11/06/01 22:16:36.45 eQpUB3bX0
>>767
かつての清兵衛新田の一部で、開拓が始まる幕末以前は無人の荒野。
せいぜい小山村や橋本村あたりが薪などを得るための入会地として利用していたに過ぎない。
清兵衛新田は付近の農家の次男三男、生糸関係で取引のあった商家の次男三男で入植。
というわけで歴史的には被差別部落ではない。
また開拓後も人家はなかなか増えず原野が残り、
昭和の初期には演習中の陸軍兵士が遭難して餓死した事件も付近でおきている。
しかし軍関係か工場関係か、戦前戦後の時期に多くの朝鮮人が住み着いているもよう。
しかしおおむね彼らの生活水準は高いようで、
いわゆる朝鮮部落のようなものは形成されていないように思える。
少年院ができた理由は交通の便が良く、
昔は程よく僻地で平坦地が多くあまっていたからではないだろうか?
同じような理由で陸軍の軍都計画も始まっている。