三島由紀夫@伝統芸能板 at RAKUGO
三島由紀夫@伝統芸能板 - 暇つぶし2ch594:重要無名文化財
11/09/26 11:10:03.32
淀川:おいくつです?
三島:トニー・カーティス、ファーリー・グレンジャーと同い年……と言ったら、みんな笑う。一九二五年生れです。
どうして可笑しいのか……。
淀川:なんとなく可笑しい。なんとなく面白い。最近はまた大変ですね。歌舞伎の新作一本、新劇一つ、(中略)
それから読売の連載……。
三島:(中略)それに明日に控えた文春の“文士劇”があるんですよ。
淀川:それは大変、何をおやりになるの。
三島:「屋上の狂人」の弟役、僕の役……十八歳なんですよ、ハハッ十八歳なんですよ!
淀川:貴方なら充分、とってもお若い……その文士劇は他にどんなのがあります。
三島:「め組の喧嘩」と「車引」……こういうのに引っ張り出されると、本当に役者が自分の舞台で観客に
印象づけようと厚かましくもなる……そんな気持ち、(中略)当人になると無理もないと、つくづく解ってくる。
淀川:「車引」の桜丸なんか演って貰いたかった!
三島:いや、僕は時平公が演りたかった!
淀川:これは、まあ派手に厚かましい!

三島由紀夫
淀川長治のインタビュー「三島由紀夫氏訪問」より

595:花王・サントリー・ロッテ不買運動
11/09/27 22:15:03.30
209 :本当にあった怖い名無し:2011/09/10(土) 16:17:29.19 ID:MRv/iClV0
悪い奴らは夜に集う。ホステスさんが九ノ一ばりの情報提供!

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「冤罪であってもパソコン没収・罰金30万・言論と表現の自由なし」
史上最悪の悪法「人権侵害救済法案」1:50あたりから
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日本人のお金で生活保護貰う在日
(創価学会・日教組・電通・パチンコ等)
を追い出さないとヤバイです

596:重要無名文化財
11/09/30 10:02:48.56
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。そして、あすの
ない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかもしれないけれども、今はありえない。
今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の
水曜日に帝国ホテルで会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、今は、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、
帝国ホテルで会えるかどうかわからないという一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。
ぼくは文学では、そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

597:重要無名文化財
11/09/30 10:03:11.56
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が自分の負ったもの、
自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に向かって進んでゆく。ところが現実生活は、
必然性と不可避性をほとんど避けた形で進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の
社会では、とくにそういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくてもいいんだ
ということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。それで来週の
水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦をとりながら、その現実に到達するために
努力する。ところが、芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。それがなければぼくは、
生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

598:重要無名文化財
11/09/30 10:03:37.80
(中略)
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と不可避性の意図が、ギリギリに
しぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、
文体の問題でもあるんですが、あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が
起これば、これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、必然性と
不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものがぼくにとっては、ロマンティックな
構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものはみんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に
向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

599:重要無名文化財
11/09/30 10:04:03.81
ヴァレリーもいってるように、作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を
課したり、必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、ぼくはむしろ、
自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の
望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、
自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは、
違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活に
ある必然を命ずれば、それは実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

600:重要無名文化財
11/09/30 10:04:27.89
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を
清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じてない人間なんて、
ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。

「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私が
どういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、
それなんですよね。それで、作品と生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を
断ち切ることは、絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の姿ですからね。もし、
自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、こんないいことはないわけですけれども、逆に
そうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

601:重要無名文化財
11/10/01 12:24:23.83
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにもならんことを小説に
書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、ぼくは、それは絶対やりたくないですね。
死んでも、やりたくない。そういうことを書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などと
いうのは、そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、ぼくは
決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。告白といいますけれども、告白も、
かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、
告白と願望との関係は、ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

602:重要無名文化財
11/10/01 12:25:00.75
(中略)
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから文学から、いつも
逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。それでも追っかけてくるのが、
ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、
生活のなかでにせものの文学に、ばかな女にとり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。
だって、ふり払ったことがないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、はだしで
追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと思います。ぼくの場合は、
できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけてきてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。
その女に、やさしくしますよ。そのときに、小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

603:重要無名文化財
11/10/01 12:25:32.90
(中略)
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、―ぼく、剣道なんて、けっしてうまく
ありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。おなじことで、論理的能力を
発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出て
くるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、
アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、ほんとに、
早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

604:重要無名文化財
11/10/03 14:59:02.53
(中略)
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、
自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

605:重要無名文化財
11/10/03 14:59:28.97
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。ぼくはほんとに、それが
自分の夢でないと思ったのは、インドへ行ってからですよ。…インドへ行って、人間の、ほんとの能力というのは
あったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、
もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。
みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

606:重要無名文化財
11/10/03 15:00:01.27
(中略)
目ですね。
ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を
鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。
しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

607:重要無名文化財
11/10/03 15:00:32.17
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足に
つかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。
…ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、
動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。
動くものが、美しい。“動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来にはなくて、源泉のなかに
あるのだ、という感じがする。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より

608:重要無名文化財
11/10/06 23:28:20.11
バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。伝達することによって、
何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるより
ほかないじゃあないですか。明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、工業化が進展して、
社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことがおこってそして巨大な力で動かされて
いるんだけれども、各人がバラバラになって、伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを
統合するには空白のものしかない。絶対に断絶しかない。


祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達を
する人は一人しかいない、それが天皇だ。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より

609:重要無名文化財
11/10/06 23:33:34.68
>>608
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。
他にいくらさがしてもないんだ。


ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、沖を見て
いたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが変わり者だという評判が
たちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、本当に。景色を見るやつは、もうすでに
アウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。


現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が全然ないだろう。
威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より

610:重要無名文化財
11/10/20 10:21:55.61
ぼくが否応なしに中国問題というものにとらわれたのは、文学座なんかにいたからですね。中国に行ったり
する俳優がいてね、中国を天国のように言う。そして、それを人に強制する。その人たちは現実に何を通して
中国を知ったかというと、自分たちを接待してくれた人、そして案内してくれた人を通じてなんですね。それが
こういう状態になると、自分が世話になった文化関係の人がひどい目にあってもこんどは知らん顔。わたしのほうは
毛派だからという顔をする。それが腹が立ってたまらないということがあるわけです。
いまひとつの問題は、この五、六年、それを考えてきたんですが、もしもう一度戦時中の言論統制の時代がきたら
どうするかということなんです。(中略)そういう事態にどう対処するかということですね。やっぱり文学は
お国の役に立たないんだということをはっきりさせておかなきゃ非常に危険だと思うんです。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

611:重要無名文化財
11/10/20 10:24:32.27
政治家には、腹を切るつもりなんか毛頭ない。そして芸術家のほうは、半分、実みたいな気持になっちゃった。
戦後はことにそうです。
それと、例の言論統制がきた場合にどうするか。ぼく自身の覚悟をいえば、ぼくは虚の芸術家である。虚をもって、
河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つわけはないし、ぼくがたとい自発的
(スポンティニアス)に国粋主義的な小説を書いたって、それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが
自然にわき起って書いているんだから人がどう思おうと知ったこっちゃない。しかし、それは虚にすぎない。
それじゃ、虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。それはぼくはインターナショナリストじゃないから、
どこにも亡命できると思わないし、日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒に
ぼくは死ねるかということを考え出したんですね。ぼくは死ぬためには虚でありたくないんですよ。どうしても、
死ぬためには実でありたいんです。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

612:重要無名文化財
11/10/20 10:26:54.95
ぼくはひょっとすると芸術至上主義者なのかもしれないと思うのは、どうしても虚を信じたいから、実のほうに
頭がいっちゃうんですよ。何とかして虚を信じたいと思えば思うほど、虚をしっかり把握するためにはどうしても
実がほしい。そうすると剣ということになっちゃう。いま石川さんのおっしゃった、わたしは言葉を信じない、
文学を信じないとおっしゃった気持は、ぼくは痛切にわかるな。
…つまり虚を信じないということが、虚に生きる唯一の道かもしれないんですよ。
(中略)
文字を墨で書く場合、紙に墨がぽとっと一滴落ちた瞬間に、文学表現が成り立つでしょう。それが十部刷ろうが
百部刷ろうが、別の問題ですね。だけど、文学というものは、その一滴の墨のあとから、千部刷る、一万部
刷るということになっちゃったらもうおしまいだと思うんです。
…言語というのは言霊だよ。

三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より

613:重要無名文化財
11/11/05 10:37:27.38


614:重要無名文化財
11/11/25 13:37:04.45
ho


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