPlks9I
城落として退却したならそれは戦略的退却って奴で惨敗とは言わないよ、普通の人は(笑)
241:人間七七四年
08/11/15 03:58:35 5jVUGlnl
放棄していった城ほとんど今川側や北条側に取り返されてるんだけど。
242:人間七七四年
08/11/15 06:07:46 fU+hF4Zu
>>234
村上>里見+佐竹
243:人間七七四年
08/11/15 07:03:03 3/Wd8M92
>>239
だからそれは戦略状況からの引き上げであって
その戦略状況を作ったのは氏政じゃなくて氏康なわけ。
そんでその後も戦略は氏康が主導し続けるわけで。
244:人間七七四年
08/11/15 17:50:06 5jVUGlnl
折角落とした城打ち捨てて撤退しておいて単なる引き上げとか、大本営発表かとw
6度も長野攻略失敗しといて負けてないとか、どんだけ(ry
245:人間七七四年
08/11/15 19:40:48 uaiM/cHK
>>244
まあその理屈でいうと金ヶ崎も負けになるんだが。
第一次は信玄の戦略的負けである事は認めるが。
長野に信玄が負けたというのは江戸時代以降の講談にしかない。
信玄はそれまで上杉謙信との戦いで1561年9月の第四回川中島まで北信濃の
攻略に集中してる。
実際信玄が西上野を攻め始めるのは1561年11月以降だが、この時には
長野業政は死んでいる。
そして1561年11月以降の戦いでは信玄は長野の味方である西上野の勢力を次々に攻略し
1565年には長野の箕輪城を孤立させる事に成功。1566年には総攻撃で攻略してる。
246:人間七七四年
08/11/15 22:52:44 n51YjXvd
>>242
里見は最盛期には50万石か60万石ぐらいはあったと思うんだが
>>245
戦術的にも結構ボロボロじゃないか第一次駿河に関しては、
兵力差と置かれた状況考えれば善戦していると言っていいと思うけど
247:人間七七四年
08/11/16 01:51:04 caO1Rz0o
ていうか北条は武田方の領土に攻め込んで、一体いくつの城を落としたことあるの?
248:人間七七四年
08/11/16 02:30:23 Yt5IKSb8
駿河に押し寄せた4万5千の北条勢。
今川をひと月で崩壊させたものの国力に劣る武田は1万8千。
武田は前面を北条の大軍に圧迫され、後方では今川残党蠢動。
さらには信濃に迫る上杉の脅威、不穏な動きを見せる徳川。
窮地に陥った信玄は一旦駿河からの撤退を決意する。
興津と久能山に穴山と板垣を残し、道なき道を進み甲斐を目指す信玄。
その胸中には駿河奪還のための秘策が既にあった。
駿河から北条の兵力を引き揚げさせ、関東の反北条勢力を活性化し、
上杉と北条の仲を寸断する妙手。
北条の本拠小田原襲撃。
関東の覇王北条氏康の待ち受ける小田原への侵攻。
大国北条領最奥への短期間での往還作戦。
それは一歩間違えれば壊滅を意味していた――
次回「小田原侵攻作戦」
ってな感じか。
249:人間七七四年
08/11/16 02:40:47 EjhKz1l5
TV番組かよw
しかしこの苦しい状況から逆転し
大国北条を追い込み駿河を奪還して再同盟締結。
信玄の知略軍略が光るねえ~。
250:人間七七四年
08/11/16 06:14:50 ZCHw04m/
北条は武田に盾突いて、
何一つ得をしていないな。
東京大空襲された大日本帝国みたいに首府まで焼き打ちされてる。
しかも武田は日米戦争みたいな明らかな物量差のある相手じゃないし。
これで信玄に並ぶとか戦国一の名君なんて笑わせる。
251:人間七七四年
08/11/16 09:22:52 UMeSmQVj
所詮氏康が死んで代替わりのゴタゴタ時期に掠めとっただけだからな。
運が良かったね武田は。
252:人間七七四年
08/11/16 10:15:02 caO1Rz0o
ま、史実とは一切関係なしに100%適当に反論しました感丸出しだな。
三増峠なんか氏康モロ健在だったし
結局、北条って親子揃って武田に侵略された大名ってだけ
253:人間七七四年
08/11/16 10:44:54 xzTR18Si
>>252
分かった分かった
信玄最強!
信玄完璧!
神だね信玄は
そして信玄を崇拝する人は素晴らしい
な?そう言えば君は満足なんだろ?
分かったからあっち行け
↓シッシッ ヾ(`ε´ )
URLリンク(speedo.ula.cc)
254:人間七七四年
08/11/16 10:58:18 QqrvlbhJ
後北条の方が凄いよ。
義元信玄謙信信長秀吉とかアザトース倒したし。
宇宙大将軍北条氏康。
255:人間七七四年
08/11/16 14:13:16 +M1p5ZAG
アザトース倒したら全宇宙最強じゃんw
256:人間七七四年
08/11/16 14:21:43 +MonadsZ
>>253
横からだが
史実に即した書き込みまでその扱いかね。
煽りでしか書けない君の惨めさに同情する。
257:人間七七四年
08/11/16 23:34:00 fZImGcIV
>>253
こいつ小学生だろ
いい年こいてこんな馬鹿いないよ
258:人間七七四年
08/11/17 22:45:36 8WYipsWQ
>>256
三増峠を武田の大勝利と思ってる書き込みのどこが史実に即した書き込みなのか。
259:人間七七四年
08/11/17 23:01:42 RxocOwUo
実際に武田が北条相手に大勝してるから史実に即してるだけじゃんw
これが川越夜襲とか生山合戦とかなら講談扱いされてもいいけど
三増峠の戦いまで講談扱いしないで欲しい
260:人間七七四年
08/11/17 23:06:28 8WYipsWQ
大勝利と書いてるのは甲陽軍艦だけ。北条側は信玄を取り逃がした程度にしか書いてない。
第一大勝利とするなら具体的にどのような戦略的損害を北条に与えたというんだ?
261:人間七七四年
08/11/17 23:48:55 FJQvbOk2
>>260
軍鑑だけじゃないよ。残念ながら。
信玄が籠城する北条綱成に深沢で送った書状では
>>223の言うとおり「三増峠の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍だった」と
参戦していた綱成に言って恫喝している。
事実じゃなきゃこんな事書かないし、第一北条勢は古河公方の重臣が戦死している。
262:人間七七四年
08/11/17 23:50:00 FJQvbOk2
>>261の補足として
信玄自身も2千人余り討取って大勝利を得た、この勝利は神のおかげと書状を書いている。
263:人間七七四年
08/11/18 00:24:15 gYYzXec/
敵対する相手に送った降伏を促す書状の内容を鵜呑みにする奴があるか。
264:人間七七四年
08/11/18 00:40:38 MvuwsnYT
>>263
でもよ、綱成は三増峠に参戦してるんだぜ?
その戦いに参戦してる相手に大勝してもいないのに>>261みたいな事書いたら
「ぷっw何ふかしこいてやがんだw必死だなw」ってなるだけで意味ないぜ。
信玄がわざわざ参戦してた綱成に送ってる書状なんだから信じていいんじゃねえの?
265:人間七七四年
08/11/18 00:52:24 gYYzXec/
>>264
綱成本人がどの辺にいたか分からんが、氏政本隊は結局参戦せずに途中で引き返してる。
戦闘に直接は参加してなかった可能性が高い。
それに深沢城矢文は普通に「ぷっw何ふかしこいてやがんだw必死だなw」って反応されてるけど?
開城を決意したのは金堀衆を使って城を崩しにかかったからだし。
関八州は天が信玄に与えたものとか、駿河に攻め込んだのは氏真が謙信と結託しようとしてたからとか、
内容滅茶苦茶。
266:人間七七四年
08/11/18 01:03:28 MvuwsnYT
>>265
軍記じゃ綱成は氏照勢に参入してたはずだぜ。
そういうことじゃなくてよ、信玄がわざわざ参戦してる相手に
ふかしこいてもしょうがねえだろ、って事よ。
「駿河をはじめとして関八州は信玄に従うのが天命だろう、
氏康ごときのたくらみでなんで留める事ができるものか」ってのは恫喝としての文だと思うぜ。
「俺達が勝ちまくるのは俺達が武勇や軍略に格別に優れてるからじゃなくて
天命ってもんだぜ。」っていう文章もあるしな。
あと氏真が謙信と結託してたのは事実だぜ。
氏真は対武田を想定して共同戦線を張る約束もしてるし、三国同盟の内情も暴露してるぜ。
267:人間七七四年
08/11/18 01:36:34 U2dX+VfH
そもそも>>260で言われてる氏照の書状自体が
小田原焼かれた事隠してたり、北条優位の前半は得意げに書いてるけど
武田勢が山の上から押し寄せてきたというくだりから
急に口をつぐんじゃってるからな。
どう見ても謙信相手に虚勢を張って都合の悪い所を隠ぺいしてると見るのが妥当。
268:人間七七四年
08/11/18 17:20:19 hda4ACia
やっぱり北条負けてたんだね
なんで北条って大名も厨も、こんなに見苦しい捏造すんのかね?
269:人間七七四年
08/11/18 23:59:49 +3xg7sBq
実際のところ公正な記述なんてない。双方都合のいいように書いてる。
ただ、甲陽軍鑑の武田びいきな記述が有名になって武田の大勝のようなイメージが広まったが、
詳細は不明ながら両上杉や古河公方を弱体化させたのは確実な川越と違い、
戦略的に北条に大きなダメージを与えたとは言えない。
ただ信長の金ヶ崎同様信玄の窮地を無事に脱した撤退戦だったと言えるだけ。
270:人間七七四年
08/11/19 00:09:22 c44qQbug
>>269
なんか強引じゃないか?
戦略的にはこれで小田原焼き打ちからの
越相同盟への楔と反北条連合への宣伝が完全なものになった。
この二つの因子によって北条の戦略は崩れ信玄が駿河を獲得する。
その意味でこの三増峠の戦いは十分に戦略的意味を持つ。
第一戦略的かどうかじゃなくても「前代未聞の見苦しい敗軍」だなんて
参戦してた将が言われてしまうような状態は、十分大勝利だと言えると思うが。
金ヶ崎はその後につながる戦略的因子を残さなかったし相手に打撃を与えてもいないが
信玄は戦略的因子を残し、相手に打撃を与えて追い払ってるんだから違うだろ。
271:人間七七四年
08/11/19 00:09:39 S/A3G7DL
信長は朝倉の本拠にまで攻め込んでないだろ 戦略的にも失敗
しかも味方のはずの浅井に裏切られるという踏んだりけったりな有様
272:人間七七四年
08/11/19 01:25:37 8a7nYALq
>>270
所詮恫喝な上結局無視された矢文の内容なんて話半分に見るべき。
実際は痛み分けと言われてるところ、誇大に事実をすり替えてることもありえる。
何も相手を脅すのに本当のことを言う必要もないし。
273:人間七七四年
08/11/19 01:34:46 c44qQbug
>>272
痛み分け、っていうのが定説化されてるわけじゃないんだが。
だからそれなら参戦してた綱成にわざわざ三増峠での北条勢の敗北の様を
示す意味がないと言ってる。
痛み分けなら恫喝のネタにならんだろ。まして相手は参戦者なんだから。
なんでこれで話し半分にみなきゃならんのやら。
普通に北条が大敗しててその様を示して恫喝のネタに使ったけど
豪気な綱成がそれを跳ねのけただけだろ。
結局その一月後には開城するけど。
274:人間七七四年
08/11/19 01:38:44 8a7nYALq
「また三増峠みたいに無様に負けてえのか?おぉコラァ!」
「え?あれはいいとこ引き分けだったはずだけど?」
「ハァ???何言ってんだ俺の勝ちだよ勘違いしてんじゃねえよボケェ!!wwwww」
「うーん、言われてみたらそんな気がしてきた…」
みたいなことを狙ったんだろ。
ま、結果的に失敗したわけだけど。
275:人間七七四年
08/11/19 01:41:12 c44qQbug
>>274
都合よく考えすぎだろ。
君の中の綱成は記憶障害者か何かなのか?
「前代未聞の見苦しい敗軍で諸軍の嘲りの的だったよな」なんて
事実無根で言われて信じ込むようなやつなのか?
そして信玄がそれを期待するような人物なのだと。
戦国武将をなめすぎだろ。
276:人間七七四年
08/11/19 01:42:14 8a7nYALq
「関東は全部この信玄のもんだと天命で決まっとるんじゃあ!!」とか
「援軍呼びたきゃ呼べ一大決戦も受けてやるわ!!」とか
とかくでかい事ばかり書いてある内容なんぞにどこが信憑性あるのやら。
277:人間七七四年
08/11/19 01:46:18 8a7nYALq
>>275
状況考えろ。冷静に外交やってる時の文書じゃねえぞ。
殺し合い罵り合いの戦場の矢文が貴重にも残っていた。
大抵はこんなもんざけんなボケと破り捨てられる。
278:人間七七四年
08/11/19 01:46:21 zYku9zxn
使者ではなく矢文で送っている点から城内の動揺を誘う策だったとか
279:人間七七四年
08/11/19 01:47:32 c44qQbug
>>276
前半のは恫喝だし、援軍よびたきゃ呼べよ、決戦しようっていうのは別に
でかい事でもないと思うが。
第一、三増峠だけでなく、蒲原に立てこもっていた北条一門皆殺しにした事や
駿府で岡部を説得して開城させた事や、薩睡砦が自落した事や、
花沢城を攻略して守将が他国者だから解放したこととか
堅実な戦果もしっかり書いてあるんだけど。
280:人間七七四年
08/11/19 01:50:09 c44qQbug
>>277
実際しっかり残ってるんだから仕方ない。
書式も北条綱成に対する敬意をこめた文章だしな。
その書状の中で信玄は北条綱成とその部下たちを
北条家随一の衆と呼びたたえている。
綱成もうれしかったろうよ。
281:人間七七四年
08/11/19 01:54:50 zYku9zxn
やっぱ河越夜戦での活躍があったからか他国まで綱成および玉縄衆の勇名は響いていたのか
川中島での援軍の効果か、単なるリップサービスか
282:人間七七四年
08/11/19 02:03:16 8a7nYALq
>>279
さすがに嘘ばっかりと言う訳にはいかんだろう。
都合のいい成果だけは具体的に伝えるのは氏照の時でも指摘してなかったっけ?
>>280
その辺も使い分けだな。こき下ろすだけじゃ反発されるので持ち上げもしておくと。
あくまで記録文書じゃなくて降伏勧告だからな。
>>281
綱成の武勇を認めていたのは間違いないね。忘れていった旗を家宝として後世まで大事にしてたくらいだし。
だからこそ矢文にしてはやたら手の込んだ長い文章にしたのでは。
283:人間七七四年
08/11/19 02:08:00 c44qQbug
>>282
言ってることめちゃくちゃ。
三増峠についてもしっかり具体的に書いてる。
つーか参戦者に対して嘘をつくってどうするんだよ、ばからしい。
小田原焼き打ち、三増峠、蒲原から薩睡、駿府、花沢、といった深沢城攻防戦に
いたるまでの武田の戦果を羅列してその一環で三増峠が出てきてるんだから
うそばっかりとかいう問題じゃないだろう。
言ってることおかしすぎるだろ、君。
284:人間七七四年
08/11/19 02:14:02 zYku9zxn
綱成に関しては本当に参戦していたのかという疑問も残るけどな
285:人間七七四年
08/11/19 02:27:04 S/A3G7DL
小田原に援軍頼んでもどうせ送ってくれねーし もうだめぽって観念したんだろ
散々負けてそんな余裕ないこと知ってたんだな
286:人間七七四年
08/11/19 03:01:51 2L7+TLCk
三増峠の戦いを局地戦と見ても>>283の言ってることの方が具体的で説得力を感じた
それが駿河を睨んでの戦略的観点から見れば、尚更>>283の言ってることの方が頷ける
北条負けてないって言ってる人って「ただ負けてない負けてない騒ぐだけで」
全然、具体的じゃないんだよな
なんか、ただの感情論に走ってるような印象を受ける
287:人間七七四年
08/11/19 03:21:50 U0GWntd8
三増峠についての具体的な記述って何?
具体的に書かれていればもう少し矢文も資料として引用されるはずだが
288:人間七七四年
08/11/19 03:35:12 Qoy+7099
>>286
正解
289:人間七七四年
08/11/19 05:33:36 zatcpUmR
しかし小田原包囲は戦略的には失敗だろう。
2万も軍勢率いて放火しただけてw
むしろ謙信に続いて信玄ですら落とせなかったと小田原城に箔が付いただけと思うが。
甲陽軍艦ですら不要な合戦だったと書いてるくらいだし。
290:人間七七四年
08/11/19 05:52:43 21cpKiTd
小田原を陥落させて、北条の大領を一気に奪取できるならともかく、
本能寺の時の織田・明智みたいに周辺勢力を肥らせるだけだから、
焼き打ちで首府壊滅させれば示威行為としては充分成功じゃないかね?
291:人間七七四年
08/11/19 06:55:18 JZoBo1M4
信玄も小田原城の規模や北条の動員力くらい把握してたと思うんだけど、
それでも本気で小田原城を攻略できると思ってたのかな?
そうでないとしたらなんで敵領深く侵入するような危険を冒したのか理解できない。
292:人間七七四年
08/11/19 07:19:57 5s49Reg4
>>289
小田原焼き打ちで越相同盟にも楔を打ち込み
関東の反北条勢力へのいい宣伝にもなって活性化に成功、
さらには駿河の北条勢の呼び戻しも成功。
大成功だと思うけど。
>>291
途中の鉢形も滝山も攻略しないでさっさと進んでるから
小田原攻略する気はなかっただろう。上記の理由が主だろう。
293:人間七七四年
08/11/19 07:28:18 JZoBo1M4
>>292
たったそれだけのために一歩間違えれば武田軍が壊滅するような作戦行動を
起こしたというのは下策としかいいようがないんじゃないの?
正直、信玄も冷や汗ものだっただろう。
294:人間七七四年
08/11/19 09:18:05 q1PW/+4m
城攻めこそ下策だからさっさと城からおびき出して野戦でボコる
これ武田の兵法 常識ね
295:人間七七四年
08/11/19 09:25:18 JZoBo1M4
でも肝心の北条本隊は城から引きずり出せず、ようやく城から出たと思ったら
野戦でボコるどころか先回りした北条支城軍との間に挟撃体制をつくられるという
戦略的には北条に手玉に取られまくりでしかないように見えるが。
296:人間七七四年
08/11/19 09:32:15 q1PW/+4m
挟撃体制w そんな体制とってみてもまともな挟撃もできなかったのが北条だろ
おまけに別に野戦で叩かなくても戦略目標を達したならあとは帰国するだけだし
297:人間七七四年
08/11/19 09:35:56 q1PW/+4m
挟撃というなら川中島の戦いとかそこらへんのレベルの高いものを出してくれないと
かすりもしないうちから挟撃できていたとか言われても行軍遅くて戦意が乏しいドン亀が
追いつけるわけでもなし 息子達がボコられるのを確認してすごすご城に引き返る北条親子
がみじめだわ
298:人間七七四年
08/11/19 11:52:12 KIRvmr0u
武田:駿河丸取り☆
北条:越相同盟とその破綻という迷走ぶりで小田原を焼かれた上、三郎を上杉に取られたただけ
299:人間七七四年
08/11/19 13:01:57 9fzaCYHt
>>295は、昨日までバカ晒しながら必死に否定のための否定してた北条厨だろ
言ってるレベルの低さから見てこんなバカそういういないだろうし
こいつコテにすりゃアボーン出来るのに、電波飛ばしに必死になる暇あるなら少しは他人の迷惑考えろよ
300:人間七七四年
08/11/19 15:54:44 PVgSugRf
何でこんなに荒れてるの?
武田がすきなのは勝手だけどこんなことで必死に他人をけなすというのは情けないことだぞ。
301:人間七七四年
08/11/19 17:33:22 o3aaMt4C
なんでここって痛い厨しかいないの?w
302:人間七七四年
08/11/19 17:39:27 clfasWRC
>>297
は?
レベルが高いのかあれ
講談にしてもキツツキとかレベル低いぞ
高地に布陣する敵に奇襲かけて、逃げたとこを挟撃とか、作り話にしてもヒド過ぎだぞ
303:人間七七四年
08/11/19 18:27:04 zatcpUmR
北条にしてみれば謙信に続いて信玄も小田原攻め失敗で堅城ぶりをアピール♪
結局悔し紛れに放火しただけw
被害にしては最小限の上々の篭城戦だったぞ。
それとも放火って2万人も動員しないと出来ない凄いことなの?
304:人間七七四年
08/11/19 18:32:35 g3zPLqZi
「放火しただけw」って、さすが北条様は民思いだなwwwwww
城が無事なら城下町が焼け野原になっても「堅城ぶりをアピール♪」で大喜び。
すげぇな。
305:人間七七四年
08/11/19 18:46:52 zatcpUmR
188 名前:人間七七四年 投稿日:2008/10/05(日) 01:29:15 ID:F0qg8FfB
そこまで弱くないだろ
浅利とか死んでるし
190 名前:人間七七四年 投稿日:2008/10/05(日) 09:22:37 ID:B5PMKTsh
>>188
前線の指揮官が流れ弾で死ぬことなんてよくあることだろ
さすが武田様は兵士思いwwwwww
そりゃ三増峠は大勝利だわ。武将は単なる消耗品だもんね。
306:人間七七四年
08/11/19 19:08:40 Nv7j8SDg
一月前のレスww
さすが北条ヲタ。
アザトースをも狩った北条が最強!!
火星守
307:人間七七四年
08/11/19 19:18:31 2L7+TLCk
やっぱ、ここも同じ展開だな
北条厨は煽ったり、話ごまかしてるばっかりで
自分らの低レベルな荒らし合戦で逃げるのが精一杯の様子
全然、正論言えてないし、言い返せてもいない。
北条厨は知識も何もない、ただのゲーム脳の集まりだな
308:人間七七四年
08/11/19 19:32:53 FjvEArt1
ゲーム脳w
直上で煽ったり話ごまかしてる武田厨の姿が見えないのかね。
何事も都合のいいようにしか解釈できない武田厨の武田脳には畏れ入るね。
309:人間七七四年
08/11/19 20:06:43 TJKqCs1z
武田がどこで話をごまかしているか説明してけれ
310:人間七七四年
08/11/19 20:16:59 clfasWRC
まず武田厨は学術論文に引用する事がタブーとされている虚妄多き甲陽軍鑑を元にクッチャベルのを止めてくれたまえ
311:人間七七四年
08/11/19 20:34:56 2L7+TLCk
北条厨は
スレと無関係な言い訳とか相手の出した具体論に乗っかることしかしてない
自分ら、この時の史料によると、とか、この時期の両勢力の動きは、とか
何も出さないし意見もしないでで
自分らの北条は勝った勝ったばっかりで
これじゃ逃げてるのと変わらないわ。ゲーム脳だからそんなことも気付かないのか?
312:人間七七四年
08/11/19 20:41:22 clfasWRC
>>311
まず涙を拭いたらどうだ?
鼻もかんだほうがよかろう
313:人間七七四年
08/11/19 20:50:42 9fzaCYHt
自己紹介か?
分かってるなら引っ込んでろよ
北条厨って痛すぎる
こんなのしかいないの?
これがレベル?
314:人間七七四年
08/11/19 20:53:47 clfasWRC
>>313
尻も拭いたほうがよかろう
315:人間七七四年
08/11/19 22:35:37 ybteBSyp
君らはなんて無神経なんだ。
北条厨は、頑張った賞が欲しくてたまらないんだよ。
振り向いてほしいんだよ。
気を利かせてあげなよ。
316:人間七七四年
08/11/19 23:17:58 FUFFykga
上杉との同盟に楔をうったというが、
人質も交換して実際越相同盟が機能しだすのは1570年からじゃ・・・?
317:人間七七四年
08/11/19 23:33:38 nTxbmvmQ
>>293
戦略状況をひっくり返し一国を手に入れる作戦が下作とか凄いね、君。
ここで成立させた戦略状況こそが駿河奪取、そして越相同盟の崩壊につながるのに。
>>295
もともと北条主力はあちこちに分散してたからな。
駿河にいた北条勢を引き戻すのもこの作戦の目的の一つ。
実際信玄がここまで踏み込んできたのは氏康には想定外だったろう。
ま、信玄も小田原焼くのが目的だから本隊出てこなくてもよかったんだけどな。
実際信玄は3日間小田原を焼いたあとさっさと帰国に向かっている。
目的は達してたわけで。
>>303
三日間小田原を焼かれまくってさっさと引かれ追撃も撃退されてそりゃない。
大国北条の本拠まっただ中に踏み込むなんて事を
2万でやってのけ小田原も焼いて無事帰国なんて
すごいと思うけど。
>>305
北条も古河公方の重臣が戦死してるんだけどな。
>>310
このスレの武田派は軍鑑だけを基にしてるのは少ないと思うが。
深沢書状に信玄書状、氏照書状、その他いろいろ。
てか軍鑑自体がもう結構前から見直されて資料として活用されてきてるのを
知らないのだろうか。
318:人間七七四年
08/11/19 23:42:27 TJKqCs1z
軍艦が学術論文でタブーなんて言ってたら、
平山優氏の近年の著しい活躍なんかどうなんだよw
319:人間七七四年
08/11/19 23:49:56 FUFFykga
ただ軍鑑の三増峠の部分がどこまで信用できるかは微妙だが
とは言っても他に良質な史料があるわけでもないが、一次資料からじゃ
お互い損害こうむりあって、武田は撤退に成功、
北条は主力を取り逃すものの撤退させるのに成功という結果ぐらいしかわからないし
320:人間七七四年
08/11/19 23:56:09 nTxbmvmQ
>>316
小田原侵攻から三増峠前後の北条の書状を見ると
北条は武田が小田原に侵攻してきたのを見て
上杉に出兵を要請しまくっている。
だが結局上杉は動かず北条は小田原を焼かれ、三増峠でも撃破される。
これを受け北条は加勢がなかった事を上杉に批難し
勝手に越中を攻めてろよ、的な嫌味を書状で述べたりしてる。
北条と上杉の同盟が絵にかいたモチだった事が明白に示されてしまった。
さらには1570年に氏康の譲歩によって上杉に対する三郎の人質提出と
上野および武蔵北部の提供がされた後も、謙信は下野を攻めたり越中を攻めたりで
武田と本格的に戦う事はついになかった。
やがて駿河が武田に攻略され、氏康が病に倒れると氏政達はとたんに武田との再同盟を模索するようになる。
執着していた氏康を除けば両家の信頼関係はぼろぼろだったとみていい。
321:人間七七四年
08/11/20 00:07:32 aSn6hU1u
>>319
武田は信玄書状でも深沢書状でも大勝を主張してるけどな。
特に参戦してた綱成に向けて大勝を述べて恫喝してるのは興味深い。
軍鑑だけでなく北条方の軍記も描写は全く異なりながらも
三増峠で北条が武田に敗れたことが一致してるのも興味深い。
322:人間七七四年
08/11/20 00:08:00 8Y7U0TdW
でもそれって三増峠は関係なくないか、それ以前も一向に謙信は武田へ攻撃しなかったのだし
もともと同盟結ぶのに無理があったとしか思えん
この合戦の直後ぐらいに上野に出兵して信玄を警戒させたぐらいしかしていないし
323:人間七七四年
08/11/20 00:09:13 8Y7U0TdW
>>321
そりゃ単に北条方の軍記が軍鑑参考にしているからじゃね
軍配で謙信の攻撃を受け止めるという記述は軍鑑と北条五代記ぐらいなんじゃ
324:人間七七四年
08/11/20 00:11:08 RdYQXdJC
そんなことより>>287に答えてくれよ。
325:人間七七四年
08/11/20 00:15:33 8Y7U0TdW
史料における具体的記述は
URLリンク(homepage3.nifty.com)
↑が詳しいんじゃね
ここの管理人は北条の側の史料は信用しないけど武田側の史料は信用するって感じで
公平ではなく結論ありきって感じも多少はあるけど、纏められている史料は有用
326:人間七七四年
08/11/20 00:17:45 aSn6hU1u
>>322
関係大ありだろ。
氏康はできると思って越相同盟を企画したが
信玄の小田原侵攻から三増峠の動きによって結局無理だった事が
明白に示されてしまった。
ここまで無理な事がはっきり示されたのも珍しい。
>>323
北条5代記は軍配で太刀を止められるわけないだろ、って意見だし
参考にしたという割には全然三増峠の描写が違うんだが。
>>324
面倒なやつだな。
該当部分を書いてあげるからちょっと待ってな。
327:人間七七四年
08/11/20 00:29:13 aSn6hU1u
深沢書状における三増峠の該当部分要約
「我々武田勢が小田原において働いてる間、北条勢は一向に出てこなかった。
やがて焼き打ちを済ませて本国に引き返す時、北条は氏照・氏邦を送り込んできたので
三増峠において大方討取ってやった。この時の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍であり
諸軍の嘲りの的であった。さらなる加勢があるだろうと備えていたが氏政は
味方の北条勢が敗北している間中ずっと追いかけてこなかったので、
こちらは寄り道をしないで帰陣した。」
328:人間七七四年
08/11/20 00:37:32 RdYQXdJC
おいおい、別に具体的でもなんでもないだろ。
焼き討ちのことも触れてるけど焼き討ちの規模も詳しくは書いてないね。
なんか焼き討ちの規模が分かる資料ある?
329:人間七七四年
08/11/20 00:42:38 aSn6hU1u
>>328
具体的だろ。これだけ書いてるのになにが不満なのか。
一応深沢書状では蓮池まで焼いたといってるな。
蓮池まで踏み込まれて焼かれてるって事は周辺の侍屋敷は丸焼けっぽいが。
文字通り城だけ残ってる状態だな。
330:人間七七四年
08/11/20 00:49:13 aSn6hU1u
後、信玄が三増峠後に出した書状では
氏政の館をはじめとしてことごとく放火したとも言っている。
331:人間七七四年
08/11/20 00:50:29 8Y7U0TdW
信玄書状は誇張が入ってるだろうけど
氏政の方も書状で小田原が焼かれたと書いているから、多少の焼き討ちがあったことは確実
332:人間七七四年
08/11/20 00:57:45 8Y7U0TdW
>>326
何故って、それ以前の駿河出兵でも武蔵出兵でも上杉役に立ってないし、何で三増峠だけ取上げるのか
結局上杉はかろうじて三増峠の後に関東に出兵して信玄を警戒させて、信長に仲介頼ませるぐらいでさ
333:人間七七四年
08/11/20 01:01:32 2FFj4ME7
武田方は、史料やソースを提示して、当時の状況や戦況推移をしてるにも関わらず
北条方は、何一つ自分たちの反論根拠となる史料もソースも提示しない
いつも、武田方には質問質問で、自分たちは一向に具体的な根拠を述べる気配も見えない
で、話題を濁したり、摩り替えたり、煽り合戦に持ち込もうとしたり、これはさすがに酷すぎる
明らかにフルボッコだな。
ここまで一方的になったら
三増峠の戦いで武田が北条に大勝したのは事実と認めざる負えないよ。
334:人間七七四年
08/11/20 01:06:43 aSn6hU1u
>>332
北条は預かり知らぬことではあったが
信玄が第一次駿河侵攻の後で甲斐に戻った後
甲越和与を成立させているからな。
将軍や管領職の権威をフル活用していた謙信にしてみれば将軍を通じて行われた
この和与は拒否しがたかったのか、それとも北条にいっぱい食わせるためにあえて乗ったのか。
北条にしてみれば上杉は駿河や武蔵では動いてくれないが、それは局地戦だからで
ここぞという時には動いてくれるだろう、という期待があっただろう。
そして本拠小田原に信玄がなだれ込んできて北条が何度も救援要請しても無視。
小田原が焼き打ちされ三増峠で敗れても知らん顔。
本拠が襲撃されても助けてもらえないというのは明確な信用不信だと思うが。
氏康を除いて北条家臣や氏政に与えた衝撃は大きかっただろう。
335:人間七七四年
08/11/20 01:11:04 RdYQXdJC
>>333
低脳な煽りだな。今更氏照書状、深沢矢文、軍艦、五代記その他に目新しい資料でもあんのかね?
この辺の資料に誇張捏造入ってるから議論…にも満たない言い争いになってる。
深沢に前代未聞の云々以外になんか書いてあったかと聞いてみたらこれだよ。
ま、とりあえず言っておくと、
お 前 が 史 料 出 し て 批 判 し て み ろ
336:人間七七四年
08/11/20 01:18:10 2FFj4ME7
そんな逃げ口上はいい。
早く武田方の説明に対して
おまえも、その史料を基に自分の意見を主張してみろ
下らん煽りや話のすり替えなんか、傍から見てると一目瞭然なんだ
いい加減、逃げずにまともな議論をしろ
出来ないなら、どう見ても、武田方の方が知識は豊富だし正しい姿勢で議論をしている
すなわち、武田方の主張の方が正しく聞こえる。
337:人間七七四年
08/11/20 01:31:19 RdYQXdJC
>>336
スレの途中から見てると、お前の煽りの方がよっぽど汚らしいんだけどね。
北条側も史料を元に意見してるのに明らかに無視して北条側を批判してる。
お前自身は何も意見を出さず、ただ煽り入れてるだけ。
338:人間七七四年
08/11/20 01:34:20 aSn6hU1u
>>335
その中に信玄書状や氏康が三増峠で戦死した古河公方の重臣の奥さんに
お悔やみを述べてる書状なども追加してくれ。
>>333ではないが、議論にも満たない言い争いとはひどい言い草だ。
武田派は深沢書状の状況や記述から見て三増峠に参戦していた綱成に
述べている事でもあり信用性があると述べたり、
周辺状況などにも説明をしている。
>>333ではないがそろそろ北条方からも見解や説明が欲しいところだ。
読めるのはおそらく明日以降だろうが、期待している。
339:人間七七四年
08/11/20 05:49:06 fxMxtbst
どっちも上杉頼みじゃないか
上杉が裏切って動かなかったから上杉の呼応を前提にした配置分けしてた北条に不利な転回になっただけで、逆に上杉が動いていたなら
○上杉が関東に兵を送ってたなら、武田は北条上杉に挟撃ちにされる
○上杉が信濃に兵を動かしたら、武田は多大な犠牲を覚悟で北条の追撃を受けながら急いで帰国しなければならない
不義理者の謙信との不確かな盟をあてにした北条も北条だが、武田の命運を謙信の腹一つに預けて二万の軍勢かき集めて遠征する信玄も信玄だな
340:人間七七四年
08/11/20 07:15:56 J7/9T76A
この頃の謙信は
こっちの義理を立てればあっちの義理が立たないという感じだ
北条への義理(越相同盟)ばかり優先すると、武田と結んだ簗田&里見ら関東諸侯に悪い
そして何より、日本海交易で友好関係にあった能登が乱れてる
謙信にとって北陸方面の安定を願う、越後国内の商人たちは大事
更に朝廷(商売上のお得意様)から命じられた甲越和与も無視できない
かと言って武田ばかり優先すると、北条や今川に悪い
ので、一応上野あたりには出兵し、信玄を駿河から甲斐に戻らせたり
利根川を挟んで長対陣に持ち込んだりはしてる
なんとなく三増峠関係なく、上杉~北条間は不信感が濃かったように思える
上杉的には、北条が同盟条件を履行しないとか、西上野を共同で攻める計画も氏政が嫌がったり
北条的には、謙信が北陸に執着し過ぎてたり、佐野方面に向かってしまったり
341:人間七七四年
08/11/20 07:28:06 47hs2ZU5
迫撃戦かあ。
寡兵でありながら、砥石崩れで武田に大ダメージを与えた村上義清。
有利な情勢であったにもかかわらず、たいした戦果を挙げられなかった北条氏康。
村上義清>北条氏康は真理なのかなあ?
342:人間七七四年
08/11/20 08:38:23 RdYQXdJC
どっちも上杉の動向を探りながら牽制しあってた感じだな。
それであえて氏康も篭城策で時間稼ぎを選んだのかな。
この間必死に上杉に出兵依頼を送ってた氏照がずっといらついていたと。
343:人間七七四年
08/11/20 09:45:24 fxMxtbst
つまり上杉をあてにしてた北条は戦略が外れて小田原の一部を焼かれ、一方武田は上杉が気になって早めに決戦に挑みたかったが北条にスカされて撤退、その際いくらかの被害を被る
ただ上杉があてにならない事を知った北条は編成を見直さなくてはならなくなり、どうしても駿河は手薄に成らざるを得なくなった
そこに武田は付け込んで駿河を得るも、それと引き換えに嫡男と重臣を失う
双方痛み分け
よって引き分け
武田完勝?それは無い
344:仙台藩百姓
08/11/20 11:31:27 N1+VpyLr
義信らの反抗は北条とは関係ないお( ^ω^)
対北条戦略は完勝と言っていいぐらい上手くいったおね( ^ω^)
345:人間七七四年
08/11/20 11:42:11 fxMxtbst
>>344
いいえ引き分けです
これね、決定した事ですから(`ω´)v
346:人間七七四年
08/11/20 12:34:36 cutQiQ6p
北条はレイプされただけ。実質引き分けです。
347:人間七七四年
08/11/20 12:53:42 eLACOyxU
>>334
上杉は上洛のため北進したかったから、
さっさと関東の情勢から切り抜けたかったんだろうね。
348:人間七七四年
08/11/20 14:59:38 fxMxtbst
>>347
んんにゃ
あの女は病で倒れる前にしっかり関東征伐する気満々だった
あの女としては北条はいずれ倒さねばならない相手
一時的に手を盟を結んだからといって共に武田を倒そうとは思えない仮想敵国
間違っても上杉領に攻めてこようとは思わない武田を潰して北条が台頭するよりも、大人しくていい子の武田を生かして北条に釘をうっておこうとしたのだろう
どうせ武田北条は決着つくわけねーし、お互い消耗するだけならやらしときゃいいわって
349:人間七七四年
08/11/20 16:41:08 QUIOQ3HQ
深沢矢文のどこに三増峠に綱成が参加していた記述があるんだ?
兄弟が参加したことしか書いていないようだが
350:人間七七四年
08/11/20 19:10:27 2FFj4ME7
あれだけ言われたにも関わらず
結局ID:RdYQXdJCは、何も自分からは具体的に根拠を基に話してはいなんだな・・
思うけど、こーいう知識のない人間は
北条に関わらず、ある特定の大名の擁護しない方がいいよ
傍から見てて、その擁護されてる大名がものすごく弱く不利な印象に映る
知らないなら最初から、シャシャリ出ない方が良い
351:人間七七四年
08/11/20 21:40:53 nStrSJE/
>>339
信玄はあらかじめ謙信を抑える為に甲越和与を結んでいたからな。
謙信にしてみれば越相同盟を結んだ時点で佐竹をはじめとする関東衆に
かなり白い目でみられていたからな。
最も謙信にしてみれば越相同盟で関宿の現状維持を北条との条件にした事は
関東衆のためでもあったはずだが。
いづれにせよ、謙信がこれ以上北条に肩入れする事は関東衆のさらなる信用低下を
生んでしまう。越中で領土の拡大に励めることでもあるし、そっちに集中することにしたんだろ。
>>343
おいおい。仙台藩の人にも言われてるが
義信事件は北条とは無関係。
しかも三増峠は北条方も十分被害うけてるだろ。
>>346
レイプされて引き分けというのがわからない。
>>349
誰も深沢矢文にあるとはいってないと思うが。
三増峠の該当部分は>>327。
ただ北条記・軍鑑・北条五代記のすべてが綱成が参戦してた事を記しているな。
352:人間七七四年
08/11/20 22:22:57 0surI2ba
わざわざ荒れる方向に持って行こうとする>>350の神経が理解できない。
353:人間七七四年
08/11/20 23:10:47 V4/0qM96
ってことは一次史料にはやっぱ綱成の参戦は無いのか・・・
となると>>270あたりの意見は前提が間違っているのか。
354:人間七七四年
08/11/20 23:18:55 nStrSJE/
>>353
>>270はもともと戦略的意味を残してる事を述べているし
第一、武田遺臣、北条遺臣の記した2次資料すべてが綱成参戦を肯定してるのに
何を間違ってるというのか。
355:人間七七四年
08/11/20 23:28:12 ImQ0vnS9
北条厨フルボッコww
356:人間七七四年
08/11/20 23:28:27 V4/0qM96
逆に言えば二次資料にしか無いという事では
その上、軍鑑は北条五代記に影響を受けているし、北条記は成立年代不明で信憑性が怪しいものだし。
何を間違っているって具体的には273
357:人間七七四年
08/11/20 23:31:14 nStrSJE/
>>356
全然影響を受けていないんだが。
5代記では軍鑑と全然三増峠の書き方が違うし、
第一5代記では軍鑑の太刀を軍配でとめられるわけないだろ、っていってるんだから
むしろ否定だろ。
>>273を間違えている根拠なんか何もないはずだが?
358:人間七七四年
08/11/20 23:38:55 V4/0qM96
>>357
>第一5代記では軍鑑の太刀を軍配でとめられるわけないだろ、っていってるんだから
明らかに軍鑑を読んだことがあるって証明じゃないか?
影響を受けているからってすべて同じに書くわけでもないだろうに、それじゃ盗作じゃないか。
>>273は綱成が参戦していることが前提
でも1569年の信玄書状でもこの時の矢文でも他の一次史料でも、綱成の参戦には一言も触れていない。
まあ氏照氏邦なんかと同格というわけでは無いので省略という可能性も考えられなくも無いが、
それにしても綱成が参戦していたなら矢文でそのことに触れるのが普通だと思うが。
359:人間七七四年
08/11/20 23:48:11 nStrSJE/
>>358
そんな事をいうなら影響を受けた所をあげられるわけで?
すべて、どころか全く違うんだよ。この二つの2次資料における
三増峠の書き方は。
仕方あるまい。書状でいちいち一武将の名前すべてをあげるわけもない。
軍鑑は武田遺臣の中枢にいたものの口述筆記を原本としている可能性が高く、
5代記は北条遺臣の三浦が記している。
さらに北条記にいたるまで綱成参戦を記している。
ないよりはあるとみる根拠のほうが明白だな。
そもそも武田の戦果を記した一環で三増峠が出てくるのだし。
360:人間七七四年
08/11/20 23:58:46 +a7SmRCa
参戦はしてたけど氏康氏政隊の方にいて信玄攻撃部隊にはいなかったとか。
361:人間七七四年
08/11/20 23:59:46 2FFj4ME7
>>352
荒らすのは片方が知識がないからだろ?
質問ばかりのスタンスで自分からは何も具体的な根拠も意見も言わない人間と
真面目に根拠やソース、意見を繰り広げる人では
議論としてフェアじゃない
両方、知識も根拠もあれば、スレは荒れないよ
荒れるのは片方が無知なときだけ
362:人間七七四年
08/11/21 00:04:45 G3Qkjh0X
もういいから黙ってろ
363:人間七七四年
08/11/21 01:47:43 3aH+ejI+
北条綱成に関しては考えたこと無かったが、確かに参加しているかどうかは疑問が残る。
上の人も言っているように矢文では三増峠で敗れたのは氏照氏邦の名しか載っていない、
何故ってなるな、信玄書状でも破ったのは氏康の子供たちとなっている。
またこの時期の綱成は深沢城か玉縄城にいたとして、そこからどうやって氏照らに合流したのか、
深沢城からでは氏政の本隊に合流しているだろうし、玉縄城にいたとしたら、
どうやって武田を追い抜いて氏照らと合流できたのか、
武田が鎌倉行くって噂を流したのが事実なら出撃なんて出来るはずない気もする。
それでなくても、武田が北上するまでは城から出撃なんて危険すぎるし、
wikiによると最近発見された史料によると参加していたとなっているが、一体なんだろ?
364:人間七七四年
08/11/21 02:27:22 3aH+ejI+
上のほうで
>越相同盟にも楔を打ち込み
>関東の反北条勢力へのいい宣伝にもなって活性化に成功、
>さらには駿河の北条勢の呼び戻しも成功。
などとあるが、具体的には何のことだろう。
まず越相同盟だけど、1569年の最初から北条は上杉に参戦を呼びかけているが上杉は動いていない、
別に三増峠の時に限らず頻繁に書状を送って参戦を促している、
三増峠との関連性を見つけるのは困難、むしろ三増峠後の方が越中問題が片付いたことにより
関東へ出兵することになり武田の動きを阻害することになっている。
駿河攻めの最中に岩村田へと動くこと、
また深沢矢文によるなら上杉が兵を出さなかったので戦いは無かったが
前年に上杉のため武田が川中島に出陣したことを言っている、
故に三増峠の戦いによって楔を打ち込んだということには根拠が無いと思う。
相越同盟が成り立たないのは両者の利害関係の対立などと、
武田による越中や義昭信長の外交の成果と考えるのが自然だと思う。
関東の反北条勢力への宣伝だが、これは効果があったのか無かったのか、
一応三増峠に限らず戦果は書き並べて送っているようだが、
これを受けて何らかの行動を起こした勢力はあったのだろうか、
里見などによる相模襲撃は三増峠の結果というには時期がずれていて、
これはむしろ駿河の大半を領有したことのほうが影響あったのではと思う。
駿河の北条勢呼び戻しに成功だが、この戦いの結果配置が変わった武将はいたのだろうか、
またもし関東方面を警戒させるための9月からの遠征だったとしたら、
三増峠後2週間ほどして武蔵を攻めているので結局不十分だったということでは。
また9月前にも武蔵を攻めているし、1570年になってからも上野や武蔵を攻めているので、
三増峠だけを特別視するのはおかしいのではないかと思う。
どちらかといえばこれは1571年の徳川に対して行った威力偵察みたいなものだったのでは、
本拠を焼き討ちして即逃げ出すという点では藤沢降伏後の小笠原焼き討ちがより近いけど。
故に>>320のレスは一部だけを抜き出して三増峠の影響を過大に見せようと
ミスリードを誘うような印象操作を行っているように見える。
365:仙台藩百姓
08/11/21 12:35:42 3xQ9bSB1
小田原まで侵入したと言う事実が重要だお( ^ω^)
数的に特別勝っていたわけでもない武田が本拠地まで押し寄せたのは
北条が劣勢に立たされていた何よりの証拠だおね( ^ω^)
今となっては戦の詳細など知りようがないが、これらは駿河争奪戦の一環であり
結果、北条は敗れて再同盟という言わば
「駿河は貰うけど今まで通り仲良くやろうぜ」的な武田にとってはこの上なく都合よく
北条にとっては屈辱的な結末だったのは間違いないお( ^ω^)
366:三増峠ってどお?
08/11/21 15:22:14 G0SrTKHO
>>201-仙台藩百姓さんへ。面白く読ませてもらいました。
>>201さんへ。「氏康病気説」について、少し誤解されているようなので…
次回「氏康は信玄に暗殺された」スレで、語ります。
スレリンク(sengoku板)l50
なので、>>199さん、謙信の動向は次々回となります。スミマセン。
>>202さんへ。遅れました。スミマセンがもう一度トライしてみてね。
URLリンク(www7.uploader.jp)の
ファイル名「No.3 k1361_uljp00003.pdf」をクリックして下さい。
①画面が変わるので、パスワード「1」(半角英数字の1)を入力してみてね。
②また画面が変わったら「ダウンロード」をクリックしてみてね。
これで、PDFが見れるはずです。
ダメなら連絡ください。
みなさん風邪に気をつけて!! 恐々謹言。
367:人間七七四年
08/11/21 15:26:31 sqkLhmyD
北条としては上杉との同盟強化が狙いだろう。
単独で武田を破るより北条・上杉連合軍という名目で破ることで確固たるものにしたかった。
要するにこっちで武田を引き付けておくから半分手柄やるよってこと。
それを恐れていたから武田も早々に切り上げたわけだし。
結局上杉は浅井長政にはならなかったわけだが。
もし参戦していたら武田は金ヶ崎の信長のように無事に撤退できていただろうか興味深いところではある。
368:202
08/11/21 16:03:30 jC6dku4b
>>366
いただきました。ありがとう。
369:三増峠ってどお?
08/11/21 16:04:47 G0SrTKHO
>>367さんへ。もしくはミスター金ヶ崎へ。多分あなたのレスはよく拝見していますよ。
>もし(謙信が)参戦していたら武田は金ヶ崎の信長のように無事に撤退できていただろうか興味深いところではある。
甲越和与が8月に成立していたそうだから、
謙信は越山せずに越中に向かった(8月6日)のではないだろうか?
そして信玄は関東へ(8月27日)。
>単独で武田を破るより北条・上杉連合軍という名目で破ることで確固たるものにしたかった。
これは、北条と謙信では意見が分かれていたらしいんだ。
①北条の戦略は書状を見る限りでは、
謙信が越後→信濃へ。
北条(氏政・氏照?)が武蔵or相模or駿河→甲斐と別々に侵攻を企図してようだよ。
②謙信の戦略は、北条+佐竹ら関東衆全員が沼田(厩橋)で越後勢と集結して、(8月15日に)信濃に侵入するものだったようだ。
謙信は、氏政を「表裏の人」をみなして、心から信頼せず、
一方氏政は、よほど謙信と同陣するのが嫌だったみたいだね。
370:人間七七四年
08/11/21 16:20:51 jC6dku4b
>謙信の戦略は、北条+佐竹ら関東衆全員が沼田(厩橋)で越後勢と集結して、(8月15日に)信濃に侵入するものだったようだ。
謙信らしい壮大な構想ですが、相変わらず絵に描いたもちみたいだなあ。
この通りだとしたら北条と関東衆との領土抗争を終焉させた自負が謙信にはあったのでしょうけれど、
関東衆は北条に対する疑心暗鬼があって「こんな境界線が永続的に続くわけないじゃなーい」と言いたかったんでしょうかねー。
北条も氏康は越相同盟の継続に積極性を感じますが、氏政は消極的な印象を受けます。
371:三増峠ってどお?
08/11/21 16:36:28 G0SrTKHO
ID:jC6dku4bさんへ。何でも何時でもいいので、読み終わったら遠慮なくレス宜敷ね!!
>謙信らしい壮大な構想
これは謙信の基本的な戦略だよね。関東を平定してから、越中ルートで上洛。
景虎越山(1560~1561)とまったく変わらないねぇ。恐々謹言。
372:人間七七四年
08/11/21 19:11:56 /Us/NDpV
>>365
非常にシンプルで分り易い結論だな。
確かに自分たちより寡兵に
本国まで攻め込まれて、国まで取られて
挙句は追撃戦でも返り討ちにあって被害甚大
だからこそ、屈辱的とも取れる武田との再同盟を選ばざる終えなくなったんだろーな
言うなれば、同盟というよりも降伏に近い停戦とも捉えられるな
373:人間七七四年
08/11/21 19:20:54 m62Cr7o3
途中経過は北条不利でも、最終的に武田は織田と組んだ北条に滅ぼされてるんだよね?
(´・_・`;)
374:人間七七四年
08/11/21 19:34:15 48O4gju/
そんな苦しい事を言わなければ自尊心を保てないのか、北条鮮の人民は
375:人間七七四年
08/11/21 20:02:34 m62Cr7o3
>>374
でも実際武田は北条に滅ぼされてるんだよね?
(´・_・`;)
376:人間七七四年
08/11/21 20:29:34 48O4gju/
「北条に」じゃないよ。
それをいうなら北条は、太田に滅ぼされたということが出来る。
足軽に滅ぼされたともね。
377:人間七七四年
08/11/21 21:53:46 CHIoAVpk
なんで武田ヲタっていちいち煽り口調で瑣末なことでも揚げ足とって
なんでも言い返さなきゃ気が済まない連中ばっかなんだろうね。
そのくせ自分はまともに議論してるつもりになってるw
こんなスレタイからして糞スレ丸出しの糞スレでも全力投球で必死w
そりゃどこ行っても嫌われるわwww
378:人間七七四年
08/11/21 22:12:38 sxHHFuKR
>>364
いちいちもっともな意見だとは思う
武田も確かにこの一連の遠征で得たものはほとんど無いような感じだが
でも北条はもっと得たものが無いと思う
>>365
煽りではないが規模の割に北条は本拠地まで攻められることが多い気がする
この点は畿内の大名と似ている、本拠地攻められたり焼かれたりしても
余力を十分に残していて反撃などする点でも
他にも美濃の斉藤氏なども何度か本拠地を攻められたりしているが
ほとんど影響を受けていないのか威信を大きく落としたということも無い
これは平野部の特徴なのか
>>369
1570年ぐらいに北条に対して一緒に武田を攻めようと書状で促しているな
379:人間七七四年
08/11/21 23:31:02 3+RmeAPy
>>364
ミスリードとは失礼な話だ。
こちらのレスをあまり受け取れてないという印象だが。
>>365もいうように北条の本拠に攻め込み焼き打ちしたという事実が非常に大きい。
そりゃ前から北条は上杉に要請はしてる。だが本拠を襲撃されても助けてもらえないとなれば
その信頼関係は絶望的と思わざるを得ないだろう。この北条の上杉に対する不信をうえつけるのに
成功したのが第一の成功。
そもそも書状で喧伝できるだけの成果をつくりあげたのは十分な話だと思うが。
>>373
途中経過っていうか同盟結びなおして代も変わった後で起きた御館が原因で決裂したのに
それでいうことなのだろうか。
>>377
詰まらん事に必死になってあちこちで嫌われまくってるのは織田厨だけどな。
嫌ってる嫌ってると吹くのも武田をさんざん叩いて逆襲された織田厨だし。
380:人間七七四年
08/11/21 23:49:37 48O4gju/
北条様は領民に優しい近代的な善政大名
織田様は何をやっても計算のうちである天才大名
いい加減こんな考えは捨てたほうがいいな
381:人間七七四年
08/11/23 00:37:12 lsHOC3nt
かといって武田様が領民に優しい善政大名でも何をやっても計算のうちの天才大名であるわけでもないけどな。
382:人間七七四年
08/11/23 01:29:16 7V/pkRZw
誰もそんな事いってないだろw
どっちの厨か知らんが武田厨は天才なんて言葉に執着しないw
383:人間七七四年
08/11/24 04:33:39 ONykb/Et
まあ北条厨の知能の低さは評判通りであって今に始まった事じゃないけどな
384:人間七七四年
08/11/26 17:13:03 PU/gv5zz
北条厨の頑張りって馬鹿丸出しだから見てて痛い。
反論なんてもちろん出来なくて、ただ必死で否定のための否定を繰り返してるだけだもんな。
385:人間七七四年
08/11/28 07:33:57 gj5XbCeU
なにをこそこそぼやいてるんだ。
386:三増峠ってどお?
08/12/01 11:45:43 O+RWa1Yh
>>201さんへ。
1.三増峠で氏康が無能だったかどうかはわからないが…、
第二次国府台の戦い(1564)の後から氏康は、内政・外交に専念し、氏政に前線指揮を任せてるから、
三増峠でも前線指揮はとっていないのではないだろうか?
もし、とっていても五年のブランクがあるから勘が鈍っていたのではないなかぁ?
2.氏康病気説について
これは「氏康は信玄に暗殺された」スレで、語ります。
スレリンク(sengoku板)l50
みなさんへ
作家の工藤章興氏によると、現在の11月24日(私はもっと遅いと思うのですが…)が、
旧暦の10月6日に当たるそうです。天気に興味ある人は、津久井あたりを調べてみれば、
なぜ武田軍が甲斐上野原の諏訪大社を焼いたのか? わかると思います。
では次回「謙信の動向」にて、恐々謹言。
387:人間七七四年
08/12/01 22:36:51 BE+ndpL4
期待してます。
388:人間七七四年
08/12/01 23:01:19 W7x/n5XV
広島の俺にしてみりゃ
おまいらみんな雑魚なんだけどなww
まあどっちでもいいやw
389:人間七七四年
08/12/02 20:16:56 DYHi+M89
広島?
ああ、国人盟主のまま豊臣時代を迎えた原始的な大名ですね。
後北条どころか若年の信玄程度のヌルい統制にすら至らなかった。
390:人間七七四年
08/12/05 01:43:31 k6ACtbcf
広島って臭そう
391:人間七七四年
08/12/07 01:08:43 yFaUDXhg
ほうとうと葡萄くらいしか売りがない山梨ごときが何言ってるんだかw
392:人間七七四年
08/12/07 10:36:00 TQt2UHiV
山梨相手に必死になる広島w
現代でも戦国時代でも最下層w
393:人間七七四年
08/12/07 17:01:22 yFaUDXhg
神の領域…東京・神奈川という現首都圏二大都市の元を築き上げた北条
大都会の領域…大阪の繁栄の基礎を築いた本願寺
都会の領域…名古屋の英雄織田
(超えられない都会の壁)
地方都市の領域…中国地方の中核都市広島を栄えさせた毛利
地方都市の領域…東北地方の中核都市宮城を栄えさせた伊達
地方都市の領域…北九州を繁栄させた大内・大友
(ド田舎の壁)
新潟(笑)上杉
山梨(笑)武田
394:人間七七四年
08/12/07 17:51:32 O5b0mAmz
名古屋は別に信長が発展させたわけでもないような。
江戸時代の影響のが強いだろ。
信長が自ら作った安土は今別に都会じゃないし。
395:人間七七四年
08/12/29 17:39:32 9g4/UV6s
安土って今はどうなんだろ?
396:三増峠ってどお?
09/01/05 14:51:14 FrrmrG7x
みなさん、明けましておめでとう。本年も宜敷お願いします。
「謙信の動向」取りまとめ中ですが…
>>393さんへ。
神奈川の繁栄は、横浜港の開港じゃないの?
すると、幕府と諸外国になる。
397:人間七七四年
09/01/05 17:12:06 cQzYTRbO
>>395
マムシ注意!! の看板が立っているよ。
398:人間七七四年
09/02/01 03:53:38 URtpIQC0
保守
399:人間七七四年
09/02/04 12:15:47 ibSi68A9
現在は
信長の野望で過大過小されている武田上杉三傑専用
スレリンク(gamehis板)
で三増峠の話になっている
400:人間七七四年
09/02/04 14:17:49 38Ogh1fg
>>399
横から割って入る必要のないただの喧嘩状態だなw
401:人間七七四年
09/02/05 23:47:02 kEsIyV8Z
>>399
まるで成長していない・・・(AAry
いや本当にコピペでもしているんじゃないかと思うぐらいここと同じ主張の繰り返しだ
402:人間七七四年
09/02/06 21:28:52 SVGTsl9Y
確かにリンク先何度も見たようなレスの応酬。
新たな話題として政治的な側面からで、
武田は遠征からの帰国直後の10月12日に出した軍役定書が複数残っている。
その中で鉄砲を特に用意するように、(中略)村から出すものは適当なものではなく
有徳の者武勇のある者を不足無く用意すること
帰国直後にこのような行いをしたということから、
少なくとも楽勝ではなかった・現状では北条相手に不安を覚えた、
あるいは被害が多かったという結論へと繋がるのではないだろうか。
403:人間七七四年
09/02/06 22:00:09 sis7CIuH
上洛戦も控えてるしな 武器の補充もしないとならんだろう
いいがかりにもほどがあるな
404:人間七七四年
09/02/06 23:47:55 SVGTsl9Y
1569年の段階で上洛戦を考えるはずもないし、武器の補充なら武器の補充だけ定めれば良かっただけじゃ。
405:人間七七四年
09/02/07 00:56:24 tST2RwtJ
>>402
その理屈だと北条も信玄襲来で総動員令に近いもの出してるから
北条は全壊に近い打撃をどこかで武田相手に受けてたんだろうか?
武田としては越相同盟の楔も打ち込んだし、牽制もした事だし、
小田原焼き討ちで宣伝材料も得た事だし、で
いよいよ強敵北条相手の駿河攻めに全力傾注って事で
戦力の増強と再編成を図ったんじゃないかね。
実際これ以後駿河は武田に順調に攻略されていくし。