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高級魚だったクニマス
■戦争でふ化事業中断
県水産試験場は明治36年クニマスのふ化場を湖岸の潟尻につくり、クニマスのふ化放流に
乗リ出した。この時期、クニマスはもちろん、ヒメマスのふ化さえ確立されていない。県も
果たして成功するかどうか五里霧中の時代だ。戦前の名映画「われ幻の魚を見たり」で
有名になった和井内貞行がヒメマスのふ化放流事業に家財を傾け失敗に次ぐ失敗を
重ねている最中でもある。県営ふ化場はできたものの、まず基礎研究からと準備を進めて
いた矢先、日露戦争が起こった。
いつの時代もそうだが、戦争はずべてに優先する。で、開店休業に入る。明治38年、
日露戦争が終わリ、翌39年から基礎研究に入っている。和井内貞行がやっと十和田湖の
ヒメマス養殖に成功したのは明治38年。田沢湖のふ化場も負けてはいられない。
明治40年、県営ふ化場は、クニマスの生態、産卵、漁期の調査を終り、初めて採卵を
行った。この記録が「明治40年県水産事業報告養殖の部のクニマス関係」の文書にまとめ
県に提出された。以後、毎年この文書は出されるが「10年保存」の文書とあって、県には
残っていない。しかしこの明治40年の文書だけは残されている。「おそらく初めての記録
ということで大切に保存されたのだろう」と県水産課で話している。
この記録によると、最初に「国鱈二就テ」の標題でクニマスの特徴を記している。もちろん
この時代はマスについての学術研究も幼稚なこともあって
1.深い場所に住むのは日光をきらうから。
2.大きさは40ぐらい。
3.卵数は平均800粒ぐらい。
などを明らかにしたにすぎない。
また「銀鱒の一種との説もあるがつまびらがならず」と述べている。
URLリンク(j87.net)
※「国鱈ニ就テ」とありますが「国鱒」のスキャンミスか。(つづく)