08/04/27 03:49:08 bCFJthOx
上げた理由は特にない、気に障ったら許してほしい。
>>120
了解、武田軍が山上にいたことに疑いがないのであれば、
いずれによ序盤の戦闘の後に山上に陣を張っていることが明確になっているため、
ここは疑う余地がなく、その前の記述は本戦とは別であろうと思われる。
講談をもう少し見ていくと荷駄隊等が兵を連れて先行している記述もあるのでそれが相手かもしれない。
どちらも先行した部隊同士の合戦であれば別に後方から戦ったかどうかも問題ではない。
その後、殿軍との合戦になった上で浅利が討ち取られたと言うことだろう、そこももう議論の余地はない。
さて、具体的になってきたのでもうちょっと詰めてみたい。
北条記はそもそも北条五代記なども参考にされてる部分が多い上に
成立年不明で類書まで存在する正直信憑性においては五代記や甲陽軍鑑より酷いと思うが、
とりあえずそれらの元になっている甲陽軍鑑の記述から見れば(北条五代記には甲陽軍鑑を参考にした跡がある)
その山に伏せられていた山県らが北条勢を蹴散らしたとある。
だが逆にこの山県が通ったとされる志田峠に参陣していたらしい
内藤氏の家臣、小川某が戦功抜群として北条家から加増を受けている事がわかっている。
この内藤氏は三増峠に近い所領をもっているため、信憑性は高く、
書状で戦果を捏造するのはどこでもありうることだが
実際に金や領地が動いている家臣の褒美にまで捏造を加えることはなかなかできないだろう。
反面、伏兵を使い、蹴散らしたはずの信玄からそれを評価された書状・感状・褒美などはなく、
北条側の損害も全く不明。
そもそもこの伏兵云々のくだり自体が講談以外に出てこないので評価のしようがないのが現状。