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氷見駅から、右が海で、左は陸地。海岸線から三○○メートル余りのところに、被差別部落はあった。地名は※※勢、六〇戸近くあるが、すこし混住してきているという。
これほど海岸線が近いのに、ここの部落は、漁業をやってない。漁業権がないのだ。
この※※勢は、氷見では、中心の部落である。二~三戸から、五~六戸ぐらいの部落が、※※勢のほかに、二十数か所あるという。
この※※勢では、漁業権がないだけでなく、農地もまったく持っていない。
伝統的に日雇い生活だったという。小作すらでもなかったのだ。だから、かっては、海辺で、網引き人足として働いた。女は竹の皮あつめ(いってみれば竹藪に入って竹の皮をひろってくるのだ)をしていたという。
あるいは、農家から藁を買ってきて、藁草履、しめ飾り、竹を買ってきて、竹細工などを、細ぼそとしてきたのである。
敗戦後は、筍のカン詰め工場へ季節的に働きにいっているが、それだけで、年間の収入というわけにはいかない。
(中略)
氷見は、海辺の人は漁業を、山地は農業をやってきた。※※勢部落だけが、その枠外にはじきとばされてきたのである。
雨ふる部落のなかを歩いてみる。老朽家屋が密集している。家と家の隙間の細い路地。大通りは道幅が四メートル。それも、狭い家なのに、道路のため土地を出しあって、道幅をひろげたという。
市はなんの事業もやってない。部落には公民館という額のあがっている建物があるが、これとて倉庫みたいなものである。
一〇年ほど前に、市当局へ陳情におもむいたという。老朽した住宅と、狭い道路をなんとかしてほしいという趣旨であった。
市長は、よくわかった。いますぐはむりだが、そのうちに改善したいと答えたそうである。だが市長は返事はしたものの、今にいたるもなんらの事業もやっていない。
被差別部落 そこに生きる人びと 東日本編(三一書房)
解放新聞社(編)